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1.

「そのテレビってのがさあ、なんか今どき珍しいUFOとかが出てくる特番だったの」

そう言ってシオリはスパゲッティが巻きついたフォークを口に運んだ。

「へえ」

      同じく僕はハンバーグを口に入れる。固い。

「珍しいと思わない? こんなご時世にUFOだなんて」

「でも逆に新鮮かも」

「そうかなあ。何がアダムスキー型よ、って感じ」

「結局見てんじゃん」

「……まあね。何か気になったから」

 今度はずずずっ、とレモンティーを飲む。

 夕時、僕とシオリはファミレスにいた。水族館に行ったあと特にやることもなかったので、立ち寄ったのだ。

 店内は休日で時間帯のせいもあって、にぎわっていた。子供たちがはしゃぎまわり、親たちはそれを注意するというわけでもなく、会話に夢中になっている。

 ふと、何でUFOの話になったのだろうかと思った。確かサメがすごかったね、という話になって、そのあと名前が分からなかった魚をシオリが宇宙人みたいだと言ったことから、話は脱線したのだ。

UFOって信じる?」

 ストローを口に入れたまま、目線だけをこちらに向けてシオリが訊いてきた。この手の質問をされた場合の僕の返答は決まっている。

「そうだなあ。存在しているとは思わないけど、いたらおもしろいかも」

 いる、と鼻息荒く言い切ったら、オカルト的なところがあるのかと不信がられるし、いない、と言っても夢がないのねと残念がられるだけだからだ。

 でも本心は、そんなご機嫌うかがいみたいなくだらないものじゃない。UFOはいる。以前に僕はこの目で見たことがあるのだ。

 

 僕には五つ歳が離れた姉がいる。幼い頃、両親は共働きでどちらとも帰りが遅かったので、よく面倒をみてくれた。

 夜、眠れないときには姉が必ず側について、ウルトラマンの話をしてくれた。姉はその世代でもないのになぜか、ことウルトラマンについては、右に出る者もいないくらい詳しかった。そして何より姉はウルトラマンをこよなく愛していた。なかでも僕が一番好きだったのは『ウルトラマン』の「小さな英雄」という回の話しだ。

「ある日ね、イデ隊員が『どうせ俺が頑張ってもウルトラマンが怪獣倒すんだろ』って言い出すの」そのあとすぐに、あっイデ隊員っていうのは怪獣を倒すための道具を作ったりする人ね、と補足を入れる。

「うん」

「それを聞いたハヤタ隊員がそんなことないって励ますんだけど、落ち込んだまんまなの」

「ハヤタ隊員っていうのは?」

「ウルトラマンに変身する人」すっごく強いんだから、と姉はまた付け加えて自分のことのように胸を張る。「そんでね、その後タイミングが悪いことに怪獣が出てくんのよ。ジェロニモっていう鳥の怪獣でさあ、頭にいろんな色の羽根が生えているの」

「でも結局ウルトラマンが倒しちゃうんでしょ?」僕がそう訊いたあとに、姉は何も言わずしばし僕の目を、それはどうでしょう? と問いかけるような視線を投げかけて、こう言うのだった。

「違うんだなあこれが。ピグモンっていう人間に味方する怪獣が、勇敢にもジェロニモに立ち向かうの。でも倒されちゃう。目の前でそれを見てもイデ隊員は怖気づいたままなの」

「だめだなあ。イデ隊員」

「うん。でも少しは分からない? 自分がやらなきゃいけないものを、いつも他の誰かにやられて悩む気持ち。自分は必要なのかって」

「うん……少しは分かるかも」

 姉はときどき小さい僕には難しいことを言ってきた。どうやら姉は、ウルトラマンから人間に関する深い何かを感じ取っているらしかった。

「ハヤタ隊員はイデ隊員を殴って言うの。『こんな小さな身体でもピグモンは立ち向かっていったんだぞ!お前は何をやっているんだ!』って。我を取り戻したイデ隊員を見てハヤタ隊員はウルトラマンに変身して、ジェロニモを後ろからおさえて、イデ隊員にやっつけさせるの」                     

 本物を観ていなくても、頭の中ではウルトラマンが戦っていた。おかげで僕は眠りにつくどころか、反対に目が冴えていった。そんなときにいつも姉はこう言った。

「よし、UFO見に行くわよ」

UFO」とは姉の「科学特捜隊ごっこ」に、夜な夜な付き合わせられていたときに偶然僕が発見したものだった。もちろんUFOなんて見たことがなかったのだが、その飛行物体を説明するときはUFO以外に言葉が見つからなかったのだ。

 もちろん両親は帰ってきていたから、二階の窓から瓦へ、そして塀をつたって僕と姉はこっそり外へ抜け出すのだった。

 家の前に通っている、一車線の細い道路を挟んだ土手を登り空を見上げると、視界の全ては星が入ったバケツを誰かがこぼしてしまったかのように、たくさんの光が輝く空になる。

「来た!」

UFOは赤や緑や青の光を放ちながら、遥か上空を真っすぐに飛んでいく。それを眺めながら姉は、あれはバルタン星人のいやメフィラス星人の宇宙船だ、などと叫んでいた。姉いわくUFOとは地球を侵略するためにやってくる、宇宙人が乗った飛行体ということだった。

「でも安心して。地球にはウルトラマンがいるんだから」

「え。でも、もう来てるじゃん。ほら飛んでるよ?」僕がそう訊くと、姉は渋い顔をしながら呟くのだった。「あれは偵察してるからいいの」

 

 気が付くと遠くを飛んでいたUFOは、頬を膨らませ、ふてくされた表情の彼女の顔に変わっていた。

「何考え込んでんの? そんなにUFOの話がおもしろかった?」

「あ、いや……。ごめん」

 そのあとは機嫌を悪くした彼女をなだめることに専念したのだが、結局今日は帰ることになった。

 僕が高校三年のときに家出して以来、姉は行方が分からなくなった。


2.

「そのときです。私が悟ったのは。遊んでばかりじゃいけない。そこから私は周りの者が目を瞠るほどに勉学に勤しみました」

 また始まった。思わず隣に座っている友人を睨む。イツカは笑いをこらえきれないようだった。

 この教授の講義はまともに聞いたことがない。最初こそ配ったプリントの文章を読ませて感想を書かせ、解説したりするのだが、結局はこのざまだ。自分の経験談を参考にしなさいという老婆心にかこつけた自慢話。毎回このパターンで講義が進んでいくものだから、受ける者はたまったもんじゃない。何が「創作演習」だ。教室全体がもうたくさんだ、という空気で包まれている。

 教授の白髪と黒髪が混ざったくしゃくしゃの頭を眺めていると、この前デートの時に思い出したジェロニモの姿が頭をよぎった。

「一日一冊本を読みました。一年で365冊です。本に対する情熱はあの頃がピークだったのかもしれませんねえ。いやだからといって今はそれほど本が嫌いになったというわけでは……」

「おい」イツカがそっと顔を近づけてきた「学期末のレポートのテーマ、あいつの生涯についてにしろ。絶対ダブルエーをとれる」

「おおいに賛成だ」あいつのことなら、そんじょそこらの親戚よりも詳しいはずだ。

「何にしろ、退屈だ」

「ほんとだな」        

 僕にとっての大学生活は、眠くてたまらない教授の講義を受け、週三日のバイトに精を出し、たまに飲み会に参加する。その繰り返しだった。つまらなくはないが、人に訊かれて胸を張って楽しいです、と断言はできない。

「なあなあ」再びイツカが話しかけてくる。相当うんざりしているんだな、と内心で苦笑する。「何だ」

「しりとりしないか」

「おい」自分ができる一番真面目な顔を作ってみせる。「知っているか? 俺たちは一応最高学府に通っているんだぞ」

「普通のしりとりじゃないんだよ」

「しりとりはしりとりだろう」

「だから違うんだって。くさい台詞しりとりなんだって」

「臭い?」

「違う。ちょっと俺からやるから」そう言ってイツカはおもむろにルーズリーフを取り出し何やら書き始め、すぐにこちらに渡してきた。

『お前の夢ってそんなもんだったのかよ』とそこには丁寧な字で書かれていた。なるほど、体中がむずがゆくなる様な熱いセリフで、しりとりをするということか。合点したことを察知したのか、イツカはにやりと笑って「お前は、よ、からだ」と言った。

 くだらなさを指摘しようとして、やめた。ふと、イツカと初めて会ったときの光景が脳裏に浮かぶ。最初からイツカは変わっていた。

 大学の入学式は華やかで、大学構内に溢れる者の表情は、これから始まる大学生活への期待で浮ついている印象を受ける。もちろん僕も例外に漏れることなく、数多のサークルの誘いに辟易しつつも気持ちは高揚していた。

 しかし式場へ入り、席についたところで僕は困ってしまった。話し相手がいないのである。九州の片田舎から上京し、顔見知りがいないのはしょうがなかったが、周りを見渡すとすでにはしゃいでいる者たちもいた。

 近くの人に話しかけようとして途中で断念する、ということを何回か繰り返していると、反対に話しかけてくる者がいた。イツカだ。

「なあなあ、M78星雲ってどこにあるか知ってるか」

「……知らないけど、そこはウルトラマンの故郷だ」

 僕のその言葉を聞いてイツカは、「お」と言った。半分は驚きで、もう半分は喜んでいるような表情だった。「そう言ったのはお前が初めてだ」

「みんなに訊いて回っていたのか?」

「ああ」

 さぞかし不審がられたに違いない。何て変わった奴なんだそのとき思ったが、こいつとは気が合いそうだな、とも感じた。姉のおかげで、ウルトラマンの話だったら何時間でも話せるからだ。

「ウルトラマン好きなのか?」

「ああ」

 彼はそのあと、あるウルトラマンの名をあげた。

「おお」僕はそれだけでイツカと友人になることを決めた。僕も一番好きだったからだ。

 そして僕は今イツカが考えた、恐ろしいほどくだらないゲームに真面目に取り組んでいる。「よ」から始まる言葉……。

 僕はゆっくりと「よーし、あの夕陽に向かって競争だ」と書きこんだ。

「お、いいねえ。『だ』か。んー難しいな」

「イツカ」

「ん?」

「何だこの猛烈な恥ずかしさは。なんだか身体が火照ってきた」

「そうか?」イツカはあまり関心がなさそうに、また思考し始める。「それよりお前も一緒に考えてくれよ。『だ』なんて難しすぎる」

 僕は面倒くさくなって「ダルメシアン」と適当に言った。

「真面目に考えろよなー」

「ほら、もうすぐ授業終わりそうだぞ」

 ジェロニモの話は佳境にさしかかろうとしていた。

「つまり、私はみなさんにこの一瞬一瞬を大切に生きてほしいのです。無駄な時間などありません。この人生と言う名の舞台を堂々と演じきってください。降りることはできません。なぜならその舞台は」そこでジェロニモは、こほん、と咳払いを一つして話を続けた。「誰もが主人公なのですから」

思わず、僕とイツカは顔を見合わせる。

 

 その日の全ての講義が終わり、僕とイツカは並木道を歩いていた。夜だともう肌寒いくらいなのだが、今の時間帯は吹いてくる風が身体に心地よい。といってもそこは大学構内である。ちょうど、大学を半分に分けるように大きな道が一本通っているのだ。力強く地に根付いた体格のいい樹木が、整列しているかのように姿勢よく並んでいる。

「なあ」

  風で舞い落ちてくる葉っぱを、ボクサーがやるようなステップで避けながらイツカが話しかけてきた。

「ん?」

「いつも思うんだけどさ、葉っぱっていつの間にこんな色になるんだろうな」

「そりゃ毎日ちょっとずつ色づいていってんだよ」

「俺もそう思って、毎回この季節になるたびに注意して見てるんだけど、気づいたらこうなっているんだよな。もしかしたら大学の職員総出で、夜中に色づけしているんじゃないだろうな」

 さっきまで考えていたことをイツカが言い出すので驚きながらも、僕は冷静に応対した。

「そんなわけないだろ。だいたい何でそんなことをしなければいけないんだ」

「そりゃ俺たちを喜ばすためだろ。日夜ホワイトボードばかり見ている俺たちには、目の保養が不可欠なんだよ」

「いちいち葉っぱなんて見る奴なんていないだろ」

「見張ってみようかな」

「は?」

「だから見張るんだよ。おもしろい場面に遭遇するかもしれない。お前も一緒にやろうぜ」

「勝手にやってろ」

                校門を出ると、イツカがいつもとは別の方向に向かって歩き出した。

「じゃあな、今日はバイトなんだ」

「バイトなんかやってたっけ」

「まあな」イツカにしては珍しく歯切れが悪い。

「どんなことするんだ」おもしろいので訊いてみる。

「まあ……いろいろ調べものするんだ」

「そんなバイトがあるのか?」

「あるんだなあ、これが。おっと遅刻は厳禁なんだ。また学校でな」


3.

 アパートに戻り、郵便物をチェックしていると見慣れない白い封筒が入っていた。宛名も差出人も書いていないことに怪しみつつも鍵を探していると、勝手に自室のドアが開いた。

「お帰りー」

 姉だった。いきなり家出して行方不明になっていた姉が、目の前にいる。

「……姉ちゃん」

「けっこういいとこ住んでるじゃない。大学生ってこんな贅沢できるの?」

「ど」

「ど?」

「どこに行ってたんだよ」思わず声が大きくなってしまった。「父さんも母さんも、姉ちゃんが出て行ったとき、すごく心配したんだぞ」

「うるさいなあ。玄関でそんな大きな声を出さないの」

「僕の言っていることが――」

「ノゾム」

 僕の声をさえぎって、姉は真剣な顔つきで言った。毎回こうなのだ。小さい頃から僕が何か口答えしようとすると、こうやって諫めようとする。しかし大学生になった今でも黙ってしまうことには驚いた。

「とりあえず中に入ろう」いつまでたっても、僕は姉に逆らえない。

「ったく何よー、せっかく愛する弟の顔を見に来たのに、機嫌悪いのね」

「だから、どこに行ってたんだよ」

「M78星雲」

「それはウルトラマンの故郷」こっちは本気で話そうとしているのに、姉は投げやりだ。「あなたは、なぜ家出をして、どこに、行っていたのですか」

「さあ、どこでしょう」

 僕は大きく息を吐いて、言った。「もういい。言いたくないなら、別に今でなくてもいいよ。何か飲み物でも出すから、座っといて」

「はーい」

 まだ手に持っていた郵便物を、どこかに置こうとして気づいた。あの白い封筒だ。

「どうした?」

「いや……これ」そう言って僕は姉に手渡した。

「ふーん。何も書いてないわね。開けてみましょう」なぜだか、姉は楽しそうだった。僕も一緒に覗き込む。ワープロ打ちで、このような文面だった。

 

ノゾムさん、今シオリさんは危機的な状況にあります。このまま行動を起こさないでいると、あなたの大事な彼女は取り返しのつかないことになります。彼女を救えるのはあなたしかいないのです。はやくシオリさんのもとに行ってあげてください。

          シオリさんを心から心配する者より

 

 文章の最後には、病院の名前が記されていた。シオリが何かの病気で、ここに通っているということなのだろうか。

「どういうことだろう」

 最近シオリに会ったが、別段おかしいところは見つからなかった。そもそも「シオリさんを心から心配する者」とは何者で、何の為にこんな手紙をよこしたのだ。僕が突っ立ったまま考えていると、姉がいらいらしてしょうがないといった様子でこう言った。

「何ぼーっとしてんのよ。行くわよ」

「え」

「え、じゃないわよ。彼女がピンチなら行くしかないでしょうが」

「そりゃそうだけどさ。怪しすぎるよ」

「それならここにいる?」

「いや……」姉は、何か気になることがあったら、いてもたってもいられなくなる僕の性格を熟知していた。「分かったよ。行こう」

 

 手紙の病院は、最寄の駅から二駅のところにあった。目的地で降り、出口を抜けると、すぐ目の前に長い坂が現れた。どうやら病院は、ここを登ったところにあるらしい。

「よーし坂道ダッシュよ」そう言って姉はいきなり走り出した。

見る間に小さくなっていく後姿を眺めていると、僕の心の中では期待と不安がむくむくと膨らんでいた。再び小さい頃みたいに姉と何かをするということが、そうさせているのかもしれなかった。

 坂を登っていくうちに、病院がかなり大きな建物であることが分かってくる。どうやらいくつかの科が集まって診療している総合病院のようだ。

「着いたー」一足先に姉は坂を登りきっている。

  ほどなくして僕が到着すると、姉がしきりに辺りを見回していた。

「何してるの?」

「いや、どこで見張るのが一番いいかなあって」

「そんなに本格的にしなくても……」

「だめよ。こういうのは、きちっとやんなきゃ。見つかったら終わりなのよ」

 そうは言っても、ここは病院の入り口だ。そうそう隠れる場所は見つからない。

「そうだ」

「何だよ、いきなり大声出して」

「木を見て森を見ずだったのよ、私たちは」

「はあ」

「待合室よ」

「そんなところすぐに見つかる――」

「こんなに大きな病院で、待合室も広いだろうから大丈夫よ。もし彼女が近くまでやってきたら席を立てばいいだけのことだし」

「……確かにそうかも」意外な盲点だったのかもしれない。

 中へ入るときに、病院を前にした僕は違和感を覚えた。以前に来たことがあるような気がしたからだ。でもそのときの僕は、原因なんて分かるはずなかった。

 

 備え付けのベンチに座りあらためて見渡すと、院内は多くの人で溢れている。あまりの多さにどこかのスーパーにでも来たような錯覚に陥りそうなところを、辺りに漂う消毒液の匂いが感覚を元に戻してくれる。大半の者は携帯を操作したり、雑誌を読んだりしていた。

「あんたの彼女ってどんな子?」

「まあ、かわいいよ」

「へえ。どっちから告白したの」姉の眼が、好奇の色を帯びてくる。

「いいじゃん。そんなこと」

「よくないわよ。ほら、シオリちゃん来るまで暇なんだしさあ、いいじゃない」

 会ってから数時間と経たないのに、もう僕の身体は姉に拒絶反応を示そうとしていた。よくこんな面倒くさい姉と、小さい頃つるんでいたものだ。

「ねえねえ、いいじゃーん」両腕で肩を揺すってくる。

「分かった、言うよ。言います」僕は記憶をたどりながら、それこそ点滴の液が落ちるくらいのスピードで、ゆっくりと話し始めた。

 

  シオリとは、バイト先の居酒屋で出会った。ほぼ同じ時期に働き始め、シフトが一緒だったときには自然に話し、共に業務をこなしていた。最初は、付き合おうなんてことは思っていなかった。別段彼女に対して、恋愛感情がなかったというわけではない。

 シオリには当時好きな人がいた。バイトの先輩だ。かっこよくて、人望もあって、仕事もできる。まさに三拍子揃った、完璧な人だった。だから嫉妬も何の感情もわかなかった。もし女に生まれていたら、僕も彼氏候補に名乗りをあげていたかもしれない。それぐらい、先輩はいかしていた。

 ユウジという名のその先輩も、シオリには気があるようだった。つまり、その時点で結果は決まっていた。春から夏へ季節が移るように、赤から青へ信号が変わるように、それは決まりきっていたのだ。

  はれて二人は付き合うことになった。シオリは幸せの絶頂だった。バイト中のお喋り、客に対する動作、表情。その全てが彼女の極めて良好な精神状態を、鮮明に表わしていた。

 僕はと言えば、くやしがることも地団太を踏むこともなく、むしろ恋というものはこんなにも人を輝かせるのか、ということに感心していた。シオリとユウジ先輩の舞台で僕は脇役でも裏方でさえもなく、ただの傍観者だった。あの光景を目撃するまでは。

 あるとき僕は、街でユウジ先輩の姿を見かけた。先輩の隣には女性がいた。年上のようだったが、どことなく頭が悪そうで、肌の露出部分が多い女だった。二人の距離、話したときの仕草から、友達という関係ではなさそうだった。

 単純に、頭に血がのぼっていた。折れそうなほどに奥歯を噛み、血が出そうなほど掌を握り締めていた。何でこんなにむきになっているのだろうという疑問のあとで、初めて僕はシオリが好きなんだという自分の感情に気づいた。

 急いで追いかけ、二人の前に立ちはだかった。ユウジ先輩は一瞬驚いてみせたが、すぐに薄ら笑いを浮かべていた。女はデートを邪魔されたのが嫌だったのか、マスカラにまみれた両目を吊り上げている。僕はそのあと何をやろうとしていたのかなんて考えていなかったので、困ってしまった。だがこれだけは言った。

「シオリに全部言います」これ以上ないほどに小さくて、震えた声だっただろうが、ユウジ先輩は聞き取ってくれたようだった。

「何怒ってんの」僕の言動が、おかしくてしょうがない様子だった。

 なぜかとても恥ずかしくなった僕は、すぐさま二人を押しのけて走り出していた。後ろからは女の、先輩を問いただす怒号が追いかけてきた。


4.

 気まずくなったのか、すぐに先輩はいなくなった。小さな店だ。くだらない噂なんてすぐに広まる。居ずらくてしょうがないだろう。辞めれば、それで済むのだ。

 それでもシオリは、失恋の傷跡なんておくびにも出さずに、そこにとどまった。

 ある日、心無いバイト仲間が「ユウジとはうまくいってんの?」という質問を投げかけたことがあった。シオリは皿を片付けながら、バターと間違ってマーガリンを買ってしまったくらい、何でもないような様子でこう言った。笑ってさえいるようだった。

「別れたよ? なんか浮気してたみたいだからこっちからフッてやった」

  同じ立場だったら、到底そんな言葉は出てこないだろう。彼女のそんなところに僕は魅かれたのかもしれない。

 それからというもの、僕は季節外れの大型台風のように遅い速さで、彼女に近づいていった。ユウジ先輩の代わりになろうだんてことは思っていなかった。ただ彼女の気が少しでも紛れてくれれば、僕はそれでよかった。

「本当に今付き合ってるの? いつになったら告白するのよ」

「いや、シオリのほうから告白してきたんだ」

「シオリちゃんのほうから?」

「うん。だから僕は彼女に愛されていない」

「……どういう意味」

「だってそうだろ。彼女は寂しいだけなんだ。傍にいてくれれば、誰でもよかったんだよ」

「ひねくれてるわねえ。そんなの抜きにしてさあ、素直に付き合えばいいのよ」

「別にいいんだ」

 話をしていても、どこかに遊びに行っても、必ずユウジ先輩が彼女の中にいた。彼女の視線は、僕を通り越した遥か先に向かっていた。シオリの心の中に僕はいなかった。

「さっきのあんたの言葉じゃないけどさ、あんたにとってシオリちゃんは何なのよ」

「恋人」

「じゃあユウジ先輩ユウジ先輩って言うのはやめな」

 院内の混雑した状態はまだ続くようだった。ベンチに座り、名前を呼ばれ、一様に不安げな表情で人々は診察に向かっていく。高齢の患者がよろよろと歩いてきたが、看護士に連れ戻されていった。迷ってしまっていたのだろうか。

「シオリ、来ないね」

「話は終わってないわよ」

「努力はしたよ。必死に振り向かせようとした。でもそうすればするほど、自分の空回りぶりに虚しくなるんだよ」

「……」

 こんなはずではなかったのに、何か気まずい雰囲気になってしまった。「今日は駄目みたいだね。もう帰ろう」

 

 姉が返事をしなかったので、先に外を歩いていると、後ろからタックルされた。なす術もなく僕は地面に倒れる。

「何すんだよ」こけるなんて、久しぶりだ。

「ごめん」

「謝る奴の行動じゃないだろ」

「だからごめんって」

「いいよもう。俺も泣き言みたいなくだらないこと言っちゃったし」

 シオリのことを人に話すのは、姉が初めてだった。イツカにも話していない。嫌な思いもしたが、気持ちが少し楽になったのも事実だった。

「さあ家に帰ったら飯よ、飯」

「え。姉ちゃんの家があるでしょ」

「ないわよ。こっちに来たばかりなんだから。いいとこ見つかるまでよろしくね」

「……はい」新居が早く見つかることを願うばかりだ。

 空には、ボールのように丸い月が浮かんでいた。周りは人通りもなく、静かだった。

「居候するんなら、姉ちゃんが料理作ってよ」

 声をかけても返事はない。姉は病院のある一角を、両目いっぱいに広げて見つめていた。何かに驚いているようで、それでいてどこか悲しげな表情が月明かりに照らされている。

「姉ちゃん?」

「あ、ごめん」どこか取り乱している様子だった。「帰ろう」

 よく目を凝らしても、そこには何も見えなかった。

 

 夢を見た。これまで何度となく見てきた夢だ。目の前に広がる真っ白な空間。いや、それは何かの光かもしれない、明るすぎて、自分の目には白く映っているだけなのかもしれない。そこには一つの扉がある。どこにでもありそうな、木製で金属のドアノブがついたただの入り口。扉の向こうには何があるのかは分からないが、何かが確かに存在していることは分かっている。でも僕は扉を開けない。開けたくない。僕はただそこに座り込んで、扉を見つめるだけだ。

 

「これ何だ」

 イツカがいきなり箸を、僕の方に向けてきた。その先には、とんこつスープが滴る茶色の薄っぺらい物体が掴まれている。

「チャーシューじゃないのか」そう言って僕は、この店自慢のちぢれ麺をすする。

「いいか、チャーシューというものはな、もっとこう分厚くて、噛んだら肉汁が溢れてくるやつのことを言うんだぞ」イツカは身振り手振りで熱弁している。「それがなんだこれは。危うくスープと一緒にのみ込むところだったぞ」

 僕とイツカは大学の近くにあるラーメン屋にいた。他に客はいなくて、奥のほうでは店主が新聞を読んでいた。曲名は知らないが、腹の底に響いてくる、低音がきいた演歌が流れていた。

「じゃあもうこなきゃいいだろ。毎回昼になったら、ここに直行してくる奴はどこのどいつだ」

「いやあ、二度と来るもんかと思っても、なんかまた食べたくなっちゃんだよなあ」

「それなら我慢しろよ」

「どうしたノゾム君。今日は機嫌が悪いじゃないか。何かあったのか」

「別に何でもない」

「いや、あったな」

「何で分かるんだよ」

「いつもは替え玉すぐに注文するのに、今日はしていないからだ。お前が食欲ないときは機嫌が悪いときだ」

「食欲あるときも、機嫌悪いときは悪いよ」

「も、ってことはやっぱり機嫌が悪いのか?」イツカが丼に顔を近づけたまま、口の片端を吊り上げて、こちらを見上げてくる。

「その嫌らしい顔はやめろ」

「何があったんだ?シオリちゃん浮気でもしたのか」

 シオリという言葉を聞いて思わず僕は、え、と言ってしまった。

「そうなのか?」

「いや、浮気ではないんだけど」とうとう僕は観念して、昨日のことをイツカに話した。郵便箱に差出人不明の封筒が入っていたこと。行方不明になっていた姉が突然帰ってきたこと。シオリを探しに病院に行ったこと。今から思えば、本当に色んなことがあった。

「何か心当たりはあるのか」

「いや」

「じゃあ、これからもずっと病院でシオリちゃんを待ち続けるのか? 何の信憑性もないのに」

「しょうがないだろ。何か気になるし」

「いたずらに決まってる。いいか、封筒を入れた奴はお前がひっかかって、待合室で呆けた顔しているのを見て、陰でほくそえんでいるんだよ」

「別に呆けた顔をしているわけじゃない」

「とにかく、もうそんなバカなことに付き合うのはやめたほうがいい」そう言うなり、イツカは帰り支度を始めた。

「どこに行くんだよ」

「バイト」

「最近忙しいな。この前言ってた、いろいろと調べものをするバイトか?」

「そうそう。これがなかなか大変でさ。じゃあな」イツカは足早に店を出て行く。

 一人取り残された僕は混乱していた。イツカの言うことはもっともなのだが、やはり気になる。本当にどういう狙いがあって、こんなことをするのだ。手掛かりさえも無い。

 冷めてしまったラーメンを前に途方に暮れていると、店主がこちらを睨んで、不審そうな視線を投げかけている。

 僕は急いで残りを平らげ、店を出て行った。

 

 家に戻ると、姉が僕のベッドで寝ていた。こっちの頭の中はクエスチョンマークが列をなして行進しているというのに、のんきなものだ。

 何気なく寝顔を覗き込んでみたら、何やら苦しげな表情をしていた。悪い夢でも見ているのだろうか。汗もかいている。

「……置いて……かないで……お……ん」

 姉が突然寝言を言い始めた。

「姉ちゃん?カオル姉ちゃん」姉がうなされている所を見るなんて、始めてのことだっだ。

「ノゾム……」

「何か、うなされてたよ」

「そう?」

「うん。置いてかないで、とか言ってた」

 姉は顔を手でごしごしとこすりながら起き上がり、気分悪かったから寝てたの、と言った。「変な夢でも見てたのかしらね」

「そっか」少しバツが悪くなった僕は話題を変えることにした。「また病院行こうかと思ってるんだけど、一人で行ってくるね。まだ休んでるほうがいいでしょ」

「いや、わたしも行く」

「でも――」

「もう大丈夫だから」

 姉の寝起きの腫れぼったい目は、涙を流した後のようにも見えた。


5.

「信じる気になったの?」

「ん?」

「あの封筒のことよ。あんたから病院に行こう、とか言うからさ」

「分からないものを放っておくのは、いらいらするからさ。とにかく、シオリが本当に現れたら何か進展はあると思うんだ」

 待合室には相変わらず人がたくさんいた。以前に来たときは待っている者全てが不安そうにしているように見えたが、今回は清々しかったり、嬉しそうな顔をしている人もいた。               考えてみれば当然のことだ。今まで僕は、病院に負のイメージしか持っていなかった。退院したり、治療が終わったりする人もいるのだ。

「今日は来るかな、シオリちゃん」

「さあ。待つしかないね。それより本当に姉ちゃん大丈夫?顔色悪いよ」姉はいつも活動的で、病気をしたことなど滅多になかった。

「あんたよりは元気よ」

「こっちは心配しているっていうのに。かわいくないなあ」

「それよりさ、昔もこういうことやったよね」

「誰かを見張ったりとか?」

「ほら、あの変なじいさんよ」

「……ああ、バルタン星人のことか。確かに変な人だったけど、あれは姉ちゃんが勝手に決め付けてただけじゃないか」

 姉の言葉で思い出した途端に、目の前のベンチやカウンターが、幼い頃の風景に変わっていく。確かあの年は観測史上何位の猛暑、などとテレビが騒いでいた。

 

姉がバルタン星人と呼んでいたおじいさんは、近所からは変人と蔑まれていた。手には布団たたきを持ち、玄関の前に椅子を置いて、そこに姿勢よく毎日座っていたからだ。

 もちろん親は布団じいさんに近づくことを固く禁じていたが、そのときは夏休みということもあって、子供たちにとってはかっこうの遊び相手だった。

 どれだけ布団じいさんの近くにいけるかを、皆で競うのである。遠すぎると臆病者と揶揄され、近すぎるとものすごい形相で布団じいさんに追いかけられ、持っている布団たたきで叩かれる。

 ちなみに姉は、十六回連続で「布団たたきの刑」から逃げ切るという偉業を成し遂げた。

十七回目でついに姉は布団じいさんに捕まり、家の中に連れ込まれてしまった。以前から、布団じいさんは奥さんを殺したとか、道端で人を捕まえては食っているというとんでもない噂を思い出して、僕は気が気でなかった。

 そんな心配をよそに姉は数時間後、何でもなかったような平気な顔をして家から出てきた。

 その数日後、姉は毎年夏休み限定で再放送していた『ウルトラマン』を見て、唐突に「分かった」と言った。

「何が?」

「布団じいさんはバルタン星人なのよ」

 その日の話は、故郷を失ったバルタン星人が偶然立ち寄った地球に魅せられ、侵略を画策するというものだった。途中で科学特捜隊のアラシ隊員が、身体をバルタン星人に乗っ取られるというシーンがある。そこを見て姉はそんな発言をしたのだろう。

「よし、行くわよ」

「え。どこに?」答えはもちろん分かっていたが、僕は一応訊いてみた。まあ、儀式みたいなものだ。

「布団じいさんのところに決まっているでしょうが。行くわよ」姉は、いーくぞわれらーのうーるーとーらーまーん、と口ずさみながら家を飛び出ていった。

 

 その日から姉は、布団じいさんあらためバルタン星人の正体を明かすため、塀に隠れて見張りをすることにした。

 バルタン星人は一日中椅子に座っていた。じりじりと肌を焼く、夏の強い日差しが容赦なく照りつけるなか、ただひたすらに座り続けていた。

 雨の日も同様に、ずぶ濡れになりながら座っている姿を眺めながら僕はふと、何でバルタン星人は家の前でこんなことをしているのだろう、と気になった。本も読まなければ、体を動かそうともしないからだ。疑問をぶつけてみても姉は、バルタン星人だから平気なの、としか答えなかった。

 それから数日後、例によって見張りを続ける僕達にバルタン星人が話しかけてきた。

「暑いな」

「宇宙人はそんなもの感じないんじゃないの」

「暑いもんは暑いさ。ジュースでも飲むか?」そう言って、布団たたきを家のほうに向ける。

 その日は風一つ吹かないうえに日光が頭上にさんさんと降り注いでいたので、その言葉を聞いたとき思わず僕は足を踏み出しかけたが、姉は違った。

「そんなこと言って、わたし達を家に誘い込んで殺すつもりなんでしょう」

「そうかそうか。お前たちは何も飲まなくていいんだな。じゃあ俺だけ飲んでくるぞ」バルタン星人は椅子から腰を上げ、家に戻ろうとする。

「待って」そう言うなり姉は、僕に顔を近づけて言った。「あいつの正体を暴くチャンスだから行くわよ。いい?ジュースを飲みたいわけじゃないから」

 

 ここで待っていなさい、とバルタン星人に通された部屋はどこか寂しげだった。絨毯を敷いているというわけでもなく、畳は何十年もの年月を吸い取ったかのように、薄茶色に変色している。あとはテーブル、テレビ、時計などがわずかながらその空間を埋める役割を果たしていた。

 縁側の窓のほうには、鏡台よりも一回り小さなテーブルが置いてあって、そこには花と一緒に写真が飾られていた。奥さんだろうか、思わずこちらも、もらい笑いしまいそうな、柔和な表情が切り取られている。

 僕の家が散らかっているからそういう風に感じたのかもしれない。大半は姉が集めた、怪獣のフィギュアや、飛行機のおもちゃだったりするのだが。

「いい?何か出されても注意するのよ。中に睡眠薬が入ってるかもしれないから」

「何も入れちゃおらんよ」

 気がつくと、目の前にバルタン星人がジュースを載せたお盆を持って、立っていた。

「おもしろいな、君は。そもそも何で俺のことをバルタン星人だと思うんだ」

  僕がこれまでの経緯をかいつまんで話すと、またおじいさんは大きく笑った。

 姉が、部屋の隅に飾ってある写真について訊いた。

「あれ、奥さん?」

「ああ」おじいさんは朝日を眺めるときのように眩しそうな顔つきになって、誇らしげに頷いた。「奇麗だろ」

「うん。……もういないの?」

 姉の質問に僕は気が気でなかった。人が死んだとかそういう話は、子供がしてもいいのだろうかと不安になっていた。しかしおじいさんは穏やかな表情を絶やすことはなかった。

「ある日起きたら、もう死んでた。眠りながら逝ったから、まあ幸せだったんだろうな。安らかな顔をしていたよ」

「寂しい?」

「そりゃそうさ。ずっと一緒にいたからな」

 姉は何か考え込んでいるようだった。そういうとき姉は、何かの痛みに耐えるような険しい表情になる。僕はそんな姿を見ると、姉がどこか別の世界に行ってしまったかのような、とても悲しい気持ちになってしまう。

「繋がっていたんだなあ、と実感したよ。一緒にいる時間が長すぎて、見えなくなっていたんだ。二人を繋ぐ糸みたいなものがね」

 だからおじいさんは、家の前であんなことをしていたのかもしれない。どんな形であれ、誰かと繋がっていたい。その気持ちが行動となって表れたのだ。

 姉は最後までじっと何かを考え込んでいるようだった。

 

その日を最後に、おじいさんはいなくなってしまった。事故にあって死んでしまったとか、自殺したとか、気が狂って入院しただとか様々な憶測が流れたが、真相は分からずじまいだった。

           

「おじいさん、どこに行ったのかな」

「さあ。でも絶対どこかで生きてると思う」

「そうだね。今思ったんだけどさ、何で姉ちゃんはあのおじいさんを慰めようと思ったの」

「え」

「いや、バルタン星人とか何とか言ってたけど、姉ちゃんはおじいさんを慰めようとしてんだろ?そういうことするの、姉ちゃんにしては珍しいと思ったからさ」

 姉は、失礼ね、と僕を殴る素振りをしてから言った。「あの人も、置き去りにされていたからかな」

「も?」姉の言葉の意味を測る間もなく、事態は急展開を迎えた。

「来た」姉が小さく叫んだ。

 見やるとシオリが受付で何やら話している。

「こっちに来る」

 急いで僕らは見つからぬよう顔をうつむき加減にして、様子をうかがう。紺のカーディガンに黒のパンツという地味な服装で、彼女は自分の順番を待っていた。鞄を床に置かず、きつく抱きしめている。彼女の緊張がこちらにも伝わってくるようだ。

 やがてシオリは名前を呼ばれたのか立ち上がって、歩き始めた。僕たちも後を追う。

 何度か角を曲がりシオリは、とある部屋に入っていった。入り口の天井付近に『心療内科』という案内が吊り下げられていた。

「心の病気なのかしら」

 きっとそうだ。僕は心中で確信していた。そうに違いない。ユウジ先輩のことと僕の間で板ばさみになって、彼女は悩んでいるのだ。でもそれなら、僕に付き合えないと言えば済むことではないか。何で病院に通ってまで、この関係をシオリは続けようとするのだ。

 僕はこれまで以上に混乱していた。一人になりたかった。そもそもシオリにここまで悩ませる自分が情けなかった。

「何日もかけて、こんな結果になるなんて。待合室で見張りなんてやるもんじゃないわね」

                姉の何気ない一言に僕の頭は異常に反応していた。謎のバイト、見知らぬ封筒、喫茶店での会話。バラバラに散らばっていたブロックが、一つのある形になろうとしていた。

「姉ちゃん悪い。先に帰ってて」僕は姉の制止に耳も貸さずに走り出していた。

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