目次
結果発表
結果発表
各賞発表・審査員講評
一次通過作品
【大賞】萱島雄太『鼻』
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【佳作】灰木辰也『蠅』
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【佳作】萩谷尚子『イワンのパパ』
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【佳作】NOIE『鮪の茶漬け』
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【ゲスト作品】うめ『悶悶日記』
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【ゲスト作品】柴田純与『種田山頭火~青春応用編~』
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【ゲスト作品】カモン『大神くんとナインの甲子園』
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【ゲスト作品】野村宗弘『でたらめ小林一茶』
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【ゲスト作品】オカヤイヅミ『しるこ』
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【ゲスト作品】オオタガキフミ『夢にみる空家の庭の秘密』
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【ゲスト作品】武富健治『KとT』
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【ゲスト作品】衿沢世衣子『小説』
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【青空文庫】芥川龍之介『鼻』
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【青空文庫】横光利一『蠅』
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【青空文庫】トルストイ『イワンの馬鹿』
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【青空文庫】北大路魯山人『鮪の茶漬け』
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【青空文庫】太宰治『悶悶日記』
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【青空文庫】グリム兄弟『おおかみと七匹のこどもやぎ』
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【青空文庫】萩原朔太郎『夢にみる空家の庭の秘密~「青猫」より~』
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【青空文庫】平山千代子『小説』
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芥川龍之介




 禅智内供ぜんちないぐの鼻と云えば、いけで知らない者はない。長さは五六寸あって上唇うわくちびるの上からあごの下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰ちょうづめのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
 五十歳を越えた内供は、沙弥しゃみの昔から、内道場供奉ないどうじょうぐぶの職にのぼった今日こんにちまで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論もちろん表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に当来とうらい浄土じょうど渇仰かつぎょうすべき僧侶そうりょの身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりもおそれていた。
 内供が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先がかなまりの中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳の向うへ坐らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰う事にした。しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げている弟子にとっても、持上げられている内供にとっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代りをした中童子ちゅうどうじが、くさめをした拍子に手がふるえて、鼻をかゆの中へ落した話は、当時京都まで喧伝けんでんされた。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだおもな理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
 池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家しゅっけしたのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻にわずらわされる事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損きそん恢復かいふくしようと試みた。
 第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫くふうらして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖ほおづえをついたりあごの先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。内供は、こう云う時には、鏡を箱へしまいながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の経机きょうづくえへ、観音経かんのんぎょうをよみに帰るのである。
 それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説そうぐこうせつなどのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧坊が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。従ってここへ出入する僧俗のたぐいも甚だ多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干すいかんも白の帷子かたびらもはいらない。まして柑子色こうじいろの帽子や、椎鈍しいにび法衣ころもなぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻かぎばなはあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年甲斐としがいもなく顔を赤らめたのは、全くこの不快に動かされての所為しょいである。
 最後に、内供は、内典外典ないてんげてんの中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連もくれんや、舎利弗しゃりほつの鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない。勿論竜樹りゅうじゅ馬鳴めみょうも、人並の鼻を備えた菩薩ぼさつである。内供は、震旦しんたんの話のついで蜀漢しょくかん劉玄徳りゅうげんとくの耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。
 内供がこう云う消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここに云うまでもない。内供はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。烏瓜からすうりせんじて飲んで見た事もある。鼠の尿いばりを鼻へなすって見た事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。
 所がある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子でしの僧が、知己しるべの医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。その医者と云うのは、もと震旦しんたんから渡って来た男で、当時は長楽寺ちょうらくじ供僧ぐそうになっていたのである。
 内供は、いつものように、鼻などは気にかけないと云う風をして、わざとその法もすぐにやって見ようとは云わずにいた。そうして一方では、気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいと云うような事を云った。内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏ときふせて、この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそう云う策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極めて、この法を試みる事を勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従ちょうじゅうする事になった。
 その法と云うのは、ただ、湯で鼻をでて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。
 湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐにひさげに入れて、湯屋から汲んで来た。しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷やけどするおそれがある。そこで折敷おしきへ穴をあけて、それを提のふたにして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へひたしても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。
 ――もうゆだった時分でござろう。
 内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯にされて、のみの食ったようにむずがゆい。
 弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下うえしたに動くのを眼の前に見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿げ頭を見下しながら、こんな事を云った。
 ――痛うはござらぬかな。医師はめて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。
 内供は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。所が鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上眼うわめを使って、弟子の僧の足にあかぎれのきれているのを眺めながら、腹を立てたような声で、
――痛うはないて。
 と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。
 しばらく踏んでいると、やがて、粟粒あわつぶのようなものが、鼻へ出来はじめた。云わば毛をむしった小鳥をそっくり丸炙まるやきにしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。
 ――これを鑷子けぬきでぬけと申す事でござった。
 内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子けぬきあぶらをとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽のくきのような形をして、四分ばかりの長さにぬけるのである。
 やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
 ――もう一度、これを茹でればようござる。
 と云った。
 内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の云うなりになっていた。
 さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成程、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻と大した変りはない。内供はその短くなった鼻をでながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、きまりが悪るそうにおずおずのぞいて見た。
 鼻は――あのあごの下まで下っていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、今はわずかに上唇の上で意気地なく残喘ざんぜんを保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時のあとであろう。こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。――鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。
 しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかと云う不安があった。そこで内供は誦経ずぎょうする時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見た。が、鼻は行儀ぎょうぎよく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って来る景色もない。それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経ほけきょう書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
 所が二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れたさむらいが、前よりも一層可笑おかしそうな顔をして、話も碌々ろくろくせずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、かつて、内供の鼻をかゆの中へ落した事のある中童子ちゅうどうじなぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑おかしさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。用を云いつかった下法師しもほうしたちが、面と向っている間だけは、つつしんで聞いていても、内供がうしろさえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。
 内供ははじめ、これを自分の顔がわりがしたせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。――勿論、中童子や下法師がわらう原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ哂うにしても、鼻の長かった昔とは、哂うのにどことなく容子ようすがちがう。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽こっけいに見えると云えば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
 ――前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。
 内供は、しかけた経文をやめて、禿げ頭を傾けながら、時々こうつぶやく事があった。愛すべき内供は、そう云う時になると、必ずぼんやり、かたわらにかけた普賢ふげんの画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事をおもい出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺憾いかんながらこの問に答を与える明が欠けていた。
 ――人間の心には互に矛盾むじゅんした二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸におとしいれて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
 そこで内供は日毎に機嫌きげんが悪くなった。二言目には、誰でも意地悪くしかりつける。しまいには鼻の療治りょうじをしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪ほうけんどんの罪を受けられるぞ」と陰口をきくほどになった。殊に内供を怒らせたのは、例の悪戯いたずらな中童子である。ある日、けたたましく犬のえる声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木のきれをふりまわして、毛の長い、せた尨犬むくいぬいまわしている。それもただ、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」とはやしながら、逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上はなもたげの木だったのである。
 内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえってうらめしくなった。
 するとある夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸ふうたくの鳴る音が、うるさいほど枕にかよって来た。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになく、むずかゆいのに気がついた。手をあてて見ると少し水気すいきが来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。
 ――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。
 内供は、仏前に香花こうげそなえるようなうやうやしい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
 翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏いちょうとちが一晩の中に葉を落したので、庭は黄金きんを敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪くりんがまばゆく光っている。禅智内供は、しとみを上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。
 ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
 内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜ゆうべの短い鼻ではない。上唇の上からあごの下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分にささやいた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
(大正五年一月)





底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1997(平成9)年4月15日第14刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:平山誠、野口英司
校正:もりみつじゅんじ
1997年11月4日公開
2004年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

横光利一




       一

 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋いっぴきの蠅だけは、薄暗いうまやすみ蜘蛛くもの巣にひっかかると、後肢あとあしで網を跳ねつつしばらくぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞ばふんの重みに斜めに突き立っているわらの端から、裸体にされた馬の背中まであがった。

       二

 馬は一条ひとすじの枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背ねこぜの老いた馭者ぎょしゃの姿を捜している。
 馭者は宿場しゅくばの横の饅頭屋まんじゅうや店頭みせさきで、将棋しょうぎを三番さして負け通した。
に? 文句をいうな。もう一番じゃ。」
 すると、ひさしはずれた日の光は、彼の腰から、まるい荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。

       三

 宿場の空虚な場庭ばにわへ一人の農婦がけつけた。彼女はこの朝早く、街につとめている息子から危篤の電報を受けとった。それから露に湿しめった三里の山路やまみちを馳け続けた。
「馬車はまだかのう?」
 彼女は馭者部屋をのぞいて呼んだが返事がない。
「馬車はまだかのう?」
 ゆがんだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶ばんちゃがひとりしずかに流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。
「馬車はまだかの?」
「先刻出ましたぞ。」
 答えたのはその家の主婦である。
「出たかのう。馬車はもう出ましたかのう。いつ出ましたな。もうちとよ来ると良かったのじゃが、もう出ぬじゃろか?」
 農婦は性急な泣き声でそういううちに、早や泣き出した。が、涙もかず、往還おうかんの中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。
「二番が出るぞ。」
 猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛まゆげを吊り上げた。
「出るかの。直ぐ出るかの。せがれが死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」
桂馬けいまと来たな。」
「まアまア嬉しや。街までどれほどかかるじゃろ。いつ出しておくれるのう。」
「二番が出るわい。」と馭者はぽんとを打った。
「出ますかな、街までは三時間もかかりますかな。三時間はたっぷりかかりますやろ。悴が死にかけていますのじゃ、間に合せておくれかのう?」

       四

 野末の陽炎かげろうの中から、種蓮華たねれんげを叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。
「持とう。」
「何アに。」
「重たかろうが。」
 若者は黙っていかにも軽そうな容子ようすを見せた。が、ひたいから流れる汗は塩辛しおからかった。
「馬車はもう出たかしら。」と娘はつぶやいた。
 若者は荷物の下から、眼を細めて太陽を眺めると、
「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」
 二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした。
「知れたらどうしよう。」と娘はいうとちょっと泣きそうな顔をした。
 種蓮華を叩く音だけが、かすかに足音のように追って来る。娘は後を向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。
「私が持とう。もう肩がなおったえ。」
 若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた。が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」と呟いた。

       五

 宿場の場庭へ、母親に手をかれた男の子が指をくわえて這入はいって来た。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ馳けて来た。そうして二けんほど離れた場庭の中から馬を見ながら、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで片足で地を打った。
 馬は首をもたげて耳を立てた。男の子は馬の真似をして首を上げたが、耳が動かなかった。で、ただやたらに馬の前で顔をしかめると、再び、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで地を打った。
 馬はおけ手蔓てづるに口をひっ掛けながら、またその中へ顔を隠して馬草まぐさを食った。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」

       六

「おっと、待てよ。これは悴の下駄を買うのを忘れたぞ。あいつ西瓜すいかが好きじゃ。西瓜を買うと、おれもあ奴も好きじゃで両得じゃ。」
 田舎紳士いなかしんしは宿場へ着いた。彼は四十三になる。四十三年貧困と戦い続けたかいあって、昨夜ようや春蚕はるご仲買なかがいで八百円を手に入れた。今彼の胸は未来の画策のために詰っている。けれども、昨夜銭湯せんとうへ行ったとき、八百円の札束をかばんに入れて、洗い場まで持って這入って笑われた記憶については忘れていた。
 農婦は場庭の床几しょうぎから立ち上ると、彼のそばへよって来た。
「馬車はいつ出るのでござんしょうな。悴が死にかかっていますので、よ街へ行かんと死に目にえまい思いましてな。」
「そりゃいかん。」
「もう出るのでござんしょうな、もう出るって、さっきいわしゃったがの。」
「さアて、何しておるやらな。」
 若者と娘は場庭の中へ入ってきた。農婦はまた二人の傍へ近寄った。
「馬車に乗りなさるのかな。馬車は出ませんぞな。」
「出ませんか?」と若者はかえした。
「出ませんの?」と娘はいった。
「もう二時間も待っていますのやが、出ませんぞな。街まで三時間かかりますやろ。もう何時になっていますかな。街へ着くと正午ひるになりますやろか。」
「そりゃ正午や。」と田舎紳士は横からいった。農婦はくるりと彼の方をまた向いて、
「正午になりますかいな。それまでにゃ死にますやろな。正午になりますかいな。」
 といううちにまた泣き出した。が、直ぐ饅頭屋の店頭へ馳けて行った。
「まだかのう。馬車はまだなかなか出ぬじゃろか?」
 猫背の馭者は将棋盤を枕にして仰向あおむきになったまま、を洗っている饅頭屋の主婦の方へ頭を向けた。
「饅頭はまださらんかいのう?」

       七

 馬車は何時いつになったら出るのであろう。宿場に集った人々の汗は乾いた。しかし、馬車は何時になったら出るのであろう。これは誰も知らない。だが、もし知り得ることの出来るものがあったとすれば、それは饅頭屋のかまどの中で、漸くふくれ始めた饅頭であった。ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手しょてをつけるということが、それほどの潔癖けっぺきから長い年月の間、独身で暮さねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。

       八

 宿場の柱時計が十時を打った。饅頭屋の竈は湯気を立てて鳴り出した。
 ザク、ザク、ザク。猫背の馭者は馬草を切った。馬は猫背の横で、水を充分飲み溜めた。ザク、ザク、ザク。

       九

 馬は馬車の車体に結ばれた。農婦は真先に車体の中へ乗り込むと街の方を見続けた。
「乗っとくれやア。」と猫背はいった。
 五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り始めた。
 猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、綿のように脹らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと馭者台の上にその背を曲げた。喇叭らっぱが鳴った。むちが鳴った。
 眼の大きなかの一疋の蠅は馬の腰の余肉あまじしの匂いの中から飛び立った。そうして、車体の屋根の上にとまり直ると、今さきに、漸く蜘蛛の網からその生命いのちをとり戻した身体を休めて、馬車と一緒に揺れていった。
 馬車は炎天の下を走り通した。そうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑あずきばたけの横を通り、亜麻畑あまばたけと桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、漸く溜った馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた。

       十

 馬車の中では、田舎紳士の饒舌じょうぜつが、早くも人々を五年以来の知己ちきにした。しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生々した眼で野の中を見続けた。
「お母ア、梨々。」
「ああ、梨々。」
 馭者台ではむちが動き停った。農婦は田舎紳士の帯の鎖に眼をつけた。
「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」
 馭者台では喇叭が鳴らなくなった。そうして、腹掛けの饅頭を、今やことごとく胃のの中へ落し込んでしまった馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光りを受けて真赤まっかえた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下して、そうして、馬車が高い崖路がけみちの高低でかたかたときしみ出す音を聞いてもまだ続いた。しかし、乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、わずかにただ蠅一疋であるらしかった。蠅は車体の屋根の上から、馭者の垂れ下った半白の頭に飛び移り、それから、濡れた馬の背中にとまって汗をめた。
 馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた眼匿めかくしの中の路に従って柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることは出来なかった。一つの車輪が路からはずれた。突然、馬は車体に引かれて突き立った。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落ついらくして行く放埒ほうらつな馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、かさなった人と馬と板片とのかたまりが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力をめて、ただひとり、悠々ゆうゆうと青空の中を飛んでいった。





底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第23刷発行
入力:大野晋
校正:瀬戸さえ子
1999年7月9日公開
2003年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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イワンの馬鹿

SKAZKA O IVANE-DURAKE

トルストイ Tolstoi

菊池寛訳




        一

 むかしある国の田舎にお金持の百姓が住んでいました。百姓には兵隊のシモン、肥満ふとっちょのタラスに馬鹿のイワンという三人の息子と、つんぼおしのマルタという娘がありました。兵隊のシモンは王様の家来になって戦争に行きました。肥満ふとっちょのタラスは町へ出て商人に[#底本では「に」が重複]なりました。馬鹿のイワンと妹のマルタは、うちに残って背中がまがるほどせい出して働きました。兵隊のシモンは高い位と広い領地を得て、王様のお姫様をお嫁さんに貰いました。お給金もたくさんだし領地からあが収入みいりも大したものでしたが、彼はそれを、うまくしめくくっていくことが出来ませんでした。おまけに主人がもうけたものをお嫁さんが滅茶に使ってしまうので、いつも貧乏していなければなりませんでした。
 そこで兵隊のシモンは自分の領地へ出かけて行って収入みいりをあつめようとしました。すると執事は言いました。
収入みいりどころか、牛も馬もすきくわもありません。何よりも先にそれを手に入れなくちゃいけません。そうすりゃ、やがてお金も入って来るでしょう。」
 そこでシモンは父親のところへ行って言いました。
「お父さん、あなたはお金持なのに私にはまだ何もくれませんでした。あなたの持ちものを分けてその三分の一を私に下さい。そうすりゃ私の領地の手入をすることが出来ますから。」
 すると年寄った父親は言いました。
「お前はうちのためになることを何もしたことはない。それにどうして三分の一やることが出来よう。第一イワンやマルタにすまない。」
 と、シモンは、
「イワンは馬鹿です。それにマルタはお嫁に行く年はとっくに過ぎていて、おまけにつんぼおしです。あれ等に財産を持たしたってそれが何になるでしょう。」
と言いました。おじいさんは、
「じゃ、イワンが何というか聞いてみよう。」
と言いました。
 イワンは、
「兄さんの欲しいだけ上げなさい。」
と言いました。
 そこで兵隊のシモンは父親から分前わけまえを貰ってほくほくもので自分の領地へうつしまた王様のところへ行って仕えました。
 肥満のタラスもたくさんのお金をもうけてある商人のうちへおむこさんに行きましたが、それでもまだお金が欲しいと思いました。そこでやはり父親のところへ出かけて行き、
「私にも私の分け前を下さい。」
と言いました。
 しかし父親はタラスにも分けてやりたくなかったので、
「お前は、何一つうちへは持って来なかった。このうちにあるものは、みんなイワンがかせぎ上げたのだから、どうしてあれや娘によくないことが出来よう。」
と言いました。が、しかしタラスは言いました。
「イワンに何が入るものですか、あいつは馬鹿です、誰だって嫁に来るものはありません。またあのおしだって何にもいりはしませんよ。」
 そしてイワンに向って、
「おいイワン。おれに穀物を半分おくれよ。おれは道具なんか貰おうとは思わない。あの葦毛あしげの馬を一匹貰おう。あれはお前の畑仕事にはちっと不向きのようだから。」
と言いました。イワンは笑って、
「何でも入るだけ持って行くがいい。私はまたかせいで手に入れるよ。」
と言いました。
 そこでタラスにも分前だけやりました。で、タラスは荷車で穀物を町へ運び、種馬をつれて行きました。こうしてイワンはよぼよぼの牝馬めうまを一匹だけ残され、以前まえ通り百姓をして両親を養って行きました。

        二

 ところが、それを年よった悪魔が見ていました。悪魔は、兄弟たちが財産の分け方でけんかをするだろうと思っていたのに、べつにいさかいもなく、仲良く別れて行ったので大へん腹を立てて、早速三人の小悪魔しょうあくまを呼び集めました。そして言いました。
「ここに兵隊のシモン、肥満ふとっちょのタラス、馬鹿のイワンと言う三人の兄弟がいる。こいつらは当然けんかをしなくてはならないのに仲良く暮し合っている。あの馬鹿のイワンの奴がすっかりおれの仕事をだいなしにしてしまったのだ。ところでお前たち三人は兄弟三人について奴等がお互いに目玉を引っこぬくようにしてやるのだ。どうだ、出来るかな。」
「はい、一つやってみましょう。」
と三人の小悪魔は言いました。
「じゃ、どんな風にはじめる。」
「わけはありません。」
と小悪魔は言いました。
「まず第一にあいつ等を一文無しにしてしまいます。そして一片ひときれのパンも無くなった時分にみんなをおち合わせることにします。そうすりゃけんかするにきまっています。」
「なるほど、そいつはいい思いつきだ。お前たちもだいぶ仕事がうまくなったようだ。じゃ、行って来い。そしてあいつ等を仲たがいさせるまでは決して帰って来るな。でないとお前たちの生皮なまかわひんむいでしまうぞ。」
 小悪魔たちは早速ある沼地へ行って仕事について打合せをしはじめました。そしてめいめいが一番割りのいい役を取ろうとしてぎろんしました。が、とうとうくじ引で役割を決めることにしました。そしてもし一人が先に片づいたら他へ手伝いに行くことにしました。そこでくじ引をし、また日を決めて、だれがうまくやりとげたか、だれが手伝がほしいかを、知らせあうことにしました。
 やがて約束の日が来ましたので、小悪魔たちは、沼地へ集まりました。すると兵隊シモンのところへ行った小悪魔が、
「おれの仕事はうまくすすんで行っている。明日シモンは親爺おやじのところへ帰るだろう。」
と口を切りました。
「どうしてそううまくやったのだ。」
と仲間が聞きました。すると第一の小悪魔は、
「まず第一におれはシモンを大へんな向う見ずにしてやった。するとあいつは大たんになって、王様に、全世界を攻め取ってやると言ったのだ。ところが王様がそれをほんとにして、あいつを大将にして印度いんど王征伐にやった。両軍は向い合って陣をとった。ところがおれはその前の晩シモンの陣にある火薬をすっかりしめらせておき、また印度王の方にはかぞえ切れないほどの藁の兵隊をこしらえてやった。するとシモンの兵隊は、その大ぜいの藁兵にとりかこまれて、すっかりおそれてしまった。シモンは打てといつけた。ところが鉄砲も大砲も弾丸たまが出なかった。そこでシモンの兵隊はおびえて羊のように逃げ出し、印度王はそれを、すっかり討ち取った。シモンはさんざんだ。王様は大そう怒って、シモンの領地を取り上げてしまうしみなは明日やつを死刑にしようとしている。それでおれの仕事はあと一日だけ、あいつをあいつの田舎へ逃してやるために牢屋から出してやればいいのだ。明日になりゃ、お前たちに手をかしてどんなことでもしてやるよ。」
 すると今度はタラスのところへ行った第二の小悪魔が、
「おれの方は手伝ってもらわなくてもいい、うまく運んでいる。」
と言いながら、話し出しました。
「タラスはもう一週間と持ちこたえないだろう。おれはまず第一にあれをいっそうよくばりにし、肥満ふとっちょになるようにした。あいつのよくはいよいよひどくなって行って、何でも見るものごとに買いたくなるように仕向けてやった。それであいつはあり金をすっかりつかってしまい、なおさかんに買い込んでいる。もう大へん借金して買っている。一週間たつとかんじょうの日が来るが、その前に、おれはあいつの買い込んだ品物を、すっかりだいなしにしてやるんだ。するとあいつは支払が出来なくなって、親爺のところへくるだろう。」
「ところで、お前の方はどうだ。」
と二人の悪魔は第三の悪魔(イワンの係)に聞きました。
「そうだな。」
と第三の悪魔は元気なく言いました。
「おれの方はどうもうまく行かない。まずおれはあいつに、腹痛はらいたを起させてやろうと思ってあいつのお茶の中に、唾を吐き込んでやった。それからあいつの畑を、石のようにかんかんに固めてき返しが出来ないようにしておいた。そして、あいつはとても鋤きに出て来やしないだろうと思っていた。ところがあいつはとてつもない馬鹿で鋤を持って来て鋤きはじめた。あいつは腹が痛いので、うんうん唸りながら、それでも仕事はめない。そこでおれはあいつの鋤をこわしてやった。ところがあいつはうちへ行って別のを持って来てまた鋤きはじめた。おれは地面へもぐり込んでその鋤先を捉えた。が、鋤先にはいい捉えどころがない。あいつは一生けんめい[#底本では「い」が重複]鋤へ寄っかかる。おまけに鋤先は鋭く切れる。とうとうおれは手を切った。あいつはその畑をほとんど鋤いてしまって、あと小さいうね一つ残しただけだ。兄弟たち、一つ手を貸しに来てくれ。あいつの始末をつけないと、折角せっかく骨折ほねおりもだいなしになってしまう。もしあの馬鹿がああして畑の仕事をつづけて行くと、あいつらは困るということを知らないだろう。あいつが二人の兄を養って行くだろうからね。」
 兵隊のシモン係の小悪魔は明日から手伝いに行くと約束しました。こうして彼等は別れました。

        三

 イワンは畑をたった一畝残したきり、鋤き返しました。それでまだ腹は痛みましたが、残りの一畝を片づけるつもりで、またやって来ました。そして例の牝馬に鋤を取りつけて、仕事にかかりました。ところが、一畝鋤きおわってまた後へ鋤き返そうとすると、何か鋤が木の根にでも引っかかったように、動かなくなってしまいました。それは例の小悪魔が、両脚りょうあしを鋤先にからみつけて、引き戻しにかかっているのでした。
「これあ妙だ。」
とイワンは考えました。
「木の根っこなんて一つもなかったのに、さてはやはりあったんだな。」
 イワンは片手を畝へ突っ込んで、探りました。すると、何かやわらかいものにふれたので、それを引っ掴んで出しました。見るとそれは木の根のようにまっ黒で、しかも、のたくり廻っているのでした。それはまぎれもなく、例の小悪魔でした。
「なんて汚えもんだ。」
 イワンはそう言って、鋤にぶっつけようとして、それをふり上げました。すると小悪魔は苦しがって声をたてながら、言いました。
「どうかひどくしないで下さい。そのかわり何でもあなたの言いなり次第にいたします。」
手前てめえ何が出来る。」
「あなたの言いなりに何でも。」
 イワンは頭をかいて考えました。そして言いました。
「おりゃ腹が痛い。どうだ、なおせるか。」
「はい、なおせますとも。」
「よし、じゃなおしてくれ。」
 小悪魔はすぐ畝の中へ這い込んで、しばらく爪で引っかいてさがし廻っていましたが、やがて、三本根の出た木の根を引っこぬいて来て、イワンに渡しました。そして、
「この根を一本だけお上りなさい。これを召し上がればどんな病気だってなおらないことはありません。」
と言いました。
 イワンはそれを受取ると、根を一本むしり取って飲みました。腹痛はらいたはそれですぐなおりました。小悪魔はまた放して下さいとたのみました。
「私はすぐさまこの地の下へ飛込んでしまいます。そして二度と再び出ては参りません。」
と言いました。
「よろしい。」
とイワンは言いました。
「じゃ行け、神様がお前をお守り下さるように。」
 イワンが神様の名を口にするかしないかに、小悪魔は水に落ちた石のように地面へはまり込みました。そして後には小さい穴が一つ残りました。
 イワンは残りの木の根二本を帽子の中へしまって、また仕事をつづけました。そしてすっかり鋤きおえると、うちへ帰りました。彼は馬をときはなしてうちへ入りました。するとそこには、兄の兵隊のシモンとそのお嫁さんが、夕飯ゆうめしを食っていました。シモンはその領地をすっかり取り上げられてしまい、命からがら牢屋をぬけ出して父親のうちで暮すつもりで帰って来たのでした。
 シモンはイワンを見ると、こう言いました。
「おれはお前と一しょに暮すつもりでやって来たんだが、おれの主人が見つかるまでおれと家内をやしなってくれ。」
「いいとも、いいとも。」
とイワンは言いました。
「どうぞいなさるがいい。」
 ところがイワンが長椅子へ腰を下そうとすると、シモンのお嫁さんがその着物の臭いのを嫌って、シモンに、
「私はこんな汚い百姓と一しょに御飯をたべるのはいやです。」
と言いました。
 そこでシモンは、
「お前の着物が大へん臭いので家内がいやだというのだよ。お前外へ行って飯を食ったらいいだろう。」
と言いました。
「いいとも、いいとも。」
とイワンは言いました。
「どうせ私は馬の飼葉かいばの世話をせにゃならんから、外へ行こう。」
 そうしてイワンは少しのパンと外套がいとうを持って牝馬をつれて野原へ行きました。

        四

 シモン係の小悪魔は、その晩すっかり自分の仕事をおえて、約束通りイワン係の小悪魔をたすけて、馬鹿をへこましてやるつもりで畑へやって来ました。彼はそこらあたりをさがし廻りましたが、仲間のすがたはみえないで、ただ一つ小さな穴を見つけました。
「こりゃきっと仲間の上によくないことが起ったわい。するとおれがあいつの代りをしなくちゃならない。この畑はすっかり鋤き返されてしまったから、あの馬鹿をとっちめるにはどうしてもあの牧場まきばだな。」
 そこで小悪魔は牧場へ出かけて行って、イワンの秣場まぐさばに水をまき、草を泥だらけにしておきました。
 イワンは野原から夜明け方に帰って来て、鎌をといで、秣場へ草刈りに出かけました。が、どうしたものか鎌を一二度ふったばかりでひどく刃がまがって、ちっとも切れなくなって、またとがねばなりませんでした。イワンはしばらく刈っていましたが、やがて、
「こりゃいけねえ。鎌とぎ道具を持って来なくちゃ。そしてパンも持って来ることにしよう。たとえ一週間かかったって、草を刈ってしまわずにおくものか。」
とひとりごちました。
 小悪魔はそれを聞いて考え込みました。
「こいつはなかなか手に負えないぞ。こんな手じゃとても馬鹿を取っちめることは出来ない。何か他の手でやってみなくちゃ。」
 イワンはうちへ帰って鎌をといでまた草を刈りはじめました。小悪魔は草の中へもぐり込んで、その鎌の先きを捉えて、切尖きっさきを地へ突っ込むようにしはじめました。イワンは、仕事が大へん骨折れると思いましたが、それでも秣場をすっかり刈りおえて、沼地に入っているところだけ少し残しました。小悪魔はその沼地へ入り込んで、
「たとえ両手を切り取られたって、刈らせるこっちゃない。」
と考えました。
 イワンはやがてその沼地へ来ました。草はそう茂ってはいませんでした。が、鎌は思うように動きませんでした。イワンはすっかり怒ってしまってある限りの力をこめて、鎌をふりはじました。小悪魔は力負けして、もうとても持ちこたえることが出来なくなりました。いよいよだめだと思った小悪魔は、くさむらの中へよろけこんでしまいました。イワンは鎌をふってそのくさむらを引っ掴んで刈りましたので、小悪魔はそのしっぽを半分切り取られました。イワンは刈り取った草を妹にかき寄せるように言いつけて、今度はライ麦を刈りに行きました。イワンが鎌を持って行ってみると、れいのしっぽを切られた小悪魔は先に廻って麦を滅茶苦茶に乱しておいたので、また鎌がつかえなくなりました。それでイワンはうちへ行って、別の鎌を持って来て、それで刈りはじめ、すっかりライ麦を取り入れてしまいました。
「さて、今後は燕麦からすむぎにかかることにしよう。」
とイワンは言いました。
 すると、しっぽを切られた小悪魔は、考えました。
「ライ麦ではあいつをうまくやっつけることが出来なかったが、燕麦ではきっとやるから、明日になったらどうするか見てろ。」
 小悪魔はあくる朝急いで燕麦の畑へ行きました。ところが燕麦はすっかり刈り倒してありました。イワンは麦粒のこぼれるのを少くするために、夜どおし刈ってしまったのでした。
 小悪魔はひどく怒りました。
「あの馬鹿め、おれのからだ中傷だらけにしやがるし、うんざりさせやがった。これじゃまるで戦争よりも悪いや。畜生め、ちっともねむらないんだ。あんなやつにあっちゃとてもかなわない。ひとつ今度は麦束の中へ入って腐らしてやれ。」
 そこで小悪魔はライ麦の畑へ行って、麦束の中に入り込みました。麦束は腐りはじめました。小悪魔は、麦束を暖めましたが、やがて自分のからだもぽかぽかと暖くなって、ぐっすり寝込んでしまいました。
 イワンは馬に草をやると、用意して妹と一しょに、ライ麦を運びにやって来ました。やがて麦束を積みはじめました。二束ほど車に投げ込んで、三束目を上げようとして熊手をつき込むと、そのさきが、小悪魔の背中へ、突き刺さりました。熊手をふり上げてみると、その尖にはしっぽの切れた小悪魔が、のがれようとして、しきりに身をもがいて、のたくっています。
「おやおや、また出て来やがった。」
「いや、ちがうんです。先来たのは私の兄弟です。私はあなたの兄さんのシモンについていたんです。」
と小悪魔は言いました。
「ふん、どいつだってかまやしない。お前も同じ目にあわしてやるのだ。」
 イワンは小悪魔を荷車へたたきつけようとしました。小悪魔は叫びました。
「ま、待って下さい。二度とあなたの邪魔はいたしません。あなたの言いなりに何でもいたします。」
「じゃ、何が出来る。」
「何でもあなたのお好きなものから兵隊をこしらえることが出来ます。」
「兵隊は一たい何の役に立つのだ。」
「何の役にだってたちます。あなたが命令を下しさえすればどんなことでもします。」
「じゃ唄がうたえるかい。」
「ええ出来ますとも、あなたが命令なさりさえすれば。」[#「。」」は底本では欠落]
「よしよし、じゃ一つこしらえてくれ。」
 すると小悪魔は、
「じゃ、その麦束を一束取って地べたにつきたてて、こうおっしゃればいいのです。[#「いいのです。」は底本では「いいのです。」」]
麦束よ麦束よ
おれの家来にいつける
一本一本の麦藁から
兵隊が一人ずつ飛び出して来い。」
 イワンは麦束を取り上げて地べたへ叩きつけると、小悪魔の言った通りやりました。麦束がバラバラに解けて落ちたかと思うと、藁がのこらず兵隊になって、ラッパ吹きや、太鼓打ちまでそろっていました。こうして一隊すっかり出来上りました。
 イワンは面白がって笑いながら、
「こりゃ面白い。立派だ。娘っ子がさぞ喜ぶこったろう。」
と言いました。
「じゃ私をはなして下さい。」
と小悪魔は言いました。
「そりゃいけない。」
とイワンは言いました。
「おれは兵隊を打殻うちがらの藁でこさえるのでなくちゃいやだ。でないと折角のいい麦がだめになってしまう。これをもとの麦束に返す方法を教えてくれ。おれはこれから麦を落そうと思っているんだ。」
 そこで小悪魔は言いました。
「それはこうです。
私の家来にいつける
兵隊よ兵隊よ、
元の藁に飛んでかえれ。」
 イワンがこう言うとまた麦の束になりました。そこで小悪魔はたのみ出しました。
「どうぞ、はなして下さいよ。」
 イワンは、
「いいとも、いいとも。」
と言って、小悪魔を荷車の横へ押しあてると、片手でおさえながら熊手から引っこぬいてやりました。
「神様がお前をお守り下さるように。」
とイワンは言いました。
 イワンが神様の名を口にするかしないかに、小悪魔は水に落ちた石のように地べたへ消えてしまいました。そして後には小さな穴が一つだけ残りました。
 イワンはうちに帰りました。うちに帰ってみると、次の兄のタラスと、そのおかみさんが来ていて、晩飯を食っていました。
 肥満ふとっちょのタラスは借金で首が廻らなくなって、父親のところへにげ帰って来たのでした。
 タラスはイワンを見て言いました。
「おい、もう一度商売が出来るまでおれと家内を養ってくれ。」
「いいとも、いいとも。」
とイワンは言いました。
「よかったら、いつまでもいなさるがいい。」
 イワンは上着をぬいで、椅子に腰を下そうとしました。するとタラスのおかみさんが言いました。
「私はこんな土百姓と一しょに御飯はいただけません。この汗のにおいったらがまんが出来ません。」
 そこで肥満ふとっちょのタラスは言いました。
「どうもお前の臭いはひどすぎる。外で飯を食ってくれないか。」
するとイワンは言いました。
「いいとも、いいとも。どのみち私は馬の世話をしなくちゃならん。飼葉を刈る時刻だからね。」

        五

 タラスの係の小悪魔も、その晩手がいたので、約束どおりイワンの馬鹿を取っちめるために、仲間へ手をかすつもりでやって来ました。彼は畑へ行ってさんざん仲間をさがしましたが、一人もいませんでした。ただ一つの穴を見つけただけでした。彼は今度は牧場へ行って沼地で小悪魔のしっぽ一つ見つけました。そしてライ麦の刈あとでも、一つの穴を見つけました。
「こりゃきっと仲間によくないことがあったにちがいない。」
と小悪魔は考えました。
「一つおれが代ってあの馬鹿を取っちめなくちゃならないぞ。」
 そこで小悪魔は、イワンをさがしに出かけました。イワンはとうに麦のしまつをして、森で木をっていました。二人の兄たちは、急に人数がふえて、狭苦しくなったので、新しいうちをたててもらおうと思って、木を伐れとイワンにいつけたところでした。
 小悪魔は森へ出かけて行って、木の枝へ這い上って叉に陣どって、イワンの仕事のじゃまをしはじめました。イワンは一本の木の根元を伐りました。ところが、木はバッサリ倒れるはずなのに、倒れぎわに急にまがりくねって、他の枝へ引っかかりました。そこでイワンは、それをこねはずすために、一本の木を伐って棒をつくると、やっとのことで地べたに倒すことが出来ました。イワンはまた他の木を伐り倒しにかかりました。するとまた、前と同じようなことが起りました。イワンは汗びしょになりました。そしてようやく倒すことが出来ました。イワンは三本目の木に取りかかりました。が、今度もやはり同じ目にあいました。
 イワンは、その日のうちに百本くらいは伐り倒すつもりでしたが、まだ十本も伐り倒さないうちに日も暮れかかり、疲れてすっかりへとへとになりました。イワンの身体からだからは、汗が湯気のように立ちのぼりましたが、それでも休まないで、働きつづけました。そしてまた他の木を伐りにかかりましたが、急に背中が痛んで来て、立っていることも出来なくなりました。そこでイワンは、斧をその木の根元に打ち込むと、どっかり腰を下して休みました。
 小悪魔はイワンが仕事をやめたのを見て、大へん喜びました。
「あいつめとうとうくたびれやがったな。あれでもうやめるにちがいない。どれ、おれの方もこれで一休み休むことにするかな。」
と小悪魔は考えました。
 小悪魔は木の枝にまたがって、クスクス笑いました。そのときイワンは急に立ち上がって、斧を引っこぬき、別のがわからうんと一打ち喰わせましたので、木は一たまりもなくどっと倒れました。小悪魔は全くふいを打たれて、足をはずす間もなく倒れた木に手をはさまれました。イワンは枝をおろしにかかりました。ところが小悪魔がその枝にひっかかって、もがいているのを見つけました。イワンはびっくりしました。
「おやおや、汚いやつめまた出て来やがったな。」
とイワンは言いました。
「いや、ちがうんです。私はあなたの兄さんのタラスについてたんです。」
と小悪魔は言いました。
「だれであろうがかれであろうが、もうだめだぞ。」
とイワンは言って、斧をふり上げて打ち下そうとしました。小悪魔は、
「助けて下さい。打たないで下さい。あなたのおっしゃることならなんでもいたします。」
とたのみました。
「じゃ何が出来る。」
「あなたの欲しいだけお金をこさえることが出来ます。」
「よしよし、じゃこさえてくれ。」
 そこで小悪魔は、イワンにそのやりかたを教えました。
かしの葉を取って、手の中でおもみなさい。そうすりゃ金貨が地べたに落ちて来ます。」
 イワンは何枚かの葉を取って手の中でもみました。すると、金貨が手からこぼれ落ちました。
「これやお祭に若い者に見せるにゃもって来いだ。」
とイワンは言いました。
「じゃはなして下さい。」
と小悪魔は言いました。
「いいとも、いいとも。」
とイワンは言いました。そして、棒で木の枝をこじて、小悪魔をは[#「をは」は底本では「はを」]なしてやって、
「じゃ行け、神様がお前をお守り下さるように。」
と言いました。
 イワンが神様の名を口にするかしないかに、小悪魔は水に落した石のように、地べたへ消えてしまいまし[#「し」は底本では「ち」]た。そして後には、一つだけ小さい穴が残りました。

        六

 こうして二人の兄たちのうちをたてて、べつべつの暮しをはじめました。そしてイワンは秋のとり入れをすまし、ビールをつくると、お祭りをするから一しょに祝ってくれといって、兄たちをびました。兄たちはどうしても来ませんでした。
「百姓のお祭なんてちっとも面白くない。」
と兄たちは言いました。
 そこでイワンは、百姓やおかみさんたちを招んで、御馳走を食べて酔っぱらうまでに飲みました。それから通りへ出て、村の若者や娘たちが踊っている広場へやって行きました。そして踊りの仲間に入り、女たちに、
「一つ私のために唄を唄ってくれ、そうすりゃ皆が生まれてまだ見たこともないものをやる。」
と言いました。
 女たちは大笑いしてイワンをほめたたえる唄を歌いました。そして唄がすむと、
「さあ、約束のものをおくれ。」
と言いました。
「今すぐ持って来るよ。」
とイワンは言いました。そして種を入れる籠を持って森へ走って行きました。女たちは大笑いしました。
「あいつは馬鹿だ。」
と言いました。そしてもう他のことを話しこんでいました。
 ところがまもなく、イワンは何か重いものを籠いっぱいに入れて、帰って来ました。
「これをやろうか。」
「ああ、おくれよ。」
イワンは、金貨を一つかみつかんで、女たちにまいてやりました。すると大へんな騒ぎになって、女たちはおしあいへしあい、ころげ廻ってそれを拾いました。ぐるりの男まで拾おうとして、おし合い、引ったくりました。あるおばあさんは、人の下になって、つぶされそうになりました。イワンは大笑いしました。
「おやおや、お前たちは馬鹿だなあ。」
とイワンは言いました。
「何だってそうおばあさんを押すんだ。静かにしろ、そしたらもっとやる。」
と言いました。そしてまたまきました。人々はイワンのぐるりを取りまいて拾いました。イワンは持っているだけ金貨をすっかりまいてやりました。人々はもっとまけと言いました。それでイワンは言いました。
「もう何もないよ。今度またまいてやる。さあ踊ろう。唄を歌っとくれ。」
 女たちは歌い出しました。
「お前たちの唄はだめだ。」
とイワンは言いました。
「じゃ、これより上手がどこにいる。」
と女たちは言いました。
「すぐ見せてやる。」
とイワンは言いました。
 イワンは納屋へ行って麦束を取り出すと、穂をたたいて地べたへとんとたてました。そして、
「さあ、やるぜ
麦束よ麦束よ
おれの家来にいつける
一本一本の麦藁から
兵隊一人ずつ飛び出して来い。」
と言いました。
 すると藁束はバラバラに倒れて、数だけの兵隊になりました。太鼓やラッパを鳴らしはじめました。イワンは兵隊たちに、音楽を奏し唄を歌うように言いつけました。兵隊たちは音楽を奏し、唄を歌いました。イワンは兵隊に村中を練り歩かせました。村の人々はきもをつぶしてしまいました。
 やがてイワンは(だれにも来てはいけないといって)兵隊を麦打ち場へつれて行きました。そしてまたもとの藁束にかえて、納屋の中へ入れておきました。
 それからイワンはうちへ帰って、うまやの中へころがってねてしまいました。

   


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