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夜明けの立会人



 出産に立ち会うことは前から決めていた。東京から大分へ、陣痛の報せを受けて飛行機に乗るのでは間に合わないかもしれない。その覚悟はしていたが、あんな展開になるとは思いもしなかった。
 昨年の十月初旬、連絡を貰い飛行機に乗った。雨の中、午後六時に到着。間に合うどころか、それから十二時間、長い夜を過ごした。陣痛が来るたび妻の背中をさすった。妊婦さんが一人、また一人と分娩室へ入っていく。台風の夜は出産ラッシュになるのだという。ビデオカメラ片手に分娩室へ入る手術着姿の男性を見かけ、少し未来を想像した。妻の手を握り、応援する。そこからも長くかかるだろう。なにしろ初産だ。
 午前六時過ぎ。遂に妻も分娩室へ入った。僕も続こうとしたら「旦那さんは廊下で」とドアを閉められた。呆然としていると看護師が手術着を持ってきて、こう言った。「今、LLしかなくて、これ着て待っててね」彼女は足早に去り、僕は廊下で濃緑色の服を着た。見事にだぶだぶ。笑ってくれる相手もおらず、デジカメで自分を撮った。余計に空しくなる。
 さらに三十分ほど待っただろうか。分娩室の扉が開き「旦那さん!」と呼ばれた。「もう産まれるから!」驚く間もなく妻の横に立つ。先刻の比ではない妻の苦しみように無力さを痛感する僕に、看護師長が言葉をかけてきた。
「旦那さん、あの人に似てるね、チャミスルなんとかって言う韓国の」
「あの人ですよ、ほら!」と若い看護師が記憶を探りはじめ、まさかの談笑が始まった。チャン・ドンゴンですか? と言うべきか悩んだが、そんなことをすれば一生の不覚。妻や子どもにどう思われるか。「チャン・ドンゴン!」と誰かが答えてくれてほっとしたのも束の間、直後に初めての子が産まれた。小さな、小さな、女の子だった。みんなが笑うなか、ようやく、僕も笑った。娘だけが泣いていた。

南日本新聞 南点 2010年3月3日掲載

おじいちゃんは106・8歳



「ダイイング・メッセージ」といえばミステリー作品等で被害者がいまわの際に遺すヒントを指すけれど、僕の父方の祖父が遺したメッセージは「106・8歳」だった。とはいえ祖父は病院で穏やかに息を引き取ったし、そこに事件性は皆無。ただ、死の数日前に看護師から「おいくつですか」と質問されたとき、はっきりと答えたそうなのだ。「106・8歳」と。
 鹿児島の、山奥の火葬場で僕は姉からその話を聞かされた。祖父の享年は90にも達していなかった。「106はまだしも、テン、ハチって」と僕は笑った。祖父の酒好きを口実に従兄弟連中で通夜を飲み明かして、気分もまだ高揚していた。悲しみの少ない別れだった。
 「死んだのが6月8日だけん、それば予言したとかもよ」と姉は推理した。なるほど、と納得しかけたものの、揚げ足取りが得意な僕は「じゃあ『100』はなんだって話じゃん」と返した。
 燃え尽きるまでのあいだ、僕は火葬場周辺をひとりで散歩した。「100」の正体が見つからないかと足下を探し、背伸びして錦江湾を覗いた。唐湊の墓地へ移動してからも、親戚の家で再び酒盛りの夜を迎えてからも、東京へ戻ってからも、僕は探った。答えはどこにも見つからず、謎はのっぺらぼうのまま、じっとこちらを見るばかり。やがて、振り出しから辿り直そうと決心して、祖父の死から始まる短い小説を書いた。そいつを何度も書き直した。
 小説の新人賞を獲ったとき、受賞の言葉に「ふたりの祖父について、いつか書きたい」と僕は記した。母方の祖父についてはまた別の理由があり、父方の祖父については前述の出来事がきっかけにある。どちらも未だ果たせてないが、忘れてもいない。
「ダイイング・メッセージ」は和製英語だそうで、直訳すれば「死にゆく伝言」となるだろうか。僕は祖父の「106・8歳」を、このまま死なせたくはない。

南日本新聞 南点 2010年3月17日

呪い



 悩ましい、という言葉がある。
 選択を迫られたときに使うケースと、色気に惑わされるときに使うケースとがあるが、僕にはなぜか後者の印象のほうが圧倒的に強い。おかげで、重要な打ち合わせの席で誰かが「悩ましい」と言おうものなら、僕の脳裏にはふたりの峰不二子がラウンドガールよろしく選択肢の書かれたボードを掲げて歩き出す。衣装については触れないが、ほんとに困る。頭で理解していても、避けては通れない。僕はこれを「ふ〜じこちゃ〜んの呪い」と名付けている。
 この手の現象は枚挙に暇が無く、「髪を梳かす前にブラシを3回振らなければ失恋する」なんて迷信を結婚後も遵守してしまうことだって一例だ。くだらないが、誰にだって「呪い」のひとつやふたつあるだろう。自分の行動をあらためて観察すれば、大半が習慣から成り立っていることに気づかされるし、習慣の変更が容易でないのはダイエットや禁煙の情報が尽きないことからも明らかだ。
 では、「呪い」が悪いことかといえば、案外そんなこともない。おとぎ話にあるように、魔法使いの呪いを解くことはときに生きる意味となり、克服の暁には幸福が待っていたりする。現実の世界でも逆境に落ち込んだ人ほど、その先での跳躍はすごい。新年度を憂鬱な気持ちで迎える人もいるだろうが、呪いは破るためにあるのだと僕は思う。
 とはいったものの、どうすれば「不二子ちゃんの呪い」は解けるだろう。確実な方法は、人々が「悩ましい」を「選べない」の意味では使わないようにしてしまうこと。「色っぽい」に限定するわけだ。そんなの無理だよ、とあなたは笑うかもしれない。しかし、あなたが次に「悩ましい」という言葉に接したときに峰不二子を想像してしまう可能性は低くないだろうし、僕と同じ呪いにかかってしまえば、決断を迫られる場面でも「悩ましい」とは言いにくくなるだろう。まずはそこからだ。
 ご協力感謝します。

南日本新聞 南点 2010年3月31日掲載

あとを継ぐもの



 母の旧姓は「米田」と書いて「めた」と読むが、同姓の人に会ったことはない。祖父母は健在で、今も垂水に暮らしている。僕も幼少時には夏休み、冬休みを垂水で過ごした。桜島は頻繁に噴火し、灰が降った後には地面に絵を描いて遊んだりした。祖父は、ひどく怖い人だった。
 十代で南満州鉄道株式会社に就職した祖父は、ハルピンに配属された。素肌で鉄に触れたなら皮膚が張りついてしまう極寒の地で、ドアノブはもちろん、柱の釘一本に至るまで布の覆いが施されていた。戦争が始まり、彼の地で兵となった祖父はロシア国境近くへと派遣され、後に宮古島へ南下した。いちばん寒いところからいちばん暑いところへ移ったのだと祖父は語った。
 僕が子どものころ、祖父はとにかく厳格で、映画で観た日本兵のイメージそのままだった。それもいつしか丸くなり、こちらの成長も手伝ってか、以前のような怯えを持つことなく話せるようになった。戦時中の体験について僕が積極的に聞きたがるようになったのもここ数年のことだ。最初は単純な興味だったが、断片的な話を自分なりに咀嚼していくうちにもっと知りたいと思い始め、やがて、祖父の話を残したいと考えるようになった。物語の形で。
 今、手元にひとつのファイルがある。二〇〇七年一月に垂水を訪ねたときの記録だ。極寒から酷暑への旅もそのときに聞いた。あの時代についての証言。いつか、いつか、と繰り返しながら構想を練るものの、未だ形を成していない物語の源泉。
 その日、最も印象深かったのは、生真面目な祖父が兵となり死を覚悟したときに抱いた後悔の念だった。
「もっと好きなようにやっておくべきだった」
 その一言で、僕は祖父にようやく近づけた気がした。
 母は三人姉妹で、全員が他家に嫁いでいる。姓は途絶えるかもしれないが、あとを継ぐものがいないわけではない。

南日本新聞 南点 2010年4月14日掲載

お寿司が静止する日



 もともと刺身を食べないので、自然、寿司を食べる機会も少ない。なのにときどき、無性に回転寿司に行きたくなる。実際に足を運んだところで頼むネタは固定されていて、海老、いなり寿司、納豆巻き、芽ネギあたりをつまめば胃袋は落ち着く。ときにはサイドメニューの天ぷらやデザートを注文し、目の前でおいしそうにまともなお寿司を堪能する妻を眺めながら、いっしょに味わってる気分を満喫する。
 なぜ回転寿司に行きたがるのか自分でも疑問だったけれど、先日、ふと気がついた。回転している状況が好きなのだ。
 実際、たまに店へ行ったとき僕がまず気に掛けるのは「回転している状況」で、確かめるとほっとする。回転寿司のコマーシャルを見かけたときにも、流れている寿司ではなくベルトコンベアがせっせと稼働している様に意識が向く。
 富士山についても似たようなことが言える。僕が普段利用している電車から、天候次第で富士山を拝むことができる。そう頻繁にではなく、運がよければ、といった程度の確率で、見えた日には「今日もあった」と安堵する。あるのが当然と知っていてなお、その姿を焼き付けようとする。でも、寿司と同じく普段はまるで無関心だ。
 寿司も富士山も話としてはくだらないものかもしれないが、日常において「よかった! ちゃんとあった!」という安心を抱く場面は案外多い。その反対「しまった! もうない!」の局面は、それ以上に多い。生々流転、諸行無常。
 今日のこの紙面上にも、それに類する記事を見つけることができるだろう。環境問題。訃報。株価。政府の翻心。目を光らせていないと事態は呆気なくそっぽを向いてしまう。どれだけ注視していても、変わるときは変わる。
 ある日突然、寿司がぴたりと動かなくなったとして、僕にそれを嘆く権利は無いだろう。無関心とは、とりもなおさず、そういうことだ。

南日本新聞 南点 2010年4月28日掲載


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