閉じる


<<最初から読む

9 / 9ページ

移ろう

「解る、解らぬという話じゃないんだぞ、いず」
濡縁に並んで腰掛けながら、まるで童のように騒ぎ立てていた。
「亡くなられていた方は隣の国から嫁いできた方なんだ。
そんな方を自害させたとなったら、ウチの殿様は立場がないじゃないか。
おまけに自害に追い込んだ連中ときたら、堀に身を投げた
その方が現れると恐れて水を酷く嫌うのだそうだ。
そこまで嫌いで、恐れているなら、堀も、池も埋めておけばよかったんだ」
わざと大きな声で言い放って、周囲を見回す。
静かに風が小枝を揺らしているだけだ。
あおぎみれば、うっすらと曇った空を鳥が飛んでいく。
「あの妖は?」
「今日は見ておりませんが……」
城の裏事情は、化物が絡んだせいで民衆にまで知れ渡ってしまった。
あの化物は斬りかかられて、当たり前に斬り返してきたというから呆れる。
斬られてなんでもないのだから放っておけばいいものを
怪しい動きをしながら見慣れない剣を振るってきたのだそうだ。
瓦版にまで書かれた化物は、姿こそ化物らしく描かれていたが
何故だか、その衣装に筑後家の家紋が入っている。
こんなものを撒かれたら大変だからと、本家に相談に来たのに
あの従姉妹は意に介さなかった。
「お殿様は、どうなるのでしょう……」
「本来なら切腹というところを、
あの化物が水牢に閉じ込めてしまったらしい。
施錠された扉は、祈祷しても開かず……だとさ。
奥方を自害に追い込んだ連中も、同じく水牢の中。
まさに、天から落ちたも同然だ」
他の娘を嫁がせたくても、邪魔がいては仕方がない。
ただ……隣の国などから押し付けるように嫁がされた女に信用できる人物の少ないことが不幸の始まりだった。
「あの方は、あちらでは心を病んだ方と言われて
ここに嫁がされたんだってさ。
池を見ては、映る姿に語りかけるものだから……」
「水鏡さまと会った方だったのですね」
いずでさえ察することの出来ることだった。
確かに、あの化物は城に出てはいなかったのだ。
隣の国の城ならば、別の場所と理解して話す筈がない。
「自害させて、喪もあけたら輿入れさせる段取りが
ウチの当主が暴れて、すべて露見したわけだ」
「ヌイさまは、死霊に懐かれたと嘆いておられますが?」
今日も、あの従姉妹は護符などを買いに行くと言って出かけてしまった。
化物屋敷に護符を貼ってどうする気なのだろう。
「下手したら、ウチの家が潰されていただけのことを
あの当主さまはやってくれたんだよ。
何処まで知っていて暴れたんだか知らないけれど」
今回のことばかりは、流石に真之介も呆れ果てていた。
無茶をするとは知っていたが、ここまでとは思わなかったのだ。
「元をたどれば、全部あの化物が悪いんじゃないか。
解決した張本人みたいに、瓦版じゃあ書かれているけど!」
再び大きな声を出す。
ふと、傍に気配が立つ。
驚いて、身を引くと見慣れた姿があった。
「水鏡のことを、私に隠れて悪し様に言うとは見下げたな」
背負った得物に片手まで掛けている。
どうやら本気で怒らせてしまったようだ。
「いや……事実だろう?」
怒らせ慣れているだけに、いきなり斬りかからないと知っている。
「事実の欠片に過ぎないさ。本当に水鏡が全ての根源で、此処まで騒がれたら
いくら世間体など気にしない私でも示しが付かないと思う」
いずの手から、瓦版を取り上げて目を落とす。
つくづく、仕草の隅まで美しいと見惚れていると鋭い視線が向けられた。
「新しい殿さま選びに、水鏡は関わっている。
次の藩主様は我が家を引き立てる方になるだろうから
真之介も早く身を固めてしまえ」
「どうして、化物が関わるんだよ!」
言葉を無視して、背を向けられる。
そのまま行ってしまうのかと思ったら、ふと振り返られた。
「水鏡は私の婿なんだから、筑後の当主代理だ。
あいにく、私は死霊に懐かれて城などに行けないからな」
あの件で従姉妹に死霊が取りついたのは聞かされている。
堀に身を投げた女は、言い残したことが多すぎて夜中になると、従姉妹を訪れるのだという。
「当主代理なら、俺でいいじゃないか……」
普段から近隣の親戚付合いなどは全て真之介の仕事になっている。
こんな大事の時だけ、婿などと言い出されたら敵わない。
「真之介の代わりを水鏡に頼んでも構わないぞ。
親類どもが、アレを家に入れるというのなら
私は、水鏡の方が任せやすいくらいだ」
「入れるような家はないよ」
捨て鉢になって言葉を投げる。
『入れずとも、勝手に上がることならできるが?』
目の前に唐突に現れたものだから、見慣れているとはいっても
さすがに驚いて、声を上げそうになってしまった。
「帰ってきたのか、ご苦労だったな……」
その声が、従姉妹のものだと理解するまで数瞬の間があった。
あまりに優しい声色。あの幼子相手のときくらいしか聞いたことがない声。
その声に、目の前の化物が近付いていく。
相変わらずに結いもしない髪の間から衣装に紋が入っているのが見える。
―ウチの家紋じゃないか!―
あれでは瓦版の絵に嘘偽りはないことになってしまう。
だから従姉妹は意に介さなかったのか。
「嘘だろう?」
「何がだ……」
怪訝そうに従姉妹が見つめてくる。
それでも、やりきれなさが込み上げてきて仕方がなかった。
「どうして化物が、ウチの家紋つけているんだよ。
本家当主は、どこまで色惚けてしまったんだよっ」
「あいにく色惚けて婿を選べるほど、私は色香に機敏じゃない」
そんなことは知っている。
こと色事となると、幼子以上に疎いのだ。
「私に本家を継がせたのは真之介だし私は、とっくに水鏡と連れ添っている。
城に筑後のものとして行かせるなら家紋くらい入れたものを着せるのは当たり前じゃないか」
それは人としてなら当然だろうが、相手は化物だ。
不服を言おうとすると、横から袖を引かれた。
「ヌイさまは、あの衣装を仕立てるのに急げといって縫い子を脅されたくらいなんです。
なんでも反物だけがあったとかで……」
いずの耳打ちに、やりきれなさが涙になって溢れてきた。
反物で置いていたというなら、用意したのは千鶴の母だろう。
あの衣装贅沢な方なら、一人娘の婿装束まで気を回してもなんら不思議ではない。
ヌイは、かなぐり捨ててきた千鶴のものを化物に与えてしまったというのか……
「重ねて言っておくがな、気に入らないなら追い出せばいい。
私も、ちづるも流浪生活には慣れているんだ。
ただ今回の件で、水鏡を筑後家から切り離す方が難しいぞ。
化物騒ぎがあったら、筑後に声がかかる。
水鏡なしで、あんなものと張り合うのは私でも御免被る」
掌で顔を覆いながらも、平坦な従姉妹の声を聞いていた。
どうにかしようと思いながらも、策を練っていた。
その間に、従姉妹の方から畳み掛けてきたのだ。
「あとは任せたからな、いず」
何処か笑う様な声。
あの従姉妹は、決めた道を生き辛かろうが気にもしない。
色事に疎い従姉妹が惚れていると言い切ったときから、もう勝負は付いていたのかもしれない。
「せめて、普通の相手に惚れてくれよな……」
やっと出た愚痴を、聞いていたのは
同じように涙を浮かべたいずだけだった。
まだ一枚しか縫いあがっていないものだから、水鏡を着替えさせる。
妖の水鏡は、衣装を着替えるなど本来などしないものだ。
それを着せ替えさせるのは、ヌイなりに考えた結果である。
『良いのか?分家殿は、知らないままに悲しんでいるのだろう』
「己の知り得たことだけでは矛盾があると気付かぬなら
知らせるだけ無駄だと思うから黙っていた」
長襦袢姿で外を気にする妖の横で、ヌイは衣装を衣紋掛けに掛ける。
「あの奥方さまは、度々里帰りをされていた。
こちらでは寵愛をいただけないからと、寂しいだけでも
あちらにしてみれば、やはり病のせいかと思われる。
その度に、相手をしていたお前が悪い」
『だから、ヌイのいう事を大人しく聞いてやっているだろう』
長く人と接してきた水鏡だが、当たり前の人間のようには出来ない。
水面に映る姿に声をかけてきたものの願いを叶えるだけなのだ。
相手が人間同士の中で、どういう立場なのかなどとは考えない。
一人が寂しいと言っては水面に声をかけ続けた女は、ずっと傍に居て欲しいと願う
人ではない男に置き去りにされて愛して欲しいと願う相手を替える事にしたのだ。
だから、水鏡は願いを叶えた。
女の傍に居られない理由も、尋ねられたから答えた。
ヌイが否定していようと、水鏡はヌイを娶った気で居たのだから
傍に居て欲しいなどとヌイからさえ言われない言葉を叶えることは難しいと思ったのだ。
私欲で人の願いを叶えるからだと、ヌイの機嫌を損ねた。
それでも、城の後始末に着て行けと衣装を用意してきたりする。
「化物相手だと思えば、まともな話でも耳を貸さないものは多い。
水鏡が妖であることは否定のしようはないけれど
筑後家の者だと名乗らせるくらいなら容易い」
容易いことではないだろうと何度言い聞かせてもヌイは言い出したら聞かない女なのだ。
今回は水鏡自身、私欲で叶えた結果を悔やんでいた。
だから、それを出されたら言い返す気も失せる。
あの夜にヌイが叫んだように、後々に厄介になりそうな相手は
わざと刃を抜かせて、すぐに斬り捨てている。
そうしているうちに話も通るようになる。
体裁を保とうとするなら、化物に斬られたというより、筑後の当主代理に斬られたというほうが真実味が湧く。
何しろ、女当主の腕が評判になっている。
その代理というなら、それなりの腕と誰もが思う。
元凶なのだからと、後始末を終えたつもりの妖に言い
次の藩主選びにまで関わらさせられている。
水鏡は、ただ与えられた場所に居るだけだ。
それでも邪魔だと思えば斬ると知らせてしまったし
保身を図るものたちは、代償を払ってでも助言を求めてくる。
『あんな厄介ごとは、ヌイより私のほうが向いている』
「言われずとも解っているから行かないんだ。
私が大人しく聞いているはずがないだろう」
黙って下を向いていれば、人にしか見えない水鏡なら知らないものは人間だと思うだろう。
助言を求めて、そこで人ではないと気付いても遅いのだ。
妖の水鏡は、容赦なく代償を持っていく。
「それより、少しは話は進んだのか?」
本来なら水鏡を城になど行かせたくはない。
だが半端に関わっただけでは、権力の前に何を言い出されるか解らない。
あちらの方が上なのだから、仕方なしに常識外れを用意した。
水鏡の常識は、人には理解できない。
『進まぬ』
どうせ話を形だけ通そうとしたら、水鏡が邪魔なのだろう。
「あの保身だらけの家老は息災か?」
『あいかわらずの男だな……長きに巻かれるのが好きなようだ』
長いものに巻かれ続けていたら、ヌイを呼び出しはしなかった。
ひと月もの間、死霊をどうにも出来ずに立場の危うさを感じて
よく考えもしないままにヌイを呼び出したのが運のつきだった。
「母さま」
表の方から幼子が駆けてくる。
ふと、水鏡に気付いて慌てて姿勢を正した。
「おかえりなさい。父さま」
『私に気など使わなくて良い』
手招きされて、大人しく膝の上に座る。
「母さま、小次郎が御用は終わったって言っていたの」
「あまり効果も無さそうだな……その様子では」
小次郎には、買ってきたばかりの護符を貼らせていたのだ。
それを面白いからと見ていたのだから、ちづるにとっては効力も感じないものらしい。
水鏡にいたっては、そんなものでどうなるとも最初から考えていない。
『本当に追い払いたいなら斬ってやると言うのに』
「今は、我が家にさえ害がなければいいだけだ」
水鏡が閉じ込めた水牢の中の人々が見ているのは幻覚なのか、それとも本当に死霊なのか……
本物なのなら、気が済むまで現れればいいと思っている。
それでも、ちづるの前に現れたりしている以上は、この屋敷に来るなという意思表示くらいはしないといけない。
ちづるは気にしていないが、害があるなら困る。
ヌイは血の繋がりもない幼子を過保護にしすぎていると自覚している。
ただ、そうすることでしか安心できなかった日々が長すぎたのだ
夕暮れも近付くと、二人の使用人は台所で仕事をしている。
大屋敷に遠い牛小屋の近くで寝泊りしている小次郎にしたら最近までは滅多となかったことである。
「火が勿体無いですから……」
そんな言い訳をして妹の傍で藁を編んでいたりする。
「牛小屋には護符を貼ったのだろう?」
「はい、ありがとうございます」
小次郎にとって、あの老いた牛は家族同然だ。
だから死霊が牛小屋などに近付くまいと思っても
余計に買ってきて与えておいたのだ。
「小次郎……まさか、死霊が怖いのか?」
「え……」
むしろ怖くないのかと言いたそうな顔である。
夕餉の後始末などをしている妹のいずにしても不安そうだ。
「お前たち、水鏡に慣れたくせに……」
「旦那さまとは違うでしょう?」
兄も妹も、二人の使用人は常識外れな屋敷で馴染んできた。
雇われた時から女主の傍に居た妖は居ることを知らされた上で雇われている。
だが、死霊などは未だに見たことさえないのだから
それがやってくるようになったと聞けば恐ろしいのは当然だった。
「まぁ、違うといえば違うな」
仕方がないから、余っていた護符を二人に分けてやる。
「よろしいのですか?」
受け取りながらも、いずは不安そうだ。
「持っていて安心するなら何枚でも買ってきてやるし
何処そこの護符が欲しいなどがあれば、金を渡すから買いに行け。
障子紙かわりにしても構わない」
相変わらずの無茶な返事である。
この女主は、あちこちからの勝負を挑まれては稽古代だとか
なんだとかと理由をつけて金を渡されている。
二人の使用人には、手も届かないような額の護符を買ってきては紙くずのように扱うのだ。
「効き目があるなら、水鏡は無理でもちづるにくらいは
少しは効力を示すと思うのだがなぁ……」
「死霊除けの札ですから、お二人は平気なのでは?」
いずは札に効力があると思っていたい。
水鏡には慣れたばかりだが、幼子のちづるなどは
半分は人でないと聞かされても信じられずに接しているのだ。
あの聞き分けの良い愛らしい少女が、そういうものとは思えない。
「とにかく気にしないことだ。
害があれば、水鏡が斬ると言っている」
既に寝巻き姿の主が台所などにやってきたから
何事かと思っていたら、どうやら二人を気遣ってのことらしい。
「いつまでも妹に構っていないで、少しは女でも探しに行け」
ついでのように小銭の入った袋を手渡されて、小次郎は戸惑う。
「私は自分のこととなると色事に疎いだけだからな」
確かに所帯を持ってもおかしくない年齢だし、ここの給金なら充分にやっていけると思うのだが……
小次郎は、女が欲しいわけではない。
ただ、寝巻き姿の主の色香にあてられていただけなのだ。
そんなことをいえば美しい顔が恐ろしい変貌をする。
だから何も言わずに、その背を見送ったのだった。
既に灯りを落としている部屋で、ちづるは眠っていた。
枕元には抜き身の懐剣。
これを持たせて以来、死霊はちづるの前に現れない。
ただ、効果があったからなのか、ヌイが居るかなのか、そのあたりは訊く気にもなれずに過ごしている。
障子一つ隔てて、己の布団のもとに行く。
ちづるを一人で寝させるようになったのは、成り行きだ。
もとから屋敷には部屋が余っているから障子一枚隔てた。
今日は、その障子にも穴を塞ぐように護符を貼ってある。
『ヌイは身内には甘い』
「少し前までは、己とちづるだけで精一杯だったのだが」
いつの間にか現れていた水鏡の哂うような声にも、あまり気にもならずにそのまま布団に潜り込む。
夜目の利くヌイは灯りを落とすのが早い。
水鏡は人ではないのだから、もともと灯りなど必要ない。
月明かりさえ少ないから、部屋の中は深夜のように暗かった。
「己の技量など、まるで変わらないというのに、この家の名を借りて勝手気侭にしているだけだ」
『腕は上げたと思うがな……』
その言葉には少しばかり笑みが浮かぶ。
常識外れだの異常だのと言われる腕を持っていても、まったく歯が立たないのが水鏡の技量だ。
『ヌイほど人ではない私の何処に惹かれたのかが
解りやすい女も珍しい』
「解らないよりいいじゃないか」
色恋に疎いのだから、何処に惹かれたかと訊ねられても解らぬはずが
あまりに他に理由が無いものだから否定する気などない。
「私は水鏡が、人でしかない私の何処がいいのかさえ解らないままだ」
『まだ、そのようなことを……』
声が近付く。
耳に唇の触れるのを感じていた。
うつ伏せた視線の先には、灯りのない行灯がある。
その手前に転がっているのは、常に持ち歩いている硬い木の棒だ。
その棒が、コロリと転がる。
―何故なのですか……―
震える声は、聞きなれてしまった。
枕元に現れたのは思いを遺した死霊。
袖で顔を隠した女が涙声で尋ねてくる。
「また来たのか……」
どうやら、今日の護符も役立たなかったようだ。
―ヌイさまでなくてはならない理由……知りとうございます……―
日頃なら、水牢の中の藩主への恨み言などを聞かされるのに
今夜は矛先が違うようだ。
だが、その声が聞こえていないはずもないのに水鏡は相手をしない。
まるで居ないかのようにヌイに口付けて、身体に手を這わせていく。
「水鏡……?」
うつ伏せていた身体を抱き寄せられる。
唇を重ねられて、戸惑っていると腰紐が解かれている。
するりと落ちる片袖。
闇に現れる白い肌。
それに口付けられながら、水鏡の行動の理由を考える。
「……ぁ……」
身体が反応する。
初めて肌を重ねた夜から、水鏡は夜毎に抱いてくる。
身体は意志と関係なく覚えた快楽に反応する。
―水鏡さま!―
死霊の声が、すぐ傍で聞こえる。
『ヌイ、害であるかどうかはお前が決めたらいい
だが、私は先ほどから邪魔だと思っている』
「お前な……」
縋られたら叶えるのが水鏡の性質だ。
ただ、対価となる代償がなければいけない。
代償を失った死霊の声など聞く気もないということだろうか。
『この所、公にまで私を婿などと呼んでくれて嬉しく思う。
なのに、ヌイは邪魔だとは思えないのか?』
「あまりに憐れで思いつかなかったのだが……確かに、いつまでも来られるのは困るな」
憐れだとは思う。聞いてやって、気がすむのなら構わない。
だが、この様子では水鏡への思いは断ち切れそうにない。
「だから、聞かせてやれ。私を選んだ理由くらいは……」
背に腕を回して耳元で囁く。
その声が、どうしても笑ってしまう。
すぐ近くで、女のすすり泣く声が聞こえていた。
『縋ってこないなら、抱き寄せるしかないだろう。
気性は荒いし、武道の才もあるが……心根の優しい娘が誰にも縋ろうとしない。
他には居ない、そういう稀有な女は知らない』
以前から何度か尋ねてみても、はっきりとした答えを言わなかったのに
今宵は如何したわけか、言い聞かせるように答えてくる。
その予想外の出来事に呆れていたら、抱きしめられた。
『幼子の頃から気になる娘だった。それでも人でしかない娘なのだからと諦めていたら
ちづるを生かすために私と取引などをした』
素の肌に触れてくる腕が、掌が暖かい。
『異形の娘のために命まで懸けてきた。
他には居ない。この腕に抱きたいと思ったのは、そのときからだ』
「早すぎるだろうっあのとき私は十三だったんだぞ!」
初めて聞かされる話が照れくさく、大きな声を出してみる。
―十三……―
揺れる声に、まだいたのかと視線を向ける。
うなだれる姿は見慣れたものだ。
―この身を奉げても良いと言っても私を要らないと仰った―
『この色恋に疎い女を、ようやく色付かせたばかりで
他の女になど会いに行くのも面倒だったのだ』
やっと死霊にかけてやった言葉。
ふと気付いて、ヌイは死霊を見つめる。
涙の後が消えないその顔を見つめて視線を逸らさない。
「水鏡が現れたり話を聞くのを優しさだとか、そういう類のものだと思っていたのなら、
それは勘違いも甚だしいぞ?そういう性質の妖なんだ。
優しさでも、親切心でもない……そういうものなんだ」
『それでは、まるで私が優しくなどないように聞こえる』
髪に頬擦りまでされても、ヌイは死霊から目を離さない。
「水鏡が優しいのは私欲のためだけだ。
ようするに、私の機嫌を損ねないようにするだけだ。
こんなものと連れ合うには、お前は他人に頼りすぎる。
足があるうちに、しっかりと立たないから立てなくなるんだ。
己の死に様くらい、もう少し綺麗に見せてはどうか」
―私は……そういう女なのです……―
「ならば惚れた男の手にかかって消えろ」
揺らめく死霊の姿。
抱いていた腕が消えたと思ったときには、あの重い剣を振り切る水鏡の背が見えていた。
『だから斬ってやると、言うておったのに』
「いいじゃないか、おかげで良い話が聞けた」
笑うには、あの女が憐れに思えて堪える。
人ではない男は、少し目を離しただけでもとのように肌が触れていた。
「邪魔だと思ったら、いつでも斬ってくれ」
『まだ何かあるのか?』
腕に抱かれながら、目を閉じる。
己の死に様など、覚悟だけではどうにもならないときがある。
「私のことだよ。水鏡……」
『馬鹿なことを』
あやすように髪を撫でられながら、久しぶりに寝入ってしまっていた。
都からは少しばかり離れた小さな藩に妖が住まう武家があるという。
藩主は、その妖を当主代理と呼ぶ。
人ではないと知られながら、人の世に関わっている。
金の目をした妖は、そういう風にしてしまわなければ婿だと呼ばなかった女の傍にいるだけだ。
今日も朝早くから、二人の刃を交わす音が鳴り響く。
『肌を重ねていたはずが、どうしてこうなるのだ……』
「子が出来たからな。
動けるうちに腕を上げさせてもらう!」
回転した長い得物を突き出すと確かな手ごたえがある。
肩に刃を突き刺したままで、人ではない男は哂っていた。
「水鏡、お前のことだから気付いていると思っていたのだがな」
『知ろうと思わなければ気付きもしないのが、私だ』
刃を抜くと、流れ出るはずの血が僅かに衣装に滲む程度で止まる。
本来、人が持つ刃などではどうにもできないのが水鏡だ。
「ならば教えてくれ。どんな異形の子が生まれる?」
『同じ願うならば、異形でないことを願えばいいだろう』
そんな言葉にもヌイの白い顔は柔らかな笑みを浮かべる。
「願うわけが無いだろう。どのような姿でもいい。私の子だ。
この命を懸けてでも守って見せるさ」
『それでなくても短い人の命を、そう簡単にかけてくれるな。
私の子だからこそ異形なのだから、私にも役目を与えろ』
抱き寄せられて、クスリと笑う。
「また当主代理として、上からの仕事を任せると思うし
ちづるの相手だって頼まなくてはならない。
池に沈む暇など与えてやらぬからな……私の傍に居ろ」
『心得た……』
数百と生きてきて、やっと手に入れた女は人としてしか生きられない。
この腕に抱いた身体は、あと百年も持たずに崩れると互いに知りながら寄り添い、肌を重ねてきたのだ。
妖の子を宿したと女は笑って告げてきた。
この女は、何処までも人としての常の道を歩かない。
常識外れといわれても、この女は揺るがない。
それを知るからこそ、抱いた腕を離せなくなる。
『自愛しろ……ヌイは無茶をし過ぎる』
「性分だからな」
人ではない男に人としての常識を忠告されてヌイは笑うしかなかった。
「ちづるとは違うからな。次の子は跡取りとして育てる。
親類縁者にも認めさせる。もう……髪が赤い程度で、殺そうとするものなど居ない」
人の命は短い。
かつて、紅い髪の赤子を殺そうとした人々は死に絶えた。
髪が紅いままでも生きられるのだとヌイは生きて見せた。
それを辛いと思わないのが、この女の性分だろう。
妖に惹かれた想いは真っ直ぐに生き様となっている。
親類縁者へと告げねばならない従兄弟の泣き言になど
ヌイは笑うだけで構ってもやらずに済ませてしまった。
過去を見ていても何も変わりはしないのだ。
『千鶴』への思いを断ち切れない真之介の恋心は、どうしようもないのだということだけを知らされた。
―いつまでも、いつまでも、この平穏が続けばいい―
数百という年月を生きてきた人でない男は
恋した人でしかない女を腕に抱きながら、流れる時の速さを思っていた。

9
最終更新日 : 2011-05-20 16:32:19

この本の内容は以上です。


読者登録

猫屋雑猫さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について