目次
もくじ
もくじ
1.新しい文学の形と新しい文章
1.新しい文学の形と新しい文章
2.ライトノベルと識字率
2.ライトノベルと識字率
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
4.神とはヒトの口癖である (前編・後編)
4.神とはヒトの口癖である(前編)
4.神とはヒトの口癖である(後編)
5.再現とは、でっちあげること (全5章)
再現とは、でっちあげること (1)
再現とは、でっちあげること (2)
再現とは、でっちあげること (3)
再現とは、でっちあげること (4)
再現とは、でっちあげること (5)
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
7.「作家デビュー」
7.「作家デビュー」
8.なぜ、江國香織さんなのか?
8.なぜ、江國香織さんなのか?
9.小説か、エッセイか?
9.小説か、エッセイか?
10.書き手の孤独
10.書き手の孤独
11.江國香織さんと夏目漱石
11.江國香織さんと夏目漱石
12.読まなきゃあ、詠めない
12.読まなきゃあ、詠めない
13.短命に終わったブログの復元
13.短命に終わったブログの復元
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再現とは、でっちあげること (5)

そもそも「数える」という言葉が曖昧な気がしませんか。それに「単数」と「複数」という言葉とそのイメージも、よく考えると分からなくなってきませんか。

 

あと、「多い」「少ない」、「大きい」「小さい」、「重い」「軽い」という分け方も、何だかよく分からない気がします。

 

たぶん、分かろうとするから、分からなくなるのかもしれませんね。分かろうとして分からなくなるのは、分かる必要がないからではないでしょうか。逆に言うと、分かる必要、あるいは分からなければならない目的があれば、分かるということではないでしょうか。

 

     *

 

ヒトが分けるときには、「数える」は、「分ける」を前提(あるいは目的)にしているみたいです。「分ける」と同時に「数」が出てくる。1つなら「単数」で、2つ以上は「複数」というわけですか。うーむ。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……ですか。うーむ。

 

ヒトで考えてみましょう。目の前にヒトが3人いたとします。その3人を数えて、「3」という「数」が出てくる。その3人のヒトが「3」という「数」に置き換えられたということですね。その「3」という「数」には、どんな意味があるのでしょう。

「かぞえる・はかる」はきわめて抽象的な「処理・作業」です。「かぞえる対象・はかる対象」を数や量に置き換えてしまうのですから。

     *

*抽象的であるということは、「ある言葉」がその「ある言葉が示すとされている物・者・事・様態」を切り捨て、その「ある言葉」に「(どこかから持ってきた=突然わいた=どこの馬の骨ともわからない・分からない・解らない・解らない・判らない・ワカラナイ)意味・意義」を与えるという、ヒトの癖である。

と言えそうです。

 

     *

 

さて、ここで、数から

 

*飛躍

 

します。飛んじゃいます。論理も理屈も必然性もなしにです。この「再現とは、でっちあげること」シリーズでは、そもそも、

*「再現」に備わっている
こうした無責任さとテキトーさ

を問題にしているのですから。

 

結論を、いや、いちばん言いたいことを、書きます。

 

*再現とは、文字通りの作業ではなく、でっちあげであり、捏造(ねつぞう)にほかならない。

 

のです。

 

ヒトは残念ながら、タイムマシーンをでっちあげ、いや、つくり=作り=創り=造りあげていません。これから先も、つくることはできないでしょう。たぶん。

 

このシリーズでいろいろくだくだと書いてきたことは、

 

*再現なんて、ヒトにはできっこない。

 

ということを説明するために、

 

「ホモ・サピエンス= Homo sapiens =知恵のあるヒト」別名「狂ったサル」

 

であるヒトのかかえているさまざまな

 

「不可能性=土台無理=ミッション・インポッシブル=スパイ大作戦=不可避的な愚鈍さ=自分が思っているよりもずっとお馬鹿さんであるということ」

 

を自覚するためだったのです。

 

     *

 

ラスコー洞くつの壁画であれ、狂ったサルが使うようになったらしい話し言葉で何かを伝える行為であれ、口承(神話や伝説や叙事詩など)であれ、儀式であれ、お芝居であれ、絵画であれ、イコンであれ、文字であれ、電信であれ、ラジオ・無線であれ、写真であれ、映画であれ、ビデオであれ、テレビであれ、インターネットであれ、それらを用いたところで、

 

*再現などできるわけがない。

 

せいぜい、

 

*再現の名を借りた単なる「でっちあげ=捏造」ならば、何とかできる。

 

だろうと、だらだら書きつづってきただけなのです。今テーマにしているのは、検察官面前調書ではなく、いや、だけでなく、

 

*再現とは、でっちあげることである。

 

という「話・作り話・フィクション・神話・出まかせ・馬鹿話」なのです。

 

そこまで言わなくても、

 

*精度の問題だ。

 

と考えることもできるでしょう。でも、それって、みじめったらしくはありませんか? 往生際が悪くありませんか? 

すっとぼけるのもいい加減にしてくれ、という感じです。

 

     *

 

*ヒトとは、再現が可能だと信じることで、ヒトである威厳と面子を保とうとあがいている動物だ。

とも言えるでしょう。

そうなのです。

*精度の問題

なんかではなく、

 

*威厳=面子の問題

なのです。

だから、物や者や事や様態をでっちあげるのです。そして、それを「再現した」などと、すっとぼけて、うそぶくのです。でっちあげる対象が1万年前の「何か」であれ、0.001秒前の「何か」であれ、違いはありません。

そもそもヒトには観測できないんですから。というか、観測できないそうです。というか、観測できないという「お話=作り話=フィクション=はっくしょん(Excuse me.)=ファッション(?)=神話=説話=説
」があるみたいなんです。

     *

 

ここまで来れば、もうお話しすることはありません。

 

このアホもヒトの子です。パソコンのモニターを眺めながら、「これは画素の集合だ」なんて考えません。ふつうは。

 

また、テレビのニュースを見ながら、その映像や音声をとらえ、「これはまさに再現されたOOだ」と無意識のうちに信じて疑わない日常を生きているのです。

さもなければ、ヒト=人間様なんてやってられません。

 

     *

 

そうした生き方こそが、ヒトに固有の

*広義の口癖

なのです。習性なのです。面子の保ち方なのです。

     *

次のようにも言えるでしょう。

*「再現」とはヒトが期待しているほど十分に「再現」ではなく、むしろ「でっちあげ=捏造」に近い。

言い換えると、

*「再現」が「再現」であるためには、ヒトの過剰な思い込み、および過剰な期待が必要である。

したがって、

*「再現」とは辞書の語義通り、つまり、「文字通り=決まり文句として=口癖であるかぎりの」「再現」であり、ヒトにしか通用しない口癖の1つである。

という感じなのです。


     *

 

お口直しに、このシリーズの冒頭で自己引用した長めの3つの文章を、再度お読みになっていただければ幸いです。

 

えっつ? もうたくさんですか? 

 

そうですね。それでこそ、ヒトの子としてのまっとうな態度だと思います。

 

ここまでお付き合いしてくださった心優しき方に、心より感謝します。

 

どうも、ありがとうございました。

(2011-08-16 記)

 






 


6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?

2012-02-15 12:46:18

このブログの読者の方々から、「ブリコラージュ状思考態って何ですか?」という意味のご質問をメールでいただくことがあるので、説明させていただきます。少し前までは、さかんに使っていたのですが、このところは使っていない言葉です。

     *

これまでに書いた膨大な文章や文章への成りそこない、たとえばブログ記事をばらばらにして継ぎ接ぎする、つまり手元にあるさまざまな切れ端からパッチワークを作ろうという企み、と言えそうです。ちなみに、原語の patchwork にはネガティブな意味もあるそうです。

 

違った見方をすると、「ごった煮」みたいな感じです。

さらに言うなら、「ま、いっか主義」とか、「でまかせ主義」とか、「楽問」=「愉しい知識・愉しい学問」=「ゲイ・サイエンス」=「GS」=「楽しくやろうよ、お勉強ごっこ」なんていうのも、いいですね。

本来は、リーバイス(LEVI'S®)じゃなかった、レヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)のお知恵を拝借しただけです。

     *

だいたい以上のような感じでとらえていただいて、よろしいかと思います。

 

私自身が、「ブリコラージュ状思考態」という言葉を「ブリコラージュ状思考態」的に使っていますので、はなはだあいまいな言葉だと反省している次第です。

で、もう少し考えて記憶をたどってみたのですが、次のように使っていたみたいです。

 

     *

1)これまでに書いた膨大な文章や文章への成りそこない、たとえばブログ記事をばらばらにして継ぎ接ぎする、つまり手元にあるさまざまな切れ端からパッチワークを作ろうという企み。その結果として、断片集や断章集が生まれる。

2)ものを考えるときに、何かを参照したりお勉強をしたりすることなく、頭に浮かんだごちゃぐちゃしたイメージや言葉の断片を、「でまかせに=まいっか主義で=アドリブで」、言葉の連なりとしてつづっていく「スタンス=姿勢=方法=メソッド=方便」。その結果として、文字通りの駄文が生まれる。

 

だと、いうか、だったという感じがします。

     *

きわめて、「テキトーで=横着で=いかがわしく=うさん臭い」作業だと言えそうです。

 

こうした作業は、しょっちゅうやっているのですが、冒頭で述べたように、「ブリコラージュ状思考態」という言葉を最近は使っていません。

 

たぶん、そのタイトルで連載をしようとして何度も頓挫しているので、無意識に避けていたのではないか? ふと、そんな気がしました。

ヒトという種のやっていることすべてが、「テキトーで=横着で=いかがわしく=うさん臭い」などと、考えていたことも思い出します。白状すると、今でも思っていますけど。

     *

あと付け加えたいのは、「ブリコラージュ状思考態」のように、カタカナで表記し、いかにも学術用語というか、専門語というか、仲間内の隠語というか、ジャーゴンみたいな言葉を使うのを避けたいという気持ちもあります。

さらに言うなら、「思考」も「態」も、いわゆる漢語系の言葉ですよね。数年前に、1年ほどかけてほぼ毎日書いた「産物・みのり=残滓・かす」である、『うつせみのあなたに』(全11巻)というタイトルの、「でまかせ主義=ブリコラージュ状思考態」でつづった、とてつもなく長いエッセイ集があるのですが、その駄文を書くさいに気を付けていたことがあるのです。

 

簡単に言えば、できるだけ大和言葉系の語を使おうという、「戦略=姿勢=くわだて=こころがまえ=たくらみ=サル知恵(おサルさん、ごめんなさい)=浅知恵」です。その傾向は、『うつせみのあなた 第10巻』と『同 第11巻』で顕著になってきて、あるサブ・シリーズでは、このほしでいまおこりつつあるできごとや、わたしにとってきわめてきになることやものやさまを、やまとことばをひらがなだけでしるして、かきつづる、なんてことをしていました。

     *

「ブリコラージュ状思考態」とは、以上のような感じのものなのです。ご理解いただければ幸いです。

 

【※Ameba ブログ 2012.02.15 記







7.「作家デビュー」

※以下はAmebaブログの記事です。この本に掲載したので、ブログ記事は削除しました。

「作家デビュー」

2012-07-02 10:19:23
テーマ:創作について

これまでに「作家デビュー」という言葉が、いかに多くの人たちを魅惑し、不幸にし、あるいは狂わせてきたか。

その言葉を甘くささやくだけで成立する商売が、いかに多いことか。

「作家デビュー」という言葉を目にしたり聞いただけで、怒りや恨みや悲しみといった感情がこみあげてくるのを抑えきれない人たちも、また多いことだろう。

紙の書籍で「作家デビュー」を実現するためには大金が必要になる。最近では「作家デビュー」を遂げるために、電子書籍という廉価な方法が普及しはじめた。

     *

今、あなたが読んでいるこの記事と一緒に、PCやスマホの画面に「作家デビュー」を「約束する」宣伝広告が映し出されてはいないだろうか?

ネット上には、キーワードを即時に察知し、それに応じた宣伝広告を出現させる仕組みがあちこちに埋め込まれている。

それはさておき、確かに「作家デビュー」は実現できる。嘘ではない。問題は、「作家デビュー」を実現した「作家」が自分のいだいていた夢を実現できたかどうかであろう。

こんなはずじゃなかった――。

話が違う――。

詐欺だ――。

訴えてやる――。

ペテンにかかってしまった――。

「作家デビュー」は嘘ではない。嘘があるとすれば、それは「作家デビュー」という言葉に託した、あなたの期待、欲、(根も葉もない)空想ではないだろうか?

     *

話を小説に限れば、あなたの期待、欲、空想は、メジャーな文芸誌主催の文学賞を受賞することできっと実現するだろう。

あなたのいだいている「作家デビュー」を実現するための道は、それ以外にはないとも言える。

文学賞受賞という栄誉は、実は「第一歩」でしかないという。詳しいことは知らない。

私もまた、「作家デビュー」をしたことがある。ただし、それは文芸誌が公募する賞をとったという類の話ではない。だから、また聞きの話を繰り返しているだけだ。

で、聞いた話にもどると、「第一歩」である「作家デビュー」の後には、「職業作家であり続ける」という試練が待ちかまえているという。

言い換えれば、文学賞を受賞してデビューを果たした作家たちが、次々と脱落していくということだ。

     *

作家デビュー――。

なんと、甘美な言葉だろう。なんと酷な言葉だろう。なんと空疎な言葉だろう。

【※以上のエッセイにある電子書籍による「作家デビュー」について興味のある方は、『電子書籍って何? ―無名の書き手の立場から―』という電子書籍に収録されている「7.電子書籍が売れないのは当然?」をお読みください。】





8.なぜ、江國香織さんなのか?

※以下はAmebaブログの記事です。この本に掲載したので、ブログ記事は削除しました。

なぜ、江國香織さんなのか?

2012-07-02 11:35:39
テーマ:創作について

このところ、江國香織さんの小説ばかりを読んでいる。江國さんの作品を読むようになったのは、私の読書歴のなかでは比較的最近のことである。

読むようになった切っ掛けを思い出そうとしているのだが、わからない。

そう言えば、妙な経験をしたことがある。短編集である『つめたいよるに』(新潮文庫)を読んでいて、いわゆる「既視感=デジャヴュ」を覚えたのだ。

絶対に読んだことはないはずだ――。そう思っていただけに不思議でたまらなかった。短編集のうちの一編だけなら、デジャヴュだったのだろうと思い直せばいい。

ところが、何編かの短編を読みながら、「あれっ!?」という具合に何度も既視感を覚えた。そのため、きっと以前に読んだことがあるにちがいないと結論づけるしかなかった。

いつ読んだのだろう? 未だに謎だ。

     *

私は小説を書いている。一人の書き手として江國さんの作品を読むと、文章のうまさと小説としてのさまざまなテクニックのさえに感心する。

とりわけうまいと思うのは、過去と現在の入り混じった文章の構成の巧みさと、視点の転換を処理する時の手際の良さだ。

自分には物語をつくる才能がないと、私は以前から思っている。たとえば、テレビドラマでも、映画でもいい。見た直後に、そのあらすじを尋ねられると、とたんに困ってしまう。要約できないのだ。

もちろん、小説のあらすじも満足に語ることができない。

テレビドラマや映画や小説のあらすじを臨場感たっぷりに語れる人がいる。つまり、ストーリーの根幹を外さず、きれいにまとめてくれるのである。

私には絶対にできないことだ。さらに言うなら、小説家を志す者としては致命的な欠点であろう。

     *

江國さんの小説の醍醐味は、いわゆる「ストーリー展開」ではないと思う。ストーリーテラーではないと言えば、江國さんには大変失礼な言い方になる。

たとえば、宮部みゆきさんが優れたストリーテラーであることを否定する人は、ほとんどいないだろう。「ストーリーテラー」という言葉は、ほめ言葉なのである。

江國さんの作品においては、ストーリー自体にそれほど重点が置かれてはいない。つまり、ミステリーやサスペンスといったジャンルの小説を書いているわけではない。

では、何に重点が置かれているのかといえば、シチュエーション(状況・場面)だと私は思う。

     *

「広義のミステリー」と呼ばれるジャンルで読者が求めるのはストーリーの展開である。

And then? And then? : それで? それからどうしたの?

という具合に、読者の目は結末をめざしてせわしく文字を追う。

     *

一方、江國さんの多くの小説においては、今起こりつつあることと過去に起こったこととが、入れ代わり立ち代わり記述されている。現在と過去が交錯するとも言えるだろう。

正確に言えば、現実と回想と空想とが交錯するのである。そうした小説では、「And then? And then? : それで? それからどうしたの?」という直線的なストーリーの展開は採用されない。

というか、そもそも小説の構造自体が直線的ではないために、読者はストーリーの進行と行き先にそれほど関心を払わないのである。

広義のミステリーを楽しみたい人であれば、現実と回想と空想とが入り混じった文体、あるいは文学理論でいう「意識の流れ」をつづった小説などには見向きもしないであろう。

     *

かつては私も広義のミステリーをめざして創作に励んだ時期があった。今は違う。

ストーリーの進行や展開を重視した作品よりも、シチュエーション(状況・場面)をじっくりと味わえる作品を書こうと努めている。言い換えると、読者がストーリーを追うのを楽しめるような工夫や文体を用いるのではなく、ストーリーの過程そのものを楽しめるような書き方の習得をめざしている。

江國さんの作品で、お気に入りの小説を何度も読んだと言うファンがきわめて多いのには驚く。広義のミステリーのファンで、そう言う人は少ないのではないだろうか。私は何度も読めるような小説が好きだし、また自分でも書いてみたいと思う。

だから、江國香織さんなのである。





9.小説か、エッセイか?

2012-08-11 14:17:38

テーマ:小説を書くことについて

 これまで小説とエッセイを書いてきた。自分のなかでは両者がかなり近いものである場合と、かけ離れたものとして考えられる場合がある。    

 この数年はエッセイを書くことが多かった。小説を書きはしたが、過去の作品に手を加えただけで、新作を書いたわけではない。  

 

 私にとって小説とエッセイとが近いという場合には、2つの形式がある。  

1)小説でありながら、その内容にエッセイ風の文章が織り込まれている形式がある。たとえば、夏目漱石の『吾輩は猫である』には、小説というより論文かエッセイのような理屈っぽい文章が頻出する。その多くは、語り手の猫の考えていることであったり、猫が耳にした登場人物同士の会話という形としてあらわれる。同じく漱石作の『草枕』は、小説の衣をまとったエッセイではないだろうか。  

2)エッセイ風の語りが、私小説や心境小説に近づくという意味で、小説とエッセイとが限りなく接近し、そのどちらとも取れる文章がある。この形式に日記を含めてもかまわないだろう。現在、この種の形式の文章として最も盛況なのはブログである。        

     *

 小説とエッセイとのジャンル分けが難しくなってきているのは、主にブログが普及しているからだというのが持論である。誰もが小説家、あるいはエッセイスト、または小説家兼エッセイストになれる時代になったとも言えるだろう。  

     *    

 この数年間におびただしい数の「小説もどきであると同時にエッセイもどきである文章」を書いてきたという思いが、私にはある。    

 それだけではない。この国でブログを書いているほとんどの人が、私と同様の「もどき」を書きつづっているのではないだろうか、と問いたい気持ちもある。  


     *    

 本日は、このブログの初日だ。  

 

 ブログを開設した理由は、上で述べた「小説もどきであると同時にエッセイもどきである文章」ではなく、「正真正銘の小説」を書くためなのである。    

 それなら、こいつは、なぜブログという「もどき」を書いているのだ? そう考える人がいるにちがいない。もっともな疑問だと思う。    

 その疑問には、次のように答えよう。  


「正真正銘の小説」を書ためには、「小説もどきであると同時にエッセイもどきである文章」を書かずにはいられないからだ。    

 正直に言えば、さみしいのである。ブログを書くことに慣れた私にとっては、仮想の友人や仲間がいなくては小説を書けない――。そう思うまでに、私はネットに依存する人間になってしまった、とも言えるだろう。  

「正真正銘の小説」を書く過程で、こうしたブログを書くことにより、自分の向かう方向を確かめたいという思いもある。つまり、「他者」の目を意識することで、独りよがりの作品にならないようにしようという功利的な心理も働いている気がする。(14:19)  


 
【※以上のエッセイは、3日間というあまりにもの短命に終わった、Amebaブログのバックアップから再現したものです。】



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