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 夏の放課後、誰もいない教室の中でぼうっとしているのが好きだ。何度も天板を張り直した机に右の頬をつけて、暮れかけた空を見ながら気の済むまでそうしている。首が痛くなってきて今度は左の頬をつけるのだけれど、そうしてしまうと見えるのは廊下と誰もいない教室だけでつまらないので、すぐにまた右を向く。日が暮れるのは早い。わたしが左を向いていた時間なんて3分もないだろうに、さっきとはもう空の色が違う。夏の6時頃の空が好きだ。こわいほどに真っ赤で、眩しくて、太陽がわたしと同じ高さで、手を伸ばせば届きそうで、だけど絶対に届かない。毎日、あ、届くかも、触れられるかも、と思っては同じ現実に気付いてどうしようもなく悲しい気分になる。
「どう足掻いてもどうにもならないことってあるんだよなあ」
無意識にそう呟いていた。
 夕暮れって朝宮先生みたいだなあ、と最近よく思う。わたしが中学3年生になった年に他校から転任してきた男の先生で、担当は数学。校長の話が長いのは万国共通な月に一度の朝会で、朝宮先生の姿をはじめて見たとき、生まれてはじめての恋をした。朝宮先生の授業は贔屓目なしにいままででいちばんわかりやすくて一回の授業で内容をすべて理解できたけれど、それでもわたしは毎授業後質問をしに朝宮先生のところへ行ったし、これは自分でも計算高くて嫌な感じだと思うけれど、わざといつまでもわからない振りをして放課後に個人的に教えてもらうこともあった。『ほかの教科は何も問題ないのに数学は苦手なんだなあ』と困ったように笑って言う先生を見ることができるなら、進んで『数学のできない子』を演じてやろうと思った。どんな勉強も苦労したことなんてないし、テストではいつも必ず90点以上取れるわたしだけれど、そのためなら頭が悪いと思われてもよかった。むしろそう思われたかった。昨日の授業の空き時間、それは嬉しそうに子供が出来たことを報告した朝宮先生の左手薬指に嵌められたシンプルなリングには、あえて気付かない振りをした。
 朝宮先生のことを考えていたらどうにもならない現実に涙が出てきて、止めようと思えば思うほど更に溢れた。朝宮先生に子供ができた、なんて信じたくなかった。あの優しい朝宮先生が、あんなどろどろでぐちゃぐちゃな行為をわたしの知らない女としているところを否応無しに想像させたからだ。朝宮先生はわたしのものでも何でもないのに、わたしはただの『生徒』なのに、どうしようもない嫉妬心が心の中に確実に巣食っている。わたしのものでない、そんなことはとうにわかっているのに、それでも絶対に認めたくなかった。認めたくないなど図々しいことを思えるような存在ではないのに。それもまた、悔しくてたまらなかった。

「有坂?」
 朝宮先生の声。慌てて身体を起こす。泣き顔なんて見られたくないけれど、そのままでいるわけにもいかなかった。どうしよう、朝宮先生は泣いている理由を訊くだろう。ほんとうのことを言えば楽になるかもしれない。取り付く島もないくらいに、断ってくれたら、そうしたら、諦められるかもしれない。涙は一向に止まる気配を見せない。一定のリズムでぽたぽたと流れ落ちる。このまま言わずに好きでいることは許されるかもしれないけれど。
 先生、先生、先生。わたし先生のことが好きなんです、夕暮れを見て先生を思いだして、叶わない夢に泣くくらいに大好きなんです。好きなんです、好き、好き、好き。授業がわからないなんて嘘です、だけど嘘を吐いてでも、あなたと一緒にいる時間が欲しかった。
 言うつもりなんてなかったのに勝手に出てきた言葉には、途中から気付いていた。止めようと思えば止めることだってできた。でももう引き返せないと思った。先生に質問をしにいくことは、もうないだろう。
「うん、わかった、ありがとう。ごめんな、辛かったな」
 俯いたまま、顔を上げることなんてできなかった。歯を食いしばって、嗚咽に耐えることしかできなかった。身体を強張らせて震えているのが精一杯だった。
「先生は、有坂の気持ちには応えられないけど、だけどその気持ちはすごく嬉しいし、有坂のこと、大事な大事な生徒だと思ってる。だからこそだ、応えられない」
 ごめんなさい、と一言呟いて泣き出した。朝宮先生は困るだろう、でも我慢できなかった。きっと永遠に朝宮先生はわたしのものにはならない。一回だけでいいから、迷惑かけさせてください。頭を撫でる手、今だけはわたしのものだと思っていいですか。

 先生のことを諦めるなんて絶対無理だと思っていた。でももうどうでもよかった。夕日が完全に沈んだら何もかも忘れて帰ろうと思った。
「先生、キスしてください。そうしたらわたし、先生のこと諦められます」
 そう言ったわたしに迷いながらもキスした先生は、わたしの好きな先生じゃない。先生がとても汚い存在に思えて気持ち悪くてたまらなかった。わたしのものにしたいと思いながらも、でも絶対に手に入らない先生がわたしは好きだったのだ。わたしの我儘になんて応えないで、そっと静かに諭してくれる先生を望んでいたのだ。耳元で囁いて去った先生の背中を見ながら唇を手の甲で拭った。辛い。けれど涙は出てこない。心の中の何かが抜け落ちたように空っぽだ。夕日が沈んだら何もかも終わり。わたしは朝宮先生とキスなんてしていない。
 また同じ体制に戻って、夕日が沈むのを待った。普段よりも遅いと感じた。いつまで経っても沈んでいかない。早く、早く沈んでよ。焦燥に駆られながら、朝宮先生のことしか考えていなかった。こんなに先生のことばかり考えるのは、それは、先生が男の目をしていたからだ。先生ではない、射精もすればセックスもする、そういうただの『男』だったからだ。はじめて目にした、先生ではない先生。まだ純粋な我が身の危険を感じたような気がして背中が粟立つ。明日の放課後、数学準備室に来なさい。その言葉が何を意味するのかわかったような気がした。先生はもう、わたしを生徒としては見ていない。キスしてください、そう言ったときから先生は男の目になった。
 自分の中に違う感情が芽生え始めたことに気付いた。今まで好きだったのは『先生』である先生。でも今は『男』である先生に惹かれている。わたしは明日、きっと先生の元へ行くだろうし、何か起こったとしても抵抗しない。何か、というのが何であるのかもうわかっている。わたしの知らないことだけれど、先生なら上手くやってくれると思うので何も心配はしていない。
 お腹の赤ちゃんに申し訳ないなあと思いつつ、夕日が地平線の彼方に沈んだのでこの恋は終わりにする。そして新しい恋が始まって、あとはもうどうなってもいい。社会的に責められるのは先生よ。何があってもわたしは知らない。無邪気に先生を庇うことが出来るほど、わたしは純粋ではなくなってしまう。
 机の脇にかけられた学校指定の鞄を手に取って、教室を後にする。教室を一歩出たところで向き直り少し前までそこにいた今までの自分と先生にお辞儀をして別れを告げた。外を見ながらいつもよりゆっくりと廊下を歩いて、履き慣れたローファーを履き、わざと遠回りをして帰る。女の子は初交痛っていうのがあるから嫌よね、という姉の一言を思いだして、痛いのはちょっと嫌だなあ、と明日起こるであろう出来事について考えていた。

この本の内容は以上です。


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