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反原発のシンボル・広瀬隆が講演会で娘の自然食品店をPR


「どや顔」。関西弁で得意げになっている様をいう。福島第一原発事故以降、市民運動家、ジャーナリスト、作家を問わずどや顔で東京電力、政府、原子力行政を批判する面々が増加中だ。連日のように東京・有楽町の東京電力本店前では、反原発団体、市民による抗議集会が開かれ、そして福島原子力発電所事故対策統合本部の記者会見には多くの“ジャーナリスト”が押し寄せる。記者会見場で彼らが行うのは、
「質問」というよりも、むしろ「アジテーション」「演説」の類。時にはまるで部落解放同盟の行政交渉や自治労など労働組合の団交のように会見場が荒れることもあった。
 勇ましい言葉を東電社員や原子力安全・保安院の職員に投げるたびに「ユーストリーム」「ニコニコ動画」で視聴しているネットユーザーたちは狂喜する。そしてツイッターには「信奉者」がまるで「神託」が如く、その演説内容を拡散していく。確かに東京電力、原子力行政ともに追及されるべきであろう。ただ、だからと言ってどんな批判でも許されるのか。時には風説、デマも飛び交う。
 東日本大地震発生後、千葉県市原市のコスモ石油の製油所で火災が発生すると「コスモ石油の火災で舞い上がった有害物質と原発からの死の灰を避けるため、濡れないように」このようなデマがネット上をかけめぐる。
「福島から避難した静岡の病院で小学5年生が亡くなりました」5月に入るとこんな話がツイッター上で広まったが、もちろんこのような事実はない。面白いことにこれらデマを広めているのは、著名な文化人、ジャーナリストたちである。だが不思議なことにツイッター上では情報が奇異であればあるほど、むしろ信ぴょう性が高まり彼らの「信者」たちは熱狂して広めていくのだ。むしろ事態が暗転するほど、彼らの“どや顔”はより恍惚《こうこつ》感を増していく。そんな印象だ。
 そして今、最も“どや顔”を決めているのが、作家・広瀬《ひろせ》隆《たかし》氏かもしれない。『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』はベストセラーになり、80年代は「ヒロセタカシ現象」を起こし、反原発運動の旗手になった人物だ。福島第一原発事故以降、再び注目を浴び、そして目下、講演会は多数。著作も多く刊行されている。蘇った「ヒロセタカシ現象」である。とは言え彼の主張を真に受けていいものか。
 3月23日、東京・早稲田奉仕園スコットホールで「緊急報告会/広瀬隆・広河《ひろかわ》隆一《りゅういち》『福島原発で何が起こっているか?』」でのこと。福島第一原発事故の解説をした広瀬氏は、甲状腺がん予防のヨード剤が手に入りにくい、という話をした後、「酵母菌の入った生味噌がいい」といいと話を始め、なんとスライドで自分の娘が経営している自然食品の店を紹介したのだ。スライドで堂々と店の電話番号まで紹介しながら、「あとで娘に怒られる」「今のは忘れてください」という広瀬氏はまさしく“どや顔”。ドサクサまぎれに身内の店をアピールとは“商売”と言われても仕方がないところだ。
 これには古参の反原発運動家も眉をひそめる。
「高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏れ事件の際も情報公開や調査、そして裁判によって様々な新事実が出てきたが、それらはデータや地道な調査があってのこと。広瀬氏のような発言があると、反原発運動自体がうさん臭く思われてしまう。かつては座り込みの反対運動でも国労のゼッケンをつけてきた一派には“今日はそっちと違う”と言って参加を断ったこともあった。それくらい反原発運動は強い信念があったものだが、福島の一件以来、パフォーマンス化している」
 さらに勢いがつきそうな現在の「反原発運動」。事態が暗転するたびにむしろ”どや顔”をしそうな人が増殖しそうなのである。(三)


シリーズ「自演」 立花町連続差別ハガキ事件 第1回

 5月の初旬、取材陣は、福岡県|八女《やめ》市|立花町《たちばなまち》を訪れていた。さすがに九州だけのことはあり、関東から来た我々には5月とはいえ暑く感じられた。強い日差しの中、とぼとぼと矢部川の土手を歩く。矢部川というのは福岡県南部を流れる一級河川だ。土手沿いの道を下ると茶畑が広がる。暑いが決して不快ではない。これが「|薫風《くんぷう》」というのだろうか。時折、風が吹くと茶の香りがふわっと漂ってくるのが心地良い。あちこちに用水路が複雑に入り組んでおり、その近くには麦畑が広がっている。用水路をのぞくと小魚が勢いよく泳いでいた。思わず靴でも脱いでザブザブ川に入って遊びたくなる。なにやら井上陽水の『少年時代』とか大江千里の『夏の決心』がBGMで流れてきそうな風景だ。
 だが残念ながら我々がここに来た目的は、川遊びでもなければ、自然散策でもない。「立花町」この名でもうお目当てはお分かりだろう。立花町の元嘱託職員が起こした「差別ハガキ自作自演事件」、部落解放同盟側の表記だと「差別ハガキ偽造事件」の取材である。同事件については、まず2003年12月に旧八女郡立花町で発生した「立花町連続差別ハガキ事件」(事件の概略は別資料を参照)に遡《さかのぼ》る。ハガキは、同町教育委員会社会教育課に勤務していた部落解放同盟福岡県連合会立花支部員、熊本《くまもと》和彦《かずひこ》のもとに「立花町子ども育成会」を名乗る差出人から送付されてきた。
最初のハガキにはこのように書かれていた。

部落のあなたが、子どもを指導してくれますと、子どもに部落が伝わります。子どもを体験塾に参加させたいのですが参加させられません。社会教育課をやめてください

 部落解放同盟はこれを差別事件として問題視し、町ぐるみで取り組みが始まった。熊本は、学習会、講演会にも講師として登壇し、差別解消を訴えた。一嘱託職員で、末端の同盟員にすぎなかった熊本が一躍、ヒーローになり、そして部落差別の被害者としてスポットライトを浴びたのだった。その後もハガキは送られ続け合計44通も送られることになり、その都度、解放同盟は解放新聞に書きたて、2006年12月7日には県議会でも取り上げられた。立花町で起こった事件が、県全体の問題に発展していく。
 ところがこのハガキは熊本本人の「自演」だったことが判明する。そして熊本は2009年7月7日、偽計業務妨害罪で福岡県警に逮捕された。
 同事件は部落解放同盟にとって「人権救済法」を訴える上でも絶好の差別事例で、ハガキが送られるたびにそのボルテージも上がっていったが、それが「自演」だったのである。しかも身内の。“ハシゴを外される”そんなレベルではないだろう。約6年間も市民、行政、議会そして警察まで巻き込んできたわけだ。
 そして作家の髙山《たかやま》文彦《ふみひこ》も “ハシゴを外された”一人だ。髙山は松本治一郎の半生をつづった『水平記』の著者であり、部落解放同盟との関係も深い。穿《うが》った見方をすれば彼は同盟のスポークスマン、そんな印象さえある。彼もまたハガキ事件を「差別事例」として著書などで取り上げてきた。そして自演という結末…。
 熊本の逮捕からほぼ一年後、『週刊ポスト』(2010年8月20日)で髙山の連載が開始された。タイトルは『糾弾《きゅうだん》』。「差別ハガキ自作自演事件」を扱った記事である。当初、誰もが数回の連載で終わると思ったに違いない。ところがこの記事は同誌2011年5月20日号まで続けられた。考えてみれば不思議な記事だ。福岡の片田舎で起こった事件についてこう時間と誌面を割く必要はあるものだろうか。この連載の間、週刊ポストに限らず週刊誌メディアは、内閣官房機密費、検察庁問題、小沢一郎民主党元代表の政治資金問題、記者クラブ問題など政治関連のテーマに事欠かなかった。しかも東日本大地震、福島第一原発事故が発生すると、世間の関心は完全に「地震・原発」に集中することになる。ところが『糾弾』は続く。まるで髙山自身が「まだ言わせろ!」「私も解放運動も間違っていない」そんな怨念が記事全体に込められたかのようだ。週刊ポストの競合誌、『週刊現代』が中年のSEXを扱った記事で部数を伸ばしたこともあって、ポストも同様にSEXをテーマにした特集を組んだ。号によっては巻頭から突然、SEXシーンのマンガが出てくる時もあった。この体裁に、部落問題をテーマにした『糾弾』が掲載されるのだから、違和感を抱いた読者もいたかもしれない。
 部落解放同盟と対立する人権連、全日本同和会など他の運動体関係者、保守系の政治団体関係者に取材で接触するたびに必ず『糾弾』が話題になった。また、部落解放同盟員の中にも『糾弾』を疑問視する人もいた。おおむね彼らの意見は「解放同盟の釈明」「ただのキャンペーン記事」「モノトーンな同和地区像」といった感じで手厳しい。もちろん我々も同様の感想を持っていた。
 髙山は大宅《おおや》壮一《そういち》ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞の受賞歴を持つ著名な作家だ。世間一般にとってみれば彼の知名度も信頼度も高いだろう。だがここが問題だ。
 少し閑話《かんわ》。古代中国の思想家、韓非子《かんぴし》の思想にこんなものがある。斉王《さいおう》がある絵師に何を描くのが一番難しいのか問うた。絵師は「犬や猫」と答えた。次に王は何を描くのが易しいか問う。絵師は「妖怪」と答えた。絵師曰く「犬や猫は誰もがよく知っているから正確に書くのは難しい。だが妖怪は誰も見たことがないから何とでも描ける。だから易しい」このように説明したという。
 思うに立花町の同和地区で起こった事件など世間的にはそう大きな関心事ではない。ごく普通の読者は、同和地区がいかなるものか正確に理解できているとも思えない。そこに大作家と大手雑誌が描く「同和」と「差別」。はっきり言おう。彼らならば“いかようにも”描けるのだ。それゆえに、いかなる権威も持ち合わせない我々が、全く別の視点で事件を追うことには価値があるはずだ。
 一体、立花町で何が起き、何が自演に向かわせたのか、そして、どうして皆が騙《だま》されてしまったのか。行政、運動体、メディアに潜む「妖怪」を炙り出していこうと思う。


「週末社長」という裏の顔

 早朝の博多駅|筑紫《ちくし》口。取材陣はここで合流した。お互いに夜行バスで来たためどこか気だるい。取材でよく夜行バスを利用するが「東京-博多間」は、我々の間で通称“地獄バス”と呼ばれる。約18時間の車中はなかなか厳しいものがある。しかし、来た以上は目的を果たさなくてはならない。手配していたレンタカー店に行き、自動車を借り受け、八女市立花町に出発だ。
「こんなことでもない限り八女なんて来ないだろうな」
「そういえばホリエモン(堀江《ほりえ》貴文《たかふみ》・元ライブドア社長)も八女だよね」
 こんなことを言いながら博多から国道3号線をひた走った。黄砂のためか空は霞んではいるが、天気は快晴、どこに行ってもオレンジ色のヒナゲシの花が満開である。約1時間半もすると八女市に入った。後々、悩まされることになるが、差別ハガキ自演事件が発生した2003年は「八女郡立花町」。ところが昨年2月1日の市町村合併によって立花町は八女市に編入し、旧町の担当職員や文書の所在が曖昧になってしまった。このためわずか数日の取材なのに、市役所と旧町舎を何度も行き来することになる。

モスグリーンこと新矢部川大橋。国道3号線で旧立花町に入ったことを示すよい目印だ。

 八女市中心部を過ぎて約10分、見覚えのある橋が見えてきた。旧八女市と旧立花町の境界にある「新|矢部川《やべがわ》大橋」である。実はこの橋は「グーグルストリートビュー」でも見ることができるため、我々が目にするのは初めてではない。この橋は現在では珍しくなった「トラス橋」で非常に情緒を感じさせる。『糾弾』でも連載第一回でこの橋を象徴的に描写している。

 ようやく現在地がどこだがわかったのは、モスグリーンのレトロな鉄橋が霧の向こうからにじみ出るようにあらわしたからである。立花まで来ているのだな、と私は霧の奥の町並みを目に浮かべた 
 この鉄橋をはじめて渡ったのは、今年2月のはじめあった。以来、ひと月に2度から3度のペースで通いつめてきたので鉄橋は見慣れた風物になってはいたが、霧に幻惑されたせいか、このときばかりはなんとも言えぬ物悲しさをたたえたような風情に、しばしのあいだ言葉を失った。
 矢部川に架かるこの鉄橋を渡れば立花町である。矢部川が八女と立花を分ける境界なのだった。そして橋を渡ったらすぐに右に折れ、堤防沿いを少し行けば、通いなれたあのムラにたどり着く。

 我々の最初の目的地は、熊本和彦の自宅である。その場所を知るきっかけになったのは、インターネット上に未だに残っている、「【週末社長】で借金5000万円完済し年収6000万になった男のHP!」というホームページである。そこに「週末社長」である熊本の住所と電話番号が掲載されていたことから、熊本が逮捕されるとたちまち「2ちゃんねる」等で話題となった。
 ホームページには「【週末社長】で独立開業・・・本業をやめずに副収入!」「実は、ベンツに乗ってる【週末社長】なんです!」など、景気よく、そして怪しげな文言が並ぶ。果たして「週末社長」とは何なのか? ホームページの説明には「【週末社長】とは、「|Herbalife《ハーバライフ》」で独立開業した方です。」とある。ハーバライフ社のホームページの説明を読むと、健康食品や化粧品の販売会社であり、個人の販売員により商品を販売し、販売員に利益を分配するシステムとなっている。要はマルチ商法の会社である。つまり、これは熊本自身がプロバイダ等のホームページサービスを使って作成したものではなく、ハーバライフが宣伝のために熊本の名前を使って作成したホームページであることは明らかだ。嘱託職員でありながら、副業にも手を出していたわけである。しかし、我々にとっては、わざわざ自宅の場所を聞いて回る手間が省けたことはありがたかった。
『糾弾』によれば、「ムラ」は橋の右側にあるという。しかし、「週末社長」の住所は、橋よりも左側だ。「ムラ」がどのようなところか、もちろん興味はあるが、まずは本人に会うことを優先し、道なりに左側へ進んだ。
 ところで、我々が『糾弾』に違和感を覚える理由の1つが、『糾弾』には事件の現場となった「ムラ」の地名が全く出てこないことである。被差別部落の場所を明かすと、そこに住む人が特定され、差別の原因になるから――といったお決まりの言い訳は通用しない。前述の鉄橋のようなヒントを出されてしまえば、事件の現場である「ムラ」の場所を、地図から容易に特定することができるからだ。おそらくは、被差別部落の地名を出す行為を「部落地名総鑑だ」と抗議してきた団体のメンツ、それに従ってきたメディアの慣習といったものを守るためだろう。お役所言葉で言うところの「行政の継続性」を「前例踏襲の事なかれ主義」であるとメディアや運動体はしばしば批判する。しかし、それはそっくりそのまま彼らにも返ってくる。熊本の実名についても同様だ。『糾弾』では「山岡一郎」という仮名にされているが、熊本は事件中に講演会や出版物等で実名を公にしたため、もはや収集がつかないほど拡散してしまっており、今さら隠すことに意味はない。だから、実名を伏せようとする配慮は、本当の意味で誰かを守ろうというのではなく、単に「関係者の人権に配慮しましたよ」と言い訳するためのポーズに過ぎないと思えてしまうのだ。


福岡にあるもう1つの中洲


八女市役所立花支所(旧立花町役場)の駐車場脇にある看板。

 カーナビが示す「週末社長」の住所に着いた。ホームページの情報では、「週末社長」の所在地は「町営さくら台住宅」となっている。しかし、それらしい建物がどうしても見つからない。
 そんな我々がひとまず向かったのは、旧立花町役場、現在の八女市役所立花支所である。あいにく今日は日曜日なので、支所は静まり返っている。時折、ドライブの休憩と思しき人たちが敷地内のベンチで休んでいるくらい。こういう時にまず我々はいつも掲示板や看板や案内図に目を通す。そこに催しや、地域性、また時には部落解放同盟と行政の関係性、そんなものが垣間見える時もある。しかし、この八女市支所にはそれらしきものはない。だが立花町時代に作成したと思われる標語の看板があった。「人を大切にし差別を許さぬ明るい町を作りましょう」。西日本の自治体ならどこにでもありそうな文言だ。とは言え看板は日に焼けて色あせ、土埃《つちぼこり》にまみれ、ナメクジが這《は》った痕《あと》が何本も残っている。ある意味、この看板の汚れ具合が事件の風化を意味しているような気がした。正確に言うと、もうどうでもいい、もう忘れたい、なかったことにしたい、そんな思いの象徴でもあったと言えよう。
 我々は立花支所を起点に町内の散策を開始した。あまりの日差しに額がヒリヒリしてくる。帽子を持ってこれば良かったと後悔しつつ、トボトボと立花町めぐりが続く。しかし、この徒労の散歩も、あの事件の舞台となった地域を知るには非常に役に立った。
 現在地は「八女市立花町|山崎《やまさき》」(旧八女郡立花町大字山崎)。しかし、この山崎という地域は思いのほか広い。「ムラ」の場所も立花町山崎なら、そこからかなり離れたところにある市役所支所の住所表記も立花町山崎だ。山崎全体が同和地区というわけではなく、そのうちの一角が同和地区であろうことは容易に想像できた。『糾弾』にはこうある。

 はじめて案内してくれたのは、部落解放同盟筑後地区協議会の組坂《くみさか》幸喜《こうき》書記長だった。その古風な鉄橋にさしかかったとき、ムラの人から聞いたというこんな話を彼はしてくれた。
「どこの部落の人間にも似たような傾向があるんですが、ここのムラの人たちも、どこか近くの町で会合があって、遅くなって相乗りしてタクシーで帰って来るとき、この橋を渡り終えたら右に曲がってもらえばいいのに、ここでいいからと渡ったところで下ろしてもらうと言うんですね。タクシーが見えなくなるまでその場に立って、そうしてすっかり見えなくなってからやっと自分のムラへ帰っていく。僕にはその気持ちが分かるんです。どこに住んでいるのか、人に知られたくないんです」

 この話をした組坂幸喜書記長。この名を聞いてすぐにお分かりだろう。組坂|繁之《しげゆき》部落解放同盟中央本部執行委員長の親戚で、地元では極真空手の師範としても活動しており、青少年の指導の実績が認められ書記長になったそうだ。
 それにしても、このような地方の片田舎だ。どこの家にも自家用車はあるはずなのに、タクシーで相乗りをするという状況がどうしてもイメージできない。仮に会合で酒を飲むとしても、同じ「ムラ」の誰かがハンドルキーパーを引き受けるか、家族に送ってもらうか、代行を頼めばすむ話だ。しかも、『糾弾』にはこんな記述がある。

 そのムラのほとんどの住民はふたつの姓のどちらかを名乗っている。ムラの名前とともにどちらかの姓を告げようものなら、八女地方の人にはすぐにそれと知れてしまう。だから彼らのほとんどは出身を訊かれないように寡黙なふりをとおし、土木現場で飯を食うときなど人の輪から離れて飯を食ってきた。

 姓でそのムラの住人だと分かってしまうのなら、タクシーを見送ってまでムラの出身であると隠そうとするものだろうか。
 現地に来て分かったことであるが、「どちらかの姓を告げようものなら、八女地方の人にはすぐにそれと知れてしまう」ということに関しては誤りだ。『糾弾』では2つの姓を、日本人にはよくある「佐藤」「鈴木」という姓に置き換えているが、現地に来ればそれぞれ「牛島《うしじま》」と「上嶋《うえしま》」(あるいは「上島」)であることがすぐに分かる。しかし、我々は八女市内に入ってから「牛島商店」「牛島自動車」にように「牛島」の姓が入った看板をいくつも見かけた。
 八女市の電話帳で確認してみると、牛島姓は旧立花町も含め、八女地域ではありふれた姓である。住所を見ると、市内各所に散らばっている。上嶋または上島姓は、牛島よりは少なく、確かに立花町山崎に多い。確かに八女地域で上嶋または上島と言えば同和が多いということになるのかも知れないが、立花町山崎以外、あるいは立花町山崎でも『糾弾』で示される「ムラ」の外にもそれなりにある。そして、少なくとも牛島姓に関しては『糾弾』に書かれていたことは完全に嘘である。後で地元の方にこの点について聞いてみたのだが、「まあ髙山さんがそう思ったからそう書いたのだろう」といった反応であった。
 おそらく、これも『糾弾』に違和感を覚える理由だ。同和地区の悲壮感を演出するが、そこには誇張や、事実の歪曲がある。解放同盟員が差別事件を自作自演して逮捕されたことによる解放運動の権威の失墜に対して、再び差別を強調して世間の同情を買うことで、バランスを取ろうとする意図が見えてしまうのだ。それが皮肉にも、自ら差別事件の被害者となることで同情を買った熊本の行為と重なってしまう。
 鉄橋の左側に、我々は驚くべきものを目にした。それは、「上嶋商店肥料流通センター」という看板が掲げられた大きな倉庫のような建物である。『糾弾』では「鈴木商店」とされている会社の建物だ。
 企業情報等を発信しているデータマックス社のニュースサイト、Net IB Newsには「スーパーゼネコンレポート」として、この「株式会社上嶋商店」に関するレポートが掲載されている。それによれば、事業内容は有機質肥料製造販売、年商は8億4800万円、「茶の一大産地である地元八女の茶畑向けや地元立花みかんの農家向けに有機質肥料を製造販売。地元からは決算数値以上の好評価を受けており、代表の個人資産も厚い」とある。驚くほどの優良企業だ。これほどの企業の経営者なら、さぞ立派な邸宅に住んでいるに違いない。
 それはともかく、どうしても「さくら台住宅」の場所が分からないので、通りがかりの住民に聞いてみると、「さくら台と言えばあっち」と、橋のある道路の向こう側を指さした。そこは「ムラ」があるという鉄橋の右側である。ホームページの住所とちがうのにと、釈然としない思いを抱きつつ、その方向に行ってみると、3棟の真新しい団地が現れた。
「これだ、間違いない!」そう思い、部屋番号を探すが見つからない。そんなことをしながら正面の入り口を見ると「山崎住宅」と書かれたプレートがある。ここは「さくら台住宅」ではないようだ。
 隣には、立花町隣保館がある。ここは、部落解放同盟福岡県連立花支部の事務所でもあった。隣保館の前には「よかとこ光友《みつとも》MAP」という案内板があり、隣保館の管轄地域である光友小学校区内の小字名と人口が細かく書かれていた。全国的には小字は廃れつつあるが、なぜか福岡では小字があたりまえのように使われているところが多い。町を散策すると、大きな地図では分からないが地元ではおなじみと思われる小字名が書かれた案内板をあちこちで目にする。中には難しい地名もあり、何と読めばよいのか戸惑うこともあるが、数字で何丁目といった無機質的な表記よりは、風情があっていい。


隣保館の管轄地域を示す地図。

 矢部川と用水に挟まれた「ムラ」は「中洲」と呼ばれている。福岡市内の有名な繁華街「中洲」とは大きく様相が異なるがここももう一つの中洲なのだ。そこで、「ムラ」とか「同和地区」とか「被差別部落」と呼ぶのではなく、これからはちゃんとした名前である「中洲」と呼ぶことにしよう。
 この地図を見ると、中洲が同和地区指定され、同和対策事業が行われた理由がよく分かる。ここは文字通り矢部川の中洲にあり、素人目にもよく分かる水害の危険地帯なのだ。中洲の集落はもともと鉄橋の左側、前述の上嶋商店の付近にあったものが、1997年から2003年にかけて現在の場所に移転してきた。現在の場所も川の中洲には変りないのだが、盛土で3メートルほど底上げしてあるという。我々も通ってきたが、以前の中洲はもっと低く、本当に川の中洲そのものといった場所だ。たとえここが「被差別部落」でなかったとしても、移転せざるを得なかったであろう。住民の生命と財産を水害から守るために。
 それにしても『糾弾』で書かれる「ムラ」のイメージは現在の中洲とかけ離れている。山崎住宅は都会の真ん中にあってもおかしくないような、綺麗な団地だ。団地には大きな駐車場があって、公園も設置されている。駐車場には、高級なセダンやSUVが止まっている。なぜかクラウンが多いのはどうしてだろうか。
 山崎住宅周辺の住民にさくら台住宅の所在地を尋ねてみたが、知らないという。そこで、スマートフォンで八女市役所のホームページにアクセスし、さくら台住宅の場所が書かれていないか調べてみると、「週末社長」の住所とは全く別の場所だった。単にホームページに書かれた住所が間違っていたのである。


もう1つの「ムラ」の姿


矢部川堤防からさくら台住宅を見下ろす。

 目標のさくら台住宅は、山崎住宅から矢部川沿いに、さらに西に行ったところだった。結局、『糾弾』の記述にある通り“モスグリーン”こと新矢部川大橋を右に曲がる、これに従えば良かったのである。
 山崎住宅からすぐ北側の土手に上がり、西へ行く。そしてついにさくら台住宅に到着した。そして、我々は土手から見下ろした風景に思わず嘆息《たんそく》し、脱力感を覚えた。
 土手から望むさくら台住宅。絵に描いたような二戸一《ニコイチ》が立ち並ぶ。ただちょっと異質感も漂った。我々は、関西地方でも多くの二戸一を見てきた。それらは老朽化して場合によっては、味わいがあったりしたもの。“人が住む”そして“人が生きる”、何か一種の生命力に満ちていたものだ。しかしこのさくら台住宅のそれは、そこそこ新しく、オシャレ感もある。だからこそ醸《かも》し出される無機質さ。一体、どんな整備計画でこの住宅群を作ったのだろうか。解放同盟も、行政も、表向きには同和地区を隠そうとする。でもどうだろう。このさくら台住宅は、これみよがしな同和住宅だ。
 地元の方には失礼と知りつつ、率直な感想を書く。鳥取ループの頭にまっさきに浮かんだのが、戦時中にアメリカで作られた「日系人収容所」の写真だ。余裕のある土地に整然と並べられた住宅は、それにそっくりだった。はっきり言えば、まるで「ゲットー」。この言葉が相応しい。そして、三品純はこう考える。もし私に娘がいたとしよう。彼女がこの家の出身者に嫁ぎたい、と言ったら、反対とまで言わなくても訝《いぶか》しく思うかもしれない。孫の顔を見に行く、そんな気も起こらないかもしれない。それは「部落差別」と言う理由ではない。この無機質感に対する抵抗だ。なぜ改良住宅を作るにしてもこのような形式をとったのか理解に苦しむ。
 我々は土手から坂道を下りた。その途中、道の脇や畑、広場に紫色の美しい芥子《けし》の花が何本か咲いていた。ここから熊本宅を訪問するのは簡単だった。早速家のチャイムを鳴らす。少しドキドキしてきた。自演事件を起こした熊本とはどのような人物なのだろうか。今までの取材の経験上、たいていこのような時はドヤされて追い返されるオチだ。まあある意味では、ドヤされに行っているようなものだが、我々の直撃に対してどんな反応をしてくれるのだろう。
「はい」と言ってドアが開いた。それは、彼の息子だった。
「あの、熊本和彦さんはおいででしょうか」
「いえ今、いません」
「お帰りは?」
「分かりません」
 これだけのやり取りだった。が、ショックだったのは、熊本がまだ家族と住んでいることだ。自分の夫、そして父が、自演ハガキを書いたのだ。父親は差別ハガキによって一時期、部落民の英雄になった。一介の嘱託職員が「講師」の肩書まで得るまでになった。そして見事なまでの転落。この一家は僅《わず》かな間の栄枯盛衰に立ち会っていたのだ。ある意味では、この息子も全てを知る一人なのだろう。それ以上に、そもそもまだここに住んでいることも驚きだった。
 さて当初、我々取材陣は、いまだに解放同盟から糾弾されている熊本に同情的でもあった。彼は事件のスケープゴートに使われているのではないか。そんな思いもあった。なぜならこのような「自演事件」は他でも事例があって、これは運動体の体質が引き起こすものであり、その体質を熊本個人に転嫁しても無意味だ。だからどうしても熊本からの説明を聞きたい。彼を自演に仕向けたものは何か、を語ってほしかった。とにかく、どこかで時間をつぶして彼の帰宅を待とう、そう思った。
 その前に、我々はさくら台住宅の近くをしばらく散策した。2列に連なるさくら台住宅の横には、持ち家と思われる住宅が、これもまた2列連なっていた。こちらはさくら台住宅とは対照的に、都会の高級住宅地にあっても不思議ではない立派な家が多い。中にはどう見ても「豪邸」と言える家もあった。我々は、これがいわゆる“同和御殿”なのかと早とちりするところだったが、その表札を見て我々は納得した、前述の上嶋商店の経営者のお宅である。
 これが『糾弾』に描かれた「被差別部落」のもう1つの側面だ。1970年代以降、部落解放運動の基盤になった命題に「部落と部落民にとって不利益な問題は全て差別である」というものがある。これは、提唱した人物の名前から「朝田理論」と呼ばれ、しばしば部落解放同盟の対立団体などから批判される。当然、我々もその考えには疑問を持つ。
 部落問題を扱う文献には「差別」という言葉がいくつも出てくる。『糾弾』も例外ではない。部落が豊かになれないのも差別、部落に住みたがらないのも差別、部落民と結婚したがらないのも差別、そして差別事件を自作自演することも差別だ。とにかく、どんな問題も「差別」の2文字に凝縮してしまえば、それで片付いてしまう。「部落民」からそう言われてしまえば誰も正面きって反論しない。行政も「おっしゃる通り差別ですね、それでは何とかいたしましょう」と動き始める。
 それは一見問題解決の手段として有効そうに見えるが、本当の問題を覆い隠しているように思えるのだ。少なくとも、現在の中洲という地域は貧困と差別が同居するという、モノトーンな同和地区像が当てはまる地域ではない。「立花町山崎の上嶋だ!」と堂々と看板を出して商売をしても、十分に成功できる素地がある。一方で、差別とは別の問題もある。底上げされているとはいえ、川の中洲に好んで居を構えたいとは正直思わない。だからと言って、今の住民にしてみれば、ちりぢりになってまで住み慣れた中洲から外に出ていくことも好まないだろう。地理的な問題は、良かれ悪かれ地域の特性として受け入れるしかない。しかし、整然と並ぶ二戸一住宅に関しては、もっと自然な景観を保つ方法があったのではないかと思う。その点は追求したいところだ。
 中洲から出発する直前、どうしても先ほどの芥子の花が気になった。我々はそれらを写真に収めた後、ひとまず資料収集のために図書館へと向かった。



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