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大関戦を増やす事で客を呼び戻そうと部屋別総当たりとなったが、同部屋の力士は本割では、部屋が異なる場合でも兄弟・従兄弟・伯父と甥などの血縁者同士の場合は、対戦が組まれない事に決定している。それでは兄弟の優勝決定戦はどうであったのかというと実はそこまで考えてはいなかった。現在でも力士は7百人以上も居るが、横綱になれるの三人程度、それが兄弟で、しかも優勝決定戦と言う事になると天文学的確立で前例がなかった。本割り、つまり相撲協会として決める取り組みでは組まないが優勝者を二人出す訳にもいかず若貴は対戦する事になった。若貴は日本の理想の兄弟とされた。天才の弟を努力の兄が追いかける構図は、世間に多くある縮図だった。天才の兄を努力の弟が追うという事であれば何の問題もなかったが、時を前後して若貴の不仲が騒がれるようになっていった。その確執は共に髷を切った後も続いている。だから、その道の慣習、仕来り、伝統を迷信と軽蔑するのは容易いが、そこには長年の歴史から生まれた真理があった。優勝決定戦は、両者がっぷり4つになったが大鵬と同じ様に突然、貴乃花も崩れ若乃花の2度目の優勝が決まり翌場所、横綱に推挙された。若乃花は柏戸と同じく5回優勝した。しかし本人は4回だと思っていると語っている。戦国の世に、いや、世界の歴史にも稀有な人物が居る。毘沙門天の化身、越後の虎と言われた上杉謙信である。何しろ宿敵の風林火山の武田信玄に塩を送った。謙信以外の戦国武将であれば、当然シルクロードを断ち甲斐の武田の塩を断つ。履行していれば塩無くして戦うことは出来ないから越後の勝利だったろう。しかし謙信は塩で戦はしないと信玄に塩を送った。少年漫画なら考えられるストーリーだ。しかし実際にそれを戦国時代に履行したのが謙信である。後世の私達からみれば美談である。しかし当時、越後で謙信の配下であれば理解不能だっただろう。わざわざ塩を送って
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川中島を挟んで5回対戦、そのせいで自分は死ぬかも知れないのだ。白馬に乗った謙信が信玄に斬りかかり床几に座った儘で、軍船でこれを払いのけたという想像の図は、そうした謙信の美学を感じさせる。戦国武将の横綱の二人が越後と甲斐という川中島を挟んでの隣国でなければその後の歴史は全く変わっていた。生涯、二人はその顔を知らずに散った。しかし信玄は、息子の勝頼に「自分亡き後、危うい時には謙信を頼れ、謙信は窮状の男を受け入れる男だ」と遺言したという。英雄は英雄を知るという事か。確かに謙信は八百長を真っ先に軽蔑した人であった。しかし仮に甲斐に塩を送ったとしても八百長でも卑怯でもない。謙信は生涯、嫁を取らなかった。これも戦国の時代にあって到底考えられない。だから謙信は女であったとする説が出てくる。しかし戦国の時代に、わざわざ女を担ぐ道理も理由もない。八百長とは最も遠く徹底して義の人であった謙信は日本人を代表する希少な武将だと思う。謙信が義の人であれば、大岡越前は情の人で「子争い」という逸話がある。この子供は私の子だという二人の女に越前は「その子を引っ張り合い勝った方を親とみなす」と言うと二人の母親は渾身の限り子供の手を引く。子供は痛がって泣き出す、すると一人の女が手を離し、もう一人の女が勝ち誇る。その時、手を離した方の女を母親とみなした。今の司法制度では裁判官が嘘をついたことになって問題になる。しかし最後まで手を離さずに子供より己を優先させた女は見破られたと知っただろう。大きな八百長は許しがたい。しかしリスクを背負う八百長は時に美しい。インフォメーションを情報とした人は余程、賢い。情報とは情けに報いると書く。情報化社会と言われて久しいが、情けに報いた政治が郵政民営化にあっただろうか。そして常に天下国家の為と気取り一兵率を自負して、日本を分断する二大政党制を良しとする政策は政局ばかりの固執で徹底した国民無視であった。

岸塚康子