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第2章

父島を走る村営路線バス紀行

 

 小笠原村民の大半が住む父島には、村営の路線バスが走っている。
 恐竜が背後を振り向いたかのごとき形の孤島は、南北15キロ、周囲50キロほどの陸地を持ち、面積で言えば日本の中心部千代田区の二倍ほどの規模である。

 

 とはいえ平野部の少ないこの島は、2000超にのぼる島民の多くが定期船が発着する二見港の周辺に住まう。
 港付近の大村や奥村、清瀬と呼ばれる地区には、村役場や都の出先機関、公共施設が置かれ、商店も旅館も集中しているので、公共交通機関がなくとも事足りるようにも思える。

 

 それでも、山を越えた島の南側にも幾つかの集落と宿、観光スポットが点在しているために、地元民だけでなく、年間約2万人弱という島外からの訪問者にも移動の用が生じるようだ。
 バスはそうした客を1回200円で運んでいる。

 決して大規模でもない父島で、誰もが乗れる定期的な移動手段をつくってしまうあたり、いかにも日本国ぽくもある。小笠原がアメリカや北マリアナ連邦といった海外領だったなら、確実になかったはずの行政サービスである。

 

 その小笠原村営バスは、村役場を起点に父島の中心部をぐるぐる回るループ便と、南端に近い小港(こみなと)までの南北を結ぶ2つの路線をもっている。
 いずれも所要は15分ほどで、1台の小型バスが二つのルートをかけもちして運行する。

 ブルーラインとかオレンジラインとか名付けられた中心街循環便は日に7本、南北輸送路である扇浦線は12本とそれなりの便数があり、休日は減便されるので、生徒や学生の利用も少なくはないようだ。

 

 島の南集落へ向かう扇浦線の朝9時15分発小港行は、村役場と商工会館横の停留所から5人ほどの客を乗せて出発した。
 都心のコミュニティバスに使われるような小回りのきく新しいマイクロ型で、20人も乗れば座る椅子がなくなるほどである。
 中心部に2軒並ぶスーパーや比較的大きな旅館が近くにある「青灯台入口」で十数人が乗り込み、車内は人でいっぱいになった。大型連休中の祝日らしく九割は観光客のようだ。

 

 村の中心街を過ぎると、急な坂道が続き、隧道(トンネル)が繰り返し現れる。父島の大部分は山地である。
 幾つかのトンネルを抜けると、眼下に入江の境浦(さかいうら)海岸が現れた。
 浅瀬の碧い海原が透け、丸い小さな湾の真中に岩礁のような黒い固まりが見える。
 アロハ姿にロングヘアーの若い運転手が、自動放送のごとく整った発音で、第二次世界大戦時に座礁した濱江(ひんこう)丸という輸送船の残骸であると説明した。

 戦時、米軍の攻撃で無数の船が小笠原海底に沈められてしまったが、この濱江丸は浅瀬に乗り上げたがために、海上に船体をさらすことで70年近く前の戦禍を示してきた。
 それもほぼ限界となり、他の沈没船同様に海中魚礁化する日も遠くはないように見えた。

 

 再度アップダウンを繰り返し、山道を下ると扇浦(おうぎうら)の小集落に着く。ここでバスを降りた。
 停留所の目前には砂浜が伸びていて、ほとんど波のない海面に、幾人かが気持ちよさそうにカヌーを浮かべている。南国のリゾート地めいた風景があった。

 背面のジャングルのような森を少し登ると、日本であることを誇示する幾つかの石碑に混じって戦時のトーチカ(攻撃用陣地)を見つけた。その先には、いかにも日本的な神社が座している。明治期、新政府が小笠原を「統治」した原点は、この扇浦にある。
 異国のような南の海ではあるが、やはりここは日本だったのだなと思った。

 

 日本国小笠原の原点散策を終え、一時間後のバスで南へ向かう。

 海岸線を離れ、山合いを貫く都道を5分も走ると、再び海に近づく。細い道路が途切れたところに、大きなガジュマルの木があり、ここが終点の小港の地だった。
 車道が尽きた先に待つ防風林の林(はやし)を抜けると、白砂が弓形に広がり、陽の光が透明な海底を照らしていた。
 バスから降りた客の皆が感嘆の声をあげ、腰に浮輪を巻いた男の子がサンダルを脱ぎ捨てて海に向かって駆けていった。

 父島でもっとも規模が大きいといわれる小港海岸で、我が子を小一時間ほど遊ばせ、ガシュマルの下で復路便を待った。


 往路と同じく、長髪の若手運転手が操る青いバスが現れ、誰もいない車内に乗り込んだ。海洋センターに行きたい、と告げると、「はい、承知しました」と慇懃なさまで頷いた。この路線バスは、市街地以外では、停留所以外の場所でも乗降ができる。

 行きと同じ道路を戻り、10分もしないうちにトンネル直前の坂道で停まった。運転席のアロハ服青年から、こちらです、と声がかかる。
 下車して坂を下りると、小笠原海洋センターの小さな建物が現れた。

 ウミガメの繁殖や飼育を行うこの施設では、水槽に泳ぐ多数の亀を見学することができる。子供が喜びそうなスポットである。昼食と昼寝前で不機嫌な我が子に巨大なウミガメを見せてみたが、目の前にすると怖がって、さらに機嫌が悪くなってしまった。

 

 午後は中心部大村の宿に戻って、子を何時間か眠らせているうちに夫婦共々つられてしまい、気がつくと夕方になっていた。
 バスは全2路線しかないのに、一方を乗り残すのは精神衛生上よろしくない。何より、朝買った一日乗車券が手元にある。
 太陽が傾いた頃、再び路線バスの旅に出た。

 

 父島中心部の循環線もやはり役場の横から出発する。行先表示以外は朝から何も変わらないバスが来て、件(くだん)のロングヘアー運転手が「今度はどちらへ行かれますか」と尋ねてくる。

 

 一周してここに戻ってくるまで乗ってます

 

 そう答えると、呆れたような、少しおかしさを我慢しているかのような表情で「承知しました」とうなずいた。
 多くの離島で路線バスに乗ってきたが、これほど若く、都心のバス会社のように淡々と折り目正しく対応する運転手など出会ったことがなかった。都会で育った後に移り住んだ新住民が多い小笠原村ならではなのかもしれない。

 

 中心街のループ便には「オレンジライン」「ブルーライン」の二種あるが、役場を拠点に右回りか左回りかというだけで、運行ルートは変わらない。途中に観光地は少なく、もっぱら地元民用として設けられているようである。

 17時15分発、右回りの「ブルーライン」は、我々家族3名だけを乗せて動き出した。観光の拠点である青灯台入口でも乗車はなく、今日は船の姿が見えない旅客船ターミナル前も通過した。漁港に近い奥村の団地前から、老婦が一人乗り込んだだけであった。

 

 バスは港町の背後にある高台へ向かって急な坂を上っていく。清瀬と呼ばれるこの辺りは山を拓いた宅地になっていて、ここが父島のベッドタウンらしい。
 一戸建てよりも、鉄筋コンクリートの都営住宅や公務員用住宅が目立っている。

 住居建設に適した土地が少ないこの島は、新規の移住希望者が多い反面、住処(すみか)を探すのは一苦労なようである。父島島民の持家率は2割程度だ。
 都営の「小笠原住宅」は28棟で約300部屋が用意されているが、入居の競争率は高く、戦前の旧島民が最優先されるなど新移住民にはハードルが高い。民間の賃貸住宅もあるが、首都圏とさほど変わらない賃料水準である。

 人口減で空き家ばかりの離島、などという姿は小笠原にはなく、住宅事情は都心のごとくである。

 

 そんな住宅地を垣間見ながら、バスはくねくね曲がる狭い道を10分ほど走り続け、中心街に下るといつの間にか村役場前を過ぎていた。
 そのまま南の小港まで往復する便に変わったようだ。

 

 降りるタイミングを逸するうち、我が家族の貸切路線バスは南へ向かっている。
 小港でガジュマルの木を再度見て、今日4度目の車窓を眺めながらバス発着地点の役場前に戻った。

 

 朝から幾度も顔を合わせてきたアロハシャツの若手運転手が「夕暮れの小笠原はいかがでしたか」とたずねてくる。

 昼間と違った海の美しさがありましたよ、と私は答えた。

 「そうでしょう、それならよかったです」。

 彼は満足そうに頷き、初めて笑顔を見せた。