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そこで劇場を出たあとすぐにきのう契約したばかりのemobile GS01で検索ですよ。ここでGS01がまた出てくると思わなかったでしょ。甘いな。まだまだだなキミは。冒頭で伏線張ってあるからね。そしてここで出すと。基本ですよ、基本。

するとこんな感想が出てきた。大型画面で見やすいね。

実は“野良ネコのための自立支援セミナー”だった、という結末でした。「野良ネコを差別する飼いネコたちの模擬会議」を演じてみることで、野良ネコたちの自立を促す、というのが目的のセミナーなんですね。

しのぶの演劇レビュー
http://www.shinobu-review.jp...

ははあ。なるほどね。確かにそう解釈すると辻褄が合いますね。ただ、作品中の伏線のみからこの解釈を引き出すことは非常に困難だと思いますけどね。基本、作品の解釈についての指示は作品中にすべてあるべきだと思いますよ。それが理想ですよ。けれども万人に理解できる作品を作ることは理想だけれども現実には不可能だから結果として説明不足になってしまうことはありえると思います。そして朝野は自分でも趣味で小説を書いたりしてるからどっちかというと作者寄りなんですよ。けれどもそういう慈悲深い朝野ですらラストで迷子になってしまったので、やはりそれはこの作品の瑕疵だと思いますよ。でもなんか今日はそこをあんまり責める気持ちになれないんですね。金星がふたご座に入っているせいでしょうか。

結局こういうシチュエーションドラマのゴダイゴ、じゃなかった、醍醐味ってどこにあるんだろうなあという感慨が、朝野にはありますね、そういう興味が。前述の政治家風紳士ネコの役者さんがなかなかお上手でしてね。朝野は少なくともこれまで見てきた小劇場の舞台に限っては、少々大げさで芝居がかった演技のほうが感情移入しやすいという感想を持ってます。狭い劇場のすぐ目の前の舞台で素で話されると観客との区別がますます曖昧になって返って引いてしまうのですね。ですのでこの紳士ネコ役の役者さんの、政治家の嫌味なところ、言葉遣いは丁寧だが尊大で自信家だけど八方美人な感じをうまくデフォルメして演じているところが見ていて楽しかったし全体のストーリーを離れてそれ自体満足感がありました。

紳士ネコの次にプレゼンしたのが、ペットフード開発会社で試作品を食べる仕事をしているネコでした。そしてハンガーストライキもどきのことをすることによって、ペットフードを餌ではなく人間でも食べられるほどの食事にまで高めた、それが私の功績だと言います。ところがそのペットフードの産地が国産としか書かれてなくて、例の東電原発事故の影響で汚染された食材が使われているかもしれないと言い出すネコが出てきて、じゃあ食えないじゃん、プレゼンしたペットフードネコの努力は無駄だった、彼女をベストオブイヤーに選ぶのも無理、という話になっていく。

熊本の水俣病のときにね。当時の東京大学の教授が安全宣言したんですよ。そしてそのとき地元では、有機水銀入り新鮮な魚を食ったネコが神経をやられて踊りながら死んでいったんですよ。若い人でね、知らない人いたら大変だから、ほんと基礎だから言っときますけど、今、マスコミも御用学者も原発事故の放射能汚染は軽微だ、今後健康被害は出ないというキャンペーンやってますけど、絶対信じちゃだめですよ。特にね、若い人はね。できれば東日本の外に避難してください。

劇中にこういう話が出てくると、なんかそういった社会派のメタファーかなと普通思いますよね。でもこの劇について言えば、いやいや、この劇についてのみ今話してるんですけどね。だからね、感想ってね、小学生のときの読書感想とかね、書き方のコツはね、内容とは無関係にもっともらしい結論を付け加えればそれで教師的にはOKなんですよ。どんなジャンルのどんなストーリーでも、「ぼくはこの本を読んで、友情の大切さを教えられました。わがままを言わずみんなと協力した主人公に感動しました。これからは、お父さん、お母さんの言いつけをよく聞いて、友だちと仲良くしていきたいと思います」と言っときゃ通知表の点数は確保できますよ。そういう小学校の作文教育の将来的クリエイティブな仕事への甚大な悪影響について今ここで感想ぶって語ることもできるわけです。

けれども生真面目に愚直にあくまでこの劇の感想という範囲に立ち戻って考えてみますと、人間の食品の放射能検査や基準値もいい加減だけれども、ペットフードには基準自体ないので、産地が書かれてなくても放射能が含まれていても法律違反じゃないんだそうですね。劇中ではそういう話になっていくんですよ。そうするとそういうモチーフが指示しているのは、ネコがかわいそう、ってことだけなんですね。全然人間社会のほうへ目線が向かないんです、プロットがそういう構造をしてるんです。

そもそもなぜ観客がネコの劇を見ながら現代人間社会のほうに視線を逸らそうとするのか。それにはもっともな根拠があるのです。チラシには社会派演劇と書かれてありますけど、この社会派という言葉は、普通は、人間中心主義を暗黙のうちに含意しているのです。だから人間の社会について描かれてるんだろうな、ネコはそのメタファーの道具として使われてるんだろうな、という予断を持って当然なのです。ところがそういう予断でラストまでくるとわからなくなる。この劇ではラストで全員野良ネコもしくは捨てられた飼ネコだとわかる。そうすると、冒頭で、選ばれた飼ネコたちだけの会議だと説明され、途中で野良ネコが推薦されて、だんだんみなが野良ネコを支持するほうへ進展していくストーリーが指示しているものについても再考が必要であると思われます。

中盤でジャーナリストネコが被災野良ネコを推薦したとき、飼ネコと野良ネコの対立軸が前景化され、それが人間世界の既得権益者とそこから外れた人たちとの対立のメタファーとして使われてるのかなと思いました。野良ネコではないジャーナリストネコが、野良ネコと人間の共存を訴え、それを野良ネコではない由緒正しい審査員ネコたちがだんだん支持していく過程を描くことによって、飼ネコと野良ネコの対立から和解へという意味が引き出され、それを道具として人間社会のなにがしかの対立を暗示し、そこにテーマ性があるのかなと思って見てきたわけです。ところがラストのどんでん返しで全員野良ネコで新しい飼主を探していることが判明しますと、飼ネコと野良ネコの対立軸という仮定がまちがいであり、だからメタファーとしての人間世界のことどもの連想もまちがいであったと気づきます。



しのぶのレビューさんの解釈が正しいとしますと――朝野は正しいと思いますが――野良ネコが飼ネコの立場に立ってロールプレーイングをする劇中劇だったということになります。なぜそんなことをするか。そうやって人間とか人間と飼ネコの関係とかへの理解を深めて、新しい飼主を見つけるため。だから後から来る予定だった野良ネコも、飼ネコのふりをしていた12匹のネコとなんの対立もなく仲間の一人であった、そして彼が家の前まできて車にはねられて死んでしまった、というところで劇が終わってしまいます。

そうしますと、中盤でジャーナリストネコが「野良ネコと人間が共存できる道はないものか」という問題提起をしたのは、何かのメタファーじゃない。自分たち自身のことを言っていたに過ぎません。この劇のテーマはストレートでダイレクトなものです。私がこの劇から受け取ったメッセージは次のようなものです。

ネコは人間と共に暮らしたがってるよ。なんとか人間と折り合いをつけようと努力してるよ。飼ネコはかわいいよ。飼ネコをもっとかわいがろうよ。野良ネコもかわいいよ。野良ネコもなるべく助けようよ。保健所でネコを殺すのはまちがってるよ。そんなのかわいそうだよ。すべてのネコが人間と共存できるような社会にしていこうよ。

初めから終わりまでネコの話ばかり。人間の役者がネコを演じながら、ネコって本当はこんなふうに感じてるんだと思う、ネコは人間のことをこんなふうに思ってるんだと思う、というふうにネコの気持ちだけを追求しているのであって、たとえば人間の政治家のモチーフを持ち出したときでさえ、それは人間社会の話をするためではなくて、お金持ちの家に飼われてる高級な血統のネコってこんな感じこんな側面があるよなあ、というふうにあくまで脚本家の目線はネコのほうを向いています。私はこの劇からそれ以外の部分、すなわち人間社会のネコと関わりのない部分のメッセージを見出すことができませんでした。

というわけで、この劇から人間社会へのメタファーを取り出そうとする人はみな失敗するし、それを不満に思うことはまちがった解釈であると思います。ネコの気持ちに寄り添って考えるとき、この劇のメッセージはシンプルで至極当然に納得できるものです。だから私もそれをそのまま受容しようと思います。

ただ、脚本家は人間だよね。確かめてないけどおそらくは人間だろう。あのときあそこにいた観客もたぶん人間だったよね。もしそうじゃなかったらかなり恐いんですけど。つまり脚本も演出も観客も人間だとするとですよ、人間のくせにここまでネコ中心主義で脚本を書いてそこになんのためらいも感じず、人間社会に向けてネコ大好きメッセージだけを発信してるわけだよね。だから脚本家がネコではなくて人間であるとしたらだが、かなり変わった人間だね。


昔は浮浪者って言ってましたけどね。最近はホームレスって言うんですかね。なぜか文学では河原で見かけるようですが、私は御徒町駅前でよく見かけますね。上野とかは警察が排除してるんですかね。大きな駅から一駅二駅外れたところでよく見かけますね。女性のホームレスは稀なようで、私は確か一度も見かけたことないです。どうしてなんでしょうねえ。女性はホームレスになる前か直後にすぐ死んでしまうんでしょうか。バブルのころは新宿駅前にたくさんホームレスいたのを覚えてますけどね。バブルとか言ってもね、実態はそんなもんでしたよ。当時は大気汚染も半端なくひどくてね。新宿あたりを数時間歩いただけで鼻の穴真っ黒になりましたよ。本当です事実です。ようやくディーゼルエンジンの排気ガスを規制する法律ができたと思ったら今度は放射能禍。首都に人口が集中するのは住みやすいからじゃないです。全国から浮浪者予備軍が集まってきて遅かれ早かれ浮浪者になるからです。裕福な人間は首都に戸籍を持ちながら海外にも家があって、ほら、枝野幸男のね。家族がね。原発事故が起こったときシンガポールにいたそうじゃないですか。だから東京の華やかさはそういう嘘によって塗り固められてるというね、東京だけじゃないですよ。全世界、首都には必ずスラムがあります。常にそういう搾取と犠牲の上に都会の虚飾の繁栄があるのであり、だから放射能禍があったから東京が首都じゃなくなると言ってる人がいますが、まちがいです。東電社員の家族はすでに一年前の3月に海外または西日本に避難してます。世田谷あたりの高級住宅街に住んでいた外国人たちもとっくに母国に帰ってます。政治家や高級官僚や金持ちたちは食材を海外から取り寄せたり長期バカンスを取ってセシウムを抜いたり万全の対策済み。東京に残って毎日東京の水道水飲んでるのは身動き取れない貧乏人だけです。それがめちゃくちゃ大量にいるのです。地方で食いっぱぐれた人間が流入し続けるのです。それが魔都の磁力なのです。

真実は、東京は孤独だ。みんなどこへ行ってしまったの? ツバメよ~♪ 赤い空から~教えてよ、地上の星をーー。中島みゆきと言えば思い出されるのがひとりジョーズですね。人食鮫が海水浴場へ来たがオフシーズンで誰もいなくてひとりぼっちで注目されなくて寂しいよというね。名曲でしたね。

要するにね、そういうね、どうなんですかねえ浮浪者を文学的に扱うというのはねえ。だって狭義の浮浪者ってなんなのか。実は知らないでしょ。朝野も知らないですよ。今後そうなってみて初めて思い知るときが来るかもしれませんけどね。だから知らないものをアイコンとして用いることのね。

この劇では、冒頭まだ客席の照明が消されないうちに男が舞台に登場し、石を投げるしぐさをし、そのたび川面に石を投げたときのような音がする。このあと男は何度も登場し、河原に住みついているホームレスであることがわかり、彼が登場すると舞台が河原なんだなと観客に知らせるアイコンとして機能するようになる。ストーリーの発端は成績優秀なサラリーマン25歳が、自宅裏の斜面から落ちてきた石が頭にぶつかって入院してしまう。一週間ほど会社を休んでいるうちに仕事を干されてしまって、自分にしかできない仕事だと思っていたのにそうじゃなかったと気づいて落ち込む。仕事がつまらなくなり、父の弟であるおじさんがいつも河原で遊んでいるのを見に行くようになる。

ここまでの展開がすごい短いんですね。病院で禁止されてる携帯電話を使って会社に電話して、会社での自分の居場所がなくなってることに即座に気づいて携帯電話を投げ捨ててしまう。あのほらなんだっけかなあ。バットマンの一等最初のやつ。冒頭でマドンナ役の人がバッドマンに出会って恋に落ちたと思ったら30分後にはベッドインしてましたけどね。だからあれでしょ。バイデン副大統領が、結婚で一番大事なものは愛だと言ったとか。そういうピューリタンの発想ですね。だから好きあってる男女がいたらもう付き合って当然だしそこのところは全部端折っちゃっていいというね。付き合いはじめる前までを延々描き続ける日本のラブコメの全否定ですね。それがアメリカ政府の公式見解なわけね。

つまり優等生がいい会社でサラリーマンやっててそういう人生は内実はむなしいよねということがマスコミで喧伝され続けてきたので、宇多田ヒカルでさえ公務員目指すのは夢がないと歌うような世の中になってしまった。それゆえそこは端折ってすぐにオルタナティブなおじさんのところへ行くという展開なんですね。まあ人それぞれですからね、地方公務員で一生幸せな人もいれば、ずっと一流企業のサラリーマンで死ぬまで満足な人も探せば見つかると思いますがね。でもそういう人は数から言えばマイノリティなので大衆向け演劇ではとりあえずサービス対象外ってことですかね。



で行ってみると、おじさんは、呼び声に応えて世界のバランスをとっているという。呼び声というのは、自分の衝動ではない。それから、世間の目とか親の期待とかいうものでもない。そういう意味あるものではなくて、なんの意味もないような衝動。たとえば首をかく。首が痒かったからかいたと思う。でもそれは後付けの理由であって、特に理由もなく首をかいて、その後で首が痒かったからだと理由をつけただけだという。実は意味のないそういう衝動は、世界からの呼びかけであって、それに応えることで世界のバランスが保たれるという。

新興宗教の類いかな。観客がそう思い始める0.5秒くらい前にエクスキューズが入って、舞台で役者が、新興宗教というと恐いとか怪しいとか思いがちだけど、そういうんじゃないんだ、と説明する。あるいは、おじさんは河原のホームレスをバランスが取れていると言い、師匠と言う。するとすぐに「ぼくにはただのホームレスにしか見えません」と主人公が言う。

主人公が病院に入院してると、交通事故で全身に包帯を巻いた女が登場する。主人公がおじさんの真似をして理由もなく窓から手を振ったとき、たまたまそれを見て気をとられ、交通事故を起こしてしまったという。女は、主人公が謝らないので、慰謝料を請求されることを恐れてるのかという。そしてタカ&トシみたいに「アメリカか!」と突っ込む。そう言えば欧米では交通事故のとき絶対謝らないって話を聞いたことあるなと思ってると、「アメリカではそうだというのも都市伝説だけどね」と言う。観客の連想を先読みしてどんどんおっかぶせてくるんですね。この辺が親切設計というかね。前もってよく考えてるなと思いますね。もちろん読者より作者のほうが深く広く考えておいてくれなきゃ、読む価値ないわけで、当然と言えば当然、基本と言えば基本ですけどね。

おじさんが言う呼びかけに応えるとはなんなのか。新興宗教ぽいなと思うと、そうじゃないと説明が入る。自分の気持ちに素直になるとか向き合うとかって話かなと思うと、ちがうと否定される。じゃあ他人のためかなと思うとそうでもない。そもそもおじさんは本当に信じてるのか。いや、実は弟子の一人が呼びかけに従って人間を殺そうとすると、いや、それは呼びかけではないと言い出す。そんないい加減なものだったのか。この殺人未遂はおじさんがいい加減だということを示すためのエピソードか。ところが殺人未遂が未遂で終わって、だれも死なない。なんでそうまでしてこのおじさんという役をかばうかな。かばってるわけじゃないのかな。終盤で雨が降り続ける。雨が上がらない。おじさんが呼びかけに応えなくなったからだ。えー? じゃあやっぱ新興宗教なの? そしておじさんたちが呼びかけに応えると、雨が上がる。奇跡? そうなの? と思った瞬間、おじさんの兄嫁が、「雨は上がりますよ」と言う。つまり、新興宗教でもなく、祈り続ければ奇跡が起こると言う話でもなく、おじさんのでたらめさを暴く話でもない。そういう安直な着地点を読者が予想するたびに、いや、そうじゃないんだ、という作者の声が聞こえてくる。

もうひとつのストーリー候補として、おじさんの母は病気で長く入院した後で死ぬ。おじさんは毎晩自宅で母親におやすみと言っていたが、それを兄に気づかれて、一回だけ言わなかった。その夜に母は死んだ。あるいは、父は職人肌で、ロケットのネジを作っていたがあんまり儲からなかった話。冒頭でもロケットのネジの話が出てくるので、これがテーマと関係あるのかなと一旦は考えてみる。兄弟の対立の話とか。

ええっとね、今日、土曜日の夜なんですよ。5/26の土曜日。一週間経ってまだ感想書きあがらないので、ちょっと端折っちゃって、結論だけ言うね。

要するにね、読者が連想しそうないろいろなテーマ性、大きく分けると、ひとつは、おじさんの呼びかけに関すること、もうひとつは、兄弟とか親子とかの人情話ね。このふたつのプロットラインが、なんらかのテーマ性を表現しているのかなと一度は考えてみるだろう、読者は。そして新興宗教っぽい話も凡庸だし、奇跡も安直だし、人情話もつまらないと思う。それは読者が先に思うんじゃなくて、作者が次々にそれを否定していくのである。解釈の候補が浮き上がってきて読者が身構えるたびに、作者が、これは安直だよね、こっちも凡庸だよね、と言って、次々投げ捨てていく。作者がテーマ性を追求して深く思索していく様子が伝わってくる。

そして最後に持ち出されるのが、ミッションである。そう言えば表題がミッションだった。英和辞典で調べると、使命とか天職とかの意味がある。主人公は崖から落ちてきた石が頭にぶつかり、最初は人生が狂ってしまったと思う。けれども最後にはそれこそが明白な呼びかけであったと考える。裏の崖は挿し木の人工的な林であり、だから根が張らず地盤がゆるくて、長く雨が降ると土砂崩れが起きて、最後に主人公の家が土砂崩れの下敷きになって全壊してしまう。つまり長雨はおじさんの奇跡を表現するモチーフではなかった。冒頭の石もおじさんと結びつくモチーフではなく、父の期待のアンチテーゼとして持ち出されたモチーフでもなかった。それは表題どおり、ミッションを象徴するモチーフだった。個人が自己の天命に気づく話だった。さまざまに逡巡し行ったり来たりして読者を困惑させ、その目的は読者を作者が考えた思索の深みにiいざなうための戦略だった。

ストーリーはぐるぐる回りながら、これもちがう、あれもちがう、と自ら持ち出したモチーフを次々投げ捨てていき、最後に、安直な奇跡でもなく、凡庸な人情話でもない、その狭間にある狭き門の地帯にうまく着地することに成功した。

良かったと思います。


この本の内容は以上です。


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