目次
もくじ
もくじ
1.新しい文学の形と新しい文章
1.新しい文学の形と新しい文章
2.ライトノベルと識字率
2.ライトノベルと識字率
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
4.神とはヒトの口癖である (前編・後編)
4.神とはヒトの口癖である(前編)
4.神とはヒトの口癖である(後編)
5.再現とは、でっちあげること (全5章)
再現とは、でっちあげること (1)
再現とは、でっちあげること (2)
再現とは、でっちあげること (3)
再現とは、でっちあげること (4)
再現とは、でっちあげること (5)
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
7.「作家デビュー」
7.「作家デビュー」
8.なぜ、江國香織さんなのか?
8.なぜ、江國香織さんなのか?
9.小説か、エッセイか?
9.小説か、エッセイか?
10.書き手の孤独
10.書き手の孤独
11.江國香織さんと夏目漱石
11.江國香織さんと夏目漱石
12.読まなきゃあ、詠めない
12.読まなきゃあ、詠めない
13.短命に終わったブログの復元
13.短命に終わったブログの復元
奥付
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9.小説か、エッセイか?

9.小説か、エッセイか?

2012-08-11 14:17:38

テーマ:小説を書くことについて

 これまで小説とエッセイを書いてきた。自分のなかでは両者がかなり近いものである場合と、かけ離れたものとして考えられる場合がある。    

 この数年はエッセイを書くことが多かった。小説を書きはしたが、過去の作品に手を加えただけで、新作を書いたわけではない。  

 

 私にとって小説とエッセイとが近いという場合には、2つの形式がある。  

1)小説でありながら、その内容にエッセイ風の文章が織り込まれている形式がある。たとえば、夏目漱石の『吾輩は猫である』には、小説というより論文かエッセイのような理屈っぽい文章が頻出する。その多くは、語り手の猫の考えていることであったり、猫が耳にした登場人物同士の会話という形としてあらわれる。同じく漱石作の『草枕』は、小説の衣をまとったエッセイではないだろうか。  

2)エッセイ風の語りが、私小説や心境小説に近づくという意味で、小説とエッセイとが限りなく接近し、そのどちらとも取れる文章がある。この形式に日記を含めてもかまわないだろう。現在、この種の形式の文章として最も盛況なのはブログである。        

     *

 小説とエッセイとのジャンル分けが難しくなってきているのは、主にブログが普及しているからだというのが持論である。誰もが小説家、あるいはエッセイスト、または小説家兼エッセイストになれる時代になったとも言えるだろう。  

     *    

 この数年間におびただしい数の「小説もどきであると同時にエッセイもどきである文章」を書いてきたという思いが、私にはある。    

 それだけではない。この国でブログを書いているほとんどの人が、私と同様の「もどき」を書きつづっているのではないだろうか、と問いたい気持ちもある。  


     *    

 本日は、このブログの初日だ。  

 

 ブログを開設した理由は、上で述べた「小説もどきであると同時にエッセイもどきである文章」ではなく、「正真正銘の小説」を書くためなのである。    

 それなら、こいつは、なぜブログという「もどき」を書いているのだ? そう考える人がいるにちがいない。もっともな疑問だと思う。    

 その疑問には、次のように答えよう。  


「正真正銘の小説」を書ためには、「小説もどきであると同時にエッセイもどきである文章」を書かずにはいられないからだ。    

 正直に言えば、さみしいのである。ブログを書くことに慣れた私にとっては、仮想の友人や仲間がいなくては小説を書けない――。そう思うまでに、私はネットに依存する人間になってしまった、とも言えるだろう。  

「正真正銘の小説」を書く過程で、こうしたブログを書くことにより、自分の向かう方向を確かめたいという思いもある。つまり、「他者」の目を意識することで、独りよがりの作品にならないようにしようという功利的な心理も働いている気がする。(14:19)  


 
【※以上のエッセイは、3日間というあまりにもの短命に終わった、Amebaブログのバックアップから再現したものです。】