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蒼い夏~変わらなかった或る車窓

 もともと、暑がりなせいか、最近は夏が嫌でなりません。
 沸き立つような夏雲がフワフワと浮かぶ蒼い空は、見ているだけで気持ちがいいものですが、コンクリートに容赦なく照りつける太陽が、暑すぎて歩くことさえも嫌にさせてしまいます。
 道の先がゆらゆら揺れて見えるそんな日は、もう、何もしたくなくなってしまいます。

 私にとって旅をするのも夏はあまり好きでありません。
 最近は、夏になるとどこへ行く気力も消え失せてしまいました。
 冬が美しすぎるからです。雪のある冬があまりにも美しいものですから、冬になると北へ北へと足が向いてしまいます。
 よくまわりの人たちは、寒い時に寒い所へ行くなんて……、と不思議がりますが、私からすると、雪があんなにも美しい季節に、どうしてみんな家に閉じこもったり、温かい南の方へ行ったりするのかが不思議です。

 それでも、夏の蒼い空の下、少し冷たいさわやかな風が緑の香りをふりまいて通り過ぎる時、海からの風が潮の香りを届けてくれた時、夏も素晴らしい季節だと思い直してしまいます。

 そんな夏を追いかけて、幼い頃から、いろいろな旅をしていたような気がします。

 昔、私が小さい頃、お盆頃になると祖父や祖母に連れられて、よく山陰へ行きました。
 だから夏休みが楽しみでなりませんでした。
 大阪駅から急行列車で8時間近くもかかる島根県の日本海に面した小さな村が祖父のふるさとでした。そこへ行くには、大阪発浜田行急行列車の「だいせん」号をよく使っていました。

 大阪を朝の9時50分に発車する急行「だいせん1号」浜田行は、福知山線を通り、途中いくつもの小さな駅に立ち寄って、その村に連れていってくれます。
 肌色と赤のツートンカラーのディーゼルカーを何両も連ね、多くの人たちを詰め込み、青色の堅い直角椅子で、見知らぬ人たちと向かい合わせに旅を続けます。
 8時間も列車に揺られるので、祖母などは酔い止めの薬を多用していましたが、幼い私にとっては何よりも楽しい時間でした。

 大阪を出ると、途中、茶色や青色の古びた客車の鈍行列車と何度もすれ違います。その鈍行列車のドアがないので、不思議に思ったりしましたし、冷房なんてもちろんなく、国鉄マークの入った扇風機が忙しそうに生暖かい風を送っているだけで、乱雑に窓が開け放されています。
 ずっと遠くまでは行っているのですが、その目的地へ早く着こうなどという気はまったくなく、2時間も走ると30分くらい駅で止まっているようなのんびりとした列車でした。

 当時の私はそんなのんびりとした列車が嫌いで、速くてかっこいい特急列車にばかり憧れていました。
 その中でも大阪発、福知山・山陰本線経由の博多行特急列車の「まつかぜ」にもっとも憧れていました。
 何といっても速いのがかっこ良かったのです。時刻表をめくると通過を示す「レ」印ばかりで、鈍行列車や急行列車などのように抜かれるために駅で待つことは絶対になく、2人掛けのシートで、窓も大きく、食堂車もついていて、エンジンを唸らせながら快走する姿は、何よりもかっこ良く見えたのです。

 その列車は特急列車ですから、もちろん、私たちが目的の小さな村の駅には止まってくれませんし、指定券などは取れず、自由席もいつも混んでいました。それで、速すぎる特急列車と遅すぎる鈍行列車との中間を取って、いつもこの急行列車に乗ることになっていたのです。

 ある時、私が祖父に無理を言って島根からの帰りに新幹線を使うことになりました。その小駅から急行に乗り、米子まで出て伯備線の電車特急に乗り換え、岡山へ行ってそこから新幹線に乗る計画でした。
 特急列車に乗れると思うだけでわくわくしていて、早くこの田舎の家から帰りたい気分になりました。
 朝、タクシーで田舎の小駅に向かい、米子へ向かう急行列車「石見2号」を待ちました。

 その駅で堅く細長い硬券の切符を買い、電話で近くの大きな駅に新幹線と特急列車の座席を問い合わせてもらい、硬券切符に席番号を書き込んだ指定券を売ってもらいました。

 木でできた茶色い改札口の上には「9:16 急行石見2号 米子行」と書かれた木札が吊り下げられています。私は駅のキオスクでアイスクリームを買ってもらい、ベンチに腰掛け、今か今かと急行列車の到着を待ちわびていました。
 ところが、発車直前になっても駅にいる客は動こうとせず、改札をする駅員も出てきません。
 いつの間にかディーゼルカーがやってきて、あっという間に去ってしまいました。
 私も祖父もその列車が急行「石見」だとは気づかず、乗り遅れてしまったのです。駅員も誰も乗らないと思い、改札をしなかったのです。

 私は必死に涙をこらえ、次の鈍行列車に乗ることになりました。
 やはり、例の茶色と青の古い客車を何両も連ね、赤いディーゼルカーに引かれてやってきました。
 入口のドアも開け放されていて、扇風機の熱い風だけが誰もいない車内に廻っています。
 堅い椅子に腰をかけ、いじけた顔をして、開け放された窓からずっと景色ばかり眺めていました。
 窓からは潮の香りが流れてきます。トンネルに入ると、冷たいしずくが顔にかかります。いろんな人たちが乗っては降り、あっという間に顔ぶれが変わってしまいます。ドアのないデッキからは車輪がレールを打つ音が絶え間なく聞こえてきます。一度止まると特急や急行列車がたくさん過ぎて行き、なかなか動こうとしません。

 そんなことすべてが、不思議で不思議でたまりませんでした。しかし、それがなぜか嫌でした。

 だけど、それから大きくなった今も、その時見た山陰の透き通るような海の青さや潮の香りがする冷たい風が忘れられないのです。特急や急行列車から見た景色は不思議と覚えていないのに、鈍行列車から見た景色だけが、いつまでも消えないのです。不思議なものです。心に焼きついて消そうとしても消えないのです。
 夏になると、いつしか、山陰の海が見たくなるようになりました。

 それから、幾つかの時が流れて、私は夏になると何度も一人で山陰を訪れました。
 茶色い、ドアのない客車列車は、赤い自動ドアの客車列車に変わり、いつしかそれさえも消え、窓の開かないクーラーのついた白いレールバスが走っていました。

 それでも、海の青さだけは昔とちっとも変わっていないのです。
 私が大きくなっても海も山も空も潮風も昔のままでした。
 幼かったあの時のままで、いつでもやさしく迎えてくれます。
 また、夏になったら、あの海や潮風に逢いに行きたいと思います。

(1996,7)

いつか思い出の旅 九州へ~こだま号と関門海峡

 心が痛くてやりきれない時が、年に何度かはあります。日々の生活に押し詰まって逃げ出したい、そんな気分でした。
 小さなかばん一つ下げ、昼下がりのターミナル駅にやってきて、流れる人々を見ながら考えました。「北へ行こうか、それとも南か」。

 なんとなく南へ向かいたい気分になり、目標を九州南端の鹿児島に決め、梅雨も明け切らない7月の或る日、何の目的もなく、午後の山陽新幹線に飛び乗ってしまいました。

 昼下がりの新幹線「こだま」号は、ビジネスマンらで結構な乗車率です。とはいえ、たったの6両しかつないでおらず、新幹線の中のローカル列車という感じもします。

 昨年の地震では壊れた高架橋を200km/h近いスピードで通過して行きます。所々で空地が目立つ神戸の町を過ぎ、列車は山陽路を通過します。
 新神戸、姫路、相生、岡山と「こだま」号は各駅に停車、昔ならば山陽本線の鈍行列車で西へ西へと向かうところですが、今ではそんな体力も時間もありません。
 それでも「ひかり」や「のぞみ」であっという間に着いてしまうのが嫌なので、せめてもの抵抗に、と「こだま」号に乗ったのです。

 「こだま」号はローカル線のような不思議な魅力があります。各駅では通学の高校生や買物帰りの主婦まで乗ってくるかと思えば、遠くまで行く旅行者の姿も時折見かけます。新幹線も一部の高級な人が乗るのではなく、少し急いでいる人なら誰でも乗るようになったようです。

 新尾道、東広島など在来線ではお目にかかれない駅にも停まり、一路、終点の博多へと向かいます。山陽新幹線は東海道新幹線とは違い、何となくのんびりとした雰囲気です。トンネルや田園が多い風景や、どんな人でも乗っている客層がそう思わせる原因かもしれません。

 広島、小郡と過ぎ、列車は本州最後の駅、新下関に到着しました。このまま新幹線で九州へ入るのは、何とも愛想がない気がしたので、ここで下車しました。

 鉄道で九州に入るのは、ありきたりすぎるので最初は歩いて関門トンネルを渡ろうかと思いました。が、あとで関門間には船があることを思い出し、駅前からバスに乗り、本州側の船の発着地・唐戸という所に行きました。

 モーターボートのような小さな船で門司港まで連れて行ってくれます。九州・門司の街を目の前に仰ぎながら、夕暮れの関門海峡の上を、まるで走るかのようなスピードで船は九州へと向かいます。実に爽快です。左手には関門大橋の光が見えます。本州・下関からわずか5分で九州・門司に上陸しました。

 やはりここからは鉄道で南へと向かわねばなりません。港のすぐ近くにはJR鹿児島本線の門司港駅の立派な駅舎が構えています。九州の鉄道の起点駅、玄関駅としての風格は十分なのですが、今は関門トンネルがあるので、この駅から九州に入る人なんてほとんどいなくなってしまいました。

 ルネッサンス様式の立派な駅舎の中に入ると、行き止まり式のホームにたくさんの列車が発車を待っています。まさに今、九州の旅路の第1歩が始まる瞬間の感動を心ゆくまで感じてしまいます。
 筑豊方面へ向かう古いディーゼルカーに乗り込むと、何か時代が逆戻りしたような感覚におちいってしまいました。本州から船に乗り、門司港から九州の一歩を踏み出したのは大正解だったようです。

西鹿児島へ向かう夜汽車

 門司駅を通り、5分ほどで北九州の中心地、小倉に到着。ここで下車し、夜の小倉の街を歩いてみることにしました。

 父の実家が九州にあったため、少年時代はよく九州に訪れました。初めて友達と九州旅行へ訪れた時、この小倉の街の賑やかさと反するかのように薄暗い駅前の雰囲気を恐れ、駅から一歩も出られなかったのを思い出します。

 今では駅前も整備され、明るくはなりましたが、繁華街は賑わっているものの怪しい雰囲気のお店も数多く存在するようです。
 でもこの活気が九州らしくて良いような気がしますし、博多山笠が近いためか、各所で太鼓の音が鳴り響いていて、九州らしさをさらに実感しました。

 小倉を離れ、西鹿児島へ向かう夜行列車を待つため博多に向かいます。夜の街を走る列車は、あてのない旅をしている者には、少し寂しい気分になります。
 何もない山や海の近くを走る列車ならあきらめもつきますが、街の中だと、酔ってしまってもみんな帰る場所があり、家路につきますが旅人はいったん旅に出た以上、ひたすら旅を続けるしかないのです。

 さて博多に着いてみて、もう1つ、九州らしさを実感することがありました。このJR九州の電車たちです。他の鉄道会社にはない個性的で派手な車両がたくさんあります。
 特に最近の九州の車両はスマートかつ独創的なデザインで驚いてしまいます。また、国鉄時代の古い車両もすべて色を塗り直し、赤や緑など原色一色で塗られた派手な色彩の車両が多く見られます。

 かって国鉄時代、九州へは使い古した車両しか来なかったそうです。しかし今では国鉄も民営化になり、各鉄道で個性を主張できるようになりました。その昔の反動で、JR九州では派手な車両を登場させたり、厚化粧に塗り替えたりしているのではないかと思います。

 博多駅23時59分発の西鹿児島行の特急「ドリームつばめ」号も、個性的な車両でやってきました。鳥を思わせるデザインはSFアニメのロボットのようで、鋼鉄製に見える暗い色調は頑強そうな印象を受けます。

 車内はまるで飛行機内のようで、ビュッフェや個室までついていて、少々、夜行列車には不似合いな気もしますが、ざん新です。最終列車の役目からか会社帰りのビジネスマンを多く乗せ、日が変わる直前に博多駅を出ました。

 鳥栖、久留米、羽犬塚という博多の通勤圏内でほとんどの乗客は降りてしまい、残ったのは遠くまで行く旅人だけです。

 この列車も私が中学生の頃は、急行「かいもん」という夜汽車で運転されており、宿泊費を浮かすため、門司港から西鹿児島までよく乗り通したものです。また、宮崎、大分を経由する日豊本線には「日南」という夜汽車もあり、その2つを使い、九州内を何日も旅していました。
 今ではどちらも特急になり、豪華な車両になってはいますが、闇夜を走る夜行列車の雰囲気だけは残っています。

 列車は福岡県から熊本県に入る田原坂を越え、深夜の熊本駅に停車後、2時14分に八代駅に到着しました。
 ここでは50分近くも停車します。夜行列車は朝までに目的地に着けばいいので、特急とはいえゆっくりしたものです。このあと、出水駅でも40分近くも停まっていました。

 水俣を過ぎ、鹿児島県に入ると、右手に有明海が広がります。闇夜の中、灯台と月の光だけが波間を照らしていて、幻想的な風景です。夜行列車から海を眺めるのもなかなか良いものです。

 早朝4時56分に阿久根に到着。少しづつ空が見えてきたのですが、今日も天気は悪いようで灰色の雲が空を支配しています。
 川内、串木野と停車し、列車は一路、終点の西鹿児島へ向かいます。昨日は集中豪雨がこの地を襲ったらしく、列車は徐行で運転しています。

 終着近い湯之元、伊集院と停まり、終点の西鹿児島には定刻より5分ほど遅れて6時過ぎに到着しました。

 大阪から1000キロ、15時間をかけて九州南端の西鹿児島へ到着しましたが、かってよく見た古びた駅舎はなく、近代的な高架の新しい駅に変わっていました。それを見て、もう何年も鹿児島へ来ていないことを思い出しました。

桜島を望み南九州を巡る

 西鹿児島までやってきたものの、何の目的もなく、どこへ行こうか迷ってしまいましたが、鹿児島の海と桜島が見たくなり、日豊本線の鈍行列車で宮崎方面へ向かいました。

 3両編成の鈍行列車は、鹿児島駅を過ぎると、少しの間、錦江湾に沿って走ります。湾の向こうには大隈半島が迫り、少し雲に隠れた桜島がそびえ立っています。今日は噴煙は上がっていないものの、朝の光に照らされた桜島は実に雄大です。

 私は北海道が好きで、高校生になってから今まで足は北へ北へと向くようになりました。以来、九州に行こうなどという気はあまり起きず、旅の目的地としてはほとんど存在さえも忘れていましたが、南へ来ると北海道のように風景に感動することはないものの、何かほっとするような安堵感があります。

 北海道が「恋人」ならば、九州は「肉親」とでも言えるような気がします。
 だから心が病んだ今、何かをここに伝えに来たのかもしれません。

 列車は7時5分に終点の国分に到着しました。ホームは朝の通勤や通学客で賑わっています。さらに先へ進もうと特急「きりしま」に乗り込みました。国鉄時代の古い車両ながら相変わらず原色の派手な緑色をしていますが、車内は古いままです。

 国分を過ぎると高千穂岳の深い山の中に入り、宮崎県へと向かいます。歴史のある霧島神宮の駅に停車後、薩摩と大隈の国境を越えるために峠を登ります。電車ながら苦しそうに登ってゆく姿は、本線なのにローカル線のようです。

 国分から40分あまりで都城駅に到着しました。ここから急行「えびの」に乗って熊本へ抜けようと思っていましたが、発車時刻直前になって運休する旨が放送されました。昨日の集中豪雨で、鹿児島県と熊本県を結んでいる肥薩線の一部が不通になっているようです。九州の鉄道は昔から雨にやられることが多く、運休にも手慣れている様子です。

 さらに何をするあてもなくなり、駅前で途方に暮れていたら、JRのバスがここから海沿いの日南海岸方面へと通じていることを知り、それに乗ることにしました。

 やってきたバスはどこかの観光バスと見間違うほどの派手な赤色のバスでした。JRバスというと国鉄バス時代の白地に青ラインの車を思い出しますが、九州はどうも違うようで、鉄道と同じくバスも派手です。

 都城のお城を見ながら、市街地を抜けると、ただひたすら山と丘が続く国道222号線を走ります。辺りを見回してもポツリポツリとしか家がなく、さとうきびやじゃがいもなどの畑がどこまでも続いています。なだらかな丘の上には針葉樹が何本も伸びており、まるで北海道のような風景で驚いてしまいました。

 その後は、車酔いしそうなほどの深い山の峠道を、ひたすらクネクネ曲がりながら、私一人しか乗っていないバスはつき進みます。峠の頂上付近の道路からは、気が遠くなるくらい多くの山々が見えました。山の深さや峠の景色に関しては、北海道より九州の方が、はるかにすごい景色を見せてくれる気がします。

 駅が近づくにつれ、山の集落から多数の多数の老婆が乗り込み、満員になってしまいました。彼女らにとってはこのバスが唯一の交通手段なのです。

 都城から約1時間半、飫肥(おび)の街に入ると、区画されたような街並みのそこかしこに古い歴史を感じる建築物が目につきます。後で知ったのですが、飫肥はかって伊藤家5万5千石の城下町で、藩政時代の街並みを多く残している歴史の町だそうです。
 飫肥駅前で下車すると、駅もそれらしく古い建物風に仕上げてあり、観光案内所やレンタサイクルもありました。

 こんな街に偶然にでもたどり着いたら、いつもなら喜んで歴史散策でもするところなのですが、今回の旅は、心を癒すためにただ海を見たり、列車に揺られていたかったので黙ってこの街を通り過ぎました。

 飫肥からは日南線の鈍行列車で宮崎方面へと向かいました。ワンマン運転の2両編成の鈍行列車は、宮崎へ向かう地元客らで賑わっています。
 途中、太平洋が眼下に広がり心の落ち着く風景が続きます。何となくこのまま宮崎まで行ってもつまらない気がしたので、途中、近くに海の見える青島駅で下車しました。

 青島はかって新婚旅行地として賑わった宮崎県南部の観光地で、日向灘に浮かぶ周囲1.5キロの小さな島です。付近はフェニックスやソテツなどの亜熱帯樹が茂り、南の島を感じさせます。
 有名観光地としては今も健在で、多くの観光客がいて、中には海外からの団体客もいました。沿線には土産物屋が建ち並び、日本の一般的な観光地の様相を呈しています。

 島の周囲は「鬼の洗濯板」と呼ばれる波模様の岩が続いています。島に通じる橋を渡ると砂浜が続いており、そこを歩いて行くとすぐに神社があります。
 あの「古事記」に登場した海幸彦と山幸彦の伝説が残る青島神社だそうです。確かに朱色の社殿は立派で歴史を感じられます。

 そこで少しお参りをした後、島を一周してみました。神社以外に建物はなく亜熱帯植物が生い茂った小さな島は、無人島のような雰囲気があって楽しいものでした。
 梅雨の余波からか蒸し暑く、汗だくになって青島駅に戻り日南線の鈍行で宮崎へと向かいました。

 久しく訪れていなかった宮崎駅も西鹿児島駅と同じように、高架の新しい駅に生まれ変わっていました。宮崎もシーガイアや空港線ができて一段と賑やかになったことだと思います。
 宮崎からは再度、熊本へ抜ける急行「えびの」に乗るべくチャレンジしてみましたが、途中の吉松までしか運転しないという条件つきで宮崎駅を出発しました。

 4両のディーゼルカーもやはり派手な青色に塗られていて、車内も豪華なのですが、日豊本線内は快速列車としての運転で、学校帰りの高校生らが多く乗っていて騒いでいます。男子学生が座席を逆向きにして車掌に見つからないように煙草を吸う姿には笑ってしまいました。高校生は煙草が見つかると停学になってしまうのですから、慎重になるのも当然かもしれません。

 都城からは急行列車となり、都城と吉松を結んでいる吉都線に入り、吉松へと向かいます。
 学校帰りの高校生らはほぼ全員が下車し、車両も2両に減らされましたが、私以外には3人位しか乗っていないようで、途中の小林を過ぎると、ついに私1人だけになってしまいました。
 急行列車で貸切状態というのは初めての経験で、途中の駅では集中豪雨を取材中のTV局のカメラが列車の私の方を撮っていました。

 えびの高原沿いを走る吉都線の景色は単調ですが、急行列車で越えるのは悪いものではありません。遅くもなく速くもないスピードが私にはちょうどいいのです。人生もこんな風に進めたらと、ふと思ってしまいます。

 15時51分、とりあえず本日の終点である吉松に到着です。熊本方面へ抜けることができるのなら、ゆっくりと吉松の共同浴場にでもつかりたかったのですが、西鹿児島発の大阪行夜行列車の時刻が迫っているので、鹿児島方面へ向かうことにしました。

 肥薩線・隼人行鈍行列車は2両編成で、人はまばらです。扇風機がせわしく回り、開け放された窓から入ってきた虫たちが車内を飛びまわっています。
 窓から入ってくる夕暮れの風にあたっていると、昔、この付近の古いディーゼルカーに何度も乗り、旅をしていたことを思い出しました。

 あの頃は何もかも新鮮で、見るものすべてが珍しかったのです。いろんな所へ行き、いろんな人に出逢い、美しい風景を見て感動し、平凡で退屈な、人と価値観の合わない義務教育という名の学校生活を潤してくれたのです。

 心を痛めて旅に出て、懐かしいこの地を偶然訪れ、少しだけ明日が見えたような気がしました。

 隼人から日豊本線の鈍行列車で再び西鹿児島に戻り、大阪行の寝台特急「なは」に乗り込みました。
 灰色の空の切れ間には夕日が赤く輝いています。目的のない旅は、自分を見つめ直し旅だったのかもしれません。
 私にとって「恋人」の北海道ではなく、「肉親」の九州へも、心が痛んだらまた行ってみようと思います。
 その時までさようなら。

(1996,8)

心のアイランド 北海道を行く~日本海に沿って北へ走る

 九州へあてのない旅をした2週間後、今度は北へ向いて旅に出ることになりました。
 梅雨も明け、照りつける太陽が夏の色をしてきた7月中旬の或る夜、大阪駅から北へ向かう夜行列車に乗りました。

 「リゾート立山」という名の臨時急行列車は、北陸本線を走り、富山を経由して立山へ向かう観光客向けの列車です。
 本来ならば、新潟行の急行「きたぐに」や青森行の寝台特急あたりに乗るべきなのですが、こう何度も北海道へ行っていると、正直、ネタが切れてきたような気がしましたので、少し変化をつけるために、富山までこの「観光列車」に乗り、あとは日本海に沿ってゆっくり北へ進もうと考えました。

 一応、夜行列車で急行列車というものの、昼間は特急として使っている新型の「サンダーバード」なる車両の3両編成で運転されていて、まるで私鉄の特急列車という感じです。
 JR西日本自慢の新型特急列車らしく、車内は豪華でスピードもよく出るようです。全車指定席ながら3両しかない車内は空席ばかりが目立ち、睡眠を取るにはありがたい環境です。

 列車は、大阪を先に出た急行「きたぐに」を追うように米原まで東海道本線を走り、北陸本線に入ります。真夜中の北陸トンネルを越え、気がつくと列車は金沢を過ぎ、高岡に入っていました。
 新型車両らしく神通川の鉄橋を揺れも少なく猛スピードで渡り、早朝4時55分、あっという間に富山に着いてしまいました。

 列車はそのまま富山地方鉄道という私鉄に入り、立山まで行くためか降りたのは私一人で、ほとんどの人はまだ眠っているようです。
 ここからは鈍行列車に乗り換え、日本海に沿って北上します。

 朝の空気が心地好い富山を5時35分に出る直江津行・鈍行列車は、昔、寝台車だった車両を改造した電車3両編成で、乗り込んだのは私一人しかいませんでした。

 列車は、滑川、魚津、黒部と日本海沿岸の各都市を一つ一つ訪れながら、乗客を拾って行きます。泊、入善を過ぎたあたりから、左手には日本海が広がりました。北陸本線で日本海が望めるのはこの付近だけなので、朝、早起きして鈍行列車に乗った甲斐があります。

 かっての難所であった親不知海岸も、今では国道8号線と北陸自動車道のコンクリートの塊が海の上高くそびえ立ち、かって幾人もの旅人を飲み込んだ日本海も、今日は青く穏やかで、朝の光が海面を照らしています。
 鈍行列車のスピードで眺める海が、最も美しく感じてしまいます。

 糸魚川を過ぎると、直江津方面へ向かう通勤や通学客がどっと乗り込み、地方都市の朝のラッシュ風景を目にすることができます。
 私の前には行商の老婆が2人並んで座り、当地の言葉で何か喋っています。私にはあまり理解できませんが、自らを「オレ」と表現するのには驚いてしまいました。
 地元の人たちを観察できるのも鈍行列車の旅の良いところなのでしょう。

 列車は越中の国から越後の国に入り、同じくして鉄道会社もJR西日本から東日本の管内へと変わってゆきます。
 終点の直江津には7時33分に到着、過ぎ行く通勤通学客の流れを見ながら、駅のそばをすすり、次の列車を待ちます。

 2本ほど特急電車が過ぎ去った頃、8時36分発の新潟行「赤倉1号」がやってきました。今では数少なくなった急行列車で、貴重な存在といえます。
 国鉄型の急行用電車3両編成ながら、ほぼ満員です。列車は信越本線の上田が始発で長野を経由して、ここ直江津を通り、新潟まで結んでいます。
 それでも特急列車では無視されてしまうような小駅にも停まりながら、乗客を拾って行きます。

 直江津を出てもしばらくは日本海に沿って走り、線路の側に植えられた防風林が日本海らしさを物語っています。冬は猛吹雪になる海も、今はただ眠たくなる位に眩しく、鏡のように光っています。こんな美しい風景を急行列車から眺められるのも幸せな気がします。

 列車は柏崎を過ぎると、越後の国らしく一面が田園風景の中を走り、終点の新潟へ向かいます。急いでいるようで、それほど急いでなく、混雑しているようで、それほど混雑していない、この中途半端さが急行列車の良いところではないでしょうか。

 急行列車に乗っていると、急ぐだけが旅でもなく人生でもないような気にさせてくれます。

 10時30分、終点の新潟に到着です。さらに北上を続けたい所なのですが、鈍行列車はなく、特急列車は今、隣のホームを去ってしまいました。次の特急列車は昼過ぎまでなく、ぶらぶらと新潟の街を歩いてみました。
 何をするあてもなく街を歩き、駅に戻り特急電車で北上することにしました。
 秋田行の特急「いなほ5号」は満員で窮屈でした。自分で選んでしまったとはいえ、少し後悔せざるを得ませんでした。

 途中の村上を過ぎると、進行方向左手に日本海が広がり、美しい風景に沿っては走るのですが、窮屈で密閉された空間から見る海は、あまり気持ちの良いものではありません。特急列車に長い間、乗っていると旅をしているというより、自動的に運ばれているというような気がしてなりません。

 列車は鶴岡、酒田と日本海側の小都市でかなりの客を降ろし、替わって学校帰りの高校生らを少し乗せ、さらに北へと走ります
 終点の秋田には15時56分に到着、新潟から3時間半の特急列車の旅は疲れただけで、あまり気分の良いものではありませんでした。

 秋田駅は来春の新幹線開業に向けての大工事をしており、ごみごみしていてこれもまた気分の良いものではありません。それでも我慢してここまで来たのは、この先、急行列車で旅ができるということにあります。

 秋田駅を17時54分に発車する急行「よねしろ」は、奥羽本線を北上し、大館まで行ったあと、花輪線に入り鹿角花輪まで結んでいる急行列車です。
 3両の古いディーゼルカーで運転されており、かっての急行列車を思い出させてくれます。
 車内は改造されて少しは豪華になっているものの、快速より多くの駅に停車するなどは、これこそローカル急行といえます。

 発車直前になると、会社帰りの人たちで満員になってしまいました。それでも何かのんびりとした雰囲気が漂っているのは急行列車だからでしょうか

 秋田を出た急行「よねしろ」は、なぜか高齢の人ばかりを多く乗せ、車内では津軽弁が飛び交っています。列車は土崎、追分、大久保、早口などという特急列車では完全に無視されてしまう駅にもこまめに停車してゆきます。だからこそこれだけ多くの乗客が乗っているのかもしれません。

 列車はエンジンを震わせ、夕暮れの奥羽路を走ります。
 次第に薄暗くなってゆく景色は、何とも旅愁を感じます。特に秋田から津軽方面へかけての景色は、暗闇から山が迫り、次第にそこへ落ち込んで行くような感じがして悲しくもなります。急行列車から眺めているということもそう感じる原因かもしれません。

 19時30分に大館に到着、列車はそのまま鈍行列車なり、十和田南方面へ行く花輪線に入ります。駅前広場に降り立つと、街はしいんと静まり返り、もうすっかり夜になっていて、肌寒い風が吹いています。

 ここへ来てようやく暑さから解放されたような気がします。大阪では今頃、熱帯夜に苦しんでいる頃だと思うと、少しだけこの寒さを分けてほしい気がしました。

 20時17分発の弘前行鈍行列車もまたディーゼルカーでの運転で、嬉しくなってきます。この奥羽線内や東北全域には、愛想のない「都会型電車」が大量導入され、旅行者を嫌な気分にさせています。

 しかし弘前からはやはり「都会型電車」が待っており、乗らざるを得ない状況になってしまいました。ずらりと一列にならんだロングシートに腰を下ろすと、都会にいるようで悲しくなってきます。
 ただ眠るくらいしかすることもなく、気がつくと終点の青森に到着していました。

 いつも立ち寄る路地裏の中華料理屋で食事をし、無口な女将の顔や、店に飾ってある青函連絡線の古い写真を見て、ようやく自分が今、青森に来たことを思い出しました。青森に来るとなぜかこの店に立ち寄ってしまうのです。寝ぼけていても足が勝手にここへと導いてくれる不思議な魅力のある店なのです。

 冷たい風が吹く青森の港をふらふら歩き、岸壁に座り、ゆらゆらと街の明かりが揺れる黒い海を少しの間、眺めていました。

 ここが本州最北の地でこの先に陸地はなく、遠くに北海道の島影が見えるだけなのです。私は北海道に行く時はどうしても津軽海峡の上を渡って行きたいのです。
 いつものように、青森港へ向かい、函館へ渡る深夜フェリーに乗り込みました。


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