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選挙とレモン



 僕の場合、酒より式典より、選挙で「成人」を実感した。初めての一票を投じる時に考えたのは、僕にとってのレモン汁は何か、ということだった。
 話は未成年時代に遡る。大学の夏休みで帰省中のある日、出口調査のバイト話が舞い込んできた。投票会場である小学校の前に二人一組で立ち、一時間ごとに決まった数だけサンプルを採る。簡単そうな割に日当が弾んでいたが、担当場所が遠く、原付きで一時間近い距離なのは困った。山間の小学校前に着くと、パートナーとなる同い年の男が先に来ていた。背が高く細身で、暑さもあってかぼんやりした顔つき。クリップボードを手に僕らは仕事に掛かった。周囲に民家は少なく畑ばかりなのに、人は途切れない。調査は一人一分とかからず、僕らは大半を日陰で涼んだ。午前の分を終えると、パートナーが「うちでメシ食わんね」と誘ってきた。彼はすぐ近くの住人だった。
 曾祖父の代から住んでいるという古い家屋に招かれ、おじゃまします、と告げると、「みんな畑ん出とる」と返された。軋む廊下を進み、食堂に通された。脚の細いテーブルには醤油とウスターソースとレモン果汁が置かれていた。レモン汁なんて使ったこともなければ売ってあることすら僕は知らず、使い途は唐揚げと紅茶しか浮かばなかった。自分の昼食は用意していたので、彼がラーメンを作る様子を眺めていた。完成した豚骨ラーメンに彼はレモン汁を盛大にかけた。驚くと同時に、この家でレモン汁は必需品なのだと理解した。
 午後の調査を僕は熱心にこなした。協力してくれる人の普段の暮らしを覗くように、この人の必需品は何だろうと考えた。労を厭わず選挙に来る理由のひとつは、その日常を守るためなのだろう。
 その晩の選挙速報の、当選者、落選者、双方を支える数字が校門前で接した人々を思い出させた。それが僕にとって政治を意識する原体験となった。

南日本新聞 南点 2010年1月20日掲載

母の輪郭



 英国人の教授に論文の書き方を教わった際、強調されたのは「結論を冒頭に置くこと」だった。日本人は結論を最後に配置する傾向があり、読む側の興味を持続させにくい。冒頭に述べた結論は読み手に疑問となり、答えを知りたい思いが読む推進力となる。故に結論は冒頭に。
 というわけで僕は、母に謝りたい。
 僕が中学生になった頃から、母は講演会の類に出掛けるようになった。芸能人、学者、登山家、音楽家。語り手は都度入れ替わり、催眠術でもかけられたみたいに母は決まって感銘を携え帰宅した。うちは共働きで、母も昼は外の世界で生きてるのだから刺激は多いはずなのに、どうしてわざわざ無縁の他人の言葉を聴きに行くのか。僕には理解できなかった。それ以上に釈然としなかったのは、聴いた話をそのまま僕らに披露することだった。誰某がこんなことを言っていた、とさも嬉しそうに。受け売りを耳にするたび僕は、「で、母さんの考えは何なのさ」と思った。多分、実際にそう言って責めたこともある。十代にも馴れてきた僕の世界は可塑性に富み、悲喜こもごものひとつひとつが新しい考えを、さも自分だけの思いつきのように授けてくれた。そして僕は「母には自分の考えが無い、あってもひどく薄いものだ」と決めつけた。
 今、三十代も半ばに差し掛かり、自分の考えや経験だけでは狭すぎて突破口どころか針の穴さえ見つけられない状況も多く、無縁の他人の言葉に救われることも少なくない。若い人の悩みに借り物の言葉で応じることもあり、そんなときには十代の自分が背後から睨んでるのを感じる。振り返って僕は問いたい。母が教えてくれた幾人もの言葉、考え方、それらから母という人をもっと深く知ることだってできたんじゃないか?
 フォードの創業者ヘンリー・フォードはこう言っている。「できる、と思うか、無理だ、と思うか。いずれにせよあなたは正しい」

南日本新聞 南点 2010年2月3日掲載

うまれでくるたて



 誰それに生まれ変わりたい、という愚痴をたまに耳にする。花や猫、千の風とかなら気にならないが、特定の人物、それも存命中の人名を挙げられると、どのタイミングで生まれ変わりたいのかが大問題になる。
 たとえば誰かが「ブラッド・ピットに生まれ変わりたい」と言ったとして、遥か未来でブラピの容姿、人格、才能を持って生まれたいのか、はたまた過去にさかのぼって今まさに生きているブラピとしての人生をイチから歩みたいのか。仮に前者だとして、別の時代で現代のブラピと同等の人生が保証されるわけでもない。ならばやはり後者か。しかし来世なのに過去というのは辻褄があわないじゃないか。
 ちょっとしたつぶやきにこうまで食いつかれたら発言者も困るだろうから、実際には詰問したりしない。
 僕自身は今のところ転生について願望はない。信じないとかではないし、興味はある。数年前に中国政府がチベットの高僧に向け「転生するなら事前に申請するように」とお達しを出したけれど、必要とあらば僕も一応の申請は出しておきたい。備考欄があれば、「誰に」ではなく「どんなふうに」生まれてきたいかは書くかもしれない。
 以前から宮沢賢治の「永訣の朝」が好きで、高校の教科書にも収録されていたのだけれど、時間の都合で危うく飛ばされそうになったときには国語教師に頼み込んで授業で採り上げてもらったほどだ。
(うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる)
 このくだりが、なにより強く、好きだった。考えてみれば今のこの生だって、誰かの、何かの生まれ変わりかもしれず、ならば来世を願うより今生を理想のものへ変えることが先で、来世の課題なんて自分が果てるときにようやく見えてくるものかもしれない。また自分として生まれてきたい、と思えたなら最高に幸せだ。それが今日を頑張る理由にもなりはしないだろうか。

南日本新聞 南点 2010年2月17日掲載

夜明けの立会人



 出産に立ち会うことは前から決めていた。東京から大分へ、陣痛の報せを受けて飛行機に乗るのでは間に合わないかもしれない。その覚悟はしていたが、あんな展開になるとは思いもしなかった。
 昨年の十月初旬、連絡を貰い飛行機に乗った。雨の中、午後六時に到着。間に合うどころか、それから十二時間、長い夜を過ごした。陣痛が来るたび妻の背中をさすった。妊婦さんが一人、また一人と分娩室へ入っていく。台風の夜は出産ラッシュになるのだという。ビデオカメラ片手に分娩室へ入る手術着姿の男性を見かけ、少し未来を想像した。妻の手を握り、応援する。そこからも長くかかるだろう。なにしろ初産だ。
 午前六時過ぎ。遂に妻も分娩室へ入った。僕も続こうとしたら「旦那さんは廊下で」とドアを閉められた。呆然としていると看護師が手術着を持ってきて、こう言った。「今、LLしかなくて、これ着て待っててね」彼女は足早に去り、僕は廊下で濃緑色の服を着た。見事にだぶだぶ。笑ってくれる相手もおらず、デジカメで自分を撮った。余計に空しくなる。
 さらに三十分ほど待っただろうか。分娩室の扉が開き「旦那さん!」と呼ばれた。「もう産まれるから!」驚く間もなく妻の横に立つ。先刻の比ではない妻の苦しみように無力さを痛感する僕に、看護師長が言葉をかけてきた。
「旦那さん、あの人に似てるね、チャミスルなんとかって言う韓国の」
「あの人ですよ、ほら!」と若い看護師が記憶を探りはじめ、まさかの談笑が始まった。チャン・ドンゴンですか? と言うべきか悩んだが、そんなことをすれば一生の不覚。妻や子どもにどう思われるか。「チャン・ドンゴン!」と誰かが答えてくれてほっとしたのも束の間、直後に初めての子が産まれた。小さな、小さな、女の子だった。みんなが笑うなか、ようやく、僕も笑った。娘だけが泣いていた。

南日本新聞 南点 2010年3月3日掲載

おじいちゃんは106・8歳



「ダイイング・メッセージ」といえばミステリー作品等で被害者がいまわの際に遺すヒントを指すけれど、僕の父方の祖父が遺したメッセージは「106・8歳」だった。とはいえ祖父は病院で穏やかに息を引き取ったし、そこに事件性は皆無。ただ、死の数日前に看護師から「おいくつですか」と質問されたとき、はっきりと答えたそうなのだ。「106・8歳」と。
 鹿児島の、山奥の火葬場で僕は姉からその話を聞かされた。祖父の享年は90にも達していなかった。「106はまだしも、テン、ハチって」と僕は笑った。祖父の酒好きを口実に従兄弟連中で通夜を飲み明かして、気分もまだ高揚していた。悲しみの少ない別れだった。
 「死んだのが6月8日だけん、それば予言したとかもよ」と姉は推理した。なるほど、と納得しかけたものの、揚げ足取りが得意な僕は「じゃあ『100』はなんだって話じゃん」と返した。
 燃え尽きるまでのあいだ、僕は火葬場周辺をひとりで散歩した。「100」の正体が見つからないかと足下を探し、背伸びして錦江湾を覗いた。唐湊の墓地へ移動してからも、親戚の家で再び酒盛りの夜を迎えてからも、東京へ戻ってからも、僕は探った。答えはどこにも見つからず、謎はのっぺらぼうのまま、じっとこちらを見るばかり。やがて、振り出しから辿り直そうと決心して、祖父の死から始まる短い小説を書いた。そいつを何度も書き直した。
 小説の新人賞を獲ったとき、受賞の言葉に「ふたりの祖父について、いつか書きたい」と僕は記した。母方の祖父についてはまた別の理由があり、父方の祖父については前述の出来事がきっかけにある。どちらも未だ果たせてないが、忘れてもいない。
「ダイイング・メッセージ」は和製英語だそうで、直訳すれば「死にゆく伝言」となるだろうか。僕は祖父の「106・8歳」を、このまま死なせたくはない。

南日本新聞 南点 2010年3月17日


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