目次
もくじ
もくじ
1.新しい文学の形と新しい文章
1.新しい文学の形と新しい文章
2.ライトノベルと識字率
2.ライトノベルと識字率
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
4.神とはヒトの口癖である (前編・後編)
4.神とはヒトの口癖である(前編)
4.神とはヒトの口癖である(後編)
5.再現とは、でっちあげること (全5章)
再現とは、でっちあげること (1)
再現とは、でっちあげること (2)
再現とは、でっちあげること (3)
再現とは、でっちあげること (4)
再現とは、でっちあげること (5)
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
7.「作家デビュー」
7.「作家デビュー」
8.なぜ、江國香織さんなのか?
8.なぜ、江國香織さんなのか?
9.小説か、エッセイか?
9.小説か、エッセイか?
10.書き手の孤独
10.書き手の孤独
11.江國香織さんと夏目漱石
11.江國香織さんと夏目漱石
12.読まなきゃあ、詠めない
12.読まなきゃあ、詠めない
13.短命に終わったブログの復元
13.短命に終わったブログの復元
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3.書評:『きらきらひかる』江國香織著

江國香織さんの『きらきらひかる』(新潮文庫)を読んだ。

いきなりではあるが、話を変えよう。

2人の男性がいるとする。その2人が性行為をする。

以上の単純な出来事に肉付けし1編の小説にするなら、ゲイ、ホモ、同性愛者、オカマといった一連の言葉を多用することができるろう。

また、そうした言葉にこびり付いたイメージに沿ってストーリーを展開することも可能だろう。

そんな小説があれば、私は杜撰(ずさん)で安易な作品だと思う。

     *

たとえば、

彼はゲイだ

という発言や、

ゲイはゲイらしく行動する

という考えや発想も、杜撰で安易だと思う。

「ゲイ」とは言葉でありレッテルだ。その言葉が具体的にどんな人物を指すのかは曖昧だが、ある程度の共通したイメージがあるだろう。

つまり、「ゲイという言葉」をめぐっては、人びとがおびただしい数のイメージをいだいている。しかも、そのイメージは刻々と変化する。

そのイメージをとらえようとすれば、文化、言語、時、場所、状況、生まれてからの体験といった要因も考慮しなければならない。

イメージがそれほどとりとめのないものであるなら、言葉でありレッテルでもある「ゲイ」を一般化することは、言葉ではできても、現実というレベルでは不可能だろう。

     *

話がまた飛んで恐縮だが、神仏を論じることも杜撰で安易な行為にならざるを得ない。

「神」とは何か? と問われれば、「口癖です」と私は答えることにしている。

詳しく言えば、次のようになる。

ヒトという種は、どういうわけか言葉を獲得してしまった。それ以来、ヒトは、身のまわりの物、事、様、動きだけでなく、森羅万象、そして自分の頭に浮かんだものにさえ「名前=言葉=レッテル」をくっ付ける習性を得るようになった。その「名前=言葉=レッテル」の1つが、たとえば「神」である。

要するに、

神とは、ヒトという種に固有の口癖である。

さらに短くすれば、

神とはヒトの口癖である。

したがって、私は神については、以上のように言うことにしている。
「言う」という「動作=動き=動詞」も「名前=名詞=言葉=レッテル」であるのは言うまでもない。

さらに言うなら、真理や愛も、考えるや感じるも、海や山も、女や男も、信じるや祈るも、言語や貨幣も、モーツァルトやニーチェも、ハリー・ポッターやポケモンも、レッテルであり、レッテルとして流通する、ヒトの口癖である。

以上のような発言や考えは、世間では「屁理屈」や「でたらめ」と呼ばれ、歓迎されない。

     *

話を戻そう。

江國香織さんの『きらきらひかる』では、「ホモ」と「おとこおんな」という言葉が出てくる。

この2つの言葉は、この小説のストーリー進行を促すためや、小説内の出来事の説明としては使われていない。つまり、

レッテルに安易に寄りかかって語られている小説ではない

ということだ。

そのスタンスに、私は共感を覚えた。

逆に「ゲイ」という確固とした属性や生物学的実体があり、「ゲイはゲイらしく行動する」という考え方には抵抗と疑問を覚える。だから、

ゲイとはヒトの口癖である。

そんな気がする。

日常会話のレベルなら、「ゲイ」という言葉と、「ゲイはゲイらしく行動する」という紋切型の考え方はほとんど抵抗なく流通していると思われる。詮索や議論をしなければの話だが。

しかし小説であれば、ゲイという紋切型の通念に依存するのは、あまりにも芸がなさすぎはしないだろうか。

人とは多面的な存在ではないだろうか。

     *

ゲイというレッテルを他人から貼られる人たちがいる一方で、自分はゲイだと胸を張って言い、ゲイらしく行動しようとしている人たちもいるだろう。

前者は、嫌々ながらゲイというレッテルを貼られるのかもしれない。後者は、ゲイという言葉とそのイメージまたは通念に、自分自身を当てはめようと努力することもあるだろう。なぜなら、救いと連帯感を得られるのだから。

後者の場合には、「ゲイ」だけはではなく「オネエさん」、「オネエ言葉」、「オネエキャラ」――「ゲイ」と「オネエさん」が100%一致するというわけではないが――という言葉やイメージを利用してマスメディアに登場し、一生懸命になっているように見える人たちもいる。なぜなら、臨時的な副収入を得る絶好のチャンスだから。

また、自分を非当事者(ノンケとも言う)とみなしている人たちが、便宜的に「ゲイ」や「オネエさん」という言葉を、そのイメージにそって使う場合も多々あるに違いない。

    *

要するに、誰もが、「ゲイ」(「ホモ」、「同性愛者」、「オカマ」でもいい)という言葉とそのイメージを用いている。

なぜだろう?

楽だからだ。

彼(or私)はゲイだ。ゲイはゲイらしく行動する。文句あっか?

いう感じである。

ゲイというレッテルがすんなりと流通しているのは、それが楽だからだ。

頭を使ったり、悩んだり、「言葉にしにくい何か」に真っ向から立ち向かい苦労する必要がないからだ。

それは、それでいい。だが、文学の場合には、世間で流通しているレッテルに頼ることは杜撰であり怠慢だ、と主張する人たちがいても意外ではない。一方で、レッテルを積極的に利用する作家が大半を占めていても、これまた意外ではない。

今述べたことは、作家や作品の優劣や巧拙や良し悪しを論じているわけではない。人それぞれだ、と言うのと同様に、書き手それぞれだと言えよう。

     *

一般的なレベルでのレッテルについて考えてみよう。

レッテルを貼ることは安易で楽な行為だ。レッテルを自分に貼ることで、苦しい自分探しにピリオドを打てるのならば、精神衛生上そんないいことはない。

ヒトという種は、「言葉=レッテル」なしには生きられないと言えそうだ。

言葉が大好き。言葉がなくては生きられない。NO WORDS, NO LIFE.

当然過ぎるくらい当然だ。

それはそれでいいだろう。

     *

本題に戻ろう。

『きらきらひかる』は、これまで述べてきた「レッテル貼り」という作業とは、かなり離れた言葉でつづられている。

つまり、安易ではない。

ある種のセクシュアリティを土台とする作品をめぐって口に出されるであろう、さまざまな言葉たちから遠く離れようとする、この作品を構成する言葉たちとストーリー展開――。

この作品について宣伝したり、語ったり、説明したり、感想を述べるさいに、用いられるに違いないレッテルへの抵抗――。

各人の一面だけを強調するのはなく、その多面性をつづろうとする言葉たち――。

安易なレッテル貼りに逆らおうとするこのスリリングな作品の放つ力に、私はすがすがしさを覚えた。

 

2011-05-03 記







4.神とはヒトの口癖である(前編)

哲学は好きですが、議論は苦手です。ですから、哲学的議論には加わらないように努めています。

 

今、苦手という言葉を選びましたが、婉曲的な言い方です。「私はそういう話は苦手なんです」という具合に、逃げるときに使う言葉です。

 

この文章は哲学について論争をしかける目的で書かれてはいません。「苦手」などと遠慮せずに、「大嫌い」とか「虫酸が走る」とか「馬鹿馬鹿しい」とか「不毛だ」と書いてもいいのですが、読む人が何を考えるかはわからないので、抑えた表現にしておきます。

 

あるブログ記事に、次のようなことを書いたことがあります。長いですが加筆したうえで引用します。

 

     *

 

「神」とは何か?」と問われれば、「口癖です」と私は答えることにしている。

 
詳しく言えば、次のようになる。

 
ヒトという種は、どういうわけか言葉を獲得してしまった。 それ以来、ヒトは、身のまわりの物、事、様、動きだけでなく、森羅万象、そして自分の頭に浮かんだものにさえ「名前=言葉=レッテル」をくっ付ける習性を得るようになった。


 その「名前=言葉=レッテル」の1つが、たとえば「神」である。

 
要するに、


 *神とは、ヒトという種に固有の口癖である。

 
さらに短くすれば、

 
*神とはヒトの口癖である。

 
したがって、私は神については、以上のように「言う」ことにしている。

       *

 
「言う」という「動作=動き=動詞」も「名前=名詞=言葉=レッテル」であるのは言うまでもない。品詞という名の、言葉の「管理=整理=つじつま合わせ=こじつけ=官僚的手さばき=苦しいギャグ」の仕方は、どの言語においても、「矛盾・例外・牽強付会」に満ちている。  

そもそも「文法」=「文+法」という「言葉 or もの」は、字義どおりの機能・役割を果たしておらず、「(ダムや箱物のように)つくってしまったのだから、仕方がない」=「(掟や法や教義や預言や計画のように)いったん決めたのだから反対する者は腕ずくでつぶす」=「(役人のように)前例を踏襲するだけ」=「事なかれ主義」=「いつまでたっても支払われている公務員の〇〇手当て」状態にある。

  「正書法・国文法・国語教育」によって、書き言葉を「監視・整理・がんじがらめに」しようとしても、書き言葉の「現状=移り変わり」を完全に抑えることはできない。  

話し言葉については、「年齢・性別・世代・地域・ITの発達・共同体の解体」といった諸要因が、「乱れ=変貌=秩序の崩壊=進化=言語である以上不可避な変化」を生み、さらに助長させていることは、誰もが体験しているはずだ。

       *  

話を戻そう。  

>*神とは、ヒトという種に固有の口癖である。

>さらに短くすれば、

>*神とはヒトの口癖である。   の続き――。

蛇足ながら、真理や愛も、考えるや感じるも、海や山も、痛いや気持ちいいも、女や男も、信じるや祈るも、「あっはあ~」や「うっふ~ん」も、言語や貨幣も、「逃げろー」や「とまれー」も、モーツァルトやニーチェも、ハリー・ポッターやポケモンも、きれいも汚いも、馬鹿や阿呆もレッテルであり、レッテルとして流通する、ヒトの口癖である。

 レッテルには、ぺらぺらの紙と同じく貼りやすいしはがしやすい、また、かつらのようにずれやすいしどこか不自然だ、という特徴がある。そう、不自然なのである。  

自然  

この星の自然界に生息するおびただしい数の生物の存在を念頭におけば、  

*ヒトの口癖は、ヒトにしか通じない。  

ことは言うまでもない。当たり前すぎるくらいの当り前だ。したがって、  

*神とはヒトの口癖である。  

と「言って」も、

*当たり前すぎるくらい当たり前

なのである。

*不自然すぎるくらい不自然だ

と「言って」もいいような
気もする。なぜなら、

*ヒトにとっての当り前は、自然界では不自然であり、重大なルール違反である。

という思いがあるからだ。


以上のような発言や考えは、世間では「屁理屈」や「でたらめ」や「妄言」と呼ばれ、歓迎されない。

 

(ここまでが加筆した抜粋です。)

 

     *

 

2年ほど前に、約1年をかけてブログ記事を書き続けました。ブログにしては長い文章を、ほぼ毎日書きつづったのです。

 

記事のバックアップがあったので、いろいろな形で再利用し、最終的には電子書籍化しました。タイトルは、『うつせみのあなたに 第1巻』~『うつせみのあなたに 第11巻』です。

 

そのとてつもなく長い哲学的エッセイ集のメインテーマは、

 

*「何か」の代わりに「その何かではないもの」を使う。つまり代用する。

 

というシンプルなものです。

 

たとえば、言葉は、何らかの「もの・こと・さま」の代用として、ヒトが用いるものだと言えそうです。

 

お金もそうです。何らかの「もの・こと・サービス・価値」の代用物でしょう。

 

そうした代用物を例に挙げて、いろいろなことを書きました。

 

     *

代用という操作・作業については、延々と述べることができるだろうと思います。でも、疲れ果ててしまったので、

 

*「何か」の代わりに「その何かではないもの」を使う。つまり代用する。

 

について、論じることはやめました。その結果として、全部で11巻になる『うつせみのあなたに』という名の電子書籍が生まれました。

 

     *

 

皆さんが、今お読みになっているこの文章というかエッセイでは

 

*神とはヒトの口癖である。

 

をめぐって思いつくままに書いてみるつもりです。

 

私は即興的に文章を書く癖があるので、これから先にどんなことを書くか、はっきりしていません。ぼんやりとした見通しはありますけど。

 

おおまかに要約すれば、さきほどの引用とあまり変わらない文章になるでしょう。

 

「口癖」という言葉を「くちぐぜ=くちくせ」、あるいは「口・癖」と書くと、

*「癖」

という言葉に目が行きます。すごく気になります。もちろん、私の場合ですが。

 

     *

 

*くせ・癖・曲

 

と分けることも可能でしょう。「分ける」という作業もまた、ヒトにとって基本的な行為です。

 

「くせ」は、大まかに2つに「分ける」ことができるような気がします。

 

(A)ほとんど無意識におこなうくせ=本能的行動

 

(B)真似て身に付けるくせ=学習された行動

 

うさんくさいですね。嘘っぽいですね。よく目にする図式ですね。どこかで見聞きした記憶をたどって書いた本人がそう思います。でも、話を簡単にするためには「分ける」という、きわめてうさんくさい作業をしなければならないようです。

 

そのうさんくささの元凶は、

 

*ヒトは分けなくては言葉とそれが指し示すと思い込んでいる物・事・様とを認識できない。

 

もう少し正確に言うと、

 

*ヒトは森羅万象を分けることなしに、森羅万象の断片あるいはその代理を認識できない。

 

ことにあるみたいです。

 

どうして分けるのでしょうね? 誰かに頼まれて分けているのでもなさそうです。

 

たぶん、

 

*ヒトは自分が「小さい=矮小だ」から分ける。

 

か、

 

*ヒトは自分の身のたけに合わせて森羅万象を対象とする。

 

のだと勝手に思っています。

 

     *

 

先に触れた『うつせみのあなたに』のなかには、

 

*くせ・癖・曲

 

にこだわった文章があります。そのさいには、

 

*経路

 

や、

 

*回路

 

という言葉も使いました。

 

要するに、ヒトに備わった「筋道・ルール・文法・パターン」みたいなものです。

 

その経路は、ヒトが認識している場合もあれば、無意識である場合もある、と言えそうです。

(後編につづく) 









4.神とはヒトの口癖である(後編)

     *

 

話を「癖」に戻しましょう。

 

今論じている「癖」は

 

*「口癖の癖」=「狭義の言葉の癖」

 

であるばかりではなく、

 

*各人の行動の起点となる癖

 

です。

 

両者をひっくるめて

 

*「ヒトの言動の癖」=「広義の言葉の癖」

 

と考えてみましょう。

 

ここで説明を加えます。

 

狭義の言葉とは、話し言葉と書き言葉です。

 

一方の広義の言葉とは、話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、点字、指点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などを指すとします。

 

そう考えてみると、上で述べた、

 

*「ヒトの言動の癖」=「広義の言葉の癖」

 

が、少しは分かりやすくなりませんか。

 

つまり、言動を文字通り分けて、「言=ことば」と「動=動き」としてとらえるのです。

習性や刷りこみや本能といった業界語は使えません。エソロジー(動物行動学)には疎いのです。

     *

ここで思い出しましょう。

 

*神とはヒトの口癖である。

 

でしたね。そのさいの「口癖」を単に

 

*話し言葉における癖

 

だけではなく、書き言葉も含めた上述の

 

*「広義の言葉」における癖

 

だと考えるのです。

 

また、「神」の部分には、さまざまなもの、たとえば前編で述べたようなものが入るでしょう。繰り返します。


>*真理や愛も、考えるや感じるも、海や山も、痛いや気持ちいいも、女や男も、信じるや祈るも、「あっはあ~」や「うっふ~ん」も、言語や貨幣も、「逃げろー」や「とまれー」も、モーツァルトやニーチェも、ハリー・ポッターやポケモンも、きれいも汚いも、馬鹿や阿呆もレッテルであり、レッテルとして流通する、ヒトの口癖である。  

 

さらに言うなら、

 

音楽も、ダンスも、スポーツも、笑うも、泣くも、学問も、宗教も、法律も、政治も、人間関係も、愛憎も、戦争も、殺すも、生かすも、すべてが、

 

*広義の口癖

 

となります。というか、そういうことにして話を進めます。

 

     *

 

生まれたてのヒトの赤ちゃんは、乳房を探しお乳を飲みますね。/「ばかやろう」と言われれば、普通腹が立ちますよね。/もよおしてくればトイレに行きますよね。/学校や会社に行きますよね。/3年間にわたり家の自室に閉じこもっているヒトもいるようですよね。/米国の大統領には多岐にわたる権力を行使することができますよね。/おびただしい数の画素からなる画面を見つめて、サッカーのFIFAワールドカップの決勝戦を楽しむことができますよね。

 

1+1=2だと教えてもらいますよね。/生まれて初めて自転車に乗れて感動することもありますよね。/中国の首都は北京だと何らかの機会に知りますよね。/誰かを好きになることも嫌いになることもありますよね。/戦争のきっかけは一方がもう一方に戦闘行為を働くからでしょうね。/「わたしはイエス・キリストの生まれ変わりだ」と言うヒトがいて、それを信じるヒトたちもいますよね。/ヒトの世界ではものすごくたくさんの集団が、それぞれものすごくたくさんの神を信じていますよね。/神の存在を信じないヒトもいますよね。/天動説が体感できて地動説が体感できなくても、地動説が正しいと学校で習うので、そういうことにしておきますよね。

 

神とはヒトの口癖である。/真実とはヒトの口癖である。/現実とはヒトの口癖である。/事実とはヒトの口癖である。/でたらめとはヒトの口癖である。/ウソとはヒトの口癖である。/地球は太陽の周りをまわるというのはヒトの口癖である。/3×3=9というのはヒトの口癖である。/人類は月面に仲間を降り立たせたという話はヒトの口癖である。/マイケル・ジャクソンは2009年に亡くなったというのはヒトの口癖である。

 

     *

 

今上で挙げた例は、この地球上でヒトだけが口にしている癖ばかりです。ヒトという種が地上からいなくなればそうしたおびただしい数の口癖も消滅するでしょう。

生物としてのヒトという種は、この星では one of them (たくさんあるうちのひとつ)ではないでしょうか? 「そうである」も、「そうでない」も、ヒトが口にしたとたん、口癖となるのです。

 

誤解があるといけないので念を押しますが、以上述べてきたことは、

 

*「何かに貼られたレッテル=言葉・語」をめぐっての「お話(story・histoire・His story)」

 

なのです。よろしいでしょうか。「レッテル=言葉」という次元での話です。その

 

*「レッテル=言葉」が指し示す「何か(物・事・様)」についてのお話をしているのではない

ことを強調させていただきます。

 

とはいうものの、「レッテル=言葉」が指し示す「何か(物・事・様)」について「お話をする」=「広義の言葉を使う」こと以外に、ヒトは

 

*「語る」

 

ことも

 

*「記述する」

 

こともできないと言えそうです。


     *

さきほど書いたことを引用します。

一方の広義の言葉とは、話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、点字、指点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などを指すとします。

「広義の言葉」を感覚的に知っていただきたいと思っています。たとえば、あなたが知り合いと前日の夜に見たテレビ番組について話しているとしましょう。相手は、その番組を見損なったと仮定します。

相手に話しているうちに、あなたはその番組の登場人物になったような気がしませんか? ある科白を覚えていていれば、臨場感を盛り上げるために、声色や表情まで登場人物を真似て再現しようとする。つまり、語るのであり、まさに騙るのです。

このように、声、表情、動作、行動といったものまでが広い意味での言葉になり得るのです。というより、広義の言葉に他ならないのです。

ここで、確認しておきたいことがあります。上記の「を真似て再現しようとする」というフレーズの「再現」について考えてみましょう。

私がち密な論理的操作ができないことは、ここまでの文章をお読みになればお分かりになるでしょう。ですので、思い付きで書きます。

*ヒトのいう「再現」などはあり得ない。ヒトが「再現」と呼んでいる作業は「捏造」か、せいぜい「作文」にすぎない。

というのですが、思い付きなので、この点についてはこれ以上書けません。

     *

ヒトは自分のすべての行動・動作・表情・声の出し方などを、何らかの形で「学習する=学ぶ=真似る=引用する=反復する」という、上述の考え方について補足説明をします。例を挙げましょう。

ああ、よく考えると、今の私の怒り方は俳優のOOを意識して真似たものだ――。

あいつはあいつの兄貴と同じような笑い方をする。兄弟だから似ているのかな。それとも無意識にああいうふうに笑うのかな――。

おれって、最近、彼女の前ではあのドラマに出ていたOOになりきっている気がする。言葉遣いとか表情なんかが――。

お化粧をするとき、なぜか必ずOOをイメージする――。

あの子、絶対にOOを意識してしゃべっている。だって、OOに似ているって、いつもみんなから言われているもの――。

あー、怖かった。でも、OOを真似てすごむと、けっこう相手はびびるもんだなあ――。

女優のOOの歩き方は、アメリカのモデルのXXを真似たものなんだって――。

なぜかなあ。パソコンのキーボードを叩いていると、ふとOOがこの部屋でPCに向かっていた時を思い出す。というか、自分がOOになったような気持ちになる――。

どうでしょうか?

*自分という存在は、これまでに見聞きした無数の「他人の言葉と行為の断片」から成りたっている

とか、

*「自分」とは他者の言動の「引用の織物=パッチワーク=ごった煮」だ。

という、不思議な気持ちになることがありませんか?

以上の例を挙げたのは、身体言語も言葉であり、学習や模倣や引用や反復の対象となり得ると言いたいからです。

あなたは何かをする場合に、誰かを真似ていませんか? 意識的にまたは無意識に、誰か(複数の人でもかまいません)になりきっていませんか? あるいは、他の人を見ていて、その人が誰かとそっくりな言動をしているように思えることがありませんか?

     *

伝統芸能の継承者や、スポーツ選手や、ミュージシャンなどは、まず、学ぶ・技を盗む・真似る・カバーすることから始めるとよく言われます。これも広義の「引用」ですね。

本番直前のスポーツ選手が、競技する自分自身の姿を頭のなかで描いてイメージする――。よく聞く話です。そうした行動も、広義の「引用」だと思います。その際には、「自」と「他」、「見る」と「する」、「過去」と「現在」と「未来」といった線引きや仕分けが、無効にされ、曖昧になるような気がします。

これこそ、きわめてわかりやすい「模倣・反復・演技・引用」の例だと言えそうです。

     *

よく口にされる言い方を思い出しましょう。

*人は父親になるのではなく、子どもと一緒に父親を演じることを学ぶのだ。

なるほどと思います。では、何を見聞きして父親を演じるのでしょうか? おそらく、他の父親、テレビやマンガや映画や小説などに出て来る「父親のイメージ」を参考にするのでしょうね。

*ヒトの言動は、模倣された「広義の言葉」の断片の集積として常に作動している。

と言えそうです。【ただし、赤ちゃんが乳首を吸うといった行為については、せいぜい「本能」という言葉を持ち出すことを真似るだけにしておきます。「広義の言葉」だらけの赤ちゃんは苦手なのです。話し言葉といった、とっかかりがないからでしょう。】

で、「断片の集積として」ですから、

*ヒトは多面体である。

という比喩を用いてもよろしいかと思います。多面体ですから、ころころ変わって見えます。ぶれるのです。それが当たり前なのです。

さらに、出るにまかせて出まかせを言います。

*神をめぐるヒトの言動は、ヒトが「何か」を模倣した or 模倣しそこなったさいに反復される言葉と行動の集積である。

なんて感じでしょうか。

バチカンを思い浮かべてください。法的優遇措置の恩恵を受け、都内の一等地に豪華絢爛たる建物を持つ宗教団体でもいいでしょう。

あれって、癖なんです。前例の模倣と引用で成り立っている癖なんです。

そうそう、入信している団体に、なけなしの年金の一部をお布施として差し出す高齢者もいますね。それを当たり前として集金する地区委員みたいな者がいますね。

どうして、あんなことをするのでしょう? あれも、癖なんです。やるほうも、やられるほうも、です。詳しく言えば、ヒトの「広義の口癖」だからではないでしょうか。

     *

上記の、

*神をめぐるヒトの言動は、ヒトが「何か」を模倣した or 模倣しそこなったのさいに反復される言葉と行動の集積である。

というセンテンスの「神」を、「真実」や「事実」や「現実」や「過去」や「歴史」と置き換えても、案外「言えてる」気がしませんか?

*オリジナリティなんてない。嘘っぱちだ。あるのは、断片の引用と組み合わせだけだ。

と言いたい気持ちになりました。

     *

さて、


*OOとはヒトの口癖である。

ですが、
OOにいろいろな言葉を入れて論じる体力も気力も、今の私にはありません。

 

*「何か」の代わりに「その何かではないもの」を使う。つまり代用する。

 

をめぐって約1年間かけてほぼ毎日長いエッセイを書いて、もう懲りているからです。

 

ちなみに、

 

*「何か」の代わりに「その何かではないもの」を使う。つまり代用する。


もヒトの口癖なのですよね。

 

おっと、危ない!

深入りするところでした。上述のとてつもなく長いエッセイ集である『うつせみのあなたに』(全11巻)で論じた「表象・représentation」は、もう懲り懲りです。

 

この辺で失礼いたします。

 

2011-07-24 記
(2012-02-24 加筆)

 






 


再現とは、でっちあげること (1)

のっけから突然のことで申し訳ありませんが、「神とはヒトの口癖である」という私の書いたエッセイから引用させてください。


     *


(ここからが引用です)


皆さんが、今お読みになっているこの文章というかエッセイでは


*神とはヒトの口癖である。


をめぐって思いつくままに書いてみるつもりです。


私は即興的に文章を書く癖があるので、これから先にどんなことを書くか、はっきりしていません。ぼんやりとした見通しはありますけど。


おおまかに要約すれば、さきほどの引用とあまり変わらない文章になるでしょう。


「口癖」という言葉を「くちぐぜ=くちくせ」、あるいは「口・癖」と書くと、

 

*「癖」

 

という言葉に目が行きます。すごく気になります。もちろん、私の場合ですが。

 

     *

 

*くせ・癖・曲

 

と分けることも可能でしょう。「分ける」という作業もまた、ヒトにとって基本的な行為です。

 

「くせ」は、大まかに2つに「分ける」ことができるような気がします。

 

(A)ほとんど無意識におこなうくせ=本能的行動

 

(B)真似て身に付けるくせ=学習された行動

 

うさんくさいですね。嘘っぽいですね。よく目にする図式ですね。どこかで見聞きした記憶をたどって書いた本人がそう思います。でも、話を簡単にするためには「分ける」という、きわめてうさんくさい作業をしなければならないようです。


そのうさんくささの元凶は、


*ヒトは分けなくては言葉とそれが指し示すと思い込んでいる物・事・様とを認識できない。


もう少し正確に言うと、


*ヒトは森羅万象を分けることなしに、森羅万象の断片あるいはその代理を認識できない。


ことにあるみたいです。


どうして分けるのでしょうね? 誰かに頼まれて分けているのでもなさそうです。


たぶん、


*ヒトは自分が「小さい=矮小だ」から分ける。


のだと勝手に思っています。


(ここまでが引用です)


     *


引用文では、最後のほうでお茶を濁しています。横着をしたとも言えます。私の場合には、横着をすると後々まで気になります。軽い罪悪感まで覚えるのです。


以上の文章を書くにあたり、ぼんやりと頭に浮かんだ文章があります。気になるので、どこで書いたのかを突き止めました。


約1年間かけて書き続けた『うつせみのあなたに』(全11巻)の最終巻『うつせみのあなたに 第11巻』に収めた「10.02.11 うつせみのたわごと -10-」という記事にありました。


恐縮ですが、またもや以下に引用することをお許しください。


     *


(ここからが引用です)


 わけるのは、ひとがちいさいからに、ほかならない。ちいさいから、わける。おおきなものは、みえない。おのれがちいさいから、みえないだけ。おのれがちいさいから、わけるだけ。それだけなのに、おもいちがいをしている。これを、かしこいとみるか、おろかとみるか。ひとそれぞれ。つねに、おごりたかぶるものもいれば、おそれつつしみ、かしこまるたちのものもいる。ひとそれぞれ。ひとのたちは、ときによる。ときとともに、かわることもある。おおむね、おろかで、おごりたかぶる。それが、ひと。くせ。たち。すじ。そうしたものまで、げんがきめるのだという。そんな、はなしもある。


     *


 ちいさくしてみて、みえたとおもいこむ。おのれがおおきいとおもえば、ちいさなものを、あなどることができる。みくびることができる。みくだす。みきわめたと、おもいこむ。そのくせ、おおくのひとは、いまだに、かみをしんじるという。にまいじた。うそつき。あしき、くせ。こころのうちでは、このほしをおさめる、おおかみだとおもっているくせに。おもいと、おこないが、おおきくずれている。くせもの。


(ここまでが引用です)


     *


なぜひらがな尽くしなのかと申しますと、現在起こりつつあるさまざまな事象を、できる限り大和言葉系の語で書こうという連載をしていたからなのです。


*日本語は大和言葉系と漢語系の2種類の語群から成り立っている。


という、いかにも本当らしい、つまり、いかにもうさんくさい決まり文句がありますね。それを信じた振りをして実践したものなのです。


で、上のひらがな尽くしの文章は、遺伝子と、一部ナノテクノロジーをめぐって書きつづった駄文だとお考えください。


ついでに、また引用というかコピーペーストさせていただきます。


冒頭で紹介した「神とはヒトの口癖である」で、もう一個所横着をしたというか、話が大きくなりそうなので、早々に切り上げた部分があります。以下に引用します。


     *


(ここからが引用です)


*一方の広義の言葉とは、話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、点字、指点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などを指すとします。


「広義の言葉」を感覚的に知っていただきたいと思っています。たとえば、あなたが知り合いと前日の夜に見たテレビ番組について話しているとしましょう。相手は、その番組を見損なったと仮定します。

相手に話しているうちに、あなたはその番組の登場人物になったような気がしませんか? ある科白を覚えていていれば、臨場感を盛り上げるために、声色や表情まで登場人物を真似て再現しようとする。つまり、語るのであり、まさに騙るのです。


このように、声、表情、動作、行動といったものまでが広い意味での言葉になり得るのです。というより、広義の言葉に他ならないのです。


ここで、確認しておきたいことがあります。上記の「を真似て再現しようとする」というフレーズの「再現」について考えてみましょう。


私がち密な論理的操作ができないことは、ここまでの文章をお読みになればお分かりになるでしょう。ですので、思い付きで書きます。


*ヒトのいう「再現」などはあり得ない。ヒトが「再現」と呼んでいる作業は「捏造」か、せいぜい「作文」にすぎない。


というのですが、思い付きなので、この点についてはこれ以上書けません。


(ここまでが引用です)


     *


長めの引用を3回もしていまいました。ごめんなさい。短く引用すると前後関係が分からなくなりそうなので、長々とコピペしました。


で、コンテクストがつかめたところで、3編の文章から最も大切な部分を取り出します。


1)*ヒトは分けなくては言葉とそれが指し示すと思い込んでいる物・事・様とを認識できない。
=*ヒトは森羅万象を分けることなしに、森羅万象の断片あるいはその代理を認識できない。


2)*わけるのは、ひとがちいさいからに、ほかならない。ちいさいから、わける。おおきなものは、みえない。おのれがちいさいから、みえないだけ。おのれがちいさいから、わけるだけ。

(中略)

ちいさくしてみて、みえたとおもいこむ。おのれがおおきいとおもえば、ちいさなものを、あなどることができる。みくびることができる。みくだす。みきわめたと、おもいこむ。
=*ヒトは自分が「小さい=矮小(わいしょう)だ」から分ける。


3)*ヒトのいう「再現」などはあり得ない。ヒトが「再現」と呼んでいる作業は「捏造(ねつぞう)」か「なりきり」か「おゆうぎ=演技」か、せいぜい「お絵描き」や「作文」にすぎない。


要するに、


1)ヒトという種は森羅万象と呼んでいるものを自分の知覚機能を使ってつかむほどしか認識できない。


し、


2)森羅万象などという、自分よりもとてつもなく大きなものを相手にするには、自分の「大きさ→小ささ」に合わせて分けるしかない。


し、


3)森羅万象を刻々ととらえそこなっているヒトは、いったん過ぎ去ったものを再び起すことはできないが、でっちあげることならできそうだ。


という感じなのです。


     *


で、ヒトは森羅万象とか世界とか宇宙とか真理・真実・事実・現実とかを、


*どのようにとらえそこなっているのか


について考えようと思っているのです。ここで確認しておきたいことがあります。それは、


*どのようにとらえそこなっているのか



*どのようにとらえているのか


とには、大差がないということなのです。


言い換えると、「ここはとらえている」が「あそこはとらえそこなっている」などという単純な言葉の綾にとらわれていては、それこそ、とらえそこなっているに等しい。そんな感じなのです。


なぜ、そうなるのかと申しますと、たとえばヒトのとらえ方を、ワンちゃんやネコちゃんやミジンコちゃんやゾウリムシちゃんのとらえかたと比べれば、


*ヒトのとらえ方が絶対的なものではなさそうだ。


と感じられるからなのです。


残念ながら、ゾウリムシちゃんのとらえ方も、ワンちゃんのとらえ方も、私にはとらえることはできません。


*想像してもっともらしい話をでっち上げる


ことなら、広義の生物学の各分野をそれぞれ受け持っている学者さんたちのお仕事でしょう。

 

 

 

 




再現とは、でっちあげること (2)

数を数えるという、ヒトの習性について考えています。学者でも学生でもないので、学問の一環として、「数える」を考察したり、論じたりすることはできません。つまり、身の程を知り、自分ができる範囲のことをするしかないというわけです。

 

頭に浮かんだことを継ぎ接ぎする、とも言えるでしょう。パッチワークです。やっつけ仕事です。ブリコラージュです。

 

たとえば、「数」という概念や、「数える」という行動の起源について、実証可能な考察をし、学術論文として、該当する専門分野の雑誌や紀要に掲載することは、私にはできません。でも、素人として学問ではなく、楽問をすることなら、できそうです。楽しくお勉強。ゲイ・サイエンス。

 

ちなみに、今使った「ゲイ」とは英語の gay という語にくっ付いている、いろいろな意味のなかで、「楽しい」という意味です。一方「サイエンス= science 」には、「科学」以外に「学問」や「知識」という意味もへばり付いています。要するに、Gay Science とはニーチェの『悦ばしき知識』という著作の英訳名だとのことです。

 

     *     

 

前置きと弁解はそこまでにし、本題に入ります。

 

数えるという行為を詳しくみていきましょう。こういう時には、大昔にヒトはどうやって数えるという行為を身につけ、数という考え方をどのように習得したのかと、思いをめぐらさないではいられません。

 

すると、前置きと矛盾する作業をしなければならなくなります。つまり、「数える」と「数」の起源を探りたくなるということです。大変な作業でしょうね。それなら、乳幼児を対象にその発達段階を数年かけて観察すれば面白いし楽しいし、起源を探るよりずっと簡単だし、それなりの成果もあがるような気がします。

 

素人であれば、「数」や「数える」の起源を探るのではなく、発達段階を観察するほうが、はるかに楽でしょう。とはいうものの、残念ながら、子を持った経験がなく、これからもなさそうな者にとっては、未就学児を日常生活において観察することは無理だと思われます。

 

そうなると、空想・妄想して、話をでっち上げるという方法もあり得るのではないでしょうか。ぶちゃけた話が、嘘をつくわけです。これなら、できそうです。根っからの嘘つきですので。

 

     *

 

では、これから与太話をいたします。与太話、出まかせ、でたらめ、たわごとの類は、得意だと自負しております。なにしろ、2008年の末から2010年の3月にかけて、ほぼ毎日ブログで記事を書き続けていました。

 

現在、その与太話集は、「哲学的エッセイ集」などという、これまた出まかせの宣伝文句をつけて電子書籍として販売されています。よろしければ、以下のURLをクリックして、『うつせみのあなたに』(全11巻)の最終巻である『うつせみのあなたに 第11巻』と別冊『うつせみのあなたに ダイジェスト』を、文字通りご笑覧ください。

電子書籍ですから、紙の本に比べれば格安です。なお、『ダイジェスト』だけは無料ですので、このアホがどれくらいアホかの程度を知るには、それにざっと目を通すだけで十分だと思います。

 

     *

 

話を戻します。嘘と与太話でしたね。

 

では、「数える」と「数」について、あれこれ出まかせを書かせていただきます。

 

「かぞえる」と「かず」は、「みる」や「わける」と大いに関係がある気がします。また、ヒト自身の身体とも深いところでかかわっている感じがします。

 

足元の地面に複数の石ころが固まってあったとします。そして、それを数えようとしたとします。みなさん、ものを数えるさいには、どうなさいますか? 話が漠然としていますので、足元に転がっている小石は親指くらいの大きさです。その小石が、そうですねえー、50個あったとしましょうか。その数を知らないヒトが、数えようとしたと仮定しましょう。

 

みなさん、どうやって数えますか? 石が固めて置いてあれば、ひとつ、ふたつ、みっつ……という具合に、数えた石をよけていく。つまり、数えた石と数えていない石とを分けていく。

あるいは、途中で石を数え損なうというリスクと、その結果生じる手間を予想し、数えながら五つずつ固めていき、最初から数え直さなければならない手間を予め省いておくヒトがいても不思議ではありません。

 

     *

 

さて、ここまでの出まかせの話を検討してみましょう。なぜ、五つなのでしょう。上の与太話では、あっさりと「五つずつ固めていき」なんて言っていましたよね。これは、たぶん十進法を前提にしているからではないでしょうか。

 

五つではなく二つずつなら、十二進法で数えているという可能性も高いでしょうね。実際、十二進法は今でも用いられています。ダースがそうですね。時計がそうですね。

もっと変なものあります。フランス語を習った時に、最初は十進法でいくのですが、途中から数え方が変わったという記憶があります。

えーっと、あれは確か……。

 

どのようになっているのかは、書棚の仏和辞典や和仏辞典やインターネットでの検索で確かめることができるはずです。でも、そういうお勉強がきらいなので、ここではしません。ごめんなさい。

 

大切なことは、「数える」という行為は「分ける」という作業を前提にしている。あるいは、「数える」と「分ける」とは同時に起こる作業だ、と言えそうです。「単位」という言葉と作業がありますが、あれはまさに「分ける」と「数える」が一致している証拠みたいなものですよね。

 

メートルとかヤードとか、グラムとかオンスとかいう単位が頭に浮かびました。今挙げた単位を使っての作業では、「はかる」という言葉を使いますね。長さは物差しや巻尺ではかり、重さは天秤(てんびん)や台秤(だいばかり)ではかります。

 

そういう時に、ヒトは目盛を見て、長さや重さを知ります。目盛って、印がついていませんか? そうした道具(計器)を使う際には、印を見て数えてやいませんか? 

 

     *

 

以前に、「はかる」というタイトルでブログ記事を書いたことがあります。ちょっとPCをいじって調べてみます。

 

     *

 

はい、はい、ありました。「10.02.27 はかる -1-」~「10.02.XX はかる -4-」in 『うつせみのあなたに 第11巻』(電子書籍)にありました。なお、「はかる」シリーズの解説は、 「10.03.XX こんなことを書きました(その20)」で試し読みできます。その解説は、ページのうんと下のほうにありますので、お見逃しにならないよう、ご注意ください。

 

だいぶ前に書いた文章なので、これからさっそく読み直し、今書いている「再現とは、でっちあげること」シリーズのネタを探してみます。

 

リサイクル、リユース、自己引用、自己輸血、自己コピペ、引用の織物、ブリコラージュ、ごった煮、パッチワーク、継ぎはぎ、変奏、変相、変装――。

このシリーズでは、電子書籍『うつせみのあなたに』(全11巻)を頻繁に参照し、必要な部分を抜き出して組み合わせたり継ぎ接ぎしていく予定です。

とはいえ、別に電子書籍を購入なさらなくても話がわかるように書いていますので、ご心配はなさらないでください。








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