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ツーショット写真など考えられない時代であり、当然マッカーサーは新聞に掲載させた。それは偉大なアメリカに小さな日本人を如実に物語らせるマッカーサーの演出であった。何しろアメリカ人は皆が相撲取りになれるほどの体格を有していた。この時代のアメリカは正に宇宙人であり英語は宇宙語を意味した。故に渡米は宇宙旅行に行くようなもので帰国は宇宙旅行からの帰還者で、英語が話せるという事は宇宙語が話せる事に等しかった。GHQがジープを運転し助手席にスカーフをした日本の女を侍らせ颯爽とやって来る。戦争に行った男達はパンパンと呼んで女達を軽蔑した。何故パンパンというのかは諸説あるが、米兵相手の日本人娼婦は片言の英語しか話せない。つまりジャパンイングリッシュ、パンパンと呼ばれたと言われている。男達にとっては憤懣やる方ない光景であっても子供達は無邪気だ。ジープを見ると何がギブミーなのかも分からずに「ギブミーチョコレート」と言って追いかけた。そしてGHQの兵士とパンパンからチョコレートやチューンガムを貰う。子供は毒で死なないように苦い物を嫌がり反対に知能の発達に必要な糖分を食べると幸せになるように仕組まれている。しかし砂糖が徹底的に不足してサッカリンを甘味料にしている時代である。こうした体験のある子供は1変にアメリカに憧れアメリカを好きに成ったに違いない。それは映画のワンシーンに自分が登場するようなものでスクリーンのアメリカ人からチョコレートやガムを貰ったのであるから、正にETからの贈り物であったに違いない。

 

――伯父は公園で遊びほうける子供達を見ながら自分の子供の頃を改めて思った。テレビ放送開始が1953年(昭和28年)初期のテレビは受像機の大半がアメリカ製で30万円。当時、大卒の初任給が1万円の頃だから、今で言えばテレビ一台が600万したと考えればいい。テレビの普及の為に設置された街頭テレビは黒山


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の人だかりとなり17インチの画面を人々は食い入るように見上げた。番組はスポーツや舞台中継が中心で、白井義男対テリー・アレンのプロボクシング世界タイトルマッチの中継では1台のテレビに2千人の見物客が集まる大盛況ぶりだった。そしてプロレスの力道山見たさにラジオからテレビ時代へと変わっていった。相撲なら栃錦、若乃花、野球では川上の赤バット、大下の青バットが見られた。と言っても白黒だから色は想像に過ぎないのだが。放映する番組が決定的に不足していた。午後6時以降になって漸く番組が埋りだすものの埋め尽くせない。そこで米国の「空を見ろ。鳥だ。飛行機だ。いや、スーパーマンだ! 力は機関車よりも強く。高いビルディングもひとっ飛び」で始まるスーパーマンが登場、日本はアメリカのテレビドラマの台詞の部分だけを日本語にして視聴者に提供した。吹き替えという技術を知らない日本人は流暢な日本語を話すアメリカ人が沢山居るのだと驚いた。ボクシングは、当時は拳闘といいボクサーは拳闘家と呼ばれた。テレビでプロレスを知るがレスリングとプロレスリングの違いを知っている人は少なかった。当時の技は全て日本語であった。「あっ、跳び蹴りだ。必殺脳天逆落(岩石落とし)だ」と技の種類は殆ど無く殴る蹴るの喧嘩に近いものだった。そんな中で、力道山の空手チョップは斬新だった。処が空手と空手チョップの違いが分からない。「空手というのは瓦を割って、空手チョップはプロレス技だよ」と子供達は分かったような分からないような話をした。無理もない柔道は知っていたが、空手の試合なんて見た事がなかったのだ。
「じゃあ、チョップはなんだよ。打った時にチョップと音がするからじゃあないか」
「そうだったのか、じゃあ力道が外人をロープに飛ばしての水平空手チョップって何だよ」
「それは、お前。水兵さんの敬礼に似ている

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からじゃあないの」
「そうか、お前は何でも良く知っているんだな」といった調子だった。そのうち実況も英語に変わりニードロップのニーが膝、エルボーが肘、アームロックのアームが腕、ドロップキックのキックが蹴る事で、頭突きはヘッドパットで頭がヘッド、押さえ込むのはフォール、デストロイヤーのギアーフォーレッグロックという技が、デストロヤーとは破壊者という意味でありギアーフォーレッグロックが、足4の字固めという意味だと知った。コブラツイストとは、腰を捻って踊るツイストが流行し感覚的にコブラツイストを理解した。プロレスが、どれだけ子供達に英語を身近にしたか知れない。現在、日本は20年も景気低迷している。プロレスが低迷しているからなのだ。戦後の3大景気、神武、岩戸、いざなぎ景気の裏にはプロレスの根強い人気があった。日本人は団結して一心不乱に土曜日も働いた。祝日も今ほどない。振替休日もないしゴールデンウイークなんて言葉はなかった。早い話、正月以外3連休なんて無かったのだ。あの頃、日本にメキシコの巨像と言われたジェス・オルテガがやって来た。そう当時のメーンイベントはタッグマッチが主流だった。身長195センチ、体重150キロ。こんなデカのが人類にいるのか。だって、横綱の大鵬や柏戸だって当時は巨人だったが190センチはなかったからだ。迎え撃つ日本組は力道と吉村道明。吉村は、いつも血だるまになって戦う姿から火の玉小僧と呼ばれた吉村道明はオルテガの餌食になった。何しろ吉村は百キロもなかった。丁度、親爺が息子に親爺の大きさを分からせる為に子供の背中に回り両足を息子の胴にからみつける。息子は、それだけでも重いのに更に締め付ける。胴締め攻撃をボディーシザースと言った。これをオルテガは吉村に多用した。堪らず吉村が逃げようとすると締め上げる。吉村が堪えきれず断念するとオルテガは両手をマットに

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つけて休んだ体勢でガハハと高笑いする。オルテガめ、汚ねえ野郎だ! 少年達は腹を立てながら見ていた。吉村が何とかオルテガの足の輪っかから命からがら抜け出し、赤ん坊がハイハイして親を求めるように日本コーナーに逃げ力道山にタッチ。力道が満を持して飛び出す。さあ、いよいよ力道山の登場です。力道、空手だ空手、とヤンヤの喝采、睨み合う2人、力道がオルテガに日本人を馬鹿にしたなと言っているかのように松村少年には聞こえてくるのだった。力道、オルテガなんかやっちまえ少年達は息を呑みながら力道の分身が自分なのか、自分の分身が力道なのか。一体化する。そしてオルテガの分厚い胸板に伝家の宝刀・空手チョップが乱れ飛ぶ、正に力道の空手チョップは銘刀正宗であった。力道山は、いつだってニッポンという字を背負っていた。まだ終戦が色濃い時代。大人達は戦争で負けた相手を倒してくれる力道に涙し、少年達は、みろ、日本人は強いんだ。俺もいつか力道山のように強くなりたいと思った。今にして思うと世界はプロレスの力学で動いている。しかし日本は相撲の美学で動いていると勘違いしているから常に誑(たぶら)かされる。相撲出身のレスラーはその後も居た。豊登(とよのぼり)、天竜、輪島、北尾光司(双羽黒)と出たが、誰も力道を凌駕していない。パフォーマンスの出来ない相撲の世界からいち早くショーアップセンスを取り入れ、相撲の張り手と突っ張りを空手チョップに置き換えたのは見事であった。力道は類い希なる才能の持ち主であった。力道が勝つと

「お父ちゃん、日本人は、力道は強いんだね」「そうだな」という語らいがあった。父親世代は、そうだ日本人が偉いんだぞと、中々息子達には言えなかった。何しろ激烈な敗戦ショックを抱えていきていたのだ。少年達は、知っていた。父親達が、どこかで敗戦のショックを語りたくない為に、務めて戦地の話はしないことを。何でも話し合ったが、悲しいほどに、その話をしなかった。もし、父子にわだかまるものがあるとしたら、戦争に負けた理由を聞きたい息子世代と語りたくない父親世代の溝であった。だから力道が勝っても心底喜ばない父親にどこかに不満があった。それを言ってはいけないんだという境界線があった。

 

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