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声に出して読みたい「同和と在日」文献の旅

第2回「近江八幡の部落史―くらしとしごと」


筆者が近江八幡市役所から購入した「近江八幡の部落史―くらしとしごと」。

 京都新聞(2009年6月12日)に、次の記事が掲載された。

町名挙げ「同和地区だった」と発言
近江八幡の冨士谷市長

 滋賀県近江八幡市の冨士谷《ふじたに》英正《えいしょう》市長は12日の定例市議会本会議での答弁で、同市内の町名を挙げて「同和地区(被差別部落)だった」と発言した。
 市議が個人質問で地域の課題や進ちょくをただしたのに対し、「同和地区だったが、(同和対策事業の対象となる)地区指定を返上された。一般施策としてまちづくりを進めてきたために遅れた」と述べた。
 冨士谷市長は「歴史的事実であり、差別意識をもって発言したわけではない」としている。

 メディアはこのように同和がからむ話題となれば、その場所がどこであるかをはっきりと報ずることはないのだが、筆者はその町が「若宮《わかみや》町」であることを後で知った。
 最初に手がかりになったのが、昭和40年代に部落解放同盟滋賀県連合会により刊行された研究書「滋賀の部落」である。「滋賀の部落」には、現在の近江八幡市|中小森町《なかこもり》付近の「未解放部落」について「中小森村内3部落」として解説されている。そしてそれは細工《さいく》村(現在の大森《おおもり》町)、××村、堀上《ほりあげ》村(現在の堀上町)であると書かれている。「滋賀の部落」は当時同和対策事業を辞退した地域は伏字にされているため、××村が冨士谷市長が言う同和地区だった部落であることは間違いない。しかし、1974年に刊行された「滋賀の部落」の総集編版では××村が「十座《じゅうざ》村」であることがはっきりと書かれており、その代わりに現在名が××町と伏字にされていた。そして、「十座村」がどこのことか調べていたところ、部落解放研究所が発行する雑誌、部落解放研究(2003年8月)に「近江の太鼓づくり」という記事があり、それには安政4年に中小森村十座の教信寺《きょうしんじ》に門徒が太鼓を寄進したと書かれているのである。
 ここまでヒントが出てしまえばあとは簡単だ。近江八幡市中小森町付近で教信寺という名前の寺を地図で探すと、若宮町にあることが分かる。しかも、2009年末から2010年初頭にかけて部落解放同盟滋賀県連の支部員名簿の流出事件があった際に、県連の支部リストも流出しており、その中に若宮支部があることから、若宮町が「被差別部落」であったことは確実なのである。
 こうして「滋賀の部落」を手が掛かりに、文献から若宮町を特定するには、それなりに手間がかかってしまったのだが、若宮町がいわゆる「未指定地区」であることは地元ではあまりにも有名過ぎる話のようだ。草津市のある解放同盟員は「近江八幡の若宮なんて、同和対策事業やってないけど、特別に差別が残っているとかないもんね」ということを、平然と話していたものである。
 前置きが長くなってしまったが、今回紹介する「近江八幡の部落史―くらしとしごと」(近江八幡市発行)は若宮町のことも含め、近江八幡市内の全ての同和地区のことが分かるという文献である。この本の存在をもっと早く知っていれば、筆者は何も苦労しなくて済んだであろうと悔やんでいる。
 筆者が「くらしとしごと」を見つけたのは、滋賀県立図書館だ。利用制限がかかっている「滋賀の部落」とは対照的に開架に置かれていて、貸し出し、コピーも自由だ。さらに、近江八幡市役所では、1冊1500円で販売されている。
 この本は、タイトル通り近江八幡市内の同和地区の「くらし」と「しごと」を、末広、堀上、大森、住吉、八幡の順に解説したものである。もちろん、同和地区を返上した若宮町のことを特別に解説した章はない。しかし、他の地区のことを解説する中で、若宮町のこともしっかりと触れられている。というのも、近江八幡の同和地区を知る上で、若宮町のことは避けて通れない理由があるのだ。そして、それは若宮町が有名である理由と共通する
 若宮町は、全国水平社初代委員長の南《みなみ》梅吉《うめきち》の出身地なのである。「くらしとしごと」には南梅吉の写真が載っており、そのキャプションには「全国水平社の初代委員長南梅吉は近江八幡市内の被差別部落出身である」と書かれている。そして、同じページの本文中にある堀上町の老人の証言を引用しよう。

岡崎公会堂を借りて、水平社を創立するという。全国から志のある人が寄って来た。その中で、おっちょこちょいというのか、おだてられたというのか、それが若宮の南梅吉や。梅吉は幼名を音吉といっていた。あの人の兄の葬式に、うちの親父らが行ったら、十座(若宮)が上を下への大騒ぎ。今度、水平社ちゅうものができる、その大将が音や、その音が自分の兄弟の葬式に帰っていた。

 全国水平社といえば、水平社宣言を書いた西光《さいこう》万吉《まんきち》や、国会議員となった松本《まつもと》治一郎《じいちろう》が有名であるが、初代委員長のことは忘れ去られている感がある。というのも、南梅吉は組織内の抗争により失脚し、後に日本水平社と呼ばれる融和団体を作ったことから、言わば部落解放運動の「裏切り者」として扱われているからだ。「くらしとしごと」には南梅吉について多くのことは書かれていないのだが、これを読む限り彼は水平社の草創期のメンバーである西光万吉や松本治一郎に比べると凡庸《ぼんよう》な人物であり、周囲におだてられて水平社の委員長に担ぎ上げられてしまったような印象を受ける。
 また、若宮町が有名なのは「中小森村内3部落」の中では最大の部落であり、商店が多かったことから他の部落から見ると物流の中継点として重要だったことがあるだろう。そのにぎわいは、本の中で「若宮は船の着かん港や」と表現されている。
 ともかく、若宮町が「被差別部落」だったことは市役所が販売されている本に書かれている上、公然の事実であることは間違いない。京都新聞の記事が掲載された当初、2ちゃんねるでは「マジで糾弾される5秒前」などと騒がれたが、冨士谷市長が地元からそのことを咎《とが》められたという話も聞かない。それどころか、冨士谷市長の発言はそのまま市議会会議録に掲載されており、インターネットでも見ることができる。そこから、富士谷市長の発言を抜き出してみる。

ちょっと平成元年といいますと、改選があったのはたしか62年だったと思います。64年の1月で平成になったんですかね。だから、2年と少しの間ですので、十分に請願というのはまだ僕も勉強の途中であったかなと思ってるんですが、要は若宮町は正直に申し上げまして、以前といいますか、被差別部落という言葉がありました。でも、若宮町の場合は同和地区というのを指定を返上されたというふうに理解をしてるん。それで、いわゆる同和対策事業がそこの町内には何もなかったと。そういうことで、他の同和地区と比較しても、大変事業面ではおくれてたと、あるいは環境面でも大変おくれてたと。だから、それは一般事業として一般施策の中でやってくれという、そういう立場で請願をなさったというふうに僕は記憶をしてるん。

 そして、「地域の課題や進ちょくをただした」市議(加藤《かとう》昌宏《まさひろ》市議)の発言は次のとおりである。

平成元年12月議会で、「明るく住みよい若宮町をつくるための総合的事業の実施について」との請願が採択されております。毎年6月の段階で採択された請願の処理状況について報告がなされます。本件については、採択以降ずっと各所管課において対応していますとだけの報告で、進行状況や到達状況がわかりません。具体的にはどのような総合的事業なのか、まちづくりのために何を実施するのかが明確でないように思います。整理をする意味で、目標とするところやこれまでの経緯について説明願います。

 市議は「20年も前から若宮町で事業をやっているようだが、何をやっているのかよく分からない。当時市議会議員だった冨士谷市長にこれまでの経緯を説明して欲しい」と言っているわけである。そして富士谷市長は「若宮町は同和対策事業を辞退したので、代わりに一般事業をやってほしいと地元から請願があった」という経緯を説明したのである。ちなみに、加藤昌宏市議は日本共産党所属で、堀上町在住である。
 インターネットで見ることができる、最も古い会議録である平成2年9月定例会会議録でも、同様のことが話題になっており、「若宮町は、今日まで部落の完全解放に向けて自主自立路線を歩んでこられたと思っております」「請願書の趣旨は、当初若宮は同和地区指定を返上をして一般施策の中で地域の環境改善をやってくれと、こういうことだったわけです」という当時の市議の発言が残っている。さらに、会議録を「若宮 同和」というキーワードで検索すると、若宮町が近江八幡市内の「被差別部落」の中でも独自路線を歩んできた歴史を垣間見ることができる。若宮町は1969年に同和対策事業の返上を議会に請願して可決されている。さらに1991年には同和地区としての実態調査を町ぐるみで拒否。若宮町と同和対策事業についてはその後も何度か議会で話題になっており、もちろんその度に若宮町が「被差別部落」であったことは公言されている。最近では平成17年3月定例会で「同和対策事業から大きく取り残された若宮町」という市議の発言がある。
 結局、若宮町は同和地区だったという発言は初めてのことではなく、市議会では以前から大っぴらに議論されてきたことなのだ。しかも、発言は市議会でのやりとりの中で必然的に出てきたもので、そのことに触れなければかえって不自然だった。何のことはない、京都新聞の記者が同和地区を特別に意識し、勝手に問題発言だと思い込んだだけだったのである。
 ところで、「くらしとしごと」には若宮町と南梅吉のことだけでなく、多くの興味深いエピソードが書かれている。例えば、戦後間もないころ引き上げてきた兵隊が博打をしているのを見て、明治以前の村の掟《おきて》を持ち出して罰金をよこせと脅したという堀上町の話や、本村の中小森村より上になろうということで細工村を「大森町」に改名したという話が面白い。昔の貧しい時代や、差別事件の事も書かれてはいるが、苦労話や悲惨話に偏っているということもない。何より、最近の同和関係の文献では曖昧にされることが多い「どこで」「誰が」ということが忌憚《きたん》なく書かれている本書は貴重である。
 個人的に一番の見所は、末広町の食肉業についての解説である。一般のメディアではなかなか触れられない、同和と肉屋の関係を知ることができる。この本を読みながら近江牛を食べれば、3倍は旨く感じられることは間違いない。

「近江八幡の部落史―くらしとしごと」は近江八幡市役所の他、近江八幡市内の公民館、図書館、書店、通信販売でも買うことができる。購入のお問い合わせは、近江八幡市役所 協働政策部・地域文化課 市史編纂室 電話 0748―33―2118 まで。(鳥)