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「週末社長」という裏の顔

 早朝の博多駅|筑紫《ちくし》口。取材陣はここで合流した。お互いに夜行バスで来たためどこか気だるい。取材でよく夜行バスを利用するが「東京-博多間」は、我々の間で通称“地獄バス”と呼ばれる。約18時間の車中はなかなか厳しいものがある。しかし、来た以上は目的を果たさなくてはならない。手配していたレンタカー店に行き、自動車を借り受け、八女市立花町に出発だ。
「こんなことでもない限り八女なんて来ないだろうな」
「そういえばホリエモン(堀江《ほりえ》貴文《たかふみ》・元ライブドア社長)も八女だよね」
 こんなことを言いながら博多から国道3号線をひた走った。黄砂のためか空は霞んではいるが、天気は快晴、どこに行ってもオレンジ色のヒナゲシの花が満開である。約1時間半もすると八女市に入った。後々、悩まされることになるが、差別ハガキ自演事件が発生した2003年は「八女郡立花町」。ところが昨年2月1日の市町村合併によって立花町は八女市に編入し、旧町の担当職員や文書の所在が曖昧になってしまった。このためわずか数日の取材なのに、市役所と旧町舎を何度も行き来することになる。

モスグリーンこと新矢部川大橋。国道3号線で旧立花町に入ったことを示すよい目印だ。

 八女市中心部を過ぎて約10分、見覚えのある橋が見えてきた。旧八女市と旧立花町の境界にある「新|矢部川《やべがわ》大橋」である。実はこの橋は「グーグルストリートビュー」でも見ることができるため、我々が目にするのは初めてではない。この橋は現在では珍しくなった「トラス橋」で非常に情緒を感じさせる。『糾弾』でも連載第一回でこの橋を象徴的に描写している。

 ようやく現在地がどこだがわかったのは、モスグリーンのレトロな鉄橋が霧の向こうからにじみ出るようにあらわしたからである。立花まで来ているのだな、と私は霧の奥の町並みを目に浮かべた 
 この鉄橋をはじめて渡ったのは、今年2月のはじめあった。以来、ひと月に2度から3度のペースで通いつめてきたので鉄橋は見慣れた風物になってはいたが、霧に幻惑されたせいか、このときばかりはなんとも言えぬ物悲しさをたたえたような風情に、しばしのあいだ言葉を失った。
 矢部川に架かるこの鉄橋を渡れば立花町である。矢部川が八女と立花を分ける境界なのだった。そして橋を渡ったらすぐに右に折れ、堤防沿いを少し行けば、通いなれたあのムラにたどり着く。

 我々の最初の目的地は、熊本和彦の自宅である。その場所を知るきっかけになったのは、インターネット上に未だに残っている、「【週末社長】で借金5000万円完済し年収6000万になった男のHP!」というホームページである。そこに「週末社長」である熊本の住所と電話番号が掲載されていたことから、熊本が逮捕されるとたちまち「2ちゃんねる」等で話題となった。
 ホームページには「【週末社長】で独立開業・・・本業をやめずに副収入!」「実は、ベンツに乗ってる【週末社長】なんです!」など、景気よく、そして怪しげな文言が並ぶ。果たして「週末社長」とは何なのか? ホームページの説明には「【週末社長】とは、「|Herbalife《ハーバライフ》」で独立開業した方です。」とある。ハーバライフ社のホームページの説明を読むと、健康食品や化粧品の販売会社であり、個人の販売員により商品を販売し、販売員に利益を分配するシステムとなっている。要はマルチ商法の会社である。つまり、これは熊本自身がプロバイダ等のホームページサービスを使って作成したものではなく、ハーバライフが宣伝のために熊本の名前を使って作成したホームページであることは明らかだ。嘱託職員でありながら、副業にも手を出していたわけである。しかし、我々にとっては、わざわざ自宅の場所を聞いて回る手間が省けたことはありがたかった。
『糾弾』によれば、「ムラ」は橋の右側にあるという。しかし、「週末社長」の住所は、橋よりも左側だ。「ムラ」がどのようなところか、もちろん興味はあるが、まずは本人に会うことを優先し、道なりに左側へ進んだ。
 ところで、我々が『糾弾』に違和感を覚える理由の1つが、『糾弾』には事件の現場となった「ムラ」の地名が全く出てこないことである。被差別部落の場所を明かすと、そこに住む人が特定され、差別の原因になるから――といったお決まりの言い訳は通用しない。前述の鉄橋のようなヒントを出されてしまえば、事件の現場である「ムラ」の場所を、地図から容易に特定することができるからだ。おそらくは、被差別部落の地名を出す行為を「部落地名総鑑だ」と抗議してきた団体のメンツ、それに従ってきたメディアの慣習といったものを守るためだろう。お役所言葉で言うところの「行政の継続性」を「前例踏襲の事なかれ主義」であるとメディアや運動体はしばしば批判する。しかし、それはそっくりそのまま彼らにも返ってくる。熊本の実名についても同様だ。『糾弾』では「山岡一郎」という仮名にされているが、熊本は事件中に講演会や出版物等で実名を公にしたため、もはや収集がつかないほど拡散してしまっており、今さら隠すことに意味はない。だから、実名を伏せようとする配慮は、本当の意味で誰かを守ろうというのではなく、単に「関係者の人権に配慮しましたよ」と言い訳するためのポーズに過ぎないと思えてしまうのだ。


福岡にあるもう1つの中洲


八女市役所立花支所(旧立花町役場)の駐車場脇にある看板。

 カーナビが示す「週末社長」の住所に着いた。ホームページの情報では、「週末社長」の所在地は「町営さくら台住宅」となっている。しかし、それらしい建物がどうしても見つからない。
 そんな我々がひとまず向かったのは、旧立花町役場、現在の八女市役所立花支所である。あいにく今日は日曜日なので、支所は静まり返っている。時折、ドライブの休憩と思しき人たちが敷地内のベンチで休んでいるくらい。こういう時にまず我々はいつも掲示板や看板や案内図に目を通す。そこに催しや、地域性、また時には部落解放同盟と行政の関係性、そんなものが垣間見える時もある。しかし、この八女市支所にはそれらしきものはない。だが立花町時代に作成したと思われる標語の看板があった。「人を大切にし差別を許さぬ明るい町を作りましょう」。西日本の自治体ならどこにでもありそうな文言だ。とは言え看板は日に焼けて色あせ、土埃《つちぼこり》にまみれ、ナメクジが這《は》った痕《あと》が何本も残っている。ある意味、この看板の汚れ具合が事件の風化を意味しているような気がした。正確に言うと、もうどうでもいい、もう忘れたい、なかったことにしたい、そんな思いの象徴でもあったと言えよう。
 我々は立花支所を起点に町内の散策を開始した。あまりの日差しに額がヒリヒリしてくる。帽子を持ってこれば良かったと後悔しつつ、トボトボと立花町めぐりが続く。しかし、この徒労の散歩も、あの事件の舞台となった地域を知るには非常に役に立った。
 現在地は「八女市立花町|山崎《やまさき》」(旧八女郡立花町大字山崎)。しかし、この山崎という地域は思いのほか広い。「ムラ」の場所も立花町山崎なら、そこからかなり離れたところにある市役所支所の住所表記も立花町山崎だ。山崎全体が同和地区というわけではなく、そのうちの一角が同和地区であろうことは容易に想像できた。『糾弾』にはこうある。

 はじめて案内してくれたのは、部落解放同盟筑後地区協議会の組坂《くみさか》幸喜《こうき》書記長だった。その古風な鉄橋にさしかかったとき、ムラの人から聞いたというこんな話を彼はしてくれた。
「どこの部落の人間にも似たような傾向があるんですが、ここのムラの人たちも、どこか近くの町で会合があって、遅くなって相乗りしてタクシーで帰って来るとき、この橋を渡り終えたら右に曲がってもらえばいいのに、ここでいいからと渡ったところで下ろしてもらうと言うんですね。タクシーが見えなくなるまでその場に立って、そうしてすっかり見えなくなってからやっと自分のムラへ帰っていく。僕にはその気持ちが分かるんです。どこに住んでいるのか、人に知られたくないんです」

 この話をした組坂幸喜書記長。この名を聞いてすぐにお分かりだろう。組坂|繁之《しげゆき》部落解放同盟中央本部執行委員長の親戚で、地元では極真空手の師範としても活動しており、青少年の指導の実績が認められ書記長になったそうだ。
 それにしても、このような地方の片田舎だ。どこの家にも自家用車はあるはずなのに、タクシーで相乗りをするという状況がどうしてもイメージできない。仮に会合で酒を飲むとしても、同じ「ムラ」の誰かがハンドルキーパーを引き受けるか、家族に送ってもらうか、代行を頼めばすむ話だ。しかも、『糾弾』にはこんな記述がある。

 そのムラのほとんどの住民はふたつの姓のどちらかを名乗っている。ムラの名前とともにどちらかの姓を告げようものなら、八女地方の人にはすぐにそれと知れてしまう。だから彼らのほとんどは出身を訊かれないように寡黙なふりをとおし、土木現場で飯を食うときなど人の輪から離れて飯を食ってきた。

 姓でそのムラの住人だと分かってしまうのなら、タクシーを見送ってまでムラの出身であると隠そうとするものだろうか。
 現地に来て分かったことであるが、「どちらかの姓を告げようものなら、八女地方の人にはすぐにそれと知れてしまう」ということに関しては誤りだ。『糾弾』では2つの姓を、日本人にはよくある「佐藤」「鈴木」という姓に置き換えているが、現地に来ればそれぞれ「牛島《うしじま》」と「上嶋《うえしま》」(あるいは「上島」)であることがすぐに分かる。しかし、我々は八女市内に入ってから「牛島商店」「牛島自動車」にように「牛島」の姓が入った看板をいくつも見かけた。
 八女市の電話帳で確認してみると、牛島姓は旧立花町も含め、八女地域ではありふれた姓である。住所を見ると、市内各所に散らばっている。上嶋または上島姓は、牛島よりは少なく、確かに立花町山崎に多い。確かに八女地域で上嶋または上島と言えば同和が多いということになるのかも知れないが、立花町山崎以外、あるいは立花町山崎でも『糾弾』で示される「ムラ」の外にもそれなりにある。そして、少なくとも牛島姓に関しては『糾弾』に書かれていたことは完全に嘘である。後で地元の方にこの点について聞いてみたのだが、「まあ髙山さんがそう思ったからそう書いたのだろう」といった反応であった。
 おそらく、これも『糾弾』に違和感を覚える理由だ。同和地区の悲壮感を演出するが、そこには誇張や、事実の歪曲がある。解放同盟員が差別事件を自作自演して逮捕されたことによる解放運動の権威の失墜に対して、再び差別を強調して世間の同情を買うことで、バランスを取ろうとする意図が見えてしまうのだ。それが皮肉にも、自ら差別事件の被害者となることで同情を買った熊本の行為と重なってしまう。
 鉄橋の左側に、我々は驚くべきものを目にした。それは、「上嶋商店肥料流通センター」という看板が掲げられた大きな倉庫のような建物である。『糾弾』では「鈴木商店」とされている会社の建物だ。
 企業情報等を発信しているデータマックス社のニュースサイト、Net IB Newsには「スーパーゼネコンレポート」として、この「株式会社上嶋商店」に関するレポートが掲載されている。それによれば、事業内容は有機質肥料製造販売、年商は8億4800万円、「茶の一大産地である地元八女の茶畑向けや地元立花みかんの農家向けに有機質肥料を製造販売。地元からは決算数値以上の好評価を受けており、代表の個人資産も厚い」とある。驚くほどの優良企業だ。これほどの企業の経営者なら、さぞ立派な邸宅に住んでいるに違いない。
 それはともかく、どうしても「さくら台住宅」の場所が分からないので、通りがかりの住民に聞いてみると、「さくら台と言えばあっち」と、橋のある道路の向こう側を指さした。そこは「ムラ」があるという鉄橋の右側である。ホームページの住所とちがうのにと、釈然としない思いを抱きつつ、その方向に行ってみると、3棟の真新しい団地が現れた。
「これだ、間違いない!」そう思い、部屋番号を探すが見つからない。そんなことをしながら正面の入り口を見ると「山崎住宅」と書かれたプレートがある。ここは「さくら台住宅」ではないようだ。
 隣には、立花町隣保館がある。ここは、部落解放同盟福岡県連立花支部の事務所でもあった。隣保館の前には「よかとこ光友《みつとも》MAP」という案内板があり、隣保館の管轄地域である光友小学校区内の小字名と人口が細かく書かれていた。全国的には小字は廃れつつあるが、なぜか福岡では小字があたりまえのように使われているところが多い。町を散策すると、大きな地図では分からないが地元ではおなじみと思われる小字名が書かれた案内板をあちこちで目にする。中には難しい地名もあり、何と読めばよいのか戸惑うこともあるが、数字で何丁目といった無機質的な表記よりは、風情があっていい。


隣保館の管轄地域を示す地図。

 矢部川と用水に挟まれた「ムラ」は「中洲」と呼ばれている。福岡市内の有名な繁華街「中洲」とは大きく様相が異なるがここももう一つの中洲なのだ。そこで、「ムラ」とか「同和地区」とか「被差別部落」と呼ぶのではなく、これからはちゃんとした名前である「中洲」と呼ぶことにしよう。
 この地図を見ると、中洲が同和地区指定され、同和対策事業が行われた理由がよく分かる。ここは文字通り矢部川の中洲にあり、素人目にもよく分かる水害の危険地帯なのだ。中洲の集落はもともと鉄橋の左側、前述の上嶋商店の付近にあったものが、1997年から2003年にかけて現在の場所に移転してきた。現在の場所も川の中洲には変りないのだが、盛土で3メートルほど底上げしてあるという。我々も通ってきたが、以前の中洲はもっと低く、本当に川の中洲そのものといった場所だ。たとえここが「被差別部落」でなかったとしても、移転せざるを得なかったであろう。住民の生命と財産を水害から守るために。
 それにしても『糾弾』で書かれる「ムラ」のイメージは現在の中洲とかけ離れている。山崎住宅は都会の真ん中にあってもおかしくないような、綺麗な団地だ。団地には大きな駐車場があって、公園も設置されている。駐車場には、高級なセダンやSUVが止まっている。なぜかクラウンが多いのはどうしてだろうか。
 山崎住宅周辺の住民にさくら台住宅の所在地を尋ねてみたが、知らないという。そこで、スマートフォンで八女市役所のホームページにアクセスし、さくら台住宅の場所が書かれていないか調べてみると、「週末社長」の住所とは全く別の場所だった。単にホームページに書かれた住所が間違っていたのである。


もう1つの「ムラ」の姿


矢部川堤防からさくら台住宅を見下ろす。

 目標のさくら台住宅は、山崎住宅から矢部川沿いに、さらに西に行ったところだった。結局、『糾弾』の記述にある通り“モスグリーン”こと新矢部川大橋を右に曲がる、これに従えば良かったのである。
 山崎住宅からすぐ北側の土手に上がり、西へ行く。そしてついにさくら台住宅に到着した。そして、我々は土手から見下ろした風景に思わず嘆息《たんそく》し、脱力感を覚えた。
 土手から望むさくら台住宅。絵に描いたような二戸一《ニコイチ》が立ち並ぶ。ただちょっと異質感も漂った。我々は、関西地方でも多くの二戸一を見てきた。それらは老朽化して場合によっては、味わいがあったりしたもの。“人が住む”そして“人が生きる”、何か一種の生命力に満ちていたものだ。しかしこのさくら台住宅のそれは、そこそこ新しく、オシャレ感もある。だからこそ醸《かも》し出される無機質さ。一体、どんな整備計画でこの住宅群を作ったのだろうか。解放同盟も、行政も、表向きには同和地区を隠そうとする。でもどうだろう。このさくら台住宅は、これみよがしな同和住宅だ。
 地元の方には失礼と知りつつ、率直な感想を書く。鳥取ループの頭にまっさきに浮かんだのが、戦時中にアメリカで作られた「日系人収容所」の写真だ。余裕のある土地に整然と並べられた住宅は、それにそっくりだった。はっきり言えば、まるで「ゲットー」。この言葉が相応しい。そして、三品純はこう考える。もし私に娘がいたとしよう。彼女がこの家の出身者に嫁ぎたい、と言ったら、反対とまで言わなくても訝《いぶか》しく思うかもしれない。孫の顔を見に行く、そんな気も起こらないかもしれない。それは「部落差別」と言う理由ではない。この無機質感に対する抵抗だ。なぜ改良住宅を作るにしてもこのような形式をとったのか理解に苦しむ。
 我々は土手から坂道を下りた。その途中、道の脇や畑、広場に紫色の美しい芥子《けし》の花が何本か咲いていた。ここから熊本宅を訪問するのは簡単だった。早速家のチャイムを鳴らす。少しドキドキしてきた。自演事件を起こした熊本とはどのような人物なのだろうか。今までの取材の経験上、たいていこのような時はドヤされて追い返されるオチだ。まあある意味では、ドヤされに行っているようなものだが、我々の直撃に対してどんな反応をしてくれるのだろう。
「はい」と言ってドアが開いた。それは、彼の息子だった。
「あの、熊本和彦さんはおいででしょうか」
「いえ今、いません」
「お帰りは?」
「分かりません」
 これだけのやり取りだった。が、ショックだったのは、熊本がまだ家族と住んでいることだ。自分の夫、そして父が、自演ハガキを書いたのだ。父親は差別ハガキによって一時期、部落民の英雄になった。一介の嘱託職員が「講師」の肩書まで得るまでになった。そして見事なまでの転落。この一家は僅《わず》かな間の栄枯盛衰に立ち会っていたのだ。ある意味では、この息子も全てを知る一人なのだろう。それ以上に、そもそもまだここに住んでいることも驚きだった。
 さて当初、我々取材陣は、いまだに解放同盟から糾弾されている熊本に同情的でもあった。彼は事件のスケープゴートに使われているのではないか。そんな思いもあった。なぜならこのような「自演事件」は他でも事例があって、これは運動体の体質が引き起こすものであり、その体質を熊本個人に転嫁しても無意味だ。だからどうしても熊本からの説明を聞きたい。彼を自演に仕向けたものは何か、を語ってほしかった。とにかく、どこかで時間をつぶして彼の帰宅を待とう、そう思った。
 その前に、我々はさくら台住宅の近くをしばらく散策した。2列に連なるさくら台住宅の横には、持ち家と思われる住宅が、これもまた2列連なっていた。こちらはさくら台住宅とは対照的に、都会の高級住宅地にあっても不思議ではない立派な家が多い。中にはどう見ても「豪邸」と言える家もあった。我々は、これがいわゆる“同和御殿”なのかと早とちりするところだったが、その表札を見て我々は納得した、前述の上嶋商店の経営者のお宅である。
 これが『糾弾』に描かれた「被差別部落」のもう1つの側面だ。1970年代以降、部落解放運動の基盤になった命題に「部落と部落民にとって不利益な問題は全て差別である」というものがある。これは、提唱した人物の名前から「朝田理論」と呼ばれ、しばしば部落解放同盟の対立団体などから批判される。当然、我々もその考えには疑問を持つ。
 部落問題を扱う文献には「差別」という言葉がいくつも出てくる。『糾弾』も例外ではない。部落が豊かになれないのも差別、部落に住みたがらないのも差別、部落民と結婚したがらないのも差別、そして差別事件を自作自演することも差別だ。とにかく、どんな問題も「差別」の2文字に凝縮してしまえば、それで片付いてしまう。「部落民」からそう言われてしまえば誰も正面きって反論しない。行政も「おっしゃる通り差別ですね、それでは何とかいたしましょう」と動き始める。
 それは一見問題解決の手段として有効そうに見えるが、本当の問題を覆い隠しているように思えるのだ。少なくとも、現在の中洲という地域は貧困と差別が同居するという、モノトーンな同和地区像が当てはまる地域ではない。「立花町山崎の上嶋だ!」と堂々と看板を出して商売をしても、十分に成功できる素地がある。一方で、差別とは別の問題もある。底上げされているとはいえ、川の中洲に好んで居を構えたいとは正直思わない。だからと言って、今の住民にしてみれば、ちりぢりになってまで住み慣れた中洲から外に出ていくことも好まないだろう。地理的な問題は、良かれ悪かれ地域の特性として受け入れるしかない。しかし、整然と並ぶ二戸一住宅に関しては、もっと自然な景観を保つ方法があったのではないかと思う。その点は追求したいところだ。
 中洲から出発する直前、どうしても先ほどの芥子の花が気になった。我々はそれらを写真に収めた後、ひとまず資料収集のために図書館へと向かった。


儲かりまっせ同和事業! 「まごころ」の営業トーク


八女市の同和地区実態調査報告書。

「部落解放」(2010年1月10日)に「差別ハガキ偽造事件」について部落解放同盟福岡県連合会の「最終見解と決意」が掲載されている。それには差別ハガキ事件が始まり、自作自演が発覚するまでの時系列の経過が書かれ、事件への反省と謝罪が述べられている。熊本の行為については、「差別糾弾闘争の意義と成果を根底から破壊する、許しがたい裏切り行為」と断じている。一方、その背景として「差別事件を偽造すれば糾弾がおこなわれ、行政当局が要求を受け入れてくれる」という思惑と、同盟員の間にあったのではということが述べられている。そして、対策として「同盟員教育」を強化すること、各地協任せになっていた糾弾会に対して県連が「点検活動を重視」していかなければならないとしている。
「差別事件」が起こるたびに、運動団体は「市民への啓発が足りないからだ」と行政に迫るが、今回は啓発の対象が同盟員、啓発の実施者が運動団体と、そっくりそのまま逆転したわけだ。
 もう何十年も同じような啓発をし、同じことを繰り返してきたはずなのに、その中身に疑問が向けられることはあまりないように思う。そこで、図書館というのは、自治体でどのような啓発が行われてきたのかを知るための資料の宝庫だ。
 早速郷土資料コーナーで同和事業や同和教育関係の資料を探してみたのだが、残念ながら旧立花町関係の資料がほとんど見当たらない。図書館の職員に聞いてみると、旧立花町の行政資料は旧役場や公民館などに分散しており、図書館としても収集はまだ始まったばかりなのだという。ようやく見つけたのが「立花町史(1996年)」にある、町の同和事業についての記述だ。
 資料によれば住宅新築資金等貸付事業が59件、技能習得資金等貸付事業が26件、同和住宅建設28戸、その他は地区の生活環境整備、隣保館の建設といった内容だ。同和教育については、同和地区児童生徒の学力の向上、進路保障、関係機関団体との連携といったお決まりの内容が書き並べられている。小さな町ということもあって、目立って派手な事業は行われていない。一番大きな事業は集落移転事業であろうが、実際に移転が行われたのはかなり遅く、1997年以降のため、当然町史にはまだそのことは書かれていなかった。
 我々は最初に県連の見解を見たとき、立花町でも行政に対する激しい糾弾が行われ、行政と運動体が言わばズブズブの関係にあり、利権がはびこっていたのではないかという印象を持った。しかし、町史を読む限りではそのような様子は読み取れない。町を巡ってみれば分かるが、目立った産業といえばタケノコくらいしかない町だ。そもそも利権でズブズブになれるほどの金があるようにも見えない。
 立花町における同和行政がどれほどのものだったのか、当時は近隣自治体であった八女市と比較すると分かりやすいだろう。そこで、我々は図書館には豊富にある八女市の資料を調べてみた。そうして見つけたのが「平成5年3月八女市「同和」問題指導手引き「まごころ」」という本である。これは名前のとおり、市民に対する同和問題にいついての啓発を行う指導者のための手引書である。その中に「「同和」対策事業の概要」という記述がある。それには同和対策事業予算の財源の内訳が数値として示されており、1969年から1991年までの総事業費が6億3440万8000円、それに対する八女市の一般財源からの負担が1964万5000円とされている。つまり、事業費のほとんどは国や県の負担、あるいは起債(借金)ということだ。さらに同和事業に関する制度をフルに活用すれば、1000万円の道路工事がわずか67万円で済むということが示されている。同じ事業を一般事業として行うと、市の負担は少なくとも666万円かかるという。そして、こんな“営業トーク”で追い打ちをかける。

①単純に666万円―67万円=599万円が浮くことになり599万円で他の市単独の事業が出来る。
②指定地域を中心にした地域の環境が同対事業によって低財源で整備することができる(圃場整備や近隣の町内)。
③環境整備すると地域の活性化をはかることができる。
④事業を進めることにより地場産業が発展する、雇用確保も!
⑤八女市における部落差別の現象面での解消を図ることができる。

 要は同和事業を行うと、同和地区以外の人もこんなに儲かりますよ、と言っているわけである。以前も他の自治体の職員から同じような話を聞くことは度々あったのだが、啓発書という形でここまで露骨な物を目にしたのはこれが初めてであった。すると、差別で金儲けしようという発想があったとすれば、少なくとも立花町だけの問題ではなく、むしろ八女市のように行政ぐるみで「功利主義」がはびこっていた自治体がいくつもあったのではという疑問は当然出てくる。
 もう1つ、八女市関係では興味深い資料がある。八女市が作成した「「同和」地区実態調査報告書(要約版)平成15年3月」という行政資料だ。どうせ実態調査と言いながら、肝心の部分はぼかしてあるのだろうとタカをくくっていたのだが、最初のページを見た瞬間、その予想は見事に裏切られた。下川犬《しもかわい》、北国武《きたくにたけ》という地区名がストレートに書いてある。
 そう言えば、八女市の文書にはなぜか、「同和」のように、ことごとく同和に鍵カッコが付けてある。これは、同和という用語が「同胞融和」に由来し、天皇制に通じることから、そのまま使うことを嫌って「いわゆる同和」という意味合いで鍵カッコを付けるもので、解放同盟系の運動団体の文書の書き方である。すると、八女市の場合は行政が解放同盟とズブズブどころか、行政自体が解放同盟ではないのかという疑いが出てくるのだ。解放同盟は、特に組織内部では同和地区名を隠さない。部落地名総鑑事件以降、外部に向けては同和地区名を公にすることを非難するが、本質的には「穢多であることを誇る」団体である。すると、実態調査報告書に地区名がためらいなく書かれている理由も合点がいく。こうなると、旧立花町だけではなく他の八女市内の同和地区も訪問してみなければなるまい。図書館には他にも興味深い資料があったのだが、それはまたおいおい紹介することにしよう。
 図書館で資料収集をしているうちに、夕方になった。そろそろ熊本が自宅に戻っているだろう。我々は再びさくら台住宅を訪れた。家の前に、本人のものと思われる車が停まっている。今度こそ本人に会えると確信し、チャイムを鳴らした。
「はい」と中年男性の声がした。そして出てきたのが熊本和彦、その人だった。自作自演発覚前に手記が書かれた「部落解放」で本人の写真は見ていたが、それよりも少し痩せたように見えた。第一印象は、どこの町役場にでもいそうな、普通のおじさんである。
 後に知ることになるが、熊本は決して饒舌《じょうぜつ》な人ではなかった。むしろ話は不得意な人だったそうだ。しかも自演事件について尋ねたいという我々の申し出に対し、声が大きくなるはずもないだろう。
「何も話すことないですよ」
そういうのみだ。
「いえ、我々はむしろ熊本さんに責任があるのではなく、解放同盟や行政の体質に問題があるのではないかと考えているんですよ。ですからぜひお願いします。少しだけでもお話をお願いします」
 一瞬、熊本の顔が安堵《あんど》したようにも見えた。それでも態度は頑《かたく》なだ。
「そのことについては、話さないことにしてますので」
「そうですか。では何かお話頂けたり、ご協力できることがあったらぜひこちらに」
と、我々は名刺を渡した。
「解放同盟の支部はどちらになりますか?」
「私が所属していたのは立花支部ですよ」
 しかし、その他は何を聞いても話せないというだけで、事件の核心について全く踏み込めない。おそらく支部から口止めでもされているのだろうか。この時点ではそう思っていた。ともかく実際に会えて良かった。ほとんど会話にならなかったが、まずは名刺を渡せたのが良かった。「営業は断られた時から始まる」という題名の本があった通り、これは最初の一歩に過ぎないのだ。
 その日、八女市の第三セクターのレジャー施設「べんがら村」で一風呂浴びたあと、旧立花町内にある道の駅「たちばな」で一泊することにした。この辺りは竹林が多く、タケノコの生産量は日本一だという。竹を原料に作られる竹炭も名物で、道の駅では竹炭で濾過した水を飲むことができる。
「熊本さん、気が小さそうなのに、糾弾されて気の毒だな」
「あの人だけに問題があるわけじゃないのに」
 こんなことを思いながら眠りについた。しかしその後、我々が熊本に抱いた思いや予想はモノの見事に崩されていくことになる。(次号へつづく)


大阪沖縄県人会に抗議されていた大阪府同和教育の「大恥」

 沖縄が日本に復帰する一年前の話。「沖縄県」として編入するため議会、行政、条例などの制度整備が続けられる一方、教育行政ではどう「沖縄」を教えるのかについても議論が進められていた。それを同和教育、人権教育に利用しようとしたのが、大阪府教委である。昭和46年1月22日、大阪府教育委員会は吉澤《よしざわ》正七郎《しょうしちろう》教育長(当時)の名で「にんげん(中学校用)について」という文書を各市町村の教育委員会に通知し、教育現場でも使うように要請した。もともとこの「にんげん」は、同和問題、被爆者などを扱った人権教育の副読本。小学校を対象に配布していたものだ。そして復帰に伴い全国解放教育研究会が中学生用に沖縄問題を取り入れ編集。「沖縄の問いかけるもの」なる読み物を作成し「沖縄人差別」を取り上げたのである。
「沖縄の問いかけるもの」ではT君という中学生が沖縄に行き、彼に対して教師が沖縄差別を説く、こんなスタイルで進められている。一部を抜粋してみよう。

T君。きみが学んだ「部落差別」のことを思い出してほしい。「沖縄差別」と「部落差別」とは、歴史性も社会性もたしかにちがう。明治以来、貧しい家庭の子どもが学校を休めば、校長や駐在所の巡査、場合によっては村長さまが、その“不心得”をさとしたものだが、それが部落の子どもたちなら、だれも気にもとめなかった。就職も、結構も、いや、きみたちが学んだように、部落差別はひどすぎた。そのかずかずの差別を、ぼくたちは平気でしてきたのだ。しないまでも、見すごしてきたのだ。しかし、この差別と、沖縄の人たちへの差別と、ぼくたちの心のなかで、果たしてどれだけのきょりがあるのだろうか。「沖縄」と対して、ぼくたち日本人には自分自身が見えてくる。あの沖縄ののどかな芝生の連なりが、実はおそろしい軍事基地であることが見えてくるように―。もちろん「沖縄差別」も、ときの政治を左右した人たちがつくりだしたものだ。だが、沖縄の人たちを「現実に差別してきた」のは、ぼくたち日本人自身だった。日本人には、その自分自身のみにくい姿が、見えなかったのだ。

本土のぼくたちが歴史のなかで、沖縄の人びとにしてきた差別のかずかずとともに、いまも沖縄の人たちを“恐怖のなかに放置している”差別を、考えてみてほしい。本土のぼくたちは、部落に対して「なにをするのか」と問われているのと同様に、沖縄に対して「なにをするのか」と問われているのだ。

 沖縄と同和、まるで前提の異なる現象を強引に結びつけるこの種の言説自体は特別、珍しいことでもなく、今でも「人権教育」の現場や集会では同様の教材や主張をよく目にする。そして、まるで同和側から沖縄に「連帯しよう」とでも言いたげだ。ところが、面白いことにこの「にんげん」に対して、大阪沖縄県人会側が「No」を突きつけたのである。
 県人会側は府教委側へこう反論している。

沖縄差別と、部落差別は、全く異質のものであり、心情的差別の量にいたつては比較する事自体が無意味な程、雲泥の相違がある。府教委も、質、量共に、違いのあることを認めている。然るにこれ程違うものを単なる差別という広い範疇で取り上げ、部落解放を標榜する副読本に、沖縄を併記掲載したら如何なる結果を生来するかという事である。ある学者は『人はイメージを頼りにして物事を判断する』といつている(日本の思想)この副読本は『解放を必要とする心情的被差別者を収容する本』というのが平均的イメージだと思われる。だとすれば、沖縄も心情的解放を必要とするものとなる。然るに、今見て来たように、沖縄の場合、過去はいざ知らず現在、心情的差別『蔑《さげす》まれ軽蔑』されている事実は、格別に取り上げて、事挙げする程はないことを知つた。然るに、この読本を持つイメージで判断されれば、オール沖縄県も亦《また》未開放部落の一種なりという印象を、否応なく植え付けられる怖れが多分にあると思われる。特に相手が、批判力の弱い児童生徒にして見れば、なほ一層その感を深くする。

 同和教育、同和事業のためなら利用できるものは何でも使え! と「にんげん」で沖縄にすり寄ってはみたものの思い切り、拒否された格好なのだ。この件を検証してみて改めて思う。行政や運動体が守りたいのは、「人」ではなく「自身の主張」と「事業」であると。(三)



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