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第5章 戦災地図から見えるもの

第5章 戦災地図から見えるもの

 

 長谷川氏を取材した帰り道、またバイク街をテクテクと歩いた。昭和通りから上野7丁目に向けて裏道に入り、路地から路地へと足を運んでいく。昭和通りに面した場所には鉄筋のビルが建っているが、その陰に、「人が住んでいるのか?」と思うほど老朽した家々があった。間口の狭い建物が肩を寄せ合い、ビルとビルの間を埋めている。

 そんな町並みを見て、長谷川氏がインタビューの中で言ったことばが思い出された。

「あの界隈は、戦争で焼けなかったんだな」

 空襲から逃れられた理由は、偶然としか言いようがない。しかし、これとバイク街の形成が、何かの因果関係で結ばれているということはないのだろうか。

 後日、台東区立図書館に行き、戦災地図を見て思わず息を呑んだ。

 台東区全体が焦土と化したことを示す地図の中で、昭和通りと線路とに挟まれた細長い区域だけが、見事なまでにクッキリと焼け残っている。長谷川氏の言ったように、上野7町目だけが幸いにして戦災を免れているのだ。

 もし、ここが焼けていたら……と思わずにはいられなかった。御徒町のように、終戦直後から線路際にヤミ市が開かれていたら、それが商店街に発展する可能性は十分に考えられる。昭和30年代に入ってから店が集まりはじめたバイク街。しかし、その前に、もしここに商店街が出来上がっていたら、新興勢力の入り込む隙間はなかったはずだ。

「商いがやりにくい場所」と野口氏が言った上野の場末に、手工業の零細工場や間口の狭い古い家がひっそりと残っていたからこそ、バイク街という〝新しい顔〟が生まれることができたのではないのか……。

 

 

 

 昭和32年、ひとりの青年がバイクに乗って『旭東モータース』にやって来る。そして、トーハツというメーカーのバイクを買い取ってもらった。金額は6万5000円、大学卒の初任給が6500円から7000円の時代である。するとどうだろう、いま売ったばかりのトーハツが、すぐに8万8000円で売れてしまったのだ。

「ホントに、2、3分後には売れちゃったんですから。あの当時は、バイクを買い取ってくれる店なんかほかになかった。だから、友人から教えてもらって、『旭東モータース』さんにバイクを売りに行ったんです」

 青年の名は若林久治、のちの『光輪モータース』社長である。この出来事が端緒になり、若林氏は昭和33年に最初の店を構える。広さは約4畳ほど、家賃は月1500円だったという。

「いい商売だなぁって思ったんですよ。わたしもオートバイは好きだったし、こういう仕事をしてみたいってね。それで、上野でバイク屋をはじめたわけです」

 その小さな店が、現在17店舗を有する同社の1号店だった。

 

 長谷川氏を起点とした上野バイク街は、それ以後、若林氏が中心となって発展期へと入っていくのである。