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古代の朝鮮半島

朝鮮半島にいつから人が住み始めたかは、はっきりしていません。

 

ただユーラシア大陸と陸続きなことから、人の往来は早かったようです。実際、紀元前1500年には、すでに中国から農耕が伝えられたことが分かっています。日本では縄文時代のことです。

 

農耕が始まるとやがて国家が誕生しますが、朝鮮最古の王を「檀君(だんくん)」といいます。

 

檀君は熊の化身で、中国の堯のころ(BC2333年?)、平壌に都をおいて王国を開き、2千年近くも長寿を保った、とされます。当然、伝説上の人物です。


堯:中国古代の君主。黄河の治水の功があり、帝王に取り立てられたとされるが、想像上の人物である。詳しくは「戦争の世紀:古代中国編」の第一章をごらんください)


では伝説でなく、実際に記録で確認できる王朝はというと、次の箕子朝鮮からになります。

 

箕子(きし)、というのは中国・商王朝の王族です。商が周に滅ぼされると、遺臣を率いて朝鮮北部に移住。子孫は王となったと、中国の歴史書「史記」 は伝えています。(商は考古学上確認されている、中国最古の王朝です。千年以上に渡って栄えましたが、周の武王に攻め滅ぼされました。なお「商」は中国での 呼称で、日本では「殷」と呼びならわします。詳しくはこちら!


「史記」のほかにも、「三国志」や「後漢書」などの歴史書にこの箕子王朝の名が見えることから、その実在性には信憑性がありますが、考古学的な証拠がないため、「幻の王朝」とされています。

 

その後、中国が戦国時代に突入すると、朝鮮半島の北西部は戦国七雄のひとつ、燕国の支配下に入り、秦の中国統一後は、秦に支配権が引き継がれました。(戦国七雄とは古代中国の戦国時代に、強い勢力を誇っていた国です。燕のほか、秦、楚、斉、魏、趙、韓があります。詳しくはこちら!

 

秦の始皇帝が死ぬと中国は内乱に陥ります。その混乱を避けて燕人の衛満は朝鮮に亡命し、衛氏朝鮮を樹立します。この王朝は考古学的に実証された初めての王朝でもあります。

 

ただ王朝は長続きせず、漢の武帝によって滅ぼされます。武帝はその跡地に楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡の4郡を置いて朝鮮半島西北部を直接支配しました。(秦の後、中国を再統一したのは漢の劉邦で、武帝は劉邦のひ孫に当たります。詳しくはこちら!


楽浪郡はその後、南半分が独立して「帯方群」となりますが、ここから出発した魏(漢をほろぼした王朝)の役人が日本を訪問しました。その記録をもとに記されたのが、「魏志倭人伝」です。日本でいうと弥生時代ですが、このような昔から、日本と朝鮮半島の間には交流がありました。


中国が帯方群を置いたのは朝鮮半島中西部を支配するためですが、その支配は朝鮮半島南部や東部には及ばず、そこには朝鮮諸族独自の国家、三韓、高句麗が勃興することとなります。

 

     ☆

 

          高

   中国 5   句

        郡   麗   

        馬 弁 辰

        韓 韓 韓

 

          倭 国


(BC1~AD3世紀の朝鮮半島。5郡とは楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡、帯方郡のこと。時代によって郡名、郡数には変動がある)




三韓とは馬韓、弁韓、辰韓の三地域のことで、朝鮮半島南部に位置していました。

 

半島北部に住んでいた民族は、ユーラシア大陸北部からの影響が強かったのに対し、南部では揚子江流域や東南アジア、日本との関係が深く、南方色が強かったようです。

 

半島北部から下ってきた民と、南から北上してきた民とが半島南部で混ざり合い、多くの部族国家が誕生。それらが次第に三つの集団に纏め上げられていったと考えられています。

 

三韓は統一された存在ではなく、それぞれ多くの国家から成っており、各国は互いを飲み込もうと、しのぎを削っていました。

 

     ☆

 

半島南部がバラバラに分かれていたころ、北部にはある強国が建国されていました。高句麗です。高句麗は、ツングース系の扶余(ふよ)族が建てた国です。


ツングースとは東シベリア、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいた民族で、後に中国で金、清を建国した満州族もツングース族に属します。扶余族はその一派で、中国大陸では扶余国、朝鮮半島では高句麗や百済を建国したと考えられています。


この高句麗建国の壮大な物語を描いたのが、韓国のテレビドラマ「朱蒙(チュモン)」です。2006から07年にかけて放送され、50%を超える視聴率をたたき出したお化け作品ですが、その人気の一因は、主人公・朱蒙の波乱万丈の人生にありました。


朱蒙は天帝の子・解慕漱(ヘ・モス)と、鴨緑江の河神の娘・柳花との間に生まれたとされる子供ですが、母は身ごもって間もなく、北西隣にあった扶余国の王のもとに追いやられます。やがて月満ちて柳花は石の卵を産み、なかからは朱蒙が誕生します。そして王の義子として認められ、王子の地位を許されます。


天と河の子、石の卵などというモチーフは扶余神話にも見られるもので、朱蒙の権威付けのために後世付与されたと思われますが、なんらかの歴史的 事実を含んでいる可能性も十分にあります。特に母が扶余国王の庇護下で出産した、という下りからは、母が扶余族の出、つまり朱蒙は扶余の血を引いていた、と 読み取ることもできるでしょう。


さて扶余の王子として育てられるようになった朱蒙ですが、長じるにつれ、武芸の達人として名声があがります。特に弓矢の腕は天下一品で、「朱蒙」も 本名ではなく、弓の名人の称号でした。当然ほかの王子らが快く思うはずがなく、さまざまなイジメを繰り出します。イジメに耐えかねて朱蒙は王宮を出ます が、王子らはこれを殺そうと、追っ手を差し向けます。


ついに河の手前で追いつかれてしまいますが、朱蒙が祈ると、魚やカニなどの河のイキモノが浮上し、浮橋を作って朱蒙を向こう岸に渡しました。そこで九死に一生を得た朱蒙は、河向こうの地に居を構えます。


(このあたりのエピソードは、日本の出雲神話「因幡の白兎」と似ており、そもそも出雲の王であった大国主もまた、兄弟から迫害された後に王となったことを鑑みると、出雲神話には朝鮮半島の伝説の影響があるようです)


さて、もともとその辺りは衛氏朝鮮が支配していましたが、前109年、漢の武帝は遠征軍を派遣してこれを滅ぼし、直轄領に編入してしまいます。


漢の支配を嫌った現地の人々は朱蒙のもとに集まり、ついに紀元前一世紀、高句麗が建国されます。「高句麗」という命名は、朱蒙の姓にちなみます。彼の本姓は「高」であったため、王朝の名前を「高」句麗としたのです。(「句麗」は、城市「クル」の転化とされる)

 

朱蒙は四十にして他界します。その生涯は扶余神話と重なり、フィクション的な部分が多いのですが、すくなくとも高句麗と建国した英雄は存在したと考えられています。


当初高句麗は漢の圧迫を受けていましたが、やがて漢が衰退するとそれに乗じて、主に西(中国方面)に領土を広げ、漢の滅亡後は魏や晋と戦いを繰り広げました。晋が北方遊牧民の侵入により南遷すると、晋は朝鮮半島に関与する力を失い、高句麗は長年中国王朝が支配してきた楽浪郡を占領します。


しかしやがて鮮卑族が中国北東部に前燕を建国すると、これに敗退し臣従を余儀なくされま す。(魏:三国志の悪役・曹操が建国した国。漢を滅ぼした。晋:司馬氏が魏を簒奪して作った国。中国を統一した。詳しくはこちら!

 

その後、高句麗はふるわず、4世紀には同じ扶余族の建てた百済の攻撃を受け、王が戦死するという事態に陥ってしまいます。

 

     ☆

 

高句麗が北方で勢力を伸張させている間、南方の三韓でも大きな動きがありました。

 

三韓のうち、朝鮮半島南西部に位置していた馬韓の部族国家群が、一つの国家「百済」にまとめられたのです。百済の王族は高句麗と同族、すなわち扶余族であり、半島北部から南下して百済(ベクジェ。日本語読み「くだら」)を建国します。

 

伝説によれば、朱蒙の三男・温祚は王位争いに敗れ、高句麗を出て百済を建国したと言います(4世紀)。「百済」というのは「百の姓を集めた国」という意味とされ、たくさんの部族が集まって建国されたことを示唆しています。そして漢城(ソウル)に都し、北方の高句麗とたびたび対立しました。

 

建国まもない百済は強勢を誇り、高句麗からの圧迫を跳ね返し、その王・近肖古王は逆に高句麗の都・平壌まで攻め込み、故国原王を倒すという殊勲を立てました。しかし故国原王の孫の広開土王が即位すると、高句麗は国勢を取り戻し、再び百済を圧迫するようになります。


(広開土王とは、「土地を広げた王」という意味で、四方に領土を広げたこの王の業績を讃えるため、王の死後付けられた名前です。また「好太王」とも言われます)


そこで百済は東方の新羅と手を組み、南方の倭、つまり日本に救援をもとめました。これに応えて倭は軍を送りこみ、高句麗軍と倭軍との間で戦争が行われますが、結果は高句麗の勝利に終わりました。

 

この戦勝を記念して作られたのが「好太王(広開土王)碑」です。好太王碑は19世紀になって発掘され、4~5世紀の古(いにしえ)から、日本は朝鮮半島で軍事行動を起こしていたことが判明しました。さらに碑文には「倭が新羅、百済を支配下においていた」と読み取れる部分もあり、当時の朝鮮半島では北の高句麗、南の倭という二大勢力が対立をしていた様相がうかがえます。


(もっともこの「倭」が九州王権を指すのか、大和朝廷を指すのか、それともそれ以外の勢力を指すのかはまだはっきりしていません)


広開土王が没し、息子の長寿王が位につくと百済はさらに押され、5世紀にはついに都を落とされます。百済の蓋鹵王は抗戦しましたが敵わず、捉われて殺されてしまいます。

 

幸い蓋鹵王の息子はそのとき、救援を要請しに新羅に赴いていたため、難を免れました。息子は急ぎ百済に戻って王に即位すると(文周王)、高句麗に対抗するために王権を集中しようとしましたが、これを快く思わなかった重臣に暗殺されてしまいます。在位わずか三年でした。


以後、百済の政情は迷走が続き、六世紀に蓋鹵王のひ孫にあたる武寧王が現れてから、やっと王権が安定します。武寧王は百済中興の祖と讃えられましたが、その時までにすでに百済は半島南西部に押し込まれていました。


百済は東方の新羅、西方の中国(南朝)と組んで高句麗の圧力を交わそうとしますが、とりわけ倭(および倭を統一した大和朝廷)との同盟関係を強化することに腐心しました。百済の王族は日本の皇族と血縁関係を結び、仏教や儒教の経典、漢字、陶器など、さまざまな文物技術が百済から日本にもたらされます。また日本に帰化した百済人は、技術者集団として珍重されました。

 

日本語で「くだらない」は、実は「百済でない」だという説があります。つまり百済の文物は先進的で良きものなので、「百済である」=「良い」、「百済でない」=「良くない」を指すようになったのだそうです。(ほかにも「上方から下ったのでなく、田舎臭い関東の産品」だから「下らない」と いう説もあり)


ちなみに百済は韓国語では「ベクチェ」なのに、なぜ日本では「くだら」と読み慣わすかというと、これは「大国(クン・ナラ)」のなまりだと言われています。来日した百済人たちが自分の国のことを、大国、大国と言っていたのを、日本人が国名と誤解したのが定着したもののようです。

 

百済はその後も数百年にわたって高句麗の猛攻をしのぐのですが、やがて日本の援助を失い、遂に7世紀には刀折れ矢尽きて滅ぼされてしまいます。しかし滅ぼしたのは宿敵・高句麗ではありません。新羅でした。

 

     ☆

 

          高

   中国    句

          麗

        百 伽 新

        済 耶 羅

 

           日 本


  (4~5世紀ころの朝鮮半島)

 


新羅(シルラ、シイラ。日本語読み「しらぎ」)は、半島東南部の辰韓に勃興した国家です。はじめは百済と同じように高句麗の隷属下にありましたが、4世紀ころには自立していたと考えられています。独立当初は国力が貧弱で、高句麗や倭の支配を受けることもありました。


4~5世紀の倭は伽耶(かや)に支配機関(任那日本府)を置いており、その影響力は高句麗も無視することのできないものでした。なぜ倭が朝鮮半島に進出していたかと言うと、日本では鉄を生産できず、朝鮮半島からの輸入に頼っていたからです。


鉄は武器、農具に使われる先端技術であり、それを抑えることは倭の豪族たちにとって重要課題だったのです。そこで倭は日本に近い伽耶に軍隊をおいて、支配しました。


もっとも倭はこの地方を完全に掌握していたわけでなく、鉱山や製鉄所、軍事基地などの拠点だけを支配していたようで、そのほかの地域は従来通り、部族国家の自治に任されました。

 

これに目を付けたのが新羅でした。6世紀になると新羅は伽耶の部族国家を次々に蚕食し、ついには地域全体を併呑して強大化します。任那も滅ぼされ、半島での利権を失った大和朝廷は派兵を検討しますが、豪族らの意見がそろわず、結局任那が再興されることはありませんでした。


そしてここに新羅、百済、高句麗と朝鮮半島は三分され、三国時代が到来します。


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三国時代

朝鮮の三国時代は、中国の三国時代とよく似ています。三国時代の中国では、北方の強大な魏、南西の弱小な蜀、東南にあって天下をうかがう呉、の三国が鼎立しましたが、これはちょうど高句麗、百済、新羅にかさなります。


              高句麗


             百   新

             済   羅



三国志のキープレイヤーが大国・魏であったように、朝鮮三国志の主役も、あくまで北方の巨人・高句麗でした。


前一世紀に建国された高句麗は、漢の衰退に乗じて勢力を広げましたが、4世紀になると中国大陸に南下してきた鮮卑族に押されて衰微します。しかし広開土王は中興に成功し、つぎの長寿王は百済を攻めてその王を倒し、朝鮮半島の大部分を手中におさめ、ここに半島が統一されるかのように見えました。


けれども高句麗の関心はむしろ中国のほうにあり、朝鮮半島南端部の支配には、あまり興味がありませんでした。当時のスーパーパワーはなんと言っても中国であり、そこからの侵略を防ぎ、あわよくば逆に侵略して大陸の富をこの手に収めたい、というのが高句麗人の発想でした。

結果、半島南東部への警戒は手薄になり、そこにいた新羅の台頭を許してしまいます。


(鮮卑族とはモンゴル族の一派で、晋の南遷後、真空状態となった華北に南下し、前燕、後燕、北魏などの国家を建設しました。中でも北魏は華北を統一し、北方民族が漢民族を統治する「征服王朝」の魁となったことで有名です。鮮卑族がいなければ、征服王朝たる金、清、元は存在しないか、もしくは違う形になっていたかもしれません。


北魏は内乱から東魏・西魏に分裂しましたが、西魏から出た北周は華北を再統一。その北周の武人・楊堅は政権を簒奪して隋を立て、三百年ぶりに中国統一を果たします。


なお楊氏は漢族とされますが、実際には匈奴など北方遊牧民の血が色濃く入っており(楊堅の妻は匈奴系)、それは唐王朝を樹立した李氏も同じです。古代中国の最盛期を演出した隋唐王朝は、実は北方民族と漢民族の競演でもあったのです)


     ☆


新羅は当初高句麗や日本に隷属していましたが、やがて四世紀になると百済と結んで高句麗に対抗(羅済同盟)するようになります。この同盟は成功し、百済の近肖古王は高句麗に攻め入り、高句麗王・故国原王を倒すという殊勲を立てます。


しかし百済の強大化を恐れた新羅は、百済をうらぎって高句麗に接近。同盟は破棄されます。


五世紀になると長寿王の下で高句麗は強大化を果たし、南進を始めたので、あわてた新羅と百済は再び手を組みます(第二次羅済同盟)。百済は高句麗に都・漢城を奪われ、存亡の危機にさらされますが、新羅の援助を受けて文周王は百済を再興させます。


さらに六世紀には百済は高句麗を攻めて、漢城を取り戻します。ところがこれを知った新羅は突然同盟を破り、漢城を奪い取ってしまいます。憤った百済の聖明王は新羅と戦いますが戦死。以後、両国は不倶戴天の仇敵となるのです。


それに目をつけたのが高句麗です。高句麗は百済との関係を修繕し、北と西から新羅を押さえ込む外交政策を展開しました。6世紀の半島情勢は、高句麗と中国北朝の対立を軸に、百済、新羅が時に連合し、時に離反するという複雑な均衡の上に成り立っていたのです。


          高

   北朝    句

          麗

        百   新

南朝     済   羅

 

           日 本


この薄氷の均衡は、6世紀末、北朝の隋が中国を統一すると一気に破れます。隋が高句麗遠征に乗り出したからです。(漢の滅亡後、中国は南北に分裂していました。南部には漢民族の王朝が続き、北部では遊牧民が王朝を築きました)


隋の二代皇帝・煬帝は四度に渡って遠征軍を繰り出しますが、高句麗はこれをことごとく撃退。逆に隋はこの無茶な遠征を強行したことで人心を失い、滅びてしまいます。


ところがその後中国を再統一した唐も、同様に高句麗征服に乗り出します。これに対抗するため、高句麗は百済との関係を強化。対する唐は新羅と結び、ここに東アジア情勢は高句麗・百済ブロックと、唐・新羅ブロックという二大ブロックに分割されます。


この分割は日本も無縁ではありませんでした。日本は百済の古くからの友好国だったからです。果たして風雲は日本にまで及んできます。


660年、新羅が唐と連合して百済を滅ぼすと、百済の遺臣らは日本に亡命し、百済再興を懇願します。日本はそれを受け入れ、百済復興軍を派遣。この軍事作戦は百済復興のみでなく、高句麗救援、ひいては唐というスーパーパワーの日本侵出を未然に防ぐ、という意味合いも持っていました。


派遣された兵力は4万強ですが、ほぼ同時期に起きた壬申の乱(672年)では推定6万人が動員されたことを考えると、いかに4万という兵力が大きいかが分かります。それだけ大和朝廷の危機感は強かったのでしょう。


旧百済軍五千と合計した5万の兵力は、唐・新羅連合軍1万余を遥かに上回るものでした。当時、唐は建国初めで内乱外憂に苦しんでおり、多くの兵力を裂けなかったのです。しかしながら連戦続きだった唐軍、新羅軍は、高度な戦術を持っていました。両軍は白村の河口に水軍を集結させており、そこへ日本・百済側の連合軍は突進を開始します。


ただただ大軍を数に任せて突っ込むという日本軍に対し、唐水軍は数で劣りながらも、河口の複雑な海流を利用した巧みな戦術で日本軍を翻弄し、撃破します。これが歴史に名高い白村江の戦いですが、結果、百済滅亡は決定的となりました(663年)。

 

百済を追われた人々は日本に亡命。百済系渡来人として、日本のなかに溶け込んで行きます。たとえば百余年のちに平安京遷都(794年)をおこなった桓武天皇の生母は、百済人の末裔です。


また先年任那を失い、この度は百済を失った日本は大陸との繋がりが失われ、以後、「島国日本」として熟成していきます。7世紀までの日本は朝鮮半島や中国大陸との往来、交わりの強い「国際国家」でした。常時、時の超大国(漢、魏や南朝)と国交を結んでいた事実からは、そのことが読み取れます。それが閉鎖・内閉化していくのは、この敗戦からではないでしょうか。


4万という大兵力を一気に失った大和朝廷はパニックに陥ります。当時の全兵力は10万弱(壬申の乱で6万が動員されたが、これは近畿・東海地方の兵力。ほかに中国、四国、九州を併せると総兵力は10万弱)と見積もられていますから、実に軍事力が半減したことになります。


朝廷は急ぎ九州方面に城を築き、唐・新羅の侵攻に備えますが、実は唐と新羅はそれどころではありませんでした。彼らの目的は日本でなく、高句麗にあったからです。新羅は高句麗をほろぼして半島統一を果たしたいし、唐は唐で華北を脅かしている高句麗を退治したかったのです。


百済を陥とした後、唐・新羅連合軍はすぐさま高句麗と対峙します。さすがの高句麗も、隋唐の度重なる遠征軍を退けたばかりで疲弊しており、そこを唐と新羅に挟撃されて滅亡。ここに朝鮮半島は統一されました。668年、白村江からほんの五年後のことです。

 

なお高句麗の遺臣の一部は日本に逃れ、当時未開の地であった武蔵国に土地を与えられたと言われます。実際、埼玉県には高麗(こま)という地名が今も残っています。


ち なみに埼玉県にはほかにも白子(しらこ)、志木(しき)という土地がありますが、こちらは新羅(シラギ)系の渡来人が住んだ場所とされます。


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