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富嶽百景の世界へ/上野から夜汽車で北へ

 平成6年9月下旬の或る日曜日、昭和の大作家、太宰治の追憶を求めて私は津軽に旅することになった。
 太宰を追い求めるのには理由があった。大学での卒業論文を書くために、私は太宰治を選んだ。太宰治の作品の数々は文学嫌いの私にその道への目を開かせてくれたような気がするし、紀行小説「津軽」に描かれた街を巡ってみたくも思ったからだ。

どちらかというと重い、苦しい、といったイメージさえ抱かせる太宰の作品の中で「津軽」だけは異彩を放っている。逃れ去った故郷の津軽を訪ね、数々の思い出の人々との再会が懐かしく回想され、読者を思わず心の旅に引き込んでしまう魅力が隠されているのだ。

 「ね、なぜ旅に出るの?」
 「苦しいからさ」。
 「津軽」冒頭は太宰の妻とのこんな会話で始まる。そして太宰は、
 「私も生きているうちに、いちど、自分の生まれた地方の隅々まで見て置きたくて、或る年の春、乞食のような姿で東京を出発」したのである。昭和19年のことであった。

 苦しいから旅に出る……、4年後に命を絶ってしまわなければならなかった太宰が、生まれ故郷をもう一度その目に焼きつけておくために、旅をしなければならなかった宿命がここに隠されているような気がする。

 私はあまりにも日々の大学生活に退屈さと倦怠と疲労とを感じており、この状態から少しでも脱したいがために、太宰を追い求めて旅に出る。就職活動などとは無縁の大学4年の初秋のことであった。

 東北ワイド周遊券を片手に、奈良へ向かい、関西本線の急行「かすが」名古屋行に乗り込む。2両編成の白く塗り替えられたディーゼルカーから、笠置付近の渓谷美を眺めていると、現在、関西本線が一部単線非電化なのに対し、東海道本線が一部複々線の大動脈となっている理由が分かるような気がする。

 急行「かすが」は関西本線唯一の一往復しかない優等列車だが、通勤、通学、買物客帰りの乗客でかなりの乗車率だ。名古屋まで乗り通す乗客も多く、少し驚いてしまった。

 列車は2時間余りかけて名古屋に到着。名鉄で岐阜へと向かい、東海道線でさらに大垣まで戻り、大垣発東京行の夜行普通列車、通称「大垣夜行」のグリーン車へと乗り込んだ。
 さすがに大動脈、東海道本線の列車だけあって、11両も連結している車内は日曜日の夜だというのにほぼ座席が埋っている。

 この列車は、東京までの400キロ余りを主要駅だけにしか停車せず、7時間16分で快走する。日本で最も走行距離の長い普通列車としても有名である。

 列車は早朝4時45分、東京に到着した。
 早速、中央本線の通勤列車で高尾へ行き、高尾から「大月行」の列車で大月へと向かった。

 大月というと山梨県東部の小さな街で、どちらかというとローカルなイメージが強かったのだが、現在は東京方面への通勤圏内と化しているようで、大月行の列車は、あの都会で走っているオレンジ色で愛想のない通勤型電車をを10両も連結していた。

 大月から富士山の街、富士吉田市の「河口湖」へと通じているローカル私鉄「冨士急行」へと乗り換える。4両編成の古い電車に乗り込むと、窓に背を向けて座るロングシートで、少しがっかりする。やはりここも東京の影響を受けているのだろうか。

 終点の河口湖までは26キロ。沿線の各駅で通学の中高生が乗り降りする中、富士吉田駅でスウィッチバックをして列車の進行方向を変え、大月から50分ほどで終点、河口湖駅に到着した。

 私はこれから富士山へと向かおうとしている。太宰治の余りにも有名な作品「富嶽百景」の舞台となった「御坂峠」の天下茶屋へ、どうしても行きたかったということもあるし、太宰が見た富士の風景をこの目で見てみたいというのが大きな理由だ。そのため津軽へ向かう前に少々寄り道することになってしまった。

 河口湖駅からバスに乗り、約30分で御坂峠のバス停に着く。海抜1300メートル、この峰の頂上に天下茶屋という茶屋がある。現在はその下をトンネルで抜ける道路ができたため、バスはトンネルを抜けて甲府の街へ向かう。そのため、頂上にある天下茶屋までは自分の足で登らなければならない。

 夏の終わりを告げるような弱弱しい太陽に照らされながら、アスファルトの道路を登る。山々の切れ目から時折見せる冨士の美しい風景に見守られながら、なんとか約1時間で頂上の天下茶屋へとたどり着いた。

 ここは北面冨士の代表的な展望台と言われ、ここから見た富士は富士三景の一つだという。その日、峠の展望台からは、眼下に小さく河口湖が見え、山の中腹が雲に覆われた、青く高くそびえ立つ冨士の姿を望むことができた。

 今から50年以上も昔、昭和13年に太宰が「富嶽百景」を執筆した茶屋が「天下茶屋」なのだが、当時の建物はもちろんなく、今は太宰関係の記念品を売るただの土産物屋になっていた。そしてそこには観光客がたむろしている、という日本の典型的な有名観光地の風景が繰り広げられていた。

 太宰はここから見た冨士を好まなかった。それはあまりにもおあつらえ向きの風景なのだという。好まないばかりか軽蔑さえしていた。「風呂屋のペンキ画のようだ」とさえ書いている。太宰はこの風景を恥ずかしく思えてならなかったようだ。

 私もそのように感じた。ここから見た冨士より、峠を登っている途中に山に切れ目から見えた富士の方が美しく思ったし、感動さえした。ここの景色はあまりにも整っていて優等生的でさえある。あたりまえの美しさしか感じない。

 「冨士には月見草がよく似合ふ」。
 太宰が残した名文句の刻まれた記念碑の言葉を胸に秘めながら、私もそっとその言葉を口に出してみて、そそくさと峠を下った。

 峠の下の国道から再びバスに乗り込み、甲府駅へと向かった。

 甲府の街も太宰と関係の深い土地である。
 戦争で東京の家が焼かれたため、疎開で甲府に住んでいたこともあり、作品「新樹の言葉」の舞台にもなっている。その中で太宰は、四辺みな山に囲まれた盆地で、派手に小さく活気のあるハイカラな街、と甲府の街を描いている。

 また、甲府市内にある湯村温泉にもよく出かけていたようで、この温泉で出会った美しい少女の裸をめぐる物語を鮮やかに描いた「美少女」という作品の舞台にもなった。

 太宰が住んでいた旧居や湯村温泉にも行ってみたく思ったのだが、時間がなく断念せざるを得なかった。

 甲府からは身延線の急行「富士川8号」静岡行に乗車する。東海道本線乗り換え「冨士」までの切符と急行券を自動券売機で買おうと思ったら、甲府駅はJR東日本の管轄で、身延線はJR東海の路線だからか窓口でしか買えなかった。

 発着ホームも「はみご」のように駅構内の最端に位置している。利用者にとってはどこの会社であろうが、知ったことではなく、民営時に「一本のレールで結ぶ鉄道網」と銘打った以上、不便なことはしてほしくない。国鉄時代が良かったとは思わないが民営になってから徹底した合理化によって、多数の不便が生じては何のための民営化か、と疑いたくもなる。 急行「富士川」は身延線のエース急行で、静岡-甲府間を1日5往復している。列車は向かい合わせ直角型シートの165系と呼ばれる、かっての直角型シートの165系と呼ばれる、かっての国鉄急行型車両4両をつないでいる。

 ローカル急行らしく、乗客のほとんどが地元客のようで、そこそこ混んでいる。列車はその名の通り、車窓に冨士を望みながら、富士川に沿って山梨県から静岡県へとそれほど早くはないスピードで走る。

 身延線沿線の途中の小さな駅にも小まめに停まり、甲府-冨士間90キロを約1時間50分かけて冨士に到着した。冨士からはさらに急行「東海4号」東京行に乗り換える。これもまた165系国鉄型急行電車で運転しており、さすがに大動脈らしく、11両も連結している。しかし、乗客はまばらで停車駅も多く、停車の度に急行券必要の旨の放送が入り、騒がしい。

 急行「東海」は東海道本線の主要駅のほとんどに停車し、冨士から約2時間で東京へと再び舞い戻って来た。混雑した通勤電車で上野へ向かい、青森行寝台特急「はつかり1号」を待った。

 どうも私は東京という土地が好きになれない。東京の通勤電車になんか乗っていると、ことさら気分が悪くなり、嘔吐さえ覚えるのであるが、この上野駅の空間だけは異質のもののように感じる。どこか奥深い悲しみが宿っているようで、人恋しいような雰囲気なのである。それは太宰も言うように「ふるさとのにおいがする」からだろうか。太宰のデビュー作である「列車」という作品は、この上野駅を舞台にしたものである。
 やはり文学者にとっても何かを感じる駅なのであろう。

 寝台特急「はくつる1号」青森行は青いラインの入った寝台電車9両で、行き止まり式のプラットホームに進入してきた。

 寝台車に乗り込むと、薄暗い車内からは寝台車独特の匂いがした。両端に三段式ベットが並んでいて、青いカーテンで仕切られている。夜行列車のどんよりとした空気が北への旅情を誘う。
 下段のベットに入り込み、カップ酒をあおるっていると、列車はゆっくりと上野駅のホームを離れた。

 この寝台特急「はくつる」は上野-青森間740キロを約8時間で結んでいる。国鉄型寝台電車を使用し、夜は寝台、昼は座席車として使用できる便利な車両だ。
 空いた車内に鉄道唱歌のオルゴールが響き、車掌の案内放送が始まる。ブラインドを上げ、過ぎ行く景色に目をやると、都会のネオンが一本の帯のように流れた。目を閉じると線路を鳴らす車輪の音と、列車の汽笛だけが頭の中を巡っていた。

 瞼を開けると、列車は黄色い田園の中を走っていた。青い空には白い雲が散りばめられており、北の空に秋を感じた。

 野辺地を過ぎると、静かに波打つ陸奥湾が見えた。誰もいない海岸には、朽ち果て、完膚なきまでに赤錆びた一艘の船が打ち上げられていた。

 かって青函航路があった時代には、陸奥湾が見える頃になると、車掌が連絡船の名簿を配りに来たそうである。

 列車は朝7時14分に終点、青森に到着した。冷たい秋風が出迎えてくれた。

 駅裏の公園にはかっての青函連絡船の八甲田丸が展示してあった。ここは連絡船に貨物を積み込むヤードだった場所だ。今ではその面影もなく、青森ベイブリッジと称する真新しい白い橋梁が頭上をかすめ、留置していて動けなくなったディーゼルカーが列車休憩所として黄色い色が塗られてあった。

 ……海峡を渡ってくる連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色い明かりをともして、ゆらゆら水平線から浮かんできた……
 太宰が幼い頃に見た「思い出」の原風景も、今では見ることができない。

 今日は十和田湖へ行く予定である。駅前のバス停から多くの団体観光客とともに十和田湖行のバスに乗り込んだ。
 各地で出くわす大量の団体観光客にうんざりしながらも、奥入瀬の美しい風景を眺めた。
 十和田湖では観光遊覧船に揺られ、再びバスに乗り換え、花輪線の大館駅に抜けた。団体観光客だらけで、十和田湖にある高村光太郎の彫刻像さえ見る気がしなかった。

 宿に入るにはまだ時間が早いので、大館から出ているローカル小私鉄の「小坂製錬鉄道」に乗ることにした。秋田県北部の大館ー小坂間20数キロを走るこの小私鉄は今年で廃線になることが決まっている。

 列車は多くのさよなら乗車の地元民を乗せ、約30分で終点の小坂に到着した。何をするあてもないのでそのまま大館へ折り返した。

 大館からは奥羽本線を北上し、約20分、碇ヶ関へ向かう。
 碇ヶ関は青森と秋田の県境にある山々に囲まれた温泉郷で、鎌倉時代に開湯されたといわれている。この地の名の由来ともなった安土桃山時代に設けられた津軽三関のひとつ、碇ヶ関もここにあり、現在は関所が復元され、観光地として人気を集めているようである。

 秋田県に不似合いな都会型の電車を降りると、真っ暗な駅前の街並に温泉の煙が上がっている。夜空には手に届きそうな位の近さに無数の星が浮かんでいた。空に吸い込まれてしまいそうな感じさえあり、卒倒してしまいそうだ。

 駅から歩くこと十数分、碇ヶ関温泉郷の或る小さな旅館に投宿した。この宿は今から60年以上も昔、昭和5年「私たちは山の温泉宿であてのない祝言をした」という太宰が最初の妻、小山初代と杯をあげた宿である。今では自宅を大きくしたような、ただの温泉宿だ。

 太宰に思いをはせる暇もなく、温泉につかったあと、眠りについてしまった。


「古雅な街」弘前/津軽鉄道に乗って

 翌朝、早々に宿を出て碇ヶ関の街が一望できる小山に登った。朝露に濡れた山の上には太宰が尊敬した大正時代の作家で、ここ碇ヶ関で育った葛西善三の記念碑が建っていた。

 眼下には一直線に伸びるコンクリートの高架橋を猛スピードで流れ行く自動車の群れと、朝に光をアルミの車体に反射させ、軽快に走る無粋な都会型電車の姿が見えた。

 碇ヶ関の駅から弘前に向かった。田舎の朝の小混雑の中、約30分で弘前に到着。バスで弘前へ向かった。

 弘前城は津軽二代藩主、信牧が1611年に築城した津軽十万石の城で、高岡城とも呼ばれている。

 静寂な城内の公園の中を歩いていると、人の家の庭を歩いているような錯覚に陥る。それほど高くない天守閣に登ると、富士山に形がよく似た岩木山が見えた。津軽冨士と呼ばれるだけあって高く堂々としたものである。弘前については、太宰が名文を残している。

 ……あれは春の夕暮れだったと記憶しているが、弘前高等学校の文化生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気づき、ぞっとしたことがある。見よ、お城のすぐ下に私の今まで見たこともないような古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりとうづくまっているだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持ちで溜息を漏らしたのである。万葉集などによく出てくる「隠沼」というような感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちではないと思った……。

 太宰は、弘前城からの町の眺めを「夢の町、古雅な町」と表現している。夢見るような気持ちで溜息を漏らした若き日の太宰が見た弘前の街を、私もこの目で見て本当の津軽が多少なりとも見えたような気がした。冬の日ならば、雪化粧した岩木山がさらに美しく見えるだろう。太宰の言葉を借りれば、ここは津軽人の魂の拠り所なのだ。

 弘前は1603年、慶長8年津軽初代の藩主、為信が計画し、弘前城を築城した二代目藩主、信牧によって築かれた城下町である。城の表門を守護するため、藩の重臣や子弟を配備した侍町の面影が今も残っている。

 その中の一部は伝統的建造物として保存され、一般に公開されていた。付近は立派な生垣が並び、重厚な門扉が残っている。

 公開されている武家屋敷に入ってみると、木と畳の独特の香りが漂い、古い木の戸棚の引き出しの裏には、嘉永五壬子年……などと墨で書かれてあり、ふとタイムスリップしたような気になる。かたくなに土地の文化を守りつづける、これこそが太宰のいう古雅な夢の町なのだろう。

 弘前から五能線経由、五所川原行の鈍行列車に乗り込む。古びたディーゼルカーの2両編成で、あの無粋な都会電車ばかりに乗せられていたので、ようやく心が落ち着く。

 弘前から1時間半で五所川原に到着。太宰いわく、よく言えば活気のある騒がしい町、という五所川原市内を歩く。どことなく埃っぽい街で、これといって見所もなく、商店街から流れ出るうるさい音楽を聴いていると、津軽にいるような気がしなくなる。

 駅に戻り、津軽鉄道の列車に乗り込んだ。国鉄から払い下げられた1両の薄汚れたディーゼルカーは、所々にオイルが黒く染みつき、車内では津軽弁が飛びかっていて、五所川原の浮ついた雰囲気を一気に打ち破ってしまった感じさえする。

 この津軽鉄道は、五所川原から金木町を通り、津軽半島の街、津軽中里までの約20キロを結ぶ非電化単線のローカル私鉄である。

 学校帰りの高校生らを満載した、たった1両の列車は、正面に岩木山を望みながら、辺り一面黄色く色づいた津軽平野の中を重そうに走る。

 車内の片隅に鈴虫が入った虫箱が置かれており、リーンという鳴き声が車内に響き渡っている。この企画は「鈴虫列車」と呼ばれ、津軽鉄道独特のサービスで、古びたディーゼルカーに秋を持ち込んでいる。冬には「ストーブ列車」という石炭ストーブを積んだ客車列車も走らせていて、我々を楽しませてくれる。

 列車は約30分で沿線の中心駅、金木に着く。賑やかだった高校生らのほとんどが下車し、少し寂しくなった列車で、同じ金木町内にあるその次の芦野公園駅まで行った。

 片面だけしかないホームに降り立つと、やつれた野良犬が出迎えてくれた。
 駅から5分ほど歩いた場所に、大きな池と美しい林が自慢の芦野公園がある。ここ金木町は言わずと知れた太宰の生まれ故郷で、幼少の頃、この公園へよく訪れていたという。

 落葉松の中を歩いていると、今年の水不足で干上がった池に、太宰号と名づけられたボードが置いてあった。近くに太宰の石碑があり、
……撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり……
と刻み込まれている。

 そんな苦悩の詩を頭の中で読んでいたら、近くで遊ぶ子どもたちの騒ぎ声が、私の太宰への想いをかき消してしまった。現実に逆戻りして、なんとなく微笑ましい気分になった。

 公園内にある町立の歴史民族館に立ち寄る。近くで出土した縄文土器から、太宰の遺品まで数々の物が展示されていた。

 再び芦野公園駅からディーゼルカーに乗り、金木の駅に戻った。

  ……金木は私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、これという特徴もないが、どこやら都会風に一寸気取った町である……

 駅には、太宰のふるさとへようこそ、と書かれた看板が掛かっている。金木は太宰の町なのである。駅前には商店街やスーパー、レンタルビデオ店やゲームセンターまであり、太宰が言うように、五所川原と同じくちょっとした小都会を気取っているようだ。

 「善く言えば、水のように淡白であり、悪くいえば、底の浅い見栄坊の町ということになっている」。

 津軽半島の町というと、鄙びた田舎町を想像していたのだが、ゲームセンターやレンタルビデオ店には驚いた。しかし、どう見てもこの田舎町には似合っていないように見える。底の浅い見栄坊の町、という意味も少し分かる気がする。

 駅から徒歩5分の場所に赤レンガ塀に囲まれた入母屋造りの堂々とした家がある。ここが太宰の生家で、作品から名を取った斜陽館という名の旅館になっている。やはり太宰を研究する上で、一度は来ておきたい、と思いここに宿を取った。

 付近の大地主だった津島家は、明治40年、太宰の父、津島源右衛門によって、この2階建ての大豪邸が建てられた。津島というのは太宰の本名で、津島家は、小説家の太宰だけでなく、かっての貴族院議員や青森県知事、金木町長を輩出した政治家一家としても有名である。だが、今ではこの豪邸も手放し、この地にはいない、という。

 威風のある玄関を入ると、いきなり喫茶店になっており、有名人や文学者の色紙が飾られ、太宰関係のおみやげ品が多数取り揃えられていた。ここ斜陽館は津軽観光の名所としても有名で、宿泊者以外は200円を払って中を見学することになっている。かっての大地主の家は観光客への見世物となって今に残されている。

 中で名前を告げると愛想の良い女中さんが現れ、1階の洋風部屋に案内された。洋風刺繍のベッドが2つ並んでおり、和洋折衷で建てられたというこの建物らしい。

 とりあえず旅館内をすべて見学してみたが、よく分からない展示物と色紙がやたら多い展示室があったりする。総部屋数は19室で木製の立派な手すりが光っている階段を上がると、2階に客室が8室あり、太宰の勉強部屋だったという「蘭の間」には、宿泊者の鞄や着替えが置いてあった。

 多少の感動と、少しの白けた心で部屋に戻り、備え付けてあった「竹の間・雑記ノート」とやらを読む。
<ここにいると、太宰さんの笑い声、話し声、全てのことがよみがえってくるようでなりません。今にも太宰さんが現れてきそうです……>
 中学2年生の少女が、太宰に対する思いを延々と書き綴っていた。青春の文学、若者の文学と言われるだけあって太宰のフアンには若者が極めて多い。

 私にも太宰の話し声や笑い声がよみがえってくるかもしれない、と期待して目を閉じてみたが、聞こえてきたのは大広間で宴会している団体客の笑い声と、隣の部屋から流れ出ているテレビの野球中継の音だけだった。

 太宰に心酔できる少女をうらやましくも思いつつ、無感動な、にわか太宰研究者の私は電気を消してさっさと寝ることにした。


小泊村での偶然/太宰が見た竜飛崎

 翌朝、早朝に宿を出て金木駅に行くと、すでに駅舎は高校生で一杯だった。中には昨日、列車の中で見た顔もある。

 高校生らの乗る五所川原行は4両という長い編成だが、こちらが乗る津軽中里行はたった1両きりで、運転手だけのワンマン列車だった。

 列車は約15分ほどかかり、ほとんどガラガラの状態で終点・津軽中里に到着した。かっての木造駅舎は、スーパーと同居する無味乾燥なコンクリートの駅舎になっていた。

 近くのバス停から津軽半島最北端の街・小泊行のバスに乗り込む。小さな集落に立ち寄っては中学生や高校生を乗せ、国道をひた走る。途中で学生を全員下ろした後、無人状態が続いたが、車窓に日本海が見えた頃、山越えの道を下ると、下前という小さな漁港が現れ、老人の集団が大量に乗り込んできた。

 バスはさらに山を越え、小泊の村に入ると村の診療所の前で止まり、老人たちは全員下車してしまった。診療券を見せるとバス代はいらないようで、診療所通いは老人の日課らしい。

 津軽中里は約1時間で小泊村の中心部に着いた。半島最北の街らしく、台風のような北からの強い風で出迎えられた。

 ……このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っていたのだ。三十年近くも逢わないでいるのだが、私は、その人の顔を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかもしれない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのである……。

 太宰は「津軽」の中で、自らが小泊に来た理由をこのように書いている。
 太宰には母がいたが病身だったため、3歳から8歳まで子守りのたけに育てられた。しかし、太宰が8歳の時、たけは小泊へ嫁いでゆく。太宰は何日も泣き続け、幼心にたけと別れた苦しさはずっと忘れなかったという。
 そんな太宰はこの旅の最後にここ小泊へやってきた。

 「越野たけ、という人を知りませんか」。
 「『こしの、たけ、ですか。この村には越野という苗字がたくさんあるので』村の人は答える」
 「私は教えられた通りに歩いていくと、たけの家を見つけた。間口三間くらいの小じんまりした金物屋である」。

 現在でも小泊の村には越野という苗字の家が数多く見受けられ、越野金物店も健在していた。

 「家にたけはいなかった。運動会に行っているのだという」。

 太宰はそこでたけと30年ぶりに再会した。

 「たけは子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私にはもう何の不安もない。まるで安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやりと運動会を見て、胸中に一つも思う事がなかった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の状態である。平和とは、こんな気持ちのことをいうのであろうか」。

 なんたる偶然であろうか、今日、私が訪ねた時、村の幼稚園から運動会が始まったのだ。太宰とたけが出会ったシーンとほとんど同じ設定が、今、私の目の前で行われているのである。
 私は小高い丘の上で太宰とたけが出会ったシーンを見た。ブロンズ像となって再現されている。
 太宰の像の眼の先には、小さな子供たちが走っている運動会が見える。太宰は、平和な無憂無風な顔でそれを見ている。50年近い時を越えて、小説と同じ場面が再現されようとしているのだ。

 偶然が重なっただけなのだが、小説の一場面がここに再現されているかのような錯覚さえ覚え、私はこの時、この北の小さな村で言い様も得ない感動を覚えた。強風の中で荒くれる日本海さえ、涙で遠く霞んで見えた。

  強風の中、小泊の村を散歩していると、漁港の近くに村の海洋センターなる真新しい施設を発見した。中を覗いてみると、やはり太宰関係の展示などがあり、小泊の観光名所の案内には、断崖絶壁の名岬として名高い権現崎はバスで10数分の場所にあるので、行ってみることにした。

 砂利敷きの小泊バスターミナルから、バスに乗り込み、来た時のバスで通り、老人が大量に乗り込んできた下前(したまえ)という小さな集落へ向かう。診療所前のバス停からは再び先ほどの老人たちが大量に乗り込んできた。診療を終え、下前に戻るのだろう。

 山を越えると15分ほどで下前漁港の集落に着いた。権現崎はここから徒歩20分の場所だという。バスを降りると老人たちも同じ方向へ歩き出した。皺の深い老婆の一人が私に、どこへ行くのか、と訪ねてきたので、権現崎に行く、と答えたら「台風が来るでよ」と老人集団に笑われた。

 本当に台風に襲われるかのような強い向かい風の中、国道を歩いていると、アスファルトが尽きた所に権現崎キャニオンハウスという人気のない施設があった。ここが権現崎かと思っていると、ここは観光客がバスで来るための権現崎で、断崖絶壁が眺められる展望台は、どうやらこの先、目の前にある標高200メートルあまりの山に登らなければならないらしい。重い荷物と灰色の空を気にしつつも、覚悟を決めて登ることにした。

 息を切らせながら登山道を登ること30分、小さな広場のような頂上に着いた。

 頂上には人一人おらず、不気味なほどの静けさの中、中国の伝説上の人物で、皇帝の命により、不死の仙薬を求めて日本に渡来した徐福を祀っている、という尾崎神社がぽつりと鎮座している。どうしてこんな場所に神社が、とも思うが、古代からの信仰で特に岬には神が宿っていると言い伝えられてきたというから、海を鎮めるためにこういう場所に神社を作ったのかもしれない。

 木で作られた古めかしい展望台に登ると、断崖下の海原に豆粒ほどの大きさで漁船が浮かんでいた。

絶景の岬と言われるだけあって、眼下の海に吸い込まれそうなほど恐ろしい風景なのだが、一度見たら忘れられぬ風景でもある。そのせいか、この風景に取りつかれ、村に滞在しながらこの岬を撮り続ける写真家さえもいるという。

 下りは比較的楽に山道を下り、20分ほどで下前の集落までたどり着けた。

 津軽中里方面へ帰るバスに乗ろうと思ったら、どうやら昼間はこの集落にはバスが立ち寄らないようで、便が全くない。木造の小さなバス停で考えあぐねていても仕方ないので、タクシーを呼び、旅館一泊分の料金をつぎ込んで、津軽半島の最北端、竜飛岬まで抜けてしまうことにした。

  再び小泊の村を通り、幻の国道と呼ばれる「龍泊ライン」に入る。

 この国道は津軽半島西側最北の街、小泊と津軽半島の最北端、竜飛岬を結ぶ全長20キロの国道である。小泊村より先は未開の地と言われ、竜飛の部落までまったく人が住んでいない。そんな所へ今から10年前に観光用として1車線しかない国道を通した。

 小泊の村を過ぎると、若い運転手が小泊にはどういう目的で来たのか、ということを聞いてきた。私は正直に太宰の碑を見に来た、と答えると、太宰が好きなんですね、と、ああ、またか・・・・・・とでも言いたそうな口調で帰ってきた。私は口ごもって、いや、別に好きな訳ではないんですけどね、と苦しい弁明をした。太宰のフアンはそれを隠したがるタイプが多い。

 日本に永住しているイギリス人作家でアラン・ブースという人がいる。氏は太宰を追い求めて津軽を歩いた記録を著書「津軽ー失われた風景を探してー」に記している。その中で氏も旅行中に何度か太宰のフアンか、という質問をされたようだが、その度に、そういう訳ではない、と私と同じような弁明を繰り返している。どうも太宰のフアンには照れ屋が多いようである。

 左手に日本海を見ながら、車は曲がりくねったのこぎり坂を低速ギアで走る。アスファルトこそ新しいが、付近には家一つ見当たらない。

 海抜470メートルの龍泊ライン中間地点に展望台があり、そこからの眺めは「天然の絵巻を見るが如し」とガイドブックに書いてある。
 運転手が気を利かして止めてくれたので見に行ったが、ねずみ色の空の下に鬱蒼とした原野だけが見え、強風が容赦なく吹き付けてくる。まるで地獄絵図を見るが如し、の風景であった。

 小泊村から約30分余りで竜飛に着いた。山の上にある青函トンネル記念館の前で降ろしてもらい、記念館のレストランで遅い昼食をとった。

 青函トンネル記念館は、トンネルが完成した1988年にできたもので、トンネル工事の構造などが立体模型やビデオなどで分かりやすく説明されているほか、工事用として使っていた斜坑ケーブルに乗り、海底下約140メートルのトンネル作業抗まで行くことができる。

 こちらは以前に行ったことがあるし、入館料が高いので、最近隣にできた竜飛ウインドパークなる施設に入ってみた。

 竜飛は「風の岬」と言われるだけあって、年間平均の風速が毎秒10メートル以上という日本有数の強風地帯で、この風を活かす方法はないか、ということで山の上に巨大な風車5台を置き、風の力を電気に代える試みを行っている。
 そのシステムPRのために東北電力が展示館を建てたもので、実際に風力を体験できる施設などがあり、なかなか楽しい。しかも入場は無料である。

 記念館などがある竜飛の丘の上から、全国で唯一、車の通れない国道として今ではすっかり有名になった階段国道339号線を下っていると、紫陽花の花の向こうに北海道がうっすらと見えた。

  今夜は宿に泊まらず、青森から夜行フェリーで北海道へ向かおうと思っているが、次第に台風が近づいているようで、海峡は荒れており、フェリーが出るのかどうかが心配である。

 家々の裏の迷路のような路地を通り抜け、竜飛の小さな部落にたどり着いた。太宰は本州最北端のこの地へも、もちろん訪れて名文を残している。

 ……路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小屋に頭を突っ込んだ。一瞬、私は何やら、わけがわからなかった。
 「竜飛だ」とN君が、変わった調子で言った。
 「ここが?」落ち着いて見廻すと、鶏小屋と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴な風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになってお互いに庇護し合って立っているのである……

 この部落にたどり着いた瞬間を「鶏小屋に頭を突っ込んだ」というユニークな表現に換えるあたりはいかにも太宰らしい。

 太宰ら一行は小雨の中、三厩から3時間以上、ひたすら歩いて竜飛を訪れたのだという。太宰もいいかげんに歩き疲れていたからこんな奇抜な表現が生まれたのだろうか。

 太宰が言うように、今でも竜飛の家々は、海峡を吹き付ける狂暴な風雨から守るため、断崖にへばりつき、お互いに身を寄せ合うように立っている。鶏小屋という表現も外れていない気がする。

 さらに部落の路を先に進むと、いよいよ路が尽きる。ここに太宰の碑が立っている。

 「ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ……」

 我々はこの碑によって行く手を阻まれる。ここは本州最北端、袋小路なのだ。この先には路はない。あとは海にころげ落ちるばかりなのである。この碑を見て私は初めて最北の地を実感した。

 或る年の夏の終わりに、私は一人、この地を訪れた。感傷の旅だった。太宰が泊まったという宿で、北の大地から吹く冷たい風を浴びながら、蒼い夏が終わるのを待っていた。
 しばらく、宿を出て路をひたすら歩いていると、突然この碑に出会った。この時の衝撃は一生忘れない。本州の袋小路だ、この先に路はない。感傷に浸っていた私を目覚めさせてくれるような力強い文章であったからだ。その時、私は太宰をすごい作家だと思った。

 ふと頭の中でそんな古い思い出を浮かべていたが、今日の竜飛は人の思い出など簡単に消し去ってしまう位に狂暴である。灰色の海と空とが溶け合って、ふたつの海がうなりを上げているかのようだ。まるで景色になっていない。

 腰を曲げ、風雨に立ち向かって歩いている老人を横目にこの地を後にした。

  バスに乗り、約40分で津軽線の終点、三厩駅に着いた。ここから津軽線のディーゼルカーに乗り換え、蟹田を通り、約2時間かけて青森へと戻った。昨日以来、津軽半島をぐるりと一周したことになる。

 早速、フェリー会社に電話で問い合わせたが、北海道へ渡るフェリーはやはり欠航だった。明日にも台風が東北地方に上陸する予定だという。そうこうするうちに青森市内にも雨が落ちてきた。仕方なく、駅前のカプセルホテルに避難した。

 朝、雨はまだ小降りであった。北海道へ行く予定が狂い、何をするあてもないので、とりあえず三陸方面へ行くことにした。

 青森駅から特急列車に乗り、約2時間余り。盛岡駅に着くと、強烈な暴風雨に見舞われ、付近の列車はすべて運休となった。ここで身動きさえ取れなくなり、列車が動き出したのを見計らって、再び青森に戻った。

 降り飽きたのか雨も止み、列車の窓から虹が見えた。今日は1日何もできず過ごしてしまった。旅にはこういうこともまま、ある。

 そろそろ津軽を出る日がやってきた。
 早朝から、黒い雲がかかった八甲田山を見ながら、青森の街を東に歩いていた。
 歩くこと30分、海の見える公園に着いた。

 ……学校はちっとも面白くなかった。校舎は、まちの端れにあって、白いペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞こえてきて、廊下も廣く天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにいる教師たちは私をひどく迫害したのである……。

 初期の作品「思ひ出」に描かれたように、太宰が通っていた中学校の裏にあるという公園が、ここ合浦(がっぽ)公園である。
 教師に迫害されていた、という太宰はよく学校をさぼってこの公園を訪れていたようだ。

 石川啄木の碑もある、松の生い茂る砂浜に立つと、津軽半島、下北半島を両側に挟み、穏やかな海の上を、毛虫のように這っている船の列が遠くに見えた。霞んだ北海道の大地がその後ろにそびえていた。今日は昨日とうって変わって穏やかな良い天気である。太宰もこんな風景を見て少年時代を過ごしたのであろうか。

 帰りはバスでバスで青森駅に戻り、今世紀最大の偉業である青函トンネルを通る函館行の快速「海峡」に乗り込む。土曜日だからか4両しかない客車内は大変な混雑だ。

 私は青函トンネルを渡るわけではなく、青森から30分、蟹田の駅に降り立った。
 駅前通りの真正面に青森湾が見え、外ケ浜沿いに三厩へ通じる国道がある。その国道を三厩方面へ20分ほど歩くと、観瀾山という高さが百メートルにも満たない小山がある。そこへ登った。

 ……この山からの見はらしは、悪くなかった。その日はまぶしいくらいの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向こうに夏泊岬が見え、また、平館街道をへだてて下北半島が、すぐ間近に見えた……。

 太宰が見た日と同じように、今日もおだやかな上天気である。蟹田の街を一望できる場所に太宰の碑があった。

 「かれは、人を喜ばせるのが何よりも好きであった……」。

 太宰の性格をよく表している一文である。その場所からは、カラフルな屋根の家が立ち並ぶ蟹田の街並みと、静かに波打つ海峡に向かって、下北半島へ向かうフェリーの姿が見えた。

 「蟹田ってのは、風の街だね」。

 温和な蟹田の街に強い風が吹き抜けた。旅の思い出と太宰への感謝を込めて、蟹田の街をファインダーに写し込んだ。
 ありがとう津軽。さようなら。

                                                           (了)

 

西村 健太郎
(1995年10月)

 

【その後のあとがき】

http://www.hat.hi-ho.ne.jp/nishimura/comments/comments03.html


津軽幻視行~太宰治を訪ねて【奥付】



津軽幻視行~太宰治を訪ねて


公開日 : 2010年6月30日
最終更新 : 2011年6月11日

著者 : 西村健太郎
[プロフィール]

編集・制作 : 鉄道紀行舎(http://kikosya.jp/
発行所 : 株式会社paperboy&co.「パブー」


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