| 作者 | 岸塚康子 | 状態 | 完成 | ||
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| カテゴリー | 小説・ノンフィクション (スポーツ) | 価格 | 220円(税込) | ページ数 | 67ページ (Web閲覧) 132ページ (PDF) |
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何もかも失った戦後、日本人は力道山に憧れた。アメリカ人コンプレックスのあった当時、力道山が繰り出す空手チョップは伝家の宝刀であった。そして当時の日本人は神武景気、岩戸景気を起こし、戦後10年で最早戦後ではないと言わしめ次の10年で世界第二位の経済大国になった。
力道山死す。その後、東洋の巨人のジャイアント馬場が現れ、いざなぎ景気が1965年から1970年まで高度成長を起こした。そしていよいよ伝説の馬場、猪瀬のBI砲タッグが結成され、向かうところ敵なしの破竹の快進撃が続いた。
しかし日本は40年以上も万年世界第二位を維持してきたのに、プロレスの低迷と共に日本経済も落ち込んできた。『元気ですか!』のアントン猪瀬も、『元気があれば何でもできる』を言っていたが落ち込む景気、活気のない日本経済に喝を入れる為に何とかしなくてはならないと思っていた矢先、松村一蔵の姪・城之内小百合の存在を知り白羽の矢を立てるのであった。
はじめに
【プロローグ】
初老の伯父・松村は公園のベンチに腰を下ろし、そして目を閉じた。こんな時、伯父の脳裏に浮かぶものは分かっている。大きな歓声と白黒の画面。
「力道が怒った怒った。力道、起ち上がった。猛然とダッシュ。空手チョップの連打だ! 相手を思い切りロープに振った。水平空手チョップが炸裂、力道すかさず押さえ込み、レフリー沖識名がマットを叩いた! ワン、ツー、スリー、勝った、勝った! 伝家の宝刀の前に敵は為す術なく力道山のフォール勝ちであります」嘗てプロレスは日本中の男達を活気づけ勇気を与え魅了した。日本が元気な時代。そこにはプロレスがあった。そしてプロレスの停滞と共に日本経済は落ちていき、プロレスが復興しないから日本も復興しないのである。経済評論家の馬鹿共は、その事にどうして気付かないのか。日本を復活させるには何をおいてもプロレスが元気にならなければならないのだと松村は思っていた。だからショックがショックを呼びよせ東日本大震災が起きてしまったではないのか、これに対して政治家共は政治をせずに政局ばかりに拘り、総理の椅子を如何に勝ち取るかだけを考えている。しかし力道山は違った。身長175センチ、今なら中学生でもいる身長で2メートル級の大男に空手チョップ1本でフォールしていった。だから、「力道が頑張っている。俺も頑張る」と日本の男は皆が力道山になって、アメリカ人にいいようにされて堪るかと頑張ったのである。日本の復興に力道山が居た。しかし今の日本に力道がいない。松村は、寂しかった。
戦後間もない頃、昭和天皇がマッカーサーを尋ねた。マッカーサーは、わざわざ天皇とのツーショット写真を撮らせた。天皇は正装、マッカーサーはノーネクタイで両手を腰に当て到底、日本の元帥に対する態度ではなかった。対し天皇は直立不動、日本人なら天皇と
ツーショット写真など考えられない時代であり、当然マッカーサーは新聞に掲載させた。それは偉大なアメリカに小さな日本人を如実に物語らせるマッカーサーの演出であった。何しろアメリカ人は皆が相撲取りになれるほどの体格を有していた。この時代のアメリカは正に宇宙人であり英語は宇宙語を意味した。故に渡米は宇宙旅行に行くようなもので帰国は宇宙旅行からの帰還者で、英語が話せるという事は宇宙語が話せる事に等しかった。GHQがジープを運転し助手席にスカーフをした日本の女を侍らせ颯爽とやって来る。戦争に行った男達はパンパンと呼んで女達を軽蔑した。何故パンパンというのかは諸説あるが、米兵相手の日本人娼婦は片言の英語しか話せない。つまりジャパンイングリッシュ、パンパンと呼ばれたと言われている。男達にとっては憤懣やる方ない光景であっても子供達は無邪気だ。ジープを見ると何がギブミーなのかも分からずに「ギブミーチョコレート」と言って追いかけた。そしてGHQの兵士とパンパンからチョコレートやチューンガムを貰う。子供は毒で死なないように苦い物を嫌がり反対に知能の発達に必要な糖分を食べると幸せになるように仕組まれている。しかし砂糖が徹底的に不足してサッカリンを甘味料にしている時代である。こうした体験のある子供は1変にアメリカに憧れアメリカを好きに成ったに違いない。それは映画のワンシーンに自分が登場するようなものでスクリーンのアメリカ人からチョコレートやガムを貰ったのであるから、正にETからの贈り物であったに違いない。
――伯父は公園で遊びほうける子供達を見ながら自分の子供の頃を改めて思った。テレビ放送開始が1953年(昭和28年)初期のテレビは受像機の大半がアメリカ製で30万円。当時、大卒の初任給が1万円の頃だから、今で言えばテレビ一台が600万したと考えればいい。テレビの普及の為に設置された街頭テレビは黒山
「じゃあ、チョップはなんだよ。打った時にチョップと音がするからじゃあないか」
「そうだったのか、じゃあ力道が外人をロープに飛ばしての水平空手チョップって何だよ」
「それは、お前。水兵さんの敬礼に似ている
「そうか、お前は何でも良く知っているんだな」といった調子だった。そのうち実況も英語に変わりニードロップのニーが膝、エルボーが肘、アームロックのアームが腕、ドロップキックのキックが蹴る事で、頭突きはヘッドパットで頭がヘッド、押さえ込むのはフォール、デストロイヤーのギアーフォーレッグロックという技が、デストロヤーとは破壊者という意味でありギアーフォーレッグロックが、足4の字固めという意味だと知った。コブラツイストとは、腰を捻って踊るツイストが流行し感覚的にコブラツイストを理解した。プロレスが、どれだけ子供達に英語を身近にしたか知れない。現在、日本は20年も景気低迷している。プロレスが低迷しているからなのだ。戦後の3大景気、神武、岩戸、いざなぎ景気の裏にはプロレスの根強い人気があった。日本人は団結して一心不乱に土曜日も働いた。祝日も今ほどない。振替休日もないしゴールデンウイークなんて言葉はなかった。早い話、正月以外3連休なんて無かったのだ。あの頃、日本にメキシコの巨像と言われたジェス・オルテガがやって来た。そう当時のメーンイベントはタッグマッチが主流だった。身長195センチ、体重150キロ。こんなデカのが人類にいるのか。だって、横綱の大鵬や柏戸だって当時は巨人だったが190センチはなかったからだ。迎え撃つ日本組は力道と吉村道明。吉村は、いつも血だるまになって戦う姿から火の玉小僧と呼ばれた吉村道明はオルテガの餌食になった。何しろ吉村は百キロもなかった。丁度、親爺が息子に親爺の大きさを分からせる為に子供の背中に回り両足を息子の胴にからみつける。息子は、それだけでも重いのに更に締め付ける。胴締め攻撃をボディーシザースと言った。これをオルテガは吉村に多用した。堪らず吉村が逃げようとすると締め上げる。吉村が堪えきれず断念するとオルテガは両手をマットに




