芽生えの章
「漁師になる夢」
剣先大志の家は先祖代々漁師だった。大志も物心ついたころには親父の洋平(ようへい)に連れられてよく漁にでていた。
ピチャ、ピチャ、小さな波の上で釣り船が揺れている。津軽の海は穏やかだった。空には雲ひとつなく、さんさんと太陽が輝く。右手には函館の港が、そして左手には本州が遥か彼方に見えていた。
「おい、大志、このイカを見てみろ。小さいだろう。このイカ、なんて名前か知っているか?」
洋平が大志の顔の前で釣ったばかりのイカをぶら下げた。
「ええと、これはいつものスルメイカじゃないね。ええと、ジンドウイカ。」
「そうだ。よく分かったな。」
洋平は大志の頭に手を乗せて、ぐりぐりと三回大志の首を左右にひねった。
へへへ。大志は褒められて嬉しい顔をしている。
「この函館でとれるスルメイカは最高だぞ。世界には450種類くらいのイカがいると言われているんだ。でも函館のスルメイカにかなうものはない。こいつを食べているから、父さんは他の場所には住めなくなってしまったよ。ははは。」
洋平がごうかいに笑う。
「俺もこのスルメイカなしには生きていけないよ。大きくなったらスルメイカをたくさん釣って大金もちになるよ。」
はははははは。二人とも真っ黒に日焼けした顔に白い歯が光る。
「大志、イカを食べているとな、人は歳をとらないんだ。だからおまえが大きくなっても、父さんは大志には負けないぞ。」
洋平は腕の筋肉を膨らませる。
「えっ、歳をとらないの?」
大志が親父の顔を不思議そうに見た。
「そうだ。イカにはビタミンEがたくさん入っているんだ。ビタミンEは老化して行くのを抑える特殊なビタミンなんだよ。お母さんも毎日たくさんイカを食べているから、まだ二十歳と変わらない肌をしている。いいぞ~。函館の女は。」
「やだ~、父さん、なんかエッチな話しをしているみたい。」
「お前も大きくなったら、分かるって!ハハハハ。」
「転校生」
五年三組の教室
「起立。気をつけ。礼。」
生徒がきちんと頭を下げるのを見とどけてから、担任の磯辺(いそべ)は頭を下げた。磯辺の隣には女生徒が立っていた。
「今日はみなさんに転校生を紹介します。お名前は青里蛍さんです。」
磯辺は脇に立っている女生徒の肩に手を近づけた。
「青里さん、自己紹介をしてください。」そう言うと、こっくりと生徒はうなずいた。
青里はおかっぱ頭をした色の白い子だった。髪は少し茶色がかっていて、大きな目と通った鼻筋が目立つかわいい顔をしていた。
彼女は左右を見回してから、はきはきとした口調で言った。
「私は青里蛍と申します。東京から来ました。これからよろしくお願いいたします。」
くすくすと笑いがこぼれた。
「誰が笑っているの?」
磯辺が言った。
くすくす。また笑いが聞こえた。
「何がおかしいの?」
「俺だよ。先生。」
剣先大志だった。五年生には見えない大きな体格をした生徒だ。親父に連れられて漁にでているので真っ黒な顔をしている。その中に、一重のキリッとした目が光っていた。
「どうして笑っているの?」
磯辺が聞く。青里蛍は剣先大志を睨んだ。
「だってさ、蛍なんて、光って飛ぶ蛍みたいじゃん。」
青里蛍は顔を真っ赤にさせて下を向いた。
「剣先君、人の名前をばかにするもんじゃないのよ。お父様、お母様が一生懸命考えてつけてくださったんだから。」
磯辺が怒った視線を飛ばす。
「ばかにしているわけじゃないけど、なんか面白い。」
プッと隣の紋甲武が吹きだした。すると周囲の生徒が一斉に吹き出した。はははははは。教室中が笑いで溢れかえった。
青里蛍は顔を両手で覆って駆け出した。ガラーッ。スライド式のドアを開けると教室から飛び出して行ってしまった。
「青里さん、青里さん、」
磯辺が血相を変えて青里を追った。
「約束」
剣先大志と紋甲武は高鉄棒の上に腰掛けていた。
「やばいぞ、今日のこと。」
武が言った。武は小柄で口数が多く、いつも先生から「ちょろちょろするな。」と叱られるタイプの生徒だ。
「なんでだよ。」
大志が足をぶらぶらさせる。
「なんでって、傷ついたぞ。あの転校生。」
「そんなことぐらいで、傷なんてつかねえよ。」
グルン。大志は後方に一回転してもとのポジションにもどる。
前方から沙魚浅子(はぜあさこ)がやってくるのが見えた。沙魚浅子は五年三組の学級委員をやっている。やせ型でショートカット。赤い縁取りの分厚い目がねをかけている。男まさりで面倒見がいいから女生徒から慕われていて学級委員に毎回選ばれる。だが、男子生徒からは煙たがれる存在だ。
「おい、うるさい女がきやがった。俺になんか文句がありそうだ。」
大志は顎で彼女のことをさした。
「絶対に青里蛍のことだよ。」
武はそう言って大志と顔を見合わせた。
沙魚浅子が鉄棒の下から二人を見上げた。
「剣先君!ひどいじゃない。まだ謝ってないでしょう。」
「なにが?」
「なにがって、青里さんのことよ。転向してきたばかりの子に、あんなことを言ってみんなの笑い者にして。泣いていたわよ。」
浅子は両手を組んで仁王立ちの格好をした。
「えっ!泣いてた?そんなんで泣くなんて、おっかしいんじゃないか。へへへ。」
大志は作り笑いをした。
「誰だって、あんなこと言われて笑いものにされたら泣くわよ。女の子ならば。早く謝りってきなさいよ。」
浅子がきつい目で見る。
「なんだって!俺に謝れだと。冗談じゃない。誰が謝るかよ。勝手に泣くのが悪いんだよ。」
「ほら、言ったろ。」
武が大志を見る。
大志は後方に回転して足を離しふわっと足から着地した。
「おっ、きれいなグラポン」
武が拍手した。
「今、どこにいるんだよ。」
大志が浅子を睨む。
「謝るのね。」
「謝らねえよ。でも会いに行ってくるよ。」
「教室にいるわ。」
ダッと大志は駆け出した。
ガラガラ。ドアの開いた音で青里蛍は視線をあげた。教室には彼女以外誰もいなかった。大志が入ってきた。蛍は大志を見つめた。大志も蛍を見つめた。大志は蛍の机まで来ると、両手をバンと音をたてておいた。そして、蛍の顔を睨みつけた。
「泣くなよ。そんなくらいのことでな。」
蛍はなにも言わずに、ただ大志を睨み返した。
「恐い目しているな!そんな目で俺を睨むなよ。悪気があったんじゃないんだよ。」
「もういいです。慣れていますから。」
青里蛍はうつむいた。
「慣れている?」
「そう。名前のことでばかにされるの慣れているから。」
「なんだよ、これまでばかにされてきたのか。東京でも?」
青里蛍は小さくうなずいた。
「そうか、分かった。それならここ函館で、もしお前の名前をばかにする奴がいたら、俺がこらしめてやる。それでいいだろう。なっ?」
蛍は驚いた顔で上を向いた。大志はニヤッと笑った。すると、ニタ~ッと口を横に広げて蛍も笑った。白い八重歯が光った。それを見て大志が言った。
「お前、本当に東京で育ったのか?」
「うん、なんで?」
「いや、別に。」
大志は少し考えてから言った。
「それじゃ、お前はイカが好きだろう?」
「うん、大好き。」
また八重歯が光る。
「やっぱりな。」
大志は腕組みをした。
「どうしてわかったの?」
「そのうち、教えてやるよ。」
「え~っ、やだ、今教えて。」
蛍は抗議の目を向けた。
「今は駄目だ。もう少し大きくなったら教えてやる。」
大志は首を横にふった。
「もう少し大きくなってからって、いつのこと?」
「そうだな、中学三年生あたりになった頃かな。」
こんなに白くてかわいい顔は見たことがない。小さな頃からイカを食べて育ってきたに違いない。大志はそう思っていた。
芽生えの章
「運動会」
運動会を一週間後に控え、放課後の校庭はにぎわっていた。
「俺たちが負けたら、赤組が負けることになるからな。しっかり練習しなきゃ駄目だぞ。」
六年生になった剣先大志が下級生を相手にカツを飛ばす。
「ハイ!」
一年生から五年生までが真剣に大志を見つめる。
「剣先く~ん」
遠くから声がした。青里蛍が手を振っている。大志も手を振りかけて止めた。ここで女に手など振ったら、下級生に示しがつかなくなる。無視をした大志の態度に蛍は頬を膨らませた。
「なによ、もう!」
フンと蛍が鼻をならした。
「先輩、ふられたね。」
下級生が言った。
「なに言っているの!あんな奴。私には全く関係ないんだから。それより練習よ。練習。」
「イーッ」と、蛍は口を左右に広げて見せた。
横目で大志はそれを見てフッと鼻で笑った。
「そうだ!」大志はなにかを思いついたように手を叩いて下級生に言った。
「赤組の女と競争してみるか?」
「やりたい、やりたい、」下級生たちは一斉に手をあげた。
「それじゃ、話しをつけてくるから待っていろ。」
タッ、タッ、タッ。大志は蛍のところへ駆け寄った。
「おい、蛍。」
「なに?」
蛍は大志の顔も見ずに言った。
「合同練習しないか?」
蛍は煙たそうな目をして大志の顔を見た。
「どうやって?」
「競争してみないか?たまには競争相手がいないと、どれだけ自分らが早く走れるようになっているかわからないじゃないか。」
「それもそうね。やってみようか。でも、私たちは早いわよ。」
それを聞いて大志はドキッとした。
みんなの見ている前で、蛍にまけるようなことがあったら大変なことになる。やっべ~。変なこと言い出すんじゃなかった。大志は少し後悔した。
運動会最後のイベントに紅白リレーがある。各学年から男女二人づつ走るのが速い生徒が選びだされてリレーのチームが形成される。青里蛍も剣先大志も六年生では一番走るのが速かった。だが、二人は男女だから、どちらが早いか競争したことがない。大志は、当然、自分の方が早いに違いないと思っていた。
大志はすでに身長が170センチもあり、だんとつに大きな体格をしていた。だが、青里蛍も六年生にしてはスリムな長身で小鹿を連想させるようなバネを持っていた。
「位置について、よ~い、ドン」大志の掛け声で一年生からスタートした。
大志は目を見張った。一年生は女子のほうが早かった。次ぎに二年生にバトンが渡された。二年生もやはり女子のほうが早い。その差はどんどん開いて行く。
まずいぞ、これは。。。。
三年生にバトンタッチ。三年生は男子のほうが早かった。差が縮まって行く。四年生にバトンタッチ。四年生も男子が早かった。その差はますます縮まりほぼ三メートル。そして、五年生にタッチ。五年生の女子はものすごく速かった。蛍のように小鹿のようなバネで走った。その走りを見ていて大志は右側の頬をつりあげた。差がまた開きだす。ほぼ一〇メートル。さあ、青里蛍と剣先大志の対決の場がやってきた。
蛍がさきにバトンを受け取って走り出す。ビン、ビン、ビン、すごいバネで走る。一周は一〇〇メートル。一〇メートル後を追う大志。
バトンを受け取ると、「うお~」とかけ声をだして大志は必死の形相で蛍を追いかけた。少しづつ差は縮まりだした。
「先輩、がんばれ、あともう少し!」男子全員手をぐるぐる回しながら応援する。
ゴールの寸でのところで大志は一メートルに迫った。だが抜くことはできなかった。
はあはあはあ。二人とも中腰になりながら息を切らす。二人の視線が合う。
「ふふふ、女子の実力を見た。」
「負けたよ。信じられない!お前も早い。驚きだ!」
「女子を甘くみないでね。」
―運動会当日-
大志は朝礼台の上に駆け上がってマイクの前に立った。
「宣誓、我々はスポーツマンシップに乗っ取り、正々堂々と戦うことをここに誓います。六年二組、剣先大志。」
蛍は大志の凛々しい姿をうっとりと眺めていた。
「卒業式」
その後、大志も蛍も武も浅子も同じ公立の中学に通い三年間を過ごした。四人は仲が良くていつも行動を共にした。だが、それも今日が最後の日となる。
式が終わり、卒業生が体育館から一斉にでてきた。後輩たちが憧れの先輩に最後の挨拶をするために待ち構えていた。中にはたくさんの女生徒に囲まれて贈り物をもらっている卒業生がいた。とりわけ剣先大志の人気は凄かった。三十人以上もの女生徒が集まっていた。
「剣先先輩、学ランのボタンをください。」
「私のハンカチに名前を書いてください。」
「これ、受け取ってください。」
大志は贈り物の箱を持ちきれずに地面において立ち尽くしていた。半ば迷惑を感じながらも冷たいことが言えずに困っている。
遠くから浅子と蛍がそのようすを見ていた。
「あれ見てよ。蛍。剣先君がてれているわよ。」
浅子が大志を指さした。
「そうね。彼はてれ屋だから。」
「そうとう鼻の下伸ばしているわね。」
二人が大志を見つめる。
「剣先先輩、最後に歌をもう一度だけ聞かせてください。」
「ええ~。」
後輩から歌をせがまれて大志は頭を掻いた。
「うたってあげればいいのに。うまいんだから。」
浅子が言う。
「去年の学園祭で一度歌っただけで、彼はスターになってしまったからね。」
そう言いながら、蛍は両手で口を囲って拡声器をつくった。
「剣先君、歌たってよ~。」
遠くから蛍の声を聞いて大志が手を振った。
「仕方ねえなあ。それじゃ、一曲だけ歌うか!」
キャ~、後輩たちが黄色い声援をあげた。
卒業証書の入った筒をマイク代わりにして、大志はあかぺらで「卒業」を歌い始めた。
“こみあげる寂しさに問いかけたのは~、足早に過ぎた時の流れ~”(松山千春―卒業)
すると周囲にいた生徒たちが大志を囲んで集まりだした。みんな大志の歌に聞きほれている。涙を流しだす生徒もいた。
「天才的なうまさね。」
遠くで彼の歌をききながら浅子が言った。うなずいた蛍の目が潤んでいた。
芽生えの章
「蛍のピンチ」
大志はプレセントがたくさん入った大きなお土産袋を抱えて一人で海辺を家に向かって歩いていた。ぶつぶつと何かを呟きながら、面白くないという顔をしている。
これで蛍ともなかなか会えなくなるんだろうな。あいつの頭がいいからいけないんだよ。俺みたく劣等生ならば同じ学校に行かれたかもしれないのに。ちきしょう!
彼女が函館にきてからの四年間、ほぼ毎日のように顔を合わせてきた。それが、これからはめったに顔を見られなくなるかもしれないのだ。なんとかしたい。だが、劣等性の俺のことなんか、学校が変わってしまえば、もう相手にしてくれないかもしれない。
蛍は一番優秀な公立高校へと進学する。彼女の周囲は秀才だらけになる。
大志は石を蹴った。コ~ンと勢いよくとんでいき、ボチョンと海におちた。
「お~い、剣先!お~い」
遠くから自分を呼ぶ声がして、大志は声がする方角を振り向いた。左後方から紋甲武が声を張り上げながら自転車でやって来る。
「どうしたんだ!」
キッキー、ブレーキの音が響く。
はあはあはあ。武は息を切らせながら言った。
「あ、青里が高校生に言い寄られているぞ。」
「なんだって!」
「前々から、○○高校の不良の松烏賊(まついか)ってやろうが、青里がかわいいからなんとかしたいって目をつけてやがったんだ。噂では知ってたんだけど、本格的に彼女にちょっかいをだしはじめやがった。危ないぞ。あいつは何をするか分からないので有名な不良だ。」
大志は目を吊り上げた。
「蛍は今どこにいるんだ。」
大志が武の胸をつかむ。
「あ、あわてるな。まだ何が起こったわけじゃない。お前が強いのは分かっているが、喧嘩を売るようなまねはするなよ。奴は危ないからな。」
武は自分の襟をつかんでいる大志の手を押し戻した。
「分かった。どこにいるんだ。」
「学校の裏門で話しかけられている。」
大志の目が険しくなった。
「この自転車、俺に貸してくれ。」
「わかった。でも、いいか、喧嘩はするなよ。」
「わかっているって。」
大志は自転車を飛ばした。
「延長された約束の期限」
だぼだぼの学ランに悪臭を漂わすポマードの臭い。エクレアが頭に乗っかっているようなリージェントの髪型。その風貌を見ただけで、青里蛍は目をそむけたくなった。
「蛍ちゃん、いいだろ。俺と付き合ってくれよ。」
蛍の背中は壁に張り付いていた。
「困ります。」
「どうしてだよ。別に付き合っている奴がいるわけじゃないだろ。」
松烏賊のつばきが顔に飛んでくると、嗚咽があがりそうになる。蛍は顔を横に向けた。
松烏賊の手が蛍の腕に伸びた。
「やめてください。」
蛍は松烏賊の手をはねのけた。
「そういう態度とると、酷いことしちゃうよ。素直に俺の彼女になれって!なあ。」
松烏賊が蛍の顎を触った。
「私、付き合っている人がいるんです。」
「えっ、またまた嘘を。ちゃんと調べてきたんだから。」
「本当です。」
「じゃ、誰だよ。教えてくれよ。そいつの顔見たら、あきらめるからさ。」
松烏賊は両手を壁につけて蛍の身体に自分の身体を近づけてきた。蛍はつま先立ちになって、壁に身体をぴったりと擦り付ける。
「その人に迷惑がかかるから言えません。」
「そんなでたらめやめようよ。蛍イカのような顔していておいしそうだ。へへへへ。」
松烏賊が蛍の頬に指をはわす。
完全にいかれている。蛍は恐怖で動けなくなった。松烏賊は両腕を蛍の身体に回してきた。蛍は頭から血の気が引いて気が遠くなってくるのを感じた。
「おい、そこまで嫌がっているんだから、もうやめたらどうだよ。」
背後から声がして、松烏賊は振り向いた。
「なんだ~。てめえは。」
松烏賊は大志の足もとから頭の先まで上下になんども視線を動かしながら、低い声を出した。
「俺は蛍のダチだよ。しつこくするのはやめてやってくれよ。かわいそうじゃん。」
大志が松烏賊を険しい目でにらみつける。
「てめ~、ガキのくせしやがって、イッチョまえの口ききやがって。ふざけんじゃねえぞ。」
松烏賊は大志の胸倉をつかんだ。あまりの臭さに大志は顔をそむけた。大志は中学を今日卒業したばかり。松烏賊は高校二年。だが、身長183センチ、体重90キロ、分厚い胸板をした大志の身体はちょっとした格闘家のようで、松烏賊を完全に威圧していた。
「あんたくさいよ。きちんと歯磨いている?」
「あんだと、この野郎~!」
ガッン。松烏賊が大志を殴った。大志の口が切れて血がとび散った。大志が怒りの形相で松烏賊を睨みつけた。
「きゃ~。剣先君」
蛍が叫んだ。剣先の口はばっくりと切れていた。血が流れ出し白いシャツが真っ赤に染まっていく。
「この野郎、殴りやがって!」
大志は怒りの声をだした。そしてダッシュして手刀を松烏賊の首に叩き込んだ。グリッ!
「グエッ」松烏賊は首を抑えた。
「まだやるか?」
大志は言った。
「当たり前よ。」
松烏賊は首を押さえながら、パンチをくりだした。だがその体勢ではスピードがでない。大志は簡単によけて、逆水平で手刀を松烏賊の咽喉仏に打ち込んだ。松烏賊の首が曲がった。がっくりと松烏賊は膝まづいた。首を押さえ下を向いたまま、大きく肩で息をしている。
「俺は小さい頃から漁をしてきたから普通の奴とは体の鍛え方が違う。喧嘩で俺に勝てるわけがないぞ。もうやめておけ。」
大志が松烏賊を見下ろした。
「お前、漁師の息子なのか?」
潰れた声で松烏賊が言った。
「そうだ。」
松烏賊は首を押さえたまま、チェッと唾を吐きその場を去って行った。すぐに蛍が大志に駆け寄った。
「剣先君、血がでているわ。」
蛍が大志の口にハンカチを当てると、ハンカチは血を吸ってすぐに真っ赤に染まった。
「大変、血がとまらない。」
蛍の目が潤んでくる。
「大丈夫だ。すぐに止まるよ。」
「剣先君がきてくれなかったら、どんなことになっていたか分からない。本当にありがとう。」
「礼には及ばないよ。」
大志は優しい目で蛍を見た。
「どうして?」
蛍は大志を見つめた。
「お前が転向して来た日に約束したろう。お前の名前をバカにする奴は俺が許さないって。あいつ、お前のことを蛍イカなんて呼んでいたじゃないか。」
「約束、覚えてくれていたんだ。」
蛍は目を閏わしながら、ハンカチを絞ってまた大志の口に当てた。
「ああ。俺は約束は守る。」
「それじゃ、もうひとつの約束も覚えている?」
「なに?もひとつって?」
大志は首をひねった。
「なんで私が、イカが好きだと分かったのか、その理由を中学三年になったら教えてくれるっていう約束よ。」
「バカな。そんな約束まだ覚えていたのか?」
大志はフッと鼻で笑った。
「当たり前よ。中学三年生に早くならないかなって、待っていたんだから。」
そういいながら蛍は血が止まっていないかハンカチを少し離して傷を見た。傷があまりにも深いので顔をしかめた。
「お医者さんに行って縫わなければ駄目だわ。」
大丈夫とばかりに大志はハンカチを自分で押さえて、蛍の手を自分の口から遠ざけた。
「それは高校三年生になったら、教えてやるよ。」
「なに?約束を守らないの?剣先君らしくないわよ!」
「まだ早いんだよ。その理由を知るのは。高校三年生になったら、必ず教えてやるから。待っていてくれ。」
蛍は考えこんだ。
「本当ね?それじゃ、それまで近くにいてくれるの?」
「ああ。約束を果たすまでいつも近くにいる。」
「わかった。それじゃ待つわ。とにかくお医者さんに行きましょう。」
大志は嬉しかった。これで蛍との絆ができた。学校が違っても会えるだろう。殴られて痛い思いをしたおかげでこんなことになるとは夢にも思わなかった。
成長の章
「画家になる夢」
高校生になると、蛍はいつもスケッチ用紙を持ち歩くようになった。そして、景色のよいところを見つけては絵を描いていた。
函館はとてもきれいな街。そしてゆっくりと時間が流れる街。このときの流れの中で、街を描けるなんて幸せだわ。
蛍は埠頭の先に来ていた。ペンシルを握って腕を伸ばしながら片目をつぶる。遠近感をはかり終わると目を閉じて風景を頭の中で思い浮かべながらスケッチをする。
「やっぱりここにいたな。」
背後から急に声をかけられて蛍はビクンとした。そして、後ろを振り返り、フーッと息を吐いた。
「急に話しかけないでよ。ああ、心臓が止まるかと思ったわ。こんな静かなところで驚かすのは無しよ。」
蛍は胸を押さえて自分の鼓動を聞いている。
「ごめん。ごめん。近頃いつもここで絵を描いているもんな。よほど、ここからの風景が気に入っているんだな。」
大志は額に手をかざして遠くの景色を眺める。
「函館山の形が好きなの。」
蛍は胸を押さえながら言った。大志はスケッチを覗き込んだ。函館山が薄く鉛筆で描かれている。大志の目はそれに釘づけになった。
「上手だ。ほれぼれするな。君には絵の才能があるんだな。」
「才能なんて大げさだけど、この街をいつまでも描き続けていたい。この街はいつまでも変わらないような気がする。」
蛍は遠くに横たわっている函館山に視線を戻した。
「そうだな。俺が生まれてから今にいたるまでほとんど変わっていないからな。これから一〇年たっても二〇年たっても変わらないだろう。イカの味が変わらないように。」
「ふふふ、イカの味が変わっていないなんて、当たり前のような気がするけど。この風景もいつまでも変わらないといいわね。」
「ああ。」
大志も函館山に視線を飛ばした。
「剣先君、私、来年、高校を卒業したら美大に行こうかと思っているの。絵の勉強をして、この街をきれいに描けるようになりたいの。」
「そうか。それはいいんじゃないか。」
「東京に行くのよ。」
蛍は大志を見つめて言った。
大志は函館山を見たまま言った。
「東京に行って、本格的な勉強をしてこいよ。いいじゃないか。がんばって夢を果たせよ。」
行くなっていいたいけど、俺たちはまだ高校三年生。将来のことを考えるには早すぎる。俺は君にいつまでも一緒にいてもらいたい。でも、君はそんなことまでは考えていないだろう。
「約束の理由」
蛍に別れを告げるために、大志、武、浅子の三人が空港に集まっていた。
「あんまり悲しそうな顔をするなよ。戻ってこようと思えばいつでも戻ってこられるんだからさ。海を渡るわけじゃあるまいし。」
武が言った。
「海は渡ることになると思うんだけど。」
蛍が首をかしげた。
「あっ、そうか。でも海底でつながっているじゃないか。」
「海底なら世界中どこでもつながっていると思うんだけど。海底トンネルでつながっているということでしょ。」
浅子が言った。
「うるさいな、いちいち、人のあげ足をとるなよ。津軽海峡はたった二十キロしかないんだから、俺なら泳いだって渡れるぜ。」
ふふふふふ。蛍が笑う。
大志はなにも言わずに黙ったままだった。
「おい、剣先、なんとか言えよ。とうぶん会えなくなるんだからさあ。俺たち、七年間、いつも一緒だったもんな。別れは寂しいよ。」
武が大志を急かす。
「蛍、がんばれよ。身体に気をつけて。」
大志がそう言うと、武は口をとがらせた。
「なんだ、それ。そんな台詞みたいなことだけかよ。気のきいたことがいえないなあ。剣先は。」
「紋甲君、ちょっと私たちあっちに行きましょうよ。」
そう言って浅子が武の手を引っ張った。
「なんで~。まだ別れの挨拶が終わっていないって。」
武の言うことを無視して、浅子は彼の腕をむりやり引っ張って歩いていく。
「紋甲君、ばかね。私たちがいるから、二人は大事な話しができないのよ。気を利かせなさいよ。」
浅子はちいさな声で人差し指を武の顔の前にたてながら言った。
「ああ、そうか。」
武は頭を掻いた。二人は遠くのベンチに座り蛍と大志を見ていた。蛍が先に口を開くのが分かった。
「剣先君、七年前からの約束よ。教えて。なぜ私がイカが好きだとわかったの?」
大志は頭を掻いた。そして、しぶしぶ言いはじめた。
「君がきれいだったからさ。イカにはビタミンEがたくさん含まれているから、イカをたくさん食べているときれいになるんだって、親父から小さいときに教わったんだ。君と初めて会ったとき、こんなかわいくてきれいな子はいないと思った。だから、イカばかり食べてきたんだろうと思ったんだ。それだけだよ。」
蛍は口に手を当てた。
「フフフ。。。。。はは。。は。そんな理由だったんだ。でも嬉しい。中学三年生のときに聞いていたら、こんなに嬉しい気持ちにはなれなかったわ。ありがとう。四年たったら戻ってくるから待っていてね。」
蛍は涙を浮かべた。
「わかった。待っている。」
蛍は手を出した。ゆっくりと大志はその手を握った。
成長の章
「大志の思い」
「剣先君、お元気ですか?私は元気で学校に通っています。本格的に絵の勉強ができて、今、とても充実した日々を送っています。自己流では限界がありました。ここにきて、とても上手になっていくのが自分で分かります。先日描いた絵がコンクールで賞を取りました。とても嬉しかったです。でも、同時に、私は心を函館に残してきてしまっていることを強く感じています。早く函館に戻って剣先君の顔が見たいです。またお手紙しますね。お体に気をつけてお過ごしください。」
「おい、大志、そろそろ行くぞ。」
父親の洋平の声がした。
大志は封筒に手紙を戻してゆっくりと立ち上がった。
「さあ、今日もたくさん釣ってくるぞ!」
パチン。大志は両手で自分の頬を叩いた。外に出ると、男が一人立っていた。
「親父、あの人、誰?」
「あ、ああ、あれは見習いだ。これからしばらく、俺の船に乗せてしごくことにした。」
大志は首をひねった。どこかで見たことのある顔だ。どこで見たんだろう。
大志が近くに行って頭を下げると、男は言った。
「いつぞやは失礼いたしました。」
男は深く頭をさげた。
「どこかでお目にかかったことがありますよね。」
大志は首を傾げた。
「はい、その節はとても失礼いたしました。」
「ああああ」
大志は男の顔に向けて指をさした。
「そうです。松烏賊です。あのときは失礼いたしました。」
松烏賊は髪を短く切って、きりっとした顔つきになっていた。
松烏賊はあのときから漁師になろうと決めていたのに違いない。だから、俺が漁師の息子と聞いたときに、おとなしく引きあげていったんだ。
「こちらこそ、叩いたりして申し訳ありませんでした。首はなんともありませんでしたか?」
「いいえ、私が悪かったんですから、そんなめっそうもありません。鞭打ち症でしばらく苦しみましたが。」
松烏賊はてれくさそうに頭の後ろに片手を回した。
人間、変われば変わるものだ。あんなに腐っていた男がこんなにまともになっている。そうとう苦労をしたのかもしれない。大志はそう思った。
剣先親子と松烏賊が船に乗り込もうとしているところに浅子が自転車に乗ってやってきた。
「剣先君、久しぶり。」
浅子が手を振った。
「おお、浅ちゃん。久しぶり。どうしたの?なにかあった?」
大志は太陽を背にしている浅子を目を細めながら見た。
「うん、ちょっとね。」
浅子は小さくうなずく。
「明日は時間ないの?」
大志が聞く。
「午前中ならば。」
「それじゃ、一〇時頃に会おうか?」
大志は船に片足をかけた。
「うん、ありがとう。それじゃ、一〇時に摩周丸船の入り口でどう?」
「わかった。そこに行くよ。」
松烏賊が浅子の去ってゆく背中を眺めて言った。
「なんかわけがありそうですね。」
「ええ、いつも彼女と俺の友人はもめているんですよ。小学校、中学校、高校、そして専門学校まで同じなんですよ。一緒にいすぎるからいけないんじゃないかと思うんですけど。」
「そうなんですか。それで、幼馴染の大志さんが喧嘩の仲裁役というわけですね。」
「そうなんです。」
「ところで、あの別嬪さんはどうされているのですか?」
「彼女は東京の美大に行きました。画家になろうとしています。」
「そうですか。あんなきれいな人はめったにいませんからね。俺は本当に一目ぼれしていたんですよ。」
松烏賊は頭を掻いた。大志はニヤッと笑った。
翌朝の一〇時、沙魚浅子は摩周丸の入り口で大志を待っていた。
大志が近寄ると「剣先君、おはよう。今日は朝早くからありがとう。」と、浅子は小さく手を振った。
「ううん。実は俺まだ飯を食べていないんだよ。イカそうめん食べに行くの付き合ってくれる。」
大志はおわんを片手に、箸で口に食べ物をかき入れるしぐさをした。
「もちろんよ。」
大志は行きつけの小さな店に入った。
「ここのイカそうめんはいつきても最高だよ。ほら、見て、この透明感。夜よりも朝のほうが美味いことが多いな。」
細切りにされたイカは透き通っていて光っていた。
「そうね。本当に透明ね。」
ズルズル、大志はイカそうめんをすする。
「ああ、うめえ。」
大志は片目をつぶって上を向く。
「ふふふ」浅子が笑う。
口の中のいかを飲み込むと大志が聞いた。
「それでどうなっているの?武との関係は?」
「もう駄目じゃないかと思っているの。一緒にいても不快な気持ちしか残らないのよ。」
「どうしてだろうね。奴は俺から見ても、なかなかいい奴だよ。嘘つかないし、約束は守るし。」
大志は視線をイカそうめんにもどした。
「そうなのよね。にもかかわらず、どうしてこんなに不愉快になるのかしら。普通は一緒にいて楽しいものでしょ。楽しくないのなら、一緒にいる意味がないと思うの。」
浅子が首をひねる。
「ひょっとしたら、他に女がいて、私のことが邪険になってきているのかもしれないって、思って。」
「それはない、それは。」
大志は箸をもっている手を大きく振った。
「邪険なのはいつも一緒にいられるから、甘えが出すぎているんだろうな。いっそのこと、二ヶ月間は絶対に会わないようにしてみたら。学校で会っても絶対に声もかけないようにして。二ヶ月会わなくて、清々すると二人が思えるのならば、そのまま分かれればいいんじゃないか?逆に、会いたくてしかたなくなるかもしれないし。そのときは、また会うようにすればいい。」
大志はおわんを箸でかき混ぜた。
「それはいいアイデアだわ。さっそく武と話してみる。」と言って浅子は手を叩いた。
「ところで、蛍の絵が賞を取ったこと知っている?」
浅子が体をテーブルに乗り出した。
「ああ、そうらしいね。手紙にそう書いてあった。」
ずるずる。大志がイカそうめんをすする。
「凄いわよね。絵の才能もあったなんて。彼女みたいに全てを備えて生まれてきた人なんて、私の周りには他にいないわ。」
浅子はお茶をすすった。
「そんなもんかね。」
大志もお茶をすする。
「そうよ。剣先君はそう思わない?」
「そういわれれば、そうかな。」
大志はまたおわんを持ち上げた。
「しっかりと彼女のことをつかまえないと、他の男に取られてしまうわよ。東京で彼女はもてもてのはずだから。」
そんなこと言われたって、俺に何ができると言うんだ。俺につかまるということは、彼女の可能性を潰してしまうことになるじゃないか。彼女の夢を潰すようなことは俺にはできない。

ケニ―奥谷