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『売れない』
(野島明)


――売れない、ってね、全然。ようやく公刊までこぎつけたキミの労作、カンマを伴う分詞句について

――しょぼん。


――口で、しょぼん、かい。


――言葉で言わないとなかなかね。態度では伝わりにくい。撫で肩ではないしね。


――本当はがっくりしてないのかい。


――そんなに世間知らずではないよ。そもそも「カンマを伴う分詞句」が形容詞的要素か副詞的要素かなんて話、誰が関心を持つものかね。英語教師、語学教師の中にだってそんな奇特な御仁、そうそういるもんじゃない。「カンマを伴う分詞句」は《分詞構文》、以上、ということさ。改めて、《分詞構文》とは何ぞや、などという疑問はそもそも生じる余地がないんだ。万人にこの上なくうまい具合に分かたれてるとかいう"bon sens"とは異なり――あるいは、"bon sens"と同じように、かもしれないが――好奇心は万人にこの上なくうまい具合に、と言うか、等しく、と言うか、分かたれているわけではない。例えば、日本の大報道機関、大テレビ局、全国紙等、これをオレは《彼等》と言い習わしているんだが、《彼等》は共謀して、あるいは伝えるべき事実を伝えていないんじゃないかとか、伝えるべき事実を秘匿しているんじゃないだろうかとか、嘘かまことか定かではないような与太話を針小棒大に書き立てているんじゃないかとか、既得権益を守るためなら報道なんか知ったこっちゃない、が《彼等》の実態ではあるまいか、事実を報道せずに隠すどころか、自作の筋書きを元にしてあれこれの記事を創作しているんじゃなかろうか、自分たちに都合のいい話は記事にするが都合の悪い話は記事にしないという極めて性質たちの悪い報道管制こそが《彼等》の本業で、世論調査の名を借りた世論操作は彼らの得意技なんじゃないかとか、《彼等》にそんな疑いの目を向け、《彼等》の実態に興味を持つヒトなど殆どいないのと同じことさ。準備中の『報道媒体検証――メディア・リテラシーの実践』なんて評論集も、収録予定の最後の一篇「あいなきとても『丸投げ[outsource]』に目留むべきなり」を仕上げたら――丸々十日ほど時間が取れれば仕上がるんだが――公刊しようと思ってはいる。売れないだろうな。政財官のトライアングルはよく知られているが、この評論中で取り上げた政財官報学の「ペンタゴン」なんて聞いたことないだろ。「報」は報道媒体、「学」は学者、専門家のことだ。この「ペンタゴン」はオレの創見なんだ。面白そうだろ。 


――キミがそう言うんなら、取りあえず期待しておこうか。それにしても、誰も読んでくれないってのはさびしいね。


――『カンマを伴う分詞句について』は日本全国で百人くらいは読んでくれるヒトがいるのでは、と推測し、期待してもいるんだ。ただ、そのヒトたちにこの本の存在が伝わっているかどうか、そこら辺りだね、難しいのは。


――売る、ってのは大層なことだよ。大変な能力だね、何であれ、売れるヒトってのは。


――その手の能力は、ないね、オレには。


――あっさり言うね。売れないよ、このままでは。


――ない袖は振れんのだ。書く能力と売る能力は、政治家になる能力と政治を行う能力がそうであるように、まったく別物なんだ。政治家には政治を行う能力はないが、政治家になる能力はある、その政治家が政治を語り行おうとしたら、ない袖を振ろうとするということになる、というのと同じだよ。こう言うと、政治家は無能のように聞こえるかもしれないが、政治家になる能力というのは、いわば、幕内で相撲を取る能力みたいなもんで、そりゃ、大したことなんだ。キミ、そこらへんの砂場で戯れに相撲をとることは出来ても、並の人間に幕内の相撲取りは務まるまいよ。オレにはもちろん相撲取りの能力なぞない。土で固めたものとは異なる土俵上で取る相撲なんだけどね。白星は出世に、ここではより大きな権力につながる。こうしたことは、『政治家=相撲取り論』を読んでくれ、と言いたいのだが、ずいぶん前から覚書をかなりの分量書き溜めて、いまだ本格的に手をつけていない。きっと面白い評論になると思っているんだが。


――それなら書き上げて欲しいなぁ。いろいろ事情はあるにしてもね。身過ぎ世過ぎのための低賃金長時間現業労働に明け暮れる毎日ってこと。書くのに使える時間はごく僅かなようだから。思うんだけど、誰も読まない著作を書くなんてことより、それに翻訳もやってたよね、フランスのジュー何とかの翻訳、どうせなら何か思いっきり気の晴れることをすればいいものを、何好き好んでか、著述とやらに励んでいるというわけだ。生きていて何か面白いことあるのかい。

 

――ない。ジョゼフ・ジューベールの『断章集』の翻訳。増補改訂版だね。


――それじゃ、低賃金長時間現業労働と誰も読んでくれない著作の執筆やら翻訳に励みながら、死ぬのを待っているだけのように見えるがなぁ。


――寸分たがわずその通り。 一応言っておくと、エキスパンドブック版『ジューベール 箴言と省察』は、明らかにするのも恥ずかしい数字だから言わないけれども、ほんの少々売れたんだ。 だから誰も読んでくれない、ってのは正確じゃないね。


――その点は、うん、了解。そうあけすけに、その通り、だなんて身も蓋もない応答をされちゃ、今更返す言葉もない。話題を変えて、ぜんぜん売れない『カンマを伴う分詞句について』のことだけど。


――その強調は余計だ。そう、その著作のことだけど、あそこで展開されている論理の筋道を辿るというのは、素潜りで相当の深さまで潜るようなもので、容易なことではない。なぜ容易なことではないと言い切れるのかといえば、筆をとった当人が読み直してみても難儀だからだ。書いた当人が読んでも難しい、なんてのはいくら何でも大げさに過ぎると思われるかもしれん。この著作にかかりきりになってたころのオレは、いわば、心身ともに極限まで鍛え上げて、素潜りに挑んでいたようなものだ。無制限一本勝負てな感じで、昼夜無関係にこの著作にかかりっきりになっていたから。他の事は一切ほったらかしで、今思うと、うん、蓄えをはたいたなんてのは大したことじゃないが、失うには惜しいものも失ったな。以来、素潜りから遠ざかっているという現実と――そう、言っておかなくちゃならないが、オレの記憶力はネコの記憶力とどっこいどっこいとも言えるほどで、自分で書いたものながら、細かなところは何を書いたのか、記憶が定かではないんだ。


 

――そう言えばだいぶ浮力が増えてるね。


――ヒトに言えた義理かい。キミに言われたくないね。この間、学ぶ一方で忘れる、学ぶそばから忘れる、なんていう中国語表現を習ったんだが、オレの場合、いわば書くそばから忘れる、といったところだ。オレの取り柄でもあるしとがでもある。そう、ネコのことだけど、ネコ一般ではなく昔ウチにいたネコのことだ。オスネコだった。あいつの血はどこかで受け継がれているだろうか。ウチに閉じ込めるという時代ではなかった。ウチと外を好き勝手に行き来して、よくネズミを銜えてきたなぁ。あちこちで種をばら撒いていたんじゃないか。話を戻すが、素潜りから長い間遠ざかっているという事実とオレの記憶力がネコ並みであるという現実を足し合わせると、著者本人が読んでも……、というオレの述懐はあながち大げさではないこと を分かってもらえるんじゃないか。


 

――聞くとますます売れそうな感じはしないね。それならなおさらだけど、宣伝を考えないのかい。


――確かに、ネット上で販売しているだけ、という今の状態は、例えてみると、奥深い山の獣道の更にわき道を行くと大木があって行き止まり、実はその大木の裏にこじんまりした店があって、そこで商売をしている、といった風な感じだ。売れるどころか、客が来ることさえないよ。


――分かってるわけだね、一応。


――オレの店に客が来て、商品を購入する確率なんてのは、いわば、途轍もない方向音痴の人物がたまたま山歩きをしていて、道に迷いに迷った挙句、行き止まりの怪しい獣道のどん詰まりにある大木に行き当たり、普通ならそこで直ちに引き返すところなのに、 どうやら小用を催したらしく、その人物、何を憚ってのことか、わざわざその大木の裏に回って用を足そうとしたら、有らぬことか、間口半間ほどの店があって、明かりといえば頼りない蝋燭一本、店先には『カンマを伴う分詞句について』が堆く積まれていた、なんていうわけで、その上、その方向音痴の御仁が、何たる奇跡的巡り会わせか、分詞句に関心があって、積まれている書物の題名に「カンマを伴う分詞句」という語句を見つけ、興味を惹かれ、奇跡が重なることに、その御仁の財布にはその書籍を買い求めるに足る金銭が入っており、とうとう購入にいたる、なんて奇跡の三重奏的な天文学的確率なんだと思うね。これはつまり、宝くじに当たるほどの確率、裏から言うと、まずもって当たることはない、という蓋然性しかそこにはないということさ。これに比して、大々的に宣伝をするというのは人通りの多い一等地に店を構えるといったようなものだ。なにせ先立つものがね……。


――分かりすぎているんだ。


――うん、一応頭ではね。この著作、内内うちうちでは評判いいんだよ。ただ、ひょっとしてゼロという数字は変化の可能性を秘めた変数ではなく、定数ではなかろうかという気もしないではない。販売部数ゼロ、のゼロのことだけど。


――なんか、悟りの境地、無我の境地、あきらめの境地というか……。


――うん、滅び、を想わないではないんだ、あれこれの滅びを、このごろ。あの太陽すらやがて、そう、数十億年経てば死滅する。数年前、五六十億年後に、アンドロメダ星雲と太陽系の属する銀河系が衝突するという記事を何処かで読んで、凄まじさの極みである はずの天体の興亡の目撃者にはなれそうもない、と少々残念に思ったことを覚えている。二つの銀河の衝突が如何なる有り様を呈するのかを見届けようとしたら、せめて数億年は観察を続けねばならないだろうに。その半分の三十億年という時間は単細胞生物が鯨やヒト やネコの外見と中身へと、変化などではなく全く別の生物の出現としか考えられないほどの爆発的変化をもたらすに足る時間だ。


――その起源はともかく、地球に生命が誕生して三十億年とか四十億年とか。


――ヒトは誰しもいつか必ず死ぬからといって、生きていても仕方ないからすぐ死のうと考えるヒトは少なかろうし、ましてやそう考えた末、自ら生命いのちを絶つヒトはもっと少ないだろう。まぁ、萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」、なんて書き残して自ら生命を絶った若者はいはしたんだが。人間の一生高々たかだか七八十年と喝破して自ら生命を絶つ若者がいたら、これは衝撃だろうな。有史以来の人類の歴史を人類の年齢と見做せば、人類の年齢は現在ざっと一万歳、二万歳を迎える可能性はほとんどないと、言ってしまえば、皆無だとオレは思ってる。我らが種の寿命はせいぜい一万有余年、余命は、そう、絶滅と言うことではなく、現在のような圧倒的に優越的な地位を失い、地球上の多くの生物の内の一員となるまでということなんだが、数百年、太陽の余命はあと数十億年、宇宙の寿命とてせいぜい数百億、数千億、数兆、数千兆、あるいは数京、数百京年有余。人類も、この地球も、太陽系も 、そして宇宙についても、淡雪の中にたてたる三千大千世界みちおおち、てなところなのかな。


――ちょっとした判じ物だね、みちおおち。


――良寛の、淡雪の中にたてたる三千大千世界みちおおちまたその中に泡雪ぞ降る、の「みちおおち」。我らのこの地球世界、太陽系の属する銀河系、アンドロメダ銀河等を含むこの宇宙は小世界、小世界が千集まって小千世界となり、小千世界が千集まって中千世界、中千世界が千集まると大千世界、大千世界三つで三千大千世界、これを「みちおおち」と読ませるそうだ。良寛のこの歌に、オレが久しい以前に得た直感は何処か呼応している。この世の物質の根源 を、分子に原子に原子核に陽子と中性子へと、ついにこれ以上分割し得ない微小単位まで辿ると、この微小単位は実に小世界たる宇宙であり、この宇宙小世界にはまた数多あまたの銀河と無数の恒星と惑星が…… 。おそらく当たっているであろうとオレの信じている直感だ。


――証明されることはないだろうね。キミの直感が妄想なのか現実なのか。


――ないね。ただし、この宇宙小世界を含め、有りと有るものにいずれ訪れる滅びは現実だ。


――今生きている、ってもの現実だ。


――そう、その現実を否定しはしないが、オレの著作が売れるか売れないかってのは大したことではないとは思えている。オレがこの著作を仕上げたということに比べれば。数多く売れれば、時折脱水槽が容易には始動しなくなり、いよいよその時が来たかと思わせる数十年の年季入り東芝製二槽式洗濯機「銀河」と、内部に水の溜まるちっぽけな冷蔵庫を、それに冷凍庫が小さくてどうにも不自由してるんだ、買い換えられる。 


――この宇宙小世界の滅びなんて想像の仕様もないと思うがなぁ。


――いつか、遥か時の彼方で、宙の広がりが尽き果て、時の流れが途絶える。そしてオレたちは誰もが、一切の尽き果て途絶えた世界を、いや、無世界を体験することになる。果てしない時の彼方にあるその無世界を。なぜなら、オレたちはひとたび存在を失えば、数億年、数百億年 、数十兆年とて、須臾の間であるからだ。果てしない時の彼方において、すでに存在を失っている我らと、広がりの尽き果て、時の流れの途絶えた宇宙、もはや存在せぬ宇宙は、渾然一体となり融合し、我ら即宇宙、存在せぬ我ら即存在せぬ宇宙となる。。我らは存在を失 ってからも、楽しみは見つかろうというものだ。ただ、我らがる宇宙との一体化、融合を意識的に体験することはなさそうに思える。なぜなら我らはもはや存在しないのであるから意識も存在しな いとは、論理的必然であるからだ。しかし、体験はするのかもしれない。体験する我らなしの体験、純粋な体験を。


――どうせすべて滅ぶのだから、著作が売れようが売れまいが、読まれようが読まれまいがどうでもいい、あと数百年もすればバルザックもデカルトもバッハもドストエフスキーも吉本隆明も、一切合財、塵芥ちりあくたと成り果てるなんていう虚無主義的なというか、愚痴にもやけっぱちの捨て台詞にも聞こえないではない。なんかあぶない雰囲気になってきてるという感じがしないでもないんで、とりあえず、この辺りでお開きということで。


――これが虚無主義なものか。激烈な現実主義だ。滅びを見据えるというのは。


――やはり、あぶない。


――そんな大げさな滅びはさておき、オレ個人が滅びるとき、オレ存在の死というより滅びだね、いよいよこの世とおさらばする時、そのとき何を思うんだろう、とか想像するんだ。川っ淵の土手の上でから っ風に吹かれてみたい、とでも思うのか、とかね。


――はい、ご随意に。では、この辺で。 



(完)


この本の内容は以上です。


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