目次
もくじ
もくじ
1.新しい文学の形と新しい文章
1.新しい文学の形と新しい文章
2.ライトノベルと識字率
2.ライトノベルと識字率
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
4.神とはヒトの口癖である (前編・後編)
4.神とはヒトの口癖である(前編)
4.神とはヒトの口癖である(後編)
5.再現とは、でっちあげること (全5章)
再現とは、でっちあげること (1)
再現とは、でっちあげること (2)
再現とは、でっちあげること (3)
再現とは、でっちあげること (4)
再現とは、でっちあげること (5)
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
7.「作家デビュー」
7.「作家デビュー」
8.なぜ、江國香織さんなのか?
8.なぜ、江國香織さんなのか?
9.小説か、エッセイか?
9.小説か、エッセイか?
10.書き手の孤独
10.書き手の孤独
11.江國香織さんと夏目漱石
11.江國香織さんと夏目漱石
12.読まなきゃあ、詠めない
12.読まなきゃあ、詠めない
13.短命に終わったブログの復元
13.短命に終わったブログの復元
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8.なぜ、江國香織さんなのか?

※以下はAmebaブログの記事です。この本に掲載したので、ブログ記事は削除しました。

なぜ、江國香織さんなのか?

2012-07-02 11:35:39
テーマ:創作について

このところ、江國香織さんの小説ばかりを読んでいる。江國さんの作品を読むようになったのは、私の読書歴のなかでは比較的最近のことである。

読むようになった切っ掛けを思い出そうとしているのだが、わからない。

そう言えば、妙な経験をしたことがある。短編集である『つめたいよるに』(新潮文庫)を読んでいて、いわゆる「既視感=デジャヴュ」を覚えたのだ。

絶対に読んだことはないはずだ――。そう思っていただけに不思議でたまらなかった。短編集のうちの一編だけなら、デジャヴュだったのだろうと思い直せばいい。

ところが、何編かの短編を読みながら、「あれっ!?」という具合に何度も既視感を覚えた。そのため、きっと以前に読んだことがあるにちがいないと結論づけるしかなかった。

いつ読んだのだろう? 未だに謎だ。

     *

私は小説を書いている。一人の書き手として江國さんの作品を読むと、文章のうまさと小説としてのさまざまなテクニックのさえに感心する。

とりわけうまいと思うのは、過去と現在の入り混じった文章の構成の巧みさと、視点の転換を処理する時の手際の良さだ。

自分には物語をつくる才能がないと、私は以前から思っている。たとえば、テレビドラマでも、映画でもいい。見た直後に、そのあらすじを尋ねられると、とたんに困ってしまう。要約できないのだ。

もちろん、小説のあらすじも満足に語ることができない。

テレビドラマや映画や小説のあらすじを臨場感たっぷりに語れる人がいる。つまり、ストーリーの根幹を外さず、きれいにまとめてくれるのである。

私には絶対にできないことだ。さらに言うなら、小説家を志す者としては致命的な欠点であろう。

     *

江國さんの小説の醍醐味は、いわゆる「ストーリー展開」ではないと思う。ストーリーテラーではないと言えば、江國さんには大変失礼な言い方になる。

たとえば、宮部みゆきさんが優れたストリーテラーであることを否定する人は、ほとんどいないだろう。「ストーリーテラー」という言葉は、ほめ言葉なのである。

江國さんの作品においては、ストーリー自体にそれほど重点が置かれてはいない。つまり、ミステリーやサスペンスといったジャンルの小説を書いているわけではない。

では、何に重点が置かれているのかといえば、シチュエーション(状況・場面)だと私は思う。

     *

「広義のミステリー」と呼ばれるジャンルで読者が求めるのはストーリーの展開である。

And then? And then? : それで? それからどうしたの?

という具合に、読者の目は結末をめざしてせわしく文字を追う。

     *

一方、江國さんの多くの小説においては、今起こりつつあることと過去に起こったこととが、入れ代わり立ち代わり記述されている。現在と過去が交錯するとも言えるだろう。

正確に言えば、現実と回想と空想とが交錯するのである。そうした小説では、「And then? And then? : それで? それからどうしたの?」という直線的なストーリーの展開は採用されない。

というか、そもそも小説の構造自体が直線的ではないために、読者はストーリーの進行と行き先にそれほど関心を払わないのである。

広義のミステリーを楽しみたい人であれば、現実と回想と空想とが入り混じった文体、あるいは文学理論でいう「意識の流れ」をつづった小説などには見向きもしないであろう。

     *

かつては私も広義のミステリーをめざして創作に励んだ時期があった。今は違う。

ストーリーの進行や展開を重視した作品よりも、シチュエーション(状況・場面)をじっくりと味わえる作品を書こうと努めている。言い換えると、読者がストーリーを追うのを楽しめるような工夫や文体を用いるのではなく、ストーリーの過程そのものを楽しめるような書き方の習得をめざしている。

江國さんの作品で、お気に入りの小説を何度も読んだと言うファンがきわめて多いのには驚く。広義のミステリーのファンで、そう言う人は少ないのではないだろうか。私は何度も読めるような小説が好きだし、また自分でも書いてみたいと思う。

だから、江國香織さんなのである。





9.小説か、エッセイか?

2012-08-11 14:17:38

テーマ:小説を書くことについて

 これまで小説とエッセイを書いてきた。自分のなかでは両者がかなり近いものである場合と、かけ離れたものとして考えられる場合がある。    

 この数年はエッセイを書くことが多かった。小説を書きはしたが、過去の作品に手を加えただけで、新作を書いたわけではない。  

 

 私にとって小説とエッセイとが近いという場合には、2つの形式がある。  

1)小説でありながら、その内容にエッセイ風の文章が織り込まれている形式がある。たとえば、夏目漱石の『吾輩は猫である』には、小説というより論文かエッセイのような理屈っぽい文章が頻出する。その多くは、語り手の猫の考えていることであったり、猫が耳にした登場人物同士の会話という形としてあらわれる。同じく漱石作の『草枕』は、小説の衣をまとったエッセイではないだろうか。  

2)エッセイ風の語りが、私小説や心境小説に近づくという意味で、小説とエッセイとが限りなく接近し、そのどちらとも取れる文章がある。この形式に日記を含めてもかまわないだろう。現在、この種の形式の文章として最も盛況なのはブログである。        

     *

 小説とエッセイとのジャンル分けが難しくなってきているのは、主にブログが普及しているからだというのが持論である。誰もが小説家、あるいはエッセイスト、または小説家兼エッセイストになれる時代になったとも言えるだろう。  

     *    

 この数年間におびただしい数の「小説もどきであると同時にエッセイもどきである文章」を書いてきたという思いが、私にはある。    

 それだけではない。この国でブログを書いているほとんどの人が、私と同様の「もどき」を書きつづっているのではないだろうか、と問いたい気持ちもある。  


     *    

 本日は、このブログの初日だ。  

 

 ブログを開設した理由は、上で述べた「小説もどきであると同時にエッセイもどきである文章」ではなく、「正真正銘の小説」を書くためなのである。    

 それなら、こいつは、なぜブログという「もどき」を書いているのだ? そう考える人がいるにちがいない。もっともな疑問だと思う。    

 その疑問には、次のように答えよう。  


「正真正銘の小説」を書ためには、「小説もどきであると同時にエッセイもどきである文章」を書かずにはいられないからだ。    

 正直に言えば、さみしいのである。ブログを書くことに慣れた私にとっては、仮想の友人や仲間がいなくては小説を書けない――。そう思うまでに、私はネットに依存する人間になってしまった、とも言えるだろう。  

「正真正銘の小説」を書く過程で、こうしたブログを書くことにより、自分の向かう方向を確かめたいという思いもある。つまり、「他者」の目を意識することで、独りよがりの作品にならないようにしようという功利的な心理も働いている気がする。(14:19)  


 
【※以上のエッセイは、3日間というあまりにもの短命に終わった、Amebaブログのバックアップから再現したものです。】


10.書き手の孤独

2012-08-11 20:02:08
テーマ:小説を書くことについて


   小説を書くという作業は、絶対的な孤独のなかで無から有を産みだすことだと思う。「産みの苦しみ」という比喩的な言い方があるが、的を射た表現だ。  

 

 連日、オリンピックの映像をテレビで見ているが、選手が投げ込まれている絶対的な孤独を思うと痛々しさを覚える。個人競技だけでなく団体競技であっても、競技者一人ひとりが一回の試合や演技のなかで全責任を背負っている。    

 各選手は戦う。戦いの相手は、競技や演技の相手だけではない。自分との戦いがある。彼らは母国の人たちの視線にさらされている。とてつもなく大きな期待が重圧となって身体と心にのしかかる。    

 二重の相手に立ち向かう――。大きな声、怒鳴り声、声援、罵倒、悲鳴のなかで、最終的には自分だけに頼らなければならない。  

 

 ある日のある時刻に、戦いが始まる――。その直前までに、どれだけの時間を練習やトレーニングに費やしたのかもわからない、長い長い日々。        

     *

 話を戻そう。  

 

 書き手は、絶対的な孤独のなかで、無から有を産みだす。  

 

 新人賞をねらって原稿を書いている、無名の書き手たちが全国にいることはまちがいない。誰かに頼まれたわけでもないのに、あえて物を書いている人たちがいる。    

 なぜ、書くのか?    

 小説が好きで書く者もいるだろう。また有名になりたいがために書く者もいるだろう。お金がほしくて書く者もいるだろう。家族を養うために書く者もいるだろう。また、「書かずにはいられないものがあるから(←ほんまかいな?)」という、もっともらしい手あかのついた科白を口にする者もいるだろう。    

 スポーツ選手と、新人賞をねらう無名の書き手との間には大きな違いがある。ほとんどの書き手には、応援してくれる人たちや成功を期待してくれる人たちはいない。応援団も、支援者たちも、スポンサーもいない。    

 絶対的な孤独のなかで、自分自身と、目に見えないライバルとを相手に書く。悲壮な覚悟なしで、夢を実現することは到底できないであろう。         

     *

 夢を実現させるためなら、自分を含む凡人にとっては、書くことと読むことが趣味であってはならない。お遊びであってもならない。    

 オリンピックが終わる――。閉幕のセレモニーの華やかな喧噪を尻目に、4年後の新たな夢をめざして練習やトレーニングに励んでいる人たちがいる。数知れなくいる。これだけは確かだ。    

 数々の文学賞の授賞式がおこなわれ終わる――。その模様を報じる新聞や雑誌を食い入るように見ている人たちが、きっといる。数知れなくいるだろう。目のつかないところに。    

 さあ、今、そしてこれから毎日、あなたも私も、するべきことはわかっているはずだ。(20:01)      


【※以上のエッセイは、3日間というあまりにもの短命に終わった、Amebaブログのバックアップから再現したものです。】


11.江國香織さんと夏目漱石

2012-08-12 16:24:29
テーマ:小説を読むことについて

 

 私には江國さんと夏目漱石が似ているように思えてならない。これは、以前から持ち続けている印象だ。  「どこが? どんなふうに?」と尋ねられたとしても、きっと満足のいく回答を口にすることはできないだろう。    

 なぜなのか? 今、考えてもはっきりとした理由というか根拠が見つからないでいる。苦しまぎれに答えるなら、両作家が作品にとって余計なものを徹底的に排除するという書き方をしているから似ている――、と言うだろう。    

 そうした書き方をすると、作品のテーマと関係のないもの、つまり余計なものに読者の注意を拡散させることなく、肝心なところに集中させることができるのではないか。    

 とはいえ、江國さんの小説では肝心なところは必ずしも明確ではなく、言語化しにくい。強いて言うなら生理的と言ってもかまわないものだという感じがする。さらに言うなら、読者に生理的に迫ってくるパワフルなものだと思われる。  

 曖昧な感想で恥ずかしい限りである。      

 

     *

 

 きょうの午前に、ツイッターでタイムラインを眺めていたとき、はっとするようなツイートを目にした。誰のツイートだったかは、残念ながら思い出せないが、次のような意味の発言だった。  


>――江國香織さんの小説のリアリティのなさにはへきえきする、と友達が言った。その友達が好きな三島由紀夫の小説のリアリティはどうなのだ、と私は言い返したい気持ちになった。

      *    

 リアリティのなさ――。    

 そうなのかもしれない。いや、きっとそうだ。そうにちがいない。だが、「リアリティのなさ」をさらにネガティブに言うなら、「荒唐無稽」とか「絵空事」となる。これは小説に対する痛烈な罵倒である。そこで思い出したのが、文学史で習った図式である。    

 つまり、明治時代後期から大正時代にかけての「文壇」の主流であった「自然主義文学」と、それとは対照的な立場にあったという夏目漱石を始めとする「余裕派」が併存したという図式である。    

 漱石の作品については、私はよく知らない。ただ、『道草』を去年の暮あたりに再読した記憶がある。読んでいて息苦しい作品だった。それまでに読んだことの成る漱石の小説は、読んでいて退屈だと感じることはあっても、息苦しいと感じたことはない。  

『道草』は新潮文庫で読んだのであるが、解説は柄谷行人が書いている。そのなかに、上で述べたような文学史的な図式に触れた個所があった。  


「余裕派」とか「低回派」と批判的に呼ばれていた漱石が、当時の主流である自然主義文学の系譜につらなる私小説や心境小説に近い作品を書いたことで、「自然主義文学系の文壇から高く評価された。」と柄谷行人は書いている。

     *

 ちなみに『道草』という小説は、漱石の作品としては珍しい自伝的なもので、私小説とみなしてもかまわないほどに、漱石の伝記的な事実を踏まえて書かれていると言われている。だから、私は読んでいて息苦しさを覚えたのであろう。  


『道草』を読んでいて、もう一つ感じたことがあった。主人公である大学教師とその妻や、親戚にあたる人物たちとの関係や摩擦が描かれているのに対し、主人公の職場である大学での場面が出てこないのである。    

 作家志望の私は、『道草』のそうした書き方に興味を持った。「そうか、こういう書き方もできるのか」という具合に感心したのである。    

 このブログ記事の冒頭近くにある個所を以下に引用する。  

>両作家(江國香織と夏目漱石)が作品にとって余計なものを徹底的に排除するという書き方をしているから似ている――、と言うだろう。  

>そうした書き方をすると、作品のテーマと関係のないもの、つまり余計なものに読者の注意を拡散させることなく、肝心なところに集中させることができるのではないか。  

     *

 江國さんの小説に「リアリティのなさ」を感じて不満に思う読者は、リアリズムに徹した「読んでいて息苦しい」小説を好むのではないだろうか。あるいは「これこそが文学(小説)だ」と高く評価するのではないか。  


     *


 話を変えよう。     

 今ごろになって気づくとは、かなりうかつなことであるが、江國さんの小説と漱石の小説の類似点として、私は次の2点を学んだ。  

1)小説では、読者の注意を散らすことになる、余計な細部やテーマとは無関係なことを省くという書き方がある。  

2)読んでいて息苦しくなるような私小説的な記述を排除した書き方がある。うまく書けば多くの支持者(=読者)がつくだろう。ただし、この書き方に徹するならば、「リアリティがない」とか「絵空事である」といった非難を覚悟しなければならない。        

     *

「何を今さら――」とか、「そんなことは、別に両作家だけの書き方ではないじゃないの」とか、「あんたは、これまでに何を読んできたの?」という具合に、人から言われそうなことを、きょうの記事に書いた。    

 私は、やはり、かなり勉強不足なうえに、かなりおバカな作家志望者らしい。 (16:22)  

 

【※以上のエッセイは、3日間というあまりにもの短命に終わった、Amebaブログのバックアップから再現したものです。】



12.読まなきゃあ、詠めない

2012-08-28

10:11:28

テーマ:創作活動について

 

 1年半ほど前にアメブロで知り合った人がいる。年配の方で、小説とエッセイを書いている。物知りで謙虚な人なので、私はその人になついた犬のように、くっついて回っていた時期があった。

 その人は謎めいているところがあり、また不可解な行動もする。自己破滅的な面もあって、危うい感じの人物である。深いところで私と似ているような気がする。

 私はアメブロにあるグルっぽのなかで、作家志望者関連のグルっぽには今は参加していない。以前は複数のそうしたグルっぽに入会していた。だが、作家になれそうなたたずまいの人との出会いはなかった。そういう私も作家になれそうな活動をしていたわけではないが。

     *

 その人とは、作家志望や読書関連ではないグルっぽを通して知り合い(哲学のグルっぽだったような記憶がある)、主にメッセでやりとりをしていた。ある時、小説を読むことと書くことの関係が話題となった。小説家になるためには、どれくらいの読書量が必要なのかと私が尋ねた

 読まなきゃ、詠めない――とその人からの返事にはそう書かれていた。知的な言葉の遊びというか、半端じゃない知識の裏付けのありそうな、ひねりのあるダジャレやオヤジギャグを連発する人なので、さすがうまいなあと思った。

 基本的に何をどう書いてもいいという自由と柔軟性が、小説にはある。そんな理屈を見聞きした覚えもある。とはいえ、エンターテインメントであろうと、いわゆる「純文学」であろうと、それぞれの作品には何らかのパターン(模様・様式)と様式がある。

 正確に言うと、小説とは、その様式を各書き手が崩すことで存続しているとも言える。停滞しているようで、小説は変容し続けているのだ。

     *

 話がややこしくなりそうなので、はしょってこの記事を終わらせよう。要するに、プロの作家になるためには、豊富な読書体験が必要だということだ。

 読まなきゃ、書けない。

 造らなけりゃ、崩せない。


  【※以上の文章は、いわゆるサブアカに書いたものです。この時期には、めちゃくちゃな行動をしており、サブアカをつくってや潰すなどという「代償行動」をしていました。本日(2012/09/17)、「読まなきゃ、詠めない」というエッセイを書いたことをふと思い出し、「あれは何に書いたのか」と気になり、google で検索してキャッシュを復元したのが上記のエッセイなのです。サブアカですので、語り手の「私」はでまかせであり、「1年半ほど前にアメブロで知り合った人」なんていません。嘘です。念のため。】

 



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