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あまがえる (2004)

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あまがえる

 ある日のことだ。わたしは妻と散歩に出た。雨上がりの午後のことだった。空には暗い灰色をした雲が浮かび、空気にはしたたるような湿り気が漂っていた。そして地上には古びた町が広がっていて、空よりもいっそう暗い灰色を帯びてたたずんでいた。灰色の道に沿って灰色の壁が薄暗い虚ろな窓を連ねてそそり立ち、たまにすれ違う人影もどれもがくすんだ灰色をしていた。走る車も灰色ならば歩道の並木も灰色に染まり、尻尾を振り立てて道を横切る猫までがしつこく灰色をまとっていた。
 まるで水の底にいるようだった。もともと彩りに乏しい町だと思っていたが、あの恐ろしい噂のせいですっかり色を失って、震えながら灰色の階梯に身を寄せていた。
 噂によれば、国際テロリストのリーダーが町のどこかにひそんでいた。噂によれば、国際テロリストの一味が町のどこかに集まっていた。噂によれば町は国際テロリストの次の標的に選ばれていて、噂によれば何か恐ろしいことが一両日中に起こるはずだった。
 噂を聞いて人々は恐怖に目を開いた。買い物に走って買うべき物を買い整え、それぞれの家に駆け戻ってドアを閉ざし、窓を閉ざした。錠を下ろす音が四方にこだまし、カーテンの隙間に脅えた目が現われて、瞬かない目で外を見つめた。
「恐怖に襲われた町ね」と妻が言った。
「恐怖に襲われた町だ」わたしはうなずいた。
 わたしたちは町の中を歩き回った。特にどこを目指すというのではなく、ただ気の向くままに足を進めた。知らない道を通りすぎ、見知った道を通り抜け、道から道へと伝って歩いて、町を貫く大運河のほとりまでやってきた。灰色をした岸壁のすぐ先で、土気色をした水が波を連ねてたゆたっていた。雲の切れ目から午後の光がわずかに差し込み、その弱々しい光を浴びながら、小さな白い汽船が海を目指して進んでいった。彼方に見える対岸には高い煙突が何本も並び、そろって灰色の煙を吐き出していた。
 わたしたちは運河に沿って石畳の道を歩き始めた。歩きながら、ときおりそよぐ風に吹かれ、風の中に潮の香りをかすかに嗅ぎ、耳を澄ませて水が波打つ音を聞いた。カモメの群れが舞うのも見た。そして、とあるカフェの前で足を止めて、そこでお茶をすることにした。黒いチョッキに黒いエプロン姿のウエイターが店の入り口のところに立っていて、愛想のよい笑みを浮かべてわたしたちを手招いたからだ。
 王国という名のカフェだった。入り口の脇には細長いプランターで囲っただけの簡単な造りのテラスがあって、丸いテーブルが十卓ほども並んでいた。店の中には古めかしくて立派な造りの大きなソファがあるのが見えたが、わたしたちはテラスのほうの席を選んだ。背もたれのない、堅くて小さな椅子に並んで座ってコーヒーを頼み、運ばれてくるのを待つあいだ、目の前の運河を漫然と眺めた。無量の水が土気色をしてたゆたっていた。カモメの群れが舞うのも見た。いつの間にか雲の切れ目はどこかに消えていて、空は早くも闇の色をにじませていた。間もなくウエイターがわたしたちのコーヒーを運んできた。どこからともなく台拭きを取り出し、テーブルの上を素早く拭くとコーヒーをアルミの盆ごと置いていった。わたしたちはコーヒーを飲み始めた。コーヒーを飲みながら、目の前の運河を漫然と眺めた。無量の水が土気色をしてたゆたっていた。カモメの群れが舞うのも見た。耳を澄ませて水が波打つ音を聞き、ときおりそよぐ風の中にかすかな潮の香りを嗅ぐこともした。
 そこは善良な市民が憩うための場所だった。テロリズムへの脅威にも負けずに外出してきた勇敢な市民が憩うための場所だった。隣のテーブルでは年老いた夫婦が飲みかけのコーヒーカップを持ち上げたまま、淡々とした風情で運河の水を見つめていた。その向こうのテーブルには若い恋人たちがいて、手を取りあったまま飽かずに互いの顔を見つめていた。別のテーブルでは老いの境地をくっきりと顔に刻んだ老人が一人で灰色の空を見上げていた。カップの中をじっと見つめる老婆もいた。カモメの姿を目で追う者もいたし、目を閉じて潮の香りを嗅ぐ者もいた。音を立てる者はいない。大声で話す者もいない。そこでは誰もが平穏という名の退屈を心ゆくまで噛み締めることができるようになっていたのだが、なぜだろうか、わたしたちは次第に落ち着かない気分になっていった。
 少し離れたテーブルで、灰色の帽子をかぶった初老の男が外国語の新聞を広げていた。一面の見出しに「国際テロリズムの脅威」とあるのがはっきりと見えた。新聞から手を離してコーヒーカップを持ち上げたときに、男の顔を見ることができた。酷薄そうな頬をしていた。白いひげを山羊のように顎にたくわえ、右の目を黒い眼帯で覆っていた。わたしの視線に気がつくと左の目をわずかに細め、妻の視線に気がつくと帽子を持ち上げて会釈した。落ち着かない気分になったのは、どうやらこの男のせいだった。
「ねえ、テロリストだわ」と妻がわたしに囁いた。
「うん、テロリストだね」とわたしも妻に囁いた。
 わたしたちが話すのを隣のテーブルの老夫婦が聞いていた。「ねえ、テロリストですって」と妻が夫に囁くと、「ああ、テロリストだな」と夫のほうが頷いた。若い恋人たちは手を取りあったまま眼帯の男のほうを盗み見て、「テロリストよ」「テロリストだ」と囁きを交わした。ひそひそと囁く声がテーブルからテーブルへと伝わっていった。善良な市民の告発の声が灰色の帽子をかぶった眼帯の男を囲んでいった。妻とわたしも負けてはいない。男のほうを盗み見ながら「テロリスト」「テロリスト」と囁いていた。
 我慢できなくなったのだろう。男が新聞を投げ捨てて立ち上がった。憎しみのこもった左目でわたしたちの顔を見回し、腕を振り上げ、人差指を突き立てた。
「いいか、間抜けな市民諸君、我々はただのテロリストではない」
 そう言うと男は振り上げた手を懐に差し入れ、灰色のオートマチック・ピストルを引き抜いた。それから再びわたしたちを見回すと、高らかな声でこのように言った。
「国際テロリストだ」
 わたしたちは息を呑んだ。男は銃口を空に向けて引き金を引いた。銃声が弾け、硝煙の臭いが善良な市民の鼻を襲った。銃声はテロリストたちへの合図だった。プランターの陰や植木の後ろから四人の男が現われて、武器を手にしてわたしたちを取り囲んだ。いずれも激しく顔をゆがめ、市民への憎悪を隠そうとしない。わたしたちは命じられるまま、両手を上げて立ち上がり、テラスの隅に押し込まれた。ウエイターが店の中から現われた。背後から銃を突きつけられ、電話を運ばされていた。テーブルの上に電話を置くと、眼帯の男が受話器を取った。男はすぐにどこかと話し始めた。会話の中身を聞き取ることはできなかったが、ちらりちらりとこちらを見るのが気になった。
「あれは、要求を伝えているのだ」と誰かが囁いた。
「我々は要求を通すための人質なのだ」と別の誰かが囁いた。
「殺されるのだろうか」と誰かが言った。
「黙れ」とテロリストの一人が命令した。
 眼帯の男が受話器を戻して、ゆっくりとした足取りでわたしたちのほうにやってきた。そして酷薄そうな笑みを唇の端に浮かべると、穏やかな調子で話し始めた。
「市民諸君。要求はすでに当局に伝えた。状況が終了するまでに、それほど長い時間がかかることはないだろう。我々はそう期待している。無事に終了してくれれば、我々は諸君の前から立ち去って再び出会うことはないだろう。お互いのためには、そうなることが望ましい。だからこそ、これはぜひ理解しておいてほしいのだが、我々としても誰かを傷つけることを望んでいるわけではない。犠牲者を出さずにこの場を済ませることができるなら、それに越したことはないと考えている。だが、それには諸君の協力が不可欠だ。妙なことを考えるのはやめておいてもらいたい。実行に移すことは言うまでもない。我々は高度に訓練された戦闘部隊だ。たとえ相手が非武装の民間人であったとしても、必要とあれば一瞬たりとも躊躇しない。どうか、そのことを忘れないでもらいたい」
 男は話を続けて、世界情勢、男が関与している国際勢力の歴史的な位置づけ、国家権力への不信感、富の不均衡、理想主義、未来に向けての発展的な解決について、あるいは実力行使の正当性などについて触れ、豊富な話題でわたしたちを退屈させまいとした。滅多に聞けない種類の話なので、聞いておく価値はあったと思う。ところがわたしたちの関心はそれほど長続きしなかった。眼帯の男は運河を背にして喋っていたが、その運河から子牛ほどの大きさの巨大なカエルが上陸してきて奇妙なことを始めたからだ。
「アマガエルだな」と人質の一人が囁いた。
「アマガエルだ」と別の人質がうなずいた。
 美しい緑色をしたそのカエルはしきりと喉を動かしながら、自分の右目に黒い眼帯を当てようとしていた。前肢をたくみに動かして黒い円盤を目にあてがい、両端から延びた紐をそっと後頭部へ回していった。前肢を放すと同時に紐が勢いよく跳ね上がった。そしてその勢いで眼帯が前に向かって飛んでいって石畳の上に音もなく落ちた。カエルは変わらずに喉を動かしていた。喉を動かしたまま、その場にとどまって動かない。見ているうちに苛々してきた。それからようやく前へ進んで眼帯を拾い、円盤を再び目にあてがうと紐を後頭部へ回していった。いっぱいに引いて、前肢を放した。紐はしばらくその場にとどまり、とどまれなくなってまた跳ね上がり、眼帯を弾いて前に飛ばした。
「後頭部の傾斜が緩すぎるからな」と人質の一人が囁いた。
「おまけに、滑らかになってるしな」と別の人質も囁いた。
 人質がひどく気を散らしていることに、テロリストたちが気がついた。眼帯の男は人質の視線を追いかけて自分の背後にたどり着き、振り返って巨大なカエルと対面した。
 眼帯をした人間と、眼帯をしたカエルが向きあっていた。カエルのほうの眼帯は長くはもたない。男の目の前でカエルの目から眼帯が飛んだ。それは男の眼帯とよく似ていた。カエルはもう一度眼帯を拾い、もう一度目にあてがった。見ている前でまた飛ばした。
 するとなぜだろうか、いきなり眼帯の男が怒り始めた。国際テロリズムの精神に照らして、許せない何かを感じたのかもしれない。カエルの眼帯を靴で踏みつけ、カエルの頭に銃口を向けた。指はすでに引き金にかかっていたが、動きはカエルのほうが速かった。カエルは前肢を伸ばして男の腕をしっかりと握り、くるっとその場で向きを変えると背負い投げの要領で男のからだを投げ飛ばした。
「ちくしょうめ、ちくしょうめ」
 男はそう叫びながら宙を舞い、運河に落ちて波間に消えた。そしてテロリスト・グループは指導者を失って立ち往生し、残りのメンバーは警察によって逮捕された。カエルはそのあとも現場に残って眼帯を目に当てようとしていたが、わたしたちの必死の懇願にもかかわらず、警察によって逮捕された。町はテロリストの恐怖から解放された。しかしながら噂によると眼帯の男は生き延びていて、新たな名前と顔を得て新たな恐怖をたくらんでいるという。カエルのその後のことは誰も知らない。
「かわいそうなカエルさん」と妻が言った。
「そうだね」とわたしはうなずいた。



最終更新日 : 2011-08-01 11:57:19

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戦争

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