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夜行列車「レイクショア・リミテッド」号(シカゴ~ボストン)の長い旅

 ニューヨーク/ボストン行の「レイクショア・リミテッド」は中部時間の19時55分にシカゴ・ユニオン駅を出発する。
 発車までは時間があるので、シカゴ川を挟んでユニオン駅を見下ろすようにそびえ立つシアーズタワーに上ってみた。かつての世界一高いビルである。

 不揃いの剣山のように高層ビル群が浮かぶミシガン湖の反対側は、地球の果てまで続くかのようなのっぺりとした街並みで、方々から集まってきた無数のレールが、巨大な貨物ヤードや終端駅に突っ込み果てている。全米中の線路をすべて飲み込んでしまっているかのような風景があった。

 ユニオン駅の地下にあるアムトラック寝台利用者の専用待合室に向かう。絨毯が敷かれソファーも置かれているが、多少うす暗く低い天井は安ホテルのロビーといった感もある。
 珈琲やソフトドリンクは好きなだけ飲めるけれど、酒類を持ち込める雰囲気ではない。ダイエットペプシなどを黙々と飲んでいると、夜行列車に乗る前の高揚感がしぼんでいきそうになってきた。

 

 悶々とした地下室を出て改札前の待合室へ行くと、既に行列ができている。
 座席車(Coach=コーチと呼ぶ)の利用者は貧乏そうな若い客も多く、優雅な鉄道旅を期待する人々が憩う地下待合室とは対照的である。
 ちなみにこの列車、シカゴからボストンまで座席車だと75ドル(8630円)だが、寝台車利用だとスタンダード部屋でも1室(2人まで使える)あたり294ドル(33810円)の追加料金が必要となる(※アムトラックの料金(運賃)は曜日や時期などによって変動があり、一定ではない)。

 発車20分前に改札が始まったが、切符に記載された名前とIDとの照合が行われて列が進まない。
 国民の行動を逐一管理してどこが自由の国なのか、と独り言のようにつぶやいてみたが、隣の妻さえも聞こえはていないだろう。私の右手は随分前からパスポートとチケットを握り締めている。

 改札を抜けると、半地下空間に行き止まり式のホームが並んでいて、銀色の大きな客車の最後部が突っ込むように停車している。上野駅に似ていなくもないが、飾り気のない薄暗く無機質で広い構内は、荷物集積場のような様相である。

 列車は前のほうから「ビューライナー」という背の高い寝台車が3両続き、食堂車とカフェカーを挟んで、後ろ4両が座席車で、そのほか、荷物車が前方に1両ある。先頭はジェネシス型のディーゼル機関車2両が連なり、これらを牽引していく。
 ホームの先端まで行って一通り編成を点検し、指定された4810号車(48列車の10号車という意だと思われる)に入った。

 車内は「ルーメット」(Roomette)という名のスタンダード個室が進行方向に向かって両側に並んでいて、端にはデラックス寝台の「ベッドルーム」(Bedroom)も2部屋ほどある。
 ルーメットの中は、小さなソファーが向かい合わせにあり、両側の座席を引き出すとベッドになる。頭上には高低調節が可能な寝台が吊り下がっていて、日本の「トワイライトエクスプレス」や「サンライズ」に連結されているB寝台個室「シングルツイン」に構造が似ている。

 ただ、片隅の梯子(はしご)代わりの踏み台を引き出すと洗面台が現れ、下の蓋を空けると洋式便器が出てくるあたりは、アメリカらしい合理的設計だと思う。
 だけど、この狭い寝室空間で用を足すのは拷問に近い気がするし、洗面台で顔を洗うのも曲芸並みの労力を要するだろう。

                             ◇


 長距離列車がホームを離れていくという最も悦楽を感じる瞬間を待っていたが、待合室で無料のソフトドリンクを大量に飲んだためか尿意をもよおしてきた。室内で用を足さぬ旨は、先ほど妻と合意に達している。
 車両を右往左往し、カフェカーでトイレを見つけて入ると、列車は何の予告もなく動き出した。

 「レイクショア・リミテッド」号がシカゴ・ユニオン駅を出発したのは、定刻より1分遅れて現地(中部)時間の19時56分であった。

 部屋に戻ると、さして陽気でも陰気でもない黒人の寝台世話係がやってきて、夕食の希望時間を聞いてくる。景色を楽しむためになるだけ早い時間を伝えたら、私の名前を散々間違えた末に、OK、OK! と発して次の部屋に向かって行った。
 ボストンまでは1600キロ余り、22時間の旅だから、この先は思う存分車窓を楽しめるはずである。午後8時だというのに外は明るく、左手には大リーグ「ホワイトソックス」のセルラーフィールド(野球場)が赤くなっている。昨夜、観戦に訪れた時は夏祭り会場のように賑やかだったのに、今日は誰一人いない。

 

 市街地を離れると、雑草だらけの空き地や汚れたレンガ造りの工場が多くなり、窓の外の風景が荒れてきた。列車のスピードも上がり、ようやく興がのってきたところで、いつの間にか夕食の時間となっていた。

 食堂車内は、飾り気がほとんどない簡素な造りであるが、食事が不味く感じるような不快さはない。この国お得意の効率追及と機能優先の結集なのであろう。
 スーツ姿の中年白人ウエイターに促され、食堂車内では唯一だった黒人夫妻の前に並んで座る。
 アムトラックの寝台車料金には食事代が含まれていて、メニューに掲載された8種類の中から1つを選ぶことができた。

 いつもは散々に迷うのに、妻は最も高価な「ビーフ・ラグー」(Beef Ragout=ビーフシチュー)を即座に選択している。私は悩んだ末に上から4番目に載っていたロースト・チキンなるものを注文し、さりげなく赤ワインも加えた。

 同席の夫妻はカリフォルニア州の在住で、ハーバード大にいる息子が近日中に卒業式を迎えるので、この列車でボストンへ向かうのだという。

 以上は妻との会話から聞こえてきた内容で、彼が「飛行機が嫌いだからずっと列車で移動している」「ハワイが好き」と発した時だけ私は大きく頷いたが、それ以外は車窓を見ることと、焦臭い巨大チキンを処理するのに懸命である。夫妻は全くの下戸らしく、一人でワインを飲んでいるのは後ろめたさがあるが、こちらはすぐに片付いた。

 そのうち妻から、「少しくらいは喋ったら?」ときた。


 私は英語が不自由なのである。しかも、フォークとナイフで目前のチキンを食すために、プラスチックの皿が割れんばかりに格闘中なのである。

 「夫は自閉症だと言っておいてくれ」

 呆れた顔した妻は、自閉症という英単語が分からなかったのか、「夫は相当な照れ屋なんですよ」と英語で言い、夫妻は気を使ってか大袈裟に笑った。
 カリフォルニア夫妻が席を立った後、妻はポケットから海外旅行用の特殊な計算機を取り出し、食事の合計金額の1.5割のチップとワイン代を過不足なくテーブルに置いて食堂車を出た。

                             ◇

 

 夜9時を過ぎて車窓が見られなくなったので、私は用もないのに座席車(Coach=コーチ車)のほうへ向かった。車内の巡回である。
 食堂車の隣はカフェカーで、「クラブ シカゴ」と名づけられている。酒類や軽食を扱う売店があり、強化プラスチックでできた4人掛けテーブルと椅子が備えられ、どこかけだるそうな若い面々が所在なげに1人2人と座っている。

 コーチ車のドアを開けると、眠そうな客から一斉に鋭い視線を浴びた。それらを逸らし、車内の造作に目をやる。日本の特急列車と同じ2人掛けのシートはかなり幅広く、巨体の御仁やご婦人方もはみ出すことなく収まっている。
 日曜夜の出発便なのに座席は8割ほどが埋まっていて、心なしか若者と有色人種の率が高い。荷物棚のところに差し込まれた行先札を見ていくと、未明に到着する大都市、クリーブランド(Cleveland)の客もいるが、ニューヨーク(NYP)が目立つ。


 ニューヨークまでの距離は約1540キロ、この列車で19時間を要する。安いとはいえ、大阪から札幌までと同距離を座席車で移動するのかと思うと、乗る体力が今の私にあるのかどうかを真剣に考え込んでしまう。
                            
 列車は初めての停車駅、インディアナ州のサウスベンド(South Bend)に着いた。屋根のない暗いホームにまばらな人影が動いているのが見える。
 私の時計は21時25分を指しているが、アムトラックの時刻表には東部時間(ET=East Time)の22時25分とある。インディアナ州は東部標準時が採用されていて中部時間(CT=Central Time)より1時間遅くなる。通勤電車が運転されているほどの隣接した都市間でも、州を越えただけで時間が変わるのは不思議な気がする。

 サウスベンド駅を出ると、灯り一つ見えない夜の中を20分ほど走って州内のエルクハート(Elkhart)に停車。心細そうな黄色い電灯がぽつんぽつんと光っているだけで、駅前ロータリーにいた1台の車が、列車から降りた女性を乗せて走り去ると、人の気配がまったく消えてしまった。

 街を離れた列車は、また何一つ見えない長い暗闇の中に入る。その境界があいまいで、どこまでが市街地なのかが分からない。日本のように建物が密集してないからだろう。

 カフェカーの売店で買ってきたビールもなくなり、窓に映る間抜けな赤ら顔を眺めていたら、急に眠くなってきた。
 寝台世話係の彼を呼びに行くことさえ億劫になり、自分で寝台をセットしてみる。頭の上の寝台を低い位置まで降ろし、下の座席を引き出すと完成。こんな面白い作業を人に任せるのはもったいない。

 消灯してしばらくはカーテンの隙間から窓をチラチラと覗いていたが、木々や雑草が月の光でぼんやり見えるだけ。
 こんな時に一軒でも家の灯りがあれば、慰められる気持ちにもなるのだけれど、夜の草木は吸い込まれてしまいそうで恐怖心が沸いてくる。

                             ◇

 

 隣の部屋からトイレを流す轟音が聞こえて目が覚めた。外を眺めると、列車はまだ暗い中を走っている。
 時計を見ると5時を少し過ぎているので起床し、頭からカーテンをかぶるように車窓を見る。こうすれば室内の明かりがガラスに反射しない。

 

 東の空に雲の形が微かに浮かび、赤みを帯びてきた頃、空港らしき土地の横を通り過ぎているのが分かった。 昨夜から枕元に常備しておいたノートを手繰り寄せる。あらかじめ列車が走る沿線の地図をインターネット上から探し出し、それをプリントして貼っておいたものである。初めて目印らしいものを発見し、興奮しながら眺めると、ここはエリー空港(Erie Int'l Airport)のようであった。

 

 地図上ではこの先、次のエリー(Erie)からバッファロー・デピュー(Buffalo-Depew)駅直前までエリー湖岸に沿って線路が通っている。
 いい時間に目覚めたものだと思う。人気リゾート地になるほどの湖であるし、この列車は「レイクショア特急」と名付けられているのである。

 教会の塔が突き出だしている赤茶色の街並みが近づいてきて、5時41分、定刻より2分ほど遅れてエリーに到着した。
 貨物駅のごとく簡素なホームに、一人の老人が重そうな荷物を抱えて降り立っていた。
 列車が走り出すとわずかで街並は途切れ、家が点在する緑の中に入る。時折、遠くにエリー湖の水面が見えたと思ったら、すぐに木々に遮られてしまう。

 ノースイースト(North East)という湖畔の小さな街に入ると、赤い古風な駅舎が突然現れ、PENNSYLVANIAと書かれた旧型の客車や蒸気機関車が見えた。この集落にはアムトラックの駅はないので、博物館として残されているのだろう。駅舎があるのに、列車は一本たりとも止まらず毎日通過していくだけである。

 ノースイーストを過ぎ、我らが「レイクショア特急」はペンシルバニア(Pennsylvania)からニューヨーク(New York)州に入った。
 相変わらず湖畔に近い場所は走っているけれど、車窓にはその姿をほとんど現してはくれない。この丘の先にはさぞ美しい湖が隠れているはずだ、と頭の中で風景を創造しているうちに、列車はバッファロー・デピュー(Buffalo-Depew)駅辺りからエリー湖を離れ、内陸部に入ってしまった。

 

 牧草地のなだらかな丘とサイロという、独仏のローカル線で見られるような景色も散見されるようになってきた。
 だけど、突如雑草地が現れたり、地肌の見えるところには大量の廃車が置かれていたりもする。車窓に酔おうとすると、急に素面(しらふ)に引き戻される、そんな生殺しのような状態が続いている。

 列車はバッファローから100キロ近くを一気に走り抜け、オンタリオ湖(Ontario)に最接近した頃、ロチェスター(Rochester)に到着。8分間停まって駅を出たものの、すぐに急停車してしまい動かなくなった。

 そのまま30分が過ぎた。
 「CSX」と書かれた貨物列車が真横に現れて通過していく。
 窓からは黒い壁にしか見えない巨大無蓋車を62両目まで数えてみたが、あまりにも長いので阿呆らしくなってやめた。

 

 今、米国の鉄道は日本の10倍近い22万6千キロの路線を持っているが、そのほとんどが貨物会社によって所有されていて、旅客列車は線路を借りる形で走っている。
 しかも全路線中でアムトラックが運転されているのは15%ほどしかない。
 人を足止めして貨物列車を優先する光景を見ていると、アメリカの鉄道を支えているのは貨物輸送なのだと感じる。鉄道全盛期の頃でさえ、旅客列車は鉄道会社のイメージ向上を担う存在でしかなく、利益は貨物で稼ぎ出していたとの説があるくらいだ。

 

 こうした歴史や現状は頭では分かるけれど、「レイクショア・リミテッド」号の前身は、「20世紀特急」という、その名を聞いただけで栄華が偲ばれるほどの名列車だったのである。

 貨物ごときが追い抜くとは何事か!

 釈然としない私は頑固爺のごとく貨物会社を叱りたい気持ちになった。
 機関士も苛立っているのか、貨物列車が去った後、汽笛を12回乱打して急発進した。

 

 列車はオンタリオ湖を離れて、州を縦断する形で東へ猛スピードで走っている。窓の外は白い綿毛が吹雪のように流れている。
 場所を示す目印が何一つない小さな街が次々と現れては、その度に私は一生聴くことも行くこともないかもしれぬ名を地図上で追う作業を繰り返している。
 妻は景色に飽きたのか、朝食の時に食堂車へ行って以後、頭上のベッドから下りてこようともしない。

 

 列車は牧場と湿地帯の平野を坦々と過ぎ、定刻より58分遅れて10時24分にシラキュース(Syracuse)に着いた。
 駅には列車出入口ドアと同じ高さのプラットホームがあり、到着と同時に放送が流れた。立派な三角屋根の駅舎前には、銀色のグレイハウンドバスが並んでいる。ようやく活気のある駅を見たためか、嬉しくなってホームに降りたが、車掌がずっと私の姿を注視しているのに気付き、すぐに車内へ戻った。

 

 シラキュースを出て、積み木のように巨大コンテナが積み上げられている郊外の操車場を抜けると、平地の森の中に入った。山間部のように上下変化がなく、青空と雲と緑のコントラストだけが映えている。

 

 眠気で意識が朦朧としてきたときに、部屋がノックされた。
 昨日以来、久々に見る世話係の彼がニューヨークタイムズを持って立っている。
 昼食は11時半に食堂車で、と言い残し新聞を置いて帰っていった。

 まもなくローム(Rome)という小駅を通過するはずである。街の外れでわずかに駅舎らしき建物が窓から見えた。駅があると現在地が確認できて有難い。
 列車は巨大な石造りの駅舎が鎮座するユチカ(Utica)を1時間17分遅れて出発。まもなく欧州の山間地帯のような小さな街並みが見え、アムステルダム(Amsterdam)なる小駅を通過。
 右側にエリー運河が近づいてきた。

 私達の部屋は左側にあるが、幸い、右側の部屋にいる爺と中年の息子がカーテンを開け放しているし、既に客が下車して空いた部屋もある。珍しく妻も起きてきて、別の右側の部屋に行って景色を眺めている。
 変り映えのない沿線風景の中では、エリー運河沿いの景色は随一のビューポイントなのでだろう。車内に置いてあった車窓の紹介冊子にもカメラ撮影を推奨するマークが付いている。

 しかし、運河ならではの不自然な水際や単調な川筋は、迫力という面では欠けている気がする。鉄道開通以前にエリー運河の水運が果たした役割は大きく、見逃すことはできない遺産ではあるけれど、車窓からそうした痕跡が見られる訳ではなかった。

 「日本の高山本線のほうが、よほど迫力があるな」

 私は思わず発した。
 妻は、ああそうですか、といった素振りをして、また頭上のベッドに戻っていった。

 列車は次のスケネクタディ(Schenectady)駅の手前でまた10分ほど停車。今度は貨物列車も来ない。ちょうど1時間半遅れてホームまでたどり着いた。
 ボストン方面へ行く客は、次のオルバニー・レンセラー(Albany-Rensselaer)駅で同駅始発の連絡列車に乗り換えを強いられることになっている。

 

 この「レイクショア・リミテッド」号には、かつてはボストンとニューヨーク編成がそれぞれあったが、合理化の末、今ではニューヨーク行だけが残り、ボストンへは座席車だけの別列車が連絡する形に変更された。


 寝台車に閉じ篭っているのも飽きてきたところなので、座席車に移るのは面白そうだとは思う。が、折角の個室寝台なので、多少損をした気分にもなる。

 

 列車はスケネクタディから20分ほど走って、13時44分、定刻より1時間14分遅れてオルバニーに到着した。
 州都らしく、日本の私鉄の郊外駅のような橋上駅舎が見える。

 

                              ◇

 

 「レイクショア・リミテッド」の右隣には、独特の丸みを帯びたアムフリート型客車3両と荷物車の計4両が連結されたボストン行列車が待っていた。
 出発時間はもう過ぎているが、乗客の重そうなトランク類を荷物車に積み込む作業をしていて、いつ発車するのかは分からない。
 黒いサングラスをかけた車掌に聞いたが、早く乗れ、と言うだけで、右手は火の点いた煙草を挟みもてあそんでいる。

 

 結局、ボストン行の連絡列車は定時より1時間遅れて14時ちょうどにオルバニー・レンセラー駅を離れた。

 この先、マサチューセッツ州を縦断する形で、ボストンまでの約320キロを5時間半かけて走る。

 座席車の座り心地は悪くないが、飛行機のように小さな窓は景色を眺めやすいとは言い難い。それに2両目の座席車は非常に空いているのに、ボストンまで行く乗客は一つの車両にまとめられ、少々窮屈である。

 

 出発はしたもののすぐに列車は急停止。逆走をはじめて、再びホームに舞い戻ってしまった。忘れ物でもしたのかと思ったが、ドアは開かない。
 相変わらず理由は分からないまま、14時7分にオルバニー・レンセラーを再出発した。

 スピードが上ると、今度は砂利道でも走っているのかと思うほどの激しい上下振動が断続的に続き、景色を眺めるどころではなくなってきた。
 10分ほど走った後、また止まってしまった。
 前途に不安を感じる列車ではあるが、一人として顔色を変える乗客はいないから日常的なことなのかもしれない。同じ景色をまんじりと眺めていたら、20分ほどしてのっそりと動き出した。

 

 国道を走る黄色いスクールバスにまで追い抜かれながら、列車は眠くなるようなスピードでマサチューセッツ州に入り、西端のピッツフィールド(Pittsfield)に着いた。
 寝台車から持ってきた沿線の案内冊子によると、メルヴィルが『白鯨』を執筆した地であると記されている。この山間の中都市で、人喰い鮫の姿が頭に浮かんでくることが意外であり、一人でにやけてしまう。

 

 この先、バークシャーの山並の中に入る。
 沿線案内には「息を飲むような風景が見られる」とあるが、残念なことに空が雲ってきて、湿地帯の草原や木々、蛇行するウエストフィールド川の水面もくすんだ色になってきた。
 丘陵のような森の中を越えた列車は、コネティカット川の鉄橋を渡り、17時10分、定刻より1時間23分遅れてスプリングフィールド(Springfield)駅に到着。車内には10分程停車する旨の放送が流れ、煙草を手にした客が嬉々としてデッキに集まり始めた。昨日以来、停車時間の公式なアナウンスははじめてである。

 

 先頭にいた車掌がドアを開けてホームに降り、踏み台を置いた。降り立った十数人から一斉に煙があがった。
 それにしても、列車が到着したというのに、付近に人の気配がまったく感じられない。

 貨物駅のような茫とした敷地には、アスファルトが割れて地面が波打った低層のプラットホーム1本だけが残っている。屋根は完膚なきまでに赤茶色に錆びつき、乗務員詰所とおぼしき四角い建物のガラスは、銃撃でもされたかのような穴がいくつも開いている。
 レンガ造りの巨大駅舎だけが立派で、構内はもはや廃駅の様相を呈していた。
 結局、列車は29分間の停車の後に駅を離れた。

 車内では、右隣の席のエリーがまた泣き出した。若い夫妻が連れている子で、まだ3歳から4歳くらいに見える。
 出発以来、寝ている時以外はグズグズ言っていて、今度はマミーマミーマミーと31回連呼してようやく止んだ。欠伸ばかり繰り返している母親はずっと誰かと雑談でもしたそうな顔をしているが、我々を中国人と認識しているらしく、どこまで行くのか、と聞いてきただけで話は止んでしまった。

 私は小腹が空いてきて、一人で最後尾のカフェカーに行った。
 席に客はおらず、車掌一人が新聞を広げている。暇そうな爺さん店員に「ホットドック」と「サミエル・アダムス」を注文。袋ごと電子レンジで暖めただけのソーセージ入りパンは、チーズが溶けて外装にまではみ出している。変化のない車窓を酔いで誤魔化すべく、苦いボストンビールを一気に飲み干した。

 

 左手に宮殿のような白亜の駅舎が見え、1時間43分遅れでウースター(Worcester)に着く。
 停車時間があることを期待してデッキに行くと、ドアに車掌が立ちはだかり、すぐに列車を出発させた。
 先ほどスプリングフィールド駅で煙草を二本立て続けに吹かしていた老婦人がその様子を見て、煙草ケースを手に無念そうな顔で座席へ戻っていく。

 ウースターからは、「T」マークを付けたボストンの近郊列車が走る区間に入る。
 紫色のラインが入った客車とすれ違うことが多くなり、一定間隔で駅が現れるようになった。これまでほとんどなかった駅名板もしっかりと見える。
 そうなると、車窓の退屈さがなくなり、このニューイングランドの風景が愉快に感じられてきた。事実、緑地帯は整然としてきたし、鋭角の塔を備えた三角屋根の建築物も散見される。
 集落があっても駅がなく、列車が走っていることにさえ関心を示さないような土地よりは、鉄道が生活に根ざした街の車窓が面白いと思う。

 

 近郊区間で遅れを多少回復し、フラミングハム(Framingham)を90分遅れで出た列車は、ボストン近郊の小都市部を走り抜け、いつの間にか左手にインターステート(高速道路)90号線が右に寄り添ってきた。
 スピードは車に及ばないが、線路が良くなったのか出発時よりははるかに速くなっている。

 

 車窓に映る建物が密集してきた頃、エリーの母親がこちらに向かって大声で、
 「やっとボストンだ!」と叫び、ポップス!クラムチャウダー!レッドソックス!
 と続け、長い苦行を終えたかのように大きく笑い出した。
 私も思わず笑った。

 終着の直前にあるバックベイ駅(Back Bay)で20人ほどの客を降ろし、列車はビル街の地下に吸い込まれるように、徐行しながらボストン南駅に入っていく。
 19時51分、定刻より1時間21分遅れてホームに停車。シカゴを出てちょうど23時間後であった。


高速列車「アセラ・エクスプレス」(ボストン~ニューヨーク)に乗る

 ボストンに着いてから二日後の6月7日水曜日、今日は朝のアセラ(Acela)エクスプレスに乗ってニューヨークまで行くことになっている。
 最高速度240km/hを誇る米国鉄道唯一の高速列車に乗る日が来た。

 ボストン南駅(Boston South Station)は、ニューヨークやシカゴ方面へのアムトラックと近郊列車「T」(MBTA =Massachusetts Bay Transport Authorityのコミューターレイル)が発着するターミナルで、フォート・ポイント運河沿いの市街地に構えた石造りの駅舎は100年以上の歴史を持っている。


 太い石柱とせり出したバルコニー、時計台の大仰な装飾などが目立つ古典的な建築物ではあるが、近年になって改装したのだろう。古さはあまり感じない。駅舎内はフードコートになっていて、天井からは派手な巨大広告が幾つもぶら下がっている。

 

 近郊列車から吐き出される朝の通勤客を眺めながら、濃厚な味のハンバーガーを食しているうちに、流線型の「アセラ」がホームに入ってきた。
 座席は指定されていないので、ホームに急いだが、まだ席は2割も埋まっていなかった。

 

 外観はユーロスターやTGVなど、一般的な世界の高速車両の姿と特に相違は見られない。
 ただ、車内の2人掛け座席が進行方向に統一されている点や、ステンレスの車体に色がほとんど塗られていないあたりは、アメリカらしい合理さなのかと思う。

 8両編成のうち、両端は電気式の動力車で、カフェカーが1両連結あるので旅客が乗る車両は5両分しかない。
 そのうち、1両がファーストクラスで、他はビジネスクラスの車両が連なる。普通座席車(コーチクラス=Coach Class)はない。運賃が高いのはそのためである。

 

 7時15分、『アセラ・エクスプレス』2155列車ワシントンDC(Washington,DC)行は定刻通りにボストン南駅を出発した。
 ニューヨークまでは370キロ、3時間半を要する。東京~名古屋間とほぼ同じ距離を「のぞみ」の半分以下のスピードで走ることになる。


 5分ほどで中心部のビル街の下にあるバックベイ(Back Bay)駅に着く。ビジネスマン50人ほどを乗せ、車内が賑やかになってきた。

 地下鉄のオレンジラインと併走しながら、アセラは滑るようにスピードを上げていく。すれ違う近郊電車も一瞬で視界から去ってしまうようになった。高速列車とはいえ、近郊列車と同じ線路を走っているので、実際の速度より速いような感覚がある。

 外は朝から雨が降り続いているけれど、アメリカに来て極めて遅い速度の鉄道にばかり乗っていたせいか、気分は晴れやかになってきた。検札に来た車掌も日本並みのソフトな対応。アムトラックもやればできるのか、と思った。

 7時29分、郊外のルート128(Route 128)駅で停まった。出発時に3割ほどしか乗っていなかった車内は7割ほどの乗車率になった。始発駅より近郊からの利用客のほうが多いようである。
 列車はさらにスピードを上げて、森のごとく緑の多いボストン近郊の街を通り過ぎる。途中、引き込み線で待機しているCSXの長大貨物列車を軽々と追い抜いた。

 

 ボストンからニューヨークを通り、ワシントンまで730キロ余りを結ぶ北東回廊線(North East Corridor=ノース・イースト・コリダー)と呼ばれるこの路線は、全線が電化された米国鉄道一の大幹線で、線路もアムトラックが所有している。ここでは貨物列車に大きな顔をされる心配もない。

 

 米国最小の州、ロードアイランド(Rhode Island)に入ってすぐ、州都のプロビデンス(Providence)に到着。さらに乗客は増えて車内は満席になった。わずか1分間の停車の後に発車した。

 

 ボストン発のアセラ一番列車のためか、乗客の大半が背広姿のビジネスマンで、車内のいたる所から絶え間なく携帯電話の話し声と、パソコンの起動やメール到着音が聞こえてくる。日本の新幹線の比ではない騒々しさである。それらを禁止した「クワイエットカー」(Quiet Car)なる車両が設定されている理由もようやく理解できた。

 

 列車はキングストン(Kingston)を過ぎて、グリーンウィッチ湾をかすめた後、内陸部に入って湿地帯の原野を走り抜ける。
 先ほどの高速走行が嘘のように、時速70キロほどのスピードで州境のウエスターリー(Westerly)を通過。コネチカット州(Connecticut)に入る。

 

 再び海岸線に近づいたアセラは、ロングアイランド湾の水辺ギリギリの所を走行。海岸が入り組んでいるためか、湖のごとく静かな水面には、ヨットハーバーがあり、湾に面して別荘のような瀟洒な家々が並んでいる。

 教会の塔が2~3見えてきて、汽笛を鳴らしながらニューロンドン(New London)を最徐行で通り過ぎた。
 駅前の港にブロックアイランド行のフェリーが停泊しているのが見える。

 

 今日は雨模様。しかしながら、晴れていればさらに胸がすくような風景が左手に続いている。ローカル特急のように遅い速度も、この景色の前ではちょうどいい。

 

 ニューロンドンから先は、コネチカット州が運行する通勤列車「ショアライン・イースト」(Shore Line East-Commuter Rail Servic)の小さな駅が時折現れる。
 日本で言うところの「緩行線」のような存在で、アムトラックが停車しない街を補完している。
 ボストンからワシントン間のほとんどの区間に、こうした近郊列車が運行されているので、のんびり各駅停車で移動できたなら、さぞ面白いであろう。

 

 工業地帯の煙突が近づいてきて、ニューヨークからの通勤鉄道「メトロノース」の車庫を通り抜けると、真新しい長大ホームが並ぶニューヘブン(New Heven)駅。ここでもアセラは止まるかのような速度で通過した。

 車窓には、ステンレス車体に赤いラインを巻いた近郊列車が頻繁に現れるようになり、付近は家々が密集してきた。
 日本の海芝浦駅のごとく河口の真横にあるブリッヂポート(Bridgeport)を過ぎ、煙突から立ち上る白煙を眺めながら、列車は定刻より4分遅れて9時56分にスタンフォード(Stamford)に到着。

 

 プロビデンス以来2時間ぶりの停車駅だが、あまりにもノロノロと走っていたせいか、ノンストップだった気がしない。
 20人ほどが下車し、2~3人の乗客を新たに乗せて駅を離れたアセラは、いよいよニューヨーク州へ。ニューロシェル(New Rochelle)の先で近郊線と分岐。クイーンズ経由でマンハッタンへ回り込む専用線に入ると、急にスピードを上げ始めた。

 窓の外には画一的なアパート群が広がり、線路上に散乱するゴミと落書きだらけの荒廃した建物が目につく。
 ブロンクスからワーズ島に入った列車は左に弧を描くように高架橋を上がる。
 河口のように広いイーストリバーに架けられた、恐ろしく高いヘルゲート橋を渡る。

 

 灰色の空の下にマンハッタンのビル塊が蜃気楼のように浮かび上がっている。
 その姿はあたかも巨大戦艦のようだ。異様な遠景に戦慄すら感じる。

 

 ペンシルベニアトンネルで再びイーストリバーを越え、マンハッタン島に入った列車は、地上に出ることはなく、そのままニューヨークペンシルバニア駅(New York Pennsylvania=Penn Station)に滑り込んだ。定刻よりも3分早い10時42分であった。


 狭く陰気なホームには、地下駅独特の饐(す)えた匂いが漂っていた。


ニューヨーク半日散歩~地下鉄・スタテン島フェリー・バス・グランドセントラル駅

 ニューヨークでは明日の朝まで半日余しか時間がない。
 そこで考えたのは、船から自由の女神像を眺め、ニューヨーク湾に浮かぶスタテン島(Staten Island)に渡り、島内鉄道とバスに乗り継いでマンハッタンに戻るという観光周遊コースである。

 市内交通(MTA)の一日乗車券(7ドル=810円)は同島内でも使えるし、島へ渡るフェリーの料金は無料である。途中で寄り道をしながら、市内観光も済ませてしまおうという意図もあった。

 

 ペンシルバニア駅の7番街口から地上に出て、目の前にそびえるペンシルバニアホテル(Pennsylvania Hotel)に荷物を預ける。
 米国最大の規模を誇っていたというペンシルバニア鉄道が、1919年に建てた著名ホテルである。
 今は経営母体も代わり、私達が気楽に泊まれるほどの安価な老朽施設に成り下がってしまっているが、駅前という好立地は変わらないし、グレン・ミラーの曲名にもなった電話番号は下5桁に残っていた。

 

 早速、市内見物を、と狭い33番通りを雨に濡れながら7分ほど歩き、エンパイアステートビルの展望台へ上る。
 阿呆らしいとは頭では分かっていても、ついつい高い所に行きたくなってしまう。風雨が絶え間なく傘に敲(たた)きつける中、103階の野外展望台から見えたのは、流れて行く雲霞だけであった。
 ケンタッキーフライドチキンで胸焼けするような昼食を手早くとった後、ヘラルドスクエア(Herald Sq)にある地下鉄34丁目駅(34 st.)にもぐった。

 

 市内交通の一日券を購入すべく、自動券売機と格闘したが一向に買える気配がない。
 宝くじ売り場のような係員詰所の防弾ガラスを叩いて、大柄の黒人女性に必死に訴えると、彼女は怒り気味になって出てきた。面倒くさそうにブツブツ言いながら販売機を操作し、「これよ」と販売画面を示して、一転、おのぼり東洋人を面白がるかのような笑みを浮かべている。

 

 地下鉄の「Broadway Local(黄色)」ラインのうち、「N」と「R」系統の列車に乗るとマンハッタンの南端まで行ける。
 ところが、ホームの案内板も列車の行先表示も曖昧で、南北どちら方面へ行く電車なのか、全く分からない。悩んでいるうちにNマークが来た。乗り込もうとすると、現地人らしき若い白人女性に「これはどこに行くのか」といきなり問われた。
 もごもごと英単語を発しているわずか10秒ほどの間にドアが閉まり、列車は去っていった。

 

 それにしても、ニューヨークの地下鉄の難解ぶりは東京並みか、それ以上だと思う。
 路線数は27に過ぎないが、同じ場所を走る別の線があったり、途中で分岐して行先が変わったり、複々線区間の真ん中に急行(EXPRESS)が運転されていたりもする。
 何よりも困るのが、列車や駅の不案内ぶりである。料金が安い分(全線均一2ドル)、案内や観光客対応の経費を抑制しているのかと疑いたくなる。唯一頼りになるのが系統番号(数字とアルファベット)だが、これも反対方面の列車に乗ってしまう間違いは防げない。

 次にやって来たRマークに乗れた。方向も間違えてはいなかった。
 ステンレス製の車両は比較的新しく、80年代に多く見られたという激しい落書きもない。たまに窓ガラスに消去不能な白い溶液を使い意味不明な文字が書かれているが、目立つ存在ではない。この手の落書きについては、日本製の次期新型車両では対策が施されるという。

 

 ガイドブックの治安情報に洗脳されているせいか、車内では、乗客が少なくなってくると多少身構えてしまう。ところが意外にも地元の客は居眠りや読書をしている。
 7つ目のシティーホール(City Hall)駅で下車し、歩いてワールドトレードセンター(WTC)ビル跡に行く。すでにビルの再建が始まっていて、新しい大きな駅入口が新設されていた。

 

 WTC駅と地下でつながったパークプレイス(Park Place)駅から赤色の「7 AVE EXPRESS」に乗る。少しややこしいが、北へ1駅だけ乗ってチェンバーズ・ストリート(Chambers St.)で下車。
 今度は同じ赤色の南方面行1・9番の電車に乗り換え、終点のサウス・フェリー(South Ferry)駅で下車。ここがマンハッタン島の最南端。駅舎はスタテン島へのフェリーが発着するホワイトホール(Whitehall)ターミナルとつながっていた。

 

 スタテン島は、小豆島と同規模の大きさを持つが、ニューヨーク市の一部に組み込まれている。マンハッタンやブルックリン、ニュージャージー州側からも独立して湾上に浮かんでおり、各岸とは4つの橋と1つの航路、幾つかの路線バスで結ばれている。
 島内に観光地は見当たらないが、フェリー上から自由の女神像やマンハッタンの摩天楼が眺められ、かつ24時間無料で乗れるということで、観光ガイドブックの片隅にその名を見ることもある。

 

 真新しいターミナルビルには、今から長距離航路にでも乗船するかのような広い待合室もあって、すでに300人近い客が乗船を待っていた。
 出航時間を過ぎてやってきたのはJohn,Marchiなる州上院議員名を冠した4500人乗りの新しい大型船。彼がターミナルや船の新造に政治力を注いだのであろう。Marchi氏はスタテン島選挙区の選出である。

 14時15分、船は定刻より15分遅れて出航した。スタテン島のセント・ジョージ(St. George)フェリーターミナルまでは8.4キロ、航行時間は25分ほど。
 海上に浮かぶかのようなマンハッタンの楼閣群。女神像からは遠からず、近からずの場所を航行している。

 雨の海に左手を上げたシルエットが浮かび、徐々に近付き真正面へ。表情までは分からないが、こもうれで十分。大きいものほど、遠くから眺めたほうが美しく見える。

 

 山の緑を背にしたマンションと家々が混在した陸地が近づいてきて、船はスタテンの港に着岸した。マンハッタンからは数十分の距離なのに、辺りは海と木々の香がほのかに漂っていて、はるばる離島に来たな、という感じがする。

 かつてこの島を訪れた永井荷風は、ニューヨーク市中からこの島に来ると「その変化の烈しさに、人はただ夢とばかり驚くであろう」(「六月の夜の夢」岩波文庫『あめりか物語』所蔵)と書き残している。
 100年前の言葉のままに、ここは今も別天地の感があった。

 

 フェリーターミナルにはスタテン島鉄道が乗り入れていて、下船後すぐに乗り換えることができる。

 この鉄道は、島の北端であるここセント・ジョージから東海岸に沿って、約23キロ先の南端トッテンヴィル(Tottenville)まで、ニューヨーク地下鉄と同じ形の電車が40分ほどかけて走っている。


 車内はフェリーから乗り継いだ制服姿の学生や買い物帰りの主婦など、いかにも郊外然とした客で満席だった。
 巨大タンカーが浮かぶニューヨーク湾を左手に望みながら、列車は海沿いの町を走っていく。10分弱で4駅目のグラスミア(Grasmere)に到着。終点まで行ってみたいとは思ったが、ここからブルックリンの地下鉄「R」線86丁目駅(86 Street)まで「S53系統」の路線バスが出ているので、降りてみることにした。

 

 無人の小さな駅舎を出ると、目の前に狭い2車線の道路とバス停があり、雨の中3人の客が雨除けの下に立ってバスを待っていた。時刻表はなく、いつ来るのか分からないのだが、他に客がいると少しは心強い。
 およそ15分が過ぎた頃、角張った白いバスがやってきた。車内はすでに人が溢れている。

 

 スタテン島内の住宅地で乗降を繰り返したバスは、ブルックリンへ架けられた1.2キロのベラザノ橋(Verrazano Bridge)を渡る。
 かつては世界一の長さを誇った吊橋で、今も米国最大であるという。私は吊革を持って窓の外を眺めたが、雨と人いきれで窓が曇り、海の色だけが微かに眼下に流れて見えた。
 バスは30分足らずで、郊外の商店街のような場所にある終点86丁目駅に到着。

 

 再び地下鉄イエロー線「Broadway Local」のR系統に乗り込み、マンハッタンを目指す。次の目的地をニューヨーク中心部の42丁目にあるグランドセントラル駅に決めたのだが、途中25駅に停車していくので、相当に時間がかかりそうだ。

 速い経路を探そうと、6つ目の36丁目駅(36 St)で降りてみた。ホームで路線図を眺めて思案していると、ボーイスカウトのような身なりの青年が「どうかしましたか?」と声をかけてきて、便利なルートを教えてくれた。
 彼と一緒にオレンジ色の「6Avenue Express」D系統に乗り込む。この路線は急行運転しているので「R」より停車駅が半分くらいで済むのである。

 

 延々と地下を走ってきた電車が突然速度を緩め、車内が急に明るくなった。イーストリバーにかかるマンハッタン橋(Manhattan Bridge)の上に出る。窓の外を食い入るように眺めたが、今度はガラスへの白い落書きに邪魔され、付着した雨粒と鉄柱くらいしか見えない。
 渡り終えてマンハッタン島に入ると地下にもぐってしまい、再び暗闇の中の退屈な時間を過ごす。

 

 1つ手前の駅で青年とも別れ、42丁目/ブライアント・パーク(42 Street-Bryant Park)で地下鉄を降りる。
 東に500メートルほど歩くと、古代劇場のような石造物が、高層ビルの谷間に埋もれながらも鎮座していた。グランド・セントラル(Grand Central)駅である。
 ペンシルベニア駅は愛想のない地下駅なので、ここグランドセントラルがニューヨークを代表するターミナル駅として観光客には必須のスポットになっている。

 

 コンコースの丸天井にはプラネタリウムのごとく星座が描かれ、大理石造りの床や壁は淡い光のシャンデリアで照らされ、勇壮な雰囲気がある。
 こんな鉄道栄光時代の面影を眺めてから長距離列車に乗り込めば、旅の気分は相当に高まりそうに思うが、今、この駅にはメトロノースの近郊列車だけが発着し、アムトラックは乗り入れていない。
 馬蹄のような形をした大理石の狭い出入口からプラットホームに入ってみる。

 

 華やかな駅構内が嘘のように、薄暗く殺風景な空間に電車が停まっていた。天井は黒く汚れたダクトや配管が剥き出しになっていて、ペンシルバニア駅と同じように饐(す)えたような異臭が漂い鼻を突く。


急行「リージョナル」(ニューヨーク~ボルチモア)で人口密集地帯を行く

 ニューヨークに着いた翌日の6月8日木曜日、今日は途中のボルティモア(Baltimore)に立ち寄り、米国鉄道発祥の地を見学しながら、ワシントンDC(Washington,D.C.)まで移動。この鉄道旅を終える予定である。

 32番街のペンシルバニア(Pennsylvania)駅(通常「ペンステーション」と呼ばれる)は、アムトラックの全列車とニュージャージー、ロングアイランドへの近郊電車が発着する。コンコースとホームはすべて地下に埋もれている。

 1960年代初頭までは石造の壮大な駅舎が残っていたのだが、赤字に苦しんでいた当時のペンシルベニア鉄道会社が土地の地上権を売却。その結果、今は同じ場所にスポーツアリーナの「マディソン・スクエア・ガーデン」と高層ビルが建っている。
 ゆえにターミナル駅としての存在感はあまり見えてこないが、乗降客数は米国一だという。

 

 7番街側からバスケットボールのオブジェの下をくぐって地下へ下りる。NBA観戦に訪れたかのようで、これから中・長距離列車に乗る高揚感はあまり沸かない。
 地下街のダンキンドーナッツで朝食。大きな発着案内板を立って眺めながら列車を待つ。アムトラックの乗客の大半がここを注視しており、乗車ホームが表示されると同時に慌しく人が階下へと呑まれてゆく。アムトラックでは列車の予約は必要だが、座席指定はない。

 ワシントンD.C.行の『リージョナル』183列車は発車10分前になって、ようやく番号が点灯した。
 地下2階の埃っぽいプラットホームに、飛行機の胴体のような形をした銀色のアムフリート車が停まっている。アムトラックの最も標準的な客車で、窓が小さいことを除けば、大きな二人掛けのリクライニングシートを備えていて車内の設備は悪くない。

 薄暗いホームの先まで行って急いで編成を眺めた。少しやつれたAEM7型電気機関車を先頭に、客車を6両連ねている。
 半室ビュッフェのビジネスクラス車両のほかは、全てが普通座席車(コーチクラス=Coach Class)。今の時点で半分くらいの客が乗っていて、多くはビジネスマンのようであった。

 

 7時5分、列車は定刻通りにペンステーションを離れた。目的地のボルティモアまでは約300キロ、2時間半を要する。
 駅を出てすぐ一瞬空が見える掘割状の場所がある。しかし、ハドソン川(Hudson River)を越えるノースリバートンネルに入ってしまうと、ニュージャージー州の北ベルゲン郊外に出るまで8分ほど暗闇が続く。

 地上に出て初めて見えたのは、広大な荒れ地であった。大都会からこうも一瞬で車窓が変わるのは面白くもある。


 出発前からガムをかみ続けている巨漢の白人車掌が検札に来て、半券を回収すると同時に荷物棚に行先票を差し込んで行く。駅に改札口がないので、こうして乗客の管理を厳格に行っているのである。


 ニュージャージー・トランジットの近郊各線が集まってくる巨大高架駅のセコーカス・ジャンクション(Secaucus Junction)を通過した列車は、7時22分にニューアーク(Newark)に停車。
 州の最大都市らしく、日本の私鉄を思わせる長い高架ホームがあり、ニューヨークへの通勤客の多さが伺える。

 

  左手にニューアーク国際空港を望みながら、列車はエアポート駅を通過。エリザベス(Elizabeth)、リンデン(Linden)と郊外の住宅地を走っていくが、どうもスピードが上がらず、近郊列車にまで追い抜かれた。
 次の停車駅、メトロパーク(Metro Park)を出発した時は定刻より9分遅れであった。

 このリージョナル(Regional)は、地域間急行に該当する一般列車である。各便を千鳥状に停める形で全てのアムトラック駅を結んでいるので、特急の「アセラ」に比べると停車駅が多い。退屈はしなくて済むが、さすがに各駅停車に抜かれて走るのは面白くない。

 小都会のニューブランズウイック(New Brunswick)を過ぎると、段々と家が少なくなってきた。列車は森の中の直線を飛ばし、8時7分、州端にあるトレントン(Trenton)に到着。
 ここトレントンはニュージャージーの州都だが、人口はニューアークの3分の1程度しかない。経済と政治の中心を分けるという意味合いがあるのか、米国の州都は最大都市に置かれていないことが多い。

 

  20人ほどを乗せて出発したリージョナルは、まもなくデラウェア川の鉄橋を渡り、ペンシルバニア州(Pennsylvania)に入った。車窓には州立公園のVan Sciver湖が現れたが、すぐに家々が立ち並ぶ都市近郊の街並みに変わった。
 いつの間にか左手にインターステート(高速道路)95号線が近づいていた。ちょうど朝の通勤時間帯でフィラデルフィア中心部へ向かう車が車線一杯に詰まっている。

 

  そこを過ぎると巨大なスラム街が待っていた。いずれの大都市でも、立派な高速道路と荒廃した住宅街は摩天楼の足元に必ず現れて、鉄道はその横を通り抜けてゆくのである。

 崩れたレンガの家とその残骸、不自然な空き地に置かれた大量のゴミ、廃墟や壁へ埋め尽くされた落書き。通過していく北フィラデルフィア駅(North Philadelphia)を見ると、待合室は徹底的にガラスが叩き割られていた。

 ここぞ下車をし街を見なければならぬ、と頭の中では思うのだが、上っ面を塗り固めた観光地を巡ってこの国を知った気になっているため、実際に足が動いたためしがない。

 

 市街地を北から南へ縦断した列車は、高層ビル街の真下にもぐりこむように暗闇に入った。

 8時35分、定刻より8分遅れてフィラデルフィア「30th Street Station」に着く。地下ホームでの乗降が慌しく終わり、3分後に発車。

 今度は中産階級がいかにも住んでいそうな一戸建て住宅が並ぶ郊外の風景。突然、それが途切れると、プラントや石油タンクが幾つも現れ、列車はいつの間にかデラウェア州(Delaware)に入っていた。


 海のように広くなったデラウェア川と工場地帯、アムトラックの車両基地を車窓に見ながら、州の最大都市・ウィルミントン(Wilmington)に到着。欧州の古い豪邸のようなレンガ駅舎の先には、こぢんまりと整った街並みが広がっている。

 ニュージャージーの大都市と同名のニューアークなる小駅を通過すると、メリーランド州(Maryland)に入る。いつもの旅の方法として、必ず土地の境である州境を注視しているのだが、日本のように「ここから○○県」といった告知看板もなく、地形の大きな変化もないので分かりづらい。
 そもそも境界など気にしているのは、国が狭い日本人の特性なのかもしれないが。

 

 左手にチェサピーク湾(Chesapeake Bay)が近づき、目が休まるような海辺の車窓が少し続いたが、のっぺりとしたボルチモアの街が近づくにつれ、澱(よど)んだ色の荒れた住宅群が目に付いてきた。またもスラム街のようであった。


 列車は定刻より7分遅れて9時45分にボルティモア・ペンステーション(Baltimore Penn Station)に到着した。


ボルチモアのB&O鉄道博物館/地域鉄道MARCでワシントンD.C.へ

 ボルティモア(Baltimore)ペンステーションの駅舎は、広々としている割には人が少ない。
 木のベンチに腰掛けて、ぼんやりと列車を待つ人々を見ていると、グランドセントラルやボストン南などの都心駅にはない別の優雅さがあるように思える。
 ホテルのようなクロークがあったので、大して重くもないリュックサックを預けて外に出た。

 

 ずっしりとした胴長の古典的な石造り駅舎は、あまりにも形が整っているせいか、相当に歴史を経た庁舎のようだ。太い石柱がお決まりのごとく張り出していて、街のランドマークらしく激しい自己主張がある。

 

 ここで途中下車したのは、B&O鉄道博物館(Baltimore & Ohaio Railrord Museum)に行くためであった。
 B&Oとは「ボルチモア&オハイオ」のことで、1830年にアメリカで初めて生まれた本格的鉄道の名称である。この発祥の地にミュージアムが設けられている。
 ガイドブックによると、ここはバスか車でしか行けないと書いてあったが、市内地図で調べると、LRT(路面電車)が走っているという。
 これで近くまで乗り付けて、後は歩くことにした。

 

 駅周辺を20分ほど探したが路面電車乗場が見つからず、戻って駅前にいた婦人警官に聞いてみると、笑いながら「下にあるよ」と階下を指差した。
 レストランの横に狭い階段があり、降りると構内の片隅におまけのようなホームが作られていた。最近になって支線の形でペンステーションへの乗り入れを始めたようである。

 自動券売機を見ると1乗車1.6ドル(180円)で、1日券は3.5ドル(400円)という微妙な料金設定だったが、バスにも乗れる1日券を購入。鉄道マニアはフリーパスという言葉に弱い。これは海外でも同じらしい。

 チンチン鳴らしながらやってきた2両編成の電車は、LRT(ライト・レール・トランジット)の車両らしく、路面電車と一般電車の中間のような大きさであった。新しいためか車内も清潔で明るい。

 本線と合流するボルティモア大学駅(Univ.Of Baltimore/Mt.Royal)まではわずか1駅2分。目で見える位の短い距離なのだが、発車してすぐに電車は止まってしまい、6分かけて到着。そのせいかは分からないが接続が悪く、12分待ってようやく本線のBWI空港(BWI Air Port)行きの列車が来た。

 2両編成を2つ連結した4両の電車はワンマン運転で、駅も無人で切符の集札がない。アメリカでは珍しく、欧州のような信用乗車方式を採用している。
 乗降時間の短縮や人件費の削減を考えると、不正乗車は大きな問題ではないのかもしれない。

 古い建築物と新しいビルが程よく調和した市街地を、列車は車と一緒にのんびり走る。少し経つと不穏な空気を感じる場所にも駅が現れだした。ボルチモアは治安が良くないというガイドブックなどからの事前情報があったためか、乗ってくる乗客をも注視してしまう。

 

 5つ目のコンベンションセンター駅(Convention Center)へは10分余りで着いた。
 路面電車の「電停」を少し立派にしたようなホームに降りると、大リーグ「オリオールズ」の本拠地、カムデンヤード(Camden Yards)が目の前に見える。赤茶色の煉瓦造りの野球場に歴史深さを感じるが、オープンしたのは1992年だという。

 スタジアムの誘惑を振り切って、プラット通り(Pratt St.)を西に歩く。B&O鉄道博物館はこの通り沿い1キロほど先にある。
 左手にベーブ・ルースの生家なる建物も現れたが、再び鉄道と野球を天秤にかけ、一瞬目視しただけで通り過ぎる。
 マーチン・ルーサー・キングJrを冠した広い道路(S Martin Luther King Jr Blvd)を越えると、道幅が狭くなり、辺りはオフィス街から住宅地に変わった。

 15分ほどでキューポラ状の建物が見えてきた。
 先ほどの野球場もそうだったが、煉瓦色の街並みに溶け込んでいて、近くまで寄らないと博物館とは分からない。

 14ドル(1610円)という少々高い入場料を支払い中に入る。平日昼間のせいか人気(ひとけ)がなく、館内はボランティアの老人だけが各所で待ち構えている。一人目の爺は笑って何とかすり抜けたが、車両展示室に入った瞬間に老婆が急いで寄ってきた。

 「これを観て」「あれは○○よ」「これが分かる?」と機関銃のように喋る。

 「英語はあまり分からない」

 と言ってみたが、簡単には離してくれない。

 そこに妻が現れた。言葉が少し分かると見るや、そちらに向かって再び泡を飛ばしはじめた。私はいたずらをした子供のように、彼女と妻の横をすり抜けるようにそこを離れた。

 

 ドーム状の木造展示室は、三年前の冬に大雪で屋根が落下したが、最近になってようやく再建にこぎつけた、これはボランティア婆から幾度も聞かされた。今も被災車両が置いてあり、修復のための寄付を募っているという。入場料が若干高いのもその影響なのだろう。
 彼女の無欲な熱弁を聞いている限り、この館の完全復旧はそう遠くないだろうと思った。

 館内には蒸気機関の原型のようなトムサムやラファイエットなどB&O時代のSLが展示されている。不勉強のせいかその価値があまり理解できず、外に出て、大量に置いてある近代の巨大機関車や客車を瞥見(べっけん)。グッズショップに急ぎ、ロゴ入りのワッペンや絵葉書などを購入し独り喜ぶ。
 米国鉄道の発祥地に行ったという自己満足感を得て、館を後にした。

 

                           ◇

 

 ボルティモア(Baltimore)ペンステーションに戻り、構内のカフェで昼食をとる。大学生のような若い店員が私の拙い英語を上手く解してくれた。嬉しくなって微々たるチップを渡すと、パンをサービスしてくれた。

 ワシントンD.C.まではMARC(Maryland Rail Commuter Service)というメリーランド州の地域鉄道で行く。
 地元民の通勤や移動の手段として、州が平日だけ1時間に1本運転している。「リージョナル」に比べると20分ほど余計に時間はかかるが、運賃は半額以下の7ドル。アムトラックが止まらない小さな駅にも停車していくので、日常の鉄道風景が見られて面白そうである。


 駅構内で自動券売機を探したが見当たらず、案内所で聞くと、アムトラック窓口で切符を売っているという。

 近郊線に乗るというのに、窓口の初老係員は身分証明書を出せと命じた。私は慌てて、服の下の首掛け袋からパスポートを出そうとしたが、ワイシャツのボタンが一気に2個ほど取れ、胸がはだけてしまった。初老氏は笑いをかみ殺した顔で旅券を一瞥し、航空券のような切符を発券した。

 

 13時40分発MARCペンライン(Penn Line)の429列車は、前から客車が4両続き、最後尾から機関車が押していく形の編成になっている。
 逆向きの場合は、機関車が先頭に来るのでローカルな雰囲気になるのだが、客車を先頭だと電車のように見えてくる。米国の近郊鉄道にはこの方式をよく見かける。

 

 定刻になっても列車が動く気配はなく、結局10分の遅れで出発した。通勤鉄道でさえこんな状態なのか、と苦笑した。ワシントンまでは途中7駅に停車し、1時間を要する。 

 車内には2人掛けと3人掛けの座席が押し込まれるようにあり、狭苦しく感じる。検札や切符販売の都合なのか、客車を2両だけしか開放していないが、4割ほどしか埋まっていない。

 

 ボルティモア中心部の地下線を走り抜けた列車は、高架になったところで急に止まった。
 理由のない停車はいつものことだ、と思ったが、ここは西ボルチモア(West Baltimore)駅であった。ホームが短いためか窓からは見えない。高架上にある同じような小駅に1つ立ち寄り、列車は郊外に出る。

 

 ガラスの渡り廊下とコンクリートの小ぶりな駅舎が見えてきて、BWI空港駅(BWI Airport)に着く。ここはアムトラックの停車駅である。スーツケースを引いた客が20人ほど乗ってきて、車内が賑やかになった。
 BWIとは何のことかと思ったら、ボルティモア・ワシントン・インターナショナルの略なのだという。
 この駅から列車でボルチモアへは10分、ワシントンまでは35分で行ける距離である。それで両方の都市名を付けているのだろう。
 ワシントン・ダレス空港の交通不便を考えれば、こちらを使いたい気がしたが、日本への直行便はない。

 

 左手に空港をかすめながら、列車は郊外の緑地帯に入り、オーデントン(Odenton)、ボウィ(Bowie)で幾人かの乗客を拾う。
 駅前の広い駐車場には車があふれている。自動車で駅まで来て、鉄道に乗るのだろう。パーク・アンド・ライドは日本でも定着しつつある。
 次のシーブルック(Seabrook)駅の近くには、大型ショッピングセンターがあった。
 平べったい派手な色の店舗に取り囲まれた駐車場に、買物ワゴンいっぱいの商品を持ったファミリーが自分たちの車に積み込んでいる。日本の中都市郊外でよく見る、私たちが何の違和感もなく慣らされてしまった光景がある。

 

 14時36分、ニューカロルントン(New Carrollton)に到着。アムトラックが停車するためか大きな高架駅になっている。ここはまだメリーランドだけれど、隣にはワシントン地下鉄の駅が隣接していて、もうDCに入ったかのような雰囲気があった。

 

 列車は地下鉄と併走しながら州との境界線を越える。目印も変化もなく、ただ同じような市街地が続いている。 ニューカロルントンから10分ほど走って、スピードが極端に落ちてきた頃、ワシントンDCのユニオンステーション(Washington, DC Union Station)に到着。14時44分、4分の遅れであった。

 

  荷物集積センターのように飾り気のないホームから、駅舎内へ入ると、そこは賑やかなショッピングモールになっていた。列車が発着する場所の陰気さに比べ、どうしてこうも変化が大きいのだろう。

 外へ出ると、円形の国会議事堂が見え、振り返ると凱旋門を巨大にしたような駅舎がそびえている。首都だけに、その大きさと迫力は群を抜いている。
 アメリカ鉄道の栄光時代の残滓(ざんし)はどこも立派である。

                                                 (了)

 西村健太郎

 (2006年6月)

 

あとがき・参考文献は下記へ

http://www.hat.hi-ho.ne.jp/nishimura/am/am12.htm



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