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城と妖

―城内に現れし怪しのもの、討伐をされたし―
桜が散り始めていた。
そんな、うららかな日に届けられた文は
普段なら来ることなどない上の方からのものだった。
「城に出るという噂は聞かないなぁ」
ふらりと遊びに来ていた真之介でさえ知らない噂。
だが、こんなものが来るということは
以前の化物退治を真之介が解決したことになっている意味がない。
「真之介の方には何も?」
「そりゃあ、本家に寄越す方が筋だろ?」
確かに本家ではあるのだが。
近辺の分家などの親戚付き合いは、全て真之介に押し付けている。
本家だからといって、何かをしているわけではない。
「どうせ、疑われているんだよ。
此処に本物の化物が住み着いているのは有名な話だ」
「それだけなら構わないんだがな。
いずれにしても断る余地も無いのだから、出向くしかないな」
他のことならともかく、討伐だというなら話は簡単だ。
ただ、それだけだとも思えなくてヌイは気が塞ぐ。
「城には池くらいあるぞ?
案外、本当にその妖の仕業なんじゃあないのか?」
「水鏡が何処で何をしてきたかは知っている」
その話の本人は、聞いているのかいないのか
ヌイの背に寄り添って目を閉じている。
こうしていると、ただの人間にしか見えないから厄介だ。
幼い頃から従姉妹は美しかった。
最近は、口調も態度も男のようなままなのに
何処か色香が漂って、つい見惚れるような美しい女だ。
その傍にいて似合うと思わせるような美丈夫が
人ではないから、真之介は納得が出来ない。
「妖、本当に城に行ったことはないのか?」
『最後に呼ばれて出向いたのが一五〇年ほど前になるが』
それは出入りしていたことには違いないだろうが今回の件に関係があるとは思えない。
「水鏡、そのときの願掛けをした相手と願いはなんだ」
『ヌイは悋気をやきすぎだ』
妖の言葉が終わる前に空気を裂く音だけが聞こえる。
従姉妹が持ち歩いている棒切れが宙で受け止められていた。
この二人の動きは、見えないほどに早い。
『城の跡目継ぎ争いに加担しただけだ。
結局、あの男は己の力不足で死に至った。
あの男が記していたなら、私のことも記録されているかも知れぬ』
「ならば城には付いてくるな」
哂う妖の声に、不機嫌そうに返す。
『その身の傍に、この身を置けという願いを受けたのはヌイだ』
「ならば、勝手にしていればいい」
呆れたことに、そのまま城からの書簡に目を通す従姉妹の
首筋などに唇を這わせて抱き寄せている。
この妖は、妖なのだから人目も気にしない。
問題なのは、そんなことをされて気にしない従姉妹だ。
さすがに目のやり場に困って、意味も無く庭などを見る。
今日も小次郎が草を抜いている。
池の傍だけが以前のままなのは、ヌイが近付けさせないからだ。
うっかりと水面が波立たぬほどの水鏡になったときに
声をかければ、この家に住まう妖は節介を焼きに出向く。
それゆえ『水鏡』と名乗るのだということも知っている。
かけられた言葉は、願いだと受け止められて勝手に叶えられる。
叶えば、相応の代償を持っていくという奇妙な妖だ。
「なぁ、そこの化物。
その一五〇年ほど前とかの願いに代償は取ったんだろう?」
『領内に私の妻を用意させた』
「はぁ?じゃあ、今のヌイとの関係はなんなんだよ」
思わず頓狂な声を上げて振り向く。
二人は顔色も変えずに、先ほどと同じ姿勢のままだった。
『用意させただけだ。
どれも気に入らぬから、姿も見せずに終わっている』
「気にいらなかったって、お前は妖のくせに
人の女の良し悪しを選り好みするのか?
だいたい、どうして人の女を求めるんだよ。
化物同士で仲良くしていりゃあいいだろう?」
言葉は立て続けに出てくる。
常日頃から機会があれば言ってやろうと思っていたのだ。
『人が思うほど、人外のもの同士というのは互いに関わらないものだ』
「見越し入道の女房が、ろくろ首だとか……」
「真之介、そんな戯言ばかりの黄表紙まで読んでいるのか?」
ついと顔をあげて、説教のように言ってくるが
知っているということは従姉妹自身も読んだということになるのではないのか。
「あの手のものは、水鏡が買ってくる。
ちづるにまで読ませるから、先日も取り上げたばかりだ」
「どうして化物が、化物の物語を買って来るんだよっ」
真之介の大きな声に笑っているのは、たまたま茶を運んできたいずだけだ。
先日、なんとなく手土産代わりにと持っていった玉簪を
ちゃんと付けているのが解って、照れくさくて仕方が無い。
「ヌイさまが取り上げたものを、また兄が喜んで読むのですから
水鏡さまは、お優しい方だと思いますけれど」
「いず、しっかりしろ。これは、化物なんだぞ?」
そんなことは言われなくても解りきっている。
正月の代償の事だって、あまりに気に病んでいたら
主に気付かれて、全て教えてもらった。
この妖は、あのとき代償を持っていかなかったのだ。
あえていうなら支払ったのは主ということになる。
「真之介、いずと騒ぐなら離れでも貸してやる。
私は城に出向くから、留守の間は勝手にしていて良い」
「いや、離れって……」
赤くなって戸惑うのを良いことに、そのまま立ち去っていく。
ヌイとて上からの呼び出しともなれば放ってはおけないのだ。
日付が指定されていないのだから、すぐに行くべきだろう。
さすがに日頃のままというわけにも行かず
萌黄色の色無地に家紋を染め抜いた長着と
青鈍色の袴姿で袋にいれた愛用の薙刀を持つ。
白い足袋に、白い半衿、そして髪は白い布で纏めただけだ。
決して礼装などではないのだが、ヌイとしては精一杯の譲歩だ。
いつ戦闘になるかも解らないのに女としての正装など出来ない。
出かける前に牛小屋によると、小さな少女が牛と戯れている。
「ちづる、留守番を頼んだぞ」
「母さま……また、危ないところへ行かれるの?」
駆け寄ってくる幼子の頭を撫でながら、不安にさせまいと思う。
「お城に招かれただけだ。良い子で待っていなさい」
「父さまは行かれないの?」
最近は、すっかり両親扱いをされていて可笑しくなる。
育てたのは己一人だが、血の繋がりはない。
それでも愛しくて仕方の無い幼子だ。
「水鏡は勝手にするらしいから、私にも解りかねる」
「なら、きっと御一緒なのね」
安心したように微笑みが浮かんだ。
それで気が済むのなら、何も言わずにおこうと決める。
「何かあったら、小次郎にでも頼みなさい」
「はい、いってらっしゃい。母さま」
本当は不安なのだろうに、あの娘は何も言わない。
我侭を言うなと言った覚えなどない。
ただ流浪生活の中で、斬り合いなどを目の前で見て育った。
この腕を頼りに生き延びた小さな命だ。
ちづるは、決してヌイが危険な場所に行こうとしても止めない。
案じて、そして案じていることさえ口に出さぬよう心がけている。
幼いくせに気丈なところは、己が育てたのだから
仕方が無いのかと諦めはじめているくらいだ。
城の前まで来ただけで、門番の様子が変わる。
どうやら、ヌイの外見は知れ渡っているようだ。
それでも、寄越された文を取り出して見せる。
「筑後家当主、ヌイだ。城内に現れるという化け物退治に参った」
白い顔に浮かぶ笑み。
その般若の面のような笑みに門番は、何も言わずに通す。
筑後家の本家当主が化物に関わっているのは有名な話だ。
とはいっても、当のヌイ自身は何年も前に一度は捨てた姓を名乗ることなどない。
このような場所でもなければ、ヌイはヌイでしかないと思っている。
案内されて通された部屋には、既に幾人かの者がいる。
上座に向かって真っ直ぐに進み、最敬礼を示す。
畳を見ながらでも周囲の気配を伺うことは怠らない。
「筑後ヌイでございます」
有り難くも無いが、躾けられた姿勢は覚えている。
これだけの状態からでも、隙がないからこその本家当主だ。
「ご家老様、筑後の者を呼ぶなど不謹慎なのでは……」
囁くように声は潜められているが、全て聞こえている。
城内の取り巻きなど名も知らぬ。
だが、あちらは知り尽くしているようだ。
「毒を持って、毒を制すというであろう。
筑後殿ならば怪しいものに詳しいはずではないか。
そうであろう?」
「否定はいたしませんが……」
呼びかけられたのだからと、顔を上げて真正面の男を見据える。
ふ……と浮かぶ笑みは、愛想笑いとは程遠い。
「私は化け物退治に参った。それ以上に何か御用があるのでしょうか」
周囲にざわめきが走る。
不謹慎な態度だということは承知の上だ。
「ならば遠慮なく訊かせてもらう。
文に書き付けた怪しきもの、夜毎に城内の松の木に現れる。
丁度、殿様の御寝所から見えるような場所である。
放置するわけに行かず、早々に手を打ちたいのだ」
なるほど、急いで片付けたいから体裁もなくなったということか。
「その姿を見たという者は、どんな姿だったと言うのです?」
「青白い姿の女に見えたということだ」
誰からの言葉からも聞かされない。
「最初に見たのは、いつになりますか」
「もうひと月は経過しておる」
ひと月も夜毎に見えるのならば、騒ぎにもなるだろう。
推測するならば、身に覚えがあるからこそ恐れるのだ。
「その怪しいものを斬れと仰るのですか」
「相手は宙を舞うような動きをするらしい」
宙を舞おうが、実体があるなら斬れる。
問題は斬って意味があるかどうかだ。
水鏡などは、人の刃では胴を貫いても意に介さぬのだ。
「当然、祈祷などはされたのでしょう。
此処にいる方々にも祈祷師、占い師、医家まで揃っている。
それでいて、私を呼ぶというなら斬るしかないとなりましたか」
揃ったものたちを無能呼ばわりしたも同然の言葉だ。
静かに怒りを抑える気配だけはわかる。
ヌイの笑みが消えない。
下座から見上げてくる目は、哂っている。
「水鏡、その女に覚えはあるか?」
ふいの言葉に周囲が戸惑う。
女の背には、寄り添うように美丈夫が座っていた。
「化物!」
立ち上がる人々を制する気配は無い。
どうせ、水鏡は人では斬れない。
「それが噂の筑後殿の婿殿か……」
「婿かどうかは知らぬが、私に付きまとう妖といえばコレだろう。
ご家老、本当に退治する気があるならコレは役に立つ」
既に刀に手をかけていた周囲のものも、その平常さに毒気を抜かれる。
「斬りあいでもしたいなら、水鏡は相手をするだろう?
いくらでも斬りかかってみたらいい。
人ならぬものとは、こういうもののことをいうのだ」
『ヌイ、私は話をするために現れただけだ。
お前以外の、しかも男などと斬りあっても面白くも無い』
つまらなそうな妖の声は、実に聞き慣れない異質な声だ。
「家を取り潰されておかしくないだけのことを平然と行うからこそ、私は呼ばれたと思っている。
私に何を望まれる」
哂う顔は美しい女のものだ。
凛々しく髪を纏めているとはいっても、その姿は美しい。
それなのに、周囲の者たちは嫌な冷たい汗が止まらなかった。
「家を潰すなど、我らは望んではいない。
その怪しいものが役に立つというなら、話も聞こう」
さすがに体裁もあるのか、それとも本当に家老としての技量があるのか
額の汗を拭いたあとは、常の声で話しかけてくる。
それを水鏡は可笑しそうに哂っている。
『私が知る女なら、ひと月前に自害した。
寵愛を貰えないと嘆くから、願いを叶えた。
代償に奪ったものはコレだ』
上座に向けて投げる小さな布。
かすかに漂う香りに、それが匂袋だと誰もがわかる。
慌てて拾った者が家老の手に渡している。
「御寵愛の代償が、そんなものとは……
やはり化物は化物。
釣り合いというものを知らぬのだな」
何処の誰とも知らない家臣の一人らしき男の呟きを、ヌイも水鏡も哂って聞き流す。
水鏡の奪うものは、相応のものなのだ。
少なくとも、奪われた本人は相応のものを奪われたと感じる。
そうでなければ、ただ便利な妖怪になってしまう。
「筑後殿……これは……」
顔色を変えているのは、家老だけだ。
「すまぬが、集まっていただいた方々はお引取り願いたい。
たった今、見たこと、聞いたこと、全て話すことを禁じる。
話せば、死に値すると思っていただきたい」
その声が、僅かに震えている。
戸惑う人々を、気にもしていないように見えるのは
事の発端を起こした者たちだけだ。
「さぁ!早う立ち去れぃ」
青い顔になった家老の叫び声に、訳も解らぬままに
人々は出て行く。
残ろうとする家臣にでさえ、去れという合図をしている。
廊下を行く人々の足音が遠ざかっていく。
広い部屋に残されたのは、三人……いや、一人は人ではない。
その人でない男は、上座も下座も関係なく女の背に背を預けてくつろいでいる。
「あれは、叶えるのに苦労していたのではなかったか?」
『人の心のさまを変えるなど、本来は私の領域ではない。
それだけに私なりに知力を尽くした』
ならば代償は大きいはずだ。
水鏡が、どれだけ知力を尽くしても所詮は人の願いだ。
この妖に縋って幸福になれるとは、ヌイは欠片も思えない。
「筑後殿、その怪しき者の行いを把握しているのか?」
「周囲に『婿』などと思われるような間柄なのだから
この妖は、私に全てを話す」
人の夫婦でも秘密の一つや二つはあるものだ。
ないということが、人でない故なのだろうか。
「それを見るだけで、現れるものに覚えがおありの様だ。
ご家老、本当に私が斬って済むことなのか?」
苦悶の表情を浮かべたまま、視線を落としている。
手のひらの中の、小さな布袋。
そんなもの一つで、態度は急変した。
『中を開けてみるといい。
私以外が持っていては、性質の悪いものだと判断している』
化物の異質な声に急かされて、震える指先で中を開ける。
瞬間に強く香りが広がる。
その中には小さな紙切れが入っていた。
―枕女と呼ばれしことを―
歪んで滲んだ文字は、女の手によるものだろう。
性質の悪いものとは、よく言ったものだ。
入れられた匂袋には城主の家紋が入っている。
こんなものを贈られたら、女は娶られたと思うに決まっている。
その女に、枕女と呼んだのなら戯れであっても女は悲しむ。
挙句に身を投げたということだろうか。
「殿が、急に気に入ったと抱えた女は多くはない。
これだけのものを持っていたなら、なおさらだ」
「だから、訊ねている。
私は化物退治に来たのだ。
いくら上の方だからと言われても、己の女の後始末
女の私が付けてもいいのかと訊いているのだ」
ふと、我に返ったように家老が顔をあげる。
「そうだな……筑後殿は女であったのだな……」
そういう問題ではない。
ヌイは苛立たしくて仕方がない。
本来、己の女の始末くらい他人任せにするなといいたいのを
少しは遠慮しただけに過ぎないのだ。
「しかし、考え直せば事の発端を起こしたのは水鏡だ。
お前が、己の領域を越えてまで節介を焼くからいけない。
他人の色恋に手出しをするほど、暇なのか?」
既に背の妖に向けて放つ殺気は本物だ。
手にした得物も、いつ袋から取り出しても不思議ではない。
『ヌイ、そういう話は帰ってから聞く。
思い通りにならぬと刃を抜く癖は、私に対してだけなのだな』
「お前には、いつか勝ってやるっ」
犬も食わぬという喧嘩のはずなのだが
目の前の二人の場合は、どうにも異質だ。
殺気を放つ女を嗜める妖……
しかも、この女の腕前は有名だ。
「その……筑後殿……今回のこと、引き受けてはくれないのか」
あまりに奇異な二人に、家老は不安を隠せない。
ひと月もの間、なにもしていなかったわけではない。
考えられるだけの手を打ち、それでも何も解決はしなかった。
それが、あっさりと怪しきものの正体を教えられてしまった。
筑後家の当主は、妖魔に魅入られた美女だと聞いていたが
実際に会ってみれば、そのようなものではないと解る。
「私でなければ、この件は治まらないだろう。
我が家の妖が発端なのだから、私が始末をつけるのは筋だ」
『また要らぬ事に関わるのか、ヌイ』
「要らぬことなどではないっ水鏡が悪いんだ。
今宵は、お前にも手伝ってもらうからな」
呆れるほどに妖物相手に親しげに話す。
これでは『婿』だと噂されても仕方がない。
「それでは今宵、早速に退治していただけるのか」
期待は大きい。
思わず声も弾む。
「退治というと気が引けるな。
哀れな女の死霊であろうに」
何もないはずの天井などに視線を移す姿は
やはり間違いのない美しい女なのだ。
それなのに、話しているだけで気圧されて女だという事を失念する。
「ご家老、あれは私への警戒か?」
突然の問いに戸惑う。
視線は天井を向いたままだ。
細められた目が、静かに笑みを浮かべる。
「少々、失礼を致すがご容赦願う!」
聞こえた時には目の前には誰も居なかった。
視界の端を過ぎる青鈍色。
―タン―
短い音が聞こえて、木の欠片が降ってくる。
続いて、鈍い音と共に落ちてきたのは見知らぬ男だった。
「筑後殿……?」
その背に石突を当てて、片足で首を押さえているが
どう見ても、既に意識などあるとは思えない。
何が起こったのかも解らないまま、ただ噂通りの腕前を
見せ付けられて唖然とするしかなかった。
「この話、外に漏らせば死に値すると仰ったのはご家老であろう。
ならば、盗み聞きしたものは見逃してはいけない」
男の何処にも斬られた様子などはなかった。
それでも意識を失っているのだ。
「これが、筑後殿の腕前か」
「少々、天井板が壊れてしまったが……
人一人を落とすには、致し方がなかった」
まるで見当違いの返答。
天井板のことなど気にする余裕はなかった。
いくら動きが速いといっても、そこは人のすること。
所詮は女が、女として薙刀などを振るうだけだと
多くのものが思うように、城の中でもそれは常識だ。
だが、今見たものは違う。
視線を外した気もなく、気付いた時には男が降ってきた。
その距離、その高さ、どう考えても尋常ではない。
「ご家老、これに覚えがおありか?」
不審者とはいえ、足で踏みつけたままで問うてくる。
「いや……記憶にはない顔だが」
そもそも追い出した者以外が、何故潜んでくるのか
それ自体が不思議に思えた。
「水鏡、これを如何したらいい?」
不謹慎なほどに愉しそうな声を出す。
呼びかけられて、一度は消えていた妖が再び姿を見せる。
「水牢にでも入れておけば良いだろう」
「どうして水牢なんだ?
つくづく水が好きな妖物だな、水鏡……まさか正体は河童などと言い出すなよ?」
ふざけている様な口調で話しながら、踏みつけていた男の衣装を探る。
何も出てこないと解ると、するりと気を失った男の帯を解いて
手足を縛り付けてしまった。
普段から馬乗り袴を身につけるヌイにしてみたら男が帯を解いた程度で衣服に乱れはないと知っている。
『河童だったら、今さら如何にかするのか?』
「ちづるが可哀想だと思っただけだ」
ヌイが男を扱う様は慣れている。
知られていないだけで、赤い髪になった千鶴はヌイと名乗り赤子を連れて流浪の旅に出た。
十三になって間もない頃の少女が赤子など連れて歩けば襲われる。
赤い髪は、見世物になると好奇の目に晒された。
襲われれば、迷わず刃を抜く。
十三で既に少女と思えぬ腕を持っていた。
得意の薙刀があれば、殺さずとも簡単に倒せる。
路銀は、そうして稼いだのだ。
見栄も何もなかった。
武家の跡取り娘として躾けられたものは、かなぐり捨ててきた。
その結果が、本家当主となってしまった今のヌイだ。
武家の見栄など知っていて無視をする。
此処が城内だと言うことだけを気に留めているだけなのだ。
「着ているものは、紋もないが安いものではない。
顔を隠しもせずに天井裏に上るなど素人もいいところだ。
埃で咳き込み、私に気付かれたが……
水鏡、お前なら先を越すだろう?」
咳き込んだ声など聞こえた覚えはない。
確かに男の衣装は埃まみれだが、気付く方が珍しい。
『ヌイ、そういうときは素直に教えてくれと言えば良いだろう。
その男の素性、事情、何が知りたい?』
異質な声は、やはり化物なのだ。
知りえるはずのないことを、知っていて当然のように言う。
「知りたいのは私ではない。だから、代償を奪うはずのことは問えない。
私が支払ってすむものなら、話してくれ」
思わぬ言葉に驚き、反射的に身体を浮かしていた。
ゆっくりと笑う白い顔が向けられる。
「何を驚いていらっしゃるのか。ご家老」
「代償とは……
筑後殿が支払うというのは、いったい……」
先ほど、この化物が奪った代償なるものを見せられたばかりだ。
「この妖は、願いをかなえると相応の代償を奪う。
私から奪うのなら構わないといっている。
今回のこと、元をたどれば水鏡が悪い。
それでも妖であるかぎり、性質までは変えられぬ。
代償は何を奪う?」
先ほどから、まるで睦まじい夫婦のようだとばかり思っていたら
女は相手が妖だと理解したうえで、その間柄を保っているというのか。
『ヌイが支払ってすむ話ではないが……
ヌイが支払うと言い出したのは、私を思うからだろう?
話の根源が私にあるなら、私に害が及ぶ。
私は構わないが、我が家の平穏が崩れる』
「解っているなら、話してくれたらいいだろう」
笑顔のままで刃を向ける相手は、人ではない。
『話さずとも、水牢に入れれば吐露する』
女の向ける刃を素手で除けて、金の瞳が哂っている。
「少しばかり甘えてやったのに、先を言いすぎだ。
この男、水に弱いのだな?
それですむなら、こんなものの始末は私の役目ではない」
気を失い、手足を縛られた男を蹴り飛ばす。
僅かに呻く声が聞こえても、ヌイは意に介さない。
もう、興味などないかのように足元に転がる男を見ようともしない。
「あとのことは、ご家老にお任せしたい。
ご家老の命令を無視した行動を取ったものがいたのだから
居合わせた私が捕まえただけのこと。
居合わせた妖が弱みを知っていただけのこと。
私は、この先のことにまで関わる気はない」
刃を下に向けているだけで、抜き身の薙刀を片手に
筑後家の当主である女は、平坦で、冷淡な言葉を寄越した。
「何処の立派な御家の方かも知らぬ世間知らずな女だが
これでも、筑後の当主を任されている。
不審な動きをされたら、ご家老の身に危険ありと
判断させていただくし、その上で命をとってやるような
武家のものへの情けなどかけてやらん」
視線を送ることもしないで、意識を取り戻した男への警告だけを放つ。
無作法な動きをするし、不謹慎な態度でいても
ヌイは武家の心得を叩き込まれた少女だったのだ。
男が武器となるようなものも持たず、素人判断でやってきただけでも
これ以上の動きを起こせば骨くらいは折るつもりでいる。
それでも殺してやる気などない。
人を殺すことになど慣れている。
慣れているからこそ、斬る必要のない者を斬らないのだ。
「筑後殿でなければ、この男すら取り逃がしたであろう。
噂以上の腕を見せていただいた……」
どんな噂が流れているのかくらいは知っている。
だから、それが素直な誉め言葉でないことも理解していた。
「これ以上、此処に留まっていても良いことはないと思える。
ご家老は、不届き者を成敗なさらねばならないだろうし
私は怪しいモノを成敗するために行きたい場所がある」
「行きたい場所?」
するりと近付く白い顔。
ぞっとするほどの笑みに気後れしている間に耳打ちされる。
「そ……それは!」
「殿には、私の独断で通してくれていい。
勝手にしたこと、知らぬことと言い切ればいい」
ふ……と笑みが柔らかくなる。
その豹変した美しさに見惚れる。
「私は殺気を放つと、人に恐れられる。
殿さまが、女一人に恐れなど抱くはずは無いだろうが
ここは、念のためだと思っていただきたい」
噂は聞いていた。
筑後家当主の女は、化物を婿にするような恐ろしい女だと。
その一方で、化物に魅入られた美女だとも聞いていた。
噂は、噂でしかない。
目の前にいる女は、噂どおりの美女だし恐ろしい腕前を持つことも知らされた。
だが、そんな言葉で片付くものではない。
「全て、殿の身を案じての策と仰るのか」
「怪しいものの狙いは、間違いなく殿の身にあると思う。
相手は未練と執念の残骸だ。
ただの妄念なら、いっそ俗世の思いなど切ってやればいいのだ」
見ても居ないはずの怪しいものを、知っているかのようだ。
そんな思いを見抜いたのか、女は哂う。
「ウチの妖が、かかわった女のことなら知っている。
だから私が始末をつける。
代償の品は、水鏡の手にある……
すべて、外に漏れるとしたら先ほどの男のような連中からだ。
お気をつけられよ」
するりと立つ姿は、仕草の隅々までに隙が無い。
「勝手に行かせていただく……」
背を向けたままにかけられる言葉。
からりと障子を開けて出て行く。
止める言葉など思い浮かばなかった。
―勝手にしたこと、知らぬことと言い切ればいい―
家老の許可のもとなどと、あの女は言わぬと言っていた。
ならば知らぬ振りをしていればいい。
冷たい汗を拭きながら、保身を考えていることさえ気付いていなかった。
板張りの廊下を足音も立てずに歩く。
萌黄色の長着に青鈍色の袴姿。
城内を袋に入れているだけで、明らかに得物を解るような
長いものを持ち歩いているというのに
その姿を視界に入れても、誰もが見ぬ振りをした。
奥に進めば進むほどに、本来なら呼び止めるはずのものが
見えないように振る舞う。
ヌイの背には、当たり前のように水鏡が付いてきている。
常のように歩くのではなく、わざわざ宙に浮いたままの姿で
ふわふわと、いかにも妖しい者と解る動きだ。
「よほど、化物の相手に疲れているようだな……」
『困れば縋るものを』
あえて聞こえるように話してみても、誰も咎めない。
ヌイが着ているのは、筑後家の家紋入りの衣装だ。
この城の中でさえ、界隈で一とまでいわれる古い武家なのだから
その家紋を見れば筑後の当主だと誰もがわかっていた。
―筑後の女当主は、化物を婿にしている……―
噂は、本当だったのかと思えば誰もが関わることを避けた……
「こうも、あっさり殿の寝所に辿り着かせていいのか?
死霊より私のほうが確実に殿を殺せるのに!」
ヌイが喚いても、誰も出てくる気配すらない。
馬鹿馬鹿しくなって、きっちりと纏めた髪を解く。
『相変わらず、無茶をする女だ』
殿様の寝所などという場所で、いきなり衣装を脱ぎ始めたのだから
普通は驚くところを、予想していたかのように水鏡は見ている。
「女の悋気というのは、相手の男を取り殺すことより
奪った女を狙うことが多いんだよ。
まずは、殿を安全にしなくてはならないだろう?
それに殿だって、警護役とは思わないはずだ。
私が無作法の極みだと言われていても、殿の体面は保たねばならない」
鶴の織柄の白い長襦袢姿。
部屋の隅に脱いだ衣装は綺麗に畳まれて、目立たないように置かれる。
ただ、手許には袋に入れたままの獲物がある。
『私以外の男に、その肌を触れさせるというのか?』
「水鏡……どうして、そういう話になるんだ。
だいたい、お前が半端に女の願いなど叶えたのが間違いだ」
本来の水鏡なら、己の領域を超えて動きはしない。
この件に水鏡の私欲が、最初から絡んでいることくらい知っている。
「寵愛が貰えぬと自信を失くしたところまでは納得する。
だがな、現れた化物すら抱く気も起こらぬ女などと卑下したと
私は、そう聞いた記憶がある。
つまり、その女は水鏡に抱かれたかったんだろう?」
『私は誑かしてなどいない』
そんなことは知り尽くしてる。
この妖は、女を誑かす気もなく誑かす。
「抱けば、私が悋気を焼くと水鏡なら思うだろうし寵愛を頂く方法を探すに決まっている。
人の心は移ろうものなんだ。
水鏡が策を練れば、人の身で逆らえるはずなど無い」
移ろいやすい心は、また移るのだ。
「悋気くらい焼かせておけばいいんだ。
どうせ、私のことだから刃物を振り回せば気が済む程度だ。
私と斬りあって、また私に勝てぬと思い知らせば済むことじゃないか」
他人事のように言い切る様を、人でない男は眉根を寄せて見つめる。
「お前は人ではないのだから、抱いた女から代償を持っていく。
私欲で抱くのが、わたしだけならそれでいい。
気にしすぎなんだ」
『私が人ではないように、ヌイは人でしかない。
当たり前に傷付き、それを認めることなどしない女だ。
わざわざ移ろいやすい人の心を、移ろいやすくするほどには
私はヌイを手放してもいいとは思えないのだ』
珍しく沈んだ声で告げてくる。
金の瞳が哂っていない。
「困った妖だな、水鏡。
お前を思いやれるほど、私は出来ていないんだ。
私は水鏡に甘えているし、寄りかかっている。
お前は、いつものように哂っていればいいんだ」
背筋を伸ばした姿勢で、まっすぐに告げてくる姿。
『思えばこそのことであるのに、実に素っ気無い』
不満そうな言葉を置いて、妖は姿を消した。
常のように、どこかに気配を残してもいない。
「少々……甘えすぎたか……」
夕闇の色が移る障子を見ながら、少しばかりの後悔をする。
夜中になれば死霊は来るのだろうか。
過去を悔いることを嫌う女は、既に次の策を練っていた。
何も知らされないままに、その男は億劫な気持ちで寝所に入る。
すっかり怯える癖が付いていたものだから
見慣れない姿のものが先に寝所の隅に座っているのを見たときは
思わず声を上げそうになるくらいに驚いた。
「失礼致しております」
深々と頭を下げられて、それが女だと理解する。
見知らぬ顔だ。
行灯の灯りの中で見る白い顔……
ふ……と浮かぶ笑みは、妖艶である。
「さては、何処ぞの者が好機とばかりに娘を寄越したか?
これだけの騒ぎ……一人寝するしかないからな」
「名乗り遅れました。
我が名、筑後ヌイと申します。
以後、お見知りおきを……」
姿勢正しく名乗られて、その凛とした視線の鋭さに気付く。
「筑後……何やら聞いた名だ」
落ち着かない気持ちになりながらも、長く嫌な夜を過ごしたせいで
人肌が恋しくて仕方が無かった。
傍によって、女の顔を見つめる。
呆れるほど視線を逸らすことの無い瞳は、明らかに今までの女とは違う。
触れれば、その肌の暖かさに安堵する。
「私を死霊や、妖と思ったのなら詫びましょう」
何処か笑うような言葉に、誘われるように抱きしめた。
ただ一人でいることが恐ろしくて仕方が無かったのだ。
「この姿だ。据え膳にしか見えないことを承知のうえで申し上げる。
できれば、このまま動かずにいていただきたい」
いきなり口調が男のようになった女は、相変わらずに哂う。
傍で見れば、その美しさに呆気に取られる。
腕の中から見つめてくる瞳が、あまりに鋭いことが気がかりだ。
「藩主さま、あなたの安眠を奪うものがいるのでしょう」
「知っていて来るとは、豪気な娘だ」
口付けようとすると、さりげなく顔が伏せられる。
「さすがに色事に及んでしまっては、私とて困るのだ」
髪の間から見上げてくる瞳。
白い顔に笑みが浮かぶ。
その般若の面のような笑みに戸惑う。
「失礼した……」
すぐに治まる殺気。
だが、先ほどの笑みは本物の殺気が篭っていた。
「何者だ?夜伽相手ではないということか?」
「名は名乗った」
囁くような声。
その声の艶に、男の本能が反応する。
力付くでもと思った瞬間には、動かす前に手の上に手が添えられた。
「どうか、動かずに……」
驚くような早業である。
優しく手は添えられただけだが、動きを見切ったのは間違いない。
「ご無礼は重々承知のうえのこと」
無礼を働かれたと思うよりも、何が起こっているのがわからなかった。
添えただけで抱き寄せたような姿のまま、下を向く女を見る。
ふと……不安を感じて、障子へと視線を移した。
「……う……うわぁあああっ」
突き飛ばしたはずの女が、宙を舞うのを見た。
床から拾う長い袋。
静かに障子の向こうに立つ姿が、炎のように揺れていた。
「お待ちしていた」
わざわざと障子を開けてやる。
瞬間に飛び掛るものを、女は長い得物で薙ぎ払う。
「お話がしたいだけだ。私の刃では斬れない」
斬れずとも、掴みかかろうとしたのを退かせたのだ。
障子の向こうから現れたものは、濡れた髪を引き摺りながら
悲しそうに見つめてきた。
「間違いでなければ、先の局さまであろう?
亡くなられた事さえ伏せられたままだが……
何を思い遺されているのか教えていただけまいか」
―枕女の身で気安く声などかけてくるでないわ!―
死霊の恫喝は、吹きすさぶ風の音のようだった。
「そんな一言に囚われたままなのか……」
悼むままに瞳が向けられる。
死霊などに同情しても仕方が無い。
「その言葉、寄越したのは誰なんだ?」
ついと向けられた視線の先で、腰を抜かしたような有様の男がいた。
「知らぬ!知らぬぞっ」
否定する様に怒りをむけようとするのを、薙刀がすいっと止めに入る。
「直接の言葉だったか?」
―信じ得られる者から聞き及び……―
さすがに死霊とて言葉に詰まる。
「ならば、罠に嵌っただけかもしれない。
あなたが寵愛の代償に支払ったものは、寵愛の象徴だったはず。
それを失えば、心が揺れる。
揺れていることに気付かれたら、罠くらい仕掛けられる。
その命、捨てる前に如何して……
どうして、もう一度水鏡を呼ばなかった!」
激しく振るった薙刀は、実体を持たぬはずの死霊を裂く。
ゆらり……と揺れて姿をとどめても
先ほどのような、おどろおどろしさが消えている。
―水……鏡?―
「池の中から現れる妖物だ。
化物の癖に、やたらと見目が美しい男だ。覚えがないとは言わせない」
斬れぬ筈の相手に切っ先を向けて、白い腿が露わになるものも
気にせずに薙刀が構えられている。
―一度で大きなものを失いました……
あの方の力を借りれば、私は次に何を支払えばいいのか―
「だからって、死んでしまうくらいなら
命でもかけるつもりで呼べばよかったんだ」
くるりと掌の中で回転する薙刀の柄。
刃が下を向いている。
「あなたは、もう支払うものも無いから呼べばいい。
その未練……このまま抱き続ける方が幸いなのか?」
ふるふると死霊が首を横に振る。
―けれど、この身は池に映りません……―
「あなたは、自分で未練を絶てないのだな?」
言葉の代わりに、悲しげな泣き声が聞こえてくる。
「殿、何か言ってやる言葉は無いのか……」
視線だけが向けられる。
死霊などと対等に話して、当たり前のように振る舞う。
「何を言えというのだ……
この女が、身を投げた理由さえ理解できぬ。
ヌイ……といったな?
女、何故に平然としていられる……」
ときおり震えそうになる声を、虚勢で張り上げてくる。
それすら気にならぬようで女の視線は冷たい。
「あなたが代償を支払うべきだ。
己の周囲を見極められないような者に
上に立たれていては、私のような半端者が迷惑する。
己の女の嘆きさえ耳を傾けられないのなら
女など抱かねばいいのだ。
お前などに、少しでも武家のものとしての遠慮をしたこと
悔やんでも仕方が無いから言い切らせてもらおう。
私の肌に触れた代償は大きいぞっ」
空気が裂ける。
殺気の篭った刃を受け止めようと間に入ったのは
実体など持たない死霊の女だった。
―あなたが……ヌイさま……―
涙が流れるのが見えていた。
―何度も聞かされた……―
受け止められるはずの無い刃を胸につきたてて女は泣いていた。
「悪いが、アレに惚れられても困るんだ。
縋るのは構わんがな……アレは、そういう妖なのだから」
まるで手ごたえがないままの切っ先を引き抜く。
「斬る訳が無いだろう……仮にも藩主様だぞ。
私は筑後家の当主を任されているのだ……
武家の当主が、いくら怒りに任せても斬るはずなどない」
「ならば、何故に薙ぎ払った!」
崩れる死霊を無視して、男は立ち上がる。
「どうせ、死ぬからだ」
冷たい声。
白い顔に浮かんだ般若の面のような笑み。
そして……
その身体を抱くように背に立つ姿が唐突に現れる。
「……っひぃ!」
転げるように距離を取る男を、視線だけが追ってくる。
『気は済んだのか?』
聞こえる異質な声。
「私では至らぬことだらけだ。
情けが無いにも程がある。
結局は、水鏡に頼らねば何も出来やしないっ」
『死霊から未練を絶ちきってやったではないか』
ゆれていた影も消えていた。
死霊の姿は、既に見えない。
「この件、裏があるのだろう?
我が家に災難がかかるなら、かけようとする方々を
全て忌み者にしてしまえっ
代償なら支払う!」
恐ろしい言葉を、白い顔を上気させて女は言う。
『ヌイから代償などとるものか……』
異質な声は、優しげに聞こえた。
あやすように女を抱く姿は、確かに化物とは思えない美丈夫だ。
だが、見つめてきた金の瞳が恐ろしかった。
『我妻の肌に触れしこと、煉獄の中で悔やめばいい』
抜き身の薙刀を持った女を抱いた妖は
不吉な言葉を残して消えた……
気付いたときには、見慣れた屋敷の部屋の中で
ぼんやりとした意識の下で、何度も感じた快楽に気付く。
「水鏡……」
伸ばした腕が絡め取られる。
白い指に口付けられる。
僅かでも揺られれば、交わった身体が火照る。
『私を束の間でも不安にさせるなど……』
「すまなかった……」
謝罪の言葉を吐きながら、どうやって帰宅したのか記憶になかった。
気付けば見慣れた部屋の中で、何も身につけないままの身体を
抱かれなれた妖の腕が抱いていた。
白々と夜が明けてくる。
そろそろ朝餉の用意に二人の使用人が働き始めたことだろう。
いつもなら、この時間には朝稽古などをしているのだ。
それが、どうにも離れがたかった。
素肌を合わせたままで、その腕の中で目を閉じていても
何かを伝えなくてはいけないような気がしてならない。
「母さま……お帰りなの?」
障子の向こうから、幼子の声が聞こえる。
するりと、身体に衣装が掛けられた。
「水鏡?」
妖の水鏡は、我が子の前でも平気でヌイを抱く。
父と母なのだから、そういうものなのだと教えられた幼子は
他の子供ならありえないだろうに、素直に納得してしまっている。
ちづるは、水鏡の血を引いて、ヌイが育てた子供だ。
年の割りに物分りが良すぎる。
『城の後始末……つけてきてやる』
口付けられて、返事も出来ないままに姿は消えていた。
「父さま……いらっしゃるの?」
障子の向こうからの声が、さらにかかる。
昨夜のうちに帰らなかったことを、子供なりに心配しているのだろう。
「開けて構わぬぞ、水鏡は出かけたがな」
かけられた衣装にくるまりながら、声をかけてやる。
すぐに障子が開いて、見慣れた幼子がきっちりと座っていた。
「お疲れなのですか?」
「いいや、眠っていないからそう見えるのだろう」
袖を通せば、置いてきたはずの家紋の入った色無地だ。
全く、水鏡の手はずの良さには叶わない。
「私は身支度をするから、ちづるも顔を洗ってきなさい」
長着だけの姿で、幼子に言いつける。
常なら躊躇わぬ返事があるのに、何やら不安そうに見つめてくる。
「どうした……?」
傍によると、着ているものの袖をもてあそびはじめる。
「言わねば解らないだろう?」
髪を撫でると、その顔が見上げてくる。
「夜明け前に、綺麗な女の方がいらしたの」
この屋敷は、常から何処も施錠しない。
何処からでも入れるのに、誰も入ってこないと解っているから
ちづるを一人にさせているのだ。
「母さまの名を出されて、羨ましいと仰るの」
「それで?」
おおよその察しは付く。
どんなものが現れても、ちづるなら騒ぐはずがない。
何しろ、自分の父親は化物だと理解しているのだから。
「羨むのなら、近付けばいいと私は教えられているでしょう?
だから、そうお答えしたの……」
困ったように、己の袖を掴んだまま視線を落とす。
ちづるには厳しくする気もなく、問われるままに答えているだけだ。
武術の欠片も教えないのに、この姿に憧れて
見よう見まねで棒を振り回していることくらいは知っている。
「もっと早くに……って仰って見えなくなられたわ」
寂しそうに声を落とす。
幼いなりに傷つけたと悔やんでいるのだろう。
「難儀な死霊だな……」
あの女が、本当に思いを寄せたのは誰だったのか。
ヌイの刃を受け止めたのは、藩主を守るためだったのか
それとも、ヌイの刃だったからなのか……
「ちづるの手に負える相手じゃないから、相手になんかなるな。
どうせ、どんな返事をしても泣くしか出来ない女なんだ」
泣きながら消えた女は、今でも泣いているのだろう。
「それでも、母さまなら……!」
「私なら、斬ることしか出来ないさ」
化物に続いて、死霊にまで棲みつかせる気などない。
斬れないものを、刃でどうにかできるとは思えなかったが
それでも思い出して、古い懐剣を箪笥の奥から取り出す。
「ちづる、これを身につけていなさい」
本来なら、まだ懐剣などを持つには早すぎる。
そんなこととは関係なく、ヌイはちづるの手に重い刃を乗せる。
「ちづる自身が辛くないなら、それを抜いて見せろ」
言われて、幼子は拙い手つきで袋を解く。
この幼子の身体に流れる血は、半分は人のものではない。
だから、あえて抜かせてみたのだ。
見慣れない刃を、幼子は見ている。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……?」
読めるだけでも大したものなのだが意味が解らぬとばかりに首をかしげている。
「気休め程度だが、効く時は効くだろうから持っていなさい。
本来なら、女が自害するための刃。
往生際の悪いものが刻んだ九字だと教えられたがな……
私は、ちづるを案じて渡しておくんだ。わかるな?」
大人しく頷く幼子。
ちづるが持てるのなら、気休め程度だろう。
だいたいヌイ自身は懐剣などもったことがない。
懐には実母の匕首を幼いときから持っていたし
武家の娘としての正装のおりでも、当たり前に薙刀を持っていた。
その匕首は、勝負に勝てないままで水鏡の手にある。
返すというのを、何度も断り続けている刃。
実母の実家の家紋が入った小さな刃は、千鶴のものなのだ。
今のヌイには、もう必要の無い物でしかない。
「母さまのような大きなものは、持てないから?」
「ただの守護刀だから身につけているだけでいい。
扱い方も知らないのに、抜いて振り回したりしないことだ」
素人の刃は性質が悪い。
「ならば教えてくださればいいのに」
拗ねたように口調が固い。
ちづるが武術を教えろと言い出すのは慣れている。
「こんなもの、ちづるが覚えたら
当たり前の女としての幸から遠ざかるだけだ」
常日頃のままの格好に着替えると、髪を無造作に纏め上げる。
筒袖の長着に、馬乗り袴。
一尺ほどの棒切れを片手に幼子の傍に座り込む。
「どうせ、ちづるには水鏡の血が流れている。
あの重い剣を扱う技量を受け継いでいるなら
私などが教えられることなど何もないんだよ」
懐剣を元通りに袋に仕舞うと、幼子の懐にさしてやる。
それに手を添えながら、見上げてくる大きな瞳。
「母さまは、父さまを羨んでいるの?」
「そうだな……あの技量は羨ましい」
そのことだけは、誰にも隠さず言い切れる。
人ではないからなどとは思ったことはなかった。
扱えるものがいるなら、その高みを目指そうと追いかけた。
未だに追いかけた理由は、本当は恋慕だったのだと思い切れない。
思い切れなくても、水鏡に恋慕の感情を抱いていることは
認めているし、否定のしようが無いと自覚している。
「ならば、私も母さまを見習う!」
「だから、そういうことは止せと言っている。
私みたいになったら、嫁の貰い手がなくなる」
それでなくても化物の血を引いているのだ。
将来を思えば、武術など教える気にはなれなかった。
「母さまは、嫁の貰い手がなかったの?」
当たり前に聞いたら可笑しな問いかけだった。
だが、ちづるは実の娘ではない。
ただ育ての親だというだけの、水鏡の血を引く娘だ。
「私のように偶々、人ではない男と連れ添うことなど
ちづるにまであるとは思えないから止めておきなさい」
朝餉の支度が出来たのだろう。
良い香りと、いずの忙しそうな足音が聞こえている。
「父さまのこと?」
「他にあるか」
幼子を片腕に抱き上げる。
その抱かれた顔が、すぐそばで悩んでいる。
「ちづる、父だ、母だと呼んでおきながら解ってなかったのか?」
「だって、母さまは婿じゃないって仰るから……」
無自覚なのだろうに、そういう風に言われると
本当に水鏡の娘なのだと、頭が痛くなってくる。
「以後、言わぬように気をつける」
聞かせるべきは、ちづるではないのだろう。
あんなにも離れがたかった理由が解って、己の疎さに腹立たしくなる。
城の後始末だというなら、そう容易くはないはずだ。
人の刃では傷つけることも出来ない水鏡の
帰りを案じたことなど、それが初めてのことだった。


8
最終更新日 : 2011-05-20 16:31:31

移ろう

「解る、解らぬという話じゃないんだぞ、いず」
濡縁に並んで腰掛けながら、まるで童のように騒ぎ立てていた。
「亡くなられていた方は隣の国から嫁いできた方なんだ。
そんな方を自害させたとなったら、ウチの殿様は立場がないじゃないか。
おまけに自害に追い込んだ連中ときたら、堀に身を投げた
その方が現れると恐れて水を酷く嫌うのだそうだ。
そこまで嫌いで、恐れているなら、堀も、池も埋めておけばよかったんだ」
わざと大きな声で言い放って、周囲を見回す。
静かに風が小枝を揺らしているだけだ。
あおぎみれば、うっすらと曇った空を鳥が飛んでいく。
「あの妖は?」
「今日は見ておりませんが……」
城の裏事情は、化物が絡んだせいで民衆にまで知れ渡ってしまった。
あの化物は斬りかかられて、当たり前に斬り返してきたというから呆れる。
斬られてなんでもないのだから放っておけばいいものを
怪しい動きをしながら見慣れない剣を振るってきたのだそうだ。
瓦版にまで書かれた化物は、姿こそ化物らしく描かれていたが
何故だか、その衣装に筑後家の家紋が入っている。
こんなものを撒かれたら大変だからと、本家に相談に来たのに
あの従姉妹は意に介さなかった。
「お殿様は、どうなるのでしょう……」
「本来なら切腹というところを、
あの化物が水牢に閉じ込めてしまったらしい。
施錠された扉は、祈祷しても開かず……だとさ。
奥方を自害に追い込んだ連中も、同じく水牢の中。
まさに、天から落ちたも同然だ」
他の娘を嫁がせたくても、邪魔がいては仕方がない。
ただ……隣の国などから押し付けるように嫁がされた女に信用できる人物の少ないことが不幸の始まりだった。
「あの方は、あちらでは心を病んだ方と言われて
ここに嫁がされたんだってさ。
池を見ては、映る姿に語りかけるものだから……」
「水鏡さまと会った方だったのですね」
いずでさえ察することの出来ることだった。
確かに、あの化物は城に出てはいなかったのだ。
隣の国の城ならば、別の場所と理解して話す筈がない。
「自害させて、喪もあけたら輿入れさせる段取りが
ウチの当主が暴れて、すべて露見したわけだ」
「ヌイさまは、死霊に懐かれたと嘆いておられますが?」
今日も、あの従姉妹は護符などを買いに行くと言って出かけてしまった。
化物屋敷に護符を貼ってどうする気なのだろう。
「下手したら、ウチの家が潰されていただけのことを
あの当主さまはやってくれたんだよ。
何処まで知っていて暴れたんだか知らないけれど」
今回のことばかりは、流石に真之介も呆れ果てていた。
無茶をするとは知っていたが、ここまでとは思わなかったのだ。
「元をたどれば、全部あの化物が悪いんじゃないか。
解決した張本人みたいに、瓦版じゃあ書かれているけど!」
再び大きな声を出す。
ふと、傍に気配が立つ。
驚いて、身を引くと見慣れた姿があった。
「水鏡のことを、私に隠れて悪し様に言うとは見下げたな」
背負った得物に片手まで掛けている。
どうやら本気で怒らせてしまったようだ。
「いや……事実だろう?」
怒らせ慣れているだけに、いきなり斬りかからないと知っている。
「事実の欠片に過ぎないさ。本当に水鏡が全ての根源で、此処まで騒がれたら
いくら世間体など気にしない私でも示しが付かないと思う」
いずの手から、瓦版を取り上げて目を落とす。
つくづく、仕草の隅まで美しいと見惚れていると鋭い視線が向けられた。
「新しい殿さま選びに、水鏡は関わっている。
次の藩主様は我が家を引き立てる方になるだろうから
真之介も早く身を固めてしまえ」
「どうして、化物が関わるんだよ!」
言葉を無視して、背を向けられる。
そのまま行ってしまうのかと思ったら、ふと振り返られた。
「水鏡は私の婿なんだから、筑後の当主代理だ。
あいにく、私は死霊に懐かれて城などに行けないからな」
あの件で従姉妹に死霊が取りついたのは聞かされている。
堀に身を投げた女は、言い残したことが多すぎて夜中になると、従姉妹を訪れるのだという。
「当主代理なら、俺でいいじゃないか……」
普段から近隣の親戚付合いなどは全て真之介の仕事になっている。
こんな大事の時だけ、婿などと言い出されたら敵わない。
「真之介の代わりを水鏡に頼んでも構わないぞ。
親類どもが、アレを家に入れるというのなら
私は、水鏡の方が任せやすいくらいだ」
「入れるような家はないよ」
捨て鉢になって言葉を投げる。
『入れずとも、勝手に上がることならできるが?』
目の前に唐突に現れたものだから、見慣れているとはいっても
さすがに驚いて、声を上げそうになってしまった。
「帰ってきたのか、ご苦労だったな……」
その声が、従姉妹のものだと理解するまで数瞬の間があった。
あまりに優しい声色。あの幼子相手のときくらいしか聞いたことがない声。
その声に、目の前の化物が近付いていく。
相変わらずに結いもしない髪の間から衣装に紋が入っているのが見える。
―ウチの家紋じゃないか!―
あれでは瓦版の絵に嘘偽りはないことになってしまう。
だから従姉妹は意に介さなかったのか。
「嘘だろう?」
「何がだ……」
怪訝そうに従姉妹が見つめてくる。
それでも、やりきれなさが込み上げてきて仕方がなかった。
「どうして化物が、ウチの家紋つけているんだよ。
本家当主は、どこまで色惚けてしまったんだよっ」
「あいにく色惚けて婿を選べるほど、私は色香に機敏じゃない」
そんなことは知っている。
こと色事となると、幼子以上に疎いのだ。
「私に本家を継がせたのは真之介だし私は、とっくに水鏡と連れ添っている。
城に筑後のものとして行かせるなら家紋くらい入れたものを着せるのは当たり前じゃないか」
それは人としてなら当然だろうが、相手は化物だ。
不服を言おうとすると、横から袖を引かれた。
「ヌイさまは、あの衣装を仕立てるのに急げといって縫い子を脅されたくらいなんです。
なんでも反物だけがあったとかで……」
いずの耳打ちに、やりきれなさが涙になって溢れてきた。
反物で置いていたというなら、用意したのは千鶴の母だろう。
あの衣装贅沢な方なら、一人娘の婿装束まで気を回してもなんら不思議ではない。
ヌイは、かなぐり捨ててきた千鶴のものを化物に与えてしまったというのか……
「重ねて言っておくがな、気に入らないなら追い出せばいい。
私も、ちづるも流浪生活には慣れているんだ。
ただ今回の件で、水鏡を筑後家から切り離す方が難しいぞ。
化物騒ぎがあったら、筑後に声がかかる。
水鏡なしで、あんなものと張り合うのは私でも御免被る」
掌で顔を覆いながらも、平坦な従姉妹の声を聞いていた。
どうにかしようと思いながらも、策を練っていた。
その間に、従姉妹の方から畳み掛けてきたのだ。
「あとは任せたからな、いず」
何処か笑う様な声。
あの従姉妹は、決めた道を生き辛かろうが気にもしない。
色事に疎い従姉妹が惚れていると言い切ったときから、もう勝負は付いていたのかもしれない。
「せめて、普通の相手に惚れてくれよな……」
やっと出た愚痴を、聞いていたのは
同じように涙を浮かべたいずだけだった。
まだ一枚しか縫いあがっていないものだから、水鏡を着替えさせる。
妖の水鏡は、衣装を着替えるなど本来などしないものだ。
それを着せ替えさせるのは、ヌイなりに考えた結果である。
『良いのか?分家殿は、知らないままに悲しんでいるのだろう』
「己の知り得たことだけでは矛盾があると気付かぬなら
知らせるだけ無駄だと思うから黙っていた」
長襦袢姿で外を気にする妖の横で、ヌイは衣装を衣紋掛けに掛ける。
「あの奥方さまは、度々里帰りをされていた。
こちらでは寵愛をいただけないからと、寂しいだけでも
あちらにしてみれば、やはり病のせいかと思われる。
その度に、相手をしていたお前が悪い」
『だから、ヌイのいう事を大人しく聞いてやっているだろう』
長く人と接してきた水鏡だが、当たり前の人間のようには出来ない。
水面に映る姿に声をかけてきたものの願いを叶えるだけなのだ。
相手が人間同士の中で、どういう立場なのかなどとは考えない。
一人が寂しいと言っては水面に声をかけ続けた女は、ずっと傍に居て欲しいと願う
人ではない男に置き去りにされて愛して欲しいと願う相手を替える事にしたのだ。
だから、水鏡は願いを叶えた。
女の傍に居られない理由も、尋ねられたから答えた。
ヌイが否定していようと、水鏡はヌイを娶った気で居たのだから
傍に居て欲しいなどとヌイからさえ言われない言葉を叶えることは難しいと思ったのだ。
私欲で人の願いを叶えるからだと、ヌイの機嫌を損ねた。
それでも、城の後始末に着て行けと衣装を用意してきたりする。
「化物相手だと思えば、まともな話でも耳を貸さないものは多い。
水鏡が妖であることは否定のしようはないけれど
筑後家の者だと名乗らせるくらいなら容易い」
容易いことではないだろうと何度言い聞かせてもヌイは言い出したら聞かない女なのだ。
今回は水鏡自身、私欲で叶えた結果を悔やんでいた。
だから、それを出されたら言い返す気も失せる。
あの夜にヌイが叫んだように、後々に厄介になりそうな相手は
わざと刃を抜かせて、すぐに斬り捨てている。
そうしているうちに話も通るようになる。
体裁を保とうとするなら、化物に斬られたというより、筑後の当主代理に斬られたというほうが真実味が湧く。
何しろ、女当主の腕が評判になっている。
その代理というなら、それなりの腕と誰もが思う。
元凶なのだからと、後始末を終えたつもりの妖に言い
次の藩主選びにまで関わらさせられている。
水鏡は、ただ与えられた場所に居るだけだ。
それでも邪魔だと思えば斬ると知らせてしまったし
保身を図るものたちは、代償を払ってでも助言を求めてくる。
『あんな厄介ごとは、ヌイより私のほうが向いている』
「言われずとも解っているから行かないんだ。
私が大人しく聞いているはずがないだろう」
黙って下を向いていれば、人にしか見えない水鏡なら知らないものは人間だと思うだろう。
助言を求めて、そこで人ではないと気付いても遅いのだ。
妖の水鏡は、容赦なく代償を持っていく。
「それより、少しは話は進んだのか?」
本来なら水鏡を城になど行かせたくはない。
だが半端に関わっただけでは、権力の前に何を言い出されるか解らない。
あちらの方が上なのだから、仕方なしに常識外れを用意した。
水鏡の常識は、人には理解できない。
『進まぬ』
どうせ話を形だけ通そうとしたら、水鏡が邪魔なのだろう。
「あの保身だらけの家老は息災か?」
『あいかわらずの男だな……長きに巻かれるのが好きなようだ』
長いものに巻かれ続けていたら、ヌイを呼び出しはしなかった。
ひと月もの間、死霊をどうにも出来ずに立場の危うさを感じて
よく考えもしないままにヌイを呼び出したのが運のつきだった。
「母さま」
表の方から幼子が駆けてくる。
ふと、水鏡に気付いて慌てて姿勢を正した。
「おかえりなさい。父さま」
『私に気など使わなくて良い』
手招きされて、大人しく膝の上に座る。
「母さま、小次郎が御用は終わったって言っていたの」
「あまり効果も無さそうだな……その様子では」
小次郎には、買ってきたばかりの護符を貼らせていたのだ。
それを面白いからと見ていたのだから、ちづるにとっては効力も感じないものらしい。
水鏡にいたっては、そんなものでどうなるとも最初から考えていない。
『本当に追い払いたいなら斬ってやると言うのに』
「今は、我が家にさえ害がなければいいだけだ」
水鏡が閉じ込めた水牢の中の人々が見ているのは幻覚なのか、それとも本当に死霊なのか……
本物なのなら、気が済むまで現れればいいと思っている。
それでも、ちづるの前に現れたりしている以上は、この屋敷に来るなという意思表示くらいはしないといけない。
ちづるは気にしていないが、害があるなら困る。
ヌイは血の繋がりもない幼子を過保護にしすぎていると自覚している。
ただ、そうすることでしか安心できなかった日々が長すぎたのだ
夕暮れも近付くと、二人の使用人は台所で仕事をしている。
大屋敷に遠い牛小屋の近くで寝泊りしている小次郎にしたら最近までは滅多となかったことである。
「火が勿体無いですから……」
そんな言い訳をして妹の傍で藁を編んでいたりする。
「牛小屋には護符を貼ったのだろう?」
「はい、ありがとうございます」
小次郎にとって、あの老いた牛は家族同然だ。
だから死霊が牛小屋などに近付くまいと思っても
余計に買ってきて与えておいたのだ。
「小次郎……まさか、死霊が怖いのか?」
「え……」
むしろ怖くないのかと言いたそうな顔である。
夕餉の後始末などをしている妹のいずにしても不安そうだ。
「お前たち、水鏡に慣れたくせに……」
「旦那さまとは違うでしょう?」
兄も妹も、二人の使用人は常識外れな屋敷で馴染んできた。
雇われた時から女主の傍に居た妖は居ることを知らされた上で雇われている。
だが、死霊などは未だに見たことさえないのだから
それがやってくるようになったと聞けば恐ろしいのは当然だった。
「まぁ、違うといえば違うな」
仕方がないから、余っていた護符を二人に分けてやる。
「よろしいのですか?」
受け取りながらも、いずは不安そうだ。
「持っていて安心するなら何枚でも買ってきてやるし
何処そこの護符が欲しいなどがあれば、金を渡すから買いに行け。
障子紙かわりにしても構わない」
相変わらずの無茶な返事である。
この女主は、あちこちからの勝負を挑まれては稽古代だとか
なんだとかと理由をつけて金を渡されている。
二人の使用人には、手も届かないような額の護符を買ってきては紙くずのように扱うのだ。
「効き目があるなら、水鏡は無理でもちづるにくらいは
少しは効力を示すと思うのだがなぁ……」
「死霊除けの札ですから、お二人は平気なのでは?」
いずは札に効力があると思っていたい。
水鏡には慣れたばかりだが、幼子のちづるなどは
半分は人でないと聞かされても信じられずに接しているのだ。
あの聞き分けの良い愛らしい少女が、そういうものとは思えない。
「とにかく気にしないことだ。
害があれば、水鏡が斬ると言っている」
既に寝巻き姿の主が台所などにやってきたから
何事かと思っていたら、どうやら二人を気遣ってのことらしい。
「いつまでも妹に構っていないで、少しは女でも探しに行け」
ついでのように小銭の入った袋を手渡されて、小次郎は戸惑う。
「私は自分のこととなると色事に疎いだけだからな」
確かに所帯を持ってもおかしくない年齢だし、ここの給金なら充分にやっていけると思うのだが……
小次郎は、女が欲しいわけではない。
ただ、寝巻き姿の主の色香にあてられていただけなのだ。
そんなことをいえば美しい顔が恐ろしい変貌をする。
だから何も言わずに、その背を見送ったのだった。
既に灯りを落としている部屋で、ちづるは眠っていた。
枕元には抜き身の懐剣。
これを持たせて以来、死霊はちづるの前に現れない。
ただ、効果があったからなのか、ヌイが居るかなのか、そのあたりは訊く気にもなれずに過ごしている。
障子一つ隔てて、己の布団のもとに行く。
ちづるを一人で寝させるようになったのは、成り行きだ。
もとから屋敷には部屋が余っているから障子一枚隔てた。
今日は、その障子にも穴を塞ぐように護符を貼ってある。
『ヌイは身内には甘い』
「少し前までは、己とちづるだけで精一杯だったのだが」
いつの間にか現れていた水鏡の哂うような声にも、あまり気にもならずにそのまま布団に潜り込む。
夜目の利くヌイは灯りを落とすのが早い。
水鏡は人ではないのだから、もともと灯りなど必要ない。
月明かりさえ少ないから、部屋の中は深夜のように暗かった。
「己の技量など、まるで変わらないというのに、この家の名を借りて勝手気侭にしているだけだ」
『腕は上げたと思うがな……』
その言葉には少しばかり笑みが浮かぶ。
常識外れだの異常だのと言われる腕を持っていても、まったく歯が立たないのが水鏡の技量だ。
『ヌイほど人ではない私の何処に惹かれたのかが
解りやすい女も珍しい』
「解らないよりいいじゃないか」
色恋に疎いのだから、何処に惹かれたかと訊ねられても解らぬはずが
あまりに他に理由が無いものだから否定する気などない。
「私は水鏡が、人でしかない私の何処がいいのかさえ解らないままだ」
『まだ、そのようなことを……』
声が近付く。
耳に唇の触れるのを感じていた。
うつ伏せた視線の先には、灯りのない行灯がある。
その手前に転がっているのは、常に持ち歩いている硬い木の棒だ。
その棒が、コロリと転がる。
―何故なのですか……―
震える声は、聞きなれてしまった。
枕元に現れたのは思いを遺した死霊。
袖で顔を隠した女が涙声で尋ねてくる。
「また来たのか……」
どうやら、今日の護符も役立たなかったようだ。
―ヌイさまでなくてはならない理由……知りとうございます……―
日頃なら、水牢の中の藩主への恨み言などを聞かされるのに
今夜は矛先が違うようだ。
だが、その声が聞こえていないはずもないのに水鏡は相手をしない。
まるで居ないかのようにヌイに口付けて、身体に手を這わせていく。
「水鏡……?」
うつ伏せていた身体を抱き寄せられる。
唇を重ねられて、戸惑っていると腰紐が解かれている。
するりと落ちる片袖。
闇に現れる白い肌。
それに口付けられながら、水鏡の行動の理由を考える。
「……ぁ……」
身体が反応する。
初めて肌を重ねた夜から、水鏡は夜毎に抱いてくる。
身体は意志と関係なく覚えた快楽に反応する。
―水鏡さま!―
死霊の声が、すぐ傍で聞こえる。
『ヌイ、害であるかどうかはお前が決めたらいい
だが、私は先ほどから邪魔だと思っている』
「お前な……」
縋られたら叶えるのが水鏡の性質だ。
ただ、対価となる代償がなければいけない。
代償を失った死霊の声など聞く気もないということだろうか。
『この所、公にまで私を婿などと呼んでくれて嬉しく思う。
なのに、ヌイは邪魔だとは思えないのか?』
「あまりに憐れで思いつかなかったのだが……確かに、いつまでも来られるのは困るな」
憐れだとは思う。聞いてやって、気がすむのなら構わない。
だが、この様子では水鏡への思いは断ち切れそうにない。
「だから、聞かせてやれ。私を選んだ理由くらいは……」
背に腕を回して耳元で囁く。
その声が、どうしても笑ってしまう。
すぐ近くで、女のすすり泣く声が聞こえていた。
『縋ってこないなら、抱き寄せるしかないだろう。
気性は荒いし、武道の才もあるが……心根の優しい娘が誰にも縋ろうとしない。
他には居ない、そういう稀有な女は知らない』
以前から何度か尋ねてみても、はっきりとした答えを言わなかったのに
今宵は如何したわけか、言い聞かせるように答えてくる。
その予想外の出来事に呆れていたら、抱きしめられた。
『幼子の頃から気になる娘だった。それでも人でしかない娘なのだからと諦めていたら
ちづるを生かすために私と取引などをした』
素の肌に触れてくる腕が、掌が暖かい。
『異形の娘のために命まで懸けてきた。
他には居ない。この腕に抱きたいと思ったのは、そのときからだ』
「早すぎるだろうっあのとき私は十三だったんだぞ!」
初めて聞かされる話が照れくさく、大きな声を出してみる。
―十三……―
揺れる声に、まだいたのかと視線を向ける。
うなだれる姿は見慣れたものだ。
―この身を奉げても良いと言っても私を要らないと仰った―
『この色恋に疎い女を、ようやく色付かせたばかりで
他の女になど会いに行くのも面倒だったのだ』
やっと死霊にかけてやった言葉。
ふと気付いて、ヌイは死霊を見つめる。
涙の後が消えないその顔を見つめて視線を逸らさない。
「水鏡が現れたり話を聞くのを優しさだとか、そういう類のものだと思っていたのなら、
それは勘違いも甚だしいぞ?そういう性質の妖なんだ。
優しさでも、親切心でもない……そういうものなんだ」
『それでは、まるで私が優しくなどないように聞こえる』
髪に頬擦りまでされても、ヌイは死霊から目を離さない。
「水鏡が優しいのは私欲のためだけだ。
ようするに、私の機嫌を損ねないようにするだけだ。
こんなものと連れ合うには、お前は他人に頼りすぎる。
足があるうちに、しっかりと立たないから立てなくなるんだ。
己の死に様くらい、もう少し綺麗に見せてはどうか」
―私は……そういう女なのです……―
「ならば惚れた男の手にかかって消えろ」
揺らめく死霊の姿。
抱いていた腕が消えたと思ったときには、あの重い剣を振り切る水鏡の背が見えていた。
『だから斬ってやると、言うておったのに』
「いいじゃないか、おかげで良い話が聞けた」
笑うには、あの女が憐れに思えて堪える。
人ではない男は、少し目を離しただけでもとのように肌が触れていた。
「邪魔だと思ったら、いつでも斬ってくれ」
『まだ何かあるのか?』
腕に抱かれながら、目を閉じる。
己の死に様など、覚悟だけではどうにもならないときがある。
「私のことだよ。水鏡……」
『馬鹿なことを』
あやすように髪を撫でられながら、久しぶりに寝入ってしまっていた。
都からは少しばかり離れた小さな藩に妖が住まう武家があるという。
藩主は、その妖を当主代理と呼ぶ。
人ではないと知られながら、人の世に関わっている。
金の目をした妖は、そういう風にしてしまわなければ婿だと呼ばなかった女の傍にいるだけだ。
今日も朝早くから、二人の刃を交わす音が鳴り響く。
『肌を重ねていたはずが、どうしてこうなるのだ……』
「子が出来たからな。
動けるうちに腕を上げさせてもらう!」
回転した長い得物を突き出すと確かな手ごたえがある。
肩に刃を突き刺したままで、人ではない男は哂っていた。
「水鏡、お前のことだから気付いていると思っていたのだがな」
『知ろうと思わなければ気付きもしないのが、私だ』
刃を抜くと、流れ出るはずの血が僅かに衣装に滲む程度で止まる。
本来、人が持つ刃などではどうにもできないのが水鏡だ。
「ならば教えてくれ。どんな異形の子が生まれる?」
『同じ願うならば、異形でないことを願えばいいだろう』
そんな言葉にもヌイの白い顔は柔らかな笑みを浮かべる。
「願うわけが無いだろう。どのような姿でもいい。私の子だ。
この命を懸けてでも守って見せるさ」
『それでなくても短い人の命を、そう簡単にかけてくれるな。
私の子だからこそ異形なのだから、私にも役目を与えろ』
抱き寄せられて、クスリと笑う。
「また当主代理として、上からの仕事を任せると思うし
ちづるの相手だって頼まなくてはならない。
池に沈む暇など与えてやらぬからな……私の傍に居ろ」
『心得た……』
数百と生きてきて、やっと手に入れた女は人としてしか生きられない。
この腕に抱いた身体は、あと百年も持たずに崩れると互いに知りながら寄り添い、肌を重ねてきたのだ。
妖の子を宿したと女は笑って告げてきた。
この女は、何処までも人としての常の道を歩かない。
常識外れといわれても、この女は揺るがない。
それを知るからこそ、抱いた腕を離せなくなる。
『自愛しろ……ヌイは無茶をし過ぎる』
「性分だからな」
人ではない男に人としての常識を忠告されてヌイは笑うしかなかった。
「ちづるとは違うからな。次の子は跡取りとして育てる。
親類縁者にも認めさせる。もう……髪が赤い程度で、殺そうとするものなど居ない」
人の命は短い。
かつて、紅い髪の赤子を殺そうとした人々は死に絶えた。
髪が紅いままでも生きられるのだとヌイは生きて見せた。
それを辛いと思わないのが、この女の性分だろう。
妖に惹かれた想いは真っ直ぐに生き様となっている。
親類縁者へと告げねばならない従兄弟の泣き言になど
ヌイは笑うだけで構ってもやらずに済ませてしまった。
過去を見ていても何も変わりはしないのだ。
『千鶴』への思いを断ち切れない真之介の恋心は、どうしようもないのだということだけを知らされた。
―いつまでも、いつまでも、この平穏が続けばいい―
数百という年月を生きてきた人でない男は
恋した人でしかない女を腕に抱きながら、流れる時の速さを思っていた。

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最終更新日 : 2011-05-20 16:32:19

この本の内容は以上です。


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