閉じる


私の戦後

 昭和二十二年三月 市内の小学校でひとみは卒業式を迎えた。空襲で焼けた校舎はまだ建築中で、授業は隣の小学校を間借りして、今週が午前中なら翌週は午後という二部授業だった。
 卒業式だけは母校で、という事で、まだ枠組み位しか出来ていない学校の庭で行われた卒業式は、ただ寒々しいだけだった。
そのあと、謝恩会をやったが、食べる物など無い頃なので少しずつ小麦粉や卵を持ち寄り、学校の近くの同級生のうちの台所で、練ったり丸めたりしてお菓子を作った。
 この頃は買うなんて考えられないほど貧しかったし、あっても高くて小学生の小遣いでは買う余裕は無かった。
 卒業はしたけれど終戦後の学制が定まらず、GHQの決定がある迄学校は休み、自宅で待機せよという事だった。
 疎開したところは市の中心部から歩いて二十分位かかる。中途からここに来たので、まわりに友達もいないし、うちにいれば母親に、畠仕事や肥え(こえ)担ぎ(かつぎ)を手伝わされるので、いつも繁華街にあるお店に行っていた。
お店には祖母のとりがいつもいるが、たいして忙しくもないし、子供では何もする事が無い。おばあちゃんがお客と話している間に、少しお金をごまかしては買い食いをしたり、映画を見るようになり、すっかり遊ぶ癖がついてしまった。
映画館はいくつもあり、生まれて始めて見た外国映画は、チャップリンの”黄金狂時代“だった。直ぐにその虜(とりこ)になった私は毎日のように映画を見に行った。電気館が一番良く、たまにはメトロ、花屋敷、東宝にもいい映画が入った。
 映画が終わると少し明るくなる。見終わった人は帰るが、途中からしか見ていない人や、もう一度見る人は残る。ほんの少しの時間だが、まわりにはこんな小さい子供は一人もいない。誰にも聞かれないのに、隣の人に「あとでお母さんが来るので」なんて言い訳をした。どうせ来ないのは分かっている癖に・・・
 でも、聞かれたら、「お母さん、どうしたのかな?遅いな」と云う返事まで考えてあった。
 聞くわけはない。向こうだってこの真っ昼間、映画を見ているのだ。そうだ!そういえば向こうは何をサボっていたのだろう。
 カバンを持ってオカッパ姿なら、誰が見ても学校サボっているのは分かるが、大人は仕事をサボっているに決まっている!
 でも、誰にも咎め(とがめ)られなかった。まわりの人に関心を持っている人なんてまるでいない時代だった。
 映画を見にいくだけで退学という時代もあったらしいが、一度のめりこんだこの外映だけは止まらなかった。
 夜遅く、自宅に帰ると「お前、こんなに遅くまでお店にいるのかい?」と云われた。「どうして?お母さん」と聞くと「お父さんがひとみはいつも早く帰っているよ、と云っていたもの。」
いけねえ、ばれたか、と思ってしばらく黙っていたが観念して
「本当はお母さん、映画なんだよ。外映で凄いんだよ」というとその返事でひとみは腰が抜ける程びっくりした。
 「そんな・・・お前ばっかりずるいよ。映画ならお母さんも連れて行っておくれよ」「えーーっ?お母さん本当?お金あるの?」と云ったら「お前だってない癖に、何のお金で行っているんだい?大丈夫だよ。お母さんは小屋の金物を屑やのおじさんに売って作るから・・・」「お父さんに怒られない?」「お米買ったっていうから・・・

1
最終更新日 : 2010-07-02 18:34:42

私の戦後 2

 それからは二人でどの映画を見るか相談して決めるだけだった。もう、お店のお金を誤魔化す必要もなくなった。たまに十円位出せればお菓子を買って食べた。
 母親まで巻き込んで見た映画は数限りなく多かった。
「お前のお蔭でいい映画を沢山見られるよ」と・・これも親孝行というのだろうか。
〔美女と野獣〕の話を近所の若い運転手の奥さんにしたら、「奥さん、おれも連れていってくれよ。いつでもいいから・・」と頼まれて又、そのおばさんと連れ立って行き、二度見たという。
 映画を女ひとりで見る時代ではなかった。

見る映画が決まると、二人は示し合わせて夕飯を早く済ます。
お店に行っているお父さんにばれないように、早番の住み込みの若い衆(しゅ)に妹と弟を預け、二キロも離れていない映画館へ駆け込む。
 スクリーンを見た途端に、今食べてきたばかりの雑炊や、麦のほうが多い夕飯の事など忘れて、ジャンマレーの美女と野獣の世界に浸る。
 おかっぱ姿の田舎娘は、いつしか美しい王女様になって、ジャンマレーの王子様と一緒に二人、手に手を取って雲の上を飛んでゆく。
 又、総天然色といったカラー映画“船乗りシンドバットの冒険”は花屋敷で、これは学校の帰りに一番後で背伸びして二度見た。
 映画には美味しい物もいい洋服も、素敵な家も家具も揃っていて、その上みんな美男、美女だった。鏡の前で見比べなければ、ヴィヴィアンリーにもクレオパトラにもなれる。
 ローレンスオリヴィエやゲーリークーパーに抱かれていると思えばいいのだ。映画が終わって外に出たってどうせ真っ暗だ。しばらくは、その雰囲気に浸れる。 あの頃、外国映画はしばし、我々を現実から逃避させてくれた。
 
 昭和二十二年五月、やっと新制中学という事が決まり、学校へ行くようになった。新制中学一年生は一学級六十五~七十名で二十四クラスのマンモス校だった。
 その頃、小学校を卒業すると試験を受けて、上の学校に行く。
女子は県立の第一女学校と第二女学校の二つしか無く、男子は普通科と 工業学校、市立と県立の商業学校が四校あった。どちらにも行かない人のために、西、東の二年制の高等小学校があり、そこが新制中学の受け皿となったが、二つしか無いのでこんなにマンモス校になったのだ。

 ひとみの行った学校で一番思い出に残る良い学校だった。いつも嫌いな授業を早退したり、たまにはずる休みをして映画ばかり見ていたが、運悪く出てきた所を同級生の男の子に見つかった。
叱られるのを覚悟していたが、先生は職員室に呼びつけると笑いながら「昨日、お前がメトロから出て来るところを見たと云ってたぞ。気をつけろ」と云っただけだった。  
 しばらくして授業が終ってから先生に呼ばれ、職員室に行くと、「待っていろ。岡田(同級生)が今来るから。」二人は揃うと「二人は今日が誕生日だったな。お祝いに映画に連れていく」と云った。「エッ?先生、本当?」二人の誕生日は同じで、小学校時代から岡田さんの家でお祝いをしてもらっていた。。
そのうちにもう一人、女の先生が来て、四人で見た映画はイングリッド・バーグマン主演のヒッチコックのサスペンスドラマ・ノートリアス(汚名)だった。「いい映画は先生だって見たいんだよね」と二人で話しながら帰った。
 終戦直後に出来た新制中学は、このように自由闊達で、ひとみの感覚は外映とこの学校で育まれた(はぐくまれた)ものと思われる。

2
最終更新日 : 2010-07-02 18:36:13

私の戦後 3

 昔の商人はいくつもある映画館が全部終る(はねる)まで店を閉めない。映画を見た沢山の人達が、帰り道で買い物をして行く。それが終ると商店街は一斉にカーテンを閉める。父親の帰る時間も大体その頃だ。
 内緒で母親と映画を見に行っても、急いで帰ればお父さんが帰る前に家に着く。いつまでも映画の余韻に浸っていてはいられない。 
 二人で夢中で歩く。時には駆ける。兎に角、自動車で早い父親より一足でも先にうちへ入らなければならなかった。 
 そんな時は「自動車が無ければもう少しゆっくり出来たのにねえ」などと話しながら駆けた。オンボロ車だけど警察から五百円で払い下げを受けたこのダットサンは、映画館のほうからでもエンジンの音が聞えた。ここまで二キロもない距離だけれど、さすがに自動車のほうが断然早い。
 あの頃は自動車が走る事はまれで、オートバイも無かった。うちの前を通るバスの最終は七時だし、交通手段は歩く以外は自転車だけだ。
 音の無い夜はただ、静寂(しじま)(しじま)の中にあった。あのオンボロ自動車のエンジンの音は映画館のあたりを曲がると、近くにある公園の出口まで一キロ離れていてもはっきりと聞こえた。車もオートバイもテレビも無い、うそのような静けさの中だった。
 「あの音、お父さんの自動車だよ」と顔を見合せると、ソレッと二人で走り出す。
 「お前は水だけどお風呂に飛び込めっ、お母さんがすぐに焚き(たき)つけてやるから・・」という事で水風呂に飛び込んだ事もあった。飛び込んだその時にガラッと玄関の戸が開いた時もあった。
 戦後は大概の家ではお風呂はドラム缶だった。そのドラム缶の所に母が来て「ぬるいかい?」などと云って、舌を出して笑いながら新聞紙で焚き付け、暖かくなるまで燃してくれたものだった。
(お母さん、ぬるいんじゃあないよ、冷たいんだよ)

 昔は住み込みも通いの店員達も店で夕飯は食べる。終わるのは十時過ぎだから、家の者もそれまで働いたものだった。そんな時の外映は現実の辛さやひもじさをいっとき、忘れさせてくれた。
こんなボロ家でどんなふとんに寝ても、いつでも王侯貴族になれたし、悲劇のヒロインにもなれた。
ただ一つ、大きな誤算があった。おとなになると、ひとりでに映画の中のような美女、生きたフランス人形と云われたダニエルダリューやエリザベスティラーのようになれるのだと思ってしまった。そしてあのような素晴らしい生き方が出来ると思ってしまった事だ。
 母親も娘もそれまでに世界文学全集などを多く読み、想像の世界に生きる喜びを知っていた。現実がどんなに厳しくとも、戦後突如として現れた外国映画によって齎された世界はもう、とどまる事もなく二人を魅了し、映画の世界に引きずり込ませて行った。
終戦直後の数年位の私の行動は不良に近いが、断じて不良ではない。良でなかっただけだ。


3
最終更新日 : 2010-07-02 18:36:44

仕事場で社交ダンス

※爆撃に遭わないよう、コールタールで迷彩色に塗った壁
 左半分がダンスホールになった、汚い中島飛行場の作業所です。
 
 昭和二十四年 中学二年生、社交ダンスのレッスン始まる
母と娘が、夫に内緒で映画にうつつを抜かしている間に、政冶郎のほうもいち早くオートバイに乗ったり、警察の車の払い下げを受けたりして自由を満喫していた。
メグロのオートバイは憲兵隊の阿部准尉から話が来た。
「だんなさん、このオートバイを買ってくれないかね」「こんな凄い奴、どうして手放すんだい?」「もう、すっかり軍の仕事も片付けたし、うちに帰ろうと思って財布を見たら、汽車賃だけですっからかんなんだよ。子供にお土産くらい持っていかないとね。」「惜しいなあ・・・これで帰ったら向こうで仕事も出来るのに」「ガソリンが買えないんだよ。一般人で石油やガソリンを買えるのは、進駐軍の仕事をしている人だけなのさ。だんなさんは司令部に顔が利くからどうかと思って…」何でもやりたかった父は、進駐軍が入ってきてから直ぐに司令部に行き、片言の英語で出入りが出来るようになっていた。進駐軍の仕事をやれば、ガソリンが手に入ると云ったのも父だった。
「まさかオートバイを持つとは思わなかったから、今日きちんと聞いて来るよ。買ってから燃料は駄目と云われても困るから…」それでガソリンが買えればオートバイを三百円で売ると約束して阿部准尉は帰った。
「お父さん、三百円なんてどうするの?食えないほどなのに又…」彼女はため息をついた。闇をやるのは絶対に嫌だとやらなかった癖に、こんな物の時は借金までして・・・
結局はお金は何とか借りて手に入れ、阿部准尉は四国へ帰った。
その後、いくらもしないでオートバイは自転車屋に高く売れてしまい、警察で使っていた幌形ダットサンが払い下げで手に入った。
 

このオンボロダットサンは朝、エンジンをかける時、いつもクランクを回さなければかからなかった。
「オーイ、お湯持って来い」と子供達を呼ぶと、母親は毎日の事なので、釜で湯を沸かしておき、ひしゃくでやかんに入れて子供に渡した。子供達は喜んで持っていくと、そのお湯をエンジンにかけ、温めてからクランクをまわす。この車のお陰で遠く鬼怒川あたりの温泉地のお客を手に入れたので、誰も文句は云わなくなった。

 
ある日、ひとみは政冶郎に呼ばれて茶の間に行くと、姉の亜紀子と登紀子も来ていた。
「今日の夜八時頃、ダンスの先生が来るので、きれいにしてズックを履いて仕事場に来い。今晩からお父さんとお母さんとお前達三人で社交ダンスの稽古をする。お店の番頭さんも一緒だ」と云われた。
亜紀子が「先生は自転車?」と聞くと「お父さんがダットサンで迎えに行ってくる」と云った。登紀子が「あの仕事場でどうやってやるの?」と聞くと「そうだ。仕事が終ったら、一郎の手伝いをして片付けておくんだぞ。学校には黙っていたほうが良いと先生が云っていたから内緒だ」みんな黙っていた。ひとみは中学二年だった。
先生はバレーの先生だった。戦争が始まり、実家に帰って来たがもう、東京には戻らない。ここでバレー団を作る予定で計画を立てているが、未だはっきりとは決まっていないらしい。
「それまで社交ダンスの先生をしてくれないかなあ」と頼んだら、早速良い返事が来たというわけだ。
暗くなってから来た先生は、細身でさすがに格好の良い先生だった。とても素敵な先生だが、歩き方がとてもうるさく、背筋をきちんとのばさないと一メートルのものさしで背をビシッと叩かれた。
(写真はダンスの先生を迎えにいったおんぼろダットサン)

 
スロースロークイッククイック、リバースターン
ハーイ背筋をピーンと、伸ばして伸ばして
スロースロークイッククイック
ナチュラルターンハイッ スロースロークイッククイック

ワルツ、フオックストロット、タンゴ、ブルースが主だった。

「お父さん、なんであの先生を知っていたの?」と聞くと
「電蓄の修理を頼まれていたから、それにお父さんの良いレコードを貸してやっていたし、前からの友達さ」という答えだった。
たしかに音楽はお父さんのお手の物で、良い音楽が週に二回くらい汚い仕事場に流れ、ダンスホールと化した。

 政冶郎は音楽が好きで自分でマンドリンも弾く。いいレコードが空襲で燃えないで残っていたので特に良かった。
コンチネンタルタンゴの真珠採りのタンゴ、夜のタンゴ、バラのタンゴ、イタリーの庭、会議は踊る、奥様お手をどうぞ、やアルゼンチンタンゴのラ・クンパルシータ、エルチョクロなど、あの汚い仕事場に流れていた音楽は妻や娘達の胸に焼き付いてはなれない。
あの頃はダンスホールなんて無かった。あっても進駐軍の為のものだった。軍需工場だった仕事場がダンスホールだった。
家を建てる口実にしただけの小さい粗末な作業所だったが、あの頃は建物があるだけでたいしたものだった。
「そろそろひとみも来年は高校受験だから、この辺で終るか」といわれたのは中学三年生の十二月だった。
一応一年半位やってひと通りみんな踊れるようになったので、年末を以ってレッスンは終わった。
先生も本来のバレエの先生を始めたのかもしれない。
戦後のあんな時期だったからこそ、普通では教われないような素晴らしい先生に、手を取って教えて戴いて本当に感謝している。
その後、私達一家の社交ダンス教師の率いるバレー団はこの界隈に君臨したが、その後、社交ダンスの教師をした事は無かった。  

ダンスを習った事は学校には内緒で通した。確かに一番早く、先生のうちで踊れる人はいなかった。
今でも踊れるよ。軽やかなステップで・・・

4
最終更新日 : 2010-07-16 18:19:39

ボール恐怖症

初めての体育の授業でバットでボールを打って三塁に走ってしまった。何故かというと・・・
新制中学は五月五日に始まった。
やっと学校に行くようになってから、毎日気持ちが悪く、お弁当は帰る時に道端の草むらに棄てていった。幾日か過ぎるとフラフラになり、廊下も壁伝いに寄りかかって歩くようになっていた。それを見た友達の真知子は「お母さんに早く云ったほうが良いよ。前からだもの、早くしないと倒れちゃうよ」と云った。でも、云う気はなかった。倒れそうにしてやっと帰宅したら「丁度お風呂が沸いているから入っておしまい」と母親に云われた。気持ちが悪くて入りたくなかったが、しかたがないので裸になった。
「お母さーん、未だ沸いていないよーっ 未だ水だよーっ」と怒鳴った。「おかしいね。沸いたはずなのに・・・」と傍に来た母は私の顔を見るなり額に手を当てた。
「馬鹿っ、すぐに出なさい。お父さんに電話を入れてくる・・・」
熱は四十度以上あった。お店でおばあちゃんに隠れて金庫から出したお金で買い食いをして、罰があたって腸チブスになったらしい。
それから約一ヶ月、毎日、政冶郎の友達の病院の院長が毎日往診し、やっと治った頃にはもう六月も半ばを過ぎ、一学期はあと一ヶ月しか残っていなかった。
病み上がりの初日、学校へ行ったら、真知子さんと一緒だった女だけの組は編成替えされ、男女一緒のクラスになっていた。先生も変わっていて、塚原先生という戦争未亡人だった

「あなたの席はここです」と云って前のほうを指さした。
「背の高さが分からなかったのでね」
南窓際の四の側の前から三番目、三人掛けで、私は二つの椅子の真ん中だった。小学校では小さい順から一班から六班に分けられていたが、五班になったことはない。後ろから何番目と言うくらいの背の高さだったし、特に病気をして寝ているうちに、背は目一杯伸びていたので一番大きいほうだった。三人掛けだなんて、窮屈で座り心地は抜群に悪かった。
座ったら右隣の男の子に「喫茶か?」といわれた。〔ま、失礼〕と思ったが黙っていた。それは強烈にひとみの心を突き刺した。改めてセーターを見た。親の出したセーターを着ていっただけでしかたがないが、ひとみの着ていたものが大分どころではなく、えらく派手だったのでそういわれたのだろう。
チューリップを逆さにしたような半袖の、目の覚めるような真っ黄色のセーターと真っ黒のビロードのスカート、進駐軍の兵隊から買った古着だった。着るものも無い時代だった。

父は、占領軍が入ってきてすぐ片言の英語で司令部の仕事をするようになり、将校や兵隊も毎日、店や自宅に遊びにくるようになった。
占領軍の兵隊だって、少しでも話の通じる所へ行きたい。
そして小遣い銭欲しさに、いろんな物を持って来るようになった。
食べ物はミルキーウエイが多かった。それにキッスという先の尖った丸いチョコレートやチューインガム。
食べ物に飢えていた時代で、修理代や商品代は安物のアメリカのお菓子や缶詰に化けた。
衣類も無かったので頼むと、奥さんの古着を持ってきた。
茶色のブカブカのセーターの中に、一枚の飛び切り派手なセーターがあった。二人の姉には決まった制服がある。セーラー服に白襟、赤いリボンは、このへんの女の子の憧れの的だから、それ以外はあまり着ない。それで進駐軍の古着は専ら妹のひとみにまわされた。

はじめの頃、体操の時間は病み上りの為、教室で待機だったが、やっと授業を受けられるようになった最初の授業はソフトボールだった。
今までドッジボールしかやった事はないので、ソフトボールという名前も知らなかった。「おい、ひとみ、いわれたようにやれ」と先生が云った。男の子が「そこに立っていろ」と云うので棒を渡されて立っていると、「ここじゃない、あっちに行け」と指示され、小さな猫のふとんのような物の脇に立った。
するとボールがひとみの脇を飛んでいった。

「馬鹿っ、打たなきゃ駄目だっ」というので、次は打った。
ボールは棒に当たったが、向こうに飛んで行ってしまった。
そのまま立っていたら、今度は「駆けなきゃ駄目だっ」と又いうので左(三塁)の方に駆けて行った。
ワーッと全員で、おなかを抱えて笑っている。しばらくはその笑いは止まらなかった。何で笑われたのか、しばらく分らなかった。
この話は学校中の話題となり、真っ黄色いセーターを着て、三塁へ走っていったひとみは一躍有名になった。
それからは、ボールが飛んでくるだけで身がすくむ。
ボール恐怖症と云うのだろうか、どんな球技も駄目になってしまった。あんなにはしこくて何でもやったのに、球技だけは駄目で、今でもピンポン玉すら受けることは出来ない。
でも逃げ足は速いよ。   


5
最終更新日 : 2010-07-02 18:49:31


読者登録

ほりひとみさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について