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はいどうもー朝野でございます。きのう(4/28現在)iPhone3GSからemobile GS01に乗り換えたんですよ。さすがにいまどき3GSの320×480ドットの画面は小さすぎますしね。あとテザリングできるのがいい。さらに都内だけじゃなくて田舎でも使いたい。ということで初アンドロイドですよ。スーパー有機EL960×540でずいぶん見やすくなったので、これを機にツイッターも始めちゃいましたよなう。フォロー不要です。リアルで友だちいないです。好みのツイッターボットを読むためのものです。朝野は一人で楽しむすべを知ってるんです。

たとえばよく孤独死とかね。かわいそうだとかね。そうなんだろうか。死の瞬間って一度しか経験できないものじゃないですかあ。それをそばにたくさん人がいて、ひっきりなしにあれこれ雑音吹き込まれて、チューブだのカテーテルだの体中に突っ込まれて死ぬのってリアル不幸だと思いますよ。死ぬときくらいひとりにしてくれってね。その点、ネコは死期を悟るとこっそりいなくなるって言いますからね。気高い孤高の生きものだね。

はい、というわけで「12匹の由緒ある猫たち」ですが。まさかイーモバイルからネコに話がつながると思わなかったでしょ。こんなのね、簡単ですよ、手口を知れば基本ですよ、基本。つまりこのね。シチュエーションものっていうのかなあ。同じ人、同じ場所で続く会話劇ね。これはやっぱり舞台劇が得意とする分野なのかなあ。朝野は舞台劇に疎いので、このようなフォルムのストーリーにも疎いのですね。だからそういう興味ね。こういうのどうやって思いつくんだろう、どういう手順で書くんだろうという興味、大いにありますね。

ある家のダイニングルームに、12匹のネコが集合した。彼らは、今年最もネコ社会に貢献したネコを選ぶ審査員かつ候補者だった。その家の飼ネコが司会をして、全会一致で、なんだっけ、ベストオブイヤーネコを選ぶ会議だというんですがね。朝野は劇の途中で数えたんですが、司会進行役のその家の飼ネコを含めて12匹だったと思うんですけどね。

そこのね。その家のダイニングルームにはテーブルも椅子もなくて、ただただ段ボール箱が積み上げられてるんですよ。おかしいじゃないですか。だからこれは伏線ですね。だから後で触れます。でもって段ボール箱を椅子代わりにして、12匹のネコが集合します。そして我こそがベストオブイヤーだというプレゼンをするんですね。劇中では全員のプレゼンを見ることができないのですが、全員プレゼンして主なものだけ劇内で演じたという見立てだと思います。最初のプレゼンは、スーツにネクタイ姿のネコで、政治家然として、飼ネコの権利を守る活動をしてきたと言います。そうすると、人間社会の政治や政治家について、ネコを道具として借りてメタファーとして使ってるのかなと思いますね。そして順番は忘れましたが、何番目かにネコブームで経済が豊かになればそれだけネコを飼ってる人の経済的余裕も出てきて飼ネコの待遇も改善するから、そのような人間をサポートして経済を発展させようというプレゼンをするネコが登場します。なるほど政治・経済のメタファーかなと思います。ところがその次だったか前だか忘れましたが、ネコカフェで働くネコが、自分は人間を調教する女王様であると言うんですよ。そしてどうやって人間の気を引き手玉に取るかを説明するんですが、その説明が、ああ、そうそう、ネコってそうだよね、という、つまり観客の視座をネコそのものに向ける内容なのですね。だから、あれ、別に何も人間世界を比喩してないし社会派メタファーでもないなあ、という。むしろ人間世界のコスプレ女王様をメタファーとして使って、そういうふうにも見える気まぐれなネコの魅力を描いているのじゃないかという。

そうやって話は進みまして、最後に、ジャーナリストに飼われてるネコが、自分ではなくて別のネコをベストオブイヤーとして推薦したいと言う。そのネコというのは、野良ネコで、3.11東日本大地震のときに十何匹かの被災ネコを救助して福島から避難させたという。しかしそもそもこの会議は、飼ネコによる飼ネコのための会議なので、野良ネコはだめだという反対意見が出て揉めるんですね。飼ネコたちは、野良ネコのせいでネコ全体のイメージが悪くなっていると言い、保健所で殺処分されてもしかたがないと言い、対してジャーナリストネコは、でもそういう野良ネコたちには本当に希望がないのか、なんとか野良ネコたちが人間と共存できる道はないのかと訴えます。

なんのメタファーだろう。飼ネコが正社員で野良ネコが非正規とかフリーターとかかな。一瞬そういうふうに考えてみてもまったく腑に落ちません。そして保健所で殺処分されるリアルな野良ネコの話が詳しく紹介されて、そりゃあもうかわいそうですよ。しかもそれって別になんのメタファーでもなくて、現に今そこにあるリアルなかわいそうな話じゃないですか。そりゃあ野良ネコかわいそうだな、飼ネコいろいろストレスあってそれもやっぱりかわいそうだな、という感想しかないですよ。

そしてジャーナリストネコに推薦されてこの会議に出席すべくこの家に向かっていた野良ネコが交通事故で死んでしまう。会議に出席したネコたちは首輪を外して去っていく。そう言えばこいつらの首輪って冒頭で司会進行役のネコが用意していた首輪じゃんか。てことはおまえら全員野良ネコかよ。さらに司会進行役のネコには、飼主らしき人間の声が投げかけられて、引越しするがおまえは連れて行けない、ごめんね、という、そしてそれを聞いて首輪を外す。ははあ、引越しするからダイニングに段ボール箱しかないんだな。そしてだから食器かなんかを壊したのをダンボールに隠してあとで人間に気づかれたとしても大丈夫だと言ってたんだな。でおまえも捨てられて野良ネコになっちゃうのかよ。最後は12匹みなで交通事故死した野良ネコのお葬式。

ちょっとこのラストの急展開がついていけなくて。だって冒頭で飼ネコベストオブイヤーを選ぶって言ったじゃん。てことはそれ自体ありえない話だから、そういうレベルって言うんですか、それを前提としたファンタジーかなと思って当然だよね。ところがラストでその前提条件をちゃぶ台返し。これはこの時点でわからないのが普通である。



そこで劇場を出たあとすぐにきのう契約したばかりのemobile GS01で検索ですよ。ここでGS01がまた出てくると思わなかったでしょ。甘いな。まだまだだなキミは。冒頭で伏線張ってあるからね。そしてここで出すと。基本ですよ、基本。

するとこんな感想が出てきた。大型画面で見やすいね。

実は“野良ネコのための自立支援セミナー”だった、という結末でした。「野良ネコを差別する飼いネコたちの模擬会議」を演じてみることで、野良ネコたちの自立を促す、というのが目的のセミナーなんですね。

しのぶの演劇レビュー
http://www.shinobu-review.jp...

ははあ。なるほどね。確かにそう解釈すると辻褄が合いますね。ただ、作品中の伏線のみからこの解釈を引き出すことは非常に困難だと思いますけどね。基本、作品の解釈についての指示は作品中にすべてあるべきだと思いますよ。それが理想ですよ。けれども万人に理解できる作品を作ることは理想だけれども現実には不可能だから結果として説明不足になってしまうことはありえると思います。そして朝野は自分でも趣味で小説を書いたりしてるからどっちかというと作者寄りなんですよ。けれどもそういう慈悲深い朝野ですらラストで迷子になってしまったので、やはりそれはこの作品の瑕疵だと思いますよ。でもなんか今日はそこをあんまり責める気持ちになれないんですね。金星がふたご座に入っているせいでしょうか。

結局こういうシチュエーションドラマのゴダイゴ、じゃなかった、醍醐味ってどこにあるんだろうなあという感慨が、朝野にはありますね、そういう興味が。前述の政治家風紳士ネコの役者さんがなかなかお上手でしてね。朝野は少なくともこれまで見てきた小劇場の舞台に限っては、少々大げさで芝居がかった演技のほうが感情移入しやすいという感想を持ってます。狭い劇場のすぐ目の前の舞台で素で話されると観客との区別がますます曖昧になって返って引いてしまうのですね。ですのでこの紳士ネコ役の役者さんの、政治家の嫌味なところ、言葉遣いは丁寧だが尊大で自信家だけど八方美人な感じをうまくデフォルメして演じているところが見ていて楽しかったし全体のストーリーを離れてそれ自体満足感がありました。

紳士ネコの次にプレゼンしたのが、ペットフード開発会社で試作品を食べる仕事をしているネコでした。そしてハンガーストライキもどきのことをすることによって、ペットフードを餌ではなく人間でも食べられるほどの食事にまで高めた、それが私の功績だと言います。ところがそのペットフードの産地が国産としか書かれてなくて、例の東電原発事故の影響で汚染された食材が使われているかもしれないと言い出すネコが出てきて、じゃあ食えないじゃん、プレゼンしたペットフードネコの努力は無駄だった、彼女をベストオブイヤーに選ぶのも無理、という話になっていく。

熊本の水俣病のときにね。当時の東京大学の教授が安全宣言したんですよ。そしてそのとき地元では、有機水銀入り新鮮な魚を食ったネコが神経をやられて踊りながら死んでいったんですよ。若い人でね、知らない人いたら大変だから、ほんと基礎だから言っときますけど、今、マスコミも御用学者も原発事故の放射能汚染は軽微だ、今後健康被害は出ないというキャンペーンやってますけど、絶対信じちゃだめですよ。特にね、若い人はね。できれば東日本の外に避難してください。

劇中にこういう話が出てくると、なんかそういった社会派のメタファーかなと普通思いますよね。でもこの劇について言えば、いやいや、この劇についてのみ今話してるんですけどね。だからね、感想ってね、小学生のときの読書感想とかね、書き方のコツはね、内容とは無関係にもっともらしい結論を付け加えればそれで教師的にはOKなんですよ。どんなジャンルのどんなストーリーでも、「ぼくはこの本を読んで、友情の大切さを教えられました。わがままを言わずみんなと協力した主人公に感動しました。これからは、お父さん、お母さんの言いつけをよく聞いて、友だちと仲良くしていきたいと思います」と言っときゃ通知表の点数は確保できますよ。そういう小学校の作文教育の将来的クリエイティブな仕事への甚大な悪影響について今ここで感想ぶって語ることもできるわけです。

けれども生真面目に愚直にあくまでこの劇の感想という範囲に立ち戻って考えてみますと、人間の食品の放射能検査や基準値もいい加減だけれども、ペットフードには基準自体ないので、産地が書かれてなくても放射能が含まれていても法律違反じゃないんだそうですね。劇中ではそういう話になっていくんですよ。そうするとそういうモチーフが指示しているのは、ネコがかわいそう、ってことだけなんですね。全然人間社会のほうへ目線が向かないんです、プロットがそういう構造をしてるんです。

そもそもなぜ観客がネコの劇を見ながら現代人間社会のほうに視線を逸らそうとするのか。それにはもっともな根拠があるのです。チラシには社会派演劇と書かれてありますけど、この社会派という言葉は、普通は、人間中心主義を暗黙のうちに含意しているのです。だから人間の社会について描かれてるんだろうな、ネコはそのメタファーの道具として使われてるんだろうな、という予断を持って当然なのです。ところがそういう予断でラストまでくるとわからなくなる。この劇ではラストで全員野良ネコもしくは捨てられた飼ネコだとわかる。そうすると、冒頭で、選ばれた飼ネコたちだけの会議だと説明され、途中で野良ネコが推薦されて、だんだんみなが野良ネコを支持するほうへ進展していくストーリーが指示しているものについても再考が必要であると思われます。

中盤でジャーナリストネコが被災野良ネコを推薦したとき、飼ネコと野良ネコの対立軸が前景化され、それが人間世界の既得権益者とそこから外れた人たちとの対立のメタファーとして使われてるのかなと思いました。野良ネコではないジャーナリストネコが、野良ネコと人間の共存を訴え、それを野良ネコではない由緒正しい審査員ネコたちがだんだん支持していく過程を描くことによって、飼ネコと野良ネコの対立から和解へという意味が引き出され、それを道具として人間社会のなにがしかの対立を暗示し、そこにテーマ性があるのかなと思って見てきたわけです。ところがラストのどんでん返しで全員野良ネコで新しい飼主を探していることが判明しますと、飼ネコと野良ネコの対立軸という仮定がまちがいであり、だからメタファーとしての人間世界のことどもの連想もまちがいであったと気づきます。



しのぶのレビューさんの解釈が正しいとしますと――朝野は正しいと思いますが――野良ネコが飼ネコの立場に立ってロールプレーイングをする劇中劇だったということになります。なぜそんなことをするか。そうやって人間とか人間と飼ネコの関係とかへの理解を深めて、新しい飼主を見つけるため。だから後から来る予定だった野良ネコも、飼ネコのふりをしていた12匹のネコとなんの対立もなく仲間の一人であった、そして彼が家の前まできて車にはねられて死んでしまった、というところで劇が終わってしまいます。

そうしますと、中盤でジャーナリストネコが「野良ネコと人間が共存できる道はないものか」という問題提起をしたのは、何かのメタファーじゃない。自分たち自身のことを言っていたに過ぎません。この劇のテーマはストレートでダイレクトなものです。私がこの劇から受け取ったメッセージは次のようなものです。

ネコは人間と共に暮らしたがってるよ。なんとか人間と折り合いをつけようと努力してるよ。飼ネコはかわいいよ。飼ネコをもっとかわいがろうよ。野良ネコもかわいいよ。野良ネコもなるべく助けようよ。保健所でネコを殺すのはまちがってるよ。そんなのかわいそうだよ。すべてのネコが人間と共存できるような社会にしていこうよ。

初めから終わりまでネコの話ばかり。人間の役者がネコを演じながら、ネコって本当はこんなふうに感じてるんだと思う、ネコは人間のことをこんなふうに思ってるんだと思う、というふうにネコの気持ちだけを追求しているのであって、たとえば人間の政治家のモチーフを持ち出したときでさえ、それは人間社会の話をするためではなくて、お金持ちの家に飼われてる高級な血統のネコってこんな感じこんな側面があるよなあ、というふうにあくまで脚本家の目線はネコのほうを向いています。私はこの劇からそれ以外の部分、すなわち人間社会のネコと関わりのない部分のメッセージを見出すことができませんでした。

というわけで、この劇から人間社会へのメタファーを取り出そうとする人はみな失敗するし、それを不満に思うことはまちがった解釈であると思います。ネコの気持ちに寄り添って考えるとき、この劇のメッセージはシンプルで至極当然に納得できるものです。だから私もそれをそのまま受容しようと思います。

ただ、脚本家は人間だよね。確かめてないけどおそらくは人間だろう。あのときあそこにいた観客もたぶん人間だったよね。もしそうじゃなかったらかなり恐いんですけど。つまり脚本も演出も観客も人間だとするとですよ、人間のくせにここまでネコ中心主義で脚本を書いてそこになんのためらいも感じず、人間社会に向けてネコ大好きメッセージだけを発信してるわけだよね。だから脚本家がネコではなくて人間であるとしたらだが、かなり変わった人間だね。



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