目次
紅は、失恋旅行に発つ~十一月十五日 土曜日 午前十時
ミスター誘拐とその愛人は、不倫旅行中事故にあう~十一月十五日 土曜日 午後十二時
紅は、バスジャック中誘拐される~十一月十五日 土曜日 午後十二時三十分
美登里は、夫が誘拐されたあと、豪勢なディナーを食べる~十一月十五日 土曜日 午後五時
紅は、ウサギ小屋で目を覚ます~十一月十六日 日曜日 午前一時
美登里は、虫の好かない誘拐保険屋に会う~十一月十六日 日曜日 午後二時
杏子は、嫌いなタイプの女と朝食をとる~十一月十六日 日曜日 午後三時
人質たちは、ゲリラ主催の人質オリエンテーションを受ける~十一月十六日 日曜日 午後四時
美登里は、警察の被害家族合同説明会で失望する~十一月十七日 月曜日 午前九時
紅は、杏子に自信を奪われる~十一月十七日 月曜日 午後五時三十分
フリーの誘拐コンサルタントは、庶民の依頼を引き受ける~十一月十八日 火曜日 午前九時
紅は、ゲリラに、杏子に、聡史に、腹を立てる~十一月十八日 火曜日 午後六時
家族チーム結成~十一月十九日 水曜日 午後二時
家族チームは、役割分担と警察への背信を決める~十一月十九日 水曜日 午後三時
柏木夫人の記者会見が報道される~十一月十九日 水曜日 午後十時
NLFからの脅迫電話、警察への嘘の電話~十一月十九日 水曜日 午後十時三十分
人質たちは、深夜に散歩する~十一月二十日 木曜日 午前二時
家族チームは、人質が自力で脱出するタイプかどうかを考える~十一月二十日 木曜日 午後六時
家族チームは、人質の生存確認の質問をする~十一月二十日 木曜日 午後八時
人質たちは、縁起のよい質問に答える~十一月二十一日 金曜日 午前一時
家族チームは、身代金の相場金額を考える~十一月二十一日 金曜日 午後八時
人質たちは、柏木の誘拐保険のことを聞く~十一月二十二日 土曜日 午前二時
家族チームは、早めに今後の方向を決める~十一月二十二日 土曜日 午後九時
紅は、協力者が誰なのかを知る~十一月二十三日 日曜日 午前三時
美登里は、犯人からのプレゼントを受け取る~十一月二十三日 日曜日 午前六時五分
人質たちは、人質の演技をする~十一月二十三日 日曜日 午後三時
家族チームは、調子に乗る~十一月二十三日 日曜日 午後八時
紅は、辻に聡史のことを伝える~十一月二十四日 月曜日 午前二時
紅と杏子のあいだに、女の友情が生まれる~十一月二十四日 月曜日 午前二時二〇分
誘拐コンサルタントは、贅沢な買い物をした美登里を注意する~十一月二十四日 月曜日 午後七時
紅は、聡史に失望する~十一月二十五日 火曜日 午前八時
誘拐コンサルタントは、逃げる静子を捕まえる~十一月二十五日 火曜日 午後二時
聡史は、のぞき趣味の男になる~十一月二十五日 火曜日 午後二時
誘拐コンサルタントは、静子から人質にされた孫の話を聞く~十一月二十五日 火曜日 午後三時
人質たちは、無力な雨の夜を過ごす~十一月二十五日 火曜日 午後十時
誘拐コンサルタントは、潤のその後について悲観的な検討をする~十一月二十六日 水曜日 午後一時
美登里は、娘と自分のために踏ん張ることを決心する~十一月二十六日 水曜日 午後五時
家族チームに、謎のメッセンジャーからの伝言と憔悴した大塚が加わる~十一月二十六日 水曜日 午後七時
家族チームから、青山が戦線離脱する~十一月二十六日 水曜日 午後八時
ミスター誘拐の衝撃映像が放映される~十一月二十七日 木曜日 午後五時
正志は江崎に感謝し、江崎は不安を隠す~十一月二十七日 木曜日 午後八時
人質たちは、新聞音読を録音する~十一月二十八日 金曜日 午前二時
江崎は、冷ややかな青山に、音声データの分析を依頼する~十一月二十八日 金曜日 午前六時
紅は、聡史にゲリラのパソコンを調べるよう頼む~十一月二十八日 金曜日 午前八時
聡史は捕まる~十一月二十八日 金曜日 午後二時
家族チームは、身代金の送金をNLFに伝える~十一月二十八日 金曜日 午後七時
人質たちは、聡史を心配する~十一月二十九日 土曜日 午前二時
家族チームは、終わりを予感する~十一月二十九日 土曜日 午後八時
辻は、孫と悲しい再会をする~十一月三十日 日曜日 午前十時
美登里は、夫からの電話を受ける~十一月三十日 日曜日 午後十二時三十分
江崎は、青山に本心を伝える~十一月三十日 日曜日 午後十二時四十五分
紅と杏子は逃げようとして、失敗する~十一月三十日 日曜日 午後一時
誘拐コンサルタントは、NLFの裏シナリオを考える~十一月三十日 日曜日 午後三時
家族チームは、希望をつなぐ~十一月三十日 日曜日 午後七時
紅と杏子は、金網を削る~十二月一日 月曜日 午後十二時
トロイの木馬~十二月一日 月曜日 午後二時
人質たちは、爆弾を見つける~十二月一日 月曜日 午後五時
家族チームの逮捕か、人質の見殺しか~十二月一日 月曜日 午後六時
紅は、和江に電話する~十二月一日 月曜日 午後六時
NLFの裏シナリオを突き止める~十二月一日 月曜日 午後六時三〇分
いじけた爆弾処理人~十二月一日 月曜日 午後六時四十五分
山荘爆発~十二月一日 月曜日 午後八時三〇分
山荘崩落~十二月一日 月曜日 午後八時四十五分
エピローグ~十二月六日 土曜日
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紅は、失恋旅行に発つ~十一月十五日 土曜日 午前十時

         紅は、失恋旅行に発つ~十一月十五日(土)午前十時

 

「これっていわゆる失恋旅行って言うのかなあ」
 越川紅(べに)は最大限に倒した高速バスのリクライニングシートに身をうずめて呟いた。ウインドウの外を流れていく新宿の街は、デパートの開店時刻をすぎたばかりなのに、休日を楽しもうとする人の波が動き始めている。温暖化で十一月に入ってようやく訪れた短い秋を楽しもうと街にくり出す人たちは、休日を満喫するのだろう。しかしほんの十分前までの紅は、街をぶらつく人たちよりもっと楽しい休日をすごそうと舞い上がっていたのだ――聡史との初めての旅行に出かけるところだったのだから。
 しかし聡史が座るはずだった隣のシートは今、荷物置き場となり、ピンクのエナメル地のボストンバッグが虚しく置かれている。バッグの中に入っているセクシーランジェリーを考えると、自分を呪いたくなる。本来なら赤と黒の新品ゴージャスなブラとショーツとベビードールの三点セットが、ミステリアスな大人の女の自分と最高にロマンチックな夜を演出してくれるはずだった。でもそれは見せる相手がいてこそだ。温泉宿に女一人で、やる気まんまんの勝負下着を身につけるかと思うと、苦笑いも引きつる。
 こんな予定変更は考えたこともなかった。出発直前の九時五十分を過ぎても、聡史はまだ来なかった。紅はシートの上でじっとしていられず、出発を待つバスから降りた。カンカンと音を立ててステップを降り、アスファルトに細いヒールを下ろしたとき、紅は完全に腹を立てていた。荷物があるのだから、家まで迎えに来てくれたっていいはずなのに、バスターミナルでの待ち合わせに譲歩したのだ。自分が聡史にどれだけ我慢しているのか、わかっているのだろうか。
 そのとき携帯電話が鳴った――聡史からだった。こんな日に遅刻するつもりならいい加減にしてほしい。自分に謝ったってバスは待っててくれないのだから――紅が電話に出ると、聡史はいきなり言った。
「ごめん、今日行けなくなった」
「え?」
 紅には一瞬何のことかわからなかった。聡史はいやな用事をさっさと片づけてしまおうとするかのように、早口で続けた。
「旅行、行けなくなったから」
「ちょっと待って。今の意味不明……」
「ごめん」
 それだけ言うと、聡史は電話を切った。紅は呆然と立ちすくんだ。何の説明もなく、一方的に電話一本で出発当日に旅行をキャンセルされるなんてありえない。紅は怒りで顔が赤くなるのを感じた。すぐに電話をかけ直すが、聡史の携帯は電源を切られていた。そのとき紅の頭の中に浮かんだのは、聡史は逃げたのだということだった。怒りの熱風が胸中を吹き荒れた――このままフェードアウトするつもりなら絶対に許さないから――紅はつながらない電話を何度もかけ続けた。
「あのう、お客さま、そろそろ出発しますけど……」
 温厚そうなバスの運転手が恐れるように声をかけてきた。それがいっそう紅の気に障り、怒りの頂点に達して吠えた。
「乗りますっ!」
 紅は運転手を睨みつけると、細いヒールでステップをガンガン踏み鳴らし、シートにどすんと腰を下ろした。直後、アナウンスが流れる。
「本日はご乗車ありがとうございます。河原崎温泉行き、発車いたします」
 バスはゆっくりと動き出した。そのときの紅は、せめて温泉とおいしい料理を満喫しなければ気がおさまらないと思っただけだった。つきあっている男からこんな仕打ちを受けたのだから、世界中の女が紅の選択に賛成してくれるだろう。しかしそんな紅が「来るんじゃなかった」と心の中でうめくのは、それから三時間後のこととなる。

 


ミスター誘拐とその愛人は、不倫旅行中事故にあう~十一月十五日 土曜日 午後十二時

   ミスター誘拐とその愛人は、不倫旅行中事故にあう~十一月十五日(土)午後十二時

 

 人間とはいつでもどんなときでも後悔する生き物だ。やっぱり別の選択があったのではないか、あっちの道を進んだほうがよかったのではないかと、隙あらば後悔のネタを探す。そのネタはレストランでオーダーし終えたばかりのランチメニューから、挙式をすませた直後の配偶者まで、尽きることがない。後悔とは人間の習性なのだろう。
 このときの大塚杏子はやわらかな微笑を浮かべながら、多くの人間の習性にもれず、大いに後悔していたが、そのネタはかなり深刻だった。隣の運転席に座っている柏木晴信と隠れ宿温泉不倫旅行に向かっているからではない。どう見ても若葉マークとしか思えない柏木の運転で、山道を走っているからだ。ここまで事故にあっていないのは、後続車と対向車が少なかったからである。来るんじゃなかったというのが、杏子の単純明快かつ深刻な後悔だった。
 車がカーブを曲がりきれずに何度目か反対車線にはみ出したとき、杏子は決心した。顔色を窺うために小首をかしげ、気遣うようなやさしい声で言う。
「ねえ晴信さん、ちょっとお疲れなんじゃないかしら。昨夜も夜のニュース番組に出演されてたでしょ。それで、あの、よかったら、わたしが運転を……キャーッ!」
 眼前に崖が迫った。急ブレーキがかかり、シートベルトが杏子の腹に食いこむ。杏子は頭部を突き出した前傾姿勢で、目を大きく見開き、荒い呼吸をくり返した。続く言葉はもう出てこない。
 隣では柏木が、同じく激しい呼吸をしていた。髪を乱れさせ、額に脂汗をにじませ、目を血走らせて怒鳴る。
「テレビ出演くらいで疲れたりするか! おまえのせいだ! おまえが話しかけるから、運転に集中できないんだ!」
 それから柏木は車をバックさせると、乱暴にアクセルを踏んだ。車は急発進して、杏子の体はシートに押しつけられる。杏子はもう一度頼んでみようかと思ったが、男の運転に口出しをしてはいけないという鉄則を思い出し、それを押し殺した。柏木が怒鳴ったとき顔にかけられた唾を、震える指先で拭ってから、潤んだ瞳で柏木を見つめる。色気で柏木を説得しようとしたのではない。死への恐怖からだ。しかし柏木は肩を怒らせたままハンドルを握りしめており、杏子のほうを見ようともなかった。杏子は柏木がこれほどまでに運転下手だということを知らなかった。知っていたら、決してドライブ旅行をおねだりしなかった。しかしテレビで活躍中のミスター誘拐こと柏木晴信が、免許取消申請をしたくなるほど運転が下手だとは、誰が考えるだろうか。
 ゲリラによる誘拐事件が大きな社会問題となっている現在、誘拐評論家である柏木はテレビで人気のコメンテーターだ。日に焼けた肌、白く並びのよい歯、整えられた眉、二重の目は意味があろうとなかろうといつでもきらきらと輝き、四十三歳になっても爽やかなスポーツマンのような風貌を演出した。さらに「誘拐犯を恐れてはいけない」「犯人には毅然とした態度で臨むべきだ」という強気の発言が、杏子を含めたお茶の間の女性たちには頼もしく映り、絶大な人気を得ていた。もっとも杏子の夫である和己を含めた男性たちからは「こういうタイプの男は抜け目ない詐欺師だ」という評判だったが。
 杏子が柏木と出会ったのは、今年の夏の昼下がり、ショッピングの帰りに一台のタクシーを二人が同時に呼び止めたという偶然からだった。そんなきっかけで恋が始まるなんてドラマの中だけだと思われがちだが、杏子という女はそんなメロドラマのような恋愛を次々と現実のものにしてきた女だった。艶のあるロングヘア、上質かつ胸元がほどよく開いたワンピース、真っ白なレースの日傘、そして色白できめの細かい肌はいつでもしっとりと潤いながらも汗をかかない。清楚さと華やかさ、そして内に秘めた色気をあわせ持つ杏子は、四十歳になっていっそう癒し系マドンナと呼ぶにふさわしくなり、レストランでトイレに立つときでも男たちの視線を引きつけていた。
 杏子は運転中の柏木の姿を見て、彼とのつきあいを考えるべき時期かもしれないと思い始めていた。もちろん、運転下手な男は魅力半減ということも大きかったが、それを自分のせいにされたことがいちばんの理由だった。自分の行動に責任をとれない男は人間性に問題があるに違いない。
 もし車中に蚊が一匹でもまぎれこんだら大惨事になるだろうという緊迫感の中、車は前後左右に揺れながら進んだ。杏子は柏木との心中を回避すべく、どうやってこの車から降りようかと思案していると、視界の端にふとバックミラーが入った。ぎょっとしてうしろを振り向き、杏子は叫ぶ。
「晴信さん、うしろのトランクから煙が出てる!」
「話しかけるな!」
「でもおかしいわ、煙よ! 止めて!」
「うるさい! そんなにぎゃあぎゃあ言うなら止めてやる!」
 柏木はカーブを曲がりきったところで、突然急ブレーキをかけ、またも急停車した。杏子はあわてて言った。
「ここは道の真ん中よ! 路肩に寄せて!」
「本当に注文の多い女だな! 自分がどれだけわがままを言っているかわかっているのか? 止めろというから止めてやったのに、今度は止める位置が気に入らないときた! ほんの数分黙っていることすらできない女の機嫌をとってられるか! もうやめだやめだ、旅行なんて!」
 柏木はシートベルトを外し、車の外に飛び出した。杏子の脳裏に一瞬、このまま車を奪って東京に帰ってしまおうかという考えがよぎったが、さすがにそれはできなかった。しかし杏子はこのとき情をかけたことを、またも深く後悔することとなる。杏子もシートベルトを外し、キーをとると、柏木を追って外に出た。
「ねえ、ごめんなさい。心配なのよ、あなたが……」
「この車は最新式のボディガード仕様車なんだよ! トランクの煙は誘拐犯を欺くための装置がちょっと故障しただけだ! それを大ごとみたいに騒ぎ立てやがって!」
 柏木は杏子の言葉に耳を貸す気はないようだったが、杏子が差し出した車のキーは奪いとった。息巻いてトランクを開けると、中から煙があふれ出てくる。柏木は咳きこみ、顔の前で手を左右に振って、煙を散らしながら叫んだ。
「何だ、この煙は! 何がボディガード車だ、このポンコツが! ふざけやがって!」
 〇〇七映画に出てくるような車なのだと、愛車を自慢の種にしていた男の言葉とは思えなかった。煙の中に手を突っこんだ柏木は、つかんだものを引き上げて、目を見開いた。
「何だ、これは? 発煙筒に目覚まし時計がついている……」
 そのとき車が近づいてくる音がした。杏子は叫んだ。
「晴信さん、車よ! うしろ!」
 もはや車を移動させる時間はない。杏子は車から急いで離れ、柏木もとっさにあとを追った。後続車は何も知らずに煙の中に突っこんできて、急ブレーキをかける音と同時に激突音が響く。杏子は青ざめた。
「どうしよう……事故よ」
「大丈夫だ、自動車保険は使わない。ぶつけた向こうも前方不注意なんだから、示談で済ませて、他言しないよう口止め料も積んでやる。これで俺たちの関係もばれない。それなら、おまえも安心だろう」
「厭味を言っている場合じゃないでしょ! 人が怪我したかもしれないのよ!」
 杏子はついに柏木に見切りをつけて、後続車にきびきびと駆け寄った。エアバッグに圧迫された運転席と助手席の男が、ドアを開けて、這い出てくる。杏子は白いレースのハンカチを差し出しながら、腰を屈めて声をかけた。
「大丈夫ですか」
 煙を吸いこんだらしく、二人の男は苦しそうにむせ始める。
「歩けるかしら。さあ、こちらへいらして」
 杏子は二人の男を煙のない反対車線側のガードレール寄りに誘導した。柏木は被害者を助ける気もないらしく、煙のおさまった愛車のトランクを調べていた。
 運転席側から出てきたのはこけた頬をした三十代の男だった。よれよれのシャツとすりきれたジャケットを着ている。眼鏡を外し、衝突のショックで曲がったらしい黒いフレームを伸ばそうとしていた。助手席側の男はガードレールに掴まり、上体を折り曲げて、深呼吸をくり返していた。杏子は言った。
「お怪我はございません?」
 男は上体を起こすと、げじげじ眉をつり上げ、三白眼で杏子を睨んだ。二メートルはあろうかというほど背が高く、太い首とがっしりした肩がつながっている。杏子は巨漢に見下ろされ、思わずあとずさった。

 男は野太い声で怒鳴った。
「トランクから煙が出たからって、急カーブの山道のど真ん中に車を止める奴があるか! 他の車の迷惑にならない場所に移動してから停車するのは常識だろう! 道路交通法を守れないなら、車に乗るな!」
「ご、ごめんなさい。お、おっしゃるとおりだと思うわ……」
 この体格なら怪我があってもたいしたことはないだろうという安堵感半分、やくざみたいに怖い相手にぶつかってしまったという恐怖感半分で同意した。
 巨漢は怒鳴った。
「おいスパイダーマン、女を捕まえろ!」
 スパイダーマンと呼ばれた運転席の男は眼鏡をかけ直すと、尻ポケットから手錠を出した。杏子は震え上がる。
「あなたたち、警察なの?」
 壁など決して登れないだろうというひよわそうな体型のスパイダーマンは「自分たちの目的は日本の平和だ」とだけ言った。それから杏子の腕をつかむと、後ろ手に手錠をかける。不倫は日本の公序良俗のためにはまずかったのかもしれないと、杏子はまた後悔した。
 巨漢は柏木のもとに突進した。柏木はテレビ向けの洗練された物腰を失い、トランクを指さしながら喚く。
「警察ならちょうどいい! 事故は陰謀だ! 見てくれ、発煙筒にタイマーがついている! そのせいで煙が出て、車を止めたんだ! 不可抗力だ!」
 巨漢は鼻の穴をふくらませ、柏木の手首に手錠を振り下ろす。金属音とともに、柏木の腕は固定された。
 何かがおかしいと杏子は察した。それから空気を読んで、逆らわないほうがいいと判断し、静観を決めた。しかしまったく空気を読めない柏木は、口から唾を飛ばしながら喚いた。
「いきなり逮捕か? だから警察は横暴だって嫌われるんだよ! 俺が誰だかわかっているのか? 柏木晴信だぞ! テレビでこの不当逮捕のことは全部喋ってやるからな! 人権派のジャーナリストやニュースキャスターに言って特集番組を作ってやる! 無実の男を逮捕したって叩かせてやる! そうすりゃおまえらなんか終わりだ!」
 スパイダーマンが冷静に口を開く。
「どうする、ランボー?」
「非常識な馬鹿のせいで、車をつぶされた。市民の協力を要請するしかない」
「誰が非常識な馬鹿だ! 何も調べず、逮捕する警察のほうが非常識な馬鹿だろうが!」
「調べる必要はない。タイマーつき発煙筒をトランクに入れたのは自分だ」
 柏木は目をぱちくりとさせた。ランボーは柏木の口にガムテープを貼ってから、なぜ自分がここまで説明しなければならないのだというように言った。
「自分たちは警察じゃなくゲリラだ。そしておまえたち二人は今から人質だ」


紅は、バスジャック中誘拐される~十一月十五日 土曜日 午後十二時三十分

   紅は、バスジャック中誘拐される~十一月十五日(土)午後十二時三十分

 

 結局聡史への電話はつながらなかった。紅は恨みメールを入れておこうと思いつき、ネイルアートをほどこした爪が今にも折れそうな勢いで、千字に及ぶメールを送信した。しかしそのあとすることがなくなり、バスのシートに沈んでデコ電を睨んだ――ピンクのラインストーンがキラキラ光るマイケータイ。真ん中に大きなハートを貼ったときには、これで恋愛運アップになると喜んだのに、ご利益はなかった。帰ったらケータイを買い替えよう。
 紅の脳裏には、失敗に終わった過去の恋愛群が浮かんできた。ジャニーズ系の温、スポーツマン系の雅寛、エリート系の宏樹、この三人がマイ三大イケメンだった。それからその他もろもろ。紅はファッション雑誌を研究し、手間暇かけてヘアメイクや服をととのえ、自分を可愛いめOLに作り上げていたから、合コンでは六割の確率で声をかけられた。それから恋愛が始まるが、いつも長続きせず、平均四ヶ月で関係は終わった。そして今日また三ヶ月で聡史に逃げられて、失恋記録更新というわけだ。失恋はどんなに回数を重ねても、慣れることはない。回数を重ねるほど、傷は深くなる。自分を責めたくなる――どうして嫌われるの? あたしの何がいけないの? あたしってそんなに魅力ない? すごくがんばって女磨きをしているのに、運命の人はいないの?
 聡史との別れの予感もあった。最近の聡史はつまらなさそうな表情を隠さなくなったし、デートの帰り、送ろうと言ってくれなくなっていた。つきあい始めて三ヶ月は世間的に微妙な時期と言われるが、十一月半ばに入っており、別の意味でも微妙な時期だった。ここで別れ、すぐ次の男が見つからなかったら、二十五歳のクリスマスを一人で過ごす羽目になる。そんな寂しい女にはなりたくなかった。そこで紅は巻き返しを図るべく、押せ押せ作戦で聡史に旅行に誘った。聡史が承諾してくれたとき、紅はこれで聡史をつなぎとめられると安堵した。だから紅は本当はリッチなホテルに泊まりたかったが、会社で若年寄と呼ばれる聡史に合わせて、G県内のひなびた温泉宿に譲歩した。聡史が運転免許を持っていないと言うので、車ではなく高速バスにまた譲歩した。それは仕方がないと思っていた。
 そんなことを考えていたとき、突然バスが急停車し、紅はその勢いで前の座席に額をぶつけてしまった。額を押さえながら、何が起きたのか確かめようと首を伸ばす。

 車内アナウンスが入った。
「ご乗車中のお客様にご案内申し上げます。ただいま前方に……」
 運転手は突然言葉を呑みこんだ。乗車口のドアが開く。低い男の声が聞こえた。
「緊急通報したら、殺す」
 運転手はアナウンスのマイクを置いて、両手を上げた。青いマスクで頭部を覆った男が太い首を曲げて車内に押し入ってくる。右手には自動小銃が握られており、銃口は客のほうを向いている。首を伸ばしていた紅は、マスクの穴にある鋭い目と、視線を合わせてしまった。紅は授業中に教師の視線を避けるように俯き、座席に腰を下ろした。
 そのうしろから手錠をかけられた男女、そしてもう一人レッドマスクを眼鏡の上からかぶり、自動小銃を手にした男が続く――バスジャックだ。
 車内は騒然となった。悲鳴を上げる者、シートに身を隠そうとする者、あわてて通路に飛び出したが、すぐに思い直して自分の座席に戻る者。しかし多くの乗客のとった行動は無抵抗だった。抵抗して犯人を怒らせ、わが身を危険にさらすよりは、無抵抗で生き延びようという姿勢に、事なかれ主義の日本人は即一致する。車内はすぐに静かになった。

 ブルーマスクの男は言った。
「全員携帯の電源を切ってから出せ。もし隠しているのがわかったら、その場で殺す」
 レッドマスクがビニール袋を手に、通路の前から順に左右の座席から差し出された携帯電話を回収して回った。紅も涙を呑んで、デコ電とお別れした。
 ブルーマスクは銃口を揺らして、手錠をかけられた男女を誘導した。二人はちょうど空席だった、通路を挟んで紅と同じ並びのシートに座らされる。紅は二人を見て、思わず声を上げた。
「ミスター誘拐!」
 有名人、しかもよりによってあのミスター誘拐が誘拐されている。車内が一瞬だけざわついた。ブルーマスクの男がじろりと紅を見る。紅はあわてて俯いた。

 ブルーマスクの男は運転手に向かって言った。
「出せ」
 運転手はすぐにバスを動かした。ブルーマスクの男は、次に乗客たちに命じた。
「頭を伏せてろ。窓の外を見るな。少しでも頭を上げたら殺す」
 従順な乗客たちは幼稚園のおゆうぎのごとく一斉に頭を伏せた。これで外は見えなくなり、自分たちがどこにいるのか確認することはできなくなる。聞こえるのはブルーマスクの男のくぐもった声だけで、ときおり「右折」「左折」と運転手に指示を出す声が聞こえた。
 紅は頭を下げたまま状況を考えて、少し気持ちが落ち着いてきた。なぜならミスター誘拐の姿を見たからだ。柏木晴信は誘拐評論家だし、テレビのコメントからはスーパーヒーローぶりがにじみ出ていた。たとえ今は囚われの身だとしても、彼ならきっと脱出方法を考えているはずだし、乗客たちの力になってくれるだろう。口のガムテープを引き剥がして犯人たちを説得するとか、銃を奪って犯人を捕まえることくらい簡単かもしれない。
 紅は期待をふくらませて、柏木が動くのをじりじりと待った。長い時間が過ぎた気がする。昼食をとっていないのに、腹もすかない。時間の感覚がたぶん狂ったのだろう。それでも柏木は動かなかった――きっとチャンスを待っているのだ。すべてミスター誘拐に任せておけばいい。
 そのとき通路に立っていたブルーマスクが運転席に向かって足早に歩いていった。前方で何か異変があったようだ――チャンス到来、ミスター誘拐! ――紅は心の中でエールを送ったが、柏木は動かなかった。バスが減速し、運転手席付近で犯人二人と運転手が何やら話し合っている。
「どうします?」
「うろたえるな。突っこめ」
「む、無理ですよ! 突破してもあとが続きません! バスがパトカーを振り切れるわけし、防弾ガラスじゃないし……」
「がたがた言うな!」
 紅がパトカーという言葉に希望を持ったとき、ブルーマスクは車内マイクを使って言った。
「検問だ」
 乗客たちが期待と不安に、一斉にごくりと唾を飲みこむのがわかる。現在の日本では、検問は至るところで行なわれている。わずか五年間で日本の治安は急激に悪化して、こういうゲリラが横行する国になったからだ。政治や社会問題にまったく興味がない紅でも、これくらいは知っている。

 ブルーマスクは続けた。
「自分たちは日本の平和のために、市民の協力を要請する。自分たちの言うとおりにすれば、数時間以内には罪のない市民を解放すると約束する。もし協力を拒否すると言うなら、平和を阻止する体制側的行動と見なし、全員射殺する。協力を拒否する者は今ここで申し出てもらおう」
 乗客たちからは何の声も上がらなかった。バスは徐行運転となる。男のこの言葉で乗客たちは気づいた――ゲリラたちの狙いは自分たちではないことに。ということは、彼らの狙いはミスター誘拐だけで、このバスは逃亡に利用されているだけなのだ。ゲリラは原則として貧しい人たちの味方だから、狙うのは金持ちだけだ。休日に高速バスを使って温泉旅行に行く庶民を金持ちだとは、ゲリラたちも思わないだろう。逆らわなければ、庶民は安全に解放され、秋の紅葉と露天風呂を楽しめる。「バスジャック、怖かったねー」「本物のゲリラ、初めて見ちゃった」とおしゃべりしながら、酒を飲むこともできるだろう。
 ブルーマスクが言った。
「市民の協力に感謝する。全員頭を上げろ。おかしな真似はするな。ちょっとでもおかしな真似をすれば、殺す」
 乗客たちは素直に頭を上げた。ブルーマスクが軽く顎をしゃくると、レッドマスクは通路を後部座席に向かって歩いていった。前列から三番目の紅は、ゲリラの一人が視界から消えて、少し気が楽になった。自動小銃が目の前をちらつかないだけでも気が休まる。
 しかしブルーマスクは紅のほうにまっすぐ向かってきた。紅のバッグを足元に下ろし、隣にどっかりと座る。紅は悲鳴を上げそうになったが、ぐっとこらえた。
 ゲリラは右手で自動小銃を持ち、左手だけで青いマスクを引っ張り、頭部から外した。紅は好奇心に駆られ、男のほうを見た。見てしまった。顔の輪郭は見事な四角で、鼻は団子型で、鼻の穴が大きい。そしてひさしのような太い眉とその下の三白眼。体型といい顔つきといい特徴が多く、似顔絵を描きやすそうだと紅は思った――これなら解放後に警察に協力できる。
 男はマスクを革ジャンパーのポケットに押しこみ、膝に自動小銃を置くと、紅のボストンバッグをその上に置いて、通路から見えないように隠した。銃口を柏木たちのほうに向け、引き金に指をかけて言った。
「おまえらは俯いて、寝たふりしてろ」
 柏木とその隣の女はすぐに俯いた。紅はその様子を見て、がっかりした。
 バスが止まった。乗車口のドアが開き、たれ目で若い制服姿の警官が明るく声をかけてきた。
「検問にご協力お願いしまーす」
 警察はサービス業なのに愛想が悪いという国民の声を受けたせいか、警官はさわやかな笑顔をふりまいた。運転手が尋ねる。
「あの、何か事件でも……あったんですか」
「いえ、抜き打ち検問でありまーす。異常ないですかー」
「ないですよ」
「観光バスですねー?」
「高速バスです。新宿南口発河原崎行き」
「免許証と許可証お願いしまーす」
 運転手は言われたとおりに指示された二枚のカードを提示した。警官は何の疑問も持たず、菓子箱サイズのコンピュータにカードを挿入する。ピッという音がして、カードが抜きとられると、すぐにカードを返された。これは検問記録として数日間残され、異常がなければデータ削除されることになっている。
 乗客たちは運転手と警官のやりとりをぎらぎらした目で見つめていた。異常を訴える者はいなかったが、内心では誰もがこの警官に異常を気づいてもらえないかと期待していた。警官はステップを二段だけ上がると、首を伸ばして車内を見渡した。乗客たちは異様なほど息をひそめている。さらにどう見ても凶悪犯というゲリラの顔も見たはずだ。しかし警官は快活に言った。
「ハイ、オッケーでーす!」
 何がオッケーなのだ、休日の温泉地行きのバスの中で、誰一人笑わず喋らずビールを飲まずなのだから、どう見ても異常じゃないかと紅は憤った。しかしか弱い女の子が自動小銃つきゲリラの隣ではなす術もない。警官は運転手のほうを向いて言った。
「トランクの中はお客さんの荷物だけですよねー?」
「そうです」
「じゃあ行っていいですよー。安全運転よろしくお願いしまーす。発車オーライ!」
 カードデータを読みとった時点で検問作業は終わったも同然なのか、若い警官はスタスタとステップを降り、ドアは彼の背後でパンッと閉まった。そのとき車内に流れた空気は、何ごともなくやり過ごした安堵感、ゲリラに気づいてくれなかった警官への期待はずれと怒りが混じり合った、複雑なものだった。そう言えば警官の質が低下したと、ニュースで報道されていたことを紅は思い出した。犯罪が増加し、警官の数を増やしたが、訓練や待遇の面で追いつかず、業務に支障が出ているとか何とか。それを補うために機械化を進めているとか何とか。
 バスは再び走り出した。紅は、このゲリラが自分の隣の席から立ち上がってどこかに行ってくれることを願った。警察に似顔絵の協力をする気は失せていたし、もはや柏木にも期待していなかった。
 しばらくすると、ゲリラはポケットから携帯電話を出し、こそこそと電話をかけ始めた。
「こちらランボー。予定外のことが起きた。ターゲットは予定どおり捕獲したが、車が事故にあって、現在バスジャックをしている。警察には追われていない。乗り換えの車が必要だ。司令部に手配を頼んでくれ。連絡を待つ」
 どうやらこの男は乱暴という名前らしい――何てぴったりなんだろう。ちょっとアクセントが変だけど。

 乱暴は電話を切ると、再びマスクをかぶって、席を立った。紅の緊張が一気に緩む。乱暴は別の車の手配をした。検問に協力したら乗客を解放すると言っていたのは、嘘ではなかったのだ。まもなくゲリラと柏木は別の車に乗り換えられ、自分たちは解放される。紅は警察や柏木よりも、乱暴に期待したほうがよさそうだと思った。
 乗客たちは再び窓の外を見ないように、頭を伏せさせられた。車体の揺れがゆるくなり、どうやら街中に入ったようだった。乗客たちは静かに耐えていた。終わりが近づいてきたと思えば、異常なドライブも我慢できる。トイレに行きたいと訴える者さえいなかった。
 携帯の着信音が流れ、乱暴は電話に出た。
「わかった」
 それだけ言うと、電話を切った。全身を耳にして、電話を盗み聞きしようとしていた紅は、拍子抜けした。しかし先ほどの電話で車を頼み、今回は短い「わかった」という返事なのだから、手配がうまくいったということだ。紅はもう少しで解放されるのだ、我慢我慢と、自分に言い聞かせた。
 足音がした。前方にいた乱暴がこちらに向かってきた。紅はわずかに頭を上げて、様子を窺った。乱暴は手にハサミを持っている。紅はどきりとした――まさかここでミスター誘拐を刺し殺すつもりだろうか――乱暴はハサミを振りかざす。柏木は目に涙をためて、ガムテープの奥でのどを鳴らした。紅は思わず目をつむる。じゃきじゃきという音がした。目を開いてみると、乱暴は柏木と女の髪をひと房ずつ切りとっていた。それからぐるりと振り向くと、紅に向かってきた。紅は上体をがばっと起こし、声を上げる。
「何するの?」
「髪を切る」
「嘘でしょ、やめてよ! 今日の巻きはカンペキに成功したんだから!」
「いやなら死ね」
 ハサミの刃がきらめいた。紅は半泣きで言った。
「何であたしの髪を切るの! あたしは人質じゃないでしょ!」
 紅は興奮して喚いた。乱暴は汚い顔を近づけて、紅の髪をつかむと、柏木たちと同じようにひと房切りとった。紅の目からぽろっと涙がこぼれた――最悪すぎる。聡史にふられて、旅行を台無しにされて、完璧な髪まで切られるなんて。来るんじゃなかった。
「待ちなさい!」
 後部座席のほうから、男の声がした。レッドマスクが「勝手に立つな!」と自動小銃を向けて威嚇した。ゲリラに屈せず立ち上がる勇気ある男もいたのだ。紅は指先で涙を拭ってから、白馬の王子様を見ようと座席から身を乗り出した。絶体絶命のときに自分を助けてくれる人こそ、きっと運命の人だ。彼に会うために、自分はこの危険なバスに乗りこんだのだ。
 白馬の王子様は顔に深い皺が刻まれた、痩せた老人だった。白いシャツにグレーのジャケットを着て、胸にはループタイが下がっている。頭ははげて、背が縮んだのか小柄だった。紅の目から滝のような涙が流れた。つけまつ毛がとれそうだ。

 老人は毅然として言った。
「その娘さんを放しなさい。人質にするつもりなら、やめなさい」
「てめえ、誰が立っていいと言った? 座れ!」
 レッドマスクの男が自動小銃を向けて怒鳴った。

 老人はかまわず続ける。
「若い娘さんを人質にするのはしのびない。このお嬢さんには家で帰りを待っている親がおるだろう。人質にするなら、わたしにしなさい」
「あなた!」
 どうやら妻がいるらしい。紅はほっとした。

 老人は夫人に向かって言った。
「心配するな、静子。糖尿病の薬なら、多めに持ってきてある」
「糖尿病? とにかく馬鹿なことはやめてください。あなたが行ったからって……」
「わたしはもう決めた」
「それじゃわたしも行きます! もう待つのは……」
「そこまでだ」
 乱暴が老夫婦の会話を打ち切った。
「ばあさんはいらない。じいさんだけだ。こっちに来い」
 夫人は夫の手をつかもうとしたが、老人はバッグを手に通路を前方に向かって歩いてきた。バスが揺れるたびに老人はふらつき、乗客たちの心配を掻き立てる。老人は乱暴の前に立った。ただでさえ小柄な老人が、バスの天井に頭をぶつけないよう首を縮めている巨漢の前に立つと、まるで子供と大人だった。しかし老人はひるまなかった。その目とぴんと伸びた背中には、信念のようなものが感じられた。老人は乱暴を見上げ、改めて言った。
「わたしは辻という。人質が必要なら、わたしを連れて行きなさい。娘さんは帰してあげなさい」
 乱暴は言った。
「髪を切れ」
 それから辻にハサミを差し出した。辻は顔色を変え、たじろいだ。
「髪かね? だが、切るったって……」
 辻の頭頂部は見事に輝いており、後頭部の下のほうにちょろちょろと白髪が残っているだけだった。しかし乱暴は動揺する様子もなく言う。
「かき集めてでも切れ」
 容赦ない一言に辻は衝撃を受けたようだった。しかし唇をぐっと真一文字に結び、肘を上げて手を後頭部に回した。白髪を集めると、名残惜しそうにハサミを入れる。まるで時代劇の切腹シーンを見ているかのようだった。紅はゲリラの冷酷さを改めて思い知り、恩人に深く同情した。
 バスは土産物センターの駐車場に入っていった。その頃には、紅のアイメイクはすっかり落ちていたが、気持ちは落ち着いていた。もちろん辻が人質交代を申し出てくれたからである。辻に対して申し訳ないという気持ちは間違いなくあったが、背に肚は変えられない。

 バスは停車し、乱暴は言った。
「じいさんが先だ。それから女」
 紅は驚き、前の座席の背中についている把手を握りしめ、座ったまま動かなかった。
「女、立て」
 指された紅は無言で前の座席を見つめ、唇を固く結ぶ。

 辻が言った。
「わたしが行くから、娘さんは解放してやりなさいと言っただろう」
「だめだ。女は自分の顔を見た」
「それじゃ約束が違う」
「約束した覚えはない。立て、女」
 自動小銃の銃口が紅の側頭部にぴたりと当てられる。いやな感触だった。紅は「見てないし、誰にも喋らないから」と小声で言ったが、腕をつかまれ、立たされた。それからピンクのボストンバッグを持たされる。辻、紅、抵抗しないと約束して手錠をはずされた女、手錠を隠すためにジャケットを羽織らされた柏木、それから乱暴が通路に一列に並んだ。乱暴は言った。
「これからおまえたち四人は外に出る。もし騒げば、バスの中の誰かが死ぬ。それは辻のばあさんかもしれないし、他の客かもしれない。もし四人がおとなしく別の車に乗り換えたことを確認したら、このバスは解放する」
 ドアが自動で開くと、そこには帽子をかぶり、サングラスをかけた別の男が待っていた。
「四人だ」
「了解」
 犯人たちは何もかも心得ているというように、必要最低限のことしか話さない。それがいっそう不気味だった。感情がなさそうで、いざとなったらためらわずに人を殺すだろうと思われた。
 辻は覚悟を決めたようだった。うしろを振り返ることなく、たしかな足取りでステップを降り始める。紅は辻ほど強くなれなかった。心臓がどくんどくんと鳴った。立ち止まろうとする足を懸命に前に出した。紅はついにバスから外に出た。休日の陽光はあっけらかんとまぶしすぎて、泣けてくる。
 誰でもいい、こんな大きな土産物センターなのだから、誰か気づいてほしいと願いながら、紅は辻の背中に続いた。こんな人目の多い場所なのだから、一人ぐらい自分たちに気づいて声をかけてくれるかもしれないと思ったが、他のバスの観光客たちは出発時間に間に合うようトイレと買い物をすませようとしてせわしなく、楽しげで、自分たちを見ようとはしなかった。マイカーの観光客たちは二人きりの休日を楽しんでいるカップルや、幼い子供から目を離せない夫婦が多く、やはり自分たちには目もくれなかった。
 四人の人質は、新しい犯人たちに誘導されてワゴン車に乗った。運転席に一人、背後に一人が乗りこんだ。どちらも帽子と手袋をして、サングラスをかけ、不自然な髪形をしていた。おそらくカツラだろう。全員が乗りこむと、ワゴン車はすぐに動き出した。
 すぐに紙コップに入ったオレンジジュースが人質全員に配られた。紅はのどの渇きに気づき、オレンジジュースを一気に飲み干した。ジュースは妙に苦かった。紙コップが空になると、犯人は無言で手を差し出し、気前よくおかわりを注いでくれた。紅はまた飲み干した。飲まなくたって、どうせ逃げられないのだ。それなら眠って、つらい思いを忘れられるほうがいい。しばらくすると、案の定まぶたが落ちてきた。


美登里は、夫が誘拐されたあと、豪勢なディナーを食べる~十一月十五日 土曜日 午後五時

   美登里は、夫が誘拐されたあと、豪勢なディナーを食べる~十一月十五日(土)午後五時

 

 柏木美登里は冷蔵庫から食材を出して並べた。神戸牛フィレ肉、オレンジ、ローズマリー、マッシュルーム、グリーンアスパラ、サニーレタス、クレソン、カマンベールチーズ、バゲット、赤ワインなど。
 今日は銀座のエステティックサロンで入念なお肌のお手入れをしたあと、ネイルサロンの予約をキャンセルし、デパートの地下食品街で食材を買いこんでから、タクシーに乗った。夫の晴信が仕事で外泊すること、家政婦の佐藤が休みであることを思い出し、娘の香と自分のために手のこんだ料理を作ろうという気になったのだ。美登里は結婚前に料理学校に通っていたこともあり、料理は得意だった。しかし夫のために腕を振るう気がなくなって、娘も塾帰りに友だちと食事をとることが多くなり、そのうちに家政婦を雇うようになったので、今ではたまにしかキッチンに立たなくなった。
 二階にいた香がキッチンに下りてきた。冷蔵庫を開けて、うんざりしたように言う。
「のどが渇いても、この家には飲むものがない」
「野菜ジュースがあるでしょう」
「あたしは佐藤さんにアップルジュースを買っておいてって頼んだのに」
「ママが買い物リストからはずしておいたのよ。だめよ、あんな添加物だらけのもの。この野菜ジュースにしなさい。これは体にいいっていつも言ってるでしょう」
「ママっていっつもそう。そうやって自分の趣味を押しつけるの。あたしが佐藤さんに頼んだものを勝手にはずさないでよ。ママの野菜ジュースを飲むくらいなら、水道水のほうがまし」
「ママの趣味じゃありませんって何度言ったらわかるの。あなたのためを思って言ってるのよ。このヘルス&ビューティ野菜ジュースは、二十種類の新鮮で厳選された野菜を使い、コップ一杯で一日に必要なビタミンが摂取できるよう計算されているんだから。ママがいろいろな野菜ジュースを飲み比べた結果いきついた、究極の一品なのよ」
「こんなものを飲むくらいなら、死んだほうがまし」
 香は言い返すと、ミネラルウォーターのボトルをとり、冷蔵庫の扉を乱暴に閉めた。美登里はオレンジに包丁を入れながら、ため息をつく。香はミネラルウォーター入りのグラスを手にして、リビングに行き、美登里に背を向け、レザーのソファにどさっと腰を下ろした。その仕草に美登里はまた眉をひそめる。
 美登里にとって香は、異星人のように不可解な娘である。香のだらしなさ、エレガンスのかけらもない動作にはいらいらさせられる。美登里と晴信は、日常生活で目に入るもの、肌に触れるもの、口に入れるもの、耳を楽しませるもの、鼻に香るものが感性を刺激し、その人の品格とセンスを支えるという考えにおいては、意見が一致している。だから夫婦仲は冷めていても、二十年も夫婦生活を続けてこられたのだ。家の中は家具からトイレの消臭剤に至るまで、美登里が厳選した高級品を揃えてある。
 それなのに香ときたらどうだ。今も着ている服はのびきったチュニックに、だらんとしたロングスカートで、ヘアスタイルは右側が長く、左側が短いというアンバランスなセミロングである。民族風だかボヘミアンだか知らないが、古着屋にお金を払ってぼろ服を買い、前髪を自分でぎざぎざに切って、自分をみすぼらしく見せて、素敵に見えると思っているのだろうか。今どきの女子高校生なら、まともなおしゃれに目覚めてくれてもいいではないか。母親である自分はそのためのハイクオリティな環境をパーフェクトに整えたつもりだ。それなのにどうして香はこんなけったいな娘になってしまったのか。

 お腹の子が女の子だとわかったとき、いつかおしゃれな姉妹のような母娘になろうと夢見ていたものだが、その夢は潰えていた。女の子らしい普通の服を着て、母親とブランドショップめぐりをして、「今度のデートのときに、ママのヴィトンのバッグを貸してね」と甘えるということが、どうして香には難しいのだろうか。

 お誕生日のプレゼントにほしいものが、もっと大きめのアイロン台とかロックミシンとか機織機とかいうのもやめてほしかった。女の子にとっての最高の実用品とは、歩きにくいが華奢で美しい靴、携帯電話と化粧ポーチしか入らない小ぶりのバッグのはずだ。機織は機織職人に任せて、若い娘には織り上がった布で仕立てられたドレスを着て楽しんでもらいたい。

 そんなわけで悪い予感はあったが、香は高校卒業後の進路を服飾専門学校に希望しており、お嬢様大学として有名なS女子大に進学してほしい両親と対立している。特に晴信とは一週間前「遊んでいないで勉強しろ。服飾専門学校なんかに学費は出さないからな」「女のところに入り浸っている奴なんか父親じゃない」「父親に対してその態度はなんだ」というお決まりの口論が始まり、やがてエスカレートして、最終的に香の大好きなロックバンドのポスターを晴信が破り、香が泣き出すところまで行き着いてしまった。
 香はテレビをつけた。それでも美登里は言った。
「香ちゃん、ダロワイヨのマカロンを買ってきたわよ。好きでしょ」
「うん」
「夕食前だから、少しだけなら食べてもいいわよ」
「いいよ、ごはんのあとでママと一緒に食べる。コーヒー淹れてくれるでしょ」
 美登里は娘のささやかな一言を嬉しく思い、親ってまったく馬鹿だと自嘲した。香はテレビに視線を向けたまま、美登里を見なかったが、結局一人ではマカロンを食べようとはしなかった。

 子供の無邪気さからなのか、大人の寛容さからなのか、その両方を合わせた計算高さからなのかわからないが、香にはどこか憎めないかわいらしさがある。親の贔屓目といってしまえばそれまでだし、しっかり操縦されている気もするが、これだから美登里は香のために急いで帰ってきてまで、夕食を作ろうと思うのだ。たとえ母親への嫌がらせのために生まれてきたのではないかという娘であっても、香への愛情はあった。喧嘩しても切れない関係は、十ヶ月間お腹の中に入っていた絆のせいだろうか。これが夫との大きな違いである。そして香もまた、母親と対立はしているが、父親よりは母親を愛してくれていると思う。仕事という口実をもうけては、愛人と過ごしてばかりで家に帰ってこない父親よりは「まし」という程度かもしれないが――「父親らしいことなんて何もしないくせに、家ではいばりちらして、外で女つくって。あんな父親ならいないほうがまし。離婚すればいいのに」。何かにつけて「まし」と言うのは、香の口癖だった。
 香がテレビを見たまま世間話をするように言った。
「ママ、パパが誘拐されちゃったみたい」
「え? パパが何ですって……誘拐?」
「うん。速報が出てる」
 美登里は料理の手を止めて、リビングに行き、テレビを見た。左上に小さく「ミスター誘拐、衝撃の誘拐」という文字が出ており、女性リポーターが「立入禁止」と書かれた黄色いテープの手前でマイクを握っている。背後には車の衝突事故らしい事故現場が映っていた。
「……発見当時、事故車はあったものの、付近に人影はなく、その後高速バスの運転手から通報を受けて、誘拐事件と判明した模様です。運転手の証言によれば、誘拐されたのは、誘拐評論家の柏木晴信氏と同乗していた女性一名、バスの乗客二名とのことです。事故車の持ち主は柏木氏と見られており、警察はまもなく特別捜査本部を設置し、捜査を進めるとともに、誘拐された他の三名の方々の身元確認が急がれています。運転手は犯人から人質の毛髪の束を預かり、警察に通報するよう指示されたと言っている様子です。柏木氏はミスター誘拐という愛称で知られる誘拐評論家で、マスコミを中心に活躍しておられます。その柏木氏を狙ったということは、犯人は何らかの意図があったものと、警察は考えているようです。以上、現場から早見裕子がお伝えいたしました」
 画面がスタジオのキャスターに切り替わる。香はあきれたように言った。
「やっぱり女連れかあ。何らかの意図も何も、わかりきってるじゃん。テレビであんだけ強気の発言してれば、ゲリラだって誘拐したくなるんじゃない?」
「当然の報いね。それにしても誘拐なのに、マスコミは報道協定を守らないのかしら」
「警察に髪の毛を届けろって言った時点で、報道協定なんか必要ないんじゃないの」
「そうかもしれないわね。むしろ報道してほしいから、パパを誘拐したのかも。いい宣伝になるでしょうから」
 そのときテレビの女性キャスターが緊迫した声を上げる。
「ただいま新しいニュースが入りました。柏木晴信氏誘拐事件に関する最新情報です。報道各局宛に、犯人グループより声明文が入りました。これより声明文を読み上げます。『我々は自称誘拐評論家柏木晴信、大塚杏子、辻明、越川紅以上四名に、社会改革のための協力を要請した。四名は、日本政府の不当な政治から、日本国民を救い、命と自由、秩序と道徳を回復させるために、尽力することを表明した。〈命と自由を守るネットワーク〉』。くり返します……」
 香は面白そうに言った。
「やるぅ! ゲリラってば声明文をニュース番組の放送時間にぶつけてきたよ。これで今夜のニュース番組はパパの誘拐事件一色になるね。番組を自分たちの宣伝のために買いとったようなもんじゃない。しかもまったく広告料を払わずに」
 美登里は香をそっと窺い見た。娘は父親の誘拐にまるで動じていないらしい。それはそれでひと安心であり、不安だ。
 女性キャスターが解説員に話を向けると、初老の解説員が話し始めた。
「状況から見て、犯人の目的は柏木氏の誘拐、他の人質はその巻き添えと考えるのが妥当でしょう。柏木氏はテレビなどでゲリラを糾弾する強気の発言をしていましたから、彼を拉致すれば、宣伝効果は抜群ですからね」
 香でも思いついた解説を聞き、美登里はさっさとキッチンに戻ろうとした。そのとき電話が鳴る。美登里はカウンターの上の電話をとった。
「柏木でございます」
「柏木晴信を誘拐した。我々に協力すれば、人質は無事に帰す。また連絡する」
 電話は切れた。ボイスチェンジャーでも使っているような、奇妙な声だった。美登里は香に向かって言った。
「犯人からの電話だったわ」
「ふうん。何て?」
「パパを誘拐したって」
「もうわかってるって、そんなの。誘拐犯からの連絡よりマスコミの報道のほうが先なんて怠慢。やる気あるのかな」
 香はそれでも気になるのか、テレビを見続けていた。美登里は軽く肩をすくめてから、夕食の支度を再開した。
 七時半に夕食の用意が整った。牛肉のオレンジとローズマリーのソースがけ。つけあわせはソテーしたマッシュルームとグリーンアスパラ。カマンベールチーズをあえたグリーンサラダ。ペイザンヌ。ガーリックバターつきバゲット。自分のための赤ワイン。デザートのジェラートは器ごと冷蔵庫で冷やしてある。そのときインターホンが鳴った。美登里は立ち上がった。
「誰かしら、こんな時間に」
「パパじゃないことは確かだよね」
 玄関のモニターには、二人の男が映っていた。インターホンから、煙草を吸いすぎている人間特有の、のどに声が絡まっているようなだみ声が聞こえた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。G県警警備部公安課の前原と申しますが」
「はい」
「少々お話したいことがありまして。ただいまお時間よろしいでしょうか」
「どうぞ」
 それから美登里は香に言った。
「刑事さんですって」
「やっと来たか。遅いね」
「お食事時に迷惑よね。非常識だわ。刑事が家に来て、お時間よろしいでしょうかなんて訊いてくるのは、断られることはないとわかっていて言ってるのよ。横暴だわ」
 美登里はドアを開け、刑事二人を家の中に入れた。二人ともコートを着ていたが、室内でも脱がなかった。ダイニングテーブルの横を通り過ぎ、奥のリビングのソファに腰を下ろした。香はダイニングの椅子に座ったまま、立ち上がろうともせず、刑事たちを見ていた。美登里が儀礼的に「コーヒーでも」と声をかけると、二人は辞退したので、向かいに座った。
 年配の男が前原、もう一人のやや若い男が立石と名乗り、立石は手帳をとり出す。美登里は「わたしが柏木の家内で、あちらが娘の香です」と紹介した。前原はだみ声で「そうですか」と言った。えらの張ったいかつい顔に凄みのある目、柔道選手のように横幅も厚みもある体躯は、チンピラを束ねるやくざの中堅どころで通る。前原は時間を惜しむように話し出した。
「さっそくですがね、本日ご主人の晴信さんの車が事故にあった状態で発見されましてね。残念なことに、晴信さんは行方不明です。現場の状況と目撃者の証言から、誘拐事件に巻きこまれたものと考えております」
「存じてます。テレビのニュースで見ましたし、先ほど犯人から脅迫電話がありましたから」
 前原は驚いた。
「先ほど? いつのことで?」
「そうね……ニュースを見ているときだったから、五時過ぎかしら。五時半にはなっていなかったと思いますけど」
「何て言ってました?」
「主人を預かっているとだけ。協力すれば、無事に帰してくれるようですわ。また連絡するとも言ってました。機械を使って声を変えているような、変な声でした」
「身代金などの要求は?」
「何も」
「身代金の要求はおいおい犯人から来ると思いますのでね。とにかく焦らないことです。警察への通報は直後にされましたか」
「いいえ」
 美登里が言うと、前原はまたわずかに目を見開いた。
「通報しなかった。なぜです」
「警察に通報すれば、主人の命はないと脅されたからです」
 美登里はとっさに嘘をついた。前原はわざとらしいほど怪訝そうに言った。
「妙ですね」
「何が妙なんです?」
 前原は腕を組んだ。
「犯人はバスの運転手に人質の髪を警察に届けるよう指示したんです。それなのに電話では通報するなと言った。模倣犯の可能性もありますなあ」
「模倣犯?」
 美登里は驚いたようにくり返して見せて、それ以上のコメントを控えた。

 前原は続けた。
「通報の義務があることはご存知ですね」
「いいえ、存じませんでしたわ」
「知らない? ご主人は有名な誘拐評論家でしょう。その奥さんが通報の義務すら知らないと」
「ええ。わたしは主人の仕事には一切口を出しませんから。主人も仕事については話しませんし……誘拐については素人です」
「なるほどね。それでは通報しなかったのも無理はないですかね。ですが今後は、必ずご協力ください。警察も全力で捜査に当たりますから、気を落とされませんように」
 誘拐されたら、通報は当然という居丈高な態度に美登里は腹を立てた。マスコミの報道よりずっと動きの遅い警察に、いちいち通報しろとでも言うのか。
 前原は右手で顎を撫でてから言った。
「それで二、三質問とお願いしたいことがありましてね」
「何でしょうか」
「まずは最近変わったことはありませんでしたか。些細なことでいいんですがね。家の前に見知らぬ車が長時間停まっていたとか、見かけない人物を目撃したとか」
「ありません」
「本当ですか。よく考えてください。何でもいいんで、どんな些細なことでも」
「本当に何も思い当たることはありません」
「そうですか。お嬢さんは……香さん? 香さんは何か気がついたことあったかな?」
 前原は顔を上げて、ダイニングテーブルで携帯電話をいじっている香に視線を投げた。香はあっさりと言った。
「ないです」
「お父さんを助ける手がかりになるかもしれないんだよ。よく考えて」
 香は無言で頭を振った。前原は言った。
「それじゃ奥さん、ご主人を恨んでいる人物に心当たりは?」
「山ほどありますよ。ゲリラはみんな主人を恨んでいるんじゃないかしら。そのくらい刑事さんもおわかりになるでしょう」
「個人的なおつきあいの中での心当たりはどうですかね?」
「仕事関係は知りません。個人的な交友関係も。わたしたち夫婦はお互いのプライバシーを尊重しているんです」
 前原は何か含みがあるように目を細め、先を続けた。
「次に身元の確認のため、人質のものらしい毛髪をDNA鑑定にかけたいんですよ。それでご主人のヘアブラシをお借りしたいんですが」
「うちの主人が誘拐されたのはもう確認済みでしょう。どうしてまたDNA鑑定なんてするんですか」
「他の人質の毛髪と分けるためにです。同じビニール袋に入っているもんですからね。それと柏木氏に見せかけた別の人物という可能性もあるかもしれませんから、念のために」
「そういうことなら、どうぞお持ちください」
 それから香に言った。
「香ちゃん、パパのヘアブラシを持ってきてくれる?」
 香は「はい、ママ」と言って、素直に出て行った。前原はちょうどいいという顔つきになって切り出す。
「それとですね、このような状況でたいへん申し上げにくいことなのですがね」
「どうぞおっしゃってください」
「実は車には同乗者がいたようなんですよ。この女性も一緒に行方不明というわけでして。四十代前半らしいんですが、奥さんに心当たりはありますかね」
「存じてますわ、主人の愛人の大塚杏子さんです」
 刑事二人は顔色を変えず、美登里の心の中を探るような目つきで見た。美登里は大塚杏子のことはよく知っていた。定期的に興信所に頼み、夫の愛人の身元調査をすませ、ホテルから出てくる写真まで手に入れてあった。彼女の存在を隠すつもりはなかった。
「主人は結婚当初から、複数の女性とのおつきあいがありました。大塚さんは最近親密になった女性です。夫婦仲は冷めていますので、お気遣いなく」
「失礼ですが、離婚はお考えになりませんでしたか」
「香のためです。娘が結婚か就職するまでは、父親の肩書きが必要ですから。でも夫が不倫相手の女と誘拐されたとあっては、素直に心配する気になれないのもおわかりになるでしょう」
 香がヘアブラシを手に戻ってきた。刑事に渡すと、立石が礼を言って、ビニール袋に納める。前原が言った。
「それじゃ今夜、電話に録音機器と逆探知機をつける技術者をよこしますんで、ご都合のよろしい時間をお伺いできますか」
 美登里は顔色を変えた。
「録音と逆探知?」
「ええ。犯人からの連絡が来たときのためにです」
「勝手に録音なんて困ります。うちの電話には録音機能がついていますから、録音したら、テープを差し上げます」
「いやあ、そういうわけにはいかないんですよ。法律で決められているんです。ご不便でしょうが、ご主人の救出のためですから、ご理解ください」
「法律だか何だか知りませんけど、お断りします。うちは被害者家族なんですよ。無神経だわ」
「それではこちらに警官が詰めることになりますけど、よろしいですか」
「警官が居座るですって? 冗談じゃないわ!」
「ですからご協力をとお願いしているんです。最近は技術が発達していまして、オンラインで警察署につながるもんですから、機械さえ設置させていただければ、お宅に警官が居座るなんてことはないんですよ。誘拐事件の場合、長丁場になる可能性もありますからね。ま、そのへんも覚悟しておいてください。もしご希望があれば、もちろんつけますがね」
 美登里はむっつりとして口をつぐんだ。前原は言った。
「で、今夜は何時が」
 刑事というのは皆こうなのだろうか。事件だけでなく、被害者の家族まで支配下に置こうとするのだろうか。あの目障りな晴信がいなくなったというのに、また別のものに支配されるのは真っ平だった。美登里は完全に引き下がるつもりはなかった。
「今夜は困ります。娘を休ませてあげたいんです。明日の午前中にしてください。十時がいいわ」
「わかりました。それじゃ、明日の十時までに犯人からの電話があったら、その録音機能つき電話に頼むとしましょう。それじゃそろそろ」
 前原と立石は「どうもお邪魔しました」と言って、立ち上がる。それからまるで今目に止まったかのように言った。
「豪勢な食事ですね。何かのお祝いですか」
 美登里は笑った。
「我が家の夕食は毎晩このくらいのものは用意します」
「そうですか。たいへんなお料理上手ですね。これは奥さんが?」
「ええ」
「全部お一人で?」
「料理は得意ですから」
「たいした腕前だ。それじゃ奥さんもお気を落とさないように」
 夫が誘拐された夜、パーティのように豪勢なディナーをとることを責めているように聞こえた。刑事二人はようやく帰り、美登里は塩をまいた。美登里がダイニングに戻ると、香があわてたように言った。
「ママ、あれはまずいよ」
「まずいって何が」
「あの態度! 疑われたよ、絶対!」
 美登里はびっくりして、香を見た。
「どうしてママが何を疑われるの?」
「だって警察に喧嘩を売っているような態度をとっているし、パパのプライバシーを尊重するとか言いながら、女のことを知っているし、パパが誘拐されたのに、フルコースみたいなごはんを用意しているし。ママがゲリラにチクッたと思われたかもよ。パパと愛人の女をまとめて誘拐させたとかさ」
 美登里は落ち着きはらって椅子に腰を下ろし、ナプキンをかける。香は向かいに座った。
「大丈夫よ。ママの気持ちは話したもの。愛人と一緒に誘拐された夫を素直に心配する気にはなれないって。それにとり乱さないのはママの性格よ。ママがみっともないことは嫌いだって知ってるでしょ。いただきます」
 美登里はワインを口に含んだ。香も「いただきまーす」と言って、牛肉にナイフを入れた。ローズマリーの香りづけをしたオレンジのソースをつけて、口に入れると文句を言った。
「あーあ、冷めちゃった。やっぱり迷惑だよね、警察って」
「本当にそう。そのくせいばってるんだから」
「そうだよね。マスコミ、犯人、いちばん連絡が遅かったのが警察じゃない。やっぱ怠慢だよね。さっきテレビで警察の検挙率がまた下がったとか言ってたよ。団塊の世代が集団退職した上、最近は犯罪が増えて、全国的に人手不足だって。パパの捜査ってするのかな」
「してもしなくても、ママはどっちでもいいわ」
 こういう形で夫を抹殺するのもいいかもしれないと美登里は考えた。数年後離婚が成立したとしても、慰謝料をとれるだけだが、夫が殺害されれば、全財産と死亡保険を手に入れられる。しかもゲリラに毅然とした態度をとると主張していた夫の信念を支えると言って、身代金を払わないだけでいいのだ。二人は晴信の今までの悪行を並べ立てながら、食事をした。
 デザートのジェラートを食べ始めた頃から、やたらと電話がかかってくるようになった。それを見越して、美登里は留守電にしておいたのだが、これは正解だった。
「坂本です。テレビ見たわ、大丈夫? わたしにできることがあれば言ってね」
「美登里? ママよ。今どこ? 警察? パパも晴信さんのこと心配しているのよ、遅くてもいいから電話して。もうどこに行ってるの。携帯にも出ないし。香ちゃんもいないの? まったくもう高校生の娘がこんな時間にどこをほっつき歩いているんだか。とにかく電話しなさい。待ってるから」
「太陽テレビの山口です。柏木氏とはいつも仕事でご一緒しておりまして、今回の事件をたいへん遺憾に思っております。そこでもしよろしければ、奥様に独占取材をお願いできませんでしょうか」
「テレビや雑誌で話題の光明メモリアルです。当社はご葬儀のご相談の一切を承っております。万一の際には、ぜひご用命のほどをお願い申し上げます」
 この手の電話にその都度出ていては、いつ食事を終えられるかわからない。後片付けが終わったあと、必要なものだけまとめて対応することにした。食事が終わると、香は携帯電話を見て、「メールがうじゃうじゃー!」と楽しそうに言った。美登里は「メールばっかりしていたらだめよ。早くお風呂に入りなさい」とたしなめた。
 九時、食器洗浄機に食器を入れていると、新しい着信音があり、若い男の声が入った。
「夜分に失礼します。AF保険の誘拐コンサルタント青山です。このたびはお気の毒なことで、ご心中お察し申し上げます。つきましては、ご主人さまが当社の誘拐保険に加入されておりました関係で、わたくしがご主人さまの救出にご協力申し上げることになりました。明日お時間いただけないでしょうか」


紅は、ウサギ小屋で目を覚ます~十一月十六日 日曜日 午前一時

   紅は、ウサギ小屋で目を覚ます~十一月十六日(日)午前一時

 

 紅は暗闇の中で目を覚ました。自分の置かれた状況がどういうものだったか、とっさにはわからなかった。仰向けのまま額に手を当てて考え、誘拐されたことを思い出した。聡史との温泉旅行が女一人の失恋旅行に変わり、ついには誘拐旅行になったのだ。着がえや化粧品を持ってきたことを、運がよかったと言うべきか。紅は額から首筋に手を移動させ、同じ動作を三回くり返した。寒い冬の朝、ベッドから出たくない気分と同じだった。いや、月曜日の朝の気分に近いかもしれない。それからようやく重い体を起こす。こんなに体が重いのは睡眠薬のせいだろう。
 床に足を下ろすと、もう一台のベッドが見えた。平行に並ぶベッドはまるでホテルのツインルームのようだった。それならと手を伸ばして暗闇を探ると、やはりライトスタンドのスイッチが見つかった。ほの暗い灯りをつけると、隣のベッドに誰かが寝息を立てているのが見えた。どうやら柏木の連れの女性のようだった。
 足元の向こうがシェードのようなもので覆われている。目を凝らしてみると、金網だった。小学校の校庭の一角にあったウサギ小屋を思い出す。太い針金が波打つ、かろうじて指が入る程度の格子の金網である。それが天井から床に下りており、紅は今ウサギ同様に檻の中にいた。
 いや、自分はウサギじゃなくて人間だ。こんなところにいてはいけない。鉄格子でなく金網くらいなら、壊して逃げられるのではないかと思い、両手で金網を掴んで、がたがたと揺らしてみる。金網の向こうの暗闇から声がした。
「やめろ」
 紅はびっくりして、ベッドに駆け戻った。布団をかぶり、じっとしていると、まだ睡眠薬の効き目が残っていたのか、まもなくまた眠ってしまった。



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