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帰郷

地方とはいっても、由緒ある武家のこと。
家督を譲られた男が死んで、まだ喪があけたばかりだというのに
死んだはずの本来の跡目継ぎが帰ってきた……
―あの薙刀使いの娘が帰ってきた―
本人は目立つことに慣れてしまっている。
堂々と町中を歩いて居たのを何人もの者が見ていた。
「噂など放っておけばいいのです。伯母上」
娘を見た途端に寝込んでしまった伯母は見舞いに来られる度に恐ろしくて仕方がない。
この娘を追って出て行った息子は無事なのだろうか。
「それでも男を連れ込むとは何事ですか。
会わせていないからって知らないと思ったら間違いですよ」
精一杯に虚勢をはる。
それが解るから、娘は笑って聞き流す。
「会わせぬなりに理由もあるのです」
衣擦れの音が聞こえて、娘が立ち上がったのだと知る。
恐ろしくて顔を見ることさえ出来はしない。
出て行った頃と変わらぬままに、馬乗り袴などを身に付け
朝夕構わずに稽古をしていることくらいは激しい打ち合いの音が聞こえるから間違いはない。
こんな曰くつきの娘の稽古に付き合うなど何処の変わり者だろう。
「そんなに気にかかるなら、お連れしますが」
障子を開ける音と共に聞こえた声。
心のうちを読まれて余計に恐ろしくなる。
答えられずに居ると静かに立ち去っていく音だけが聞こえてきた。
何もなかったように接してくるのが恐ろしい。
殺そうとしていたことくらい気付いているはずだ。
『何処ぞに移してやった方がいい』
濡縁に腰掛けて、庭を見ているのは人ならぬもの。
隣で小さな少女が鮮やかな布で出来た玉を器用に放り投げては受け止めている。
流浪生活では教えてやれなかったからと帰ってきて早々に教えて与えたお手玉だ。
己もそうだったが、一つ、一つの重さを覚えてしまえば
見ていなくても三つ、五つと宙に舞わせて遊ぶ。
「ああ、私だって気付いている。
此処から近い湯治場にでも移っていただけるよう手配している最中だ。
身一つで動けないのは不便だな」
周囲に散乱したお手玉を三つばかり手に取ると片手だけで宙を舞わせて見せる。
それを見て、両の手を使っていた幼子が慌てて片手で放り投げる。
「ちづる、いきなり数を増やしてはいけないと教えただろう?」
「でも、ねえさまのようになりたいのだもの」
ちづるのいう『ねえさまのように』とは主に武術を指す。
そういうことなど教える気などないから、お手玉などを与えれば上達が早すぎて呆れているのだ。
『だから、私が教えてやるといっただろう』
「父さまは駄目。ちづるだけのねえさまだったのに」
屋敷に帰ってきても、誰もが恐れていると気付いている。
ちづるは、恐れられて当然なのだと思い込んでいるのだ。
それなのに恐れずに親しくしてくる人ではない父親が気に入らない。
「夜だって、いつも騒ぎを起こしに来るんですもの」
『騒ぎになるのはヌイが大人しくしないからだ』
当たり前だ。
この色惚けた妖怪は深夜になると、いつの間にか傍に居る。
此処に帰ってくるまでの道中でも同じ目に合っている。
気付く度に手元から離さない得物での打ち合いになるから深夜だの、早朝だのと関係無しに騒ぎになる。
「御義母さまと過ごした家で、申し訳ないとか思わないのか」
いくら人ではないといっても、子まで成した女を思い出さないのだろうか。
『あれはな、女が望むからの結果だ。
だから生まれた時期がおかしいと、お前の父親は気付いたのだ。
あの女は早く子が欲しいと願うばかりに、水鏡に向かって願いを呟いた』
「御義母さまが?待て、相手が誰でも良いとは言わなかっただろう」
この男は水鏡に言葉を呟かれると、何かしら節介をしてくるらしい。
『私は誑かしも、取り憑きもしない。
あの女が受け入れたからに決まっているだろうが。
私には惚れた相手が居るというと、余計に拘った』
ああ、あの若い義母は惚れてしまったのか。
誑かしはしないが、この男は黙っていれば声の異質さに気付けない。
聞こえても、変わった声だと思うだけのものもいるかもしれない。
唯一の瞳など、閉じてしまえば解らない。
その二つだけが異質なだけで、見目は美丈夫なのだから誑かす気もなく誑かされた女だって居ると思う。
「惚れた相手が居るなら、私に要らぬことをしてくるな」
睡眠の浅いのには、慣れている。
けれど、毎晩と続くと人の身では耐えられる期間も限られる。
この男と持久戦などしたくない。
『女の癖に、本当に色香に鈍い。
傍に置けとまで言って、離れないのなら
惚れられているとくらい勘ぐるものだ』
片手で遊んでいた玉を思わず取り落としていた。
「お前、本当に色に惚けているんじゃないだろうな?」
『ヌイが鈍いのだ。こんな状態で家督を継いでしまって
その次の跡取りはどうする。
私が居る限り、普通の人間は恐れて養子にもならないぞ』
継ぐことを捨てたはずの家督を継いだばかりだ。
千鶴は死んだことになっているから、養女としてのヌイが継いだという形を取っている。
そんな体裁ばかりの跡継ぎだから、その後など考えてもいなかった。
「勝負に勝って、お前を追い出す」
『無理だといっただろう』
それでも付けられないままの決着が悔しくてならない。
実際、この男に手加減なしで胴を貫いたことさえあるが意にも介せず次の手を出して来られて驚いたことがある。
『ちづる、ねえさまが母さまになったら良いと思わないか?』
「かあさま?」
この男のせいで、今まで両親の居ないことさえ気にする様子も見せなかったちづるが
父だ母だと知りたがっている最中なのだ。
「そういうのを誑かすというのだ。水鏡」
機嫌が悪い時しか名を呼ばないのに、名を呼ばれると
この人でない男は哂っている。
「勝手にしたらいい。もう知らぬ」
再び手に取った鮮やかな布の玉を投げ始める。
幼いちづるは、それを真似ようと懸命に片方の手で玉を投げて受け止めている。
『ならば勝手にさせてもらう。騒ぐなよ?』
「そんなことは約束できかねる」
素っ気無い返事を、男は哂って聞いている。
『すぐに慣れる』
「都合の良いように解釈するな」
言葉だけが投げられてくる。
幼いちづるに手ほどきするのに忙しそうだ。
何度もやって見せては、ちづるが真似るのを見ている。
『良い母になれると思うがな』
それを聞いていながらも、もう女は返事すら返しては来なかった。
ちづるに対する態度が母親のようだとは思っているのだ。
自覚があるのだから何も言い返しはしない。
ただ今宵も浅い眠りになるのかと思うと少しばかり気鬱なだけだ。
色恋に疎い女は、そんな態度が惚れ合った者同士の戯れにしか聞こえないということすら
全く気付いてはいなかった。
ただの約束一つで、この男を探していた理由も恋慕だとは思わない。
そんな、いつまでも少女のような女の疎さに気付きながら人ならぬ男は、触れるような距離で座っている。
その距離が日々、縮まっていることを知っている。
だから金の瞳で鮮やかな玉を追いながらも、それを操る女には何も話さないでいることにした。
慌てる理由など、何処にもなかった。
人でない身だからこそ、この女が離れないことなど見抜いている。
ただ当分の間は、その愛情表現が刃同士の鬩ぎ合いになってしまう。
ただ、それだけのことでしかない。
そう、それだけのことでしかなかった。
肌を求めるより、刃を交わすほうを好むのなら人でない身の男は、どちらでも良かったのだ。

4
最終更新日 : 2011-05-20 13:35:58

妖しのもの

暗闇の中、息も絶え絶えに駆ける姿があった。
追ってくるものの気配から逃れよう、逃れようと、ただ無我夢中で走り石段を駆け上がる。
「たすけて!」
声の限りに叫んだのは、丁度境内の中にある池の前だった。
直後に何かに押し倒される。
頭が水に浸かる。
必死になってもがく娘を押さえつける腕は容赦なく
その着ているものを引き千切るような勢いで肌蹴させる。
「いやっ勘弁して!」
その声に余計に乱暴になる相手に娘は怯えて震えている。
両の脚を無理矢理にひろげさせられ、いつの間にか切れた帯が胴から、するりと離れていく。
「いやぁぁぁっ」
暴れても、相手は全く動じることがない。
覆いかぶさられたと思ったときには、引き裂かれるような強い痛みが身体を貫いていく。
「きゃああああああああああああああああ」
その絶叫を最後に娘は意識を失った。
翌朝、娘は骸となって見つかった。
境内の中の、木の枝に何も身につけない姿のまま
両の脚の間から胴を貫くように枝を差し入れられて絶命していたのだ。
その数日後
近所に使いに出ただけのはずの少女が股座から口へと麻縄を通されて、反らした身体のままで
木の枝に下げられて骸となっていた。
凄惨な骸から漂う不吉な感覚に誰もが人の仕業とは思えなかった……
人から人へと噂が広がる中、犠牲者は再び出るのだった。
つい転寝のつもりが深く眠り込んでいたようだ。
横になっている己の背に、衣装が触れる距離で
共に横になっている存在を感じている。
こういう事をされるたびに、得意の刃を持って斬りかかった。
それも、ひと月、ふた月と続けば身が持たない。
そして、ふた月もたてば嫌でも気付く。
この共に横になっている男は眠り込んでいても、せいぜいが髪に口付ける程度だ。
未だに戦闘中以外で肌に触れたかさえ覚えていない。
「懲りないな」
『勝手にしていいといったのはヌイだ』
まだ日が昇るまで時間があるのだろう。
薄暗い部屋の中で、猫のような金色の瞳が光っている。
この人ではない男と知り合ったのは数年前。
いきなり庭の池の水が割れて、その底から出てきた。
あれから幾度となく斬り合いを、こちらは本気で挑んでいるのだが
未だに一度たりとて勝ったという気がしない。
「水鏡、お前の行動の理由が解らない」
『惚れた相手の傍に居て何か不思議なことがあるのか?』
万事に関して、こんな調子だから邪魔臭くなって
勝手にしたら良いと言い放ったのだ。
言っても、言わなくても、この男の態度は変わらない。
薄闇の中、並べて敷いた布団の上には小さな娘が眠っている。
異母妹だと信じて、十三のときから女一人で育てた幼子。
そのころの己が名乗っていた名を与えた、ちづるは今でも可愛くて仕方がない。
例え父親が、この背に触れている人外のものと知っても
そんなことはどうでも良かった。
「お義母さまとも、こんな風にしていたのか?」
『子が欲しいと願をかけてきた相手に添い寝などするか』
それが解るから不思議なのだ。
この人でない水鏡の名を持つ男は、その名の通りに鏡のようになった池などの底にいるらしい。
こんなものが居ると知らずに、水鏡に意味のある言葉を呟けば
何らかの形で叶えてやろうと節介をしに現れる。
ちづるの母である義母は、嫡男を産まねばと悩んだ挙句に水鏡に願いを呟いたのだという。
「それでも、義母さまは惚れていたんだろう?」
『知らぬ。惚れた相手が居ると言うと何故だか
この異形のものの子を欲しがった。
だから、生まれた子を要らぬと思ったら命を落とすようなことになる』
困ったことに願を掛ける気もなくかけているというのに勝手に条件を出してくる。
叶えば、それなりに代償を持っていくのが水鏡だ。
生まれたばかりのとき、ちづるは紅い髪をしていた。
それを今のように人にしか見えない姿に変えたのは水鏡だ。
「お前、自分の子が死んでも良いと思っていたのか?」
『もとより、人が人でないものの子など育てられるわけがない。
それを生かすというから変わっていると言ったのだ』
生憎と人外の子と思って育てたわけではない。
それでも、事実を知れば見捨てたのかと何度も考えたが
やはり義母が命をかけて産んだ子を見捨てることは出来ないだろう。
それを変わり者と言われたくらいでは気にもならない。
「その割には、ちづるを可愛がるじゃないか」
父も母も知らずに育った幼子相手に、父親なのだと言って懐かせようと心砕いている姿は滑稽ですらある。
この男は、異質な声で金の猫のような瞳をしているというだけで
黙って目を閉じていれば、ただの人にしか見えない。
その上、美丈夫だときている。
そんな姿で、赤子の時から流浪生活をさせられて年の割には生意気な口調で話す幼子を相手にしているのだ。
『あれはヌイと同じ目をしている。
ヌイが育てた子だと思うから愛おしくもなる』
こういう言葉を表情も変えずに言ってくるから困るのだ。
「お前が義母さまに言った惚れた相手というのは
私だというようなことを言っていなかったか?」
『そういう意味以外に聞こえたなら言い直すが』
あえて言い直させたいわけではない。
人でないからなのか、理由も訊いたことはないが
まだ子供といって良いころから想われていたらしい。
「なら、何故 姿を消した……」
この男は一戦目を引き分けだと決め付けて姿を消した。
願いは叶ったが、代償も払った。
再度、挑みに来いというから各地の池を回る羽目になったのだ。
『頃合を見計らっていただけだ』
「頃合?」
確かに腕を上げて挑みに来いとは言われていた。
それでも未だに一戦とて勝てたとは思えない。
何より勝てぬと言い切られている。
この人ではない男は、胴を薙刀で貫かれても意に介さなかった。
ならば、何の頃合を見計らっていたというのか。
『だから女の癖に疎いというのだ』
耳元で囁かれた声に、少しばかり身構える。
さらりと黒髪に口付けをして立ち上がる姿が見える。
「水鏡?」
『誰ぞの声が聞こえた……』
ふいに掻き消すように消える姿。
どうやら、また何処かの水鏡に誰かが言葉をかけたらしい。
「節介な妖物だ」
あの『水鏡』の名を持つ人外のものは、水鏡にかけられた言葉だけは他の何事より優先するらしい。
相手は水鏡に映った己に呟くだけなのだ。
あのようなものが出てきても、大抵は驚かせるだけではないのか。
かつて『千鶴』と名乗っていた頃のヌイでさえ、あの男に声をかけられたときは驚き、身構えたものだ。
そんな風に思い出しながら、待つ気もなく待っていたのかもしれない。
いつもなら半時もせずに姿を見せるのに今日は珍しく帰りが遅い。
朝飯時に姿が見えなくても何も言わなかった幼子が流石に気になっていたのだろう。
庭の池を覗き込んで見つめている。
「ちづる、落ちても知らないぞ」
「落ちたら、父さまのところに辿り着く?」
「溺れるだけだ」
ちづるは、己の父親を名乗るものが人ではないと知っている。
池を割って現れるところも見ている。
だからだろう。
池を見ていれば、あの男が現れると思い込んでいる。
「そんなに気になるか?」
振り回していた棒を肩に担ぐ。
本来は薙刀を得物とするヌイは、棒術にも長けている。
この古い武家の跡目継ぎとして育ち、ごく最近継いだばかりだ。
「ねえさまは気にならないの?」
駆け寄ってきた幼子は、甘えて擦り寄ってくる。
それを抱き上げて濡縁の上に座らせ、己も隣に腰を降ろす。
手ぬぐいで汗を拭きながら、気にならないのかと自問してみる。
「気にしても仕方がないだろう」
相手は人ではない。
簡単に死なぬことは知り尽くしているし、案じてやる義理もない。
「ちづるの父さまなのにっ」
「なんだ、いつの間に懐いたんだ」
ちづるは唯一信頼してきたヌイのことを独り占めできなくなって実の父親相手に嫉妬していたのだ。
「母さまも居た方が嬉しいもの」
「お前、誰を母親と呼ぶつもりなんだ」
幼子の指が己を指してくる。
尋ねる意味さえ解らぬとばかりに当然のように指してくる。
「呼び方が変わるだけだろう?
元から、ちづるは私が育ての親じゃないか」
「でも、ねえさま……」
着物の袂を両の手で玩ぶ仕草は、ちづるが困った時の癖だ。
「言いたいことがあるなら言いなさい」
頭に手を置いて、優しく声をかけてやる。
それが余程に嬉しかったのだろうか……
ちづるは、笑顔で甘えてきた。
膝の上に寝転ぶようにして身体を乗せてくる。
その上目遣いの目が、まっすぐに見つめてくる。
「ねえさまだって、気になさっているのでしょう?
いつもより技を失敗していらしたし……
それに池の見える場所で稽古をなさっていたわ」
そう言われても、それが気になってのこととは思えない。
気にしなければならない理由が見つからない。
「アレの入れ知恵に誑かされてどうするのだ」
「父さまは、たぶらかさないもの」
確かに妖物のくせに人を誑かそうという気はないらしい。
ただ誑かすつもりもなく、誑かされる者がいるだけだ。
「ねえさまが母さまになって下さればいいと思うか、
思わないかと父さまは尋ねてきただけなの。
たぶらかしてなんかいないわ」
ちづるは滅多に我侭など言わない。
それが、こうも拘っているのは余程のことなのか。
「だから、育てたのは私なんだから呼び方が違うだけだろう?」
「父さまは、父と母とは仲が良いものだと教えてくださったわ。
ねえさまは、斬り合いばかりなさっているじゃない」
どう答えるべきかと、さすがに悩む。
実母の記憶がないのは、己も同じだ。
ただ跡目取りとして厳しい躾と稽古に明け暮れた日々は母を恋しいとさえ思う暇がなかった。
『斬り合いなど、戯れの一つに過ぎない』
いきなり背後から声がして、つい握ったままだった棒を構える。
膝の上から転げるように濡縁に落ちたちづるは何事かと目を見開いて左右の二人を見比べていた。
「おかえりなさい。父さま」
きっちりと座りなおしてから声をかける幼子に人外のものが、金の瞳を細める。
『あまりヌイに解らぬことを繰り返してはいけない』
「お前が要らぬことを吹き込むからだ」
構えを解いて、くるりと回す。
一体いつから話を聞いていたのか。
周囲の気配には人一倍、敏感なはずなのに、この男は気付かせぬままに傍に現れる。
「また怒ってる」
ちづるの声に仕方もないと濡縁に座りなおす。
「怒ってなんかいない」
「ほんとう?」
何故だか、ちづるは己に尋ねて来ずに人外のものを見ている。
『ヌイは本気で怒ると見境なしに斬りかかって来る。
こんな棒きれでも、当たり前の人間ならあばら骨くらい叩き折る』
「その当たり前の人間でないものに言われたくはない」
機嫌など良いはずも無さそうな声で言い返す。
だが、それ以上を言い返そうとする幼子に手をかざし、合図で話すなと示した。
「立ち聞きなどしていないで、出て来い」
「ん、やはり気付かれていたか」
屋敷の影から出てきたのは上等の着物を着流した若者だ。
見つかったことも気にならない様子で笑っている。
「いつ帰ってきた」
「一〇日くらい前になるか。
お前が何もしないから、親類縁者を回っていた」
この陽気な男は実の従兄弟だ。
ヌイが戻らなければ、この家を継ぐはずだったものを旅先まで追いかけてきた。
「それで?」
「ああ、あの牛飼いな……あのまま雇った。
妹は見つけて、俺が身請けしたから揃って雇った」
胸を張って自慢そうに言うのを聞き流す。
「そうじゃない。何の用で来たかと訊いている」
「あ、ああ……相変わらずだなぁ」
困ったように笑うと、気になるのだろう。
背後にばかり視線が行く。
「こんな昼間っからウロウロしている妖物など気にするな。なんの用だ」
「いや、だからさ。
その……妖怪騒ぎが起こっているのを知らないと思ってさ。
神社の森だので妖しいものに女ばかりが、殺されてる」
手渡された瓦版には、禍々しい化物に馬乗りにされている若い女が描かれていた。
それを、ちらりと見ただけで畳んで突き返す。
ちづるなどには見せたくないものだからだ。
「生娘ばかり、もう三人も殺されている。
どれも、さんざん弄んだ後があるというから
こういうものが好きな連中は大騒ぎだ」
「それを、どうして私に聞かせる」
尋ねる必要も無かったが、あえて尋ねておいた。
この従兄弟は、水鏡を疑っている。
そんなことくらいは、言われずとも解る。
「あのな、親類連中だって本家を化け物屋敷にするのかと散々に騒いでいるんだ」
「その件なら、私が話すから来るようにと伝えたはずだ」
実際には誰も来るはずは無い。
それも解っていたから、放置していた。
「だからな……」
「真之介、生娘ばかりなら私が仕留めて来てやろうか?」
「え……?」
思わぬ返答に従兄弟は間の抜けた返事をしてきた。
それを真っ直ぐに見つめたまま、笑顔だけを返してやる。
「これでも着飾れば、当たり前の女に見えると思うが?」
「いや、それは知っている。
美しいからこそ、妖魔も取り憑くと言われている」
「じゃあ、適任じゃないか」
クスクスと遠慮のない哂い声が背後から聞こえてくる。
この人ではない男は、取り憑くことも、誑かすことも無い。
訳のわからない節介を焼いて、勝手に代償を持っていくだけだ。
「いや……あのだな、ちづ……じゃなくてヌイ。
疑わないのか?あまりに時期があっているだろう?」
「疑うも何も、こいつだとしたら私が生きている意味が解らぬ」
背後の人でないものを指差すと、その指されたものが
背に触れる距離まで寄ってくる。
『察してやれ。お前が生きていれば隠れ蓑になる。
その位は想像しているだろう?』
「あのな、お前を庇ってやっているんだ」
触れる寸前の距離に顔をあわせていながら、躊躇いも無い。
真之介にとって、この妖魔は恋敵だ。
「真之介、私が襲われないと確認してからでも良いだろう?」
「いや、あのだな……さっきも言ったが、生娘ばかりだぞ?」
何故だか顔を赤らめて、こちらを見ようともせずに言ってくる。
ヌイは年の離れた妹などの育ての親だが、まだ生娘でもおかしくない年齢だ。
『私が手を出したと思っているんだろう』
「ああ……そういえば、そういう仲に見られ易い」
ちづると三人であるけば若夫婦と子供だと思われたことも少ないとはいえない。
「とにかく私が歩き回っておく」
早く帰れとばかりに追い払うように手を振られて真之介も居心地が悪くはなった。
とっくに夫婦仲だと思っていた妖魔とは、この嘘が嫌いな気性の荒い娘が
何もないというなら本当に何もないということなのだろう。
「一人で……大丈夫なのか?」
「一人でなければ意味がないだろうが」
相手が例え妖魔の類でも、ヌイは気にならない。
普段から斬りあっているのが背後にいる人でない男だ。
この男の持つ見慣れない重い剣に比べたら大概のものは受けても平気だ。
しぶる真之介を追い返してから、ことさら気にする様子も無く
ヌイは眠そうにしていた幼子を昼寝させている。
考えていることといえば、普段は着慣れていない女らしいものを用意する方法などだった。
『何故、まったく疑わない』
「なんだ、身に覚えでもあるのか?」
突然に背に触れる距離で現れても、もう気にはならない。
人でない男が金の瞳で哂っている。
『声は聞いたが、すぐに水鏡が揺れて壊れた故
助けろという女の願いを聞き流したことならある』
「つぎに現れる場所とか、解らないのか?」
『私は、そういう類のものではない』
予想はしていたから期待はずれとも思わなかった。
―母や義母の着物を漁ろうか、いや残した己のものにも
艶やかなものがあった気がする……―
『意味の無い事に巻き込まれに行くなら
今からでも手を出しておこうか』
「意味はあるだろう。
この辺りでは紅い髪の鬼女退治騒ぎがあった。
最近では死んだはずの娘が町中を歩いている。
それも、曰くつきの幼子と異形の男が傍に居る。
真之介が来なくても、騒ぎくらいは気付いていた」
人ではない男の、耳に触れるような距離での囁きさえ
今のヌイは聞き流してしまう。
『私の無実を示そうと行くのではないのか?』
「そう思いたいなら思っていればいい」
いきなり身動きが取れなくなって慌てる。
後ろから抱きしめられてい居るのだと理解するまで僅かに時間がかかった。
「なんのつもりだ。水鏡」
『だから、要らぬことを起こす前に手を出しておくといっただろう』
首筋に唇が這う。
今まで一度も触れてこなかったくせに両の腕が身体を触れていく。
身八口から手を入れられて、素の肌に触れられたと解ると
流石に大人しくしていられなくなる。
「おいっ」
振り払おうとした腕を押さえつけられて、仰向けのままに
目の前で見慣れた金の瞳が哂っている。
「あのな、相手が当たり前の人間なら生娘に
見えるというだけで充分なんだ。
今さら手を出して来ようが、今宵から歩き回る。
襲ってこなかったら、生娘じゃないと解るお前だということになる」
『ならば、抱いてもいいということだ』
言い返そうとした言葉は言えなかった。
唇を唇で塞がれたまま、しばらく思考する。
この人でない男が、今さらに手を出してくる理由が解らない。
『ヌイ、色事に及ぼうかという相手を見据えてきてどうする』
「今さらで、今でないといけない理由が解らない。
早々に襲ってくると限らないんだから、退治した後でいいだろうに」
色香の欠片も無い言葉に人でないものが笑い出す。
『早々に来ると思うがな。
ヌイは雑魚妖怪でも斬れる腕だが、それだけに素人には隙だらけに見える』
「ならば、尚更 明日、明後日くらい待て」
とくに逃れようともせずに、見つめたままに言い募ってくる。
『嫌だとは言わないのだな』
「ああ……そういえば失念していた」
おおよそ尋常では有り得ない言葉を本気で呟く。
『やはり、お前は変わり者だ』
名残惜しそうに口付けられながら、変わり者で何が悪いのかとも思っている。
触れていた肌が離れて、何故だか落ち着かない。
「妖物のくせに暖かいのか」
『そんなことに感心しているのか、呆れた奴だ』
呆れられても、そうとしか言えなかった。
何故、落ち着かないのかは解らないのだ。
「歩き回っている間は、何処ぞで声をかけられても
此処で、ちづるを見ていてくれるか?」
『何故、嫌だとも言わないのかを答えてくれるなら』
つくづく、些細な願いでも代償は必要らしい。
この妖の性質に呆れ果てる。
「そんなものは考えても解らぬ。
ごく普通に考えたら、惚れているんだろう。
自覚が無いから、そんなことを容易く言い切りたくは無い」
『そこまで自覚があるなら充分だ』
自覚が無いことを自覚している。
それを人ではないものが哂っていることさえ、ヌイには平穏な日常でしかない。
【変化】
散々に散らかした挙句、結局は着ることなどないと思っていた
実母が己のために遺してくれたという艶やかな柄の着物を身につける。
本来なら、見合いなどのときにでもと用意してくれたのだろうが
生憎とヌイに、そういう話が来るはずもない。
着慣れない振りの長い着物と、着け慣れない艶やかな帯。
髪結い屋にまで行く気にはなれず、それでも少しは女らしく
玉結びに仕上げると見違えるような若い娘が出来上がった。
得物を袋に包み、それを両の腕で抱きかかえて歩いてみる。
「なんとか、なるか……」
袋に入れたままの得物を片手でクルリと回せば、はらりと袋の紐が解けて石突きが現れる。
「綺麗ね、ねえさま」
「ああ、私が着ていくと着られなくなるな。
ちづるには、新しいのを仕立ててやるから心配するな」
袋に得物を仕舞い直すと、幼子の手を引いて廊下を歩く。
冬でも素足に慣れたヌイには、白い足袋すら邪魔に思える。
『まるで想い人にでも会いに行くような衣装だ』
「そういうときのために作っていただいたのだから
そう見えるだろうさ。
これだって、届け物にでも見えるだろう?」
得物を包んだ袋を指し示すと珍しく金の瞳が見据えてくる。
いつも、哂うように……何もかも見透かすような妖物の瞳。
『手助けがいるようなら呼べ』
「お前を呼んだら意味がないだろうが」
疑っているのは従兄弟だけではないはずだ。
水鏡はヌイの傍から離れたがらない。
昼間から、堂々と何処にでも付いて回る。
この界隈で『化物』といえば水鏡を指している。
「ねえさま、あぶないところへいくの?」
「近所を歩き回るだけだ。案ずるな」
幼子を抱き上げて、そのまま人ではないものの腕へと渡す。
「ねえさまは、本当にだいじょうぶ?」
『大丈夫でないからといって、誰かが止められるのか?』
その異質な声に幼子が首を横に振る。
「ちづるを不安がらせるな」
言葉を置いて、ヌイは着慣れない衣装を乱すことなく背を向ける。
幼くても、ちづるは置いていかれる意味を知っていた。
置いていくほうが安全だと思えば置き去りにされる。
まして此処はヌイの家で、ちづるの父親が傍にいる。
ヌイが此処から出て行けば危険なのだと知っている。
けれど、それを止められないことも解っていた。
「ねえさまっ!」
呼び止めたくて、声をかければ笑みを浮かべて振り向かれた。
「良い子にしていたら、土産でも持って帰ってくる」
泣き出したいのを堪える。
あんな風に言いながら、いつも返り血まみれで帰ってくるのだ。
野の花などを気楽に土産だと渡されながら
帰ってきてくれるだけで良いと何度も思った。
「早く帰っていらしてね」
「心がけておく」
カラリ……という音と共に、艶やかな衣装を着た女は暗がりの中へと消えていった。
あてもなく歩いても仕方はない。
まずは、人目につくような大きな通りを歩いてから何度か小道へと入って様子を見る。
艶やかな、いかにも良家の娘という風情の娘が少し急ぎ足で町を歩いて過ぎ去っていく。
ときおり照らし出される白い顔が、あまりに美しくて
たまたま行き逢っただけの蕎麦屋が振り返る。
「何処の箱入り娘だか、噂も知らないのかねぇ」
ここ数日、毎晩のようにやってくる常連客に話しかける。
客は蕎麦代を置いただけで、何も言わずに立ち去った。
気配は、随分前から気付いていた。
気付いていると解らせることの方が都合が悪かったから
ただ夜道に怯えるような足取りで歩いたに過ぎない。
それでも、あからさま過ぎるほどに付けて来るとなると少しばかり足を速めてみる。
相手は、気配を感じさせることで道を選ばせる。
人通りの少ない場所へと、より暗い場所へと気付かれないよう選ばせる。
なるほど、慣れた手口のようだ。
小さな稲荷神社への石段が見えて、その先に開けた場所はなかったと思い出す。
着慣れない衣装なのだ。
出来るだけ不利は避けたい。
石段の手前ならば、祭祀などがあるたび市が建つ広場だ。
これだけの場所があれば充分だと立ち止まる。
出来るだけ静かに、相手の気配に気付いていることすら気付かせぬくらいに静かに俯いたままに立ち尽くす。
背後から見た姿は、ただ途方にくれた良家の娘だ。
薄闇にも浮かぶ灰桜色に鮮やかに鶴が描かれた衣装。
鳩羽紫の帯がキリリと文庫に結ばれている。
大切そうに抱いているのは、届け物だろう。
何か物思いに沈むように、うなだれているように見える。
道に迷ったことだろうか。
誰かに付けられていることに怯えているのだろうか。
追いながら見た白い顔は美しかった。
今までの娘とは格が違う。
着ているものも、その姿も、上質のものだ。
―あれを汚したい……―
素早く駆け寄り押し倒そうと手を伸ばす。
だが、そこに居るはずの娘は遥か後方に身を翻していた。
手に持った袋の紐は解けて、長い柄が見えている。
前身の裾を当たり前のように、するりと帯に挟み上げて
片手で抜き放った長い得物が微かな星明りに鈍く光る。
「驚いたぞ。てっきり当たり前の人間だと思ったのだがな」
目の前にいるのは、ただの人間とは言いがたかった。
背丈といい、その太い腕といい、尋常ではない。
その上で、あれだけ気配を消して追ってきたのだ。
「な……に・も・の……」
驚いているのは男のほうだ。
大きな身体でありながら、俊敏に動ける身は今まで狙ったものを取り逃したことなどなかった。
それだけではない。
この姿を見ただけで、女でなくても怯えて逃げる。
それが、この女は哂って見据えてくるではないか。
「見ての通り、少しは知られた武家の当主でな。
お前などにウロウロされると、私は居心地が悪いのだ」
哂われることに腹立たしくなって腕を伸ばす。
それが何も掴んでいないと感じたときには伸ばした腕は地に落ちていた。
「だぁぁっ」
怒りのままの体当たりは成功したと思った。
足は速い。
自信がある。
薙ぎ払っただけの刃が胴を裂いていた。
倒れた直後には石突で背の骨を砕く。
返り血を浴びた白い顔に笑みが浮かんだ。
「証人、見ての通りだ」
血を払うと刃を地に向け帯に挟んだ裾を直す。
袂から出してきた手ぬぐいで血を拭う間に、声をかけられて気まずい思いをしながらも男は出てきた。
「確かに……一部始終をみていたよ。
出る幕、なかったなぁ……」
陽気なはずの男は、少しばかり残念そうだ。
この数日、捕まえてやろうと探し回っていたものを目の前で倒されてしまった。
やはり、この従姉妹に話したのは失策だったか。
「真之介が片付けたかったなら女装でもしたら良かったんだ。
蕎麦なんぞ、食らっている間があるなら考え方を変えればいい」
「馬鹿を言え。相手は生娘しか狙ってこないんだぞ」
捨て置いたままだった長い袋に得物を収めると笑ったままで女は近付いてくる。
「こいつは、そんなのは見分けては居なかった。
ただ若い女が、こんな時間に出歩いていれば
それだけで良かったんだろう」
見た目は異形のものだったが、妖物でないことはヌイには解る。
本物の妖物なら、家に帰れば居るのだ。
「生娘でなくってもって、千鶴のことかっ?」
「阿呆、どうしてそうなるんだ。
それに私はヌイだと言っているだろう」
何度言われても、つい呼びなれた名を呼んでしまう。
分家と本家の跡取り同士だというのに、気付いた時には惚れていた。
本家当主を名乗るからには、死んだことになっている『千鶴』という
かつての名前で呼ぶものは他には居ない。
「こいつを斬ったのは、お前だといっておけ。
襲われていた娘は逃げてしまって解らないと言えばいい」
「なぜだ?」
得物を両腕で抱きかかえ、長い振りを手の平に乗せて口元へ持ってくる。
そんな仕草は見慣れていないし、この女は幼いころから美しかった。
戸惑っていると可笑しそうに笑う声が聞こえる。
「だから、こんな格好で大男を斬ったとなれば
それこそ不自然だろう?」
「いや、それでも……お前の腕を知る者は信じるぞ?」
「私の腕を知るものが、この格好を信じるものか」
笑ったままで女は歩いていってしまう。
真之介は言い返せなかった。
あの娘は本家を継ぐことに、誰からも反対されないだけの理由がある。
他の誰も叶わないだけの腕を持っているからだ。
ただ常日頃から、馬乗り袴で男のような姿をしている。
その上、あの口調と性格だ。
「なんで、いっそ醜女になってくれないんだっ
それだけの腕で、その姿じゃあ惚れるなと言われても無理だろう!」
しゃなりと振り向いて見せた笑顔が意地悪かった。
「それなら水鏡にでも頼めばいい」
「あいつに頼み事なんかできるかっ」
捨て鉢のようになって、喚いている男を放って女は来た道を引き返していた。
「ああ、まだ居たか」
そろそろ店仕舞いをしようとしていた蕎麦屋は驚いた。
声をかけてきたのは、先ほど駆けていた娘に間違いはない。
「悪いな、何も手土産がなくて難儀をしている。
一束でいいから蕎麦を分けてくれないか」
まるで男のような言葉で銭を置く。
ふと、その手に持っているものに目が留まる。
「ああ!あんた、いつも幼子を連れている薙刀使いか?」
「ん?なんだ、解るか」
解るも何も、この女は界隈では有名だ。
十三で死んだと言われていた娘と瓜二つで同じ技を持っている。
誰もが、死んではいなかったのだと気付いている。
それでなければ、あの大きな武家屋敷の当主になど
こんな若い娘がなるはずがないからだ。
「おかしいと思っていたんだ。
恐ろしい噂があるって言うのに、えらい別嬪が駆けていたから」
蕎麦屋は、気前良く話しながら蕎麦を竹皮に包んで寄越した。
「逢引にでも行くのかと思ったけど、あんただったか。
こりゃあ、化物騒ぎも終わったか」
「このこと、伏せておいてくれ。
それでなくても、うちには本物が居るんだ」
銭を余計に渡されて、蕎麦屋は口が過ぎたと知る。
そうだった。
この女には、いつも連れている男が居る。
ただの美丈夫だと思い込んでいたら、その瞳が猫のような色をしていて驚いたのだ。
「誰にも言うな……私とて斬りたくないものを斬らずにいたい」
蕎麦の束を摘み取ると、女は笑顔で恐ろしい言葉を残す。
そろりと盗み見た後姿は、ただの娘でしかない。
それでも、あの娘が並みならぬ腕を持っているとは聞いている。
冷たい汗を拭きながら、今度こそ店を仕舞うことに専念したのだった。
「ねえさまっ」
己の屋敷だというのに、裏木戸などから入ってきた姿を縁台に座っていた幼子は目敏く見つける。
駆け寄って抱きつくと、予想通りに綺麗な衣装を血で汚していた。
「おかえりなさい」
「起きていたのか、ほら土産だ」
竹皮の包みを渡されて、そろりと中をのぞく。
「なぁに?」
「蕎麦だよ、甘いものなど店が開いていないから」
ちづるは流浪生活の中で育った。
夜鳴き蕎麦を知らないわけではない。
ただ竹皮に包まれているのは、初めてみたのだ。
「たべていい?」
「眠いのを我慢していたくせに無理をするな」
片腕に抱き上げると濡縁から屋敷へと入る。
「少しだけ、少しだけ食べたら寝るから」
「残ったのをどうするんだ」
構って欲しいのだろう。
この幼子は、まだ血のニオイがするような状態でヌイが何も食べないことは知っている。
殺生など慣れている。
慣れているからこそ、食わぬと決めているのだ。
いつものように並べて敷いた布団の上に幼子を寝かせ、共に横になってやると
安心したのか、ようやく大人しく目を閉じる。
「あのね、ねえさま」
珍しく声をかけてくる。
ちづるは、赤子の頃から寝つきがいい。
横になってから起きていることなど少ないのだ。
「ちづるも、ねえさまのようになりたい」
「刃物など振り回して楽しいと思うのか?」
小さな手が手の平を握ってくる。
先ほど、人一人を殺してきたばかりの手だ。
「逃げるのは嫌だから……」
そんな生意気な言葉を呟いて、すぐに寝息を立てている。
こんな血にまみれた姿に憧れるのだろうか。
いつも背に庇い、血に汚れることの無い様にと斬りあいになれば遠くまで駆けて逃げるようにと教えた。
それを不満に思うようになっているのだろうか。
血に汚れた白い足袋を脱ぎ、重い帯などをほどいて
もう着られないだろうと思うほど返り血を浴びた衣装を畳む。
これを作らせた母は、こんな風になると思っただろうか。
記憶に無い実母の思いはわからない。
「着るはずだった千鶴ならば、こうではなかったのだろうな」
ならば、この結果も仕方が無いのだろう。
そう答えを勝手に出して、灯りを消す。
ふいに背に感じる気配。
疲れていただけに反応するのも面倒だった。
『今宵は妙に、しおらしいな』
「ちづるを一人にして、何処に居たんだ」
代償を受け取っておきながら、約束を違えるとは思えなかった
『気になるのか?』
耳元での囁きに付き合いきれず、そのまま己の布団へと入る。
その背に寄り添ってくるのは、既に慣れたものでしかない。
「お前の約束が、そんなものなら気になどならない」
この妖物との約束を守ろうとするのは、いつも己の方だ。
相手が同じように守ってくれるなどとは思ってはいない。
ただ……
願いに代償を支払えば、この妖は違えないと思っていた。
それが少しばかり気に入らない。
『ちづるが、私が傍にいるというのに
池に向かって願掛けなどするからだ』
「ちづるが?」
我侭を言わないような子に育ててしまって気にはしていた。
何を願ったと言うのだろうか。
『仕方が無いから池の中にいた。それだけだ』
「ちづるは、何を?」
『強くなりたいのだそうだ』
つい先ほど聞かされたばかりの言葉が蘇る。
―逃げるのは嫌だから―
当たり前の少女になってくれれば良いと願っても本人は、それを願っていないのだ。
『そう願うことが、既に強い証だと答えておいた』
「……そうか……」
確かに、そういう答えでいいのかもしれない。
ぼんやりと眠ってしまった幼子に見入る。
背から感じる気配も同じように見ているのだと思っていたら唐突に抱き寄せられた。
「水鏡?」
声をかけても、人でない男は何も答えない。
ただ髪だの、耳だのと口付けてくるだけだ。
何を理由に今さらに色事に及ぼうとするのかは解らない。
何故、嫌だと思いつきもしないのかも解らない。
解らないままでも、素肌に触れられるなど初めてだ。
ヌイの手刀は、まともに食らえば一突きで大の男を殺す。
そんな女に手出しするものなどいなかった。
だから、素肌の上を触れられていてもただ不思議で仕方が無かった。
普段なら着の身着のまま、馬乗り袴などで寝床に着くのに
先ほど艶やかな衣装を血に汚してしまって脱いだばかりだ。
魔除けだと言われる緋色の長襦袢は、この妖には効かないらしい。
肌蹴た胸に唇が這う。
素のままの脚を人でないものが触れてくる。
解らないままの感覚を、ぼんやりと考えていると
そのまま手を差し入れられて、無意識に放った攻撃はかわされた。
「ちょっと待てっ」
『もう遅い』
唇が重なる。
覆いかぶさってくる身体は、人の姿をしているだけの妖物だ。
何度も斬りかかって、勝てないと思い知らされた相手だ。
未だに、この男の振るう重い剣を扱う技量は羨ましい。
己の身体の中に這入ってくるもの
知らない痛みは、刃で斬られたものとは違う。
ただ、それでも今さらに抵抗する意味はないと思えた。
知らない感覚に囚われながら、訳も解らずに伸ばした腕は
覚えの有る手の平に掴まれる。
湧き上がる感覚がわからない。
ただ抑えきれずに身体だけが反応する。
それが快楽だと気づく頃には、何度も同じ感覚に襲われていた。
身体が熱い。
よく解らないままに、抱かれているというのに
歯向かう気にはなれないままだ。
「ああ……なんだ……そういうことか」
腕の中で女が呟く。
乱れた髪で表情はわからない。
ただ、しなだれかかってきた身体は常の覇気が無い。
「情けないな、私は……」
知らずに流れる涙に、己自身が驚く。
あやすように背を撫でる手に、この人でない男は
とっくに気付いていたのだろうと思うと可笑しくもあった。
「これが、お前のいう頃合か?」
『年頃になるのを待っていただけだ。疎いにも程が有る』
ごく当たり前に考えれば惚れているのだろうとは思っていた。
それを自覚できないのには理由があった。
「義母が惚れた男に惚れるというのは、些か気が引ける」
『それは遠慮ではなく、ただの悋気だ』
そういうものなのだろうか。
それほど己は器の小さい人間ではないつもりだ。
『ならば問うが、この先 あの女と同じように
子が欲しいなどという願掛けがあったら如何する』
どうするのだろう。
この妖の性質は、鏡のようになった池などに
意味のある言葉をかけられると節介をやきにいく。
願いが叶えば代償を勝手にもって行く。
その性質を止められるとは思えない。
解らないままでいると、いきなり身体が離れて行く。
「水鏡?」
機嫌でも損ねたのかと思うほど、この妖物の目が哂っていない。
金の瞳で、あらぬ方向を見つめたままだ。
『先だって、声が聞こえて会った者と同じ声だ』
ああ、あの時は珍しく帰りが遅かった。
『一人は寂しいと泣く女だ』
つくづく、この妖は誑かす気も無く、女を誑かす。
願掛けがあったなら仕方も無いのだろう。
乱れた衣装を直して、そのまま横になると
不機嫌そうに背に寄り添ってくる。
「いかないのか?」
『私だって居たい場所くらいはある』
そういえば、傍に置けという条件を受け入れている。
この妖は傍から離れたがらないのだ。
『ヌイが願いすら言わないから困ることになるのだ』
「願い?」
しばらく思考する。
ふと気付いて、その金の瞳を見る。
「水鏡、お前の居たい場所に居たらいい。
それが私からの願いだ」
『ヌイ……せめて行くなと言えぬのか』
そう言われても、思いつかなかったのだから仕方が無い。
「居たい場所に居ればいいだろう?
どうせ、私は人でしかない。
いつまでも傍に居て欲しいなどと思うには無理がある」
『言ってこられたから困っていたのだ』
そういうことを願うものも居るのか。
願ったところで、人はすぐに老いて死ぬ。
そんなものの傍に居続けるには、水鏡の性質は厄介だ。
「それなら、付け加えておこう。
願をかけられたからといって、簡単に人と子を作るな。
人は異形のものの子など育てられないと知っているんだろう」
『ヌイなら育てるだろう?』
ちづるを育てたのだ。
そのことだけは、否定のしようが無い。
『素直に他の女を抱くなといえばいいものを』
「私が、そういう事を思いつかないと解っていて要求するな」
微かに哂う声が聞こえる。
腕が回されて、抱き寄せられる。
『人にしておくには惜しい女だ』
答える言葉も見つからず、その触れている暖かさだけを感じている。
人であっても、そうでなくても
どうせ、己は人から恐れられている。
恐れられることに慣れている。
今さら、そんなことは気にしても仕方が無い。

5
最終更新日 : 2011-05-20 13:39:58

再会

大きな武家屋敷だった。
勝手知りたるとばかりに、主は木戸を開けて入っていく。
「戸締りなどしないんだよ、ここの当主は」
なんとも無用心なことだ。
主について、手入れもされていない広い庭へと出ると、どこかで見たような立ち姿が見える。
長い黒髪を一つにまとめ、馬乗り袴などを身につけている。
片手でクルリと得物を回すと、こちらにやってくる。
「久しいな……小次郎」
「あ、あんた、やっぱり!」
以前に出会ったときは、紅い髪をしていた。
今の主から聞けば、思っていたような恐ろしいものではなかった。
「とにかく人を雇おうにも、誰も居つくわけがないからな
お前、真之介のとことウチなら どちらで働く?」
「はたらく?」
小次郎は、周囲の荒れたままの広い屋敷を見る。
これでは化物屋敷だ。
「全く、たまに頼りにしてくれると思ったら指名付だ。
小次郎、いず共々に働いてやってくれ。
ウチの本家は、当主がこんなだから人が寄り付かない」
それは解る。
この女の恐ろしさは身をもって知っている。
それでも、決して悪人ではないとも知っている。
「真之介、私のせいだけにするな。我が家には、本物の妖が住み着いている」
『いつまでも、妖、妖と言わずとも良いだろう』
いきなり女の背に触れるように現れた男に小次郎は驚きのあまりに声も出なかった。
「怯えなくても良いぞ、小次郎。
こんな昼間っからウロウロしているものに怯えて如何する」
虚勢をはって、片恋の相手に言われた言葉を真似てみる。
また笑われるかと気にしてみたが、意に介せぬと見える。
「屋敷は、こんなだが給金は支払うぞ?
私は出稽古など付けてやっているから、真之介より稼いでいる」
「それは仕方が無いだろう?
ち……ヌイは、親戚付き合いを俺に押し付けているんだから」
くすりと笑う顔に見惚れる。
あんなに恐ろしいと思っていたものは、なんだったのだろう。
「親戚共が、我が屋敷を恐れて近付かないからだろう。
私は、いつでも来いといっている。
戸口も開け放っているのに、誰も入ってこないのだから仕方が無い」
「ヌイは本気で怒ると怖いって、誰もが知ってるんだよ。
おまけに、コンナモノを置いてて来る奴がいるかっ」
コンナモノと主が指し示した相手。
ヌイの背に触れるように立つ男が気になって仕方が無い。
現れ方には驚かされたが、姿は恐ろしいと思えない。
ただ……不思議な声だとは思った。
「小次郎?」
濡縁から身を乗り出している幼子が声をかけてくる。
昼寝でもしていたのだろうか。
眠そうに目を擦りながらも、こちらにやって来た。
「今日は、牛はいないの?」
「ああ、お武家様のお屋敷には置いていただけなくてなぁ」
寂しそうな声に、ちづるは不安そうにしている。
「いや、小さいちづる……別に手放させては居ないぞ?
ただ他所へ預けているだけなんだ」
「小次郎の言うことしかきかない牛なのに?」
「そうは言うがな……我が家に置けないのだから……」
益々、悲しそうに見上げてくる幼子に真之介はうろたえる。
この幼子は、年のわりには口達者で困るのだ。
「だから、ウチに置けば良いと言うのだ。
庭の隅にでも小屋など建てればいいじゃあないか」
「ウチに来るの?」
途端に嬉しそうに小次郎を見上げる。
小次郎とて、家族同然の牛と離れて居たくは無い。
「本当に、よろしいんで?」
「今さら牛が居たところで、別に誰も驚かない。
ちづるが気に入っているのだから、可愛がってやればいい」
此処の当主だと言う女は、姿が変わっても言葉は同じだ。
奇異に見られることなど気にしないのだ。
「いつ?いつ牛はくるの?」
「私は直ぐにでも働きに来てもらいたいのだがなぁ。どう思う、水鏡」
背に立つ男に声をかける。
女の耳元で何か囁いている。
女は、可笑しそうに笑っているだけだ。
「なんだ?ヌイ、どうしたんだ」
騒がしく問いかける真之介の声すら、笑って聞き流す。
「池を汚すなと言ってきただけだ。気にするな。
来る気があるなら、さっさと小屋を作れ。
真之介、牛と妹を連れてきてやってくれ」
言葉は優しいが、断れない気迫がある。
小次郎は落ち着かずに、真之介を見る。
「解るだろ……此処に誰も働きに来ない理由」
確かに、これだけの古い大きな屋敷で使用人が居ないなどおかしい。
それでも、雇い主の性格を知る小次郎には納得も出来る。
「では、明日からでも宜しいんで?」
「そうしてくれ、部屋なら用意しておく」
用は済んだとばかりに背を向ける。
ああ、この女は姿かたちなどに関係なく態度は変わらない。
確かに僅かでも、この変わった女に慣れた者でなければ勤めもできるわけもないだろう。
そんな些細な理由で雇われ先が替わって、妹のいずとともに
近辺では一番の大きな武家屋敷に勤めることになった。
家中がほこりまみれで驚かされ、さらに使用人部屋だという与えられた部屋の上等な内装に驚かされる。
畳を敷いた部屋で眠ったことなど無い。
「いずは台所に近い部屋に住んでくれ。
それとな、二人とも勝手に湯を使っていいから屋敷の中にあるものに着替えておけ。
そんな格好でウチにいたら、化物の餌だとか言われるに決まっている」
どれだけ放置されていたのか知らないが使用人のためだとしか思えない狭い風呂場はある。
かつては豪勢な家だったのだろう。
「あの……お屋敷の何処にあるものでしょうか?」
この女に初めて会ったばかりの、いずには解らないことだらけだ。
「何処でもいいさ。動きやすいものならいいんだろう?
私も、ちづるも、あちらの大屋敷でしか暮らしていない。
他の渡り廊下の向こうだとか、離れだとかは見てもいない。
掃除ついでに、着る物くらい探しておけ」
呆れるほど、この女は屋敷を放置している。
何に使うのか、見慣れない一尺ほどの棒を持った
馬乗り袴姿の女主は、使用人さえも放任するつもりのようだ。
「あのぉ、先日の旦那さまは?」
挨拶くらいはしておきたい。
何より、いずは見慣れていないから驚くはずだ。
「だから、アレはそういう者じゃあないだろう。
そんな呼び方をしたら、あの妖が喜ぶだけだ」
「あやかし?」
不吉な言葉に、いずは不安そうに兄を見上げた。
それでなくても、化物屋敷のように荒れた屋敷なのだ。
『解っているなら、素直に認めればいいのだ』
聞こえたのは、あの異質な声。
誰も居なかったはずの女の背後に美丈夫が現れる。
「せめて初対面の若い女にくらい、当たり前の現れ方をしてやれ」
『ヌイが、まるで私など居ないかのように言うからだ』
背から腕を回して、この恐ろしい女を抱きしめる。
片手に持った棒は男が腕ごと押さえている。
なるほど、アレは刃が無いだけの武器なのか。
「に……にいちゃ……」
「うん、慣れれば平気だからな」
すがり付いてきた妹に声をかける。
本当は己だって、まだ何も知らない。
ただ知っているのは、この女が恐ろしいと感じさせるほどの人間で
まるで夫婦にしか見えない美丈夫が人ではないと知らされている。
どちらも恐ろし気ではあるのに、害は無い。
ないどころか、この女に出会ってから小次郎の生き方は豹変した。
前の屋敷では、百姓仕事と牛飼いしかしたことがないものだから馬草を運ぶ程度でしか仕事は出来なかった。
妹のいずは、攫われた後は遊女だった。
二人は役立たずで居心地の悪い分家から、好んで呼び寄せられた。
「いず、怯えなくても何もしない化物だ。
そうだな、池などが鏡のようになったときに
話しかけたりしなければ この男はなにもしない」
女の声は何も変わらない。
背後から抱き寄せられ、首筋に口付ける妖を無視している。
「私はヌイ、この屋敷の当主を任されている。
今は昼寝をしているけど、ちづるという幼子が奥にいる。
この妖は水鏡とか名乗る節介焼きの妖物だ。
見ての通りの仲だから、ここが化物屋敷というのは嘘じゃない」
そんなことを潔く言い切られては、何も言い返せない。
何より小次郎と妹の二人には、他に行く場所も無い。
どうしようもないからと思い込んで始めた古い屋敷での生活。
それが予想していたようなものでないことは数日でわかった。
此処は仕事が多いだけで待遇は恐ろしく良い。
食い物など、主たちは何を出しても文句を言わない。
着るものは本当にきちんとしたものを着せられるし
仕事が遅くても、出来が悪くても小言など言われたことも無い。
たまに出かけたと思っていると、大金の入った袋を投げ寄越される。
必要なだけ持っていけということなのだそうだ。
「やましい金じゃあないからな」
冗談めかしながらも女主は待遇の良さに戸惑ういずに気遣って、そういうことを話すのだ。
この屋敷には、人は入ってこないが文だけは頻繁に届いている。
聞けば、どれも挑戦状だの、稽古を付けて欲しいだのという
いかにも武家当主らしい文だとわかる。
そういうことの代償に、金を貰うのだという。
「稼ぎがいいというのは、本当だったんですねぇ」
「当たり前だ。分家と同じに思うな。
だいたい、その金額だって相手が勝手に渡してくるんだ」
手渡された給金の多さに驚きながら、いずが呟くと女主は事も無げに答える。
『待ち伏せした男二〇人を昏倒させたんだ。
道場主は、その金額でも少ないと思っているぞ』
いつものごとくに、女の傍には人ではない男が寄り添う。
いずも、いい加減に慣れてしまった。
声は聞き慣れないが、並んでいる姿は睦まじい夫婦にしか見えない。
「あんな殺気だらけで隠れていても意味がない。
稽古だというのに、得物を持って来いなどというから最初から変だと思っていたんだ」
聞かされてはいたが、本当に恐ろしいと思わせるだけの
腕を持つ女なのだと、いずは理解した。
「元気そうじゃないか!」
突然の声に驚いて、いずは戸口を見つめる。
見れば、以前の雇い主である。
「お出迎えもしませんで、申し訳ありません」
「あ……いや、いず……此処はそういう場所じゃあないだろう?」
慌てて居住まいを正して頭を下げると、決まり悪そうに言い返された。
思えば、主でさえ出て行くときも、帰ってきても
気付かないままだから、挨拶などした覚えはない。
「小さいのは?饅頭を持ってきたんだ」
「お前の目は、どうなってんだ」
言われて指し示された方を見ると、幼子がお手玉をしている。
ただ、その動きが余りに正確で規則正しいから
それが生きたものの動きだとは思わなかったのだ。
「ちづる、いい加減にして挨拶くらいしなさい」
「あ……」
集中していたのを、呼びかけられて驚いたのか
パタパタパタと鮮やかな色の玉が八つも落ちてきた。
「真之介、おひさしゅうございます」
ぺこりと頭を下げる仕草が愛らしい。
「驚いたな、さすがに本家の娘だ」
真之介は覚えている。
ヌイも、こうしてお手玉をしていた時期があった。
投げる玉の数が多いだけでなく、宙で扱う様も鮮やかだった。
今思えば、素早い動きで長い得物を扱うのだ。
色鮮やかな玉など、自在に操れるはずだ。
「ちいさいの、饅頭を持ってきたぞ」
「おまんじゅう?」
受け取りながらも、包みを眺めている。
上等の菓子屋のものなのだろう。
桐箱などに入っているから、ちづるには何だか解らないのだ。
「母さま、食べてもいい?」
膝の上に菓子折りを置いたまま、尋ねる言葉に真之介は奇異に思う。
「食べ過ぎるんじゃあないぞ」
「あ、じゃあ御茶を淹れますね」
いそいそと使用人らしく出て行くいずを見送りながら
真之介は落ち着かないままに座り込む。
「小さいの、なんで母さまなんだ?」
「ちづるは母さまが欲しかったの」
それでは、訳がわからない。
確かに育ての親ではあるだろう。
それが、急に呼び方を替える意味が解らない。
「おい、妖……まさか……」
従姉妹に尋ねても、どうせ解るような説明はしてくれない。
そのくらいには理解している。
だから、恋敵で今も従姉妹に寄り添う人ではない男に尋ねた。
『この女を抱くのには、難儀なコツが要るんだぞ
少しでも間違うと、色事が斬りあいになる。
ヌイは、どうも同じものに思っているとしか思えない』
「いくら疎い私でも、斬りあいと同じに思うわけないだろうが」
いきなり空気の裂ける音がしたが、その腕の棒は妖の手に捕まえられていた。
この従姉妹は、室内でも棒切れを持ち歩く。
ただの棒切れだと思っていたら、気合で骨を砕く腕の持ち主だ。
その目に見えぬ速さの動作を止めたのだ。
「いや、それはないだろう。
俺は知っているぞ。この女は疎いどころじゃあない」
一〇になるか、ならないかというころから、ひたすら想いを告げてきたのだ。
色恋にかけては、並みの男以上に疎いのだと思っている。
「だから、疎いということは認めているだろう。
惚れた相手に、惚れているといわれても解らなかったんだから」
顔色も変えずに、当たり前のことのように言うのは、いかにもこの女らしい。
「俺以外に、ヌイみたいな怖い女に惚れたと言って来るもんかっ」
「だから、人ではないコイツになるだろう?」
確かに他にはいないだろう。
夫婦仲になっていておかしくない時期に、何もないと言い切られて
相手は妖物なのだから、そういうこともありえると思い込んでいたのだ。
どうやら、さすがの妖もヌイの疎さには手を焼いたらしい。
「ヌイ……本家を化物屋敷にするのか?」
「気に入らないなら、お前が継げばいいんだ。
私も、ちづるも、流浪生活に慣れている。
水鏡にいたっては人でさえない。追い出せばいい」
それが出来るなら、最初から呼び戻したりはしないのだ。
親類縁者が恐れて近付かないから、真之介は暇を見つけてはこうして様子を見に来ていた。
何もなければ、何もないと言いきれる。
それが、こうも堂々と夫婦仲になっていると告げられてしまった。
「まぁ、相手が悪すぎたよな……
扱いきれない女だから、いずれ俺が適任だと思っていたんだけどなぁ」
「それは世間体だろう。私は知らない」
この従姉妹相手に、世間体など話しても無駄だとは思う。
思っても、他に言葉は見つからなかった。
「せめて、他の男なら真剣勝負でも挑むんだけどなぁ」
『相手くらいはしても良いが』
何もなかったはずの男の片腕に、見慣れない形の剣が握られていた。
これで、従姉妹と斬り合っている姿は見慣れるほどに見ている。
この従姉妹が、何度も負けを認めているのを聞かされている。
真之介にとって、どうやっても追いつけない従姉妹を
あっさり負けだと認めさせる技量を持つのは
人ではないのだから仕方が無いのかもしれない。
「いや、止めておく。
そんなことをするなら、夜中の池にヌイを嫁にくれと願掛けする」
「阿呆、代償に何を持っていくか解らんからこその
化物なんだぞ。だいたい夜中に水鏡が出て行くもんか」
素っ気無い返事を従姉妹から返されてしまう。
そのうえ不機嫌そうに顔を背けられる。
「夜中でもなけりゃ、普通は鏡のようにならないだろう?」
『だからこそ、ヌイは悋気を焼いて傍にいるよう言ってくる』
「はぁ?」
本来の性質を無視する妖怪より、従姉妹が悋気を焼くなど想像できなかった。
「ヌイが?この女が?」
「真之介、口が過ぎると斬るぞ」
顔を背けたままの、低い声での恫喝。
つくづく恐ろしい女だと思う。
斬ると言い出して、聞き流していたら本当に斬りかかられるのだ。
そんなだから、親類縁者は近付かない。
『そう照れるようなことでもないだろう
いつまでも、子供のように拗ねるなというのに』
「そうそう簡単に変われるもんか」
どう見ても殺気を放つ従姉妹を、照れているのだという妖も、
それも認めているとしか思えない従姉妹の様子にも真之介は、驚くよりも信じられなかった。
そんな会話を聞こえていなかったのか、するりと戸口が開いていずが茶を持ってくる。
「お嬢さん、包みをほどきましょうか?」
「大丈夫、自分で出来るから。ありがとね」
いずは真之介の家で教わったとおりに客人から茶を置いていく。
どう考えても、ここの主はそういうことを気にしないはずだ。
幼子が、器用に包みを解くのにも呆れた。
「いず、此処に慣れてしまって世間の常識を忘れるなよ」
「あたしは……真之介さまに助けて頂かねば 此処にも来られなかったんです」
ほんのりと頬を染めて言う。
「だから、あれはだな……」
いずを探そうと思ったのは、この従姉妹に近付きたかったからだ。
武芸の技量だけではない。
生き難い生き方を、何事も無いように歩いていく姿に憧れた。
その背に追いつきたかった。
「理由などいいんです」
そういわれると悪い気はしない。
人助けを出来たと思うと、少しでも良い気分になれる。
「なんだ、いずはウチより分家の方が良かったんじゃないか」
「なんだよ、それ」
詰問のように言葉を放っても、返事はかすかな笑い声だけだ。
この家の当主は、幼子に箱から菓子を取り出す作法を教えるのに忙しいらしい。
きっちり懐紙まで出してくるのだから、本来は女らしくも出来るのだ。
得意は薙刀だが、武道は才があったとしか思えない。
ただ厳しく躾けられて、女の習い事さえ怠っていなかったと知っている。
そんなだから、艶やかな着物でも身のこなしは変わらなかった。
「叶わぬものを思うより、思われていることに気付け。
私は己自信のこととなると疎いが、他人の心の機微には敏いんだ」
「あの、ヌイさま……」
笑うヌイを止めようと、いずは慌てた。
本当に他人のことには敏いらしい。
「身分違いだとか気にしていたら何も出来ない。
この阿呆は、体当たりでもしないと私を思い続けるに決まってる。
そんなの、迷惑以外のなんでもないから打ち明ければいいんだ」
話しながらも、視線は幼子を見ている。
菓子を食べる作法を教えているのだ。
たしかに、その姿は姉というより母のようだ。
「迷惑は無いだろ?化物相手にしていたって
いつ消えるか解ったもんじゃないじゃないか」
「消えたら探しに行くから構わない」
迷うことなく答えられて戸惑う。
どんなことでも決めてしまったことは、この女は引き返さない。
「第一、その妖は代償を払えば願いを叶える。
下手な人間の約束事より、信じられる」
きっちり畳んだ懐紙に乗せた饅頭を、いずの目の前に差し出す。
どうして良いのか解らずに居ると主は笑っている。
「真之介からだ」
「あ……ありがとうございます」
差し出した両手に乗せる仕草も慣れたものだ。
「使用人に客の土産を渡す主の方がいいだろ
ウチじゃあ、どうしても使用人同士で苛めていたから此処の方がいい」
「なら、頻繁に会いに来てやれ」
無茶を言う。
真之介だって、いずの態度で気付いていた。
それでも想いは、従姉妹にしか向いていない。
此処に来るのは、その片思いの相手に会うためだ。
「とにかく惚れただとか、なんだとか、私に言うのは
もういい加減にしておけ。
言葉で言われても、私は解らないんだ」
立ち上がったと思ったら、元のように人ではない男の傍に座っている。
確かに、それだけ態度で示せるなら言葉などでは通じないのかもしれない。
「妖が、どうやって口説いたんだよ」
『口説いて通じないと、ヌイ自身が言っている』
異質な声を放ちながら、寄り添う女を抱き寄せる。
気にもならないのか、幼子を見ているだけだ。
「なぁ、いず……」
「なんでしょうか?」
少し前までは雇い主だったのだ。
今の気安い女主より、どうしても居住まいを正してしまう。
「今度、芝居でも見に行くか?」
「え……?あの……真之介様?」
笑う声が聞こえている。
よりにもよって、寄り添った二人が可笑しそうに笑っている。
珍しく騒がしいはずの男が、静かに去っていくのを
気に病んでいたのは、いずだけだった。

6
最終更新日 : 2011-05-20 13:41:53

「ヌイさま、どうしてなのですか?」
いずは、大の男でさえ言い返せぬような気迫でものを言う主に
この数日『務めだ』と言っては髪結い屋に行かされたり
高級な紅を渡されたりして困惑している。
あげく、今日は細工物の櫛まで寄越された。
「真之介が誘っていただろう。
あの男の事だから、女との約束を違えたりはしない」
「そんな……あのようなことを真に受けてはいません」
この主と、ゆっくり話す機会は少ない。
とにかく屋敷の広い庭のどこかで、あの人ではない男と斬りあいなどしている。
本物の斬りあいなど間近で見たのは、初めてだったから驚いたものだ。
庭にいることが多い兄の小次郎などは、見慣れたと笑っていた。
諍いでもなんでもなく、稽古のようなものらしい。
「いずが真に受けてくれないと、私が困るんだ。
あれは惚けた男だが、決して愚かなわけではない。
今のうちに、私の方から畳み掛けておかないと策を凝らしてくるに決まっている」
話していても、こちらを向くことはない。
今日は偶々、幼子相手に手習いなどをさせていたから話す機会があっただけなのだ。
それなのに、とりつくしまもない。
「いずが考えているように、身分違いだろう。
アレは分家だけど、何しろ本家当主が私だからな。
人付き合いは本家並みに忙しい男だ。
武家などというのは、小難しいことをしたがる。
いずに嫁になれとまではいえない。
そこまで言えば、私が当たり前に生きるか
水鏡に願って、代償を払うかになってしまう」
無茶を言っているようで、解っているのだ。
だからこそ、今回は従うことに躊躇いが大きい。
「いずのために言っているんじゃあない。
私の勝手を押し付けているんだ。
あの男が私以外に目を向ける機会を作りたいだけだ。
その助力を頼んでいるんだ。
わかるか?
私は、いずの想いを利用しようとしているだけだ」
ようやく向けられた顔は、余りに凛としていて恐ろしかった。
普段が気安く、優しいだけに怖いと思わせられる。
「だからって、あいつを誑し込めとか言うんじゃあない。
そういうことで追い払えないから、困っているんだ。
いずが、いずらしく遊んで来たらいいといっている」
「遊び方など……存じ上げません」
貧しい家で生まれ育った挙句、親の遺した借金のせいで売られた。
いずに遊んでいた時期などないに等しい。
「知らないなら教わればいいんだ。
真之介は、そういうことには長けている」
それはそうだろうと思う。
思っても、気軽に受けられるものでもない。
「芝居など、私も知らないから教えられない」
そういうものには、おおよそ縁が無さそうな主である。
「見世物小屋に売ろうとした馬鹿には出会った。
まだ一三くらいだったかな」
兄からも、以前の主からも聞かされている。
この女主は、最近まで紅い髪をしていたのだと。
「ヌイさまなら、売られはしないでしょう」
「そうだな、腹が立ったから斬り殺した」
同じように売られるような事態になっても差がありすぎる。
女として、代わりになれと言われてもなれるものではない。
「とにかく、いずが嫌だろうと行って貰うし、真之介には迎えに寄越させる。
私が言い出したら、誰も止められないと知っているだろう?」
意地悪く笑顔が向けられる。
困ったことに、本当に止められないのだ。
散々に悩んだ。
悩んだ挙句、あれだけ忠告されていたものを抑えられなかった。
夕餉を運んで、すぐに庭の池の畔に立ってみる。
月が明るいが、そっと覗き込むと己の姿が映りこむ。
願わなければいい、相談するだけなら代償は小さいかもしれない。
『そんな場所に行かずとも、部屋にいただろう』
かけられた異質な声に悲鳴を上げようになる。
振り向けば、濡縁に見慣れた妖が座っていた。
「その……お部屋ではヌイさまが……」
『知らぬなら教えておいてやろう。
願掛けがあって私が出て行けば、ヌイは何をしてきたのか
何を代償として奪ったのかと気にやむ。
そのくせに、何も言わない。
あれは、私に一番近い場所に居るから解っている
私は人ではない。代償は容赦なく持っていく』
月明かりの下で見る美丈夫の目は金の色をしている。
先ほどまで部屋にいたのを見てはいた。
食べても、食べなくても同じなのだというから、いつも食事は運んでいる。
どう見ても主とは夫婦仲なのだから、妖だとしても邪険に扱うことなど出来なかった。
『そんな女だから、あれが聞いていなくても
何処で何をしてきたかを、私は全て話して聞かせる。
そうでもしないと、あの女は気に病んでいることを認められずに
また刃を持ち出してきて解決しようとする。
難儀な癖は直らないものだ』
妖の金の瞳が哂っている。
思っていた以上に、この妖は主を思いやっているらしい。
しかし、それでは己が何を話したかが筒抜けだということだ。
「アタシは、どうしたらいいんでしょう?」
『愚か者になって、ヌイの言いなりになってみたらいい。
考えるより、雇い主の言い付けだと諦めればいい。
思惑が外れれば、次の手を出すだろう。
あれを止めることなど、この私にも不可能だ』
変わった方だとは聞いていた。
しかし、ここまでとは思わなかった。
「脅せば言いなりになるのに、言いつけても聞き入れやしない。
この私に言い返すなど気丈にも程がある」
カラリ……と障子が開く。
いつから居たのだろう。
笑う主は、常の通りに優しげだ。
「悪い癖でな、私は苛々が募ると刃物で解決しようとする。
いずに逃げられたら不便だ」
冗談を言うような主ではない。
ならば、やはり諦めるのが一番なのだろうか。
そして、ふと気付く。
妖は助言をくれたのだ。
「あの……」
「早く湯を沸かしてくれ。ちづるが眠ってしまう」
主の背に、あの妖は何も言わないで付いていく。
何故だろう。
代償を支払わねばならないはずだ。
不安になったまま、それでも言い付けどおりに風呂の焚き口へと向かっていった。
金の瞳が哂っている。
「本当に節介が好きな妖物だな」
『私とて、奪われたくないものくらいは有る』
また己の欲で節介を焼いたのか。
そう思っていても、それを言う必要も感じない。
ただ、抱くように回される腕に逆らわなかっただけで、
それで構わないような気がしていた。
「お嬢さん、今日は早いな」
「うん、小次郎に会うのに走ってきたの」
小さな身体で息を切らせている。
毎日のようにやってくるが、本当は牛と遊びたいだけなのだ。
何故だか、この幼子は小次郎が自慢にしている牛を気に入っている。
「今日は何かあるのかい?」
習い事でもあるのだろうか。
早くからやってくる日は、大抵は小さいなりに用を抱えている時だ。
「小次郎には、まだ内緒」
「かなわないなぁ。母さまからの口止めかい?」
楽しそうに笑う声。
「ないしょ。ちづるは言い付けを守れるもの」
この小さな少女は可愛らしい。
利巧で、我侭を言わぬ子供だと思う。
手のかからない愛らしい子なのに、友の一人も居ないのだ。
こうして牛と遊んでいるくらいしか相手もいない。
「父さまは?」
「池の中」
これが、この少女の異質さだ。
いくら幼くても、池の中に人がいるはずがないと知っているはずだ。
しかし、実際に少女の父親は池の中に居ることが多い。
そういう類の妖なのだそうだ。
「お嬢さんは、将来に苦労しそうだよなぁ」
そんな他愛のない話をしていると、玄関のほうから人がやってくる。
この屋敷に来るものなど他に居ないから、すぐに解った。
「真之介様、御用でしょうか」
「小次郎……こんなところ、用がなければ普通は誰も来ないぞ」
何故だか、今日は元気がないように思える。
常にも増して、上等の衣装だというのに沈んだ表情だ。
「どうされたのかな……」
「もうすぐ解る」
どうやら少女は知って居るらしい。
それでも尋ねることはしなかった。
意外にも、小さいながらに口は堅いのだ。
大屋敷へと入っていく姿を見送りながら小次郎は、庭の草刈を始めることにした。
荒れ放題の庭の草は、小さな少女の背丈ほどにも伸びたままだ。
これでは化物屋敷といわれても仕方が無い。
小次郎は、あの女主に恩を感じているのだった。
「だから、早く観念して練習しておけばいいものを」
「申し訳ありません」
こうなれば、謝るくらいしか出来ない。
まさか衣装まで着付けられると思わなかった。
以前から、この女主が着もしないような衣装を持っていることは知っていた。
なにしろ着古しを頂こうと思ったら豪華な衣装ばかりで困ったのだ。
どうして普段から、男のような格好しかしないのかが不思議になってくる。
「私の衣装は、どれも重いんだよ。慣れていないと疲れるぞ」
邪魔臭そうにいうが、上等の生地なのだから重いのも解る。
こんな高価なものを着たのは初めてだ。
「どうせ私は着ないんだから、着潰してくれていいからな」
先ほどから背に回って帯を結ばれているが
この主は、着もしないのに着付けることまで出来るのは何故なのだろう。
紅梅に鶴が戯れる絵が豪華に描かれている振袖
松竹梅を織柄にした桜色の帯は、豪商の娘などの間で流行り始めた
変わり結びにされている。
いったい、いつの間に覚えるのだろう。
本人は、いつ見ても袴姿で動き回っているというのに。
「こんな上等のものを着潰すわけには行きません……」
二度と着ることすらないだろう。
「どうせ着ないといっただろう。
私が着たら血で汚す程度の事はありえるんだ。
それに袖を振る必要もないしなぁ」
「やはり他の方に惹かれることはないのですか?」
長い振りで異性の気を引くなどということはしなくとも
この主は、黙って立っていれば充分に気を引ける。
それなのに、選んだ相手が人ではないのだ。
いずには理解の出来ないことばかりである。
「水鏡のことなら訊いてくれるな。
見ていれば解るじゃあないか」
それは解っている。
解るからこそ、尋ねてみたのだ。
「いい加減、入ってきても構わないぞ」
いずの衣装換えを終えて、すぐに声を障子の向こうにかける。
そろりと隙間が開いて、覗いてくる。
「何をしているんだ。入って良いといっているだろう」
「真之介様……」
決まり悪そうに入ってくる姿は、やはり元気がない。
それでも、着飾ったいずには驚いたのだろう。
呆けたように見つめている。
「千鶴……」
「その名の女は死んだだろう」
つまらない反応に他の着物を選ぶべきだったと悔やむ。
いずの幸薄い女の美しさに、たまたま顔移りが良かったのだ。
「あ、いや……すまない。
見違えるほどなんだよ、いずだと思えなくてさ」
「馬子にも衣装と申しますから……」
恥ずかしげに、それでいて寂しそうな声のいずに真之介が慌てている。
「いや、そんなことはない。うん、こんな化物屋敷にいるからいけないんだ。
ヌイ、今日は一日かりるからな」
逃げるように背を向けて、それでも、いずの手をしっかりと引いている。
「いず、骨休めだ。遊んで来い」
骨休めになどなりそうにないと思いながらも
雇い主に言い返す術もなく、いずは手を引かれていた。
恋慕い続けた相手は、どんな気持ちでこの手を引いてくれているのだろう。
屋敷の玄関に向かっていると、草刈をしている兄が見える。
どうやら背の高い草を刈るのに夢中で、こちらに気付く様子も無い。
こんな姿を見られずに良かった……
そんな風に思っていると、見慣れた牛と戯れる幼子がいる。
ふりむいた少女は、笑って手を振っている。
「小さいの、また来る」
「ゆっくりとしていらしてね。いず」
真之介がかけた言葉に、少女はいずに向かって答えを返した。
―何処に、こんなに人が居たのだろう―
真之介に連れられて、にぎわった町へと出かけたものの
いずには、驚くことばかりだった。
そう大きな町ではない……真之介は、いつもそういう。
それでも、この人の多さはなんだろう。
呼び込みの声が、あちらこちらと聞こえて騒がしい。
その人だかりの中を、すいすいと歩く真之介に驚く。
「あ……あの、真之介さまっ」
慣れない衣装で歩くには辛かった。
着け慣れていない重い帯が崩れるのではと怖くなる。
「ああ、すまん、すまん」
繋がれた手は、赤くなっていた。
明るい笑顔で振り返られて、頬まで赤くなったことには本人は気付かない。
「何しろ正月だ。
人が多いのは解っていたんだが、こんなときだけの見世物もあるんだよ」
「お正月……?」
思えば暦など長い間見ていない。
毎日の空模様だけで暮らしてきた。
「そら、もう世間の常識を忘れかけている。
あの屋敷に居ると、盆も正月もないから気付かなかったんだろう?」
からかうような口調で言われたが、本当にそうだと思った。
あの家では、正月だからと仕事が増えるわけでもない。
ただ……思えば、衣装の柄は正月のものだ。
あの主は、何もしないだけで世間を知らぬわけではないのだ。
思わず長い振りに描かれた鶴の絵に見惚れる。
その絵柄を、真之介も見つめていることに気付いて不思議に思う。
「真之介さま、この衣装に思い入れがあるのでございますか?」
「うん……まぁ、あるといえばあるな」
少し人だかりの少ない場所へと移動すると
茶屋の軒先に座って、善哉などを頼んでいる。
「あの本家には、昔『千鶴』という名の従姉妹が居たんだ。
今のちいさいのじゃなくって、千の鶴と書く」
早々に運ばれてきた、二人分の善哉を真之介は、いずに勧めながら箸を手に取った。
「千鶴の母君は俺も覚えていないくらいに早くに亡くなられたが
一人娘のために、衣装を沢山用意したらしいんだ。
衣装贅沢な方だったのだろうなぁ
その名にかけて、どの衣装にも鶴の絵柄が入っている。
だから、それは千鶴の正月用に作った衣装なんだなって思った」
遠く空を見上げて、思い出話をする姿は何処か悲しそうだ。
そんな大層な謂れの有る衣装と知っていたら
もっと断りきれていたかもしれないと後悔が立つ。
「ヌイさまは、何故……」
「あいつのことだから、いずに似合うと思った程度だよ。
実際、千鶴より似合うと思うぞ。うん」
明るい声を立てて笑う。
その笑顔さえ、寂しそうに思えてならない。
「ヌイが言っていただろう。
千鶴という名の女は、一三のときに居なくなった。
十三参りを済ませた翌年だったよ……墓も、この近くの寺にある」
それで先ほどから、寂しそうなのだろうか。
「千鶴を忘れろというヌイからの忠告だと俺は思っている。
もう何処を探しても、あの千鶴は居ないんだ。
過去を悔やむことを嫌った千鶴が思われ続けて、喜ぶはずは無いんだよな」
真之介の思い人は、あの女主ではなかったのか?
ふと湧いた疑問に気付いたのか、真之介は照れたように笑う。
「この町に長く住む者なら、皆気付いてて知らぬ振りをしているんだ。
ヌイは、養女で本家の跡取りだ。
あんな若い女が、仮にも地方で一番といわれた武家の本家当主だ。
おかしいだろう?」
そうなのだろうか?
武家の仕来りなど何も知らない。
ただ主の腕なら、おかしくないと思えた。
「千鶴は、特別に誂えた薙刀を持っていた。
俺は刀ばっかだから、相手をしてもらう時は木刀だ。
それが、一度も勝てなかったよ。
一〇になった頃には、気合で俺の木刀を叩ききりやがった。
そんな才のある女、そうそういると思うか?」
「ヌイさまなのですか?」
思わず身を乗り出した指先が、善哉の置かれた盆に触れる。
衣装を汚すのが怖くて触ることも出来ないのだ。
「ヌイは、ヌイなんだよ。
そうでなけりゃあ、千鶴のものを全て忘れ去ったりするものか」
忘れ去ったもの……だから、着潰して良いと言われたのだろうか。
違うということになっているだけで、同じ方なのだ。
この美しい衣装は、あの主のものだが違う方のものなのだ。
「ヌイさまの優しさは、恐ろしさと隣り合わせです。
あたしみたいな女に、ここまでしてくださる意味が解りません」
「そりゃあ、気に入られたからだろ?」
当たり前のことのように答えながら、冷めかけた善哉を啜っている。
「あんなのに、気に入られたら恐ろしいことにも合うさ」
恐ろしいこと……
あの主より、その存在そのものが恐ろしいものが、あの主の傍には居るのだ。
あの助言への代償は、もう支払えているのだろうか……
障子の破れが目立ってきた。
さすがに外へと通じる場所だけは、その都度に間に合わせの修理をしていても
屋内だけともなると、ヌイにしてみてば衝立のようなものだ。
それでも、この状態を常としていていいものかと思い悩む。
障子などに向かって座り込んでいたら、すぐ隣に男が現れた。
何を考えているのか、妖のくせに松竹梅の枝を手折ってきたようだ。
「我が家に目出度いことなど何もないぞ」
『数百年と生きてきて、やっと娶る相手が出来たというのに
めでたいことではないとヌイは思っているのか?』
娶られたという意識は無い。
ただ相手が人であったなら、祝いの一つでもしなくてはいけないのだろうとは思っている。
夜毎に肌を重ねていて、何ら祝いなどしないのは相手が妖だからにすぎない。
「つくづく解らぬ妖だな、水鏡」
手渡された枝を広げていく。
まだ固い蕾の梅の花が、紅白と揃えられていて可笑しくなる。
「あとで、ちづるに活け方を教えようか」
ヌイは幼い頃に僧侶から華道を学んだ。
だから、妖などが持ってくることを可笑しく思ったのだ。
『ヌイ、ちづるを当たり前に育てたいと言いつつ
流浪の中でも、茶碗の持ち方まで教えていたではないか』
「生憎と私は、己ほどに教え込むつもりがないだけだ」
もう教えることはないと言われなければ満足出来なかった。
道を究めるにはヌイの当たり前の生活は短すぎた。
中途半端なままの習い事の数々は、死んだ千鶴と共に眠っている。
半端なままなものを教えているだけなのだから
ちづるには、たしなみ程度でいいのだと思いながら教えるのだ。
「そういえば、お前……数百年と生きているのか?」
『今さらに尋ねることではないだろう』
確かに尋ねるなら、もっと早くに尋ねるべきことだ。
それでもヌイは思考するように焦点の合わぬ目をさまよわせる。
「数百と生きてきて、人でしかない私を選んだのは何故だ」
ヌイの知る限り、この妖は願われると断りはしない。
水鏡の中で優先順位はあるようだが、基本的には願いは代償と共に叶えられる。
義母との間に子を作るくらいだから、てっきり夫婦仲の相手が
過去にも居たものと思い込んでいた。
『ヌイが人であることが間違いではないかと昨今は感じている』
「化物に化物呼ばわりされたくはないぞ」
化物だの、鬼だのと、恐れられることには慣れている。
しかし水鏡は、本物の妖だ。
聞き流せずに言い返しても、相変わらずに金色の瞳が哂う。
『その化物に惚れているのは否定できまい』
「水鏡に惚れる女なら珍しくはないだろう。
お義母さまだってそうだったじゃないか。お前は女を誑かすんだ」
否定などする気はなくしている。
ただ己だけが特別のように言われることには反感があった。
『心弱った女が誰でも良いと縋ってくるだけだ。
必ずといっていいほどに願いを叶えてやれば涙を流す。
ヌイは幼子の頃から縋る事など好まなかった。
だから、どんなに想っても話すことすら叶わぬと諦めていた』
「お前、暇潰しだとか言って私と斬りあったのは、実は気を惹くためだったのか?」
可笑しげに人ではない男が笑っている。
ヌイは人の心の機微には敏いが、妖の水鏡のこととなると
今ひとつ解らないままで過ごしている。
『惹いたつもりが、まるで自覚しないまま年頃になってしまって
ヌイの疎さには、ほとほとに手を焼いた』
疎いことは承知している。
しかし、実に巧く手を選ぶものだと感心してしまう。
水鏡に惹かれたのは、最初はその剣を振るう技量だ。
未だに、あの重い剣を自在に扱う技量には憧れている。
池から現れた妖しいものに斬りかかられて惚れるなど普通は思いつかない。
思いつかないだろうが、ヌイはそうして惹かれていった。
ずっと解らなかった惹かれる理由も、考えてみれば簡単なことだった。
「やはり水鏡は、女を誑かすことに慣れているとしか思えない」
『誑かしてなどいない。願いを叶えるだけだ』
本気なのか、冗談なのかもわからない。
言っている事は間違いではないのだ。
しかし……その結果、この妖は誑かしたも同然になっていると解っているはずだ。
「話を逸らかすのも、たいがいにしてくれ。
それだけ手を焼くような私の傍に居るのは何故だ」
『他に居ないからに決まっているだろう』
どれだけ問いかけても、本音など言わぬつもりらしい。
妖相手に、押し問答などしていても仕方が無い。
さらりと立ち上がると、小間物入れの中から鋏を持ち出してきた。
手折っただけの枝に一つ一つに手を加える。
小ぶりの緑の葉が鮮やかな松の枝振りを活かしたく思いながら
鋏は迷い無く入れられていく。
「花器など長らく見ても居ないな……何処へ仕舞ったのやら」
はじめに見たときから鋏を入れる位置は決めている。
ヌイの華道への道は、迷わぬことを目指した。
武家の跡取り娘らしいと指南してくれた僧は笑っていたものだ。
その日、いずが帰ってきたときには
珍しく玄関に正月らしい花が活けられていた。
―まつうちに 背たけは伸びて 花ほころびぬ―
―白きことをも満ち足るときに―
二枚の短冊に書かれた流麗な文字。
歌の意味など解らずとも、見慣れぬ筆跡は妖のものだろう。
歌い繋いだのが、女主だということだけは解る。
見慣れた女らしい流麗な文字だ。
花を活けたのは、幼い少女だと聞かされて、少しばかり驚く。
「華道くらいはと少々、教えたに過ぎない」
いつものように女主は素っ気無く返事を返してきた。
真之介と過ごした時間は、ひたすら居なくなった『千鶴』という
今の女主の過去が語られ続けた。
昨日までならば、女主が花を活けることが出来るなど想像できなかった。
教えられた『千鶴』なる少女は、厳しい躾を受けた武家の娘だったという。
今の気安い主は、かつてはそうした少女だったのだ。
思い人は、叶わぬ恋をしている。
解っていても諦められぬことくらい、己自身がそうだから、それはよく解った。
それでも歌などを読み合うような二人の仲は何処から見ても、既に睦まじい夫婦だ。
妖などが住まう屋敷だというのに、ひどく居心地がいい。

7
最終更新日 : 2011-05-20 16:13:01

城と妖

―城内に現れし怪しのもの、討伐をされたし―
桜が散り始めていた。
そんな、うららかな日に届けられた文は
普段なら来ることなどない上の方からのものだった。
「城に出るという噂は聞かないなぁ」
ふらりと遊びに来ていた真之介でさえ知らない噂。
だが、こんなものが来るということは
以前の化物退治を真之介が解決したことになっている意味がない。
「真之介の方には何も?」
「そりゃあ、本家に寄越す方が筋だろ?」
確かに本家ではあるのだが。
近辺の分家などの親戚付き合いは、全て真之介に押し付けている。
本家だからといって、何かをしているわけではない。
「どうせ、疑われているんだよ。
此処に本物の化物が住み着いているのは有名な話だ」
「それだけなら構わないんだがな。
いずれにしても断る余地も無いのだから、出向くしかないな」
他のことならともかく、討伐だというなら話は簡単だ。
ただ、それだけだとも思えなくてヌイは気が塞ぐ。
「城には池くらいあるぞ?
案外、本当にその妖の仕業なんじゃあないのか?」
「水鏡が何処で何をしてきたかは知っている」
その話の本人は、聞いているのかいないのか
ヌイの背に寄り添って目を閉じている。
こうしていると、ただの人間にしか見えないから厄介だ。
幼い頃から従姉妹は美しかった。
最近は、口調も態度も男のようなままなのに
何処か色香が漂って、つい見惚れるような美しい女だ。
その傍にいて似合うと思わせるような美丈夫が
人ではないから、真之介は納得が出来ない。
「妖、本当に城に行ったことはないのか?」
『最後に呼ばれて出向いたのが一五〇年ほど前になるが』
それは出入りしていたことには違いないだろうが今回の件に関係があるとは思えない。
「水鏡、そのときの願掛けをした相手と願いはなんだ」
『ヌイは悋気をやきすぎだ』
妖の言葉が終わる前に空気を裂く音だけが聞こえる。
従姉妹が持ち歩いている棒切れが宙で受け止められていた。
この二人の動きは、見えないほどに早い。
『城の跡目継ぎ争いに加担しただけだ。
結局、あの男は己の力不足で死に至った。
あの男が記していたなら、私のことも記録されているかも知れぬ』
「ならば城には付いてくるな」
哂う妖の声に、不機嫌そうに返す。
『その身の傍に、この身を置けという願いを受けたのはヌイだ』
「ならば、勝手にしていればいい」
呆れたことに、そのまま城からの書簡に目を通す従姉妹の
首筋などに唇を這わせて抱き寄せている。
この妖は、妖なのだから人目も気にしない。
問題なのは、そんなことをされて気にしない従姉妹だ。
さすがに目のやり場に困って、意味も無く庭などを見る。
今日も小次郎が草を抜いている。
池の傍だけが以前のままなのは、ヌイが近付けさせないからだ。
うっかりと水面が波立たぬほどの水鏡になったときに
声をかければ、この家に住まう妖は節介を焼きに出向く。
それゆえ『水鏡』と名乗るのだということも知っている。
かけられた言葉は、願いだと受け止められて勝手に叶えられる。
叶えば、相応の代償を持っていくという奇妙な妖だ。
「なぁ、そこの化物。
その一五〇年ほど前とかの願いに代償は取ったんだろう?」
『領内に私の妻を用意させた』
「はぁ?じゃあ、今のヌイとの関係はなんなんだよ」
思わず頓狂な声を上げて振り向く。
二人は顔色も変えずに、先ほどと同じ姿勢のままだった。
『用意させただけだ。
どれも気に入らぬから、姿も見せずに終わっている』
「気にいらなかったって、お前は妖のくせに
人の女の良し悪しを選り好みするのか?
だいたい、どうして人の女を求めるんだよ。
化物同士で仲良くしていりゃあいいだろう?」
言葉は立て続けに出てくる。
常日頃から機会があれば言ってやろうと思っていたのだ。
『人が思うほど、人外のもの同士というのは互いに関わらないものだ』
「見越し入道の女房が、ろくろ首だとか……」
「真之介、そんな戯言ばかりの黄表紙まで読んでいるのか?」
ついと顔をあげて、説教のように言ってくるが
知っているということは従姉妹自身も読んだということになるのではないのか。
「あの手のものは、水鏡が買ってくる。
ちづるにまで読ませるから、先日も取り上げたばかりだ」
「どうして化物が、化物の物語を買って来るんだよっ」
真之介の大きな声に笑っているのは、たまたま茶を運んできたいずだけだ。
先日、なんとなく手土産代わりにと持っていった玉簪を
ちゃんと付けているのが解って、照れくさくて仕方が無い。
「ヌイさまが取り上げたものを、また兄が喜んで読むのですから
水鏡さまは、お優しい方だと思いますけれど」
「いず、しっかりしろ。これは、化物なんだぞ?」
そんなことは言われなくても解りきっている。
正月の代償の事だって、あまりに気に病んでいたら
主に気付かれて、全て教えてもらった。
この妖は、あのとき代償を持っていかなかったのだ。
あえていうなら支払ったのは主ということになる。
「真之介、いずと騒ぐなら離れでも貸してやる。
私は城に出向くから、留守の間は勝手にしていて良い」
「いや、離れって……」
赤くなって戸惑うのを良いことに、そのまま立ち去っていく。
ヌイとて上からの呼び出しともなれば放ってはおけないのだ。
日付が指定されていないのだから、すぐに行くべきだろう。
さすがに日頃のままというわけにも行かず
萌黄色の色無地に家紋を染め抜いた長着と
青鈍色の袴姿で袋にいれた愛用の薙刀を持つ。
白い足袋に、白い半衿、そして髪は白い布で纏めただけだ。
決して礼装などではないのだが、ヌイとしては精一杯の譲歩だ。
いつ戦闘になるかも解らないのに女としての正装など出来ない。
出かける前に牛小屋によると、小さな少女が牛と戯れている。
「ちづる、留守番を頼んだぞ」
「母さま……また、危ないところへ行かれるの?」
駆け寄ってくる幼子の頭を撫でながら、不安にさせまいと思う。
「お城に招かれただけだ。良い子で待っていなさい」
「父さまは行かれないの?」
最近は、すっかり両親扱いをされていて可笑しくなる。
育てたのは己一人だが、血の繋がりはない。
それでも愛しくて仕方の無い幼子だ。
「水鏡は勝手にするらしいから、私にも解りかねる」
「なら、きっと御一緒なのね」
安心したように微笑みが浮かんだ。
それで気が済むのなら、何も言わずにおこうと決める。
「何かあったら、小次郎にでも頼みなさい」
「はい、いってらっしゃい。母さま」
本当は不安なのだろうに、あの娘は何も言わない。
我侭を言うなと言った覚えなどない。
ただ流浪生活の中で、斬り合いなどを目の前で見て育った。
この腕を頼りに生き延びた小さな命だ。
ちづるは、決してヌイが危険な場所に行こうとしても止めない。
案じて、そして案じていることさえ口に出さぬよう心がけている。
幼いくせに気丈なところは、己が育てたのだから
仕方が無いのかと諦めはじめているくらいだ。
城の前まで来ただけで、門番の様子が変わる。
どうやら、ヌイの外見は知れ渡っているようだ。
それでも、寄越された文を取り出して見せる。
「筑後家当主、ヌイだ。城内に現れるという化け物退治に参った」
白い顔に浮かぶ笑み。
その般若の面のような笑みに門番は、何も言わずに通す。
筑後家の本家当主が化物に関わっているのは有名な話だ。
とはいっても、当のヌイ自身は何年も前に一度は捨てた姓を名乗ることなどない。
このような場所でもなければ、ヌイはヌイでしかないと思っている。
案内されて通された部屋には、既に幾人かの者がいる。
上座に向かって真っ直ぐに進み、最敬礼を示す。
畳を見ながらでも周囲の気配を伺うことは怠らない。
「筑後ヌイでございます」
有り難くも無いが、躾けられた姿勢は覚えている。
これだけの状態からでも、隙がないからこその本家当主だ。
「ご家老様、筑後の者を呼ぶなど不謹慎なのでは……」
囁くように声は潜められているが、全て聞こえている。
城内の取り巻きなど名も知らぬ。
だが、あちらは知り尽くしているようだ。
「毒を持って、毒を制すというであろう。
筑後殿ならば怪しいものに詳しいはずではないか。
そうであろう?」
「否定はいたしませんが……」
呼びかけられたのだからと、顔を上げて真正面の男を見据える。
ふ……と浮かぶ笑みは、愛想笑いとは程遠い。
「私は化け物退治に参った。それ以上に何か御用があるのでしょうか」
周囲にざわめきが走る。
不謹慎な態度だということは承知の上だ。
「ならば遠慮なく訊かせてもらう。
文に書き付けた怪しきもの、夜毎に城内の松の木に現れる。
丁度、殿様の御寝所から見えるような場所である。
放置するわけに行かず、早々に手を打ちたいのだ」
なるほど、急いで片付けたいから体裁もなくなったということか。
「その姿を見たという者は、どんな姿だったと言うのです?」
「青白い姿の女に見えたということだ」
誰からの言葉からも聞かされない。
「最初に見たのは、いつになりますか」
「もうひと月は経過しておる」
ひと月も夜毎に見えるのならば、騒ぎにもなるだろう。
推測するならば、身に覚えがあるからこそ恐れるのだ。
「その怪しいものを斬れと仰るのですか」
「相手は宙を舞うような動きをするらしい」
宙を舞おうが、実体があるなら斬れる。
問題は斬って意味があるかどうかだ。
水鏡などは、人の刃では胴を貫いても意に介さぬのだ。
「当然、祈祷などはされたのでしょう。
此処にいる方々にも祈祷師、占い師、医家まで揃っている。
それでいて、私を呼ぶというなら斬るしかないとなりましたか」
揃ったものたちを無能呼ばわりしたも同然の言葉だ。
静かに怒りを抑える気配だけはわかる。
ヌイの笑みが消えない。
下座から見上げてくる目は、哂っている。
「水鏡、その女に覚えはあるか?」
ふいの言葉に周囲が戸惑う。
女の背には、寄り添うように美丈夫が座っていた。
「化物!」
立ち上がる人々を制する気配は無い。
どうせ、水鏡は人では斬れない。
「それが噂の筑後殿の婿殿か……」
「婿かどうかは知らぬが、私に付きまとう妖といえばコレだろう。
ご家老、本当に退治する気があるならコレは役に立つ」
既に刀に手をかけていた周囲のものも、その平常さに毒気を抜かれる。
「斬りあいでもしたいなら、水鏡は相手をするだろう?
いくらでも斬りかかってみたらいい。
人ならぬものとは、こういうもののことをいうのだ」
『ヌイ、私は話をするために現れただけだ。
お前以外の、しかも男などと斬りあっても面白くも無い』
つまらなそうな妖の声は、実に聞き慣れない異質な声だ。
「家を取り潰されておかしくないだけのことを平然と行うからこそ、私は呼ばれたと思っている。
私に何を望まれる」
哂う顔は美しい女のものだ。
凛々しく髪を纏めているとはいっても、その姿は美しい。
それなのに、周囲の者たちは嫌な冷たい汗が止まらなかった。
「家を潰すなど、我らは望んではいない。
その怪しいものが役に立つというなら、話も聞こう」
さすがに体裁もあるのか、それとも本当に家老としての技量があるのか
額の汗を拭いたあとは、常の声で話しかけてくる。
それを水鏡は可笑しそうに哂っている。
『私が知る女なら、ひと月前に自害した。
寵愛を貰えないと嘆くから、願いを叶えた。
代償に奪ったものはコレだ』
上座に向けて投げる小さな布。
かすかに漂う香りに、それが匂袋だと誰もがわかる。
慌てて拾った者が家老の手に渡している。
「御寵愛の代償が、そんなものとは……
やはり化物は化物。
釣り合いというものを知らぬのだな」
何処の誰とも知らない家臣の一人らしき男の呟きを、ヌイも水鏡も哂って聞き流す。
水鏡の奪うものは、相応のものなのだ。
少なくとも、奪われた本人は相応のものを奪われたと感じる。
そうでなければ、ただ便利な妖怪になってしまう。
「筑後殿……これは……」
顔色を変えているのは、家老だけだ。
「すまぬが、集まっていただいた方々はお引取り願いたい。
たった今、見たこと、聞いたこと、全て話すことを禁じる。
話せば、死に値すると思っていただきたい」
その声が、僅かに震えている。
戸惑う人々を、気にもしていないように見えるのは
事の発端を起こした者たちだけだ。
「さぁ!早う立ち去れぃ」
青い顔になった家老の叫び声に、訳も解らぬままに
人々は出て行く。
残ろうとする家臣にでさえ、去れという合図をしている。
廊下を行く人々の足音が遠ざかっていく。
広い部屋に残されたのは、三人……いや、一人は人ではない。
その人でない男は、上座も下座も関係なく女の背に背を預けてくつろいでいる。
「あれは、叶えるのに苦労していたのではなかったか?」
『人の心のさまを変えるなど、本来は私の領域ではない。
それだけに私なりに知力を尽くした』
ならば代償は大きいはずだ。
水鏡が、どれだけ知力を尽くしても所詮は人の願いだ。
この妖に縋って幸福になれるとは、ヌイは欠片も思えない。
「筑後殿、その怪しき者の行いを把握しているのか?」
「周囲に『婿』などと思われるような間柄なのだから
この妖は、私に全てを話す」
人の夫婦でも秘密の一つや二つはあるものだ。
ないということが、人でない故なのだろうか。
「それを見るだけで、現れるものに覚えがおありの様だ。
ご家老、本当に私が斬って済むことなのか?」
苦悶の表情を浮かべたまま、視線を落としている。
手のひらの中の、小さな布袋。
そんなもの一つで、態度は急変した。
『中を開けてみるといい。
私以外が持っていては、性質の悪いものだと判断している』
化物の異質な声に急かされて、震える指先で中を開ける。
瞬間に強く香りが広がる。
その中には小さな紙切れが入っていた。
―枕女と呼ばれしことを―
歪んで滲んだ文字は、女の手によるものだろう。
性質の悪いものとは、よく言ったものだ。
入れられた匂袋には城主の家紋が入っている。
こんなものを贈られたら、女は娶られたと思うに決まっている。
その女に、枕女と呼んだのなら戯れであっても女は悲しむ。
挙句に身を投げたということだろうか。
「殿が、急に気に入ったと抱えた女は多くはない。
これだけのものを持っていたなら、なおさらだ」
「だから、訊ねている。
私は化物退治に来たのだ。
いくら上の方だからと言われても、己の女の後始末
女の私が付けてもいいのかと訊いているのだ」
ふと、我に返ったように家老が顔をあげる。
「そうだな……筑後殿は女であったのだな……」
そういう問題ではない。
ヌイは苛立たしくて仕方がない。
本来、己の女の始末くらい他人任せにするなといいたいのを
少しは遠慮しただけに過ぎないのだ。
「しかし、考え直せば事の発端を起こしたのは水鏡だ。
お前が、己の領域を越えてまで節介を焼くからいけない。
他人の色恋に手出しをするほど、暇なのか?」
既に背の妖に向けて放つ殺気は本物だ。
手にした得物も、いつ袋から取り出しても不思議ではない。
『ヌイ、そういう話は帰ってから聞く。
思い通りにならぬと刃を抜く癖は、私に対してだけなのだな』
「お前には、いつか勝ってやるっ」
犬も食わぬという喧嘩のはずなのだが
目の前の二人の場合は、どうにも異質だ。
殺気を放つ女を嗜める妖……
しかも、この女の腕前は有名だ。
「その……筑後殿……今回のこと、引き受けてはくれないのか」
あまりに奇異な二人に、家老は不安を隠せない。
ひと月もの間、なにもしていなかったわけではない。
考えられるだけの手を打ち、それでも何も解決はしなかった。
それが、あっさりと怪しきものの正体を教えられてしまった。
筑後家の当主は、妖魔に魅入られた美女だと聞いていたが
実際に会ってみれば、そのようなものではないと解る。
「私でなければ、この件は治まらないだろう。
我が家の妖が発端なのだから、私が始末をつけるのは筋だ」
『また要らぬ事に関わるのか、ヌイ』
「要らぬことなどではないっ水鏡が悪いんだ。
今宵は、お前にも手伝ってもらうからな」
呆れるほどに妖物相手に親しげに話す。
これでは『婿』だと噂されても仕方がない。
「それでは今宵、早速に退治していただけるのか」
期待は大きい。
思わず声も弾む。
「退治というと気が引けるな。
哀れな女の死霊であろうに」
何もないはずの天井などに視線を移す姿は
やはり間違いのない美しい女なのだ。
それなのに、話しているだけで気圧されて女だという事を失念する。
「ご家老、あれは私への警戒か?」
突然の問いに戸惑う。
視線は天井を向いたままだ。
細められた目が、静かに笑みを浮かべる。
「少々、失礼を致すがご容赦願う!」
聞こえた時には目の前には誰も居なかった。
視界の端を過ぎる青鈍色。
―タン―
短い音が聞こえて、木の欠片が降ってくる。
続いて、鈍い音と共に落ちてきたのは見知らぬ男だった。
「筑後殿……?」
その背に石突を当てて、片足で首を押さえているが
どう見ても、既に意識などあるとは思えない。
何が起こったのかも解らないまま、ただ噂通りの腕前を
見せ付けられて唖然とするしかなかった。
「この話、外に漏らせば死に値すると仰ったのはご家老であろう。
ならば、盗み聞きしたものは見逃してはいけない」
男の何処にも斬られた様子などはなかった。
それでも意識を失っているのだ。
「これが、筑後殿の腕前か」
「少々、天井板が壊れてしまったが……
人一人を落とすには、致し方がなかった」
まるで見当違いの返答。
天井板のことなど気にする余裕はなかった。
いくら動きが速いといっても、そこは人のすること。
所詮は女が、女として薙刀などを振るうだけだと
多くのものが思うように、城の中でもそれは常識だ。
だが、今見たものは違う。
視線を外した気もなく、気付いた時には男が降ってきた。
その距離、その高さ、どう考えても尋常ではない。
「ご家老、これに覚えがおありか?」
不審者とはいえ、足で踏みつけたままで問うてくる。
「いや……記憶にはない顔だが」
そもそも追い出した者以外が、何故潜んでくるのか
それ自体が不思議に思えた。
「水鏡、これを如何したらいい?」
不謹慎なほどに愉しそうな声を出す。
呼びかけられて、一度は消えていた妖が再び姿を見せる。
「水牢にでも入れておけば良いだろう」
「どうして水牢なんだ?
つくづく水が好きな妖物だな、水鏡……まさか正体は河童などと言い出すなよ?」
ふざけている様な口調で話しながら、踏みつけていた男の衣装を探る。
何も出てこないと解ると、するりと気を失った男の帯を解いて
手足を縛り付けてしまった。
普段から馬乗り袴を身につけるヌイにしてみたら男が帯を解いた程度で衣服に乱れはないと知っている。
『河童だったら、今さら如何にかするのか?』
「ちづるが可哀想だと思っただけだ」
ヌイが男を扱う様は慣れている。
知られていないだけで、赤い髪になった千鶴はヌイと名乗り赤子を連れて流浪の旅に出た。
十三になって間もない頃の少女が赤子など連れて歩けば襲われる。
赤い髪は、見世物になると好奇の目に晒された。
襲われれば、迷わず刃を抜く。
十三で既に少女と思えぬ腕を持っていた。
得意の薙刀があれば、殺さずとも簡単に倒せる。
路銀は、そうして稼いだのだ。
見栄も何もなかった。
武家の跡取り娘として躾けられたものは、かなぐり捨ててきた。
その結果が、本家当主となってしまった今のヌイだ。
武家の見栄など知っていて無視をする。
此処が城内だと言うことだけを気に留めているだけなのだ。
「着ているものは、紋もないが安いものではない。
顔を隠しもせずに天井裏に上るなど素人もいいところだ。
埃で咳き込み、私に気付かれたが……
水鏡、お前なら先を越すだろう?」
咳き込んだ声など聞こえた覚えはない。
確かに男の衣装は埃まみれだが、気付く方が珍しい。
『ヌイ、そういうときは素直に教えてくれと言えば良いだろう。
その男の素性、事情、何が知りたい?』
異質な声は、やはり化物なのだ。
知りえるはずのないことを、知っていて当然のように言う。
「知りたいのは私ではない。だから、代償を奪うはずのことは問えない。
私が支払ってすむものなら、話してくれ」
思わぬ言葉に驚き、反射的に身体を浮かしていた。
ゆっくりと笑う白い顔が向けられる。
「何を驚いていらっしゃるのか。ご家老」
「代償とは……
筑後殿が支払うというのは、いったい……」
先ほど、この化物が奪った代償なるものを見せられたばかりだ。
「この妖は、願いをかなえると相応の代償を奪う。
私から奪うのなら構わないといっている。
今回のこと、元をたどれば水鏡が悪い。
それでも妖であるかぎり、性質までは変えられぬ。
代償は何を奪う?」
先ほどから、まるで睦まじい夫婦のようだとばかり思っていたら
女は相手が妖だと理解したうえで、その間柄を保っているというのか。
『ヌイが支払ってすむ話ではないが……
ヌイが支払うと言い出したのは、私を思うからだろう?
話の根源が私にあるなら、私に害が及ぶ。
私は構わないが、我が家の平穏が崩れる』
「解っているなら、話してくれたらいいだろう」
笑顔のままで刃を向ける相手は、人ではない。
『話さずとも、水牢に入れれば吐露する』
女の向ける刃を素手で除けて、金の瞳が哂っている。
「少しばかり甘えてやったのに、先を言いすぎだ。
この男、水に弱いのだな?
それですむなら、こんなものの始末は私の役目ではない」
気を失い、手足を縛られた男を蹴り飛ばす。
僅かに呻く声が聞こえても、ヌイは意に介さない。
もう、興味などないかのように足元に転がる男を見ようともしない。
「あとのことは、ご家老にお任せしたい。
ご家老の命令を無視した行動を取ったものがいたのだから
居合わせた私が捕まえただけのこと。
居合わせた妖が弱みを知っていただけのこと。
私は、この先のことにまで関わる気はない」
刃を下に向けているだけで、抜き身の薙刀を片手に
筑後家の当主である女は、平坦で、冷淡な言葉を寄越した。
「何処の立派な御家の方かも知らぬ世間知らずな女だが
これでも、筑後の当主を任されている。
不審な動きをされたら、ご家老の身に危険ありと
判断させていただくし、その上で命をとってやるような
武家のものへの情けなどかけてやらん」
視線を送ることもしないで、意識を取り戻した男への警告だけを放つ。
無作法な動きをするし、不謹慎な態度でいても
ヌイは武家の心得を叩き込まれた少女だったのだ。
男が武器となるようなものも持たず、素人判断でやってきただけでも
これ以上の動きを起こせば骨くらいは折るつもりでいる。
それでも殺してやる気などない。
人を殺すことになど慣れている。
慣れているからこそ、斬る必要のない者を斬らないのだ。
「筑後殿でなければ、この男すら取り逃がしたであろう。
噂以上の腕を見せていただいた……」
どんな噂が流れているのかくらいは知っている。
だから、それが素直な誉め言葉でないことも理解していた。
「これ以上、此処に留まっていても良いことはないと思える。
ご家老は、不届き者を成敗なさらねばならないだろうし
私は怪しいモノを成敗するために行きたい場所がある」
「行きたい場所?」
するりと近付く白い顔。
ぞっとするほどの笑みに気後れしている間に耳打ちされる。
「そ……それは!」
「殿には、私の独断で通してくれていい。
勝手にしたこと、知らぬことと言い切ればいい」
ふ……と笑みが柔らかくなる。
その豹変した美しさに見惚れる。
「私は殺気を放つと、人に恐れられる。
殿さまが、女一人に恐れなど抱くはずは無いだろうが
ここは、念のためだと思っていただきたい」
噂は聞いていた。
筑後家当主の女は、化物を婿にするような恐ろしい女だと。
その一方で、化物に魅入られた美女だとも聞いていた。
噂は、噂でしかない。
目の前にいる女は、噂どおりの美女だし恐ろしい腕前を持つことも知らされた。
だが、そんな言葉で片付くものではない。
「全て、殿の身を案じての策と仰るのか」
「怪しいものの狙いは、間違いなく殿の身にあると思う。
相手は未練と執念の残骸だ。
ただの妄念なら、いっそ俗世の思いなど切ってやればいいのだ」
見ても居ないはずの怪しいものを、知っているかのようだ。
そんな思いを見抜いたのか、女は哂う。
「ウチの妖が、かかわった女のことなら知っている。
だから私が始末をつける。
代償の品は、水鏡の手にある……
すべて、外に漏れるとしたら先ほどの男のような連中からだ。
お気をつけられよ」
するりと立つ姿は、仕草の隅々までに隙が無い。
「勝手に行かせていただく……」
背を向けたままにかけられる言葉。
からりと障子を開けて出て行く。
止める言葉など思い浮かばなかった。
―勝手にしたこと、知らぬことと言い切ればいい―
家老の許可のもとなどと、あの女は言わぬと言っていた。
ならば知らぬ振りをしていればいい。
冷たい汗を拭きながら、保身を考えていることさえ気付いていなかった。
板張りの廊下を足音も立てずに歩く。
萌黄色の長着に青鈍色の袴姿。
城内を袋に入れているだけで、明らかに得物を解るような
長いものを持ち歩いているというのに
その姿を視界に入れても、誰もが見ぬ振りをした。
奥に進めば進むほどに、本来なら呼び止めるはずのものが
見えないように振る舞う。
ヌイの背には、当たり前のように水鏡が付いてきている。
常のように歩くのではなく、わざわざ宙に浮いたままの姿で
ふわふわと、いかにも妖しい者と解る動きだ。
「よほど、化物の相手に疲れているようだな……」
『困れば縋るものを』
あえて聞こえるように話してみても、誰も咎めない。
ヌイが着ているのは、筑後家の家紋入りの衣装だ。
この城の中でさえ、界隈で一とまでいわれる古い武家なのだから
その家紋を見れば筑後の当主だと誰もがわかっていた。
―筑後の女当主は、化物を婿にしている……―
噂は、本当だったのかと思えば誰もが関わることを避けた……
「こうも、あっさり殿の寝所に辿り着かせていいのか?
死霊より私のほうが確実に殿を殺せるのに!」
ヌイが喚いても、誰も出てくる気配すらない。
馬鹿馬鹿しくなって、きっちりと纏めた髪を解く。
『相変わらず、無茶をする女だ』
殿様の寝所などという場所で、いきなり衣装を脱ぎ始めたのだから
普通は驚くところを、予想していたかのように水鏡は見ている。
「女の悋気というのは、相手の男を取り殺すことより
奪った女を狙うことが多いんだよ。
まずは、殿を安全にしなくてはならないだろう?
それに殿だって、警護役とは思わないはずだ。
私が無作法の極みだと言われていても、殿の体面は保たねばならない」
鶴の織柄の白い長襦袢姿。
部屋の隅に脱いだ衣装は綺麗に畳まれて、目立たないように置かれる。
ただ、手許には袋に入れたままの獲物がある。
『私以外の男に、その肌を触れさせるというのか?』
「水鏡……どうして、そういう話になるんだ。
だいたい、お前が半端に女の願いなど叶えたのが間違いだ」
本来の水鏡なら、己の領域を超えて動きはしない。
この件に水鏡の私欲が、最初から絡んでいることくらい知っている。
「寵愛が貰えぬと自信を失くしたところまでは納得する。
だがな、現れた化物すら抱く気も起こらぬ女などと卑下したと
私は、そう聞いた記憶がある。
つまり、その女は水鏡に抱かれたかったんだろう?」
『私は誑かしてなどいない』
そんなことは知り尽くしてる。
この妖は、女を誑かす気もなく誑かす。
「抱けば、私が悋気を焼くと水鏡なら思うだろうし寵愛を頂く方法を探すに決まっている。
人の心は移ろうものなんだ。
水鏡が策を練れば、人の身で逆らえるはずなど無い」
移ろいやすい心は、また移るのだ。
「悋気くらい焼かせておけばいいんだ。
どうせ、私のことだから刃物を振り回せば気が済む程度だ。
私と斬りあって、また私に勝てぬと思い知らせば済むことじゃないか」
他人事のように言い切る様を、人でない男は眉根を寄せて見つめる。
「お前は人ではないのだから、抱いた女から代償を持っていく。
私欲で抱くのが、わたしだけならそれでいい。
気にしすぎなんだ」
『私が人ではないように、ヌイは人でしかない。
当たり前に傷付き、それを認めることなどしない女だ。
わざわざ移ろいやすい人の心を、移ろいやすくするほどには
私はヌイを手放してもいいとは思えないのだ』
珍しく沈んだ声で告げてくる。
金の瞳が哂っていない。
「困った妖だな、水鏡。
お前を思いやれるほど、私は出来ていないんだ。
私は水鏡に甘えているし、寄りかかっている。
お前は、いつものように哂っていればいいんだ」
背筋を伸ばした姿勢で、まっすぐに告げてくる姿。
『思えばこそのことであるのに、実に素っ気無い』
不満そうな言葉を置いて、妖は姿を消した。
常のように、どこかに気配を残してもいない。
「少々……甘えすぎたか……」
夕闇の色が移る障子を見ながら、少しばかりの後悔をする。
夜中になれば死霊は来るのだろうか。
過去を悔いることを嫌う女は、既に次の策を練っていた。
何も知らされないままに、その男は億劫な気持ちで寝所に入る。
すっかり怯える癖が付いていたものだから
見慣れない姿のものが先に寝所の隅に座っているのを見たときは
思わず声を上げそうになるくらいに驚いた。
「失礼致しております」
深々と頭を下げられて、それが女だと理解する。
見知らぬ顔だ。
行灯の灯りの中で見る白い顔……
ふ……と浮かぶ笑みは、妖艶である。
「さては、何処ぞの者が好機とばかりに娘を寄越したか?
これだけの騒ぎ……一人寝するしかないからな」
「名乗り遅れました。
我が名、筑後ヌイと申します。
以後、お見知りおきを……」
姿勢正しく名乗られて、その凛とした視線の鋭さに気付く。
「筑後……何やら聞いた名だ」
落ち着かない気持ちになりながらも、長く嫌な夜を過ごしたせいで
人肌が恋しくて仕方が無かった。
傍によって、女の顔を見つめる。
呆れるほど視線を逸らすことの無い瞳は、明らかに今までの女とは違う。
触れれば、その肌の暖かさに安堵する。
「私を死霊や、妖と思ったのなら詫びましょう」
何処か笑うような言葉に、誘われるように抱きしめた。
ただ一人でいることが恐ろしくて仕方が無かったのだ。
「この姿だ。据え膳にしか見えないことを承知のうえで申し上げる。
できれば、このまま動かずにいていただきたい」
いきなり口調が男のようになった女は、相変わらずに哂う。
傍で見れば、その美しさに呆気に取られる。
腕の中から見つめてくる瞳が、あまりに鋭いことが気がかりだ。
「藩主さま、あなたの安眠を奪うものがいるのでしょう」
「知っていて来るとは、豪気な娘だ」
口付けようとすると、さりげなく顔が伏せられる。
「さすがに色事に及んでしまっては、私とて困るのだ」
髪の間から見上げてくる瞳。
白い顔に笑みが浮かぶ。
その般若の面のような笑みに戸惑う。
「失礼した……」
すぐに治まる殺気。
だが、先ほどの笑みは本物の殺気が篭っていた。
「何者だ?夜伽相手ではないということか?」
「名は名乗った」
囁くような声。
その声の艶に、男の本能が反応する。
力付くでもと思った瞬間には、動かす前に手の上に手が添えられた。
「どうか、動かずに……」
驚くような早業である。
優しく手は添えられただけだが、動きを見切ったのは間違いない。
「ご無礼は重々承知のうえのこと」
無礼を働かれたと思うよりも、何が起こっているのがわからなかった。
添えただけで抱き寄せたような姿のまま、下を向く女を見る。
ふと……不安を感じて、障子へと視線を移した。
「……う……うわぁあああっ」
突き飛ばしたはずの女が、宙を舞うのを見た。
床から拾う長い袋。
静かに障子の向こうに立つ姿が、炎のように揺れていた。
「お待ちしていた」
わざわざと障子を開けてやる。
瞬間に飛び掛るものを、女は長い得物で薙ぎ払う。
「お話がしたいだけだ。私の刃では斬れない」
斬れずとも、掴みかかろうとしたのを退かせたのだ。
障子の向こうから現れたものは、濡れた髪を引き摺りながら
悲しそうに見つめてきた。
「間違いでなければ、先の局さまであろう?
亡くなられた事さえ伏せられたままだが……
何を思い遺されているのか教えていただけまいか」
―枕女の身で気安く声などかけてくるでないわ!―
死霊の恫喝は、吹きすさぶ風の音のようだった。
「そんな一言に囚われたままなのか……」
悼むままに瞳が向けられる。
死霊などに同情しても仕方が無い。
「その言葉、寄越したのは誰なんだ?」
ついと向けられた視線の先で、腰を抜かしたような有様の男がいた。
「知らぬ!知らぬぞっ」
否定する様に怒りをむけようとするのを、薙刀がすいっと止めに入る。
「直接の言葉だったか?」
―信じ得られる者から聞き及び……―
さすがに死霊とて言葉に詰まる。
「ならば、罠に嵌っただけかもしれない。
あなたが寵愛の代償に支払ったものは、寵愛の象徴だったはず。
それを失えば、心が揺れる。
揺れていることに気付かれたら、罠くらい仕掛けられる。
その命、捨てる前に如何して……
どうして、もう一度水鏡を呼ばなかった!」
激しく振るった薙刀は、実体を持たぬはずの死霊を裂く。
ゆらり……と揺れて姿をとどめても
先ほどのような、おどろおどろしさが消えている。
―水……鏡?―
「池の中から現れる妖物だ。
化物の癖に、やたらと見目が美しい男だ。覚えがないとは言わせない」
斬れぬ筈の相手に切っ先を向けて、白い腿が露わになるものも
気にせずに薙刀が構えられている。
―一度で大きなものを失いました……
あの方の力を借りれば、私は次に何を支払えばいいのか―
「だからって、死んでしまうくらいなら
命でもかけるつもりで呼べばよかったんだ」
くるりと掌の中で回転する薙刀の柄。
刃が下を向いている。
「あなたは、もう支払うものも無いから呼べばいい。
その未練……このまま抱き続ける方が幸いなのか?」
ふるふると死霊が首を横に振る。
―けれど、この身は池に映りません……―
「あなたは、自分で未練を絶てないのだな?」
言葉の代わりに、悲しげな泣き声が聞こえてくる。
「殿、何か言ってやる言葉は無いのか……」
視線だけが向けられる。
死霊などと対等に話して、当たり前のように振る舞う。
「何を言えというのだ……
この女が、身を投げた理由さえ理解できぬ。
ヌイ……といったな?
女、何故に平然としていられる……」
ときおり震えそうになる声を、虚勢で張り上げてくる。
それすら気にならぬようで女の視線は冷たい。
「あなたが代償を支払うべきだ。
己の周囲を見極められないような者に
上に立たれていては、私のような半端者が迷惑する。
己の女の嘆きさえ耳を傾けられないのなら
女など抱かねばいいのだ。
お前などに、少しでも武家のものとしての遠慮をしたこと
悔やんでも仕方が無いから言い切らせてもらおう。
私の肌に触れた代償は大きいぞっ」
空気が裂ける。
殺気の篭った刃を受け止めようと間に入ったのは
実体など持たない死霊の女だった。
―あなたが……ヌイさま……―
涙が流れるのが見えていた。
―何度も聞かされた……―
受け止められるはずの無い刃を胸につきたてて女は泣いていた。
「悪いが、アレに惚れられても困るんだ。
縋るのは構わんがな……アレは、そういう妖なのだから」
まるで手ごたえがないままの切っ先を引き抜く。
「斬る訳が無いだろう……仮にも藩主様だぞ。
私は筑後家の当主を任されているのだ……
武家の当主が、いくら怒りに任せても斬るはずなどない」
「ならば、何故に薙ぎ払った!」
崩れる死霊を無視して、男は立ち上がる。
「どうせ、死ぬからだ」
冷たい声。
白い顔に浮かんだ般若の面のような笑み。
そして……
その身体を抱くように背に立つ姿が唐突に現れる。
「……っひぃ!」
転げるように距離を取る男を、視線だけが追ってくる。
『気は済んだのか?』
聞こえる異質な声。
「私では至らぬことだらけだ。
情けが無いにも程がある。
結局は、水鏡に頼らねば何も出来やしないっ」
『死霊から未練を絶ちきってやったではないか』
ゆれていた影も消えていた。
死霊の姿は、既に見えない。
「この件、裏があるのだろう?
我が家に災難がかかるなら、かけようとする方々を
全て忌み者にしてしまえっ
代償なら支払う!」
恐ろしい言葉を、白い顔を上気させて女は言う。
『ヌイから代償などとるものか……』
異質な声は、優しげに聞こえた。
あやすように女を抱く姿は、確かに化物とは思えない美丈夫だ。
だが、見つめてきた金の瞳が恐ろしかった。
『我妻の肌に触れしこと、煉獄の中で悔やめばいい』
抜き身の薙刀を持った女を抱いた妖は
不吉な言葉を残して消えた……
気付いたときには、見慣れた屋敷の部屋の中で
ぼんやりとした意識の下で、何度も感じた快楽に気付く。
「水鏡……」
伸ばした腕が絡め取られる。
白い指に口付けられる。
僅かでも揺られれば、交わった身体が火照る。
『私を束の間でも不安にさせるなど……』
「すまなかった……」
謝罪の言葉を吐きながら、どうやって帰宅したのか記憶になかった。
気付けば見慣れた部屋の中で、何も身につけないままの身体を
抱かれなれた妖の腕が抱いていた。
白々と夜が明けてくる。
そろそろ朝餉の用意に二人の使用人が働き始めたことだろう。
いつもなら、この時間には朝稽古などをしているのだ。
それが、どうにも離れがたかった。
素肌を合わせたままで、その腕の中で目を閉じていても
何かを伝えなくてはいけないような気がしてならない。
「母さま……お帰りなの?」
障子の向こうから、幼子の声が聞こえる。
するりと、身体に衣装が掛けられた。
「水鏡?」
妖の水鏡は、我が子の前でも平気でヌイを抱く。
父と母なのだから、そういうものなのだと教えられた幼子は
他の子供ならありえないだろうに、素直に納得してしまっている。
ちづるは、水鏡の血を引いて、ヌイが育てた子供だ。
年の割りに物分りが良すぎる。
『城の後始末……つけてきてやる』
口付けられて、返事も出来ないままに姿は消えていた。
「父さま……いらっしゃるの?」
障子の向こうからの声が、さらにかかる。
昨夜のうちに帰らなかったことを、子供なりに心配しているのだろう。
「開けて構わぬぞ、水鏡は出かけたがな」
かけられた衣装にくるまりながら、声をかけてやる。
すぐに障子が開いて、見慣れた幼子がきっちりと座っていた。
「お疲れなのですか?」
「いいや、眠っていないからそう見えるのだろう」
袖を通せば、置いてきたはずの家紋の入った色無地だ。
全く、水鏡の手はずの良さには叶わない。
「私は身支度をするから、ちづるも顔を洗ってきなさい」
長着だけの姿で、幼子に言いつける。
常なら躊躇わぬ返事があるのに、何やら不安そうに見つめてくる。
「どうした……?」
傍によると、着ているものの袖をもてあそびはじめる。
「言わねば解らないだろう?」
髪を撫でると、その顔が見上げてくる。
「夜明け前に、綺麗な女の方がいらしたの」
この屋敷は、常から何処も施錠しない。
何処からでも入れるのに、誰も入ってこないと解っているから
ちづるを一人にさせているのだ。
「母さまの名を出されて、羨ましいと仰るの」
「それで?」
おおよその察しは付く。
どんなものが現れても、ちづるなら騒ぐはずがない。
何しろ、自分の父親は化物だと理解しているのだから。
「羨むのなら、近付けばいいと私は教えられているでしょう?
だから、そうお答えしたの……」
困ったように、己の袖を掴んだまま視線を落とす。
ちづるには厳しくする気もなく、問われるままに答えているだけだ。
武術の欠片も教えないのに、この姿に憧れて
見よう見まねで棒を振り回していることくらいは知っている。
「もっと早くに……って仰って見えなくなられたわ」
寂しそうに声を落とす。
幼いなりに傷つけたと悔やんでいるのだろう。
「難儀な死霊だな……」
あの女が、本当に思いを寄せたのは誰だったのか。
ヌイの刃を受け止めたのは、藩主を守るためだったのか
それとも、ヌイの刃だったからなのか……
「ちづるの手に負える相手じゃないから、相手になんかなるな。
どうせ、どんな返事をしても泣くしか出来ない女なんだ」
泣きながら消えた女は、今でも泣いているのだろう。
「それでも、母さまなら……!」
「私なら、斬ることしか出来ないさ」
化物に続いて、死霊にまで棲みつかせる気などない。
斬れないものを、刃でどうにかできるとは思えなかったが
それでも思い出して、古い懐剣を箪笥の奥から取り出す。
「ちづる、これを身につけていなさい」
本来なら、まだ懐剣などを持つには早すぎる。
そんなこととは関係なく、ヌイはちづるの手に重い刃を乗せる。
「ちづる自身が辛くないなら、それを抜いて見せろ」
言われて、幼子は拙い手つきで袋を解く。
この幼子の身体に流れる血は、半分は人のものではない。
だから、あえて抜かせてみたのだ。
見慣れない刃を、幼子は見ている。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……?」
読めるだけでも大したものなのだが意味が解らぬとばかりに首をかしげている。
「気休め程度だが、効く時は効くだろうから持っていなさい。
本来なら、女が自害するための刃。
往生際の悪いものが刻んだ九字だと教えられたがな……
私は、ちづるを案じて渡しておくんだ。わかるな?」
大人しく頷く幼子。
ちづるが持てるのなら、気休め程度だろう。
だいたいヌイ自身は懐剣などもったことがない。
懐には実母の匕首を幼いときから持っていたし
武家の娘としての正装のおりでも、当たり前に薙刀を持っていた。
その匕首は、勝負に勝てないままで水鏡の手にある。
返すというのを、何度も断り続けている刃。
実母の実家の家紋が入った小さな刃は、千鶴のものなのだ。
今のヌイには、もう必要の無い物でしかない。
「母さまのような大きなものは、持てないから?」
「ただの守護刀だから身につけているだけでいい。
扱い方も知らないのに、抜いて振り回したりしないことだ」
素人の刃は性質が悪い。
「ならば教えてくださればいいのに」
拗ねたように口調が固い。
ちづるが武術を教えろと言い出すのは慣れている。
「こんなもの、ちづるが覚えたら
当たり前の女としての幸から遠ざかるだけだ」
常日頃のままの格好に着替えると、髪を無造作に纏め上げる。
筒袖の長着に、馬乗り袴。
一尺ほどの棒切れを片手に幼子の傍に座り込む。
「どうせ、ちづるには水鏡の血が流れている。
あの重い剣を扱う技量を受け継いでいるなら
私などが教えられることなど何もないんだよ」
懐剣を元通りに袋に仕舞うと、幼子の懐にさしてやる。
それに手を添えながら、見上げてくる大きな瞳。
「母さまは、父さまを羨んでいるの?」
「そうだな……あの技量は羨ましい」
そのことだけは、誰にも隠さず言い切れる。
人ではないからなどとは思ったことはなかった。
扱えるものがいるなら、その高みを目指そうと追いかけた。
未だに追いかけた理由は、本当は恋慕だったのだと思い切れない。
思い切れなくても、水鏡に恋慕の感情を抱いていることは
認めているし、否定のしようが無いと自覚している。
「ならば、私も母さまを見習う!」
「だから、そういうことは止せと言っている。
私みたいになったら、嫁の貰い手がなくなる」
それでなくても化物の血を引いているのだ。
将来を思えば、武術など教える気にはなれなかった。
「母さまは、嫁の貰い手がなかったの?」
当たり前に聞いたら可笑しな問いかけだった。
だが、ちづるは実の娘ではない。
ただ育ての親だというだけの、水鏡の血を引く娘だ。
「私のように偶々、人ではない男と連れ添うことなど
ちづるにまであるとは思えないから止めておきなさい」
朝餉の支度が出来たのだろう。
良い香りと、いずの忙しそうな足音が聞こえている。
「父さまのこと?」
「他にあるか」
幼子を片腕に抱き上げる。
その抱かれた顔が、すぐそばで悩んでいる。
「ちづる、父だ、母だと呼んでおきながら解ってなかったのか?」
「だって、母さまは婿じゃないって仰るから……」
無自覚なのだろうに、そういう風に言われると
本当に水鏡の娘なのだと、頭が痛くなってくる。
「以後、言わぬように気をつける」
聞かせるべきは、ちづるではないのだろう。
あんなにも離れがたかった理由が解って、己の疎さに腹立たしくなる。
城の後始末だというなら、そう容易くはないはずだ。
人の刃では傷つけることも出来ない水鏡の
帰りを案じたことなど、それが初めてのことだった。


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最終更新日 : 2011-05-20 16:31:31


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