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肉を切らせて

その廻船問屋は、敷地内に大きな庭と池を作らせていた。
周囲を取り囲むように、家屋と蔵が立ち並んでいる。
「豪勢な暮らしぶりのようだな」
茶屋の横で牛飼いは、少女を見ているようにと言われて待っていた。
こんな場所で知っている顔に出会えば命が無い。
それでも妹に会えるかもしれないと思うと、あの女の言うことを大人しくきくしかないと思ったのだ。
「山道を抜けるまでが俺の仕事で、あとは川を下るんだ。
此処に来たのは、いずが居るからと連れて来られた
ただの一度きりだけど間違いない。
いずが居ると思うと忘れられるわけが無いだろう?」
大きな屋敷の土塀をなんなく飛び越えて中の様子を探ってきたらしい紅い髪の女が
無表情に話を聞いている。
その視線の先で、愛らしい少女が茶屋を覗き込んでいた。
「蕎麦でも、たぐって来い」
いきなり銭を渡されて、女の顔を盗み見る。
蕎麦代にしては、多すぎる金額だ。
「逃げろと言っている。わからんのか?」
「いずはっ」
紅い髪の間から、暗い眼が向けられる。
「見つかれば助けてやる」
それは『見つかるわけなど無い』と言われているのと同じことだ。
とても聞き入れることなど出来ない。
「ならば、勝手にするがいい」
片手に牛の手綱を握り締めたままで既に立ち去ろうとしている女の背を見つめる。
あの紅い髪の女は、これからどうするつもりなのだろう。
「ちづる、もう少し歩きなさい」
「ねえさま……行くの?」
女を見上げた少女は、急に不安そうな顔になって駆け寄っていく。
愛らしい大きな目で『姉』と呼ぶ異質な紅い髪の女を見ている。
「こんな時間だから大人しくするしかないだろう。
夜目でも目立つのに、昼間から暴れるわけにいかないじゃないか」
「ちづるも!ちづるも付いていく!」
普段は大人しい子供が、珍しく駄々を捏ねる。
紅い髪の女に縋るように、纏わり付いている。
周囲を通りかかった人々が、女に怯えながらも好奇の目を向けていた。
「だから、私は目立つんだから大人しくしていなさい。
心配せずとも、こんな人の多い場所で一人にはさせない」
女の白い手が髪を撫でると見上げていた少女が微笑む。
不思議な二人だ……。
「千鶴?千鶴じゃあないのか?」
大きな声に少女は咄嗟に女の影に隠れた。
背の得物を片手に握り、眼差しだけが声のほうを向く。
「おいおい、俺だよ」
害はないと示すように両の腕を広げて見せている。
茶筅の髷、家紋の入った上等の羽織と着物。
陽気な声で、若い男は近付いてきた。
「斬るぞ」
低い恫喝の声に、男は驚いて立ち止まる。
「従兄弟の真之介だよ、忘れたのか?」
「知らぬ」
短い返事の間にも、長い得物は構えられている。
往来でのこと、早くも人だかりが出来始めていた。
「そんな姿の女が、二人、三人といるわけがないだろう」
「私は女ではない。イラヌモノだ」
紅い髪が流れる。
長い得物が薙ぐように周囲の空気を裂く。
「千鶴っ」
後ろに下がった隙を狙って、女は少女を抱きかかえて茶屋の屋根に登っていた。
「お前など、私の敵にすらなれはしない」
女の声は瓦を踏む音と共に聞こえてきた。
周囲のものが騒ぐ中、若い男は躊躇いも無く後を追う。
牛飼いは、その有様を見つめながら特に意識もせずに懐の中に握らされた銭を入れていた。
―イラヌモノ……?―
何故だか、その言葉が心に引っかかって仕方が無い。
とぼとぼと痩せ牛を引いて歩き出す。
何処を目指しているのかさえ、解ってはいなかった。
どれほど走っただろう。
川原の風が心地いい。
息を切らせながら、土手に座る女の傍に近付いて行く。
「相変わらずだな」
女の膝の上では、小さな少女が眠っていた。
その寝姿を見ながら、顔を上げもせずに声だけがかかる。
「相変わらずは千鶴の方じゃあないか。
まったく、いつになったら追いつけるのやら」
羽織を脱ぎ捨てると、当然のように少女にかけてやる。
それを見て、ようやく紅い髪の女が笑う。
「今の私は『ヌイ』という。ちづるという名は、この娘に与えた」
「髪の色とともに?」
ようやく息が整ったとみえて、男は女の傍に座り込んだ。
「あんな往来で声をかけるな。
だいたい、何故お前が此処に居る」
「親父が死んで、お前を追うものが居なくなったと報せたかった。
いや、俺が追っていたんだから皆無ではないが」
紅い髪の間から、暗い蒼く光る眼が向けられる。
それでも若者は笑っていた。
「ならば、家を継いでいるはずだろう」
「継ぐならば、俺じゃあ駄目だ。
お前は、幼いころから言っていた。
『敵にすらなれはしない』『相手にもならない』
全くだ、今日も敵わないと思った」
一人、可笑しそうに笑い出す。
その声を聞きながら、女は何も言わずに流れる川を見ていた。
「あの家を継げるのは千鶴だけじゃないか。
俺の心配なら無用だぞ?
俺は入り婿になると、ずっと言っていただろう?」
「お前、私の姿が見えないのか」
膝の上で眠る少女を撫でる女は、紅い髪で顔が隠れていた。
ざんばらに流した紅い髪。
そんな目立つものを見えないわけは無い。
「俺は気にしない」
「そうか……」
予想していたかのように女は聞き流してしまう。
この陽気な男は変わらない。
記憶の中の、拙い刀さばきで挑んできた頃と何も変わらない。
「千鶴は死んだと、最近まで聞かされていたんだ。
義母さまが亡くなったと知った途端に、そのまま死んだんだと。
墓もあったし……疑わなかった」
男の投げた小石が川に落ちる。
その様子を見ても女は何も言わなかった。
「けど、俺の両の親は『紅い髪の女』を恐れていた。
そんなものは居るはずがないというと、全部話してくれたよ。
生まれた赤子と髪を入れ替えたんだって?
千鶴らしいと思った。
何故、俺に黙って出て行ったのかと恨んだよ」
「お前など、頼りにもならないからだ」
女の言葉に慣れているのか、陽気な声のままに笑う。
「だが、探し当てた」
「私は目立つ。探すのは容易い」
自慢げな声を容赦なく、へし折る。
紅い髪の女と幼い子供の二人連れというだけで何度も襲われたから、追われているとは思っていた。
直接に手出しが出来ないと知ると、まず狙われるのは幼い異母妹だ。
ちづるが攫われかけたのは、一度や二度ではないのだ。
「俺は千鶴への恋慕で探したと思っているがなぁ。
ほら、十三参りの時でも俺は『恋』と書いたと話しただろう。
お前には散々と笑われたが、これこそ『理』じゃないのか?」
「私はヌイだと言っただろう。ちづるは、この娘だ」
同じ年の従兄弟とは同じ日に寺へ出掛けた。
虚空蔵菩薩への参拝の前に書いた一文字だけの文字。
己が大切にするというものを漢字一文字で書くというから千鶴は迷わず『理』と書いた。
その千鶴は、実父に殺意を向けられて死んだのだ。
あの夜、理由が解らないままに殺意を向けられて千鶴は消えた。
ヌイと名乗り、『鬼』と呼ばれながら生きているうちに
あの夜の殺意の『理』が見えてきた。
この紅い髪は恐ろしいのだ。
なんとも感じずにいた己は稀有なのだ。
「んーじゃあ、こっちの嬢ちゃんに求婚しなおそう。
そしたら、お前も付いてくるんだろ?」
「阿呆が……」
この男は考え無しで動くわけではない。
幼いころから、唯の棒切れしか持てないような頃から、何度も稽古試合をしてきた。
剣術は拙かったが、戦法は悪くなかった。
「鏡池に居る男と約束したのだ。
お前などの相手はしていられない」
ぽつりとこぼすような言葉に真之介が過剰な反応をする。
両の手を地に付けて、紅い髪の下に隠れた目を覗いてくる。
ここまで、この外見を気にしないというのも問題だと思った。
この紅い髪で帰る場所など無い。
あの男と勝負をつけなくてはならない。
「惚れ合った相手が居たのか?」
「本当に色恋しか考えられないのか」
溜息が出そうになるのを堪えて、遠く川の流れに目を向ける。
「何処の鏡池なんだ?」
「それが解らないから探している」
せめて名を訊くべきだった。
あの水鏡の底に居た男は、何処に居るのだろう。
「そんな会いに来ないような男など忘れてしまえよ。
この俺を見ろ、こうして探してきたんだ」
「金の色の猫のような目をした男なんだ。
恐ろしく重い剣を片手で軽々と振るう。
あの技量が羨ましくて仕方が無かった」
その重い剣を匕首などで受け止めた技量は意に介さない。
あの夜に勝てていたなら、今の自分は居なかった。
「惚れているのか……そんな見目の男に」
あの男は髪に口付けて姿を消した。
色香の話ではない。
「真之介、お前が惚れた相手の見目はそんなに良いのか?」
「当たり前だ。気性は荒いし、恐ろしく腕が立つがな。
あんな真っ直ぐに前を見て歩く女は他に居ないぞ。
背筋を伸ばして、綺麗な目で見つめてくるんだ。
見惚れている間に、いつも試合では負けていた」
思い出したのか、可笑しそうに大きな声で笑う。
その声に驚いたのだろう。
昼寝をしていた少女が起き上がっていた。
「ああ、起こしてしまったか。
もう少し寝ていてくれないか、あと少しで口説き落とすから」
「くどき……?」
少女が言葉の意味を尋ねようとしている間に紅い髪の女が立ち上がる。
「ちづる、知らぬものと親しくしてはいけないだろう」
「でも、ねえさま……
この方は私の名前を何度も呼んでいたのよ?」
少女の言葉に若者が笑う。
掛けてやっていた羽織を差し出されても、男の笑いは収まらなかった。
「何度でも呼ぶぞ。
俺は千鶴という名の女に惚れたんだ。
けど、千鶴は居なくなっておかしな名を名乗っている。
名を変えても、俺が惚れた目は変わらない」
「幼子に妙なことを吹き込むな」
羽織が放り投げられてくる。
それを受け止めて、視線を戻すと女は居なかった。
慌てて周囲を見回す。
はるかな距離に、少女を片腕に抱いた紅い髪の姿が見える。
「益々、動きが早くなってるじゃないか。
それだけの技量を持っていて、家督を継がないなんて卑怯だぞ。
千鶴……」
声の届かない距離にいる相手に独り言のように呟いていた。
話に聞いていた通りに女の髪も、瞳の色も変わり果てている。
けれど、あの真っ直ぐに見つめてくる目は同じものだ。
刃を抜けば、決して逸らさない瞳。
長い流浪生活で性根が変わっていたらと危惧したのも馬鹿馬鹿しい。
あの女は何処までも前を見て歩いていく。
「鏡池ねぇ」
そんな名の池など何処にでもある。
今まで幾つの池を訪ねたのか知らないが、あの女は諦めないのだろう。
いつか辿り着けると信じて歩いているのだろう。
「あれじゃあ、小さいちづるも奪えないなぁ」
赤子さえ普通の子だったら千鶴は消えたりしなかったはずだと
そう信じてきたからこそ、何度も人の手を使って奪おうと試みた。
どれだけ異母妹を大切にしているかは、予想しているつもりだった。
何しろ襲わせた相手は、残らず斬り捨てられている。
二人の仲の良さを目の前で見れば奪おうとした己が恥ずかしい。
何より、あの幼子は小さいだけで姉と同じ目をしている。
真っ直ぐに相手を見据える瞳。
あれは何かを一心に信じている目だと知っている。
己の惚れた女は、あんな幼子の頃から『理』にこだわって信じる道を歩いていた。
あの瞳は、全く同じものだ。
もう遠くなってしまった背を追うことにする。
やっと出会えたのだ。
諦めるのなら、追ってきたりはしなかったと伝えなくてはいけない。
譲られた家督も、その家に伝わる武術も継ぐ者として相応しいのは、あの紅い髪の女だけなのだ。
己が惚れたのは、そうして前しか見ないで生きる女なのだ。
一度は死んだ者として諦めていた恋慕だが他に想いを寄せることが出来なかった。
居なくなってしまった者への想いだけが募っていた。
やっと出会えた。
それを伝えなくてはいけない。
真之介は、遠い背を追って駆け出した。
あの背を追うのは慣れている。
あの背は、いつも振り向いてなどくれないのだ。
追い抜いて、前に躍り出ない限り見つめてさえくれない。
追わなくてはならないのだ。
【再会】
ぽつり、ぽつりと屋根から滴り落ちる水滴の音が聞こえる。
闇の中、小糠雨が降っていた。
「行くの?」
刃の手入れを終えた紅い髪の女に少女は声をかける。
懐から、そっと取り出した守り袋を差し出してくる。
その小さな手の平を握りながら、紅い髪の女は笑った。
「これは『ちづる』のものだろう?
私に何かあれば、それは役に立つはずなんだ。
そうだな……
今日の川原に居た男、あれにでも渡せばいい」
これが、かつての千鶴のものだと覚えていてもおかしくない男だ。
ましてや、その中には異母妹の母親が埋葬されている寺の場所が記された
異母妹への想いを最低限に示した紙切れが入っている。
「ねえさま……」
抱きついてくる幼子の、その背を優しく撫でている。
『鬼』と恐れられる紅い髪などを持っていても、その少女を見る目は慈しみで溢れている。
「心配せずとも私は簡単に殺られたりしないよ。
今宵は共に行くのだから、余計に無理などしない。
ちづるを攫った理由を知りたいだけなんだから。
だから心配などしなくていい」
少女が腕の中から見上げてくる。
蒼く底光りする眼を恐れもせずに見つめてくる。
「ねえさまは、ちづるのことばかり心配なさるのに
ちづるに案ずることすらさせないなんて。
ちづるが攫われそうになる度、理由を問いただす
それだけで、ねえさまは危険になる……
ちづるは信じているけれど……
ねえさまのことは信じているけれど」
「ならば、それを裏切ったりはしない」
幼子が言葉を選んでいる間に、女は話を終わらせてしまった。
背に得物を担ぐと、少女を抱き上げる。
不安そうに抱きついてくる異母妹の髪の匂いが清らかなままであることに安堵してしまう。
今宵も、この娘に血臭など移らせたくはないと願う。
雨宿りに使った荒ら屋を出て、真っ直ぐに昼間の廻船問屋へと向かっていた。
昼間と同じように土塀を乗り越え、家の主を探して歩く。
隠れもしないで屋敷の中を歩き回るのだから、すぐに気付いた店の者たちが騒ぎ始めて行く手を阻まれた。
「夜分に申し訳ないな。
この見目では、人目を避けたかっただけだ。
この店の主に会いたいだけ、話をしたいだけ」
力には自信のありそうな大柄な男が立ち並んでいる。
大きな荷を運ぶ廻船問屋になら、このような連中が揃っていても不思議はない。
不思議なのは、恐れもせずに敵意を向けてくることだ。
「それすら叶わぬというなら、力づくという事になるが」
そろりと抱いた少女を降ろすと背の得物を片手に握る。
隙と見たのだろう。
飛び掛ってきた男たちの中には短刀や包丁を振りかざしてくるものも居る。
それを低い姿勢のままで、柄の部分で薙ぎ払ってしまった。
ただの硬い木の棒にしか思えなかったもので軽く当たっただけに感じていたら着ているものが裂けている。
ゆっくりと感じる痛みは、次第に動けぬほどになってきた。
「素人が何人出てきても同じだ。
話のわかる相手を出せ」
低い声での恫喝に、男たちが周囲を見回す。
「俺は客人だろう?ええ?」
頓狂な声に、緊迫感が破られる。
老いた男に背を押されてやってくる姿を認めて呆れ果てる。
「元はといえば、先生の依頼じゃあないですか。
ウチは女子供を攫ってはいるが、あんなのと張り合いたくない。
あんたが害のない目立つだけの女だといったのは
これじゃあないのか?」
「あああ、だから話すなと!
この女は怒らせると本当は怖いんだ。
けど、普段は害などないから嘘など言ってはいないぞ」
老爺の言葉に見知った若い男が慌てていた。
「なるほど、お前の策か。
私に手出しをして来ないで、ちづるばかりが狙われるわけだ。
お前との勝負もつけてやる。
さぁ、鈍でないなら抜くがいいっ」
後ろに隠れていた少女が闇の中庭を目指して渡り廊下を降りていく。
その気配を感じながら、紅い髪の女は刃を向けてきた。
蒼く眼が光る。
大柄な男たちが、ようやく恐れを思い出したかのように逃げ始める。
「よしてくれ。敵うわけないじゃないか」
両の手を広げると、まるでやる気無しという風情だ。
その男の喉下にまで切っ先が突きつけられる。
流石に驚いたのだろう。
硬い表情で見つめてくるのを迎えたのは般若の笑み。
「昼間の言葉が嘘でないなら、その刃を抜け。
全てが嘘だったというなら、このまま大人しく消えろ」
知り尽くした相手なのだ。
この男の嘘くらいは見抜ける。
「ちづ……じゃなくて、ヌイだったな。
ヌイ、話し合いでは済まないのか」
返ってきたのは、八重歯が見えるほどの笑み。
真っ直ぐに見据えられたままでは、動くことも出来ない。
喉に突きつけられた刃は本物の殺意が込められている。
この女は怒らせると怖いのだ。
途方にくれるように天井を仰ぎ見る。
「解った、俺が悪かった。
お前に斬られるなら本望だ」
腰に下げた二本の刀を投げ出す。
途端に激しい痛みが鳩尾に入った。
眩暈がする。
蹲る身体を、さらに石突で突き上げられる。
板張りの上を転がると、顎を蹴り飛ばされた。
「死ぬ気もないのに何を抜かす。
私が加減をすると思ってのことなら甘いぞ」
距離を詰めてくれると思ったのは一瞬のこと。
あの女の何処でもいいから掴むことが出来れば接近戦なら勝算もあると思った。
それなのに、相変わらず動きは早いし近付いてきたと認識できた時には攻撃をくらっている。
この女の持つ薙刀は、女ならではの短いものだ。
刃の反りが急で、少しでも触れたら斬られる。
気合だけで石突で着物を裂き、その下の骨を砕く。
室内だからといって、半減しているとも思えない技量だった。
暗く静かに雨が降っている。
その静けさと緊迫感を破るように、大きな音が聞こえてきた。
「何事だ」
「裏木戸が破られた!」
店の者たちが騒いでいる。
その中で、紅い髪の女は動かなかった。
得物を構えた姿のまま、見知った男に刃を向けている。
逸らされることのない瞳。
「牛!暴れ牛だ!」
声が聞こえた時には、蹄の音も聞こえていた。
濡れた地面を、玉砂利の上を、大きな生き物が動いている。
「あの牛は、小次郎という男のいうことしか聞かない。
近くに居るはずだ。
あの男と話してみるがいい。
それまで、勝負は預けておく」
「千鶴っ」
背を向けられて、咄嗟に声をかけてしまった。
「お前には失望した」
紅い髪の向こうから聞こえてきた言葉に予想以上の痛みが走る。
心が痛くてならない。
そんな男を部屋に残したまま、紅い髪が濡れるのも構わずに暗い庭へと降りていく。
広い中庭に、場違いな幼い少女が闇の中に立っている。
「ねえさまっ」
少女が女に駆け寄る。
「どうした、小次郎にでも会ったか?」
「牛は見たけど……でもね、でもね。
あっちの池がおかしいの」
指差す方向には贅沢な作りの池がある。
その畔に立てば、確かにおかしい。
おかしさに、思わず笑みがこぼれる。
「でかしたな、ちづる」
頭を撫でられて、幼い少女は訳も解らずに微笑む。
池は小糠雨の中でも、黒い水面を波紋一つ立てずにいる。
そこに映りこむ己と異母妹の姿。
「遅くなったな」
水鏡に向かって話しかける。
不思議そうに見上げる異母妹を抱き寄せる。
『なんとも騒がしい夜にやってきたものだ』
懐かしいような、不思議な声が聞こえてきた。
「私が来たから騒いでいるんだ」
水鏡が割れる。
水の流れる大きな音と共に、雷鳴が轟く。
『変わり者は、いつまでも変わり者のままか』
池の底には、まるで変わらない姿の美丈夫が立っていた。
あの見慣れない剣を片手に、当たり前のように池から上がってくる。
「探せと言ったのではなかったのか」
『言われて探し当ててくるから驚いている』
他愛のない話をしながらも、互いに隙は見せない。
女の背後から、幼い少女が見つめてくる。
恐れでも、驚きでもない。
ただ好奇の目で真っ直ぐに水鏡の底に居た男を見ている。
『如何にも、お前が育てた娘らしい目だ。
この勝負、何を賭ける?』
言われて答えが見つからない。
引き分けた勝負で、異母妹は生きてきた。
代わりに己の髪は紅くなった。
引き分けなのだ、当然だ。
「約束を守りに来ただけだ」
それしか理由はない。
『願いはないのか?
勝負に勝てば、叶えてやるぞ。
その姿を元に戻してやってもいい』
「生憎、この姿にも慣れてしまった。
そうだな、願うなら生きていたいだけだ。
この娘が一人で生きていけるときまで。
だから負ける気などない」
薙刀を構える。
背の少女が、後ろへと駆けて行く。
それを目で追いながら、金の瞳が哂っていた。
『欲のない……』
す……と指しだされた手に抜き身の小さな刃があった。
見知った柄を向けられても、構えは変わらない。
『代償を余計に持っていっていた』
「ならば、勝負が付いてからでいい。
その辺に捨てておいてくれ」
実母の形見だ。
あの匕首だけで、この男と渡り合ったのは数年前。
今なら得物で勝負が出来る。
二つの刃を持つなど慣れない事はしたくない。
『本当に欲のない……』
男は哂いながら、匕首から手を離した。
すとんっと闇の中、細い刃は地に刺さる。
『ならば人ならぬものの欲を賭けさせてもらう。
その身の傍に、この身を置け。
無論、お前が勝てば忘れていいことだ』
「わかった」
負けるつもりがないのだから返事は早かった。
笑みを浮かべて頭上を仰ぐ。
小糠雨など意に介せずに、見つめる目は相手を見据えていた。
猫のような金の瞳が哂う。
宙を舞う姿を捉えられて、その着地すら待たずに薙ぎ払われる。
―ギャン!―
重い刃に当たって、振動が手に伝わる。
それを感じる前に次の一手は繰り出されていた。
刃を引かずに、そのまま回転させて石突で突く。
それが空を突いたと感じれば、刃が素早くやってくる。
追えぬはずの相手を正確に追い、攻撃してくる。
『呆れたな。本当に腕を上げてきた』
「当然だ」
ギリリっと音を立てながら、互いの刃が競り合っている。
重い剣が鍔に届く前に、ぬかるみの中で足の動きが変わる。
刃を引く。
濡れた紅い髪が飛沫を飛ばして流れていく。
宙を舞うように飛んでいく重い剣を、どちらも目で追うことすらしなかった。
「何故だ?」
『そういう事を言い出すと解ったからだ』
薙刀の刃は何度も競り合って半分に折れていた。
それでも、あの重い剣を飛ばすほどに技量はないと知っている。
薙ぎ払った瞬間に、この男が手を離したと解っている。
折れた刃を向けながら、理不尽な怒りが湧いてくる。
「負けてやる気などないといっただろう!」
『そんなもので斬られても死なぬのが、人でない身。
解らぬはずもないくせに人の身で挑んでくる。
もとから暇つぶしでしかなかったのだ』
暇潰しだろうが、相手が人でなかろうが約束は約束だ。
勝負を挑んできて、今さらに何を言い出すのだろう。
「ならば、私の負けだ。勝手にするが良い」
くるりと刃を地に向ける。
紅い髪の下から蒼く光る瞳が見据えてくる。
『女、負ければ欲を、条件をのむという事だぞ』
「ああ、だから勝手にしたら良いと言っている」
人でないはずのものが呆れたように見つめてきた。
ゆっくりと近付いた金の瞳が、そのまま猫のように細められる。
『呆れたな』
囁くように耳元で聞こえた声。
髪をすべるように口付けていく。
「おいっ」
それは覚えのある感覚だ。
慌てて、ざんばらに流した髪を手に取る。
「ちづるっ!」
『案ぜずとも、あれに何もしない。
いい加減に気付いたら良いものを。
あれは、私の娘だ。
あれの母親と通じていたことに気付かなかったんだな』
気付くはずがない。
あの頃は、何も知らなかったのだ。
「父は気付いていたのか?」
『おかしいとは思っていたようだ』
「そうか……」
まだまだ己は甘い。
異母妹だと思っていたのに、血の繋がりはなかったのか。
「それでも、ちづるは私の妹なんだ」
急に呼ばれて、慌てて駆けてきた少女を抱き上げる。
幼い娘が女の髪を、その瞳を、何度も見ては首をかしげる。
「ねえさま、これでは迷子になっても探せないわ」
「ならば、離れぬよう気をつけていればいい」
この少女は、紅い髪の姿しか知らないのだ。
何故、女だけが紅い髪なのかさえ尋ねてこなかった。
「千鶴!千鶴じゃないかっ」
ぬかるみに足を取られながら、騒がしく声が聞こえてくる。
「ああ、その姿の方が千鶴らしい。
これで家督も継いでくれるのだろう?」
陽気な声に眉をひそめていた女が、ふと思いついたように哂う。
「家督を継ぐのは良いがな。お前と母親は家を出て行け。
それと、私の名はヌイだと言っている。
ちづるは、この娘だ」
思ってもいなかったのか、若い男は視線を泳がせる。
ふと、その先に見慣れぬ男を見つけて気がついたときには、その胸倉を掴んでいた。
『その女は、お前を赦せないのだろう』
掴まれていながら哂う男は猫のように金の瞳をしていた。
人とは思えない異質な声で、不吉な言葉を紡ぐ。
「千鶴っ!コレが惚れた男か?」
「馬鹿を言うな」
怒りと恐怖で掴んだまま動けなくなった手を引き剥がしてくれた白い手は
縋ろうとすると素っ気無く袖の中に引き込められた。
「それより、真之介……牛はどうした。
牛飼いに会えといっただろう」
「ああ……会った。
会ったけれど、話を聞いていたら堪らなくなった」
この男は分家とはいえ、大きな武家の跡取りとして育った。
牛を買って、その借金で家族を失うなど想像もつくまい。
まして、その思いなど察してやることすら出来ないはずだ。
「此処の人買いには少しばかり縁が出来てしまった。
だから、俺は牛飼いの妹を探そうと思う」
「そうしてやってくれ」
かけられた声が既に背を向けているのだと気付いて、その背を追うことを躊躇う。
今までなら、躊躇うことも思いつかずに追ってきた。
あの背は振り向くことなどしない。
「ねえさま、小次郎は来ないの?」
「牛より妙なのが付いて来るんだ。それでいいだろう?」
『呆れた言い草だ』
人ならぬ身が、いつの間にか横に並んでいる。
当然のように腕の中の少女を抱きとろうとするのを白い手が跳ね除ける。
「急に馴れ馴れしくするな。
この娘には煩いくらい知らぬものと親しくするなと言い聞かせている」
すたすたと歩き出すと、再び横に並んでくる。
「面白い方ね、ねえさま」
「ああ、ちづるの父さまだそうだぞ。
そのうち仲良くなってやれ」
「父さま……?」
ちづるは両親を知らない。
居ない理由さえ話さずに過ごした。
定住などしないまま、紅い髪の女に育てられた少女は周囲の人間たちの常を知らぬままに育った。
「ああ、親といえば真之介」
振り返ると驚いたような目が向けられる。
好奇の目に慣れた女は、その理由さえ気付かずに居る。
「お前が帰ってくるまでくらい、伯母上は我が家にいていただく。
まぁ、伯母上が嫌でなければだがな……
だから案ぜずに留守にしていいぞ」
絶対に振り返らないと思っていた背に振り向かれて思わぬ言葉を聞かされる。
「すまない……」
「謝られる覚えなどない。
誰だって知っていた女が紅い髪になったら驚く。
そんな当たり前を理解できなかった私がいけないのだ」
見慣れていたはずの笑顔に戸惑っている間に女は再び背を向けて歩いていってしまった。
『お前は、器が大きいのか、世間知らずなのか解らぬ』
「両方だ。お前こそ義母さまに手を出しておいて
ぬけぬけと私に付いてくるなど、本当に人ならぬものは解らない」
冷たい声で言い放つ。
その目の前に、小さな柄が差し出される。
『鞘は失くしてしまった』
「構わない、それは預けておく。
いつか、絶対に勝負して勝ってやる」
『無理だと言っただろうに』
旧知の者同士のように親しげに歩いていく姿を、そろりと覗いて慌てて庭へと降りてくる者。
「真之介様、あの別嬪さん御知り合いで?」
「馬鹿者、髪の色が変わっただけだろうがっ
幼子の頃から惚れていたのに、あっさり横取りされちまった!」
よく解らないまま、牛飼いの小次郎は頭を下げる。
「お前もだ、人買いが一年もの間
同じ場所に女を置くはずもないだろう。
牛などを放り込んでくるなど滅茶苦茶だ。
千鶴に関わると、いつも滅茶苦茶なんだ」
茶筅の髷が崩れるのも構わずに頭をかく。
「すみません。
イラヌモノなどになりたくないと、なんか急に思えてしまって
慣れない事をしちまいました」
ひたすら頭を下げる小次郎に、真之介は当たるしかなかった。
まだ心の痛みが消えてはくれない。
「まったく、此処の後始末は俺がするのか?
俺なんだろうなぁ……」
見えなくなった追い続けていた背を思う。
あの女なら、きっと迷いもせず力を貸す。
己の出来る範囲で、出来るだけのことをやりとおす。
それすら出来なかったから、振り向いても貰えなかったのだろう。

3
最終更新日 : 2011-05-20 13:34:48

帰郷

地方とはいっても、由緒ある武家のこと。
家督を譲られた男が死んで、まだ喪があけたばかりだというのに
死んだはずの本来の跡目継ぎが帰ってきた……
―あの薙刀使いの娘が帰ってきた―
本人は目立つことに慣れてしまっている。
堂々と町中を歩いて居たのを何人もの者が見ていた。
「噂など放っておけばいいのです。伯母上」
娘を見た途端に寝込んでしまった伯母は見舞いに来られる度に恐ろしくて仕方がない。
この娘を追って出て行った息子は無事なのだろうか。
「それでも男を連れ込むとは何事ですか。
会わせていないからって知らないと思ったら間違いですよ」
精一杯に虚勢をはる。
それが解るから、娘は笑って聞き流す。
「会わせぬなりに理由もあるのです」
衣擦れの音が聞こえて、娘が立ち上がったのだと知る。
恐ろしくて顔を見ることさえ出来はしない。
出て行った頃と変わらぬままに、馬乗り袴などを身に付け
朝夕構わずに稽古をしていることくらいは激しい打ち合いの音が聞こえるから間違いはない。
こんな曰くつきの娘の稽古に付き合うなど何処の変わり者だろう。
「そんなに気にかかるなら、お連れしますが」
障子を開ける音と共に聞こえた声。
心のうちを読まれて余計に恐ろしくなる。
答えられずに居ると静かに立ち去っていく音だけが聞こえてきた。
何もなかったように接してくるのが恐ろしい。
殺そうとしていたことくらい気付いているはずだ。
『何処ぞに移してやった方がいい』
濡縁に腰掛けて、庭を見ているのは人ならぬもの。
隣で小さな少女が鮮やかな布で出来た玉を器用に放り投げては受け止めている。
流浪生活では教えてやれなかったからと帰ってきて早々に教えて与えたお手玉だ。
己もそうだったが、一つ、一つの重さを覚えてしまえば
見ていなくても三つ、五つと宙に舞わせて遊ぶ。
「ああ、私だって気付いている。
此処から近い湯治場にでも移っていただけるよう手配している最中だ。
身一つで動けないのは不便だな」
周囲に散乱したお手玉を三つばかり手に取ると片手だけで宙を舞わせて見せる。
それを見て、両の手を使っていた幼子が慌てて片手で放り投げる。
「ちづる、いきなり数を増やしてはいけないと教えただろう?」
「でも、ねえさまのようになりたいのだもの」
ちづるのいう『ねえさまのように』とは主に武術を指す。
そういうことなど教える気などないから、お手玉などを与えれば上達が早すぎて呆れているのだ。
『だから、私が教えてやるといっただろう』
「父さまは駄目。ちづるだけのねえさまだったのに」
屋敷に帰ってきても、誰もが恐れていると気付いている。
ちづるは、恐れられて当然なのだと思い込んでいるのだ。
それなのに恐れずに親しくしてくる人ではない父親が気に入らない。
「夜だって、いつも騒ぎを起こしに来るんですもの」
『騒ぎになるのはヌイが大人しくしないからだ』
当たり前だ。
この色惚けた妖怪は深夜になると、いつの間にか傍に居る。
此処に帰ってくるまでの道中でも同じ目に合っている。
気付く度に手元から離さない得物での打ち合いになるから深夜だの、早朝だのと関係無しに騒ぎになる。
「御義母さまと過ごした家で、申し訳ないとか思わないのか」
いくら人ではないといっても、子まで成した女を思い出さないのだろうか。
『あれはな、女が望むからの結果だ。
だから生まれた時期がおかしいと、お前の父親は気付いたのだ。
あの女は早く子が欲しいと願うばかりに、水鏡に向かって願いを呟いた』
「御義母さまが?待て、相手が誰でも良いとは言わなかっただろう」
この男は水鏡に言葉を呟かれると、何かしら節介をしてくるらしい。
『私は誑かしも、取り憑きもしない。
あの女が受け入れたからに決まっているだろうが。
私には惚れた相手が居るというと、余計に拘った』
ああ、あの若い義母は惚れてしまったのか。
誑かしはしないが、この男は黙っていれば声の異質さに気付けない。
聞こえても、変わった声だと思うだけのものもいるかもしれない。
唯一の瞳など、閉じてしまえば解らない。
その二つだけが異質なだけで、見目は美丈夫なのだから誑かす気もなく誑かされた女だって居ると思う。
「惚れた相手が居るなら、私に要らぬことをしてくるな」
睡眠の浅いのには、慣れている。
けれど、毎晩と続くと人の身では耐えられる期間も限られる。
この男と持久戦などしたくない。
『女の癖に、本当に色香に鈍い。
傍に置けとまで言って、離れないのなら
惚れられているとくらい勘ぐるものだ』
片手で遊んでいた玉を思わず取り落としていた。
「お前、本当に色に惚けているんじゃないだろうな?」
『ヌイが鈍いのだ。こんな状態で家督を継いでしまって
その次の跡取りはどうする。
私が居る限り、普通の人間は恐れて養子にもならないぞ』
継ぐことを捨てたはずの家督を継いだばかりだ。
千鶴は死んだことになっているから、養女としてのヌイが継いだという形を取っている。
そんな体裁ばかりの跡継ぎだから、その後など考えてもいなかった。
「勝負に勝って、お前を追い出す」
『無理だといっただろう』
それでも付けられないままの決着が悔しくてならない。
実際、この男に手加減なしで胴を貫いたことさえあるが意にも介せず次の手を出して来られて驚いたことがある。
『ちづる、ねえさまが母さまになったら良いと思わないか?』
「かあさま?」
この男のせいで、今まで両親の居ないことさえ気にする様子も見せなかったちづるが
父だ母だと知りたがっている最中なのだ。
「そういうのを誑かすというのだ。水鏡」
機嫌が悪い時しか名を呼ばないのに、名を呼ばれると
この人でない男は哂っている。
「勝手にしたらいい。もう知らぬ」
再び手に取った鮮やかな布の玉を投げ始める。
幼いちづるは、それを真似ようと懸命に片方の手で玉を投げて受け止めている。
『ならば勝手にさせてもらう。騒ぐなよ?』
「そんなことは約束できかねる」
素っ気無い返事を、男は哂って聞いている。
『すぐに慣れる』
「都合の良いように解釈するな」
言葉だけが投げられてくる。
幼いちづるに手ほどきするのに忙しそうだ。
何度もやって見せては、ちづるが真似るのを見ている。
『良い母になれると思うがな』
それを聞いていながらも、もう女は返事すら返しては来なかった。
ちづるに対する態度が母親のようだとは思っているのだ。
自覚があるのだから何も言い返しはしない。
ただ今宵も浅い眠りになるのかと思うと少しばかり気鬱なだけだ。
色恋に疎い女は、そんな態度が惚れ合った者同士の戯れにしか聞こえないということすら
全く気付いてはいなかった。
ただの約束一つで、この男を探していた理由も恋慕だとは思わない。
そんな、いつまでも少女のような女の疎さに気付きながら人ならぬ男は、触れるような距離で座っている。
その距離が日々、縮まっていることを知っている。
だから金の瞳で鮮やかな玉を追いながらも、それを操る女には何も話さないでいることにした。
慌てる理由など、何処にもなかった。
人でない身だからこそ、この女が離れないことなど見抜いている。
ただ当分の間は、その愛情表現が刃同士の鬩ぎ合いになってしまう。
ただ、それだけのことでしかない。
そう、それだけのことでしかなかった。
肌を求めるより、刃を交わすほうを好むのなら人でない身の男は、どちらでも良かったのだ。

4
最終更新日 : 2011-05-20 13:35:58

妖しのもの

暗闇の中、息も絶え絶えに駆ける姿があった。
追ってくるものの気配から逃れよう、逃れようと、ただ無我夢中で走り石段を駆け上がる。
「たすけて!」
声の限りに叫んだのは、丁度境内の中にある池の前だった。
直後に何かに押し倒される。
頭が水に浸かる。
必死になってもがく娘を押さえつける腕は容赦なく
その着ているものを引き千切るような勢いで肌蹴させる。
「いやっ勘弁して!」
その声に余計に乱暴になる相手に娘は怯えて震えている。
両の脚を無理矢理にひろげさせられ、いつの間にか切れた帯が胴から、するりと離れていく。
「いやぁぁぁっ」
暴れても、相手は全く動じることがない。
覆いかぶさられたと思ったときには、引き裂かれるような強い痛みが身体を貫いていく。
「きゃああああああああああああああああ」
その絶叫を最後に娘は意識を失った。
翌朝、娘は骸となって見つかった。
境内の中の、木の枝に何も身につけない姿のまま
両の脚の間から胴を貫くように枝を差し入れられて絶命していたのだ。
その数日後
近所に使いに出ただけのはずの少女が股座から口へと麻縄を通されて、反らした身体のままで
木の枝に下げられて骸となっていた。
凄惨な骸から漂う不吉な感覚に誰もが人の仕業とは思えなかった……
人から人へと噂が広がる中、犠牲者は再び出るのだった。
つい転寝のつもりが深く眠り込んでいたようだ。
横になっている己の背に、衣装が触れる距離で
共に横になっている存在を感じている。
こういう事をされるたびに、得意の刃を持って斬りかかった。
それも、ひと月、ふた月と続けば身が持たない。
そして、ふた月もたてば嫌でも気付く。
この共に横になっている男は眠り込んでいても、せいぜいが髪に口付ける程度だ。
未だに戦闘中以外で肌に触れたかさえ覚えていない。
「懲りないな」
『勝手にしていいといったのはヌイだ』
まだ日が昇るまで時間があるのだろう。
薄暗い部屋の中で、猫のような金色の瞳が光っている。
この人ではない男と知り合ったのは数年前。
いきなり庭の池の水が割れて、その底から出てきた。
あれから幾度となく斬り合いを、こちらは本気で挑んでいるのだが
未だに一度たりとて勝ったという気がしない。
「水鏡、お前の行動の理由が解らない」
『惚れた相手の傍に居て何か不思議なことがあるのか?』
万事に関して、こんな調子だから邪魔臭くなって
勝手にしたら良いと言い放ったのだ。
言っても、言わなくても、この男の態度は変わらない。
薄闇の中、並べて敷いた布団の上には小さな娘が眠っている。
異母妹だと信じて、十三のときから女一人で育てた幼子。
そのころの己が名乗っていた名を与えた、ちづるは今でも可愛くて仕方がない。
例え父親が、この背に触れている人外のものと知っても
そんなことはどうでも良かった。
「お義母さまとも、こんな風にしていたのか?」
『子が欲しいと願をかけてきた相手に添い寝などするか』
それが解るから不思議なのだ。
この人でない水鏡の名を持つ男は、その名の通りに鏡のようになった池などの底にいるらしい。
こんなものが居ると知らずに、水鏡に意味のある言葉を呟けば
何らかの形で叶えてやろうと節介をしに現れる。
ちづるの母である義母は、嫡男を産まねばと悩んだ挙句に水鏡に願いを呟いたのだという。
「それでも、義母さまは惚れていたんだろう?」
『知らぬ。惚れた相手が居ると言うと何故だか
この異形のものの子を欲しがった。
だから、生まれた子を要らぬと思ったら命を落とすようなことになる』
困ったことに願を掛ける気もなくかけているというのに勝手に条件を出してくる。
叶えば、それなりに代償を持っていくのが水鏡だ。
生まれたばかりのとき、ちづるは紅い髪をしていた。
それを今のように人にしか見えない姿に変えたのは水鏡だ。
「お前、自分の子が死んでも良いと思っていたのか?」
『もとより、人が人でないものの子など育てられるわけがない。
それを生かすというから変わっていると言ったのだ』
生憎と人外の子と思って育てたわけではない。
それでも、事実を知れば見捨てたのかと何度も考えたが
やはり義母が命をかけて産んだ子を見捨てることは出来ないだろう。
それを変わり者と言われたくらいでは気にもならない。
「その割には、ちづるを可愛がるじゃないか」
父も母も知らずに育った幼子相手に、父親なのだと言って懐かせようと心砕いている姿は滑稽ですらある。
この男は、異質な声で金の猫のような瞳をしているというだけで
黙って目を閉じていれば、ただの人にしか見えない。
その上、美丈夫だときている。
そんな姿で、赤子の時から流浪生活をさせられて年の割には生意気な口調で話す幼子を相手にしているのだ。
『あれはヌイと同じ目をしている。
ヌイが育てた子だと思うから愛おしくもなる』
こういう言葉を表情も変えずに言ってくるから困るのだ。
「お前が義母さまに言った惚れた相手というのは
私だというようなことを言っていなかったか?」
『そういう意味以外に聞こえたなら言い直すが』
あえて言い直させたいわけではない。
人でないからなのか、理由も訊いたことはないが
まだ子供といって良いころから想われていたらしい。
「なら、何故 姿を消した……」
この男は一戦目を引き分けだと決め付けて姿を消した。
願いは叶ったが、代償も払った。
再度、挑みに来いというから各地の池を回る羽目になったのだ。
『頃合を見計らっていただけだ』
「頃合?」
確かに腕を上げて挑みに来いとは言われていた。
それでも未だに一戦とて勝てたとは思えない。
何より勝てぬと言い切られている。
この人ではない男は、胴を薙刀で貫かれても意に介さなかった。
ならば、何の頃合を見計らっていたというのか。
『だから女の癖に疎いというのだ』
耳元で囁かれた声に、少しばかり身構える。
さらりと黒髪に口付けをして立ち上がる姿が見える。
「水鏡?」
『誰ぞの声が聞こえた……』
ふいに掻き消すように消える姿。
どうやら、また何処かの水鏡に誰かが言葉をかけたらしい。
「節介な妖物だ」
あの『水鏡』の名を持つ人外のものは、水鏡にかけられた言葉だけは他の何事より優先するらしい。
相手は水鏡に映った己に呟くだけなのだ。
あのようなものが出てきても、大抵は驚かせるだけではないのか。
かつて『千鶴』と名乗っていた頃のヌイでさえ、あの男に声をかけられたときは驚き、身構えたものだ。
そんな風に思い出しながら、待つ気もなく待っていたのかもしれない。
いつもなら半時もせずに姿を見せるのに今日は珍しく帰りが遅い。
朝飯時に姿が見えなくても何も言わなかった幼子が流石に気になっていたのだろう。
庭の池を覗き込んで見つめている。
「ちづる、落ちても知らないぞ」
「落ちたら、父さまのところに辿り着く?」
「溺れるだけだ」
ちづるは、己の父親を名乗るものが人ではないと知っている。
池を割って現れるところも見ている。
だからだろう。
池を見ていれば、あの男が現れると思い込んでいる。
「そんなに気になるか?」
振り回していた棒を肩に担ぐ。
本来は薙刀を得物とするヌイは、棒術にも長けている。
この古い武家の跡目継ぎとして育ち、ごく最近継いだばかりだ。
「ねえさまは気にならないの?」
駆け寄ってきた幼子は、甘えて擦り寄ってくる。
それを抱き上げて濡縁の上に座らせ、己も隣に腰を降ろす。
手ぬぐいで汗を拭きながら、気にならないのかと自問してみる。
「気にしても仕方がないだろう」
相手は人ではない。
簡単に死なぬことは知り尽くしているし、案じてやる義理もない。
「ちづるの父さまなのにっ」
「なんだ、いつの間に懐いたんだ」
ちづるは唯一信頼してきたヌイのことを独り占めできなくなって実の父親相手に嫉妬していたのだ。
「母さまも居た方が嬉しいもの」
「お前、誰を母親と呼ぶつもりなんだ」
幼子の指が己を指してくる。
尋ねる意味さえ解らぬとばかりに当然のように指してくる。
「呼び方が変わるだけだろう?
元から、ちづるは私が育ての親じゃないか」
「でも、ねえさま……」
着物の袂を両の手で玩ぶ仕草は、ちづるが困った時の癖だ。
「言いたいことがあるなら言いなさい」
頭に手を置いて、優しく声をかけてやる。
それが余程に嬉しかったのだろうか……
ちづるは、笑顔で甘えてきた。
膝の上に寝転ぶようにして身体を乗せてくる。
その上目遣いの目が、まっすぐに見つめてくる。
「ねえさまだって、気になさっているのでしょう?
いつもより技を失敗していらしたし……
それに池の見える場所で稽古をなさっていたわ」
そう言われても、それが気になってのこととは思えない。
気にしなければならない理由が見つからない。
「アレの入れ知恵に誑かされてどうするのだ」
「父さまは、たぶらかさないもの」
確かに妖物のくせに人を誑かそうという気はないらしい。
ただ誑かすつもりもなく、誑かされる者がいるだけだ。
「ねえさまが母さまになって下さればいいと思うか、
思わないかと父さまは尋ねてきただけなの。
たぶらかしてなんかいないわ」
ちづるは滅多に我侭など言わない。
それが、こうも拘っているのは余程のことなのか。
「だから、育てたのは私なんだから呼び方が違うだけだろう?」
「父さまは、父と母とは仲が良いものだと教えてくださったわ。
ねえさまは、斬り合いばかりなさっているじゃない」
どう答えるべきかと、さすがに悩む。
実母の記憶がないのは、己も同じだ。
ただ跡目取りとして厳しい躾と稽古に明け暮れた日々は母を恋しいとさえ思う暇がなかった。
『斬り合いなど、戯れの一つに過ぎない』
いきなり背後から声がして、つい握ったままだった棒を構える。
膝の上から転げるように濡縁に落ちたちづるは何事かと目を見開いて左右の二人を見比べていた。
「おかえりなさい。父さま」
きっちりと座りなおしてから声をかける幼子に人外のものが、金の瞳を細める。
『あまりヌイに解らぬことを繰り返してはいけない』
「お前が要らぬことを吹き込むからだ」
構えを解いて、くるりと回す。
一体いつから話を聞いていたのか。
周囲の気配には人一倍、敏感なはずなのに、この男は気付かせぬままに傍に現れる。
「また怒ってる」
ちづるの声に仕方もないと濡縁に座りなおす。
「怒ってなんかいない」
「ほんとう?」
何故だか、ちづるは己に尋ねて来ずに人外のものを見ている。
『ヌイは本気で怒ると見境なしに斬りかかって来る。
こんな棒きれでも、当たり前の人間ならあばら骨くらい叩き折る』
「その当たり前の人間でないものに言われたくはない」
機嫌など良いはずも無さそうな声で言い返す。
だが、それ以上を言い返そうとする幼子に手をかざし、合図で話すなと示した。
「立ち聞きなどしていないで、出て来い」
「ん、やはり気付かれていたか」
屋敷の影から出てきたのは上等の着物を着流した若者だ。
見つかったことも気にならない様子で笑っている。
「いつ帰ってきた」
「一〇日くらい前になるか。
お前が何もしないから、親類縁者を回っていた」
この陽気な男は実の従兄弟だ。
ヌイが戻らなければ、この家を継ぐはずだったものを旅先まで追いかけてきた。
「それで?」
「ああ、あの牛飼いな……あのまま雇った。
妹は見つけて、俺が身請けしたから揃って雇った」
胸を張って自慢そうに言うのを聞き流す。
「そうじゃない。何の用で来たかと訊いている」
「あ、ああ……相変わらずだなぁ」
困ったように笑うと、気になるのだろう。
背後にばかり視線が行く。
「こんな昼間っからウロウロしている妖物など気にするな。なんの用だ」
「いや、だからさ。
その……妖怪騒ぎが起こっているのを知らないと思ってさ。
神社の森だので妖しいものに女ばかりが、殺されてる」
手渡された瓦版には、禍々しい化物に馬乗りにされている若い女が描かれていた。
それを、ちらりと見ただけで畳んで突き返す。
ちづるなどには見せたくないものだからだ。
「生娘ばかり、もう三人も殺されている。
どれも、さんざん弄んだ後があるというから
こういうものが好きな連中は大騒ぎだ」
「それを、どうして私に聞かせる」
尋ねる必要も無かったが、あえて尋ねておいた。
この従兄弟は、水鏡を疑っている。
そんなことくらいは、言われずとも解る。
「あのな、親類連中だって本家を化け物屋敷にするのかと散々に騒いでいるんだ」
「その件なら、私が話すから来るようにと伝えたはずだ」
実際には誰も来るはずは無い。
それも解っていたから、放置していた。
「だからな……」
「真之介、生娘ばかりなら私が仕留めて来てやろうか?」
「え……?」
思わぬ返答に従兄弟は間の抜けた返事をしてきた。
それを真っ直ぐに見つめたまま、笑顔だけを返してやる。
「これでも着飾れば、当たり前の女に見えると思うが?」
「いや、それは知っている。
美しいからこそ、妖魔も取り憑くと言われている」
「じゃあ、適任じゃないか」
クスクスと遠慮のない哂い声が背後から聞こえてくる。
この人ではない男は、取り憑くことも、誑かすことも無い。
訳のわからない節介を焼いて、勝手に代償を持っていくだけだ。
「いや……あのだな、ちづ……じゃなくてヌイ。
疑わないのか?あまりに時期があっているだろう?」
「疑うも何も、こいつだとしたら私が生きている意味が解らぬ」
背後の人でないものを指差すと、その指されたものが
背に触れる距離まで寄ってくる。
『察してやれ。お前が生きていれば隠れ蓑になる。
その位は想像しているだろう?』
「あのな、お前を庇ってやっているんだ」
触れる寸前の距離に顔をあわせていながら、躊躇いも無い。
真之介にとって、この妖魔は恋敵だ。
「真之介、私が襲われないと確認してからでも良いだろう?」
「いや、あのだな……さっきも言ったが、生娘ばかりだぞ?」
何故だか顔を赤らめて、こちらを見ようともせずに言ってくる。
ヌイは年の離れた妹などの育ての親だが、まだ生娘でもおかしくない年齢だ。
『私が手を出したと思っているんだろう』
「ああ……そういえば、そういう仲に見られ易い」
ちづると三人であるけば若夫婦と子供だと思われたことも少ないとはいえない。
「とにかく私が歩き回っておく」
早く帰れとばかりに追い払うように手を振られて真之介も居心地が悪くはなった。
とっくに夫婦仲だと思っていた妖魔とは、この嘘が嫌いな気性の荒い娘が
何もないというなら本当に何もないということなのだろう。
「一人で……大丈夫なのか?」
「一人でなければ意味がないだろうが」
相手が例え妖魔の類でも、ヌイは気にならない。
普段から斬りあっているのが背後にいる人でない男だ。
この男の持つ見慣れない重い剣に比べたら大概のものは受けても平気だ。
しぶる真之介を追い返してから、ことさら気にする様子も無く
ヌイは眠そうにしていた幼子を昼寝させている。
考えていることといえば、普段は着慣れていない女らしいものを用意する方法などだった。
『何故、まったく疑わない』
「なんだ、身に覚えでもあるのか?」
突然に背に触れる距離で現れても、もう気にはならない。
人でない男が金の瞳で哂っている。
『声は聞いたが、すぐに水鏡が揺れて壊れた故
助けろという女の願いを聞き流したことならある』
「つぎに現れる場所とか、解らないのか?」
『私は、そういう類のものではない』
予想はしていたから期待はずれとも思わなかった。
―母や義母の着物を漁ろうか、いや残した己のものにも
艶やかなものがあった気がする……―
『意味の無い事に巻き込まれに行くなら
今からでも手を出しておこうか』
「意味はあるだろう。
この辺りでは紅い髪の鬼女退治騒ぎがあった。
最近では死んだはずの娘が町中を歩いている。
それも、曰くつきの幼子と異形の男が傍に居る。
真之介が来なくても、騒ぎくらいは気付いていた」
人ではない男の、耳に触れるような距離での囁きさえ
今のヌイは聞き流してしまう。
『私の無実を示そうと行くのではないのか?』
「そう思いたいなら思っていればいい」
いきなり身動きが取れなくなって慌てる。
後ろから抱きしめられてい居るのだと理解するまで僅かに時間がかかった。
「なんのつもりだ。水鏡」
『だから、要らぬことを起こす前に手を出しておくといっただろう』
首筋に唇が這う。
今まで一度も触れてこなかったくせに両の腕が身体を触れていく。
身八口から手を入れられて、素の肌に触れられたと解ると
流石に大人しくしていられなくなる。
「おいっ」
振り払おうとした腕を押さえつけられて、仰向けのままに
目の前で見慣れた金の瞳が哂っている。
「あのな、相手が当たり前の人間なら生娘に
見えるというだけで充分なんだ。
今さら手を出して来ようが、今宵から歩き回る。
襲ってこなかったら、生娘じゃないと解るお前だということになる」
『ならば、抱いてもいいということだ』
言い返そうとした言葉は言えなかった。
唇を唇で塞がれたまま、しばらく思考する。
この人でない男が、今さらに手を出してくる理由が解らない。
『ヌイ、色事に及ぼうかという相手を見据えてきてどうする』
「今さらで、今でないといけない理由が解らない。
早々に襲ってくると限らないんだから、退治した後でいいだろうに」
色香の欠片も無い言葉に人でないものが笑い出す。
『早々に来ると思うがな。
ヌイは雑魚妖怪でも斬れる腕だが、それだけに素人には隙だらけに見える』
「ならば、尚更 明日、明後日くらい待て」
とくに逃れようともせずに、見つめたままに言い募ってくる。
『嫌だとは言わないのだな』
「ああ……そういえば失念していた」
おおよそ尋常では有り得ない言葉を本気で呟く。
『やはり、お前は変わり者だ』
名残惜しそうに口付けられながら、変わり者で何が悪いのかとも思っている。
触れていた肌が離れて、何故だか落ち着かない。
「妖物のくせに暖かいのか」
『そんなことに感心しているのか、呆れた奴だ』
呆れられても、そうとしか言えなかった。
何故、落ち着かないのかは解らないのだ。
「歩き回っている間は、何処ぞで声をかけられても
此処で、ちづるを見ていてくれるか?」
『何故、嫌だとも言わないのかを答えてくれるなら』
つくづく、些細な願いでも代償は必要らしい。
この妖の性質に呆れ果てる。
「そんなものは考えても解らぬ。
ごく普通に考えたら、惚れているんだろう。
自覚が無いから、そんなことを容易く言い切りたくは無い」
『そこまで自覚があるなら充分だ』
自覚が無いことを自覚している。
それを人ではないものが哂っていることさえ、ヌイには平穏な日常でしかない。
【変化】
散々に散らかした挙句、結局は着ることなどないと思っていた
実母が己のために遺してくれたという艶やかな柄の着物を身につける。
本来なら、見合いなどのときにでもと用意してくれたのだろうが
生憎とヌイに、そういう話が来るはずもない。
着慣れない振りの長い着物と、着け慣れない艶やかな帯。
髪結い屋にまで行く気にはなれず、それでも少しは女らしく
玉結びに仕上げると見違えるような若い娘が出来上がった。
得物を袋に包み、それを両の腕で抱きかかえて歩いてみる。
「なんとか、なるか……」
袋に入れたままの得物を片手でクルリと回せば、はらりと袋の紐が解けて石突きが現れる。
「綺麗ね、ねえさま」
「ああ、私が着ていくと着られなくなるな。
ちづるには、新しいのを仕立ててやるから心配するな」
袋に得物を仕舞い直すと、幼子の手を引いて廊下を歩く。
冬でも素足に慣れたヌイには、白い足袋すら邪魔に思える。
『まるで想い人にでも会いに行くような衣装だ』
「そういうときのために作っていただいたのだから
そう見えるだろうさ。
これだって、届け物にでも見えるだろう?」
得物を包んだ袋を指し示すと珍しく金の瞳が見据えてくる。
いつも、哂うように……何もかも見透かすような妖物の瞳。
『手助けがいるようなら呼べ』
「お前を呼んだら意味がないだろうが」
疑っているのは従兄弟だけではないはずだ。
水鏡はヌイの傍から離れたがらない。
昼間から、堂々と何処にでも付いて回る。
この界隈で『化物』といえば水鏡を指している。
「ねえさま、あぶないところへいくの?」
「近所を歩き回るだけだ。案ずるな」
幼子を抱き上げて、そのまま人ではないものの腕へと渡す。
「ねえさまは、本当にだいじょうぶ?」
『大丈夫でないからといって、誰かが止められるのか?』
その異質な声に幼子が首を横に振る。
「ちづるを不安がらせるな」
言葉を置いて、ヌイは着慣れない衣装を乱すことなく背を向ける。
幼くても、ちづるは置いていかれる意味を知っていた。
置いていくほうが安全だと思えば置き去りにされる。
まして此処はヌイの家で、ちづるの父親が傍にいる。
ヌイが此処から出て行けば危険なのだと知っている。
けれど、それを止められないことも解っていた。
「ねえさまっ!」
呼び止めたくて、声をかければ笑みを浮かべて振り向かれた。
「良い子にしていたら、土産でも持って帰ってくる」
泣き出したいのを堪える。
あんな風に言いながら、いつも返り血まみれで帰ってくるのだ。
野の花などを気楽に土産だと渡されながら
帰ってきてくれるだけで良いと何度も思った。
「早く帰っていらしてね」
「心がけておく」
カラリ……という音と共に、艶やかな衣装を着た女は暗がりの中へと消えていった。
あてもなく歩いても仕方はない。
まずは、人目につくような大きな通りを歩いてから何度か小道へと入って様子を見る。
艶やかな、いかにも良家の娘という風情の娘が少し急ぎ足で町を歩いて過ぎ去っていく。
ときおり照らし出される白い顔が、あまりに美しくて
たまたま行き逢っただけの蕎麦屋が振り返る。
「何処の箱入り娘だか、噂も知らないのかねぇ」
ここ数日、毎晩のようにやってくる常連客に話しかける。
客は蕎麦代を置いただけで、何も言わずに立ち去った。
気配は、随分前から気付いていた。
気付いていると解らせることの方が都合が悪かったから
ただ夜道に怯えるような足取りで歩いたに過ぎない。
それでも、あからさま過ぎるほどに付けて来るとなると少しばかり足を速めてみる。
相手は、気配を感じさせることで道を選ばせる。
人通りの少ない場所へと、より暗い場所へと気付かれないよう選ばせる。
なるほど、慣れた手口のようだ。
小さな稲荷神社への石段が見えて、その先に開けた場所はなかったと思い出す。
着慣れない衣装なのだ。
出来るだけ不利は避けたい。
石段の手前ならば、祭祀などがあるたび市が建つ広場だ。
これだけの場所があれば充分だと立ち止まる。
出来るだけ静かに、相手の気配に気付いていることすら気付かせぬくらいに静かに俯いたままに立ち尽くす。
背後から見た姿は、ただ途方にくれた良家の娘だ。
薄闇にも浮かぶ灰桜色に鮮やかに鶴が描かれた衣装。
鳩羽紫の帯がキリリと文庫に結ばれている。
大切そうに抱いているのは、届け物だろう。
何か物思いに沈むように、うなだれているように見える。
道に迷ったことだろうか。
誰かに付けられていることに怯えているのだろうか。
追いながら見た白い顔は美しかった。
今までの娘とは格が違う。
着ているものも、その姿も、上質のものだ。
―あれを汚したい……―
素早く駆け寄り押し倒そうと手を伸ばす。
だが、そこに居るはずの娘は遥か後方に身を翻していた。
手に持った袋の紐は解けて、長い柄が見えている。
前身の裾を当たり前のように、するりと帯に挟み上げて
片手で抜き放った長い得物が微かな星明りに鈍く光る。
「驚いたぞ。てっきり当たり前の人間だと思ったのだがな」
目の前にいるのは、ただの人間とは言いがたかった。
背丈といい、その太い腕といい、尋常ではない。
その上で、あれだけ気配を消して追ってきたのだ。
「な……に・も・の……」
驚いているのは男のほうだ。
大きな身体でありながら、俊敏に動ける身は今まで狙ったものを取り逃したことなどなかった。
それだけではない。
この姿を見ただけで、女でなくても怯えて逃げる。
それが、この女は哂って見据えてくるではないか。
「見ての通り、少しは知られた武家の当主でな。
お前などにウロウロされると、私は居心地が悪いのだ」
哂われることに腹立たしくなって腕を伸ばす。
それが何も掴んでいないと感じたときには伸ばした腕は地に落ちていた。
「だぁぁっ」
怒りのままの体当たりは成功したと思った。
足は速い。
自信がある。
薙ぎ払っただけの刃が胴を裂いていた。
倒れた直後には石突で背の骨を砕く。
返り血を浴びた白い顔に笑みが浮かんだ。
「証人、見ての通りだ」
血を払うと刃を地に向け帯に挟んだ裾を直す。
袂から出してきた手ぬぐいで血を拭う間に、声をかけられて気まずい思いをしながらも男は出てきた。
「確かに……一部始終をみていたよ。
出る幕、なかったなぁ……」
陽気なはずの男は、少しばかり残念そうだ。
この数日、捕まえてやろうと探し回っていたものを目の前で倒されてしまった。
やはり、この従姉妹に話したのは失策だったか。
「真之介が片付けたかったなら女装でもしたら良かったんだ。
蕎麦なんぞ、食らっている間があるなら考え方を変えればいい」
「馬鹿を言え。相手は生娘しか狙ってこないんだぞ」
捨て置いたままだった長い袋に得物を収めると笑ったままで女は近付いてくる。
「こいつは、そんなのは見分けては居なかった。
ただ若い女が、こんな時間に出歩いていれば
それだけで良かったんだろう」
見た目は異形のものだったが、妖物でないことはヌイには解る。
本物の妖物なら、家に帰れば居るのだ。
「生娘でなくってもって、千鶴のことかっ?」
「阿呆、どうしてそうなるんだ。
それに私はヌイだと言っているだろう」
何度言われても、つい呼びなれた名を呼んでしまう。
分家と本家の跡取り同士だというのに、気付いた時には惚れていた。
本家当主を名乗るからには、死んだことになっている『千鶴』という
かつての名前で呼ぶものは他には居ない。
「こいつを斬ったのは、お前だといっておけ。
襲われていた娘は逃げてしまって解らないと言えばいい」
「なぜだ?」
得物を両腕で抱きかかえ、長い振りを手の平に乗せて口元へ持ってくる。
そんな仕草は見慣れていないし、この女は幼いころから美しかった。
戸惑っていると可笑しそうに笑う声が聞こえる。
「だから、こんな格好で大男を斬ったとなれば
それこそ不自然だろう?」
「いや、それでも……お前の腕を知る者は信じるぞ?」
「私の腕を知るものが、この格好を信じるものか」
笑ったままで女は歩いていってしまう。
真之介は言い返せなかった。
あの娘は本家を継ぐことに、誰からも反対されないだけの理由がある。
他の誰も叶わないだけの腕を持っているからだ。
ただ常日頃から、馬乗り袴で男のような姿をしている。
その上、あの口調と性格だ。
「なんで、いっそ醜女になってくれないんだっ
それだけの腕で、その姿じゃあ惚れるなと言われても無理だろう!」
しゃなりと振り向いて見せた笑顔が意地悪かった。
「それなら水鏡にでも頼めばいい」
「あいつに頼み事なんかできるかっ」
捨て鉢のようになって、喚いている男を放って女は来た道を引き返していた。
「ああ、まだ居たか」
そろそろ店仕舞いをしようとしていた蕎麦屋は驚いた。
声をかけてきたのは、先ほど駆けていた娘に間違いはない。
「悪いな、何も手土産がなくて難儀をしている。
一束でいいから蕎麦を分けてくれないか」
まるで男のような言葉で銭を置く。
ふと、その手に持っているものに目が留まる。
「ああ!あんた、いつも幼子を連れている薙刀使いか?」
「ん?なんだ、解るか」
解るも何も、この女は界隈では有名だ。
十三で死んだと言われていた娘と瓜二つで同じ技を持っている。
誰もが、死んではいなかったのだと気付いている。
それでなければ、あの大きな武家屋敷の当主になど
こんな若い娘がなるはずがないからだ。
「おかしいと思っていたんだ。
恐ろしい噂があるって言うのに、えらい別嬪が駆けていたから」
蕎麦屋は、気前良く話しながら蕎麦を竹皮に包んで寄越した。
「逢引にでも行くのかと思ったけど、あんただったか。
こりゃあ、化物騒ぎも終わったか」
「このこと、伏せておいてくれ。
それでなくても、うちには本物が居るんだ」
銭を余計に渡されて、蕎麦屋は口が過ぎたと知る。
そうだった。
この女には、いつも連れている男が居る。
ただの美丈夫だと思い込んでいたら、その瞳が猫のような色をしていて驚いたのだ。
「誰にも言うな……私とて斬りたくないものを斬らずにいたい」
蕎麦の束を摘み取ると、女は笑顔で恐ろしい言葉を残す。
そろりと盗み見た後姿は、ただの娘でしかない。
それでも、あの娘が並みならぬ腕を持っているとは聞いている。
冷たい汗を拭きながら、今度こそ店を仕舞うことに専念したのだった。
「ねえさまっ」
己の屋敷だというのに、裏木戸などから入ってきた姿を縁台に座っていた幼子は目敏く見つける。
駆け寄って抱きつくと、予想通りに綺麗な衣装を血で汚していた。
「おかえりなさい」
「起きていたのか、ほら土産だ」
竹皮の包みを渡されて、そろりと中をのぞく。
「なぁに?」
「蕎麦だよ、甘いものなど店が開いていないから」
ちづるは流浪生活の中で育った。
夜鳴き蕎麦を知らないわけではない。
ただ竹皮に包まれているのは、初めてみたのだ。
「たべていい?」
「眠いのを我慢していたくせに無理をするな」
片腕に抱き上げると濡縁から屋敷へと入る。
「少しだけ、少しだけ食べたら寝るから」
「残ったのをどうするんだ」
構って欲しいのだろう。
この幼子は、まだ血のニオイがするような状態でヌイが何も食べないことは知っている。
殺生など慣れている。
慣れているからこそ、食わぬと決めているのだ。
いつものように並べて敷いた布団の上に幼子を寝かせ、共に横になってやると
安心したのか、ようやく大人しく目を閉じる。
「あのね、ねえさま」
珍しく声をかけてくる。
ちづるは、赤子の頃から寝つきがいい。
横になってから起きていることなど少ないのだ。
「ちづるも、ねえさまのようになりたい」
「刃物など振り回して楽しいと思うのか?」
小さな手が手の平を握ってくる。
先ほど、人一人を殺してきたばかりの手だ。
「逃げるのは嫌だから……」
そんな生意気な言葉を呟いて、すぐに寝息を立てている。
こんな血にまみれた姿に憧れるのだろうか。
いつも背に庇い、血に汚れることの無い様にと斬りあいになれば遠くまで駆けて逃げるようにと教えた。
それを不満に思うようになっているのだろうか。
血に汚れた白い足袋を脱ぎ、重い帯などをほどいて
もう着られないだろうと思うほど返り血を浴びた衣装を畳む。
これを作らせた母は、こんな風になると思っただろうか。
記憶に無い実母の思いはわからない。
「着るはずだった千鶴ならば、こうではなかったのだろうな」
ならば、この結果も仕方が無いのだろう。
そう答えを勝手に出して、灯りを消す。
ふいに背に感じる気配。
疲れていただけに反応するのも面倒だった。
『今宵は妙に、しおらしいな』
「ちづるを一人にして、何処に居たんだ」
代償を受け取っておきながら、約束を違えるとは思えなかった
『気になるのか?』
耳元での囁きに付き合いきれず、そのまま己の布団へと入る。
その背に寄り添ってくるのは、既に慣れたものでしかない。
「お前の約束が、そんなものなら気になどならない」
この妖物との約束を守ろうとするのは、いつも己の方だ。
相手が同じように守ってくれるなどとは思ってはいない。
ただ……
願いに代償を支払えば、この妖は違えないと思っていた。
それが少しばかり気に入らない。
『ちづるが、私が傍にいるというのに
池に向かって願掛けなどするからだ』
「ちづるが?」
我侭を言わないような子に育ててしまって気にはしていた。
何を願ったと言うのだろうか。
『仕方が無いから池の中にいた。それだけだ』
「ちづるは、何を?」
『強くなりたいのだそうだ』
つい先ほど聞かされたばかりの言葉が蘇る。
―逃げるのは嫌だから―
当たり前の少女になってくれれば良いと願っても本人は、それを願っていないのだ。
『そう願うことが、既に強い証だと答えておいた』
「……そうか……」
確かに、そういう答えでいいのかもしれない。
ぼんやりと眠ってしまった幼子に見入る。
背から感じる気配も同じように見ているのだと思っていたら唐突に抱き寄せられた。
「水鏡?」
声をかけても、人でない男は何も答えない。
ただ髪だの、耳だのと口付けてくるだけだ。
何を理由に今さらに色事に及ぼうとするのかは解らない。
何故、嫌だと思いつきもしないのかも解らない。
解らないままでも、素肌に触れられるなど初めてだ。
ヌイの手刀は、まともに食らえば一突きで大の男を殺す。
そんな女に手出しするものなどいなかった。
だから、素肌の上を触れられていてもただ不思議で仕方が無かった。
普段なら着の身着のまま、馬乗り袴などで寝床に着くのに
先ほど艶やかな衣装を血に汚してしまって脱いだばかりだ。
魔除けだと言われる緋色の長襦袢は、この妖には効かないらしい。
肌蹴た胸に唇が這う。
素のままの脚を人でないものが触れてくる。
解らないままの感覚を、ぼんやりと考えていると
そのまま手を差し入れられて、無意識に放った攻撃はかわされた。
「ちょっと待てっ」
『もう遅い』
唇が重なる。
覆いかぶさってくる身体は、人の姿をしているだけの妖物だ。
何度も斬りかかって、勝てないと思い知らされた相手だ。
未だに、この男の振るう重い剣を扱う技量は羨ましい。
己の身体の中に這入ってくるもの
知らない痛みは、刃で斬られたものとは違う。
ただ、それでも今さらに抵抗する意味はないと思えた。
知らない感覚に囚われながら、訳も解らずに伸ばした腕は
覚えの有る手の平に掴まれる。
湧き上がる感覚がわからない。
ただ抑えきれずに身体だけが反応する。
それが快楽だと気づく頃には、何度も同じ感覚に襲われていた。
身体が熱い。
よく解らないままに、抱かれているというのに
歯向かう気にはなれないままだ。
「ああ……なんだ……そういうことか」
腕の中で女が呟く。
乱れた髪で表情はわからない。
ただ、しなだれかかってきた身体は常の覇気が無い。
「情けないな、私は……」
知らずに流れる涙に、己自身が驚く。
あやすように背を撫でる手に、この人でない男は
とっくに気付いていたのだろうと思うと可笑しくもあった。
「これが、お前のいう頃合か?」
『年頃になるのを待っていただけだ。疎いにも程が有る』
ごく当たり前に考えれば惚れているのだろうとは思っていた。
それを自覚できないのには理由があった。
「義母が惚れた男に惚れるというのは、些か気が引ける」
『それは遠慮ではなく、ただの悋気だ』
そういうものなのだろうか。
それほど己は器の小さい人間ではないつもりだ。
『ならば問うが、この先 あの女と同じように
子が欲しいなどという願掛けがあったら如何する』
どうするのだろう。
この妖の性質は、鏡のようになった池などに
意味のある言葉をかけられると節介をやきにいく。
願いが叶えば代償を勝手にもって行く。
その性質を止められるとは思えない。
解らないままでいると、いきなり身体が離れて行く。
「水鏡?」
機嫌でも損ねたのかと思うほど、この妖物の目が哂っていない。
金の瞳で、あらぬ方向を見つめたままだ。
『先だって、声が聞こえて会った者と同じ声だ』
ああ、あの時は珍しく帰りが遅かった。
『一人は寂しいと泣く女だ』
つくづく、この妖は誑かす気も無く、女を誑かす。
願掛けがあったなら仕方も無いのだろう。
乱れた衣装を直して、そのまま横になると
不機嫌そうに背に寄り添ってくる。
「いかないのか?」
『私だって居たい場所くらいはある』
そういえば、傍に置けという条件を受け入れている。
この妖は傍から離れたがらないのだ。
『ヌイが願いすら言わないから困ることになるのだ』
「願い?」
しばらく思考する。
ふと気付いて、その金の瞳を見る。
「水鏡、お前の居たい場所に居たらいい。
それが私からの願いだ」
『ヌイ……せめて行くなと言えぬのか』
そう言われても、思いつかなかったのだから仕方が無い。
「居たい場所に居ればいいだろう?
どうせ、私は人でしかない。
いつまでも傍に居て欲しいなどと思うには無理がある」
『言ってこられたから困っていたのだ』
そういうことを願うものも居るのか。
願ったところで、人はすぐに老いて死ぬ。
そんなものの傍に居続けるには、水鏡の性質は厄介だ。
「それなら、付け加えておこう。
願をかけられたからといって、簡単に人と子を作るな。
人は異形のものの子など育てられないと知っているんだろう」
『ヌイなら育てるだろう?』
ちづるを育てたのだ。
そのことだけは、否定のしようが無い。
『素直に他の女を抱くなといえばいいものを』
「私が、そういう事を思いつかないと解っていて要求するな」
微かに哂う声が聞こえる。
腕が回されて、抱き寄せられる。
『人にしておくには惜しい女だ』
答える言葉も見つからず、その触れている暖かさだけを感じている。
人であっても、そうでなくても
どうせ、己は人から恐れられている。
恐れられることに慣れている。
今さら、そんなことは気にしても仕方が無い。

5
最終更新日 : 2011-05-20 13:39:58

再会

大きな武家屋敷だった。
勝手知りたるとばかりに、主は木戸を開けて入っていく。
「戸締りなどしないんだよ、ここの当主は」
なんとも無用心なことだ。
主について、手入れもされていない広い庭へと出ると、どこかで見たような立ち姿が見える。
長い黒髪を一つにまとめ、馬乗り袴などを身につけている。
片手でクルリと得物を回すと、こちらにやってくる。
「久しいな……小次郎」
「あ、あんた、やっぱり!」
以前に出会ったときは、紅い髪をしていた。
今の主から聞けば、思っていたような恐ろしいものではなかった。
「とにかく人を雇おうにも、誰も居つくわけがないからな
お前、真之介のとことウチなら どちらで働く?」
「はたらく?」
小次郎は、周囲の荒れたままの広い屋敷を見る。
これでは化物屋敷だ。
「全く、たまに頼りにしてくれると思ったら指名付だ。
小次郎、いず共々に働いてやってくれ。
ウチの本家は、当主がこんなだから人が寄り付かない」
それは解る。
この女の恐ろしさは身をもって知っている。
それでも、決して悪人ではないとも知っている。
「真之介、私のせいだけにするな。我が家には、本物の妖が住み着いている」
『いつまでも、妖、妖と言わずとも良いだろう』
いきなり女の背に触れるように現れた男に小次郎は驚きのあまりに声も出なかった。
「怯えなくても良いぞ、小次郎。
こんな昼間っからウロウロしているものに怯えて如何する」
虚勢をはって、片恋の相手に言われた言葉を真似てみる。
また笑われるかと気にしてみたが、意に介せぬと見える。
「屋敷は、こんなだが給金は支払うぞ?
私は出稽古など付けてやっているから、真之介より稼いでいる」
「それは仕方が無いだろう?
ち……ヌイは、親戚付き合いを俺に押し付けているんだから」
くすりと笑う顔に見惚れる。
あんなに恐ろしいと思っていたものは、なんだったのだろう。
「親戚共が、我が屋敷を恐れて近付かないからだろう。
私は、いつでも来いといっている。
戸口も開け放っているのに、誰も入ってこないのだから仕方が無い」
「ヌイは本気で怒ると怖いって、誰もが知ってるんだよ。
おまけに、コンナモノを置いてて来る奴がいるかっ」
コンナモノと主が指し示した相手。
ヌイの背に触れるように立つ男が気になって仕方が無い。
現れ方には驚かされたが、姿は恐ろしいと思えない。
ただ……不思議な声だとは思った。
「小次郎?」
濡縁から身を乗り出している幼子が声をかけてくる。
昼寝でもしていたのだろうか。
眠そうに目を擦りながらも、こちらにやって来た。
「今日は、牛はいないの?」
「ああ、お武家様のお屋敷には置いていただけなくてなぁ」
寂しそうな声に、ちづるは不安そうにしている。
「いや、小さいちづる……別に手放させては居ないぞ?
ただ他所へ預けているだけなんだ」
「小次郎の言うことしかきかない牛なのに?」
「そうは言うがな……我が家に置けないのだから……」
益々、悲しそうに見上げてくる幼子に真之介はうろたえる。
この幼子は、年のわりには口達者で困るのだ。
「だから、ウチに置けば良いと言うのだ。
庭の隅にでも小屋など建てればいいじゃあないか」
「ウチに来るの?」
途端に嬉しそうに小次郎を見上げる。
小次郎とて、家族同然の牛と離れて居たくは無い。
「本当に、よろしいんで?」
「今さら牛が居たところで、別に誰も驚かない。
ちづるが気に入っているのだから、可愛がってやればいい」
此処の当主だと言う女は、姿が変わっても言葉は同じだ。
奇異に見られることなど気にしないのだ。
「いつ?いつ牛はくるの?」
「私は直ぐにでも働きに来てもらいたいのだがなぁ。どう思う、水鏡」
背に立つ男に声をかける。
女の耳元で何か囁いている。
女は、可笑しそうに笑っているだけだ。
「なんだ?ヌイ、どうしたんだ」
騒がしく問いかける真之介の声すら、笑って聞き流す。
「池を汚すなと言ってきただけだ。気にするな。
来る気があるなら、さっさと小屋を作れ。
真之介、牛と妹を連れてきてやってくれ」
言葉は優しいが、断れない気迫がある。
小次郎は落ち着かずに、真之介を見る。
「解るだろ……此処に誰も働きに来ない理由」
確かに、これだけの古い大きな屋敷で使用人が居ないなどおかしい。
それでも、雇い主の性格を知る小次郎には納得も出来る。
「では、明日からでも宜しいんで?」
「そうしてくれ、部屋なら用意しておく」
用は済んだとばかりに背を向ける。
ああ、この女は姿かたちなどに関係なく態度は変わらない。
確かに僅かでも、この変わった女に慣れた者でなければ勤めもできるわけもないだろう。
そんな些細な理由で雇われ先が替わって、妹のいずとともに
近辺では一番の大きな武家屋敷に勤めることになった。
家中がほこりまみれで驚かされ、さらに使用人部屋だという与えられた部屋の上等な内装に驚かされる。
畳を敷いた部屋で眠ったことなど無い。
「いずは台所に近い部屋に住んでくれ。
それとな、二人とも勝手に湯を使っていいから屋敷の中にあるものに着替えておけ。
そんな格好でウチにいたら、化物の餌だとか言われるに決まっている」
どれだけ放置されていたのか知らないが使用人のためだとしか思えない狭い風呂場はある。
かつては豪勢な家だったのだろう。
「あの……お屋敷の何処にあるものでしょうか?」
この女に初めて会ったばかりの、いずには解らないことだらけだ。
「何処でもいいさ。動きやすいものならいいんだろう?
私も、ちづるも、あちらの大屋敷でしか暮らしていない。
他の渡り廊下の向こうだとか、離れだとかは見てもいない。
掃除ついでに、着る物くらい探しておけ」
呆れるほど、この女は屋敷を放置している。
何に使うのか、見慣れない一尺ほどの棒を持った
馬乗り袴姿の女主は、使用人さえも放任するつもりのようだ。
「あのぉ、先日の旦那さまは?」
挨拶くらいはしておきたい。
何より、いずは見慣れていないから驚くはずだ。
「だから、アレはそういう者じゃあないだろう。
そんな呼び方をしたら、あの妖が喜ぶだけだ」
「あやかし?」
不吉な言葉に、いずは不安そうに兄を見上げた。
それでなくても、化物屋敷のように荒れた屋敷なのだ。
『解っているなら、素直に認めればいいのだ』
聞こえたのは、あの異質な声。
誰も居なかったはずの女の背後に美丈夫が現れる。
「せめて初対面の若い女にくらい、当たり前の現れ方をしてやれ」
『ヌイが、まるで私など居ないかのように言うからだ』
背から腕を回して、この恐ろしい女を抱きしめる。
片手に持った棒は男が腕ごと押さえている。
なるほど、アレは刃が無いだけの武器なのか。
「に……にいちゃ……」
「うん、慣れれば平気だからな」
すがり付いてきた妹に声をかける。
本当は己だって、まだ何も知らない。
ただ知っているのは、この女が恐ろしいと感じさせるほどの人間で
まるで夫婦にしか見えない美丈夫が人ではないと知らされている。
どちらも恐ろし気ではあるのに、害は無い。
ないどころか、この女に出会ってから小次郎の生き方は豹変した。
前の屋敷では、百姓仕事と牛飼いしかしたことがないものだから馬草を運ぶ程度でしか仕事は出来なかった。
妹のいずは、攫われた後は遊女だった。
二人は役立たずで居心地の悪い分家から、好んで呼び寄せられた。
「いず、怯えなくても何もしない化物だ。
そうだな、池などが鏡のようになったときに
話しかけたりしなければ この男はなにもしない」
女の声は何も変わらない。
背後から抱き寄せられ、首筋に口付ける妖を無視している。
「私はヌイ、この屋敷の当主を任されている。
今は昼寝をしているけど、ちづるという幼子が奥にいる。
この妖は水鏡とか名乗る節介焼きの妖物だ。
見ての通りの仲だから、ここが化物屋敷というのは嘘じゃない」
そんなことを潔く言い切られては、何も言い返せない。
何より小次郎と妹の二人には、他に行く場所も無い。
どうしようもないからと思い込んで始めた古い屋敷での生活。
それが予想していたようなものでないことは数日でわかった。
此処は仕事が多いだけで待遇は恐ろしく良い。
食い物など、主たちは何を出しても文句を言わない。
着るものは本当にきちんとしたものを着せられるし
仕事が遅くても、出来が悪くても小言など言われたことも無い。
たまに出かけたと思っていると、大金の入った袋を投げ寄越される。
必要なだけ持っていけということなのだそうだ。
「やましい金じゃあないからな」
冗談めかしながらも女主は待遇の良さに戸惑ういずに気遣って、そういうことを話すのだ。
この屋敷には、人は入ってこないが文だけは頻繁に届いている。
聞けば、どれも挑戦状だの、稽古を付けて欲しいだのという
いかにも武家当主らしい文だとわかる。
そういうことの代償に、金を貰うのだという。
「稼ぎがいいというのは、本当だったんですねぇ」
「当たり前だ。分家と同じに思うな。
だいたい、その金額だって相手が勝手に渡してくるんだ」
手渡された給金の多さに驚きながら、いずが呟くと女主は事も無げに答える。
『待ち伏せした男二〇人を昏倒させたんだ。
道場主は、その金額でも少ないと思っているぞ』
いつものごとくに、女の傍には人ではない男が寄り添う。
いずも、いい加減に慣れてしまった。
声は聞き慣れないが、並んでいる姿は睦まじい夫婦にしか見えない。
「あんな殺気だらけで隠れていても意味がない。
稽古だというのに、得物を持って来いなどというから最初から変だと思っていたんだ」
聞かされてはいたが、本当に恐ろしいと思わせるだけの
腕を持つ女なのだと、いずは理解した。
「元気そうじゃないか!」
突然の声に驚いて、いずは戸口を見つめる。
見れば、以前の雇い主である。
「お出迎えもしませんで、申し訳ありません」
「あ……いや、いず……此処はそういう場所じゃあないだろう?」
慌てて居住まいを正して頭を下げると、決まり悪そうに言い返された。
思えば、主でさえ出て行くときも、帰ってきても
気付かないままだから、挨拶などした覚えはない。
「小さいのは?饅頭を持ってきたんだ」
「お前の目は、どうなってんだ」
言われて指し示された方を見ると、幼子がお手玉をしている。
ただ、その動きが余りに正確で規則正しいから
それが生きたものの動きだとは思わなかったのだ。
「ちづる、いい加減にして挨拶くらいしなさい」
「あ……」
集中していたのを、呼びかけられて驚いたのか
パタパタパタと鮮やかな色の玉が八つも落ちてきた。
「真之介、おひさしゅうございます」
ぺこりと頭を下げる仕草が愛らしい。
「驚いたな、さすがに本家の娘だ」
真之介は覚えている。
ヌイも、こうしてお手玉をしていた時期があった。
投げる玉の数が多いだけでなく、宙で扱う様も鮮やかだった。
今思えば、素早い動きで長い得物を扱うのだ。
色鮮やかな玉など、自在に操れるはずだ。
「ちいさいの、饅頭を持ってきたぞ」
「おまんじゅう?」
受け取りながらも、包みを眺めている。
上等の菓子屋のものなのだろう。
桐箱などに入っているから、ちづるには何だか解らないのだ。
「母さま、食べてもいい?」
膝の上に菓子折りを置いたまま、尋ねる言葉に真之介は奇異に思う。
「食べ過ぎるんじゃあないぞ」
「あ、じゃあ御茶を淹れますね」
いそいそと使用人らしく出て行くいずを見送りながら
真之介は落ち着かないままに座り込む。
「小さいの、なんで母さまなんだ?」
「ちづるは母さまが欲しかったの」
それでは、訳がわからない。
確かに育ての親ではあるだろう。
それが、急に呼び方を替える意味が解らない。
「おい、妖……まさか……」
従姉妹に尋ねても、どうせ解るような説明はしてくれない。
そのくらいには理解している。
だから、恋敵で今も従姉妹に寄り添う人ではない男に尋ねた。
『この女を抱くのには、難儀なコツが要るんだぞ
少しでも間違うと、色事が斬りあいになる。
ヌイは、どうも同じものに思っているとしか思えない』
「いくら疎い私でも、斬りあいと同じに思うわけないだろうが」
いきなり空気の裂ける音がしたが、その腕の棒は妖の手に捕まえられていた。
この従姉妹は、室内でも棒切れを持ち歩く。
ただの棒切れだと思っていたら、気合で骨を砕く腕の持ち主だ。
その目に見えぬ速さの動作を止めたのだ。
「いや、それはないだろう。
俺は知っているぞ。この女は疎いどころじゃあない」
一〇になるか、ならないかというころから、ひたすら想いを告げてきたのだ。
色恋にかけては、並みの男以上に疎いのだと思っている。
「だから、疎いということは認めているだろう。
惚れた相手に、惚れているといわれても解らなかったんだから」
顔色も変えずに、当たり前のことのように言うのは、いかにもこの女らしい。
「俺以外に、ヌイみたいな怖い女に惚れたと言って来るもんかっ」
「だから、人ではないコイツになるだろう?」
確かに他にはいないだろう。
夫婦仲になっていておかしくない時期に、何もないと言い切られて
相手は妖物なのだから、そういうこともありえると思い込んでいたのだ。
どうやら、さすがの妖もヌイの疎さには手を焼いたらしい。
「ヌイ……本家を化物屋敷にするのか?」
「気に入らないなら、お前が継げばいいんだ。
私も、ちづるも、流浪生活に慣れている。
水鏡にいたっては人でさえない。追い出せばいい」
それが出来るなら、最初から呼び戻したりはしないのだ。
親類縁者が恐れて近付かないから、真之介は暇を見つけてはこうして様子を見に来ていた。
何もなければ、何もないと言いきれる。
それが、こうも堂々と夫婦仲になっていると告げられてしまった。
「まぁ、相手が悪すぎたよな……
扱いきれない女だから、いずれ俺が適任だと思っていたんだけどなぁ」
「それは世間体だろう。私は知らない」
この従姉妹相手に、世間体など話しても無駄だとは思う。
思っても、他に言葉は見つからなかった。
「せめて、他の男なら真剣勝負でも挑むんだけどなぁ」
『相手くらいはしても良いが』
何もなかったはずの男の片腕に、見慣れない形の剣が握られていた。
これで、従姉妹と斬り合っている姿は見慣れるほどに見ている。
この従姉妹が、何度も負けを認めているのを聞かされている。
真之介にとって、どうやっても追いつけない従姉妹を
あっさり負けだと認めさせる技量を持つのは
人ではないのだから仕方が無いのかもしれない。
「いや、止めておく。
そんなことをするなら、夜中の池にヌイを嫁にくれと願掛けする」
「阿呆、代償に何を持っていくか解らんからこその
化物なんだぞ。だいたい夜中に水鏡が出て行くもんか」
素っ気無い返事を従姉妹から返されてしまう。
そのうえ不機嫌そうに顔を背けられる。
「夜中でもなけりゃ、普通は鏡のようにならないだろう?」
『だからこそ、ヌイは悋気を焼いて傍にいるよう言ってくる』
「はぁ?」
本来の性質を無視する妖怪より、従姉妹が悋気を焼くなど想像できなかった。
「ヌイが?この女が?」
「真之介、口が過ぎると斬るぞ」
顔を背けたままの、低い声での恫喝。
つくづく恐ろしい女だと思う。
斬ると言い出して、聞き流していたら本当に斬りかかられるのだ。
そんなだから、親類縁者は近付かない。
『そう照れるようなことでもないだろう
いつまでも、子供のように拗ねるなというのに』
「そうそう簡単に変われるもんか」
どう見ても殺気を放つ従姉妹を、照れているのだという妖も、
それも認めているとしか思えない従姉妹の様子にも真之介は、驚くよりも信じられなかった。
そんな会話を聞こえていなかったのか、するりと戸口が開いていずが茶を持ってくる。
「お嬢さん、包みをほどきましょうか?」
「大丈夫、自分で出来るから。ありがとね」
いずは真之介の家で教わったとおりに客人から茶を置いていく。
どう考えても、ここの主はそういうことを気にしないはずだ。
幼子が、器用に包みを解くのにも呆れた。
「いず、此処に慣れてしまって世間の常識を忘れるなよ」
「あたしは……真之介さまに助けて頂かねば 此処にも来られなかったんです」
ほんのりと頬を染めて言う。
「だから、あれはだな……」
いずを探そうと思ったのは、この従姉妹に近付きたかったからだ。
武芸の技量だけではない。
生き難い生き方を、何事も無いように歩いていく姿に憧れた。
その背に追いつきたかった。
「理由などいいんです」
そういわれると悪い気はしない。
人助けを出来たと思うと、少しでも良い気分になれる。
「なんだ、いずはウチより分家の方が良かったんじゃないか」
「なんだよ、それ」
詰問のように言葉を放っても、返事はかすかな笑い声だけだ。
この家の当主は、幼子に箱から菓子を取り出す作法を教えるのに忙しいらしい。
きっちり懐紙まで出してくるのだから、本来は女らしくも出来るのだ。
得意は薙刀だが、武道は才があったとしか思えない。
ただ厳しく躾けられて、女の習い事さえ怠っていなかったと知っている。
そんなだから、艶やかな着物でも身のこなしは変わらなかった。
「叶わぬものを思うより、思われていることに気付け。
私は己自信のこととなると疎いが、他人の心の機微には敏いんだ」
「あの、ヌイさま……」
笑うヌイを止めようと、いずは慌てた。
本当に他人のことには敏いらしい。
「身分違いだとか気にしていたら何も出来ない。
この阿呆は、体当たりでもしないと私を思い続けるに決まってる。
そんなの、迷惑以外のなんでもないから打ち明ければいいんだ」
話しながらも、視線は幼子を見ている。
菓子を食べる作法を教えているのだ。
たしかに、その姿は姉というより母のようだ。
「迷惑は無いだろ?化物相手にしていたって
いつ消えるか解ったもんじゃないじゃないか」
「消えたら探しに行くから構わない」
迷うことなく答えられて戸惑う。
どんなことでも決めてしまったことは、この女は引き返さない。
「第一、その妖は代償を払えば願いを叶える。
下手な人間の約束事より、信じられる」
きっちり畳んだ懐紙に乗せた饅頭を、いずの目の前に差し出す。
どうして良いのか解らずに居ると主は笑っている。
「真之介からだ」
「あ……ありがとうございます」
差し出した両手に乗せる仕草も慣れたものだ。
「使用人に客の土産を渡す主の方がいいだろ
ウチじゃあ、どうしても使用人同士で苛めていたから此処の方がいい」
「なら、頻繁に会いに来てやれ」
無茶を言う。
真之介だって、いずの態度で気付いていた。
それでも想いは、従姉妹にしか向いていない。
此処に来るのは、その片思いの相手に会うためだ。
「とにかく惚れただとか、なんだとか、私に言うのは
もういい加減にしておけ。
言葉で言われても、私は解らないんだ」
立ち上がったと思ったら、元のように人ではない男の傍に座っている。
確かに、それだけ態度で示せるなら言葉などでは通じないのかもしれない。
「妖が、どうやって口説いたんだよ」
『口説いて通じないと、ヌイ自身が言っている』
異質な声を放ちながら、寄り添う女を抱き寄せる。
気にもならないのか、幼子を見ているだけだ。
「なぁ、いず……」
「なんでしょうか?」
少し前までは雇い主だったのだ。
今の気安い女主より、どうしても居住まいを正してしまう。
「今度、芝居でも見に行くか?」
「え……?あの……真之介様?」
笑う声が聞こえている。
よりにもよって、寄り添った二人が可笑しそうに笑っている。
珍しく騒がしいはずの男が、静かに去っていくのを
気に病んでいたのは、いずだけだった。

6
最終更新日 : 2011-05-20 13:41:53

「ヌイさま、どうしてなのですか?」
いずは、大の男でさえ言い返せぬような気迫でものを言う主に
この数日『務めだ』と言っては髪結い屋に行かされたり
高級な紅を渡されたりして困惑している。
あげく、今日は細工物の櫛まで寄越された。
「真之介が誘っていただろう。
あの男の事だから、女との約束を違えたりはしない」
「そんな……あのようなことを真に受けてはいません」
この主と、ゆっくり話す機会は少ない。
とにかく屋敷の広い庭のどこかで、あの人ではない男と斬りあいなどしている。
本物の斬りあいなど間近で見たのは、初めてだったから驚いたものだ。
庭にいることが多い兄の小次郎などは、見慣れたと笑っていた。
諍いでもなんでもなく、稽古のようなものらしい。
「いずが真に受けてくれないと、私が困るんだ。
あれは惚けた男だが、決して愚かなわけではない。
今のうちに、私の方から畳み掛けておかないと策を凝らしてくるに決まっている」
話していても、こちらを向くことはない。
今日は偶々、幼子相手に手習いなどをさせていたから話す機会があっただけなのだ。
それなのに、とりつくしまもない。
「いずが考えているように、身分違いだろう。
アレは分家だけど、何しろ本家当主が私だからな。
人付き合いは本家並みに忙しい男だ。
武家などというのは、小難しいことをしたがる。
いずに嫁になれとまではいえない。
そこまで言えば、私が当たり前に生きるか
水鏡に願って、代償を払うかになってしまう」
無茶を言っているようで、解っているのだ。
だからこそ、今回は従うことに躊躇いが大きい。
「いずのために言っているんじゃあない。
私の勝手を押し付けているんだ。
あの男が私以外に目を向ける機会を作りたいだけだ。
その助力を頼んでいるんだ。
わかるか?
私は、いずの想いを利用しようとしているだけだ」
ようやく向けられた顔は、余りに凛としていて恐ろしかった。
普段が気安く、優しいだけに怖いと思わせられる。
「だからって、あいつを誑し込めとか言うんじゃあない。
そういうことで追い払えないから、困っているんだ。
いずが、いずらしく遊んで来たらいいといっている」
「遊び方など……存じ上げません」
貧しい家で生まれ育った挙句、親の遺した借金のせいで売られた。
いずに遊んでいた時期などないに等しい。
「知らないなら教わればいいんだ。
真之介は、そういうことには長けている」
それはそうだろうと思う。
思っても、気軽に受けられるものでもない。
「芝居など、私も知らないから教えられない」
そういうものには、おおよそ縁が無さそうな主である。
「見世物小屋に売ろうとした馬鹿には出会った。
まだ一三くらいだったかな」
兄からも、以前の主からも聞かされている。
この女主は、最近まで紅い髪をしていたのだと。
「ヌイさまなら、売られはしないでしょう」
「そうだな、腹が立ったから斬り殺した」
同じように売られるような事態になっても差がありすぎる。
女として、代わりになれと言われてもなれるものではない。
「とにかく、いずが嫌だろうと行って貰うし、真之介には迎えに寄越させる。
私が言い出したら、誰も止められないと知っているだろう?」
意地悪く笑顔が向けられる。
困ったことに、本当に止められないのだ。
散々に悩んだ。
悩んだ挙句、あれだけ忠告されていたものを抑えられなかった。
夕餉を運んで、すぐに庭の池の畔に立ってみる。
月が明るいが、そっと覗き込むと己の姿が映りこむ。
願わなければいい、相談するだけなら代償は小さいかもしれない。
『そんな場所に行かずとも、部屋にいただろう』
かけられた異質な声に悲鳴を上げようになる。
振り向けば、濡縁に見慣れた妖が座っていた。
「その……お部屋ではヌイさまが……」
『知らぬなら教えておいてやろう。
願掛けがあって私が出て行けば、ヌイは何をしてきたのか
何を代償として奪ったのかと気にやむ。
そのくせに、何も言わない。
あれは、私に一番近い場所に居るから解っている
私は人ではない。代償は容赦なく持っていく』
月明かりの下で見る美丈夫の目は金の色をしている。
先ほどまで部屋にいたのを見てはいた。
食べても、食べなくても同じなのだというから、いつも食事は運んでいる。
どう見ても主とは夫婦仲なのだから、妖だとしても邪険に扱うことなど出来なかった。
『そんな女だから、あれが聞いていなくても
何処で何をしてきたかを、私は全て話して聞かせる。
そうでもしないと、あの女は気に病んでいることを認められずに
また刃を持ち出してきて解決しようとする。
難儀な癖は直らないものだ』
妖の金の瞳が哂っている。
思っていた以上に、この妖は主を思いやっているらしい。
しかし、それでは己が何を話したかが筒抜けだということだ。
「アタシは、どうしたらいいんでしょう?」
『愚か者になって、ヌイの言いなりになってみたらいい。
考えるより、雇い主の言い付けだと諦めればいい。
思惑が外れれば、次の手を出すだろう。
あれを止めることなど、この私にも不可能だ』
変わった方だとは聞いていた。
しかし、ここまでとは思わなかった。
「脅せば言いなりになるのに、言いつけても聞き入れやしない。
この私に言い返すなど気丈にも程がある」
カラリ……と障子が開く。
いつから居たのだろう。
笑う主は、常の通りに優しげだ。
「悪い癖でな、私は苛々が募ると刃物で解決しようとする。
いずに逃げられたら不便だ」
冗談を言うような主ではない。
ならば、やはり諦めるのが一番なのだろうか。
そして、ふと気付く。
妖は助言をくれたのだ。
「あの……」
「早く湯を沸かしてくれ。ちづるが眠ってしまう」
主の背に、あの妖は何も言わないで付いていく。
何故だろう。
代償を支払わねばならないはずだ。
不安になったまま、それでも言い付けどおりに風呂の焚き口へと向かっていった。
金の瞳が哂っている。
「本当に節介が好きな妖物だな」
『私とて、奪われたくないものくらいは有る』
また己の欲で節介を焼いたのか。
そう思っていても、それを言う必要も感じない。
ただ、抱くように回される腕に逆らわなかっただけで、
それで構わないような気がしていた。
「お嬢さん、今日は早いな」
「うん、小次郎に会うのに走ってきたの」
小さな身体で息を切らせている。
毎日のようにやってくるが、本当は牛と遊びたいだけなのだ。
何故だか、この幼子は小次郎が自慢にしている牛を気に入っている。
「今日は何かあるのかい?」
習い事でもあるのだろうか。
早くからやってくる日は、大抵は小さいなりに用を抱えている時だ。
「小次郎には、まだ内緒」
「かなわないなぁ。母さまからの口止めかい?」
楽しそうに笑う声。
「ないしょ。ちづるは言い付けを守れるもの」
この小さな少女は可愛らしい。
利巧で、我侭を言わぬ子供だと思う。
手のかからない愛らしい子なのに、友の一人も居ないのだ。
こうして牛と遊んでいるくらいしか相手もいない。
「父さまは?」
「池の中」
これが、この少女の異質さだ。
いくら幼くても、池の中に人がいるはずがないと知っているはずだ。
しかし、実際に少女の父親は池の中に居ることが多い。
そういう類の妖なのだそうだ。
「お嬢さんは、将来に苦労しそうだよなぁ」
そんな他愛のない話をしていると、玄関のほうから人がやってくる。
この屋敷に来るものなど他に居ないから、すぐに解った。
「真之介様、御用でしょうか」
「小次郎……こんなところ、用がなければ普通は誰も来ないぞ」
何故だか、今日は元気がないように思える。
常にも増して、上等の衣装だというのに沈んだ表情だ。
「どうされたのかな……」
「もうすぐ解る」
どうやら少女は知って居るらしい。
それでも尋ねることはしなかった。
意外にも、小さいながらに口は堅いのだ。
大屋敷へと入っていく姿を見送りながら小次郎は、庭の草刈を始めることにした。
荒れ放題の庭の草は、小さな少女の背丈ほどにも伸びたままだ。
これでは化物屋敷といわれても仕方が無い。
小次郎は、あの女主に恩を感じているのだった。
「だから、早く観念して練習しておけばいいものを」
「申し訳ありません」
こうなれば、謝るくらいしか出来ない。
まさか衣装まで着付けられると思わなかった。
以前から、この女主が着もしないような衣装を持っていることは知っていた。
なにしろ着古しを頂こうと思ったら豪華な衣装ばかりで困ったのだ。
どうして普段から、男のような格好しかしないのかが不思議になってくる。
「私の衣装は、どれも重いんだよ。慣れていないと疲れるぞ」
邪魔臭そうにいうが、上等の生地なのだから重いのも解る。
こんな高価なものを着たのは初めてだ。
「どうせ私は着ないんだから、着潰してくれていいからな」
先ほどから背に回って帯を結ばれているが
この主は、着もしないのに着付けることまで出来るのは何故なのだろう。
紅梅に鶴が戯れる絵が豪華に描かれている振袖
松竹梅を織柄にした桜色の帯は、豪商の娘などの間で流行り始めた
変わり結びにされている。
いったい、いつの間に覚えるのだろう。
本人は、いつ見ても袴姿で動き回っているというのに。
「こんな上等のものを着潰すわけには行きません……」
二度と着ることすらないだろう。
「どうせ着ないといっただろう。
私が着たら血で汚す程度の事はありえるんだ。
それに袖を振る必要もないしなぁ」
「やはり他の方に惹かれることはないのですか?」
長い振りで異性の気を引くなどということはしなくとも
この主は、黙って立っていれば充分に気を引ける。
それなのに、選んだ相手が人ではないのだ。
いずには理解の出来ないことばかりである。
「水鏡のことなら訊いてくれるな。
見ていれば解るじゃあないか」
それは解っている。
解るからこそ、尋ねてみたのだ。
「いい加減、入ってきても構わないぞ」
いずの衣装換えを終えて、すぐに声を障子の向こうにかける。
そろりと隙間が開いて、覗いてくる。
「何をしているんだ。入って良いといっているだろう」
「真之介様……」
決まり悪そうに入ってくる姿は、やはり元気がない。
それでも、着飾ったいずには驚いたのだろう。
呆けたように見つめている。
「千鶴……」
「その名の女は死んだだろう」
つまらない反応に他の着物を選ぶべきだったと悔やむ。
いずの幸薄い女の美しさに、たまたま顔移りが良かったのだ。
「あ、いや……すまない。
見違えるほどなんだよ、いずだと思えなくてさ」
「馬子にも衣装と申しますから……」
恥ずかしげに、それでいて寂しそうな声のいずに真之介が慌てている。
「いや、そんなことはない。うん、こんな化物屋敷にいるからいけないんだ。
ヌイ、今日は一日かりるからな」
逃げるように背を向けて、それでも、いずの手をしっかりと引いている。
「いず、骨休めだ。遊んで来い」
骨休めになどなりそうにないと思いながらも
雇い主に言い返す術もなく、いずは手を引かれていた。
恋慕い続けた相手は、どんな気持ちでこの手を引いてくれているのだろう。
屋敷の玄関に向かっていると、草刈をしている兄が見える。
どうやら背の高い草を刈るのに夢中で、こちらに気付く様子も無い。
こんな姿を見られずに良かった……
そんな風に思っていると、見慣れた牛と戯れる幼子がいる。
ふりむいた少女は、笑って手を振っている。
「小さいの、また来る」
「ゆっくりとしていらしてね。いず」
真之介がかけた言葉に、少女はいずに向かって答えを返した。
―何処に、こんなに人が居たのだろう―
真之介に連れられて、にぎわった町へと出かけたものの
いずには、驚くことばかりだった。
そう大きな町ではない……真之介は、いつもそういう。
それでも、この人の多さはなんだろう。
呼び込みの声が、あちらこちらと聞こえて騒がしい。
その人だかりの中を、すいすいと歩く真之介に驚く。
「あ……あの、真之介さまっ」
慣れない衣装で歩くには辛かった。
着け慣れていない重い帯が崩れるのではと怖くなる。
「ああ、すまん、すまん」
繋がれた手は、赤くなっていた。
明るい笑顔で振り返られて、頬まで赤くなったことには本人は気付かない。
「何しろ正月だ。
人が多いのは解っていたんだが、こんなときだけの見世物もあるんだよ」
「お正月……?」
思えば暦など長い間見ていない。
毎日の空模様だけで暮らしてきた。
「そら、もう世間の常識を忘れかけている。
あの屋敷に居ると、盆も正月もないから気付かなかったんだろう?」
からかうような口調で言われたが、本当にそうだと思った。
あの家では、正月だからと仕事が増えるわけでもない。
ただ……思えば、衣装の柄は正月のものだ。
あの主は、何もしないだけで世間を知らぬわけではないのだ。
思わず長い振りに描かれた鶴の絵に見惚れる。
その絵柄を、真之介も見つめていることに気付いて不思議に思う。
「真之介さま、この衣装に思い入れがあるのでございますか?」
「うん……まぁ、あるといえばあるな」
少し人だかりの少ない場所へと移動すると
茶屋の軒先に座って、善哉などを頼んでいる。
「あの本家には、昔『千鶴』という名の従姉妹が居たんだ。
今のちいさいのじゃなくって、千の鶴と書く」
早々に運ばれてきた、二人分の善哉を真之介は、いずに勧めながら箸を手に取った。
「千鶴の母君は俺も覚えていないくらいに早くに亡くなられたが
一人娘のために、衣装を沢山用意したらしいんだ。
衣装贅沢な方だったのだろうなぁ
その名にかけて、どの衣装にも鶴の絵柄が入っている。
だから、それは千鶴の正月用に作った衣装なんだなって思った」
遠く空を見上げて、思い出話をする姿は何処か悲しそうだ。
そんな大層な謂れの有る衣装と知っていたら
もっと断りきれていたかもしれないと後悔が立つ。
「ヌイさまは、何故……」
「あいつのことだから、いずに似合うと思った程度だよ。
実際、千鶴より似合うと思うぞ。うん」
明るい声を立てて笑う。
その笑顔さえ、寂しそうに思えてならない。
「ヌイが言っていただろう。
千鶴という名の女は、一三のときに居なくなった。
十三参りを済ませた翌年だったよ……墓も、この近くの寺にある」
それで先ほどから、寂しそうなのだろうか。
「千鶴を忘れろというヌイからの忠告だと俺は思っている。
もう何処を探しても、あの千鶴は居ないんだ。
過去を悔やむことを嫌った千鶴が思われ続けて、喜ぶはずは無いんだよな」
真之介の思い人は、あの女主ではなかったのか?
ふと湧いた疑問に気付いたのか、真之介は照れたように笑う。
「この町に長く住む者なら、皆気付いてて知らぬ振りをしているんだ。
ヌイは、養女で本家の跡取りだ。
あんな若い女が、仮にも地方で一番といわれた武家の本家当主だ。
おかしいだろう?」
そうなのだろうか?
武家の仕来りなど何も知らない。
ただ主の腕なら、おかしくないと思えた。
「千鶴は、特別に誂えた薙刀を持っていた。
俺は刀ばっかだから、相手をしてもらう時は木刀だ。
それが、一度も勝てなかったよ。
一〇になった頃には、気合で俺の木刀を叩ききりやがった。
そんな才のある女、そうそういると思うか?」
「ヌイさまなのですか?」
思わず身を乗り出した指先が、善哉の置かれた盆に触れる。
衣装を汚すのが怖くて触ることも出来ないのだ。
「ヌイは、ヌイなんだよ。
そうでなけりゃあ、千鶴のものを全て忘れ去ったりするものか」
忘れ去ったもの……だから、着潰して良いと言われたのだろうか。
違うということになっているだけで、同じ方なのだ。
この美しい衣装は、あの主のものだが違う方のものなのだ。
「ヌイさまの優しさは、恐ろしさと隣り合わせです。
あたしみたいな女に、ここまでしてくださる意味が解りません」
「そりゃあ、気に入られたからだろ?」
当たり前のことのように答えながら、冷めかけた善哉を啜っている。
「あんなのに、気に入られたら恐ろしいことにも合うさ」
恐ろしいこと……
あの主より、その存在そのものが恐ろしいものが、あの主の傍には居るのだ。
あの助言への代償は、もう支払えているのだろうか……
障子の破れが目立ってきた。
さすがに外へと通じる場所だけは、その都度に間に合わせの修理をしていても
屋内だけともなると、ヌイにしてみてば衝立のようなものだ。
それでも、この状態を常としていていいものかと思い悩む。
障子などに向かって座り込んでいたら、すぐ隣に男が現れた。
何を考えているのか、妖のくせに松竹梅の枝を手折ってきたようだ。
「我が家に目出度いことなど何もないぞ」
『数百年と生きてきて、やっと娶る相手が出来たというのに
めでたいことではないとヌイは思っているのか?』
娶られたという意識は無い。
ただ相手が人であったなら、祝いの一つでもしなくてはいけないのだろうとは思っている。
夜毎に肌を重ねていて、何ら祝いなどしないのは相手が妖だからにすぎない。
「つくづく解らぬ妖だな、水鏡」
手渡された枝を広げていく。
まだ固い蕾の梅の花が、紅白と揃えられていて可笑しくなる。
「あとで、ちづるに活け方を教えようか」
ヌイは幼い頃に僧侶から華道を学んだ。
だから、妖などが持ってくることを可笑しく思ったのだ。
『ヌイ、ちづるを当たり前に育てたいと言いつつ
流浪の中でも、茶碗の持ち方まで教えていたではないか』
「生憎と私は、己ほどに教え込むつもりがないだけだ」
もう教えることはないと言われなければ満足出来なかった。
道を究めるにはヌイの当たり前の生活は短すぎた。
中途半端なままの習い事の数々は、死んだ千鶴と共に眠っている。
半端なままなものを教えているだけなのだから
ちづるには、たしなみ程度でいいのだと思いながら教えるのだ。
「そういえば、お前……数百年と生きているのか?」
『今さらに尋ねることではないだろう』
確かに尋ねるなら、もっと早くに尋ねるべきことだ。
それでもヌイは思考するように焦点の合わぬ目をさまよわせる。
「数百と生きてきて、人でしかない私を選んだのは何故だ」
ヌイの知る限り、この妖は願われると断りはしない。
水鏡の中で優先順位はあるようだが、基本的には願いは代償と共に叶えられる。
義母との間に子を作るくらいだから、てっきり夫婦仲の相手が
過去にも居たものと思い込んでいた。
『ヌイが人であることが間違いではないかと昨今は感じている』
「化物に化物呼ばわりされたくはないぞ」
化物だの、鬼だのと、恐れられることには慣れている。
しかし水鏡は、本物の妖だ。
聞き流せずに言い返しても、相変わらずに金色の瞳が哂う。
『その化物に惚れているのは否定できまい』
「水鏡に惚れる女なら珍しくはないだろう。
お義母さまだってそうだったじゃないか。お前は女を誑かすんだ」
否定などする気はなくしている。
ただ己だけが特別のように言われることには反感があった。
『心弱った女が誰でも良いと縋ってくるだけだ。
必ずといっていいほどに願いを叶えてやれば涙を流す。
ヌイは幼子の頃から縋る事など好まなかった。
だから、どんなに想っても話すことすら叶わぬと諦めていた』
「お前、暇潰しだとか言って私と斬りあったのは、実は気を惹くためだったのか?」
可笑しげに人ではない男が笑っている。
ヌイは人の心の機微には敏いが、妖の水鏡のこととなると
今ひとつ解らないままで過ごしている。
『惹いたつもりが、まるで自覚しないまま年頃になってしまって
ヌイの疎さには、ほとほとに手を焼いた』
疎いことは承知している。
しかし、実に巧く手を選ぶものだと感心してしまう。
水鏡に惹かれたのは、最初はその剣を振るう技量だ。
未だに、あの重い剣を自在に扱う技量には憧れている。
池から現れた妖しいものに斬りかかられて惚れるなど普通は思いつかない。
思いつかないだろうが、ヌイはそうして惹かれていった。
ずっと解らなかった惹かれる理由も、考えてみれば簡単なことだった。
「やはり水鏡は、女を誑かすことに慣れているとしか思えない」
『誑かしてなどいない。願いを叶えるだけだ』
本気なのか、冗談なのかもわからない。
言っている事は間違いではないのだ。
しかし……その結果、この妖は誑かしたも同然になっていると解っているはずだ。
「話を逸らかすのも、たいがいにしてくれ。
それだけ手を焼くような私の傍に居るのは何故だ」
『他に居ないからに決まっているだろう』
どれだけ問いかけても、本音など言わぬつもりらしい。
妖相手に、押し問答などしていても仕方が無い。
さらりと立ち上がると、小間物入れの中から鋏を持ち出してきた。
手折っただけの枝に一つ一つに手を加える。
小ぶりの緑の葉が鮮やかな松の枝振りを活かしたく思いながら
鋏は迷い無く入れられていく。
「花器など長らく見ても居ないな……何処へ仕舞ったのやら」
はじめに見たときから鋏を入れる位置は決めている。
ヌイの華道への道は、迷わぬことを目指した。
武家の跡取り娘らしいと指南してくれた僧は笑っていたものだ。
その日、いずが帰ってきたときには
珍しく玄関に正月らしい花が活けられていた。
―まつうちに 背たけは伸びて 花ほころびぬ―
―白きことをも満ち足るときに―
二枚の短冊に書かれた流麗な文字。
歌の意味など解らずとも、見慣れぬ筆跡は妖のものだろう。
歌い繋いだのが、女主だということだけは解る。
見慣れた女らしい流麗な文字だ。
花を活けたのは、幼い少女だと聞かされて、少しばかり驚く。
「華道くらいはと少々、教えたに過ぎない」
いつものように女主は素っ気無く返事を返してきた。
真之介と過ごした時間は、ひたすら居なくなった『千鶴』という
今の女主の過去が語られ続けた。
昨日までならば、女主が花を活けることが出来るなど想像できなかった。
教えられた『千鶴』なる少女は、厳しい躾を受けた武家の娘だったという。
今の気安い主は、かつてはそうした少女だったのだ。
思い人は、叶わぬ恋をしている。
解っていても諦められぬことくらい、己自身がそうだから、それはよく解った。
それでも歌などを読み合うような二人の仲は何処から見ても、既に睦まじい夫婦だ。
妖などが住まう屋敷だというのに、ひどく居心地がいい。

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最終更新日 : 2011-05-20 16:13:01


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