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父ちゃんのタクシー(カラーVer.)
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小ぐまのきょうだい ケーキをつくる
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sigma vol.1.0
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アネモネ。
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魔法のぼうし
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プロローグ
ミドリとコンペイトウ
スーと家庭教師
サフラン
少し前のおはなし
ぼうしに頼っていた2人
素直になれない
ぼうし復活?
よろず屋にて
おとしもの
月夜
りんご
魔法使い
1日の終わり
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ニコニコしょうてんがい
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今週のキョムちゃん
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自虐的恋愛年表~なんだかすみません。~
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期末試験前也 上
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嘘つきの甥
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キュレーションの時代
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奥付
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  1914年、第一次世界大戦が勃発します。24歳のヨアキムも徴兵され、アメリカから集められた74万人の新兵のひとりとして軍隊に入隊します。
 しかし軍隊でも黒人の地位はきわめて低く抑えられていました。黒人兵の大半は工兵や荷役の部隊に所属させられていて、軍隊内における「日雇い労働」のようなものをになわされていたのでした。
   ヨアキムは第805工兵隊に所属し、最前線のすぐ後ろで道路や橋、線路の建設と補修にあたりました。爆撃でダメージを受けた道路を直している途中にドイツ空軍が猛烈な爆撃を仕掛けてきたこともあります。防御手段もなく傷ついた兵が移送もされないまま放置され、それでもヨアキムの部隊はみんなで歌をうたいながら、爆弾が次々と落ちてくる中で一晩中道路を補修し続けたのでした。朝には白人たちの部隊が道路を通れるようにするためーー。
 その様子を見て、白人兵たちはあっけにとられました。
「よくこんな酷い場所で歌なんか歌えるな」
 黒人兵たちは白人たちからひどい扱いを受けていました。「オレたちを犬のように扱うな!」と白人上官にひとこと叫んだだけで、三か月の重労働を命じられた黒人兵もいました。
 ヨアキムもフランス駐留中に同じような体験をしています。水運びという面倒な仕事をさせられ、しかもその仕事を命じた白人の下士官がのんびり寝転がって休憩しているのを見て、思わず怒鳴ってしまったのです。
 「おいそこで寝っ転がってるヤツ、俺は自分の仕事分はもうやり終えたぜ。俺にもっと水を運ばせたいんなら、まず営倉にぶち込みな。そのかわりこの軍隊からおん出たらすぐにお前を見つけてやっつけてやるからな」
 彼は即刻軍事裁判にかけられ、六か月の重労働の刑と給料の三分の二のカットを科せられました。
 そんな軍隊での屈辱的なできごとにかかわらず、ヨーロッパでの軍隊経験は彼の放浪熱に再び火を付けました。
 彼は放浪にそのまま出かけ、戦争が終わってからも妻子のいる家には戻らなかったのです。
 生まれながらの孤立主義者だったといえばいいのでしょうか。彼はその後、18年間にわたって妻や子供たちと連絡を絶ってしまうことになります。
 これはヨアキムの子供たちにもたいへんなトラウマになり、母が再婚した時には子供たちはすかさず再婚相手の苗字を名乗ったほどでした。息子たちが父の気持ちを理解できるようになるまでには、長い年月を要しました。
 ヨアキムの晩年、彼の長男のジョンはついに父親を許して、こう話すようになりました。
 「親父はインディアンなんだ。だれかの家の屋根の下では暮らせないのさ」
 第一次世界大戦が終わった後の1920年代、ヨアキムはアメリカ中を放浪し、いろんな仕事に就きました。鉄道の用務員、リンゴのもぎ取り、商船の船員。

  1914年、第一次世界大戦が勃発します。24歳のヨアキムも徴兵され、アメリカから集められた74万人の新兵のひとりとして軍隊に入隊します。
 しかし軍隊でも黒人の地位はきわめて低く抑えられていました。黒人兵の大半は工兵や荷役の部隊に所属させられていて、軍隊内における「日雇い労働」のようなものをになわされていたのでした。
   ヨアキムは第805工兵隊に所属し、最前線のすぐ後ろで道路や橋、線路の建設と補修にあたりました。爆撃でダメージを受けた道路を直している途中にドイツ空軍が猛烈な爆撃を仕掛けてきたこともあります。防御手段もなく傷ついた兵が移送もされないまま放置され、それでもヨアキムの部隊はみんなで歌をうたいながら、爆弾が次々と落ちてくる中で一晩中道路を補修し続けたのでした。朝には白人たちの部隊が道路を通れるようにするためーー。
 その様子を見て、白人兵たちはあっけにとられました。
「よくこんな酷い場所で歌なんか歌えるな」
 黒人兵たちは白人たちからひどい扱いを受けていました。「オレたちを犬のように扱うな!」と白人上官にひとこと叫んだだけで、三か月の重労働を命じられた黒人兵もいました。
 ヨアキムもフランス駐留中に同じような体験をしています。水運びという面倒な仕事をさせられ、しかもその仕事を命じた白人の下士官がのんびり寝転がって休憩しているのを見て、思わず怒鳴ってしまったのです。
 「おいそこで寝っ転がってるヤツ、俺は自分の仕事分はもうやり終えたぜ。俺にもっと水を運ばせたいんなら、まず営倉にぶち込みな。そのかわりこの軍隊からおん出たらすぐにお前を見つけてやっつけてやるからな」
 彼は即刻軍事裁判にかけられ、六か月の重労働の刑と給料の三分の二のカットを科せられました。
 そんな軍隊での屈辱的なできごとにかかわらず、ヨーロッパでの軍隊経験は彼の放浪熱に再び火を付けました。
 彼は放浪にそのまま出かけ、戦争が終わってからも妻子のいる家には戻らなかったのです。
 生まれながらの孤立主義者だったといえばいいのでしょうか。彼はその後、18年間にわたって妻や子供たちと連絡を絶ってしまうことになります。
 これはヨアキムの子供たちにもたいへんなトラウマになり、母が再婚した時には子供たちはすかさず再婚相手の苗字を名乗ったほどでした。息子たちが父の気持ちを理解できるようになるまでには、長い年月を要しました。
 ヨアキムの晩年、彼の長男のジョンはついに父親を許して、こう話すようになりました。
 「親父はインディアンなんだ。だれかの家の屋根の下では暮らせないのさ」
 第一次世界大戦が終わった後の1920年代、ヨアキムはアメリカ中を放浪し、いろんな仕事に就きました。鉄道の用務員、リンゴのもぎ取り、商船の船員。

  そして20年代終わりごろ、彼は最終的にオハイオ州のシンシナティ付近にやってきます。ここで大きな印刷会社がサーカスのポスターを印刷していて、そこで雇われたのです。数年後にはシカゴに落ち着き、そしてこの街が彼の安息の地となります。
 長い放浪生活は終わったのでした。
 彼はシカゴで守衛や自動車整備工、大工、鋳物工場の工員などやはり仕事を転々として、フロイという女性とも再婚します。そうして最後にはシカゴの街の片隅でアイスクリーム屋を開業します。
 しかし第二次世界大戦が終わるころ、彼は精神の病を発症し、軍病院に入院を余儀なくされました。まもなく妻も亡くなり、以降、彼は仕事を辞めてわずかな軍人年金と失業保険でひっそりと暮らすようになりました。
 彼が絵を描きはじめたのは、70歳をすぎてからです。
 夢の中でレバノンの街の光景を見て、目覚めてからその光景を絵に残そうと思ったのがきっかけでした。以降、彼は若いころに旅した北米の荒れた風景を中心に精力的に絵を描くようになります。
 木立の並ぶ丘や、曲がりくねった海、するどく尖った山などをていねいな細い線と、大胆なフォルムで構成していきました。
 その絵を売ろうとか、アーティストになろうとか思っていたわけではありません。ただ七十歳を超えて老境に達し、過去の追憶の中にある心象風景を自分自身の手で絵として固定したい、そういうすなおな気持ちだけが彼を突き動かしていたのでした。
   彼はシカゴのサウスサイド八十二番街にあった雑居ビルに住んでいました。テレビ修理店やクリーニング店、美容院などが軒を並べるこのビルに、こぢんまりとした二部屋続きのアパートを借りていたのです。廊下にはカーテンが掛けられ、狭苦しく薄暗いリビングルーム兼制作スペースと、寝室と台所部分を分けていました。リビングにはふたつのソファと、色褪せたトルコ風のファブリックでくるまれた安楽椅子。それに古いテレビと、金属の作業台。本棚。積み重ねられた絵。ガラクタの山。
 彼は絵を描くと、洗濯ばさみで窓ガラスにぶら下げていました。通りがかる人がだれでも見られるようにと、そうしていたのです。

「これはたいへんな発見だ!」

 そんなある日、ある人物がヨアキムの家の前を通りがかりました。
 シカゴ大学でカフェを経営していたジョン・ホップグッド。彼は長老派教会の牧師でもありました。
 窓にぶら下がっていたヨアキムの絵に彼は目を止め、思わず立ち止まります。
 丘と樹木の描き方が、いっぷう変わっていたのが気になったからです。
   人類学の素養があったホップグッドは、ヨアキムの絵に「プレコロンビアン」と似た要素があることに気づいたのです。プレコロンビアンというのは、コロンブスがアメリカ大陸に到着した十五世紀以前の時代のこと。メキシコの古代文明やマヤ文明、アンデス文明などを含めた先住民族の時代です。この時代のプリミティブな芸術性が、ヨアキムの絵の中に共通しているとホップグッドは考え、
「私はたいへんな発見をしたのかもしれない」
 とひとり興奮したのです。彼はその場でヨアキムの絵を二十二点も購入し、そして彼に「自分のカフェで個展をやらないか」と薦めました。
 ヨアキムにはなんのことだかよくわかりませんでしたが、むろん異論はありません。そうして彼らは展覧会を企画して四十点の作品を展示し、なんと驚くべきことに最初の四週間でうち三十点が売れてしまいました。
   ギャラクシープレスという出版社の社主トム・ブランドが展覧会を訪れ、これがヨアキムがシカゴのメインストリームのアートシーンにデビューするきっかけになりました。画家でもあったブランドはヨアキムの作品の風変わりな心象風景と見事な反復的描画、不思議な遠近法にノックアウトされたのです。
 ブランドはヨアキムの作品に触れた驚きを、シカゴの芸術界の友人たちに触れてまわりました。その中にはシカゴデイリーニュース紙の記者ノーマン・マークもいて、彼はヨアキムの展覧会をさっそく記事にし、その中で抽象絵画の画家ジョーダン・デイヴィスのこんなコメントを紹介しました。
「ジョゼフ・ヨアキム。彼の作品はグランマ・モーゼスよりずっと素晴らしい」
 グランマ・モーゼスというのはやはり70歳をすぎてから絵を描きはじめた女性で、アメリカの古き良き風景を描いてアメリカ人から圧倒的人気を集めた画家です。
 ヨアキムは彼の鮮烈な絵のほとんどを、若いころの旅の時代の追憶から生みだしました。彼は八十代で亡くなるまでのとても短い晩年に、二千点もの作品を遺しています。
 死後、遺作展はニューヨークの著名なミュージアムであるホイットニー美術館で開催されました。気がつけば彼は圧倒的な名声を誇る芸術家として、歴史に名を残していたのでした。
 晩年、ヨアキムはこんなふうに述懐しています。

「わたしが描いた絵に価値があるなんて、まったく想像もしてなかったよ」

 あたりまえのことですが、ヨアキム自身も、自分の作品の価値にはなんら意味を見いだしていなかったのです。彼の作品がアートとして認められるようになったのは、カフェオーナーのジョン・ホップグッドが偶然彼の家の前を通りがかって彼の絵を見いだしたからでした。
 もしホップグッドが偶然通りがからなかったら?
 ヨアキムはだれにも発見されず、ごく平凡なひとりの老人として余生を終わらせていたかもしれません。もちろんそれでも彼は、きっと幸せだったでしょう。
 でも見いだされたことで、彼は平凡な老人から素晴らしいアーティストに突然なった。本人が「アーティストになろう」と努力なんかいっさいしていなかったのにもかかわらず。
 そう考えると、ヨアキムの作品というアートは、ヨアキムだけでなく、彼を見いだしたホップグッドとの「共同制作」だったともいえるでしょう。
 つくる人と、それを見いだす人。
 その二人の関係。
 つくる人がいなければ、もちろんだれかに見いだされることもない。でも見いだされなければ、つくるものは決してだれにも知られない。私たちが「何かを見る」「何かを楽しむ」というとき、つねにそこには「つくる」と「見いだす」という二つの行為が介在している。
 絵の世界では昔は「美術をちゃんと学習している人」「美術の技術を習得している人」「そのときどきの美術史の流れがわかっていて自分の作品を発表する人」というようなプロフェッショナルがつくり手のほとんどを占めていました。ところが二十世紀に入るころから、ヨアキムのような「美術を学んでない」「技術も習得してない」「美術史のことなど何も知らない」、それに加えて「自分の絵を世間に大々的に発表したいという気持ちなんて全然ない」というような人たちがたくさん現れてきて、こうした人たちの絵が美術界で認められるというようなことが起きてきています。
 プロじゃない人たちが、つくり手になる時代になってきているのです。
 これはどんな世界でも同じ。そしてインターネットが普及して、「プロじゃない人」の表現や発信はますます増えていて、そういう人たちのつくったものが認められるというようなことが世界中で起きている。
 そういう世界では、良い芸術作品や良い文章や良い楽曲を生みだすためには、「つくる人」がいるだけでは難しい。
 ヨアキムをホップグッドが見いだしたように、それらのすばらしい作品を「見いだす人」が必要なのです。
 これからの世界は、そうやって「つくる人」と「見いだす人」がお互いに認め合いながら、ひとつの場を一緒につくるようにして共同作業をしていく。
 この本は、そういう新しい関係が私たちの社会を変えていくということを書いています。






「キュレーションの時代」 
著者:佐々木俊尚

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