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3.

 アパートに戻り、郵便物をチェックしていると見慣れない白い封筒が入っていた。宛名も差出人も書いていないことに怪しみつつも鍵を探していると、勝手に自室のドアが開いた。

「お帰りー」

 姉だった。いきなり家出して行方不明になっていた姉が、目の前にいる。

「……姉ちゃん」

「けっこういいとこ住んでるじゃない。大学生ってこんな贅沢できるの?」

「ど」

「ど?」

「どこに行ってたんだよ」思わず声が大きくなってしまった。「父さんも母さんも、姉ちゃんが出て行ったとき、すごく心配したんだぞ」

「うるさいなあ。玄関でそんな大きな声を出さないの」

「僕の言っていることが――」

「ノゾム」

 僕の声をさえぎって、姉は真剣な顔つきで言った。毎回こうなのだ。小さい頃から僕が何か口答えしようとすると、こうやって諫めようとする。しかし大学生になった今でも黙ってしまうことには驚いた。

「とりあえず中に入ろう」いつまでたっても、僕は姉に逆らえない。

「ったく何よー、せっかく愛する弟の顔を見に来たのに、機嫌悪いのね」

「だから、どこに行ってたんだよ」

「M78星雲」

「それはウルトラマンの故郷」こっちは本気で話そうとしているのに、姉は投げやりだ。「あなたは、なぜ家出をして、どこに、行っていたのですか」

「さあ、どこでしょう」

 僕は大きく息を吐いて、言った。「もういい。言いたくないなら、別に今でなくてもいいよ。何か飲み物でも出すから、座っといて」

「はーい」

 まだ手に持っていた郵便物を、どこかに置こうとして気づいた。あの白い封筒だ。

「どうした?」

「いや……これ」そう言って僕は姉に手渡した。

「ふーん。何も書いてないわね。開けてみましょう」なぜだか、姉は楽しそうだった。僕も一緒に覗き込む。ワープロ打ちで、このような文面だった。

 

ノゾムさん、今シオリさんは危機的な状況にあります。このまま行動を起こさないでいると、あなたの大事な彼女は取り返しのつかないことになります。彼女を救えるのはあなたしかいないのです。はやくシオリさんのもとに行ってあげてください。

          シオリさんを心から心配する者より

 

 文章の最後には、病院の名前が記されていた。シオリが何かの病気で、ここに通っているということなのだろうか。

「どういうことだろう」

 最近シオリに会ったが、別段おかしいところは見つからなかった。そもそも「シオリさんを心から心配する者」とは何者で、何の為にこんな手紙をよこしたのだ。僕が突っ立ったまま考えていると、姉がいらいらしてしょうがないといった様子でこう言った。

「何ぼーっとしてんのよ。行くわよ」

「え」

「え、じゃないわよ。彼女がピンチなら行くしかないでしょうが」

「そりゃそうだけどさ。怪しすぎるよ」

「それならここにいる?」

「いや……」姉は、何か気になることがあったら、いてもたってもいられなくなる僕の性格を熟知していた。「分かったよ。行こう」

 

 手紙の病院は、最寄の駅から二駅のところにあった。目的地で降り、出口を抜けると、すぐ目の前に長い坂が現れた。どうやら病院は、ここを登ったところにあるらしい。

「よーし坂道ダッシュよ」そう言って姉はいきなり走り出した。

見る間に小さくなっていく後姿を眺めていると、僕の心の中では期待と不安がむくむくと膨らんでいた。再び小さい頃みたいに姉と何かをするということが、そうさせているのかもしれなかった。

 坂を登っていくうちに、病院がかなり大きな建物であることが分かってくる。どうやらいくつかの科が集まって診療している総合病院のようだ。

「着いたー」一足先に姉は坂を登りきっている。

  ほどなくして僕が到着すると、姉がしきりに辺りを見回していた。

「何してるの?」

「いや、どこで見張るのが一番いいかなあって」

「そんなに本格的にしなくても……」

「だめよ。こういうのは、きちっとやんなきゃ。見つかったら終わりなのよ」

 そうは言っても、ここは病院の入り口だ。そうそう隠れる場所は見つからない。

「そうだ」

「何だよ、いきなり大声出して」

「木を見て森を見ずだったのよ、私たちは」

「はあ」

「待合室よ」

「そんなところすぐに見つかる――」

「こんなに大きな病院で、待合室も広いだろうから大丈夫よ。もし彼女が近くまでやってきたら席を立てばいいだけのことだし」

「……確かにそうかも」意外な盲点だったのかもしれない。

 中へ入るときに、病院を前にした僕は違和感を覚えた。以前に来たことがあるような気がしたからだ。でもそのときの僕は、原因なんて分かるはずなかった。

 

 備え付けのベンチに座りあらためて見渡すと、院内は多くの人で溢れている。あまりの多さにどこかのスーパーにでも来たような錯覚に陥りそうなところを、辺りに漂う消毒液の匂いが感覚を元に戻してくれる。大半の者は携帯を操作したり、雑誌を読んだりしていた。

「あんたの彼女ってどんな子?」

「まあ、かわいいよ」

「へえ。どっちから告白したの」姉の眼が、好奇の色を帯びてくる。

「いいじゃん。そんなこと」

「よくないわよ。ほら、シオリちゃん来るまで暇なんだしさあ、いいじゃない」

 会ってから数時間と経たないのに、もう僕の身体は姉に拒絶反応を示そうとしていた。よくこんな面倒くさい姉と、小さい頃つるんでいたものだ。

「ねえねえ、いいじゃーん」両腕で肩を揺すってくる。

「分かった、言うよ。言います」僕は記憶をたどりながら、それこそ点滴の液が落ちるくらいのスピードで、ゆっくりと話し始めた。

 

  シオリとは、バイト先の居酒屋で出会った。ほぼ同じ時期に働き始め、シフトが一緒だったときには自然に話し、共に業務をこなしていた。最初は、付き合おうなんてことは思っていなかった。別段彼女に対して、恋愛感情がなかったというわけではない。

 シオリには当時好きな人がいた。バイトの先輩だ。かっこよくて、人望もあって、仕事もできる。まさに三拍子揃った、完璧な人だった。だから嫉妬も何の感情もわかなかった。もし女に生まれていたら、僕も彼氏候補に名乗りをあげていたかもしれない。それぐらい、先輩はいかしていた。

 ユウジという名のその先輩も、シオリには気があるようだった。つまり、その時点で結果は決まっていた。春から夏へ季節が移るように、赤から青へ信号が変わるように、それは決まりきっていたのだ。

  はれて二人は付き合うことになった。シオリは幸せの絶頂だった。バイト中のお喋り、客に対する動作、表情。その全てが彼女の極めて良好な精神状態を、鮮明に表わしていた。

 僕はと言えば、くやしがることも地団太を踏むこともなく、むしろ恋というものはこんなにも人を輝かせるのか、ということに感心していた。シオリとユウジ先輩の舞台で僕は脇役でも裏方でさえもなく、ただの傍観者だった。あの光景を目撃するまでは。

 あるとき僕は、街でユウジ先輩の姿を見かけた。先輩の隣には女性がいた。年上のようだったが、どことなく頭が悪そうで、肌の露出部分が多い女だった。二人の距離、話したときの仕草から、友達という関係ではなさそうだった。

 単純に、頭に血がのぼっていた。折れそうなほどに奥歯を噛み、血が出そうなほど掌を握り締めていた。何でこんなにむきになっているのだろうという疑問のあとで、初めて僕はシオリが好きなんだという自分の感情に気づいた。

 急いで追いかけ、二人の前に立ちはだかった。ユウジ先輩は一瞬驚いてみせたが、すぐに薄ら笑いを浮かべていた。女はデートを邪魔されたのが嫌だったのか、マスカラにまみれた両目を吊り上げている。僕はそのあと何をやろうとしていたのかなんて考えていなかったので、困ってしまった。だがこれだけは言った。

「シオリに全部言います」これ以上ないほどに小さくて、震えた声だっただろうが、ユウジ先輩は聞き取ってくれたようだった。

「何怒ってんの」僕の言動が、おかしくてしょうがない様子だった。

 なぜかとても恥ずかしくなった僕は、すぐさま二人を押しのけて走り出していた。後ろからは女の、先輩を問いただす怒号が追いかけてきた。


4.

 気まずくなったのか、すぐに先輩はいなくなった。小さな店だ。くだらない噂なんてすぐに広まる。居ずらくてしょうがないだろう。辞めれば、それで済むのだ。

 それでもシオリは、失恋の傷跡なんておくびにも出さずに、そこにとどまった。

 ある日、心無いバイト仲間が「ユウジとはうまくいってんの?」という質問を投げかけたことがあった。シオリは皿を片付けながら、バターと間違ってマーガリンを買ってしまったくらい、何でもないような様子でこう言った。笑ってさえいるようだった。

「別れたよ? なんか浮気してたみたいだからこっちからフッてやった」

  同じ立場だったら、到底そんな言葉は出てこないだろう。彼女のそんなところに僕は魅かれたのかもしれない。

 それからというもの、僕は季節外れの大型台風のように遅い速さで、彼女に近づいていった。ユウジ先輩の代わりになろうだんてことは思っていなかった。ただ彼女の気が少しでも紛れてくれれば、僕はそれでよかった。

「本当に今付き合ってるの? いつになったら告白するのよ」

「いや、シオリのほうから告白してきたんだ」

「シオリちゃんのほうから?」

「うん。だから僕は彼女に愛されていない」

「……どういう意味」

「だってそうだろ。彼女は寂しいだけなんだ。傍にいてくれれば、誰でもよかったんだよ」

「ひねくれてるわねえ。そんなの抜きにしてさあ、素直に付き合えばいいのよ」

「別にいいんだ」

 話をしていても、どこかに遊びに行っても、必ずユウジ先輩が彼女の中にいた。彼女の視線は、僕を通り越した遥か先に向かっていた。シオリの心の中に僕はいなかった。

「さっきのあんたの言葉じゃないけどさ、あんたにとってシオリちゃんは何なのよ」

「恋人」

「じゃあユウジ先輩ユウジ先輩って言うのはやめな」

 院内の混雑した状態はまだ続くようだった。ベンチに座り、名前を呼ばれ、一様に不安げな表情で人々は診察に向かっていく。高齢の患者がよろよろと歩いてきたが、看護士に連れ戻されていった。迷ってしまっていたのだろうか。

「シオリ、来ないね」

「話は終わってないわよ」

「努力はしたよ。必死に振り向かせようとした。でもそうすればするほど、自分の空回りぶりに虚しくなるんだよ」

「……」

 こんなはずではなかったのに、何か気まずい雰囲気になってしまった。「今日は駄目みたいだね。もう帰ろう」

 

 姉が返事をしなかったので、先に外を歩いていると、後ろからタックルされた。なす術もなく僕は地面に倒れる。

「何すんだよ」こけるなんて、久しぶりだ。

「ごめん」

「謝る奴の行動じゃないだろ」

「だからごめんって」

「いいよもう。俺も泣き言みたいなくだらないこと言っちゃったし」

 シオリのことを人に話すのは、姉が初めてだった。イツカにも話していない。嫌な思いもしたが、気持ちが少し楽になったのも事実だった。

「さあ家に帰ったら飯よ、飯」

「え。姉ちゃんの家があるでしょ」

「ないわよ。こっちに来たばかりなんだから。いいとこ見つかるまでよろしくね」

「……はい」新居が早く見つかることを願うばかりだ。

 空には、ボールのように丸い月が浮かんでいた。周りは人通りもなく、静かだった。

「居候するんなら、姉ちゃんが料理作ってよ」

 声をかけても返事はない。姉は病院のある一角を、両目いっぱいに広げて見つめていた。何かに驚いているようで、それでいてどこか悲しげな表情が月明かりに照らされている。

「姉ちゃん?」

「あ、ごめん」どこか取り乱している様子だった。「帰ろう」

 よく目を凝らしても、そこには何も見えなかった。

 

 夢を見た。これまで何度となく見てきた夢だ。目の前に広がる真っ白な空間。いや、それは何かの光かもしれない、明るすぎて、自分の目には白く映っているだけなのかもしれない。そこには一つの扉がある。どこにでもありそうな、木製で金属のドアノブがついたただの入り口。扉の向こうには何があるのかは分からないが、何かが確かに存在していることは分かっている。でも僕は扉を開けない。開けたくない。僕はただそこに座り込んで、扉を見つめるだけだ。

 

「これ何だ」

 イツカがいきなり箸を、僕の方に向けてきた。その先には、とんこつスープが滴る茶色の薄っぺらい物体が掴まれている。

「チャーシューじゃないのか」そう言って僕は、この店自慢のちぢれ麺をすする。

「いいか、チャーシューというものはな、もっとこう分厚くて、噛んだら肉汁が溢れてくるやつのことを言うんだぞ」イツカは身振り手振りで熱弁している。「それがなんだこれは。危うくスープと一緒にのみ込むところだったぞ」

 僕とイツカは大学の近くにあるラーメン屋にいた。他に客はいなくて、奥のほうでは店主が新聞を読んでいた。曲名は知らないが、腹の底に響いてくる、低音がきいた演歌が流れていた。

「じゃあもうこなきゃいいだろ。毎回昼になったら、ここに直行してくる奴はどこのどいつだ」

「いやあ、二度と来るもんかと思っても、なんかまた食べたくなっちゃんだよなあ」

「それなら我慢しろよ」

「どうしたノゾム君。今日は機嫌が悪いじゃないか。何かあったのか」

「別に何でもない」

「いや、あったな」

「何で分かるんだよ」

「いつもは替え玉すぐに注文するのに、今日はしていないからだ。お前が食欲ないときは機嫌が悪いときだ」

「食欲あるときも、機嫌悪いときは悪いよ」

「も、ってことはやっぱり機嫌が悪いのか?」イツカが丼に顔を近づけたまま、口の片端を吊り上げて、こちらを見上げてくる。

「その嫌らしい顔はやめろ」

「何があったんだ?シオリちゃん浮気でもしたのか」

 シオリという言葉を聞いて思わず僕は、え、と言ってしまった。

「そうなのか?」

「いや、浮気ではないんだけど」とうとう僕は観念して、昨日のことをイツカに話した。郵便箱に差出人不明の封筒が入っていたこと。行方不明になっていた姉が突然帰ってきたこと。シオリを探しに病院に行ったこと。今から思えば、本当に色んなことがあった。

「何か心当たりはあるのか」

「いや」

「じゃあ、これからもずっと病院でシオリちゃんを待ち続けるのか? 何の信憑性もないのに」

「しょうがないだろ。何か気になるし」

「いたずらに決まってる。いいか、封筒を入れた奴はお前がひっかかって、待合室で呆けた顔しているのを見て、陰でほくそえんでいるんだよ」

「別に呆けた顔をしているわけじゃない」

「とにかく、もうそんなバカなことに付き合うのはやめたほうがいい」そう言うなり、イツカは帰り支度を始めた。

「どこに行くんだよ」

「バイト」

「最近忙しいな。この前言ってた、いろいろと調べものをするバイトか?」

「そうそう。これがなかなか大変でさ。じゃあな」イツカは足早に店を出て行く。

 一人取り残された僕は混乱していた。イツカの言うことはもっともなのだが、やはり気になる。本当にどういう狙いがあって、こんなことをするのだ。手掛かりさえも無い。

 冷めてしまったラーメンを前に途方に暮れていると、店主がこちらを睨んで、不審そうな視線を投げかけている。

 僕は急いで残りを平らげ、店を出て行った。

 

 家に戻ると、姉が僕のベッドで寝ていた。こっちの頭の中はクエスチョンマークが列をなして行進しているというのに、のんきなものだ。

 何気なく寝顔を覗き込んでみたら、何やら苦しげな表情をしていた。悪い夢でも見ているのだろうか。汗もかいている。

「……置いて……かないで……お……ん」

 姉が突然寝言を言い始めた。

「姉ちゃん?カオル姉ちゃん」姉がうなされている所を見るなんて、始めてのことだっだ。

「ノゾム……」

「何か、うなされてたよ」

「そう?」

「うん。置いてかないで、とか言ってた」

 姉は顔を手でごしごしとこすりながら起き上がり、気分悪かったから寝てたの、と言った。「変な夢でも見てたのかしらね」

「そっか」少しバツが悪くなった僕は話題を変えることにした。「また病院行こうかと思ってるんだけど、一人で行ってくるね。まだ休んでるほうがいいでしょ」

「いや、わたしも行く」

「でも――」

「もう大丈夫だから」

 姉の寝起きの腫れぼったい目は、涙を流した後のようにも見えた。


5.

「信じる気になったの?」

「ん?」

「あの封筒のことよ。あんたから病院に行こう、とか言うからさ」

「分からないものを放っておくのは、いらいらするからさ。とにかく、シオリが本当に現れたら何か進展はあると思うんだ」

 待合室には相変わらず人がたくさんいた。以前に来たときは待っている者全てが不安そうにしているように見えたが、今回は清々しかったり、嬉しそうな顔をしている人もいた。               考えてみれば当然のことだ。今まで僕は、病院に負のイメージしか持っていなかった。退院したり、治療が終わったりする人もいるのだ。

「今日は来るかな、シオリちゃん」

「さあ。待つしかないね。それより本当に姉ちゃん大丈夫?顔色悪いよ」姉はいつも活動的で、病気をしたことなど滅多になかった。

「あんたよりは元気よ」

「こっちは心配しているっていうのに。かわいくないなあ」

「それよりさ、昔もこういうことやったよね」

「誰かを見張ったりとか?」

「ほら、あの変なじいさんよ」

「……ああ、バルタン星人のことか。確かに変な人だったけど、あれは姉ちゃんが勝手に決め付けてただけじゃないか」

 姉の言葉で思い出した途端に、目の前のベンチやカウンターが、幼い頃の風景に変わっていく。確かあの年は観測史上何位の猛暑、などとテレビが騒いでいた。

 

姉がバルタン星人と呼んでいたおじいさんは、近所からは変人と蔑まれていた。手には布団たたきを持ち、玄関の前に椅子を置いて、そこに姿勢よく毎日座っていたからだ。

 もちろん親は布団じいさんに近づくことを固く禁じていたが、そのときは夏休みということもあって、子供たちにとってはかっこうの遊び相手だった。

 どれだけ布団じいさんの近くにいけるかを、皆で競うのである。遠すぎると臆病者と揶揄され、近すぎるとものすごい形相で布団じいさんに追いかけられ、持っている布団たたきで叩かれる。

 ちなみに姉は、十六回連続で「布団たたきの刑」から逃げ切るという偉業を成し遂げた。

十七回目でついに姉は布団じいさんに捕まり、家の中に連れ込まれてしまった。以前から、布団じいさんは奥さんを殺したとか、道端で人を捕まえては食っているというとんでもない噂を思い出して、僕は気が気でなかった。

 そんな心配をよそに姉は数時間後、何でもなかったような平気な顔をして家から出てきた。

 その数日後、姉は毎年夏休み限定で再放送していた『ウルトラマン』を見て、唐突に「分かった」と言った。

「何が?」

「布団じいさんはバルタン星人なのよ」

 その日の話は、故郷を失ったバルタン星人が偶然立ち寄った地球に魅せられ、侵略を画策するというものだった。途中で科学特捜隊のアラシ隊員が、身体をバルタン星人に乗っ取られるというシーンがある。そこを見て姉はそんな発言をしたのだろう。

「よし、行くわよ」

「え。どこに?」答えはもちろん分かっていたが、僕は一応訊いてみた。まあ、儀式みたいなものだ。

「布団じいさんのところに決まっているでしょうが。行くわよ」姉は、いーくぞわれらーのうーるーとーらーまーん、と口ずさみながら家を飛び出ていった。

 

 その日から姉は、布団じいさんあらためバルタン星人の正体を明かすため、塀に隠れて見張りをすることにした。

 バルタン星人は一日中椅子に座っていた。じりじりと肌を焼く、夏の強い日差しが容赦なく照りつけるなか、ただひたすらに座り続けていた。

 雨の日も同様に、ずぶ濡れになりながら座っている姿を眺めながら僕はふと、何でバルタン星人は家の前でこんなことをしているのだろう、と気になった。本も読まなければ、体を動かそうともしないからだ。疑問をぶつけてみても姉は、バルタン星人だから平気なの、としか答えなかった。

 それから数日後、例によって見張りを続ける僕達にバルタン星人が話しかけてきた。

「暑いな」

「宇宙人はそんなもの感じないんじゃないの」

「暑いもんは暑いさ。ジュースでも飲むか?」そう言って、布団たたきを家のほうに向ける。

 その日は風一つ吹かないうえに日光が頭上にさんさんと降り注いでいたので、その言葉を聞いたとき思わず僕は足を踏み出しかけたが、姉は違った。

「そんなこと言って、わたし達を家に誘い込んで殺すつもりなんでしょう」

「そうかそうか。お前たちは何も飲まなくていいんだな。じゃあ俺だけ飲んでくるぞ」バルタン星人は椅子から腰を上げ、家に戻ろうとする。

「待って」そう言うなり姉は、僕に顔を近づけて言った。「あいつの正体を暴くチャンスだから行くわよ。いい?ジュースを飲みたいわけじゃないから」

 

 ここで待っていなさい、とバルタン星人に通された部屋はどこか寂しげだった。絨毯を敷いているというわけでもなく、畳は何十年もの年月を吸い取ったかのように、薄茶色に変色している。あとはテーブル、テレビ、時計などがわずかながらその空間を埋める役割を果たしていた。

 縁側の窓のほうには、鏡台よりも一回り小さなテーブルが置いてあって、そこには花と一緒に写真が飾られていた。奥さんだろうか、思わずこちらも、もらい笑いしまいそうな、柔和な表情が切り取られている。

 僕の家が散らかっているからそういう風に感じたのかもしれない。大半は姉が集めた、怪獣のフィギュアや、飛行機のおもちゃだったりするのだが。

「いい?何か出されても注意するのよ。中に睡眠薬が入ってるかもしれないから」

「何も入れちゃおらんよ」

 気がつくと、目の前にバルタン星人がジュースを載せたお盆を持って、立っていた。

「おもしろいな、君は。そもそも何で俺のことをバルタン星人だと思うんだ」

  僕がこれまでの経緯をかいつまんで話すと、またおじいさんは大きく笑った。

 姉が、部屋の隅に飾ってある写真について訊いた。

「あれ、奥さん?」

「ああ」おじいさんは朝日を眺めるときのように眩しそうな顔つきになって、誇らしげに頷いた。「奇麗だろ」

「うん。……もういないの?」

 姉の質問に僕は気が気でなかった。人が死んだとかそういう話は、子供がしてもいいのだろうかと不安になっていた。しかしおじいさんは穏やかな表情を絶やすことはなかった。

「ある日起きたら、もう死んでた。眠りながら逝ったから、まあ幸せだったんだろうな。安らかな顔をしていたよ」

「寂しい?」

「そりゃそうさ。ずっと一緒にいたからな」

 姉は何か考え込んでいるようだった。そういうとき姉は、何かの痛みに耐えるような険しい表情になる。僕はそんな姿を見ると、姉がどこか別の世界に行ってしまったかのような、とても悲しい気持ちになってしまう。

「繋がっていたんだなあ、と実感したよ。一緒にいる時間が長すぎて、見えなくなっていたんだ。二人を繋ぐ糸みたいなものがね」

 だからおじいさんは、家の前であんなことをしていたのかもしれない。どんな形であれ、誰かと繋がっていたい。その気持ちが行動となって表れたのだ。

 姉は最後までじっと何かを考え込んでいるようだった。

 

その日を最後に、おじいさんはいなくなってしまった。事故にあって死んでしまったとか、自殺したとか、気が狂って入院しただとか様々な憶測が流れたが、真相は分からずじまいだった。

           

「おじいさん、どこに行ったのかな」

「さあ。でも絶対どこかで生きてると思う」

「そうだね。今思ったんだけどさ、何で姉ちゃんはあのおじいさんを慰めようと思ったの」

「え」

「いや、バルタン星人とか何とか言ってたけど、姉ちゃんはおじいさんを慰めようとしてんだろ?そういうことするの、姉ちゃんにしては珍しいと思ったからさ」

 姉は、失礼ね、と僕を殴る素振りをしてから言った。「あの人も、置き去りにされていたからかな」

「も?」姉の言葉の意味を測る間もなく、事態は急展開を迎えた。

「来た」姉が小さく叫んだ。

 見やるとシオリが受付で何やら話している。

「こっちに来る」

 急いで僕らは見つからぬよう顔をうつむき加減にして、様子をうかがう。紺のカーディガンに黒のパンツという地味な服装で、彼女は自分の順番を待っていた。鞄を床に置かず、きつく抱きしめている。彼女の緊張がこちらにも伝わってくるようだ。

 やがてシオリは名前を呼ばれたのか立ち上がって、歩き始めた。僕たちも後を追う。

 何度か角を曲がりシオリは、とある部屋に入っていった。入り口の天井付近に『心療内科』という案内が吊り下げられていた。

「心の病気なのかしら」

 きっとそうだ。僕は心中で確信していた。そうに違いない。ユウジ先輩のことと僕の間で板ばさみになって、彼女は悩んでいるのだ。でもそれなら、僕に付き合えないと言えば済むことではないか。何で病院に通ってまで、この関係をシオリは続けようとするのだ。

 僕はこれまで以上に混乱していた。一人になりたかった。そもそもシオリにここまで悩ませる自分が情けなかった。

「何日もかけて、こんな結果になるなんて。待合室で見張りなんてやるもんじゃないわね」

                姉の何気ない一言に僕の頭は異常に反応していた。謎のバイト、見知らぬ封筒、喫茶店での会話。バラバラに散らばっていたブロックが、一つのある形になろうとしていた。

「姉ちゃん悪い。先に帰ってて」僕は姉の制止に耳も貸さずに走り出していた。

6.

 僕のアパートの近くには公園がある。日中は遊び声が部屋まで届くほどに、多くの子供たちが利用しているのだが、日が落ちた今では外灯の明かりが、人影も無い公園を弱々しく照らしだすだけだ。

 ベンチで待っていると、砂を踏みしめる、ざっ、ざっという足音がこちらに近づいてきた。薄明かりに、顔がぼうっと浮かび上がってくる。

「急に呼び出してごめん」

「何かあったのか?顔色悪いぞ」

「単刀直入に言うよ。イツカ、郵便箱に封筒入れたのお前だろ」

 一瞬イツカの表情が、動きを失ったかのように凍りついた。だがそのあとすぐに、表情は軽く口角を上げた、柔らかないつものそれに戻っていた。晴れやかでさえあった。「どうしてそう思うんだ? お前の意見を聞こう」そう言ってイツカは僕の隣に腰掛けた。

「今日飯食ってるとき、病院で見張っているっていう話をしたよな」

「ああ」

「だけど、別に俺は待合室で見張っているとまでは言っていない。何で知っていたんだ。イツカ、お前もあの病院にいたんじゃないのか」

「……」

「それとバイトのことだ。いろいろ調べものするバイトだって言ってたよな。それってシオリのことを調べていたんじゃないのか。なあ何でこんなことをするんだ。教えてくれ」

「その通り。封筒を入れたのは俺だ」イツカはあっさりと認めた。

「なぜだ」

「理由を話す前に、お前の姉ちゃんを助けに行こう。今日もカオル姉ちゃんは病院に行っているはずだ」

「何だって?」僕は耳を疑わずにはいられなかった。意味が分からない。姉が病院に?どうして姉の名前を知っているのだ。

「おい、ちゃんと説明――」

 イツカは僕の話も聞かずに走り出していた。

 

 病院に着くとすぐイツカに、駐車スペースを囲むようにして植えられた茂みに連れて行かれた。隠れるように二人でしゃがむ。

「あそこだ」そう言って、病院の入り口付近に指を向ける。

 茂みの隙間からそちらの方へ目を凝らすと、姉が僕たちと同じような格好でどこかを見張っていた。

「何を見ているんだ」

「『赤ちゃんポスト』だよ」

 以前にニュースで聞いたことがある言葉だった。ヨーロッパなどで行われている、病院で赤ん坊を一時的に保護する容器を設け、赤ん坊の中絶や、置き去りによる死をなくす活動を、日本で始めて取り入れた病院がここだったのだ。前に病院を出て行くとき姉はそれを見ていたのか。

「赤ちゃんが捨てられないように、見張っているんだ」

 暗がりでよくは分からないが、姉はじっと赤ちゃんポストを見つめている。

「でも何で姉ちゃんは、赤ちゃんポストなんかを見張ったりしているんだ。なぜお前はそのことを知っているんだ。分からないことだらけだ」

「ノゾム、分からないか」イツカが僕のほうを向いて、言った。どくん、どくんという心臓の拍動がやけに大きく胸に響いている。

「ノゾム、俺は、お前だ」

「は……? イツカお前、何を言ってるんだ?」思わず笑おうとしたが、無理だった。なぜだ。イツカはこんなにおもしろいことを言っているのに、なぜ笑えないんだ。

「俺は、お前が作り出したもう一つの人格だ。さっきお前が言ったとおり、封筒を郵便箱に入れたのは俺だ。ということはつまり、これまでのことは全てお前の自作自演だったんだよ。初めに病院に来たとき、既視感があったろ? 当たり前だ。お前自身がシオリのことを調べていたんだからな」これは夢なのだ、夢に違いない。早く目を覚ませ。「俺が生まれたのは、お前が五歳のときだ。あの日、あの夜に起こったことを受け入れられず、お前はイツカという人格を作り出した。何でイツカだって? 簡単だ。イツカ……いつか……五日。忘れもしない三月五日にあれは起こったからな」三月五日だって? そんな昔のことを覚えているもんか。「いいやお前は覚えている。ただそれを頭から切り離しただけだ」おい、心の中を読めるのか。イツカ、お前は何者なんだ。「だから、俺は、お前だ」

「だって、お前は俺の目の前に存在しているじゃないか」やっと絞り出した声はひどく掠れていた。全身からは、汗がとめどもなく吹き出している。

「ノゾム以外に俺は見えない。お前は俺と喋っているつもりでも、傍から見れば、それはただの独り言に過ぎなかったんだよ」

 糸を切られた操り人形のように、僕は地べたに座り込んだ。ひどく体が重い。気持ちが悪い。どうにかしなければ。そうだ、耳を塞ごう、目を閉じよう。これで大丈夫だ。

「また逃げるのか。姉ちゃんは、今まで一人でお前を守ってきた。お前はカオル姉ちゃんの背中を見ているだけだ」

 聞こえない。聞こえない。聞こえない。

「両手をどけろ、目を開け。しっかりと姉ちゃんを見るんだ」イツカが僕の手を掴んできた。嫌だ。触るな。触らないでくれ。

「何でよ」低く、鋭い声がした。姉ちゃんだ。普段とは違う迫力に、僕は思わず起き上がっていた。何者かと対峙している。

「何でよ。何で」声はだんだんと大きくなっていく。怒りや哀しみ、そういった感情がそのまま口から溢れだしているようだった。

「置いてかないで……ねえ……置いてかな……」その人物に抱きついて、姉は子供のようにわんわんと泣いていた。そんな光景を眺めながら、僕は別のことを考えていた。眠い。とても眠いのだ。瞼が自然と閉じてくる。意識が朦朧として、自分が今立っているのかどうかさえ、判然としない。全身から力が抜けていく。

 眠い。

 

 また、あの夢を見た。雪景色のように真っ白な空間に、一つの扉。誰かが座っている。

「よお」

「イツカ」

「お前も座れよ」

「うん」

「シオリが何で心療内科に通っていたか、教えてやろうか」

「いいよ。理由は分かっている」

「詩織は、ユウジ先輩のことで悩んでいるんじゃない。お前を助けようとしてやったことなんだ」

「え」

「一般にこの症状は解離性同一性障害と呼ばれている。要は多重人格だ。現在においても明確な治療法は存在していない。ばらばらになった人格を統合したほうがいいという者もいるし、人格がいくつ存在しても、共存できるならそのままのほうがいいと言う者もいる。いずれにせよ、素人には何もできない。だが詩織はお前と向き合うことを決めた。デートの最中に俺のこと紹介したこともあったんだぜ。誰がそんな奴の彼氏になろうと思う? こんな言葉おかしいと思うが、彼女はお前を好きになろうと努力している。人は皆、誰かのために生きているんだよ。だから自分も生きようとするんだ。そう思わないか。一瞬だけでもいい。お前も大切な誰かのために生きてみろよ」

 イツカが立ちあがり、ドアノブに手をかけた。

「開けるぞ。この扉は二人でないと開かないんだ」

 僕も立ち上がり、イツカの手に自分の手を重ねた。

「この先には何があるんだ」

「お前が確かめるんだ、望」

 扉が開いた。そこは、全てが光で満たされた世界だった。上下左右の感覚が無くなり、自分が今立っているのか、浮いているのかさえ分からない。その光はさらにその輝きを増し、僕の身体を包み込んでいった。

 

 一番最初に天井が見えた。隣には、まだあどけなさが残る幼い姉が眠っていた。暗がりでも鼻がつんととがっていて、利発そうな顔が見て取れる。思い出した。ここは姉と僕の部屋だ。今日両親が僕たちを置いて、家を出て行ってしまうのだ。そのあと僕と姉は親戚の家に預けられることになる。

 そっとドアが開けられた。一筋の光が部屋に入り込んでくる。

「ごめんね。ごめん……」

 母のすすり泣く声が耳に入ってきた。父の存在も感じられる。姉が起きるのが分かった。

「お母さん、どうしたの?」

「カオル……。ちょっとお母さんお父さん、出かけてくるから」

「嫌だ。わたしも行く」

「すぐに帰ってくるから、ここで待ってて」悲しげな声の響きから、姉も何か感じ取ったのだろう。更に姉の声は大きくなっていった。

「嫌だ。行くもん。ねえ、わたしも連れていって」

 それでも父と母はカオル姉ちゃんを振り切って出て行こうとする。そこで僕もようやく起き上がり、部屋を出た。

 玄関では姉が両親に取り縋って、泣いていた。僕は見ているだけだった。あまりの恐怖に、呆然とその光景を眺めることしかできなかったのだ。僕は何もできなかった。

 どこからか、イツカの声が聞こえてきた。

「だからお前は、この出来事自体を記憶から消した。そして俺を作り出した」

 再び視界は光に飲み込まれた。

7.

 次の場面は、姉とウルトラマンを見ているところだった。これは、ジャミラが出てくる「故郷は地球」という回の話だ。

 宇宙飛行士だったジャミラは惑星に墜落し、救助を待つ間に怪獣に変化してしまう。救助に来なかったことを恨んで、地球に復讐するため帰ってくるのだが、ウルトラマンに倒されてしまうという救われない話だった。

 墜落した惑星が水の無い惑星だったために、水が弱点になってしまっていたジャミラは「ウルトラ水流」という両手から大量の水が放出される必殺技で絶命する。

 死の間際に、ジャミラの赤ん坊の声のような泣き声で悲鳴を上げ、もがき苦しむ姿が姉の姿と重なった。姉は誰もいない暗黒の世界で助けを求めている。

「望、姉ちゃんを助けに行くぞ」

「ああ」

 

 現実に戻ると、姉が放心状態で地面に座り込んでいた。さきほどまで揉みあいをしていた人物はもういない。

「薫姉ちゃん」僕は大声で叫んだ。

 ゆっくりと姉がこちらに顔を向ける。泣き腫らした目に、わずかながら火が灯ったようだった。

「望」

 近くで見ると、姉はあまりの疲労に一回り小さくなっているように感じた。

「さっきの人、赤ちゃんを捨てに来たんじゃなかった。病院の人だって。わたし勘違いして……。でもよかった」

「そうか、よかった。姉ちゃん」

「ん?」

「思い出したよ。全部思い出した。ごめん。俺姉ちゃんに何もできなかった。本当に今まで迷惑かけた」

「何馬鹿なこと言ってんのよ。謝ることないわ。あんたと遊んでいるとき、楽しかったよ。イツカが出てくるときも、弟が増えたみたいでおもしろかったし」

 姉がふらふらと立ち上がった。慌てて僕は肩を貸す。そのまま近くのベンチに腰掛ける。

「謝るんだったら。わたしのほうよ。突然家出しちゃったし」

「……」

「わたしさあ、あのとき親に会いに行ってたんだ。引き取ってもらった親戚のおじさんがいきなり、居場所が分かったんだけどどうする、って。どうもこうもないわよねえ。でも気づいたら、会いに行く準備をしていたの。とにかく理由を訊きたかった」

 姉は何かのたがが外れたかのように、喋り続けていた。

「そしたら、何て言われたと思う?あのときは養う力が無かった。でも今はその用意があるから迎えにきた、ですって。笑っちゃうわよね。今までどんな思いで生きてきたか分からなかったのかしら。無視して、立ち去ったわ。その後は友達の家に住まわせてもらってたの。ねえ、望」

「ん?」

「わたし子供の頃は、本当にウルトラマンがいるって思ってた。困ったときはきっと、ウルトラマンが助けてくれるって。だから頑張れた。残酷で何の面白みもないこの世界は、ウルトラマンが変えてくれた。でももうその世界はなくなってしまったの。わたしはまた現実の世界に戻ってきてしまった。そしたら、もういいかなってなっちゃって。死にたいってわけじゃないけど、別に生きてても死んでしまってもどっちでもいいかなって」

「姉ちゃん、UFO見に行こう」

「そんな今から――」

「ウルトラマンは今も怪獣をどこかで倒しているし、UFOもきっと飛んでる。今まで二人の目で確かめてきたじゃないか。これからも俺と姉ちゃんの目で色んなものを見ていくんだ。だからさ、またUFO見に行こう」

「ちょっ、ちょっと」

 僕は姉の手を取って、走り始めた。どこまでも走っていけるような気がした。景色が見る間に変わっていく。月だけが僕達を追いかけていた。

 

 走りすぎて、自由がきかない身体を叱咤しながら、僕達は土手を登っていた。故郷に戻ってきたのだ。以前と同様に、夜空には無数の星が瞬いている。

「望、UFOは来ないわよ。あれは何かの見間違いだったのよ」

「いや、来る。絶対に来る」人は皆誰かの為に生きている、というイツカの言葉を思い出した。薫姉ちゃんは今まで僕の為に生きてきた。だから、今度は僕の番だ。イツカも賛成してくれているはずだ。

「うそ」姉の呆けた声がした。目を向けると、赤や緑や青など様々な光を発している物体がこちらに向かって飛んでいる。

「ほら、言ったとおりだったろ」

 すると、姉が突然笑い出した。腰を曲げて爆笑している。

「どうしたの」

「あれ……ゆ、UFOじゃない……飛行機よ。はは、は」

「何だって」

「ひ・こ・う・き・よ。夜は明かりを付けて飛行するのよ。なーんだ飛行機だったのか」

 ものすごいスピードで顔が火照ってくるのが分かった。子供の頃とはいえ、僕は何て恥ずかしい勘違いをしていたのだ。

「いやーさすがわたしの弟だわ。まさか飛行機をUFOと間違えるなんてねえ」

 姉はなおも笑い続けている。お腹が痛くてしょうがないようだ。僕は睨もうとしたが、無理だった。やっぱり笑ってしまう。

 夜中ということも忘れて僕達は長い間、笑い続けた。こんなのは子供の頃以来だ。

「望」

「ん?」

「謝っておきなさいよ、詩織ちゃんに。どうせ、あれもあんたの勘違いだったんでしょ」

「うん。分かってる」東京に戻ったら、真っ先に詩織の所へ行こう。

両手を大きく空に向け、姉が大きく伸びをした。「なんか、まだわたしやっていけそうな気がする」

「それはよかった」

「だってさあ、飛行機のことUFOって思ってたのよ。それが心の支えだったんだからね。責任取んなさいよ」

「もういいだろ。本人が本物だと思ったら、間違っててもそれは本物になるんだよ」

「苦しい言い訳ね。でもまあ、確かにそうかも」

 この瞬間僕は決めた。あれはUFOだ。誰にも文句は言わせない。

「また来いよー」

姉が大声で手を振って、叫んでいる。

 その声に反応したかのように、UFOはちかちかと明かりを点滅させた。

この本の内容は以上です。


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