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無人島「南島」上陸への道

 

 小笠原諸島の"首都"である父島を一回りしてしまうと、次は違う島も訪れてみたいという欲が出てきた。
 もう一つの有人島である母島へは、定期船こそ出ているが2日後まで便はない。
 父島の北に隣接するように浮かぶ兄島と、南西に位置する小さな南島はいずれも無人島だが、民間のツアー船なら渡ることができるという。

 

 観光案内所を兼ねた商工会館で「南島上陸プラン」と書かれたチラシを見つけ、電話を掛けてみた。
 最遠の離島らしく、携帯電話の音声がわずかに遅れて行き来する。テレビ番組での海外衛星中継のごとく、少し間の悪いやりとりしているうちに、「朝8時半に青灯台の前で待っていてください。海の状態が悪くて出航できなければお泊まりの旅館まで連絡しますよ」という内容が聞き取れた。

 

 翌朝、青灯台と呼ばれる小さな白灯台が立つ港へ行くと、同じようなツアーの参加者が20人以上いて、着岸する大小のボートに次々と乗って去っていく。
 都会の海好きが所有していそうな小型プレジャーボートがやってきて、スピーカーから名を呼ばれた。

 

 こんな小さな船で行くのか。

 

 前途に不安を感じたが、南島に着岸できるのは小型船に限られているらしい。ふらふら上下に揺れる船体へ、体重13キロの子を抱え、陸から妻に手渡しながら乗り込んだ。
 客は全部で11人。舳先に4人、船尾には我が子を含めて6人が座る。小型なのに案外乗れるものだなと感心した。

 

 船のオーナー兼船長は、完全な中年の域に達しているに違いないのに、生気あふれる顔でボートを操る姿は、どこか青年の名残がある。以前はこの島で漁師をしていたという。生まれも育ちも首都圏なので、小笠原の海がたまらなく好きで移住したタイプの住民らしい。この手の人々は、精神年齢と実年齢がリンクしないので、歳が分かりづらい。

 

 入江の二見港内の海上を飛ばしているうちは、大した揺れもなかったが、陸地が遠ざかるごとに波が高くなる。目の前の海面が盛り上がり、そこに乗り上げては落とされながら、小船は前へ前へと進む。

 しばらくすると、古代の溶岩がそのまま固まった野羊山の断層が見えた。海上から眺める父島は、なかなか荒々しい。

 十数分で島の南西端と南島を隔てる海流にかかると、船が飲み込まれてしまうのではないかと思うほど、水面の波動が激しくなった。

 父島の陸地から島までの間はわずか800メートルほどで、その間に幾つかの小島や岩礁が浮かんでいる。にもかかわらず、激しい潮流である。
 小舟はメトロノームの振り子のごとく左右に振られている。
 バシャという音を立てて船底が海面に叩きつけられる度、波飛沫が降ってきて雨合羽が欲しくなった。

 

 海流から逃れたボートは、細長い陸地が抱き込む狭い口から、南島に入り込む。今までの激しい水面の動きが嘘のように一切の波が消えた。
 鮫池(さめいけ)という名の通り、池に海水が流れ込んだかのように静かな湾である。

 11人を乗せたプレジャーボートが着岸すると、舳先には所々白くなった石灰岩の崖(がけ)が迫っている。突起が多く、手を切りそうな岩をよじ登らなければ上陸できないようだ。

 奇岩の陸地に二歳半の子を何とか引き上げたものの、この先、米袋くらいの重量を丘の上まで抱えて行かなければならないのかと思うと、子連れで来たことを若干後悔した。

 

 旧(ふる)い信号機の青灯みたいな色の水面をのぞき込むと、海底に黒い魚が何匹か潜んでいる。
 ホワイトチップとかネムリブカ(眠りフカ=サメ)とか呼ばれる鮫(さめ)で、呼び名の通り眠っているようでほとんど動かない。それほど大きくはないせいか、遠くから見るとどこか可愛らしい。ここは鮫池という名だったなと思い出す。

 

 例のボート運転手は、いつの間にか「東京都自然ガイド」という赤い腕章を腕に巻き、添乗員然として現れた。

 江ノ島より一回り小さいくらいの南島は、海面上昇によって沈下したカルスト地形が作り出した奇観や、無人島ならではの動植物が残る地として、観光客の人気が相当に高い。
 ただ、多くの来島者によって自然環境が年々悪化する傾向にあったようで、保護を図りながら一定数の観光上陸も認めるという折衷案的な規制が2003年から設けられている。
 それは、東京都が認定したガイドが引率することを条件に、一日合計100人まで決められた場所で2時間以内の滞在を許す、というものである。

 

 我が子を両手で抱えて、ごつごつとした丘を上っていたが、その先には梯子(はしご)でも昇るかのような角度の登山道が現れた。さすがにここは断念しようと思った。
 少し思案していると、都の公認自然ガイドに変身してもやはり海の男にしか見えない件(くだん)の若船長がやってきて、ひょいと片手で子供を抱えて、垂直気味の坂を軽々と登っていった。

 小山の上から島の全体を眺め、普段は出合うことがないような海鳥の姿を見てから下山し、最大の見せ場である扇池の砂浜に移動する。

 

 件(くだん)の公認ガイド氏は、白砂の上に来ると、この島で「ギョサン」と呼ばれるゴム草履(ぞうり)を脱ぎ、裸足で歩きはじめた。
 扇池は、洞窟の下部が崩れて海とつながり、湧泉のプールのようになっている。透き通ったトルコ石のような色の水面とアーチ状の奇岩は、一度で目に焼き付いてしまうような神々しさがある。
 
 取り囲む白い浜には、数千年前に絶滅したというヒロベソカタマイマイというカタツムリの殻が散らばる。奇跡に近い光景だ。
 我々同様に公認ガイドに引き連れられた幾つもの見学グループからは、同じ場所で似たような歓声があがっている。
 厳格に観光客を管理しているからこそ守られている美しさなのだが、自らの足で発見した時のような感動や訪問の達成感は少ない気がした。

 ここまで来れたからこその贅沢な思いを、さっきから独りで抱いている。

 

 「世界遺産になったら、規制がもっと厳しくなって、気軽には来れなくなるかもしれませんよ」。

 我らが素足のガイドから、つぶやきのような声が聴こえた。


母島の自然と歴史を旅する

 

 小笠原諸島のもう一つの有人島、母島こそが日本最遠の離島である。
 父島の南約50キロ先に浮かぶその島へは、東京から所要25時間30分の「おがさわら丸」を降りた後、さらに「ははじま丸」で2時間10分を要する。
 接続時間を含めると、日本本土から30時間弱を費やさなければ往来できない。

 人が日常生活を営む日本の地で、これほどまでに遠い場所は他には見あたらない。
 丸一昼夜もかけて父島の地まで来たのなら、最遠の母島へも行かないと、後悔しそうな気がした。


 おがさわら丸の大きさと比べて10分の1にも満たない小さな定期船に乗り、居住者が父島の5分の1ほどしかいない母島を目指した。

 この航路には「ホエールライナー」という愛称が付けられている。12月から5月初旬までは鯨(くじら)に出会う確率が非常に高いのだという。
 鯨の姿は一度見てはみたいが、今朝は辺り一面乳白色に染まっていて、船に備え付けられた双眼鏡で波高い海面ばかり見つめていると、船酔いが悪化しそうである。
 亜熱帯の南国気候というイメージが強いこの諸島だが、春は濃霧に包まれる日も多いようだ。

 

 ただ白いだけの太平洋に霧笛を打ち続ける船は、高波を淡々と乗り越えていく。どの方角へ向かっているのかもまったく分からない。
 50人ほどの客の大半は目を閉じたまま。船内はぶるぶると座席までしびれるエンジン音と、波に船体が叩きつけられる鈍い音だけが定期的に響いている。

 

 出航から2時間が経とうとする頃、ははじま丸の速度が落ち、揺れがおさまった。視界から少しづつ白色が消えていき、母島諸島を成すいくつかの無人島とともに、高い山稜が浮かんでくる。

 雨上がりのごとく、碧い海面に緑色の小島が光り、母島の長い山並みが輝いている。霧の中には、こんな風景が隠れていたのか、と偶然の演出に感銘した。

 

 船員が岸壁に向かってロープを投げて接岸すると、陸上に待機する若者と警察官がタラップを押し寄せてきて、船体の出入口と接続させた。船の様子を見守る人、宿のプレートを高く掲げる人、5人ほどが横に並んで笑顔で迎えている。

 本土と直結した父島に比べると、ここは日本各地に浮かぶ小さな離島と似た雰囲気を少しばかり漂わせている。全ての島民が一家族のごとく一つの場所にまとまって住み、海を隔てて外部からの侵入を謝絶しているかのような、小規模離島ならではの空気も感じる。

 だけど、本州近海の過疎離島のように、島民に高齢の人をほとんど見かけず、若い人ばかりが目立つ。母島も特殊な歴史を持つ新天地であることは、父島と変わりないようだ。

 

 船にかけられたタラップから地面へ着地するところに、靴を洗浄する水を含ませた土落としが置かれていた。靴裏を通じた種子や卵の伝播を阻止しようというもので、南島に行った時も船上で靴を洗浄させられた。
 同じ小笠原でも、多くの人が入り込む父島からは、固有動植物の生態系を脅かす外敵も一緒にもたらされるらしい。

 日本で言う天保元年、動植物の楽園だった「ボニン・アイランズ」に欧米や太平洋諸島からの24人が初めて島民として定住した。それから180年。人が乱獲したり、意図的にあるいは無意識に外敵要素を持ち込んだりした結果、絶滅やその危機にある固有種が少なくない。

 

 この諸島は地球上に誕生して以来、一度も他の大陸とつながっていない海洋島である。人間の歴史と同様に、自然界も特異な道を歩んできたがゆえに、地球上で唯一という存在が多々ある。
 母島ではそうした貴重な動植物が、危機に瀕しながらも多く残っている。

 

 母島の面積は父島より一回り小さい程度だが、現在450人超が住んでいるにすぎない。全島民が港周辺に固まって暮らしているので、移動のためのバスやタクシーといった交通機関はない。


 それでも島の南北に都道が通じ、一般の乗用車を使った「有償輸送」と呼ばれる制度が設けられている。

 定期船が着く沖港を起点に、行先までの距離と乗車人数によって料金が明示されており、たとえば島北端の北港(12キロまで区間)へは1人だと片道2200円、2人参加だと1人あたり1650円、3人では1人あたり1100円という具合に、乗車人数と距離によって細かく「運賃」が決められ、大人一人につき6歳未満の子供一人まで無料という規定まである。
 多客期は定期便も運転されており、公共団体が主導するコミュニティバスと乗合タクシーの中間のような存在だ。

 

 この運営は、港に置かれた観光協会が窓口となっていて、目的地を往復する「輸送便」以外に、島内スポットを回る1人4500円の「観光便」も設けられていた。それに「乗る」ことにして、前日父島から電話で申し込んだ。

 当日観光協会では、領収書を兼ねた切符のような紙片が手渡され、どこか公的な交通機関の感があった。

 しばらくすると、品川ナンバーのバンがやってきて、顔付きは中年に違いないが、やはりどこか若く見える男性が「母島」と書かれたしゃれたシャツ姿で待っていた。

 

 観光便のバンは、平地のほとんどない急坂ばかりの狭隘な集落を抜ける。その先は、アスファルトの道だけが島の北端に向かって伸びていた。

 これ以北は「島民はほとんど行かない」と母島シャツの運転手兼ガイド氏が言う。時折すれ違うのは観光客を運ぶ「有償輸送」や観光案内のワンボックス車と、レンタル用のミニバイクばかりである。

 

 海沿いを通っているはずなのに、道路は深山からいっこうに抜け出せず、時折、崖下に湾が見えるだけ。母島は父島以上に山が高く深い。
 途中の桑ノ木山という森の中で停車し、辺りを歩いて見て回った。

 山岳名にもある固有種の「オガサワラグワ」が生い茂る山だったが、明治期に入植した日本人が高級建材用として乱伐し、加えて薪炭材用に外来種の「アカギ」を持ち込んだ結果、栄養分を奪われたオガサワラグワが危機に瀕してしまったのだという。

 

 野生化したヤギや野良猫、昆虫を食べ尽くす外来トカゲ「グリーンアノール」など、小笠原から駆逐すべき7つの重点動植物の一つがアカギである。辺りの幾つかの木は、駆除の一環として薬剤注入や樹皮を剥がして枯らされていた。

 問題視されている樹木にも、本土では見たことがないような小さな緑色の鳥がやってきては、枝をつついて飛び去って行く。母島の周辺だけにいるという絶滅危惧種のハハジマメグロだった。

 

 小笠原に人が住む前には、固有種の陸鳥はハハジマメグロを含め、ムコジマ「メグロ」、オガサワラ「マシコ」、オガサワラ「カラスバト」、オガサワラ「ガビチョウ」という5種が存在したが、人間という外敵が現れたために4種は早々に滅ぼされ、日本には標本さえも残っていない。
 外敵なき楽園で育ったがゆえに、生命力は弱かったようだ。

 

 アカギの下で、本に載った鳥のイラストを示しながら母島シャツ氏が滔々(とうとう)と解説する。その姿は大学の講義のごとくである。
 この人、普段は何の仕事をしているのかと思う。2歳半の我が子は、会った瞬間に医者だと感じたらしく「注射はイヤだ」と泣き出していた。

 

 相変わらずカーブと勾配ばかりが続く都道を走り、所々で説明を受けながら、1時間ほどかけて最北端の北村にいたる。
 村といっても、戦前はそうであっただけで、今はメインストリートにかすかな痕跡をとどめる廃村である。門柱のみが残る小学校跡はガジュマルの木が埋め尽くし、案内看板がなければ通り過ぎてしまいそうなほどだ。

 

 小笠原に人が住み始めてから180年の間に、母島は人間生活の歴史が途絶えた時期がある。
 太平洋戦争前、最大2100人の島民がおり、この北村も600余の村民が暮らしていたが、本土への強制疎開と敗戦後の米軍による占領で、母島は再び無人島に戻されてしまった。
 米国統治から22年後の1968(昭和43)年、小笠原諸島が日本に返還された時には、人間定住前のように草木が生い茂るジャングルになっていたという。

 

 内地に追いやられていた母島住民が戻り始め、一からの再開拓を始めたのは、日本が統治権を取り戻してから4年後の1972(昭和47)年ごろ。その際、沖港周辺だけが居住地として選ばれ、北村の地は今日まで戦前のままでとり残されている。

 道は北端の入江の前で途切れていた。
 深く入り組んだ湖のような湾が目の前に迫る。北港と呼ばれるここは、かつて東京への定期船も行き来した。
 すっかり短くなってしまった石の桟橋が、碧い水底に消えかかっていた。

 

 島内観光便は、往路と変えようがない一本道を街に向かって戻る。
 帰路は市街に近い静沢の森に立ち寄った。今度も自然観察かと思ったら、遊歩道の片隅に突如、完膚なきまでに赤錆びた高射砲が現れた。

 小笠原に無数ある第二次世界大戦時の戦跡は、自然遺産とは違い、ほとんど人の手が加えられず、時間が過ぎるままに残されている。

 苦難の時期の出来事を無言で訴えているようで、胸に歴史の重さが突き刺さる。

 

 運転席の母島教授は、島の自然と歴史詳述のセッションを終え、復路は島内教育事情の話題に転じて、講義を続けている。我が子は既に眠ってしまった。
 父島の小笠原高校には母島島民用の格安寮があることや、母島の小中学校は教員の数が相当に充実していること、修学旅行は全12泊で硫黄島に行った後に本土へ行くことなど、本職は学校教員なのかと思ったが、中高3人の子を持つがゆえに詳しいらしい。少しづつ彼の素顔が明らかになりつつある。

 

 集落に入り、一戸建ての住宅が立ち並ぶ中を車は走る。
 不意に運転席から「ここが私の家です」と聞こえた。母島先生が指差した先はユースホステルであった。

 先生改めペアレント氏は、小中学校の前に来ると、向こうにいるのが妻と子供です、と顔だけその方向に向ける。何かのイベントらしく、校庭で弁当を囲んでいた親子3人がこちらを振り向いた。小学校低学年の女の子が車に向かってずっと手を振ってくれている。


 お子さんは4人いたんですか、と私が聞くと、「まあ、そうなんです」と頭をかいた。

 

 4時間ほどの母島滞在を終えて、「ははじま丸」に再び乗り込んだ。
 岸壁には船を見送る十数人の姿がある。ユースホステルのペアレントという正体を明かした母島先生も、家族を引き連れて実に面映(おもはゆ)い仕草で手を振っていた。相当な照れ屋らしい。


 長期滞在者らしき若者や島人からは、いってらっしゃい、という声が絶え間なく聞こえる。

 船が岸壁から離れても、防波堤の先まで皆が追ってくる。
 一人の青年が全力で駆けてそのまま海に飛び込む。船の客から歓声と笑いが上がった。もう一人、若い女性もそれに続く。立ち泳ぎで海面に浮かびながら、二人は船に向かって懸命に手を振り、いってらっしゃい、と幾度も叫ぶ。

 

 本土から30時間もかけて、再び島に帰ってくる者など何人いるのだろうか。そう考えると無性に寂しくなってきた。

 無意識のうちに、私たち親子3人揃って「ありがとう、いってきます」と大きな声を出していた。

 

                                                           (了)

 

西村 健太郎

(2011年6月公開)

 

小笠原への旅ガイドは【小笠原旅行術】をぜひご覧ください
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/nishimura/ogasawara/travelguide.htm

 


小笠原航海記 南の島の航路・路線バス紀行【奥付】



小笠原航海記 南の島の航路・路線バス紀行


公開日 : 2011年6月11日
最終更新 : 2011年6月11日

著者 : 西村健太郎
[プロフィール]

編集・制作 : 鉄道紀行舎(http://kikosya.jp/
発行所 : 株式会社paperboy&co.「パブー」


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