頭の痺れ
「頭の痺れ」
浅い眠りから覚めた。ベッド脇におかれている小さな時計のボタンを手探りで押した。緑色のランプがつく。六時四〇分。
まだこんな時間か。せめて七時だったらよかったのに。頭の痺れがいつもより強い。息をすることさえも面倒に感じる。
幸世はまた眠りにつこうとした。何も考えないようにして身体から力を抜く。そのまま三〇秒。
駄目だ、駄目だ。
バサバサ。幸世はふとんを蹴った。
こんなことをしていては、丸一日、起きられなくなる。
幸世はランニングパンツとシャツを着てマンションを飛び出した。
スタスタスタスタ。三分、走ったところで小さな階段を昇る。あがりきると川沿いの道が左手に続く。赤みがかった朝日を正面に受けて幸世は目を細めた。川から反射してくる光が目を直撃した。赤い光にまみれて幸世は走る。はるか前方にトライボロ・ブリッジが見えている。そこが幸世の一〇キロの折り返し地点。
これで今日も一日なんとか動けそうだ。
十一月下旬のニューヨーク。雲ひとつない青空が広がっていた。気温は三度。水筒を握っている手がかじかむが、右肩は太陽を受けているので熱くなる。橋のたもとに到達。金網にタッチして方向転換。遥か前方に摩天楼の群れを見る。
いつになったら、こんな面倒なことをせずに暮らせるようになるときが来るのだろうか。毎朝、普通に起きて楽しい時間を過ごせるようになりたい。
幸世の異常な症状が始まったのは、彼が小学五年のときのことだった。月曜の朝礼で突然倒れた。それまで風邪以外、病気などしたこともなく、きわめて丈夫な健康優良児だった。
“人間はみんないずれ死ぬ。なのに、なぜ生きるのか。”
ある日、そんな言葉が頭の中でまわりだした。その朝もそればかりを考えていた。すると、「キーン」という音が響きだし、鼻の下に汗がでだした。口の中が乾き、目の前が黒くなる。そして、校長の声が遠ざかって行った。
ドテッ。その音に周囲が驚いた。幸世は地面にたたきつけられていた。
スリルを求める心
「スリルを求める心」
「何をしているの!」
教室に入ってきた担任の片山が血相を変えた。
無理もなかった。幸世が両手で窓からぶら下がっているようすを見てしまっては。三階の窓から落ちれば命はないだろう。
「早くあがりなさい。早く!」
片山は慌てて走り寄って幸世の手をつかんだ。
「先生、手をつかまないで!手をつかまれたら落ちるから。自分であがるから手を放して。」
片山は恐る恐る手を放した。
幸世は懸垂をして身体を持ち上げてから足を窓の枠にかけた。そして、教室へと戻った。
バシッ。強烈な平手打ちだった。片山が幸世の両肩をつかんで激しく揺さぶった。
「なんで、あなたはいつもそんなことをするの!落ちたら、死んでしまうのよ。」
片山の目から涙が溢れでた。
「ごめんなさい。。。。」
「なんでなの?教えてちょうだい。」
片山が幸代の目をのぞく。
「スリルを味わいたかったから。。。」
幸代は下を向いた。
「なんで、そんなこと。。いつもいつもあなたは。。」
ウッ、ウッ、ウッ。片山は泣き崩れた。
「先生、ごめん。でも俺、やめられないよ。やめたら、生きるのがつらいもん。」
――その後も、幸世の危ない行動は形を変えながらエスカレートして行った。
「ゆきや~ん」
クラスメートの大久保と白石がかけてきて息を切らす。
ハアハアハア。
「どうしたんだ?そんなにあわてて?」
「ゆきやん、俺たちの通っている塾に、すっげえ強ええ奴がいるぜ。三小の番長だってさ。昨日、二小の奴と喧嘩になって、ニ小の奴は殴られて鼻血だしたよ。」
白石が息を切らせながら言った。
「ふ~ん、そんなにそいつは強いのか?」
幸代は鼻くそをほじくりながら言った。
「つえ~よ。」
白石と大久保が口を揃えた。
「それなら、俺がやっつけてやるよ。塾は何時に終わるんだ。」
「六時半。」
大久保が言う。
「それじゃ、塾の前で待っているから、でてきたら教えろよ。」
ピンと幸代は鼻くそをはじいた。
――六時半
幸世は漫画の本を読みながら塾の前にいた。しばらくすると、がやがやと生徒がでてきた。
「ゆきやん、こっち、こっち。」
白石が手招きをしながら呼んだ。
幸世はゆっくり白石のところに歩み寄る。白石の横には大きな体格をした奴がいた。
「おう、お前が山岸か。三小の番長だってな。」
幸代がにらむ。
「誰だよ。お前?」
山岸が幸代の足のつま先から頭のてっ辺まで視線を二回はわした。
「俺は姿だ。山小の番長だ。それじゃいくぜ。」
ガツン。幸世はいきなり山岸を殴った。拳があごをとらえた。
ああああああっ。
山岸はあごを押さえてうずくまった。
「なんだよ。弱いなあ。泣くなよ。そんなくらいで。」
「なんだと~。このやろう!」
山岸は立ち上がって幸世をつかみにかかった。だが、幸世はすばやく右足で山岸を蹴り上げた。ドスッ。みぞおちにけりが入った。
ゲエ~。ゲエ~。ゲエ~。
山岸はうずくまりながら、なんども嗚咽をあげる。
「なんだよ。よわっちいな。それでも番長かよ。」
ポロリ。山岸の口から歯が一つ落ちた。
「おっと、やべえ。悪かったな。そこまでやるつもりはなかったんだ。許せよ。」
幸世は山岸の腕を引っ張って立たせようとした。だが、山岸は動かずにうずくまったままだ。
「許せよ。」
そう言って、幸世は自転車にまたがりその場をあとにした。
―――翌日の放課後
学校の正門の前に、学欄を着た二人の中学生と山岸がいた。
「おい、姿を連れて来い。さもないと殴るぞ!」
三人は下校する生徒を捕まえては、そう言って脅した。
スリルを求める心
「大変だよ。大変だ~。」
白石が真っ青な顔をして、幸世のところに駆けこんだ。
「なんだよ。大変って?」
幸代は机の上に腰掛けていた。
「大変なんだよ。山岸が自分の兄貴とその友達をつれてきて、校門でゆきやんをさがしている。大久保が捕まった。」
「なんだって!」
幸代は机から降りた。
「昨日の仕返しをしにきたんだよ。相手は中学生だよ。」
「ふざけやがって~。自分が負けたからって、兄貴の助っ人をつれてきたってわけか。」
幸代はこぶしとこぶしをぶつけた。
「どうするんだよ。」
「どうするって、逃げるわけにはいかないだろうよ。」
「殺されるよ。相手は三人だよ。それも中学生だ。絶対に殺されるって!」
「俺が負けるときは死ぬときだよ。そしたら奴らも少年院行きさ。」
幸世は校門へとむかった。
「大変だ~。」
白石はそう叫びながら走りさって行った。
幸世は校門で三人と向かい合った。二人の中学生は、見た目、不良そのものだった。襟を広くあけて髪型はリーゼント。ぶかぶかのズボンに長い学欄。
一人の中学生に腕をつかまれて大久保が震えている。
幸世の背丈は一五〇センチ。中学生は二人とも一七〇センチ以上ある。
「お前が姿か。俺の弟をずいぶんとひでえめに合わせてくれたじゃねえか。」
「わるいって、あやまったじゃねえかよ。」
幸代は弟の山岸に向かって言った。
「ば~か。あやまってすむくらいなら、警察はいらねえんだよ。このくそがき。袋にしてやる。」
山岸の兄貴が幸世をつかもうとして手を伸ばした。
「やめなさい!なにやっているの!」
怒鳴り声がした。幸世の担任の片山が校舎から血相を変えて走り出てきた。
「中学生がよってたかって、小学生に乱暴していいと思っているのですか?少年院に行くことになるわよ。それでもいいの?」
「なんだよ、お前、先こうなんて呼んでくるなよ。根性ねえな。」
山岸の兄貴が言う。
「俺が呼んだんじゃねえよ。」
片山のうしろから白石が顔をだした。
「しかたねえなあ。今度、場所をかえて、やきいれてやるよ。」
「そんなこと許しませんよ。もしこの子に暴力をふるうことがあったら、警察に通報します。」
片山が山岸の兄貴をにらみつける。
プッ。山岸の兄貴は片山を睨みつけると唾を吐いて去っていった。
「姿君、いったい何をしたの?どうしてあんな人たちから待ち伏せされなくてはならないの?」
幸世は下を向いたまま何も応えなかった。
「応えなさい。姿君。」
片山がヒステリックに言った。
「たいしたことしてないよ。ただ、あいつが強いって聞いたから、殴りに行っただけだよ。」
「なんてことをするの!そんなの不良のすることじゃない。あなたは不良じゃないんだから。」
片山は幸世の両肩をつかんでなんどもゆすった。幸世はただ下を向いたままだった。
―――平日のゲームセンター
「なんで、今ごろ、君はこんなところにいるんだ?」
背後から声をかけられて、ビクッとした。振り向くと警察官だった。
「。。。。。」
幸世はなにも言わなかった。
「学校をさぼって遊びにきたんじゃないか?」
「。。。。。」
「そうなんだな。一緒に交番に行こう。」
そう言って、警官は幸世の腕をつかんだ。
スリルを求める心
引きずられながら幸世は逃げるチャンスを探していた。交番につくと、警官は幸世の腕を放して、机に座ろうと一瞬だけ背を向けた。そのすきを見逃さなかった。幸代は脱兎のごとく走り出した。振り向いて、幸世がいないことにあわてた警官は交番から飛び出した。まず右を見る。幸代はいない。左を見る。いた。
「待て、待て~。」
警官は大声をだした。
幸世はうしろを振り向いた。すでに警官との距離は二〇メートル。幸世は走ることには自信がある。逃げられると思っていた。
だが、警官の声を聞いた、通りすがりの若い男が急に走り出して、幸世の襟を背後から
引っ張った。幸世の喉がつぶれ、あまりの痛さに幸世は足を止めた。
「なにするんだよ。ばかやろう!」
幸代は男をにらみつけた。
「ほら、おとなしくするんだ!」
「放せよ。」
幸代は肩を大きく揺すぶった。
「なにか悪いことしたんだろ、お前。」
「なにも悪いことなんかしてねえよ。」
ドスッ。幸世は男の股座を蹴り上げた。
ぐ~。男は唸りながらうずくまった。すきをついて幸世はまた走りだす。だが、男はうずくまったまま手を延ばして幸世の足首をにぎった。
ドテ、ドテ。幸世はつんのめりに転んだ。そこへ警官が到着した。
「こら!」
警官は転んだ幸世を背後から取り押さえた。幸世の右腕は背中でL字型にたたみこまれた。
「はなせよ。はなせ!」
手が痛くて動きが取れなかった。
「駄目だ。おとなしくしろ。」
ゴツン。警官はこぶしを幸世の頭に振り落とした。
「いて~な。ちきしょう。」
「大丈夫ですか?」
警官がうずくまっている男に声をかけた。
「。。。。」
男は声もだせない状態で体をくの字型に曲げている。
「ばか!こんな酷いことをして。ほら、お前の責任だぞ。あやまれ!」
警官が幸代を怒鳴り飛ばした。
――――校長室
「なんで、君はそんな悪いことばかりするんだ!」
校長の唐沢が怒りの形相で怒鳴った。
「。。。。。」
幸世は応えない。
「姿君。どうしてなの?ねえ理由を教えてよ。」
担任の片山が優しい口調で聞いた。
「前にも言ったよ。」
小さな声だった。
「え?前に?なんて言ったの?」
片山が首をかしげる。
「スリルを味わいたいからって。」
「ばか者!そんなつまらない理由で、みんなに迷惑をかけて。」
校長が顔を真っ赤にして叫んだ。
「理由を言えって言うから、本当のことを言っただけだよ。それで文句があるなら、聞かなければいいのに。」
幸代は二人をにらみつけた。
怒りのあまり校長が手をあげようとしたところに片山が割って入った。
「待ってください。校長先生。もう少し姿君の話しを聞きたいのです。」
片山は振り返って幸世と目を合わせた。
「覚えているわ、その言葉。どうして、そんなにスリルを味わいたいの?」
片山が幸代の顔をのぞきこむ。
「どうしてって。。。。人間はみんな死んでいくだろ。俺だって明日死ぬかもしれない。だから、いつもわくわくすることをしていたいんだ。わくわくがないと生きるのがつらいんだ。生きていてよかったって思えないんだよ。」
「スリルを味わうことで、そのわくわくした気持ちを得ようとしているのね?」
幸世はうなずいた。
「分かったわ。それなら、そのわくわくは格闘技で味わいなさい。」
「格闘技?」
「そう、私の兄が空手の教室をしているの。そこでみっちりと味わえばいいわ。」
―――空手との出会いは幸世を変えた。幸世は空手にのめりこみ、一年もたたないうちに小学生の部の大会で優勝を果たした。そして、スリルを味わうために危険を冒すこともなくなった。
父の教え
「父の教え」
幸世は公立の中学に進学した。入学早々、小学校時代に悪かった奴から目をつけられることになった。
「おい、姿。お前、山小で番張ってたんだってなあ。三小の山岸の歯をおったんだってなあ。」
隣のクラスの粕谷明正が挑んできた。粕谷は杉小で一番喧嘩が強いと評判のワルだった。中学には周辺の四つの小学校から生徒が集まっていた。粕谷はすでに他の二つの小学校出の番長を倒していた。
髪型はリーゼント。体格もいい。タバコも吸っているのだろう。タバコとタバコを消すためにつかっている変なコロンの臭いが合わさって身体に染み付いている。
「昔の話しだよ。もうそんなことには興味はない。」
幸世は粕谷の目も見ずに言った。
「なんだ、タイマンはってやろうと思ったのに。それじゃ、しかたないな。俺に殴られろや。」
ブ~ン。粕谷がパンチをくりだした。幸世はとっさにスエーバックをした。拳が空を切った。
「あぶねえな。いきなり殴るなよ。」
「うるせえ。」
ブ~ン。またもパンチがとんでくる。
スタスタスタ。幸世は軽いフットワークでパンチをかわす。
「やめろよ。俺はもう人は殴らないんだよ。なぜだか分かるか?」
「そんなの知るか!」
ブ~ン。パチ。ブ~ン。パチ。幸世は粕谷のパンチを二度、手で払った。
「俺たちぐらいになるとな、殴っただけでも人を殺すことがあるんだよ。俺は人殺しになりたくないから、もう喧嘩はやらないことにしたんだよ。」
パチン、粕谷のパンチはすべて払いのけられる。
「なんだと?アホか。喧嘩に強くなければ、俺たちのとりえがないだろうが。」
「ばかか。俺をお前と一緒にするな。それなら仕方ないな。殴りはしないが、一回だけ、痛い目にあわせてやる。」
「フン。」幸世は粕谷のわき腹めがけてミドルキックをはなった。
ドカッ。
グエ。粕谷は思わずうめき声をもらしてうずくまった。
「やめておけ。本当にケガをするぞ。俺の負けでいい。みんなに言いふらせばいいじゃないか。俺に勝ったと。」
「つまらねえ奴だ。。。な。」
粕谷はうずくまりながら言った。
幸代がその場を去ると粕屋は体を横たえたまま動かなくなった。
――陸上競技場
中学では幸世は俊足を行かせる陸上部に入った。
位置について、用意、バ~ン。
ダッ、ダッ、ダッ。幸世は走った。一〇〇メートル先のゴールを目指して懸命に手を振りももを上げる。顔が風圧と振動でへこみながら上下に揺れた。右脇にかすかに見えていた選手の影が消えてゆく。もうすぐゴール。スル―。幸世の身体がテープを切った。都大会の一〇〇メートル短距離走で幸世は優勝した。
幸世の顔に汗が光っていた。幸世は応援にかけつけた仲間たちに大きく手をふって応えた。そのとき、幸世は生きている喜びを実感していた。
幸世は週に二回、空手道場に通いつづけた。中学三年になると、部活と空手の二つをこなしながら勉強にも精を出し、第一希望の都立高校に合格した。
――三月
幸世は高校入学をまじかにひかえ、落ち着いた日々を過ごしていた。そんなある日のことだった。いつもオフィスに入り浸りの父の四郎が喜び勇んで家に帰ってきた。
「おい幸世、よろこべ。今日は記念すべき日だぞ。父さんはついに大きな契約をとることに成功した。これで俺もお前も一生安泰だ。」
幸世の父は発明家だった。自分で物を発明しては企業に売り込み、ライセンス契約をして生計を立てていた。妻は、幸世が六歳のときに交通事故で死んだ。ちょうど四郎がサニー電気を辞めて発明家として独立したときのことだった。それ以来、四郎は悲しみを紛らわすかのように、仕事一本にのめりこんで行った。
それから九年。ようやく、これまでの苦労が実り大きな契約にこぎつけることができたのだ。四郎にとっては瞬く間のような歳月だった。だが、幼い幸世にしたら、九年という歳月はとても長い時間だった。
大きな契約がとれたお祝いに、四郎は幸世と駅前にある高級中華レストランで食事を楽しんでいた。
「こうしてレストランで飯を食うなんて、めったになかったなあ。この九年間、俺は毎日オフィスで寝泊りだったからな。会社に勤めていたときは、お母さんとお前をつれてよく食事に行ったもんだがな。覚えているか?」
四郎がビールをのどに流し込む。
「ああ、少しね。」
「なあ、幸世。生きていれば辛いことがたくさんある。なんでこんなに辛いことばかりなんだと悩むこともある。父さんはこれまでになんどもそうした経験をしてきた。母さんが死んだときもそうだった。でもな、どんなに辛いことに出くわしても逃げては駄目だ。正面から受け止めて戦うんだ。戦えば必ず勝てる。そして、勝ったときには、生きていてよかったっていう気持ちになれる。父さんはいつもその瞬間を求めてこれまで生きてきたんだ。」
「分かっているよ、そんなこと。俺だって、そういう気持ちでこれまで生きてきたんだから。」
「そうか、分かっているのか。。。それならいいんだ。その若さでそれが分かっているのなら大したものだ。お前の将来が楽しみだよ。お母さんがいたら、こんなに立派になったお前を見て喜んだだろう。これからもがんばって生きていくんだぞ。なにがあろうとも。」
四郎はビール三本と紹興酒をニ本も飲み、顔を真っ赤にしながらあれこれ昔の話しを幸世に言って聞かせた。こんなに浮かれた父親を見たことがなかったので、いささか煩さも感じたが、幸世は不思議な気持ちだった。
「それじゃ、父さんはオフィスに戻るよ。金庫の鍵がポケットに入っていなかった。あわててでてきたから、オフィスに忘れてきたのかもしれない。ちょっと心配だからな。先に帰って寝ていてくれ。父さんの発明があまりにもすごいから、近頃、物騒な奴らがうろうろしていてな。」
幸代は顔を上げて四郎を見た。
「そんな。父さん一人で大丈夫かよ。」
「冗談だよ。冗談。」
それから一週間、四郎が家に戻ってこなかった。幸世は四郎が行きそうな知り合いの家々に電話をかけたが、誰も四郎の居場所を知らなかった。そして、二日後、四郎の訃報が届いた。死因は自殺だった。オフィスで首をつって死んでいたのを、休み明けで出社した秘書が発見した。
幸世がまだ十五歳だったこと。また、遺書がなかったことで、幸世には四郎の自殺の動機らしきことは話されなかった。だが、幸世は廊下にでていた四郎の妹夫妻の立ち話しを耳にはさんでしまった。
「今回の兄さんのライセンス契約が無効になってしまったらしいの。」
「なんでまた?」
「兄さんが前に勤めていたサニー電気が急にその権利を主張したことで話しが流れてしまったらしいの。。。。奥さんを失ってからの九年間、この研究だけに没頭してきたでしょう。その分、絶望も大きかったんでしょう。ううううう。」
「お気の毒に。なによりも幸世君がかわいそうだ。」
ポタリ。ポタリ。幸世の目から涙が落ちた。
父さん、なんでだよ!なんで自殺なんかしたんだよ。生きてればいいこともあるって、俺にそう言ったのは父さんじゃないか。親が見本を見せてくれなければ、子どもの俺はどうしたらいいんだよ。。。。
幸代は一晩中棺おけから離れなかった。
―――幸世はそれから一人で暮らした。
大きな額というわけではなかったが、四郎に入ってくるライセンス契約金を四郎の妹が管理してくれたおかげで、幸世は暮らしに困ることはなかった。幸世は高校でも陸上部に入り、空手の道場へも通った。中学時代の延長のような日々を続けた。それに加えたことが一つあった。
ブン、ブン、ブブ~ン。アクセルをふかす。
ガチッ。ギヤーを入れる。
ブワ~。クラッチを放す。
ババババババ~。大きな音をたてて幸代の顔が風を切る。
幸世はスピードの世界へとのめり込んでいった。
環状八号線から第三京浜へ入る。第三京浜を時速一三〇キロ以上で飛ばして横浜横須賀街道へ。鎌倉の小高い山を抜けて湘南の海を横目に海岸線を飛ばす。
大垂水峠の大蛇がくねったような道を左右交互にバイクを倒しながら走る。ガリガリガリと、ステップが道路に擦れて黒い煙をあげる。
幸世は時間があると気ままに一人でバイクを飛ばした。スピードは形を変えたスリルだった。
そして、三年が過ぎ幸世は大学へと進学した。

ケニ―奥谷