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第一章

 

 真っ黒いディスプレイの中に並ぶ、片言のカタカナ言葉の白い文字。
 答えを選択しろと焦らすように、しきりに明滅を繰り返す三角形のマーク。
 何の気なしに選び取った答えが、後に大変な事態を招くことになろうとは。
 この時の私は想像もしなかった……。


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第二章

  八月一日

 

 季節は夏。学校は夏休み。
 部活動は帰宅部で、特にすることはない。
 アルバイトもしていないし、これといった趣味もあるわけじゃない。
 せっかくの夏休みだというのに、友達とカラオケにいったり、家でごろごろしたり。
 あまり実のあることをしていない私は、ある意味、一般的な女子高生だとも思う。
 ついでにいうと、宿題もほとんどやっていない。ちょっとヤバイ。
 私、桜井乙女。高校一年生。
 今日は夏休み中に一回だけある全校登校日。
 夏休みに入ってから初めて登校した日だ。
 ひさしぶりに学校へ来てみると、なんだか新鮮な気分になれた。
 みんな、夏休みでずいぶん変わったなー。
 正直な感想。
 運動部の人たちは、やっぱり日焼けで真っ黒な肌。
 大会や甲子園があるもんね。一生懸命打ち込む姿って格好いい。
 文化部の人たちだって負けてない。
 早くも文化祭に向けての取り組みをがんばっている。
 夏休み中に彼氏でも出来たのか、それとも彼氏を作るためなのか。
 女の子たちはキレイになった気がする。
 髪の毛の色とか、化粧とか、一学期より派手になった子も多い。
 夏休み中の期間限定かもしれないけど、オシャレ度倍増な雰囲気。
 うーん。私は何にも変わらないなぁ……。
「なにボケっとしてるのよ」
 ぽかり。
 不意に頭を軽く叩かれた感じがして、私は視線を上げた。
 いつから立っていたのが、目の前に人影が見える。
「あ、由香。おはよー」
「『おはよー』じゃないって。もうお昼だよ? 頭大丈夫?」
「お昼? そっか、早いなー」
 さらに視線を上げ黒板の上の時計を見ると、確かに針は十二時過ぎを指している。
 ついでに教室内を見渡してみると。
 あれ。私たち以外、誰もいない?
 さっきまで賑やかな教室だったはずなのに。おかしいなぁ。
「乙女ー? 起きてるー?」
 由香が座っている私の顔を、怪訝そうな表情で覗き込んだ。
「大丈夫大丈夫。起きてるよぅ」
「本当に? まだ寝ぼけてるんじゃないの?」
「大丈夫だってばー」
「ま、あんたがボケっとしてるのは、いつものことか」
「それはそれでヒドイと思うよ」
 私はぷうっと頬を膨らませた。
 由香が拗ねる私の頭を、優しくなでなでと慰めてくれる。
 いつものやりとり。
 彼女の名前は、青山由香。
 私の一番の親友。
 中学校で初めて知り合ってから、ずっと仲良くしている。
 由香曰く、天然でぼんやりしている私と違って、行動派でイケイケな女の子。
 夏休みに入ってすぐに、明るい茶色に髪を染め、化粧もバッチリ濃くなった。
 軽くパーマもかけたみたいで、読者モデルみたいにかわいい。
 最近、風の便りで彼氏ができたって聞いた。
 でも私は、由香からは何も聞いていない。
 噂は噂だし、由香が自分から話してくれるまでは、じっと待ってようと思う。
 本当に彼氏ができたなら、絶対話してくれるはずだもん。
 ただ。実は良くない噂も聞いている。
 二股かけているだの、三股かけているだの。
 彼氏を取っ替え引っ替え、次々乗り換えているだの。
 由香は良い子だし、そんなことはしないと私は信じてる。
 けれども。派手で目立つ子というのも事実なわけで。
 やっかみ半分の噂ならいいけど、火のない所に煙は立たないという言葉もあるし。
 いろいろと心配ではある。
 由香にしてみれば、私に心配されるなんて笑っちゃうかもなぁ。
 いつも私のこと、「心配だ!」って連呼してるのは由香の方だから。
 ……彼氏かー。
 高校生にもなったら、普通、彼氏ができるもんなのかな。
 私には無理かも。あんまり男の子と話す機会とかないし。
 由香みたいに行動力もない。まず、魅力もない。
 その前に彼氏って、どういう人を彼氏っていうのかな。
 エッチなことする相手が彼氏?
 付き合うことになったら彼氏?
 付き合うって、そもそも何だろう?
 やっぱり、よくわからないや。
「こらこらこら! また自分の世界に入ってるよっ!」
 ぽかり。
 由香が私の頭を再び叩いた。
「もう。ちょっと目を離すとすぐに異世界突入なんだから」
 呆れ声の由香。だけど顔は笑っている。
 本気で呆れられてるんじゃないことが伝わってくる。
 由香のこういうところが好きだ。
 軽口をたたき合える仲っていい。
「ごめんごめん。うーんと。お昼ってことは、もう帰ってもいいんだよね」
 我ながら間抜けな質問だと思った。
 私、登校日に学校に来て何やってたんだろう。
 寝てた? ボケてた? どっちも問題だなぁ。
 だいたい教室に誰もいないってことは、みんなもう帰っちゃったってことだ。
 答えは聞くまでもない。
「アンタもアタシも帰宅部だからね。さっさと帰ろ」
 でも特に気にした様子もなく、由香も返事をしてくれる。
 よかった。これ以上呆れられたら、さすがにイタイ子だ。
 ふと見ると由香はすでに帰り支度をしていて、手には鞄を下げていた。
 私も慌てて、机の中の物を鞄に詰め込み始める。
 ……よし。帰宅準備完了。
 パンパンになった鞄を机の上にのせ、私は由香を見上げた。
 すると私を見下ろしていた由香が言う。
「ね、お腹も減ったし。駅前のマックよってかない?」
「さんせーい!」
 私は大賛成して、鞄と共に立ち上がった。
 ぐうぅー……。
 と同時に、大きなお腹の鳴る音。
「乙女?」
「うん、そう」
 私は真っ赤になりながら答えた。
 マックって聞いた途端、条件反射的にお腹が空いたみたい。
 いや、お腹が空いていたのを思い出したのかな。
「ホント、天然で、ボケで、食いしんぼキャラなんて……」
 由香が私を抱きしめる。
 私よりも由香の方が、ほんの少しだけ背が高い。
「私が男だったらほっとかないよ。かわいいなぁ、もう!」
 由香が私の頭をくしゃくしゃとなで回す。
 ちょっと遊ばれてる気もするけど悪くはない。
 私から見れば、由香の方が何倍もかわいいと思うんだけど。
 由香は私のことを、かわいい、かわいい、って言ってくれる。
 お世辞でも、冗談でも、嬉しくなっちゃうよね。
 うん、由香大好き。


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第三章

 ……という流れのはずだったのに。
 なぜか私は、一人ぽつんと下駄箱の前で立ちつくしていた。
 ガラス扉から差す夏の日差しが眩しく、校内の影とのコントラストを強調している。
 私はのたのたと上履きを脱いで、下駄箱の中のローファーと入れ替えた。
 じゃり。靴底に挟まっていた小石が数粒落ちる。
 下駄箱の扉をぱたんと閉める。ローファーを床に置いて履く。
 ぐうぅー……。
 お腹の虫が音を奏でる。
 あぅ。お腹減ってるけど、一人マックは寂しすぎるよね。
 由香と一緒にマックよりたかったなー。
 ポテトとアップルパイとオレンジジュース。
 ハンバーガーもつけちゃうつもりだったのに。
 小さく溜息。胃がキュッとなって空腹に響く。
 仕方がない。家に帰って何か食べよう。
 私はとぼとぼと歩き始めた。
 由香は今頃、どうしてるかな。
 一緒に帰る約束をしていた由香。
 由香は彼氏からの電話で呼び出され、私を置いてデートに行ってしまった。
 彼氏がいるの黙っててゴメン!
 そう謝ってくれたけど、謝るのはソコじゃないと思う。
 せっかく一緒にマック行くの楽しみにしてたのにさー。
 ほら。日曜日にお父さんとお出かけする約束をしてて。
 それなのに当日になったら、急に仕事が入ってドタキャンみたいな感じ。
 期待していた分、がっかり感が大きいというか。寂しいというか。
 女の友情なんて、こんなもんだ。
 やっぱり私も、素敵な彼氏欲しいかも。
 彼氏だったら、約束を破って私をがっかりさせることなんかない、はず。たぶん。
 きっと毎日がバラ色で。二人でいるだけで楽しくて。
 もしかしたら、ちょっとエッチなことしたりとかして。
 ちょっとエッチなことってなにかな? キス?
 キスってどんな感じなんだろう? レモンの味ってホント?
 キスする前にコーヒー飲んだら、ファーストキスはコーヒー味?
 飲み物ならまだいいけど、食べ物はさすがに嫌だよね?
 デートの時に食事はするだろうから、歯磨きセットは必須かな?
 あ、それだと歯磨き粉の味になっちゃう。
 一度妄想を始めると、妄想が妄想を呼んで収拾がつかなくなる。
 今は止めてくれる由香がいないことも、妄想に拍車をかけている。
 そんな妄想特急のスピードがピークに達したとき。
「おーい、乙女ー!」
 突然、私の名前を呼ぶ大声が響いた。
「ひゃ、ひゃい?」
 変なことを考えていたせいか、おかしな返事になってしまった。
 自分が今どんな妄想をしていたかなんて、誰にもわからないのに胸がどきどきする。
 男の子の声っぽかったけど誰だろう?
 聞き覚えはあるような気がする。むしろ赤の他人は私の名前なんて知らないはず。
 恐る恐る振り返ると、そこには弘人が立っていた。
「なんだー、弘人か。脅かさないでよ、もう」
「珍しいな、お前が一人ってさ。いつもは青山と一緒じゃん?」
「そ、そうかな。たまには一人のときだってあるよ」
 私は内心の動揺を隠しつつ、平静を装って答えた。
 この男の子は、鈴木弘人。
 私の幼稚園の頃からの幼なじみ。
 実は。初恋の相手でもある。
 初恋の相手なんだけど、今は別に何とも思っていない。
 好きだったのも小学生の頃だから、告白とかもしていない。
 小学生の頃の弘人は、スポーツ少年でサバサバしてて、とても格好良かった。
 体育の授業でも、少年サッカーでも、男の子の中で一番輝いて見えていた。
 今思うと小学校の頃の好きなんて、アイドルに対する焦がれみたいなものだったなぁ。
 見てるとドキドキして、それだけで幸せで。
 本当に男の子として好きになる、というのは今でもよくわからない。
 でもきっとこのときの好きとは違うものなんだと、おぼろげにはわかる。
 ……そして中学に入ってから、弘人は変わってしまった。
 最初のきっかけは、視力が極端に落ちたこと。
 眼鏡が手放せなくなって、スポーツをしなくなった。
 部活動は運動部の代わりに、パソコン部に入部した。
 短くて爽やかだった髪型は、だんだん長くなって無造作に結ばれた。
 なんていうのかな……。あ、そうそう。いわゆるアレ。
 オタク!
 弘人はスポーツ少年から、オタク少年になってしまったのだ。
 昔はサッカー雑誌を読んでいた弘人が、美少女ゲームの雑誌を広げていた。
 それを見た瞬間、私の恋心はどこかに吹き飛んでしまった。
 オタク趣味が悪いとはいわないけど、魅力的に見えなくなっちゃったんだよね。
 家が近いもんだから、今でも仲が良い方ではある。
 昔から話をしているから、人見知りの私が普通に話せる数少ない相手でもある。
 けれどもあくまでもお友達。今はそれ以上でも、以下でもない間柄。
「で、なにか用だった? 宿題なら私もやってないよ?」
「いやいやいや。宿題ならお前なんかアテにしないって!」
「そ、それはそれでヒドイと思うよ」
 むぅ。みんな私をなんだと思ってるんだろう。
 由香も弘人も言いたい放題だ。
 確かに宿題でアテにされても困っちゃうんだけど。
「まぁ、なんだ。その……なんて言えばいいかなー」
 微妙に歯切れの悪い弘人。
 割と私には、はっきり物を言う弘人が、曖昧にしゃべるのは珍しい。
「なによー? 言ってくれないと考えようもないよ?」
「そうだなぁ。とりあえずさ、今日これから暇?」
「うん、特に予定はないよ」
「よし。じゃ悪いけど、俺にちょっと付き合ってくれ」
 言うが早いか、弘人は踵を返し歩き出してしまった。
 行く場所は決まっているらしく、すたすたと早足で歩みを進める。
 私が呆然としていると、弘人は振り返って一言付け加えた。
「詳しくは着いてから話すよ。たぶん見た方が早いと思うし」


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第四章

 そうして私が連れて行かれたのは、パソコン研究部、通称パソ研の部室だった。
 普通教室棟と特殊教室棟とを繋ぐ渡り廊下の真ん中の場所。
 少し傾きかけたプレハブ小屋の扉に、『パソコン研究部』と書かれたプレートがかけられている。小さな窓はあるものの、中は薄暗くて様子をうかがうことは出来ない。
「あれ? ここってストーブ置き場じゃなかったっけ?」
 私はふと感じた違和感を口にした。
 まだ使ったことはないけど、去年文化祭に来たときにはそう書いてあった気がする。
 置き場があるってことは、石油ストーブなのかなって思ったんだよね。
「良く覚えてるな。前はそうだった。でも今はパソ研の部室」
「へぇー、専用の建物ってちょっと格好いいね」
「そんないいもんじゃないけどな。ま、入れよ」
 弘人はポケットから鍵束を取り出し、プレハブ小屋の扉を開けた。
 そのまま先に室内に入り、壁にあるスイッチを入れる。
 天井に取り付けられた蛍光灯が、数回ちかちかと点滅を繰り返し、やがて明るくなる。

「おじゃましまーす!」
 私は一応挨拶をして、明るくなった室内へ進入した。
 一歩足を踏み出すと、生ぬるい空気が私を出迎える。
 パッと見エアコンらしきものは見当たらない。
 今日は涼しいからまだいいけど、暑い日は蒸し風呂になりそうだ。
 私はさらに部屋中に視線を走らせる。
「うわぁ!」
 狭い室内には机が八台並べられていて、その上には机の数と同じだけのパソコンが置かれている。パッと見ただけでもパソ研の部室だとわかるような光景だ。
 さらに目を引くのは、恐ろしい量のタコ足配線。
 主電源は一つしかないらしく、そこから伸びた延長コードに数多くのマルチタップがつながっている。それぞれ個別のオンオフスイッチが付いているタイプで、あまり一般家庭で見ることはないかもしれない。
「全部いっぺんにパソコン使ったら、ブレーカー落ちちゃわない?」
「もちろん落ちるさ」
 弘人が当たり前だというように即答した。
 答えながら、慣れた足取りで部屋の奥へと進んでいく。
「やっぱり。こんなすごいタコ足配線、私、初めて見たよ」
「そいつは光栄だな」
「ほめてないって!」
 珍妙なやり取り。ある意味いつも通りの会話。
 私は部屋には入ったものの、どうしたらいいか戸惑っていた。
 あれ? そもそも何しに来たんだっけ?
 首をかしげながら、私は弘人の表情をうかがった。
 そんな私を見て、弘人が部屋の奥から手招きをする。
「俺のパソ一番奥だから、こっちまで来てな」
「はーい」
 私は弘人が待つ部屋の奥へ進もうと、一歩足を踏み出した。
「きゃっ!」
 その途端、大きな軋み音と共に床が大きく沈み込む。
 私はバランスを崩し、危うく転びそうになってしまった。
 え? えぇ? なんで? どうなってるの?
 近くの壁にもたれかかりながら、私の頭の中をハテナマークが渦巻く。
 最近よくマックに行ってはいたけど、そんなに体重増えてたのかな?
「あ、言い忘れてたけど。ここの床、抜けそうになってるから」
「先に言ってよ! そういう大事なことは!」
 私は思わず、弘人に向かって悪態をついた。
 そう叫んでから、はたと思い出す。
「でもさっき、弘人は普通に歩いていった……よね?」
 やっぱり私の体重が重いのかな。それも弘人より!
 いくら弘人が細身だからといって、男子より重いとしたらマズすぎる。
 女子の沽券に関わる由々しき問題だ。
「部分部分、乗っても平気な場所があるんだ。俺はもう慣れてるからな」
 私の乙女な葛藤をよそに、弘人がさらりと言った。
「元々ストーブ置き場だったって言ったじゃん?」
 器用に足の置き場を選びつつ、弘人が私の方へ歩いて来る。
「もう建物自体古くなっててさ、前から床も抜けそうだったんだよ」
「ふぅん」
「だからストーブ置き場は別の場所に移された。ここもじきに取り壊す予定なんだって」
 弘人が私のすぐ目の前まで到達する。
「パソ研は今年出来たばっかだし、部室もまだ決まってなかったからさ。臨時で使わせてもらうことにしたんだ。つまり部室として使えるのも、取り壊すまでの間だけってこと」
「そうなんだ。せっかくの部室なのに寂しいね」
 私は目を伏せて呟いた。
 始めからないよりも、手に入れてから、なくなる方が寂しい感じがする。
 ちょうど期待していて裏切られた、さっきの私の気持ちに似てるかも。
「けど当分はこのまま使えるんだ。うまくすれば俺のいる間くらいは持つかもな」
 あまり気にしていないように、弘人がにぃっと笑った。
 いたずらっぽい笑みは、小学生の頃の、格好良かった弘人を思い起こさせる。
 間近の距離も影響してか、私の胸はちょっとドキっとしてしまった。
 弘人。髪切ったら、今でもけっこう格好良さそうなんだけど。
 軽く妄想してみる。そのとき。
 ぐうぅー……。
 小さな胸のときめきをかき消すような空腹の音。
 よりによって、こんなタイミングでお腹がなるなんて。
 私はちらりと上目づかいに弘人を見つめた。
「……聞こえた?」
「うん」
 顔がほてって、真っ赤になっていくのを感じる。
 いくら幼なじみの弘人でも、男子は男子。
 やっぱりお腹の音を聞かれるのは恥ずかしい。
 やだ、もう。
 すっかり忘れてたけど、お昼ご飯食べてなかったんだ。
「お前は変わらないなー。昔っからそうだったよなー」
 弘人がにやにや笑いながら、私を見下ろしている。
「『そう』ってどういう意味?」
 言われた意味がよくわからない。
「んー……腹ぺこキャラ?」
「ヒドイ! 女の子に向かって『腹ぺこキャラ』なんて!」
 私は恥ずかしさで赤くなっていた顔を、今度は怒りで真っ赤に染めた。
 いくら幼なじみでも、言っていいことと悪いことがある!
 私は弘人に詰め寄り、キッと睨み付けた。
「私を怒らせるために呼んだの? 頼み事があったんじゃないの?」
 頬を膨らませ、精一杯凄んでみせる。
 自分でも、ぜんぜん迫力ないんだろうなぁとは思いながら。
「悪い悪い、そんなに怒るとは思わなかった」
「反省してる?」
「してるしてる。反省してます」
 弘人は両手を合わせて、ぺこぺことお辞儀を繰り返した。
 その仕草があまりにもオーバーアクションで、私はつい力が抜けてしまった。
 ふっと小さな息がもれると共に、自然に表情が緩むのを感じる。
 弘人と二人っきりで話をしていると、幼い頃に戻ったような気分になる。
 他のクラスメイトには、こんなに声を荒げることも、表情を変えることもない。
 異性としては意識しないことが多くなった弘人。
 だけど友達としては大好きだし、由香と同じくらい素の自分を出せる相手なんだ。
 本気で怒り続けるほどのことじゃないし、そろそろ勘弁してあげようか。
「では、許してしんぜよう」
 私は弘人のオーバーアクションに応えるように、わざと偉そうに言った。
「ははー。ありがとうごぜえますだ」
 弘人も芝居がかって感謝の意を唱える。
 こういうやりとりは悪くない。
「ちぇっ、先に飯食ったかどうか、聞いときゃ良かったな」 
 ばつが悪そうに弘人が頭をかく。
「弘人はもう食べたの?」
「いや。俺もまだ。あ、そうだ。いいものがあった」
 何かを思い出したのか、弘人は私を軽く押しのけ、古くさい鉄製のロッカーの方へ歩いていった。扉を開けると上半身を差し入れて、中をごそごそとあさり出す。
「あれー、どこに入れたっけかな……」
 目的の物がなかなか見つからないらしく、ロッカーの中で悪戦苦闘しているようだ。
 ひとしきり棚の上をかき回すと、今度はしゃがみ込んで下の方をほじくり返し始める。
「確かこの辺に入れたはずだったんだけど……」
「何探してるの? 私も手伝おっか?」
 私はロッカーに近付いて、かがんでいる弘人をのぞきこんだ。
 すると。真っ先に目に入ってきたのは、カラフルな女の子のイラスト。
 雑誌の表紙かな。ロッカーの中はごちゃごちゃで、雑誌が雪崩を起こしている。
「わーっ!」
 突然弘人が大声を上げ、私を軽く後ろに突き飛ばした。
「いいから、いいから。お前はその辺で座ってろよ。な!」
 すごく慌てた顔で、弘人は私を入り口の方へ押し戻す。
 言葉はやわらかい。顔も笑ってる。でも有無を言わさない意志の強さを感じる。
「ぜ、ぜんぜん片付けてないからさ。見られるの恥ずかしいし」
 取り繕ったように弘人が言う。
「別に恥ずかしいことないのに。部屋だって昔っからガタガタだったよね」
「子供の頃と一緒にするなよ。やっぱ恥ずかしいだろ、高校生にもなると」
 弘人は一歩も譲らない。
 それがかえって怪しくて、私はさらに追求した。
「……もしかして。見られたら恥ずかしい物が入ってたりする?」
「……」
 弘人は何も答えない。
 答えない、というか答えられないのだろう。
 つまりロッカーの中には、見られたら恥ずかしい物が入っているということだ。
「わかった。大人しく座ってるね」
 私はそう言って、入り口に一番近い椅子に腰を下ろした。
 私が椅子に座ったのを確認すると、弘人は再びロッカーの探索に戻る。
 気まずい空気が部屋の中に漂っていた。
 なんとなく、話をしにくい雰囲気がある。
 私は一心不乱にロッカーをあさり続ける弘人を、ぼんやりと眺めている。
 弘人は何も答えなかった。
 でも。嘘もつかなかった。
 何とでも誤魔化せたのに、嘘をつかなかったことは好感が持てる。
 そういうところは昔のままだなぁと思う。
 私が好きだった、小学生の頃の弘人。
 変わってしまった部分も多いけど、変わっていない部分も残ってたんだ。
 ふと、何が入っていたのかな、と想像を巡らせてみる。
 一瞬目に入ったのは、カラフルな女の子のイラスト。
 よくは見えなかったけど、雑誌の表紙っぽかった。
 いつも教室で読んでいる美少女ゲームの雑誌?
 それだったら、わざわざ隠す必要はない。
 ということは。同じ美少女は美少女でも、エッチな雑誌なのかもしれない。
 グラビアの女の人ならまだ許せる。けれどイラストの美少女は嫌かも。
 嫌悪まではいかないけど、理解しがたい嗜好だと思っちゃうなー。
 やっぱりオタク趣味を持ってると、異性として見られない気がする。
 だって、だってね。
 彼氏の趣味を聞かれて、「美少女ゲーム」とは答えられないでしょ?
 どうせなら「サッカー」とか、せめて「映画鑑賞」とか。
 誰が聞いても、眉をひそめたりしない趣味の方がいい。
「あ! あった、あった」
 私がけっこう失礼な考え事をしている間に、弘人は探し物を発見したようだ。
「お前、素麺好きだったよな?」
「うん。大好き!」
 さっきまでの気まずい空気はどこへやら。
 私は満面の笑顔で弘人の問いに頷いた。私ってば現金。
 もう頭の中には素麺のことしか入っていない。お腹ぺこぺこ。
「じゃーん。湯沸かしポットーっ!」
 弘人は手に持った湯沸かしポットを、アニメキャラよろしく掲げて見せた。
 小さな、小さな、湯沸かしポット。
 一回にマグカップ二杯分くらいのお湯しか沸かせそうにない代物。
「え……っと。これで素麺湯がくの? というか湯がけるの?」
 まさかとは思うけど。
 湯沸かしポットに素麺を直接投入するつもりなの?
 私は急に不安な気持ちになってきた。
 嫌な予感がする。ううん、嫌な予感しかしない。
「湯沸かしポットをなめるなよ」
 弘人がにやりと微笑んだ。
「ちょっと水汲んでくるから、座って待ってな」
 私の返事を聞く前に、弘人は部屋を飛び出していった。
 バタバタという足音が遠退いていく。
 私が唖然として座ったままでいると、しばらくして弘人が戻ってきた。
 手にはたっぷりの水をたたえた湯沸かしポットを持って。
「待たせたな。すぐ食べられるから、ありがたく思えよー」
 弘人はコンセントからマルチタップのプラグを引き抜き、代わりに湯沸かしポットのプラグを差し込んだ。
「電熱系のは直接じゃないとマズイんだ」
 弘人がどや顔で言う。
 私は何と答えればいいか、まったくわからない。
 ただ引きつった笑顔を浮かべて、弘人の行動の成り行きを見守るしかない。
 それは古いタイプの湯沸かしポットで、プラグを差し込んだ途端、スイッチを入れるまでもなくライトが点灯していた。電源を入れれば、すぐに湯沸かしを始める仕様らしい。
 湯沸かしポットが小さな音を立て始める。
 一応蓋は付いてるんだけど、外されたまま横に置かれている。
「さてと。沸く前にこっちの準備もしとかないとな」
 弘人は小型冷蔵庫を開き、中からどんぶりとザルを取り出した。
「なんで冷蔵庫にどんぶりが入ってるのよ!」
「だって他に置くとこないじゃん」
「だからってねぇ……」
「細かいことは気にするなって」
 本当に気にした様子もなく、弘人はさらに冷蔵庫からめんつゆの瓶を取り出した。
 続けて茶碗と割り箸まで取り出し始める。
「そんなものまで!」
「俺の夏場の主食だし。いつも部活んときは素麺食べてんだ。夏休みに入ってから使ってなかったけど、ちゃんと洗ってあるから」
 弘人がしれっと答える。
「おし、そろそろいい頃合いだな」
 見るといつの間にか湯沸かしポットが、グツグツと大きな音を立てている。
 泡がぼこんぼこんと浮かんでは消え、お湯が沸騰していることを告げている。
 弘人は慣れた手つきで袋から素麺の束を取り出し、二束、湯沸かしポットに投入した。
「あぁー。入れちゃった……」
 私は大きく肩を落とした。
「なんだよ、大丈夫だって。ちゃんと食えるから」
 待つこと二分。
 湯沸かしポットはグツグツと鳴り続けた。
 時折弘人が割り箸でかき回したおかげか、吹きこぼれることもなかった。
「仕上げは水道でやってくるから、もうちょい待ってろよ」
 弘人は湯沸かしポットのプラグを抜いた。
 そして先ほど取り出したどんぶりの上にザルを乗せる。
「じゃ、行ってくるわ」
 そう言うと、弘人は湯沸かしポットとどんぶりを持って部屋を出て行った。
 水を汲みに行ったときのように、バタバタという足音が遠退いていく。
 もうどうしていいかわからなくて、私はただ座ったまま待っていた。
 しばらくすると、完成した素麺の乗ったザルと空になったポットを持った弘人が、得意げな面持ちで帰ってきた。
「完成! さ、食ってみな。うまいぞー」
 弘人がめんつゆの入った茶碗を差し出しす。
 私はそれをおずおずと受け取った。
 ストレートタイプで薄める必要のないめんつゆだ。
「ほら、割り箸も。使ってないから大丈夫だぞ」
 弘人が未使用の割り箸を押しつける。
「薬味はないけど、素麺だけでもイケるから」
 弘人は私が食べるのをじっと待っている。
 どんぶりの上のザルには、水道水で冷やされた素麺が乗っている。
 私の右手には割り箸が、左手にはめんつゆの入った茶碗がある。
 かつおだしのめんつゆの香りが鼻腔をくすぐる。
「ほ、本当に食べても大丈夫なの?」
 私は素麺を見ながら不安げに問いかけた。
 湯沸かしポットなんかで作った経験はもちろんない。
「大丈夫。俺を信じろ!」
 弘人が胸を張る。こういうときだけ、自信たっぷりなのが逆に心配だ。
 私はもう一度、じいっと素麺を見つめた。
 見た目は普通においしそうな感じがする。
 ぐうぅー……。
 またしても大きい音でお腹が鳴った。私のお腹はもう限界だ。
 えぇい、ままよ!
「いただきます!」
 私は割り箸を割り、素麺をつまみ上げた。
 そして茶碗の中のめんつゆへ一息に漬け、そのまま勢いよくすする。
「……」
「どうだ? うまいだろ?」
 弘人が問いかけてきた。
「く、悔しいけど、おいしいです」
 私はなぜか敬語で答える。負けだ、完敗だ。
 素麺は水道水で冷やしただけだから、常温で少しぬるい。
 でもちゃんと、ちょうど良い具合に火が通っていて、適度な堅さがある。
 湯沸かしポットで湯がいたとは思えない仕上がりだ。
 私は一口、二口と箸を進める。
 おいしい、おいしいよ!
 お腹が空いていたせいもあって、素麺を食べる手が止まらない。
 ちゅるちゅるちゅる……ずずぅー。
 気が付くと私は、ザルに乗っていた二束分の素麺をすべて食べきっていた。
「あ……」
「ん? どうした?」
 にこにこした顔で私を見ていた弘人が、不思議そうに聞き返す。
「ごめん。全部食べちゃった」
 私は肩を落として謝った。
 うぅ、これでは「腹ぺこキャラ」と言われても仕方がない。
「弘人もお昼ご飯、まだだったんだよね」
 私はしょんぼり呟く。
「なんだ、そんなことか。いーっていーって。俺は平気だから」
「本当に?」
「うん、本当。小遣い浮かすために、昼飯抜くのくらいざらだし」
 そう言う弘人は、確かに機嫌良さそうに、にこにこしている。
 素麺全部私が食べちゃったのに、どうしてこんなに嬉しそうなんだろう。
 よくわからないけど、許してもらえてよかったよね。うん。


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第五章

「それで用事って結局なんだったの?」
 私はそもそもの発端を思い出し、後片付けをしている弘人に問いかけた。
「……実はさ、お前に頼み事があるんだよ」
 湯沸かしポットや茶碗をロッカーにしまい込み、弘人は急に真面目な顔になった。
「ちょっとこっち来て」
 弘人がひょいひょいと部屋の奥のパソコンへ向かう。
「あ、俺の通った辺りを踏んで来てな」
 そうだ。この部屋の床は抜けかけてるんだっけ。
 私は弘人が通った床を慎重に追いかけ、辛うじてパソコンの前にたどり着く。
「とりあえず、ここ座って」
 弘人に促されて、私はパソコンの前の椅子に腰を下ろす。
 パソコンにはまだ電源が入っていないらしく、画面は真っ黒いままだ。
 私は何も映っていない画面を眺めた。
「ねぇ、弘人。私、パソコンのことなんか、ぜんぜんわからないよ?」
 頼み事の内容はまだ教えてくれない。
 でもパソコンを使って何かをするということは、どう見ても間違いないはずだ。
「わからなくていいんだ」
 弘人は私を残したまま、コンセントのある場所へ歩いていった。
 湯沸かしポットを使ったときに引き抜いたマルチタップのプラグを、コンセントに差し込み根本のスイッチを入れる。スイッチがオレンジ色に点灯する。
「別にパソコンの知識が必要なんじゃないから」
 弘人が私の隣に戻ってくる。
「お前がパソコン、というか機械音痴なのは昔からだしな」
 弘人がにやりと笑みを浮かべた。
「さっきっから弘人、私に喧嘩売ってる?」
 私は眉根を寄せる。馬鹿にされまくっている気がしないでもない。
「滅相もない。普通に話していますよ?」
 弘人がおどけて答える。
 まぁ、いつも通りの会話。
 弘人はパソコンの主電源を入れると、机の上にキーボードとマウスをセッティングした。
「これがキーボードで、こっちがマウスな」
「やっぱり喧嘩売ってるんだよね?」
「いえいえ。とんでもございません」
 機械音痴の私でも、キーボードやマウスぐらいはわかる。
 学校の授業でもさわりくらいは教わるし。
 ちなみにマウスパットが美少女キャラの絵なのは、気にしないことにしてあげた。
 私は何も見なかったように目線を離し、真っ黒だった画面を見つめ直した。
 黒い画面を背景に、何やら白い字で英語の文章が並んでいる。
 しばらくするとウィンドウズが起動する。
「で、これがウィンドウズのメイン画面」
「……」
 もう反応するのも馬鹿馬鹿しい。
 弘人も絶対わかっててやってる。
「そう拗ねるなよ。ここからが本番だからさ」
 弘人はデスクトップに並んだアイコンの一つで、『ARIS』と書かれているアイコンをダブルクリックした。
 カリカリとハードディスクの動く音がして、画面に小さなウィンドウが立ち上がる。
 そのウィンドウには、アイコンと同じように『ARIS』と表示されている。
「なぁに? これ?」
 私はまったく意味がわからなくて、弘人に問いかけた。
「俺が今作ってるプログラムなんだ」
「へぇー。すごいんだねぇ。プログラムとか作っちゃえるんだ」
 理解できてはいないけど、私は素直に感心した。
 何が起こるのかと、わくわくしながら画面を見続ける。
 数秒後『ARIS』のロゴが消え、今度は別の文章が表示された。

 

 

 それはカタカナの挨拶と、点滅を繰り返す三角形のマーク。そして謎の選択肢。
「弘人。これ……おかしいよ?」
 私は思わず呟いた。
「コンニチワはまだいいとしても、その答えがハイ・イイエって絶対変! というか意味わからない。いきなり何をしたいの? どうしたいの? 何なの?」
 続けざまにつっこみまくる。
「ま、まぁ落ち着けよ」
 弘人が苦笑いをしながら、私をなだめた。
「順を追って説明するからさ」
 説明ができるのなら、最初からそうして欲しい。
 私は弘人の顔を見つめて、口をへの字に曲げた。
「まずは、そうだなぁ……タイトルの説明からするかな」
「タイトル? 『ARIS』ってあれ?」
「そう、それ」
 弘人は、こほんと一つ、小さく咳払い。
「『ARIS』は、『AUTOMATIC・REAL・INTELLECT・SYSTEM』の頭文字を取って付けたタイトルなんだ。直訳すると『自動式現実知性情報処理機構』」
 弘人はとても誇らしげな顔で胸を張った。
 でも私には、何がそんなに誇らしいのか、さっぱりわからない。
「なんか難しくて、ちんぷんかんぷん」
 私はふくれっ面で文句を言う。
 すると弘人は少し考えて解説を付け加えた。
「要するにAIみたいなもんだよ」
「あ! わかった! ゲームで仲間が勝手に行動するやつね」
 最近はあまりゲームとかしないけど、昔は少し遊んだりしたこともある。
「うんうん。人工知能って言い換えればわかりやすいか」
「ちょっとわかった。じゃあこれって人工知能なんだ?」
「簡単に言えばそういうこと」
 ほえぇ。人工知能のプログラムとか、弘人ってもしかして天才?
 ただのオタクだと思ってたけど、意外にすごいのかもしれない。
 ……でも、ちょっと待って。
「弘人って英語の成績悪かったよね? さっきの難しい名前、正しい英語?」
 ふと気になって、私は弘人に問いかける。
「そこはスルーして」
「正しくないんだ?」
「正しいか正しくないかは問題じゃない。格好いいか格好悪いかが問題なんだ」
 弘人が真剣な顔で答えた。
 その表情があまりにも真剣すぎて、私は返す言葉を失った。
 ま、まぁ、ただのタイトルだし、これ以上は問い詰めないでおいてあげよう。
「とにかく。『ARIS』は人工知能のプログラムなんだよ。そこはいい?」
「はーい」
 私は素直に返事をした。
「けど、まだ作ったばかりだから、ぜんぜん学習してない状態なんだ」
「なるほど。だから文章が変なのね」
「そういうこと。あとは触りながら説明する。ちょっとやってみて」
 弘人は私にキーボードとマウスを勧めてきた。
「基本的には選択肢を選べばいいから。カーソルキーで三角を動かして、エンターキーで決定な。マウスを使う場合は、矢印を選びたい選択肢に合わせて左クリック」
「了解!」
 私はちょっと迷って、キーボードを手に取った。
 実はマウスって使い慣れてなくて、どうもうまく動かせないんだよね。
 キーボードだってロクに触ったことないんだけど、カーソルキーとエンターキーくらいなら、なんとか押せそうな気がする。
 私は緊張した面持ちで、画面の文章をもう一度読み直した。

 

 

 うーん。挨拶をされているわけだから、「ハイ」にすれば挨拶を返すことになるのかな。
 今現在、三角は「ハイ」のところにある。
 あとはエンターキーで決定すれば、「ハイ」を選んだことになるんだろう。
 私は人差し指でエンターキーをポンと軽く叩いた。
 カリカリカリ……プログラムが起動したときのように、ハードディスクの動く音がする。
 数秒待つと、前の文章が消えて新しい文章が表示された。

 

 

 やっぱりカタカナだけの文章だった。
 今度は選択肢が付いていない。
 三角の下には何も書かれてなくて、ただ三角が点滅を繰り返しているだけだ。
「えっと……僕の名前はアリスです。貴方のお名前は?……だって。アリスっていうんだ、この人工知能。って、僕ってことは男の子なの? この人工知能?」
 私は後ろに立っている弘人を振り返った。
「一応、男って設定でプログラムを組んである」
「ふぅん。アリスなんて、女の子みたいな名前なのね。あ、プログラムのタイトルか」
「そういうこと。だから深く考えないで進めて」
「はーい。んと、名前を聞かれたんだけど、どうすればいいのかな?」
「答えを入力する必要があるときは、キーボードで打ち込んで。日本語で普通に入れて大丈夫だから。名字と名前の間はスペースキーで一文字分空けといてな」
 弘人がさらりと説明する。
 簡単に言ってくれるなぁ。
 私はキーボードをじっと睨み付けた。
 確か日本語で入力するときは、ローマ字で入力しないといけないんだよね。
 ……あぁ、もう。
 なんでキーボードって「ABC順」で並んでないわけ?
 どこにどの文字があるか、さっぱりわからないんだけど。
 私は一文字一文字をゆっくり探し、見つかると人差し指でポンと軽く叩いた。
 自分の名前を全部入力するまで、その作業を必死に繰り返していく。
「さ・く・ら・い・お・と・め……桜井乙女と」
 数分がかりで、ようやく自分の名前を入力し終わった。
 ふぅ。充実した達成感。一仕事終えた気分。
「……お前、本当にパソコン苦手なのな」
 弘人が後ろで感心したように言った。
 人がせっかく良い気分だったのに、水を差すのは止めて欲しい。
「うるさーい。ダメなもんはダメなの!」
 私と弘人がそんな会話をしている間に、画面にはまた新しい文章が表示されていく。

 

 

「漢字! 漢字しゃべったよ、この子! すごくない?」
 私は自分の名前を文章中に見つけて、一気にテンションが上がった。
 思わずパチパチと手を叩き、歓声を上げて小躍りする。
「や、まぁ。お前がさっき入力したのを、そのまま表示してるだけだから」
 弘人の反応は意外とつまらない。
「それでもすごいよ。うふふー、アリス君かぁ。こちらこそ、よろしくね」
 私は少し慣れてきた手付きで、「ハイ」を選ぶエンターキーをポンと叩いた。
「それで、弘人が私に頼みたいことってこれなの?」
 弘人を振り返りながら、私は問いかけた。
「そそ。どうせ夏休み中、暇なんだろ? アリスの相手してやってくれよ」
「別にいいけど……何で私? 弘人が自分でやればよくない?」
「いやいや。俺が作ったパターンを俺がやっても面白くないだろ?」
 私は少し黙って考える。
 自分で作ったプログラムを自分で実行する。
 自分で作った料理を自分で食べるようなもんかな?
 それなら他の人にやってもらった方が、自分でやるよりいいのかもしれない。
「わかった。けっこう楽しいし、やれるだけやってみる!」
 私ははりきって、ディスプレイと向かい合った。
「助かるよ。他人の思考をプログラムに影響させたいっていうのもあるからさ」
 弘人がほっと安堵の吐息をもらす。
 んー、どういう意味だろう。
 私は弘人の言葉を反芻してみた。
 他人の思考をプログラムに影響させたい、とは。
 要するに私がやってると、人工知能が私の思考を学習するってこと?
 アリス君が私みたいに、腹ぺこキャラになっちゃうってこと?
 腹ぺこキャラを認めたわけじゃないよ。うん。例えばの話。
 私は自分の思いつきに、自分でフォローを入れる。妄想空間で。
 でもその例えばの話は、あんまりよろしくない気がする。
「……私なんかの思考じゃマズくない?」
 食べ物の話ばかりするアリス君を想像して、私は不安げに呟いた。
「マズくない、マズくない。だから気楽によろしく」
 弘人は笑いながら、隣の椅子に腰を下ろした。
 背もたれに寄りかかり、ゆったりと、私とパソコンの様子を観察している。
「しばらく好きにやってみてよ」
 弘人がにこにこと微笑んでいる。
「知らないよー、アリス君どうなっても」
 私はとりあえず、人工知能との会話を続けてみることにした。



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