母の輪郭

英国人の教授に論文の書き方を教わった際、強調されたのは「結論を冒頭に置くこと」だった。日本人は結論を最後に配置する傾向があり、読む側の興味を持続させにくい。冒頭に述べた結論は読み手に疑問となり、答えを知りたい思いが読む推進力となる。故に結論は冒頭に。
というわけで僕は、母に謝りたい。
僕が中学生になった頃から、母は講演会の類に出掛けるようになった。芸能人、学者、登山家、音楽家。語り手は都度入れ替わり、催眠術でもかけられたみたいに母は決まって感銘を携え帰宅した。うちは共働きで、母も昼は外の世界で生きてるのだから刺激は多いはずなのに、どうしてわざわざ無縁の他人の言葉を聴きに行くのか。僕には理解できなかった。それ以上に釈然としなかったのは、聴いた話をそのまま僕らに披露することだった。誰某がこんなことを言っていた、とさも嬉しそうに。受け売りを耳にするたび僕は、「で、母さんの考えは何なのさ」と思った。多分、実際にそう言って責めたこともある。十代にも馴れてきた僕の世界は可塑性に富み、悲喜こもごものひとつひとつが新しい考えを、さも自分だけの思いつきのように授けてくれた。そして僕は「母には自分の考えが無い、あってもひどく薄いものだ」と決めつけた。
今、三十代も半ばに差し掛かり、自分の考えや経験だけでは狭すぎて突破口どころか針の穴さえ見つけられない状況も多く、無縁の他人の言葉に救われることも少なくない。若い人の悩みに借り物の言葉で応じることもあり、そんなときには十代の自分が背後から睨んでるのを感じる。振り返って僕は問いたい。母が教えてくれた幾人もの言葉、考え方、それらから母という人をもっと深く知ることだってできたんじゃないか?
フォードの創業者ヘンリー・フォードはこう言っている。「できる、と思うか、無理だ、と思うか。いずれにせよあなたは正しい」
南日本新聞 南点 2010年2月3日掲載
うまれでくるたて

誰それに生まれ変わりたい、という愚痴をたまに耳にする。花や猫、千の風とかなら気にならないが、特定の人物、それも存命中の人名を挙げられると、どのタイミングで生まれ変わりたいのかが大問題になる。
たとえば誰かが「ブラッド・ピットに生まれ変わりたい」と言ったとして、遥か未来でブラピの容姿、人格、才能を持って生まれたいのか、はたまた過去にさかのぼって今まさに生きているブラピとしての人生をイチから歩みたいのか。仮に前者だとして、別の時代で現代のブラピと同等の人生が保証されるわけでもない。ならばやはり後者か。しかし来世なのに過去というのは辻褄があわないじゃないか。
ちょっとしたつぶやきにこうまで食いつかれたら発言者も困るだろうから、実際には詰問したりしない。
僕自身は今のところ転生について願望はない。信じないとかではないし、興味はある。数年前に中国政府がチベットの高僧に向け「転生するなら事前に申請するように」とお達しを出したけれど、必要とあらば僕も一応の申請は出しておきたい。備考欄があれば、「誰に」ではなく「どんなふうに」生まれてきたいかは書くかもしれない。
以前から宮沢賢治の「永訣の朝」が好きで、高校の教科書にも収録されていたのだけれど、時間の都合で危うく飛ばされそうになったときには国語教師に頼み込んで授業で採り上げてもらったほどだ。
(うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる)
このくだりが、なにより強く、好きだった。考えてみれば今のこの生だって、誰かの、何かの生まれ変わりかもしれず、ならば来世を願うより今生を理想のものへ変えることが先で、来世の課題なんて自分が果てるときにようやく見えてくるものかもしれない。また自分として生まれてきたい、と思えたなら最高に幸せだ。それが今日を頑張る理由にもなりはしないだろうか。
南日本新聞 南点 2010年2月17日掲載
夜明けの立会人

出産に立ち会うことは前から決めていた。東京から大分へ、陣痛の報せを受けて飛行機に乗るのでは間に合わないかもしれない。その覚悟はしていたが、あんな展開になるとは思いもしなかった。
昨年の十月初旬、連絡を貰い飛行機に乗った。雨の中、午後六時に到着。間に合うどころか、それから十二時間、長い夜を過ごした。陣痛が来るたび妻の背中をさすった。妊婦さんが一人、また一人と分娩室へ入っていく。台風の夜は出産ラッシュになるのだという。ビデオカメラ片手に分娩室へ入る手術着姿の男性を見かけ、少し未来を想像した。妻の手を握り、応援する。そこからも長くかかるだろう。なにしろ初産だ。
午前六時過ぎ。遂に妻も分娩室へ入った。僕も続こうとしたら「旦那さんは廊下で」とドアを閉められた。呆然としていると看護師が手術着を持ってきて、こう言った。「今、LLしかなくて、これ着て待っててね」彼女は足早に去り、僕は廊下で濃緑色の服を着た。見事にだぶだぶ。笑ってくれる相手もおらず、デジカメで自分を撮った。余計に空しくなる。
さらに三十分ほど待っただろうか。分娩室の扉が開き「旦那さん!」と呼ばれた。「もう産まれるから!」驚く間もなく妻の横に立つ。先刻の比ではない妻の苦しみように無力さを痛感する僕に、看護師長が言葉をかけてきた。
「旦那さん、あの人に似てるね、チャミスルなんとかって言う韓国の」
「あの人ですよ、ほら!」と若い看護師が記憶を探りはじめ、まさかの談笑が始まった。チャン・ドンゴンですか? と言うべきか悩んだが、そんなことをすれば一生の不覚。妻や子どもにどう思われるか。「チャン・ドンゴン!」と誰かが答えてくれてほっとしたのも束の間、直後に初めての子が産まれた。小さな、小さな、女の子だった。みんなが笑うなか、ようやく、僕も笑った。娘だけが泣いていた。
南日本新聞 南点 2010年3月3日掲載
おじいちゃんは106・8歳

「ダイイング・メッセージ」といえばミステリー作品等で被害者がいまわの際に遺すヒントを指すけれど、僕の父方の祖父が遺したメッセージは「106・8歳」だった。とはいえ祖父は病院で穏やかに息を引き取ったし、そこに事件性は皆無。ただ、死の数日前に看護師から「おいくつですか」と質問されたとき、はっきりと答えたそうなのだ。「106・8歳」と。
鹿児島の、山奥の火葬場で僕は姉からその話を聞かされた。祖父の享年は90にも達していなかった。「106はまだしも、テン、ハチって」と僕は笑った。祖父の酒好きを口実に従兄弟連中で通夜を飲み明かして、気分もまだ高揚していた。悲しみの少ない別れだった。
「死んだのが6月8日だけん、それば予言したとかもよ」と姉は推理した。なるほど、と納得しかけたものの、揚げ足取りが得意な僕は「じゃあ『100』はなんだって話じゃん」と返した。
燃え尽きるまでのあいだ、僕は火葬場周辺をひとりで散歩した。「100」の正体が見つからないかと足下を探し、背伸びして錦江湾を覗いた。唐湊の墓地へ移動してからも、親戚の家で再び酒盛りの夜を迎えてからも、東京へ戻ってからも、僕は探った。答えはどこにも見つからず、謎はのっぺらぼうのまま、じっとこちらを見るばかり。やがて、振り出しから辿り直そうと決心して、祖父の死から始まる短い小説を書いた。そいつを何度も書き直した。
小説の新人賞を獲ったとき、受賞の言葉に「ふたりの祖父について、いつか書きたい」と僕は記した。母方の祖父についてはまた別の理由があり、父方の祖父については前述の出来事がきっかけにある。どちらも未だ果たせてないが、忘れてもいない。
「ダイイング・メッセージ」は和製英語だそうで、直訳すれば「死にゆく伝言」となるだろうか。僕は祖父の「106・8歳」を、このまま死なせたくはない。
南日本新聞 南点 2010年3月17日
呪い

悩ましい、という言葉がある。
選択を迫られたときに使うケースと、色気に惑わされるときに使うケースとがあるが、僕にはなぜか後者の印象のほうが圧倒的に強い。おかげで、重要な打ち合わせの席で誰かが「悩ましい」と言おうものなら、僕の脳裏にはふたりの峰不二子がラウンドガールよろしく選択肢の書かれたボードを掲げて歩き出す。衣装については触れないが、ほんとに困る。頭で理解していても、避けては通れない。僕はこれを「ふ〜じこちゃ〜んの呪い」と名付けている。
この手の現象は枚挙に暇が無く、「髪を梳かす前にブラシを3回振らなければ失恋する」なんて迷信を結婚後も遵守してしまうことだって一例だ。くだらないが、誰にだって「呪い」のひとつやふたつあるだろう。自分の行動をあらためて観察すれば、大半が習慣から成り立っていることに気づかされるし、習慣の変更が容易でないのはダイエットや禁煙の情報が尽きないことからも明らかだ。
では、「呪い」が悪いことかといえば、案外そんなこともない。おとぎ話にあるように、魔法使いの呪いを解くことはときに生きる意味となり、克服の暁には幸福が待っていたりする。現実の世界でも逆境に落ち込んだ人ほど、その先での跳躍はすごい。新年度を憂鬱な気持ちで迎える人もいるだろうが、呪いは破るためにあるのだと僕は思う。
とはいったものの、どうすれば「不二子ちゃんの呪い」は解けるだろう。確実な方法は、人々が「悩ましい」を「選べない」の意味では使わないようにしてしまうこと。「色っぽい」に限定するわけだ。そんなの無理だよ、とあなたは笑うかもしれない。しかし、あなたが次に「悩ましい」という言葉に接したときに峰不二子を想像してしまう可能性は低くないだろうし、僕と同じ呪いにかかってしまえば、決断を迫られる場面でも「悩ましい」とは言いにくくなるだろう。まずはそこからだ。
ご協力感謝します。
南日本新聞 南点 2010年3月31日掲載

中山智幸