目次
もくじ
もくじ
1.新しい文学の形と新しい文章
1.新しい文学の形と新しい文章
2.ライトノベルと識字率
2.ライトノベルと識字率
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
4.神とはヒトの口癖である (前編・後編)
4.神とはヒトの口癖である(前編)
4.神とはヒトの口癖である(後編)
5.再現とは、でっちあげること (全5章)
再現とは、でっちあげること (1)
再現とは、でっちあげること (2)
再現とは、でっちあげること (3)
再現とは、でっちあげること (4)
再現とは、でっちあげること (5)
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
7.「作家デビュー」
7.「作家デビュー」
8.なぜ、江國香織さんなのか?
8.なぜ、江國香織さんなのか?
9.小説か、エッセイか?
9.小説か、エッセイか?
10.書き手の孤独
10.書き手の孤独
11.江國香織さんと夏目漱石
11.江國香織さんと夏目漱石
12.読まなきゃあ、詠めない
12.読まなきゃあ、詠めない
13.短命に終わったブログの復元
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奥付
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11.江國香織さんと夏目漱石

11.江國香織さんと夏目漱石

2012-08-12 16:24:29
テーマ:小説を読むことについて

 

 私には江國さんと夏目漱石が似ているように思えてならない。これは、以前から持ち続けている印象だ。  「どこが? どんなふうに?」と尋ねられたとしても、きっと満足のいく回答を口にすることはできないだろう。    

 なぜなのか? 今、考えてもはっきりとした理由というか根拠が見つからないでいる。苦しまぎれに答えるなら、両作家が作品にとって余計なものを徹底的に排除するという書き方をしているから似ている――、と言うだろう。    

 そうした書き方をすると、作品のテーマと関係のないもの、つまり余計なものに読者の注意を拡散させることなく、肝心なところに集中させることができるのではないか。    

 とはいえ、江國さんの小説では肝心なところは必ずしも明確ではなく、言語化しにくい。強いて言うなら生理的と言ってもかまわないものだという感じがする。さらに言うなら、読者に生理的に迫ってくるパワフルなものだと思われる。  

 曖昧な感想で恥ずかしい限りである。      

 

     *

 

 きょうの午前に、ツイッターでタイムラインを眺めていたとき、はっとするようなツイートを目にした。誰のツイートだったかは、残念ながら思い出せないが、次のような意味の発言だった。  


>――江國香織さんの小説のリアリティのなさにはへきえきする、と友達が言った。その友達が好きな三島由紀夫の小説のリアリティはどうなのだ、と私は言い返したい気持ちになった。

      *    

 リアリティのなさ――。    

 そうなのかもしれない。いや、きっとそうだ。そうにちがいない。だが、「リアリティのなさ」をさらにネガティブに言うなら、「荒唐無稽」とか「絵空事」となる。これは小説に対する痛烈な罵倒である。そこで思い出したのが、文学史で習った図式である。    

 つまり、明治時代後期から大正時代にかけての「文壇」の主流であった「自然主義文学」と、それとは対照的な立場にあったという夏目漱石を始めとする「余裕派」が併存したという図式である。    

 漱石の作品については、私はよく知らない。ただ、『道草』を去年の暮あたりに再読した記憶がある。読んでいて息苦しい作品だった。それまでに読んだことの成る漱石の小説は、読んでいて退屈だと感じることはあっても、息苦しいと感じたことはない。  

『道草』は新潮文庫で読んだのであるが、解説は柄谷行人が書いている。そのなかに、上で述べたような文学史的な図式に触れた個所があった。  


「余裕派」とか「低回派」と批判的に呼ばれていた漱石が、当時の主流である自然主義文学の系譜につらなる私小説や心境小説に近い作品を書いたことで、「自然主義文学系の文壇から高く評価された。」と柄谷行人は書いている。

     *

 ちなみに『道草』という小説は、漱石の作品としては珍しい自伝的なもので、私小説とみなしてもかまわないほどに、漱石の伝記的な事実を踏まえて書かれていると言われている。だから、私は読んでいて息苦しさを覚えたのであろう。  


『道草』を読んでいて、もう一つ感じたことがあった。主人公である大学教師とその妻や、親戚にあたる人物たちとの関係や摩擦が描かれているのに対し、主人公の職場である大学での場面が出てこないのである。    

 作家志望の私は、『道草』のそうした書き方に興味を持った。「そうか、こういう書き方もできるのか」という具合に感心したのである。    

 このブログ記事の冒頭近くにある個所を以下に引用する。  

>両作家(江國香織と夏目漱石)が作品にとって余計なものを徹底的に排除するという書き方をしているから似ている――、と言うだろう。  

>そうした書き方をすると、作品のテーマと関係のないもの、つまり余計なものに読者の注意を拡散させることなく、肝心なところに集中させることができるのではないか。  

     *

 江國さんの小説に「リアリティのなさ」を感じて不満に思う読者は、リアリズムに徹した「読んでいて息苦しい」小説を好むのではないだろうか。あるいは「これこそが文学(小説)だ」と高く評価するのではないか。  


     *


 話を変えよう。     

 今ごろになって気づくとは、かなりうかつなことであるが、江國さんの小説と漱石の小説の類似点として、私は次の2点を学んだ。  

1)小説では、読者の注意を散らすことになる、余計な細部やテーマとは無関係なことを省くという書き方がある。  

2)読んでいて息苦しくなるような私小説的な記述を排除した書き方がある。うまく書けば多くの支持者(=読者)がつくだろう。ただし、この書き方に徹するならば、「リアリティがない」とか「絵空事である」といった非難を覚悟しなければならない。        

     *

「何を今さら――」とか、「そんなことは、別に両作家だけの書き方ではないじゃないの」とか、「あんたは、これまでに何を読んできたの?」という具合に、人から言われそうなことを、きょうの記事に書いた。    

 私は、やはり、かなり勉強不足なうえに、かなりおバカな作家志望者らしい。 (16:22)  

 

【※以上のエッセイは、3日間というあまりにもの短命に終わった、Amebaブログのバックアップから再現したものです。】