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   5'




 遊理の肌。陶器の肌。歩くだけで内側から破裂しそうに艶やかな肌。表情は薄い紗に覆われたようにぼんやり遠く、滅多に笑わない彼女は、それでも柔らかく、温かい。遊理は光だ。実体もなく空虚なもので満たされていて、その中にいる、孔弥のすべてが許される。ずっと触れたくてたまらなかった。ずっと触れたくて、触れられなかった。

 部屋の外では、雨が降っているだろう。

 部屋から雨のことを想うとき、孔弥は遊理のことを思い出す。あの日、遊理は傘を持っていなかった。そぼ濡れた長い髪が透ける頬にべったり張り付いて、そのコントラストがあんまり鮮やかなので、色彩の明度が低い景色の中でそこだけ、モノクロームの写真のように際立っていた。遊理の色、白と黒、そして灰色。遊理、ユーリ。

「何を見ているの」

 遊理の、不安定に輪郭を変える唇が動いて言う。

「私を見て」

 孔弥はその命令に従って彼女を見る。少し離れすぎた両目の間、そして片目ずつ。とび色の瞳の中央にある、黒の領域にいる自分の影。ぼさぼさの髪、無精髭、背後の真っ白な壁、シーツ、その球面に読みとれるものは全部、その目に映った遊理の姿さえ。遊理の瞳の中の孔弥が動き、孔弥の瞳の中で遊理は唇を突き出した。遊理の瞳の中で孔弥の唇が動き、

「ああ、目が回る」

 孔弥の瞳の中で遊理が瞳を閉じる。乾いた唇の温かい感触が、往復運動の環の中から孔弥を救い出す。

「目を閉じないでね」

 再び目蓋を開いて遊理は言う。

「ちゃんと、私を見て」

 私を、全部。凍りついたように動かない孔弥の唇に、遊理は齧りつく。薄い桃色についた歯型を満足して見ながら、微かに瞬きをして孔弥を視界から占め出すと、ゆっくり起き上がる。少し天辺の尖った耳を澄ませ、シーツから出て行こうとする遊理の手首を引く。

「ポットが」
「勝手に切れるよ」

 孔弥はそう言って、遊理の掌に顔を埋める。

 

   *




 ユーリ、と呼ぶ孔弥の声を、遊理は遠くで聞いた。甘ったれたように鼻にかかった低い声は懐かしい響きだった。

 孔弥に呼ばれると、遊理は身体中から喜びが溢れだし、なにも考えられなくなってしまう。孔弥以外のなにもかもが自分とは関係ないどこかへ飛び去ってしまうみたいに。髪の毛が逆立 ち、背中に電気が走ったようにビリビリしてくる。遊理は震える。孔弥の灰色の瞳と、おいしそうな赤い唇を思って、震える。

 遊理には、愛がわからない。遊理には、悲しみがわからない。遊理には、地球がわからない。遊理には、お話がわからない。遊理には、人間がわから ない。遊理には、犬もわからない。遊理には、赤ちゃんもわからない。遊理には、空もわからない。雨もわからない。オーロラもわからない。遊理の頭の中は、あの日からずっとわからないことだらけだ。

  でも、遊理は孔弥の声が好きだ。すきだ、とささやく孔弥の声が好きだ。お腹すいたと嘆く孔弥の声が好きだ。遊理は、孔弥が好きだ。孔弥にはすべてを見てい てほしい。細い睫毛の奥にある灰色の瞳で、爪先から頭のてっぺんまで、眠るまで、眠っていても。

 両脚の間に孔弥の黒い頭が沈んでいくのを感じて、少し後の濡れたような質感に身をよじって笑う。

「くすぐったい」

  孔弥は顔をあげて困ったように遊理を見る。乱れた髪、まばらで短い髭、灰色の瞳。その真っ赤な唇が遊理の太腿に触れると、無精髭が一緒になって柔らかな肌 に触れる。細かなとげが刺さったような感触に困惑したまま、遊理は孔弥の腕からは逃げられないことを知っている。どれだけ体をひねっても、その腕からは逃 げられない。遊理より少し太いだけなのに、遊理よりずっと強い。

 その腕が見事に調和のとれた力で引くので、遊理はベッドから出られなかった。だからポットを切る代わりに孔弥の腕の中で愛し合った。愛し合うときには、少しかしこまったように孔弥が遊理の中に入って来る。孔弥は優しい。少しずつ遊理を満たしてくれる。泣きそうになる遊理の耳たぶをかじる。遊理は目を閉じる。孔弥が遊理の中にいるのを 感じたくて、目を閉じる。段々、孔弥と自分の境目がわからなくなる。孔弥。

「コーヤ」

 どこに行ったの。

「ここにいる」

 遊理は目を開く。孔弥の灰色の目が映る。コーヤ、と遊理は言う。

「好き」

 孔弥の目が細く眇められ、その唇が僕も、と動く。






   2




 遊理と孔弥が同じベッドに寝るようになった日から、ずっと雨が降っている。今も雨が降っているだろう。

 部屋には窓がない。全体はひどくぼんやりしていて、曖昧な部屋の領域が茫漠と広がっている。遊理と孔弥の眠るベッド、食事をする木製のテーブルと椅子、キッチン、それぞれは確かにあって、触れることもできるのに、その全体となると、途端に覚束なかった。それでも、二人は確かに部屋の中にいる。雨の音は聞こえず、ノイズは空想のどこかに置き去りにされたままで。

 今、部屋は明るい。晴れた日曜日の遅い朝みたいに、光り輝いている。時折部屋は緩やかに明度を落とし、淡いクリーム色から、混濁したダークブラウンに、そして懐かしいあの星空の下のような、藍色の光で満たされる。部屋は遊理と孔弥を包み、守り、まどろみを与えながら養う。

 沸いたポットを放りだしてひとしきり愛し合った後で、孔弥は遊理の臍の上でうとうとしていた。全身から、背中から、頭のてっぺんまで、痺れたように心地よく疲れて泥のように眠りの中に引きずり込まれた。遊理のひやりとした肌、ぺたりと吸いつくような肌の上で孔弥はまだ幼い頃の母親と話している。心地よいせいか、孔弥はそれが胎児であることに気づかなかった。胎児はゆっくりと目を開き、孔弥に言う。

 ダ、ダ。

 目を開くと、遊理はキッチンへ行ってしまった後だった。遊理の、甘いような、少し酸っぱいような匂いが残るシーツの上で孔弥は大きく伸びる。シルクが衣擦れのきゅ、という音を立てる。音はすぐに消え、代わりにキッチンから、遊理の気配がする。部屋は大きくもなく、小さくもない。狭くもなく、広くもない。必要なものが、必要な分だけ揃い、不足も、余りもない。



   *



「ハムエッグは好き?」

 白い丸皿にぽつんと盛られたハムエッグ、目玉はひとつ、赤身のハムの端っこが焦げて、ちりちりしている。

「野菜が食べたいな」
「レタスがあるの」
「水っぽいだろうね」
「レタスは、水っぽいわね」

  遊理がそう言ってキッチンの向こうに消えている間に、孔弥がテーブルを簡単にセットする。白い皿の隣に銀色のナイフとフォーク、飲み物のためのグラス。孔弥は 冷蔵庫からミネラルウォーターとオレンジジュースを出すと、テーブルに置いて、セットを終える。ほどなく、小さなレタスを手に遊理が戻って来る。 薄緑色 の縮れた葉が載った丸皿は、少しだけ華やかになる。

「トマトが食べたい」
「そのうち見つかるよ」

 孔弥が目玉焼きを放り込みながら言う。

「近いうちにね」

 オレンジジュースをグラスについで、一気に飲み干す。




   J




 こんなふうに遊理と過ごすことになるずっと前から、孔弥は遊理が好きだった。そのとき遊理は孔弥を知らなかった。出会うよりずっと前に、さだめられた何か、運命のようなものを、孔弥は信じていなかった。遊理は、さだめられた何かはないとしても、抗えない何かはあることを知っていた。

「オーロラって見たことある?」

 孔弥が初めて遊理に話しかけたとき、彼女は答えずに問い返した。机が隠れるくらい大きな写真集の見開き一面に、赤と緑のオーロラが広がっていた。孔弥がないと答えると、遊理はまっすぐ前を向いたまま、「私、オーロラが見たい」と言う。なぜと問うと、少し顔を傾けて言った。

「わからないから、オーロラが好きかどうか」

 そして、たぶん好きだと思う、と言った。

 今二人はオーロラの下にいる。部屋のみる夢。上向くと感じる眩暈、眩暈の向こう側の空、紫色の、それとまるで世界の終わりみたいな、大きな熟れすぎたスモモ、オレンジ色の月。果ての風景。遊理がそうして初めてオーロラを見たときの感想は「綺麗ね」だった。

「とても綺麗」

 全天を覆う青緑色のオーロラを吸い込むように見上げながら遊理は言う。

「オーロラは好き」

 そう付け加えるのを忘れずに。遊理の唇のように不確定に形を失いながら色彩は遷移する。緑から赤へ、赤から濃い紫へ、そして視覚の外へ。




   3




 なんて静かなんだろう。雨の音は聞こえない。でもきっと、雨は今も降り続いている。微かなノイズを探るようにして、遊理と孔弥は目を閉じる。

「なんて静かなんだろう」

 もうずっと、静かだ。部屋の中にあるのは、遊理か孔弥がたてる音だけだった。ときどき、冷蔵庫のがたん、と身震いするような音や、ぱちん、とはじけるような音がする以外は、静かだった。自分たちの上下に、左右に、同じように部屋に閉じこもり二人の愛を確認する人たちがいたとして、遊理も、孔弥も、その真実を知らない。この部屋には遊理と孔弥がいて、それでぴったり収まっている。多くもなく、少なくもない。互いを見、互いに触れ、嗅ぎ、味わい、聞く。希薄な存在の核心のようなところで響き合い、感じ合う。素手で心臓に触れるよりもっとずっと繊細で、奇妙なバランスをもった、確証のための作業を飽きることなく繰り返す。混ざり合い、溶け合い、あなたであり、私である。

 部屋はゆっくり光を落とす。濃い藍色の闇の中で、二人は眠りのあわいを漂っている。




   4




 遊理の小さな悲鳴を聞きつけて、孔弥はベッドから這い出す。キッチンの向こうの菜園の中で遊理は隅にうずくまっている。白い腕だけが上にあがって、揺れている。

「なにか、ここに入って行ったの」
「なんだろう」
「このドアも、昨日までなかった」
「でも、今はある」

 巨大なキノコ型の電灯が逆さにぶらさがる農園の片隅、おそらく部屋の角にあたる部分で、遊理は小さな扉を見つけた。80センチくらいの高さの、木製のドア、優雅に曲線を描く小さな真鍮のドアノブ、同じ真鍮であつらえられたノッカーが鈍く光る。

「綺麗なドア」
「誰かいるかもしれないよ」
「誰もいないかもしれない」
「どっちにしろ、開けてみなくちゃ」
「開くかしら」

 孔弥はそっと扉を押す。澄んだ響きをたてて、扉が開いた。そして。



   *




 それから。
 扉の向こう側で見たものを、扉の向こう側を見たことを、遊理も孔弥も覚えていない。
 その扉のことになると、いつも二人は記憶があいまいになる。

「僕たちは扉を開けたのだっけ、開けてないのだっけ」

  扉のことになると、二人はいつもそんな調子だった。もう一度見に行けばわかるかもしれないのに、遊理も、孔弥も、そういうことをさっぱり思いつかない。一 日には流れがある。ひとつ何かが起こったら、その次に起こることは決まっている。そして前に戻ることはできない。先に進むことができないように。

「開けたと思うなら、開けたのよ」
「じゃあ、開けたのかな」

 話の後ろのほうになると遊理はたいてい我慢できなくなって、孔弥の膝の上に乗っかってしまう。長い髪がするすると孔弥の肌に触れて、流れ落ちた。

「私はコーヤが好き」

 歌うように遊理は言う。

「僕はユーリが好き」

 確かめるように孔弥が言う。そして二人は目を閉じる。何百回目かのキスするために。柔らかい舌の感触に遊理がうっとりする頃、孔弥は腕の中に温かな感触が沈みこんでくるのを感じている。




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