目次
もくじ
もくじ
1.新しい文学の形と新しい文章
1.新しい文学の形と新しい文章
2.ライトノベルと識字率
2.ライトノベルと識字率
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
4.神とはヒトの口癖である (前編・後編)
4.神とはヒトの口癖である(前編)
4.神とはヒトの口癖である(後編)
5.再現とは、でっちあげること (全5章)
再現とは、でっちあげること (1)
再現とは、でっちあげること (2)
再現とは、でっちあげること (3)
再現とは、でっちあげること (4)
再現とは、でっちあげること (5)
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
7.「作家デビュー」
7.「作家デビュー」
8.なぜ、江國香織さんなのか?
8.なぜ、江國香織さんなのか?
9.小説か、エッセイか?
9.小説か、エッセイか?
10.書き手の孤独
10.書き手の孤独
11.江國香織さんと夏目漱石
11.江國香織さんと夏目漱石
12.読まなきゃあ、詠めない
12.読まなきゃあ、詠めない
13.短命に終わったブログの復元
13.短命に終わったブログの復元
奥付
奥付

閉じる


5.再現とは、でっちあげること (全5章)

再現とは、でっちあげること (1)

のっけから突然のことで申し訳ありませんが、「神とはヒトの口癖である」という私の書いたエッセイから引用させてください。


     *


(ここからが引用です)


皆さんが、今お読みになっているこの文章というかエッセイでは


*神とはヒトの口癖である。


をめぐって思いつくままに書いてみるつもりです。


私は即興的に文章を書く癖があるので、これから先にどんなことを書くか、はっきりしていません。ぼんやりとした見通しはありますけど。


おおまかに要約すれば、さきほどの引用とあまり変わらない文章になるでしょう。


「口癖」という言葉を「くちぐぜ=くちくせ」、あるいは「口・癖」と書くと、

 

*「癖」

 

という言葉に目が行きます。すごく気になります。もちろん、私の場合ですが。

 

     *

 

*くせ・癖・曲

 

と分けることも可能でしょう。「分ける」という作業もまた、ヒトにとって基本的な行為です。

 

「くせ」は、大まかに2つに「分ける」ことができるような気がします。

 

(A)ほとんど無意識におこなうくせ=本能的行動

 

(B)真似て身に付けるくせ=学習された行動

 

うさんくさいですね。嘘っぽいですね。よく目にする図式ですね。どこかで見聞きした記憶をたどって書いた本人がそう思います。でも、話を簡単にするためには「分ける」という、きわめてうさんくさい作業をしなければならないようです。


そのうさんくささの元凶は、


*ヒトは分けなくては言葉とそれが指し示すと思い込んでいる物・事・様とを認識できない。


もう少し正確に言うと、


*ヒトは森羅万象を分けることなしに、森羅万象の断片あるいはその代理を認識できない。


ことにあるみたいです。


どうして分けるのでしょうね? 誰かに頼まれて分けているのでもなさそうです。


たぶん、


*ヒトは自分が「小さい=矮小だ」から分ける。


のだと勝手に思っています。


(ここまでが引用です)


     *


引用文では、最後のほうでお茶を濁しています。横着をしたとも言えます。私の場合には、横着をすると後々まで気になります。軽い罪悪感まで覚えるのです。


以上の文章を書くにあたり、ぼんやりと頭に浮かんだ文章があります。気になるので、どこで書いたのかを突き止めました。


約1年間かけて書き続けた『うつせみのあなたに』(全11巻)の最終巻『うつせみのあなたに 第11巻』に収めた「10.02.11 うつせみのたわごと -10-」という記事にありました。


恐縮ですが、またもや以下に引用することをお許しください。


     *


(ここからが引用です)


 わけるのは、ひとがちいさいからに、ほかならない。ちいさいから、わける。おおきなものは、みえない。おのれがちいさいから、みえないだけ。おのれがちいさいから、わけるだけ。それだけなのに、おもいちがいをしている。これを、かしこいとみるか、おろかとみるか。ひとそれぞれ。つねに、おごりたかぶるものもいれば、おそれつつしみ、かしこまるたちのものもいる。ひとそれぞれ。ひとのたちは、ときによる。ときとともに、かわることもある。おおむね、おろかで、おごりたかぶる。それが、ひと。くせ。たち。すじ。そうしたものまで、げんがきめるのだという。そんな、はなしもある。


     *


 ちいさくしてみて、みえたとおもいこむ。おのれがおおきいとおもえば、ちいさなものを、あなどることができる。みくびることができる。みくだす。みきわめたと、おもいこむ。そのくせ、おおくのひとは、いまだに、かみをしんじるという。にまいじた。うそつき。あしき、くせ。こころのうちでは、このほしをおさめる、おおかみだとおもっているくせに。おもいと、おこないが、おおきくずれている。くせもの。


(ここまでが引用です)


     *


なぜひらがな尽くしなのかと申しますと、現在起こりつつあるさまざまな事象を、できる限り大和言葉系の語で書こうという連載をしていたからなのです。


*日本語は大和言葉系と漢語系の2種類の語群から成り立っている。


という、いかにも本当らしい、つまり、いかにもうさんくさい決まり文句がありますね。それを信じた振りをして実践したものなのです。


で、上のひらがな尽くしの文章は、遺伝子と、一部ナノテクノロジーをめぐって書きつづった駄文だとお考えください。


ついでに、また引用というかコピーペーストさせていただきます。


冒頭で紹介した「神とはヒトの口癖である」で、もう一個所横着をしたというか、話が大きくなりそうなので、早々に切り上げた部分があります。以下に引用します。


     *


(ここからが引用です)


*一方の広義の言葉とは、話し言葉、書き言葉、表情や仕草や身ぶり手ぶりを含む身体言語=ボディランゲージ、手話、点字、指点字、音声(発声)、音楽、合図、映像、図像、さまざまな標識や記号や信号などを指すとします。


「広義の言葉」を感覚的に知っていただきたいと思っています。たとえば、あなたが知り合いと前日の夜に見たテレビ番組について話しているとしましょう。相手は、その番組を見損なったと仮定します。

相手に話しているうちに、あなたはその番組の登場人物になったような気がしませんか? ある科白を覚えていていれば、臨場感を盛り上げるために、声色や表情まで登場人物を真似て再現しようとする。つまり、語るのであり、まさに騙るのです。


このように、声、表情、動作、行動といったものまでが広い意味での言葉になり得るのです。というより、広義の言葉に他ならないのです。


ここで、確認しておきたいことがあります。上記の「を真似て再現しようとする」というフレーズの「再現」について考えてみましょう。


私がち密な論理的操作ができないことは、ここまでの文章をお読みになればお分かりになるでしょう。ですので、思い付きで書きます。


*ヒトのいう「再現」などはあり得ない。ヒトが「再現」と呼んでいる作業は「捏造」か、せいぜい「作文」にすぎない。


というのですが、思い付きなので、この点についてはこれ以上書けません。


(ここまでが引用です)


     *


長めの引用を3回もしていまいました。ごめんなさい。短く引用すると前後関係が分からなくなりそうなので、長々とコピペしました。


で、コンテクストがつかめたところで、3編の文章から最も大切な部分を取り出します。


1)*ヒトは分けなくては言葉とそれが指し示すと思い込んでいる物・事・様とを認識できない。
=*ヒトは森羅万象を分けることなしに、森羅万象の断片あるいはその代理を認識できない。


2)*わけるのは、ひとがちいさいからに、ほかならない。ちいさいから、わける。おおきなものは、みえない。おのれがちいさいから、みえないだけ。おのれがちいさいから、わけるだけ。

(中略)

ちいさくしてみて、みえたとおもいこむ。おのれがおおきいとおもえば、ちいさなものを、あなどることができる。みくびることができる。みくだす。みきわめたと、おもいこむ。
=*ヒトは自分が「小さい=矮小(わいしょう)だ」から分ける。


3)*ヒトのいう「再現」などはあり得ない。ヒトが「再現」と呼んでいる作業は「捏造(ねつぞう)」か「なりきり」か「おゆうぎ=演技」か、せいぜい「お絵描き」や「作文」にすぎない。


要するに、


1)ヒトという種は森羅万象と呼んでいるものを自分の知覚機能を使ってつかむほどしか認識できない。


し、


2)森羅万象などという、自分よりもとてつもなく大きなものを相手にするには、自分の「大きさ→小ささ」に合わせて分けるしかない。


し、


3)森羅万象を刻々ととらえそこなっているヒトは、いったん過ぎ去ったものを再び起すことはできないが、でっちあげることならできそうだ。


という感じなのです。


     *


で、ヒトは森羅万象とか世界とか宇宙とか真理・真実・事実・現実とかを、


*どのようにとらえそこなっているのか


について考えようと思っているのです。ここで確認しておきたいことがあります。それは、


*どのようにとらえそこなっているのか



*どのようにとらえているのか


とには、大差がないということなのです。


言い換えると、「ここはとらえている」が「あそこはとらえそこなっている」などという単純な言葉の綾にとらわれていては、それこそ、とらえそこなっているに等しい。そんな感じなのです。


なぜ、そうなるのかと申しますと、たとえばヒトのとらえ方を、ワンちゃんやネコちゃんやミジンコちゃんやゾウリムシちゃんのとらえかたと比べれば、


*ヒトのとらえ方が絶対的なものではなさそうだ。


と感じられるからなのです。


残念ながら、ゾウリムシちゃんのとらえ方も、ワンちゃんのとらえ方も、私にはとらえることはできません。


*想像してもっともらしい話をでっち上げる


ことなら、広義の生物学の各分野をそれぞれ受け持っている学者さんたちのお仕事でしょう。

 

 

 

 




再現とは、でっちあげること (2)

数を数えるという、ヒトの習性について考えています。学者でも学生でもないので、学問の一環として、「数える」を考察したり、論じたりすることはできません。つまり、身の程を知り、自分ができる範囲のことをするしかないというわけです。

 

頭に浮かんだことを継ぎ接ぎする、とも言えるでしょう。パッチワークです。やっつけ仕事です。ブリコラージュです。

 

たとえば、「数」という概念や、「数える」という行動の起源について、実証可能な考察をし、学術論文として、該当する専門分野の雑誌や紀要に掲載することは、私にはできません。でも、素人として学問ではなく、楽問をすることなら、できそうです。楽しくお勉強。ゲイ・サイエンス。

 

ちなみに、今使った「ゲイ」とは英語の gay という語にくっ付いている、いろいろな意味のなかで、「楽しい」という意味です。一方「サイエンス= science 」には、「科学」以外に「学問」や「知識」という意味もへばり付いています。要するに、Gay Science とはニーチェの『悦ばしき知識』という著作の英訳名だとのことです。

 

     *     

 

前置きと弁解はそこまでにし、本題に入ります。

 

数えるという行為を詳しくみていきましょう。こういう時には、大昔にヒトはどうやって数えるという行為を身につけ、数という考え方をどのように習得したのかと、思いをめぐらさないではいられません。

 

すると、前置きと矛盾する作業をしなければならなくなります。つまり、「数える」と「数」の起源を探りたくなるということです。大変な作業でしょうね。それなら、乳幼児を対象にその発達段階を数年かけて観察すれば面白いし楽しいし、起源を探るよりずっと簡単だし、それなりの成果もあがるような気がします。

 

素人であれば、「数」や「数える」の起源を探るのではなく、発達段階を観察するほうが、はるかに楽でしょう。とはいうものの、残念ながら、子を持った経験がなく、これからもなさそうな者にとっては、未就学児を日常生活において観察することは無理だと思われます。

 

そうなると、空想・妄想して、話をでっち上げるという方法もあり得るのではないでしょうか。ぶちゃけた話が、嘘をつくわけです。これなら、できそうです。根っからの嘘つきですので。

 

     *

 

では、これから与太話をいたします。与太話、出まかせ、でたらめ、たわごとの類は、得意だと自負しております。なにしろ、2008年の末から2010年の3月にかけて、ほぼ毎日ブログで記事を書き続けていました。

 

現在、その与太話集は、「哲学的エッセイ集」などという、これまた出まかせの宣伝文句をつけて電子書籍として販売されています。よろしければ、以下のURLをクリックして、『うつせみのあなたに』(全11巻)の最終巻である『うつせみのあなたに 第11巻』と別冊『うつせみのあなたに ダイジェスト』を、文字通りご笑覧ください。

電子書籍ですから、紙の本に比べれば格安です。なお、『ダイジェスト』だけは無料ですので、このアホがどれくらいアホかの程度を知るには、それにざっと目を通すだけで十分だと思います。

 

     *

 

話を戻します。嘘と与太話でしたね。

 

では、「数える」と「数」について、あれこれ出まかせを書かせていただきます。

 

「かぞえる」と「かず」は、「みる」や「わける」と大いに関係がある気がします。また、ヒト自身の身体とも深いところでかかわっている感じがします。

 

足元の地面に複数の石ころが固まってあったとします。そして、それを数えようとしたとします。みなさん、ものを数えるさいには、どうなさいますか? 話が漠然としていますので、足元に転がっている小石は親指くらいの大きさです。その小石が、そうですねえー、50個あったとしましょうか。その数を知らないヒトが、数えようとしたと仮定しましょう。

 

みなさん、どうやって数えますか? 石が固めて置いてあれば、ひとつ、ふたつ、みっつ……という具合に、数えた石をよけていく。つまり、数えた石と数えていない石とを分けていく。

あるいは、途中で石を数え損なうというリスクと、その結果生じる手間を予想し、数えながら五つずつ固めていき、最初から数え直さなければならない手間を予め省いておくヒトがいても不思議ではありません。

 

     *

 

さて、ここまでの出まかせの話を検討してみましょう。なぜ、五つなのでしょう。上の与太話では、あっさりと「五つずつ固めていき」なんて言っていましたよね。これは、たぶん十進法を前提にしているからではないでしょうか。

 

五つではなく二つずつなら、十二進法で数えているという可能性も高いでしょうね。実際、十二進法は今でも用いられています。ダースがそうですね。時計がそうですね。

もっと変なものあります。フランス語を習った時に、最初は十進法でいくのですが、途中から数え方が変わったという記憶があります。

えーっと、あれは確か……。

 

どのようになっているのかは、書棚の仏和辞典や和仏辞典やインターネットでの検索で確かめることができるはずです。でも、そういうお勉強がきらいなので、ここではしません。ごめんなさい。

 

大切なことは、「数える」という行為は「分ける」という作業を前提にしている。あるいは、「数える」と「分ける」とは同時に起こる作業だ、と言えそうです。「単位」という言葉と作業がありますが、あれはまさに「分ける」と「数える」が一致している証拠みたいなものですよね。

 

メートルとかヤードとか、グラムとかオンスとかいう単位が頭に浮かびました。今挙げた単位を使っての作業では、「はかる」という言葉を使いますね。長さは物差しや巻尺ではかり、重さは天秤(てんびん)や台秤(だいばかり)ではかります。

 

そういう時に、ヒトは目盛を見て、長さや重さを知ります。目盛って、印がついていませんか? そうした道具(計器)を使う際には、印を見て数えてやいませんか? 

 

     *

 

以前に、「はかる」というタイトルでブログ記事を書いたことがあります。ちょっとPCをいじって調べてみます。

 

     *

 

はい、はい、ありました。「10.02.27 はかる -1-」~「10.02.XX はかる -4-」in 『うつせみのあなたに 第11巻』(電子書籍)にありました。なお、「はかる」シリーズの解説は、 「10.03.XX こんなことを書きました(その20)」で試し読みできます。その解説は、ページのうんと下のほうにありますので、お見逃しにならないよう、ご注意ください。

 

だいぶ前に書いた文章なので、これからさっそく読み直し、今書いている「再現とは、でっちあげること」シリーズのネタを探してみます。

 

リサイクル、リユース、自己引用、自己輸血、自己コピペ、引用の織物、ブリコラージュ、ごった煮、パッチワーク、継ぎはぎ、変奏、変相、変装――。

このシリーズでは、電子書籍『うつせみのあなたに』(全11巻)を頻繁に参照し、必要な部分を抜き出して組み合わせたり継ぎ接ぎしていく予定です。

とはいえ、別に電子書籍を購入なさらなくても話がわかるように書いていますので、ご心配はなさらないでください。







再現とは、でっちあげること (3)

「思いをはかる」という言い方がありますね。「重いをはかる」と持って行きたいところなのですが、そうは言わないようです。「重さをはかる」なら違和感はありませんね。

 

どうしてこんなことにこだわっているのかと申しますと、広辞苑で「おもう・思う・想う・憶う・念う」を引いてみると、

 

*「おもう」と「おもい・重い」が同じ語源から来ているみたい。

 

という記述があるからなのです。さらに、

 

*「おもう」と「おも・面」とがきょうだいみたい。

 

という感じに受け取れる説明があります。

 

ここで、お断りしなければならないことがあります。このブログで始まった「再現とは、でっちあげること」シリーズに限らず、電子書籍化された『うつせみのあなたに』全11巻でも、さかんに広辞苑で調べたという意味のことが書かれています。別に、広辞苑が偉いとは思っていませんし、広辞苑のお墨付きが欲しいなどという気持ちはありません。

 

広辞苑というのは、語義の説明が多いうえに、語源に触れてある語も多く、たまたま私の持っている電子辞書に入っていて実に使い勝手がいいのです。だから、使っているだけです。さらに言うなら、駄洒落を作るのにも役立ちます。駄洒落大好き人間には、頼もしい道具=玩具なのです。

 

念押しに申しますと、「正しい」vs.「正しくない」ごっこは嫌いです。

 

     *

 

話を戻します。「思いをはかる」と「重さをはかる」でしたね。そういえば「思いをおしはかる」とも言えそうな気がします。

 

さて、この行までに「はかる」とひらがなで書いてきました。「はかる」をまたもや広辞苑で引くと、「はかる・計る・測る・量る・図る・謀る・諮る」とあるだけでなく、別項として「はかる・別る」とあります。その別項の説明に興味をそそられました。

 

【(上代東国方言)⇒「わかる」に同じ。】

 

とあるのです。駄洒落とオヤジギャクが大好きな者としては、にやりとするほかありません。うれしいのです。わくわくするのです。この場合には、二重にうれしいです。

 

1)「はかる」と「わかる」の接点があった。

 

2)「はかる」と「わかる」の接点は方言であった。

 

特に、「方言」というのがいいです。大きな国語辞典では、「訛って」「転じて・転」「当て字・字を当てた結果」「約・約音」「……か」という、説明=申し訳==言い訳=弁解=「よく分からないのですけど、たぶん」=「ま、いっか」がよく出てきます。その歯切れの悪さが、おちゃめで、なかなかいい趣をかもし出しているのです。

 

そうですよね。ヒトは、辞書を作るために言葉を使っているわけではありません。すぱっとした切れ味のいい語義を辞典に載せるために、しゃべっているわけでもありません。そこんところを、勘違いしているヒトたちが、実に多い感じがします。

 

「何だ、その変な言い方は! 辞書を見ろ。OOって書いてあるじゃないか」

 

とか

 

「そんな言い方は、日本語にはない。いや、日本語じゃない」

 

という妄言をお聞きになったことはありませんか? 辞書さまさまって感じですよね。辞書は、言葉を使うヒトたちがいて存在するものであり、その逆ではありません。

 

     *

 

話を戻します。「はかる」と「わかる」でしたね。この辺については、電子書籍化された『うつせみのあなたに 第3巻』の09.03.26~27「かわる(1)~(5)」と09.03.28~29「かわる(6)~(10)」に書きましたので、ご興味のある方はご参照ください(全電子書籍は、パブーのマイページに収めてあります)。

 

ご興味のない方は、そのまま読み続けていただいて一向にかまいません。【注:「わかる」が「かわる(1)~(10)」シリーズにあるのは間違いではないか、とお思われた方がいらっしゃるかもしれませんが、間違いではなく「かわる」で「わかる」が論じられています。】

 

ここで、「はかる」と「わかる」を「見える化」してみましょう。ちなみに、「見える化」なんて大嘘ですから、その言葉を妄信なさらないようにお願いいたします。ここでは、話を進めるための「レトリック=トリック=ごまかし=景気づけ」でしかありません。

 

     *

 

「はかる・ hakaru ・計る・測る・量る・図る・謀る・諮る」「はかる・ hakaru ・別る」
     
「わかる・ wakaru ・分かる・判かる・解る・別る」
     
「かわる・ kawaru ・変わる・代わる・替わる・換わる」

 

「かえる・ kaeru ・変える・代える・替える・換える・孵る」

 

「かえる・ kaeru ・帰る・返る・反る・還る」

 

「かえる・ kaeru ・買える」

 

「かえる・ kaeru ・飼える」

 

「かえる・ kaeru ・蛙・蛤・蝦」

以上です。

 

     *

 

「はかる」と「わかる」以外の語も付け足してありますが、刺身のつまみたいなものです。深い意味はありません。

 

 ただし、「かわる」と「かわる」について気になる方は、繰り返しになりますが、上述の『うつせみのあなたに 第3巻』の09.03.26~27「かわる(1)~(5)」と09.03.28~29「かわる(6)~(10)」をお読みいただくのがよろしいかもしれません。もちろん、気にならない方は、お読みいただく必要はぜんぜんありません。そのまま、この記事の続きをお読みください。

 

ところで、みなさん、「はかる」と「わかる」と「かわる・かえる」を漢字で書き分けられるでしょうか? 難しいですよね。

 

以前、ある種の売文業をしていた頃には、『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(共同通信社刊)と『朝日新聞の用語の手引き』(朝日新聞社刊)を使うように命じられ、その2冊を参照しながら書いたものです。

 

     *

 

ところで、このエッセイは、テーマ別に書きなぐったメモを参照しながら、アドリブ=即興で書いています。これから雑事をしなければならないので、続きは次回ということでご了承ください。

 

雑事の合間に、上で挙げた「はかる」「わかる」「かわる」「かえる」について頭に浮かんだことをメモしておき、次回に備えます。







再現とは、でっちあげること (4)

前回までのまとめをします。まとめをしながら、頭のなかを整理していきます。

 

「かずをかぞえる・数を数える」の「かぞえる・数える」には、単位が伴う。単位は、「わかる・分かる・わける・分ける」という作業と不可分である。

 

たとえば、「物差し」には「目盛」がある。「目盛」とは、「わけられた・分けられた」結果としてある印だと言える。目盛は、「かず・数」として表すことができる。つまり、数値化できる。

 

*「かず・数」は「かぞえる・数える」対象である。

 

「はかる」という言葉がある。「はかる」は、数値化されて求められることにより、「かぞえる・数える」対象となる。

 

「はかる」の対象には、何があるだろうか? また、「はかる」と「かぞえる」とは、どれくらい重なっているだろうか? 単位というものが出てくると、「はかる」は「かぞえる」になるような気がする。

 

ここで確認しておくべきことがある。この「かぞえる」シリーズで用いている言語が日本語であるということだ。「かぞえる・かず」をめぐる「話=作り話=フィクション」は、日本語という枠のなかでのお話にすぎない。

 

以上を書いて、何となく頭のなかが整理できたような気がします。

 

     *

 

度量衡という言い方がありますね。言い換えると、長さと容積(ものが占める大きさ)と重さです。それに沿って考えてみましょう。

 

*「ながさ・長さ」は「はかる・測る」。

 

*「ものがしめるおおきさ・ものがしめるおおきさ」は「はかる・量る」。

 

*「おもさ・重さ」は「はかる・量る」。

 

「はかる」に当てる漢字が使い分けられていることは、それほど重要な意味を持ってはいない感じがします。まさに感字です。いい加減なものだと考えてもいいでしょう。

漢字の使い分けによって、言葉の「精度=正確さ=論理性=お化粧=こけおどし」を増すなんて冗談も聞こえてきそうですが、このブログではそうした「お山の大将ごっこ」には加担しません。

 

さて、「はかる」の対象は、もっとたくさんありますが、この辺でとどめておきます。実は、こうした理系的な作業は、大の苦手なのです。

 

いずれにせよ、単位を用いることにより、いろいろなものが「かぞえる・数える」対象となると言えそうです。「目盛」という言葉にあるように、「目」で「目盛=印」を「かぞえる・数える」対象が圧倒的に多い気がします。

 

     *

 

話がここまで来ると、デジタルという言葉を使わなければなりません。弱いんです。デジタルとかいう「お話=作り話=フィクション=出まかせ」には――。苦手なので、今みたいに、いろいろな言葉を「=」でつないで悪態をつく癖があります。デジタルが出まかせになってしまうんです、このブログでは(罵倒ですから、深読みはなさらないようにお願いいたします)。

 

でも、そうじゃありませんか? 「デジタル」は「で・じ・た・る」という「言葉=言の葉=語」であると同時に、広義の「言葉=言語=言語体系」の一つである「数字」を用いているのですから。

 

「デジタル・ digital 」が、語源的に「指」と関係があることをご存知の方は多いと思います。コンピューターは、1と0を用いる二進法でデータを処理するらしいことも、ご承知でしょう。現在、コンピューターなしでは、ヒトの世界は成り立ちません。その前提として指があることは、分かるようで分かりません。お勉強の嫌いな者としては、この部分はパスします。

 

     *

 

今、ここにあるもので作業を進める――というのが、このブログのスタンス、おたんこなすです。横着と言えば横着、エコと言えばエコ、とにかく安上がりな方法で、このブログの記事を書いています。

 

「今、ここに」の「ここ」とは、自分の周囲であり、自分の内部でもあります。周囲と言ってもせいぜい半径が1から2メートルくらいでしょうか。内部と言っても、記憶や意識や認識という大げさな言葉ではなく、単に「おもい・思い・想い・念い」くらいの曖昧模糊(あいまいもこ)としたものです。

 

曖昧であるということは、得体の知れない、いろいろな「もの・物・者」や「こと・事・言」や「さま・様・状・方」を指しますから、

 

*「おもい・思い・想い・念い」は「おもい・重い」。

 

と言えそうです。というか、「おもい」はそうとう「おもい」のかもしれません。

 

ちなみに、「おもい・重い」が、「おも・面」や「おも・重・主」ともからみ合っているらしいことは、広辞苑を引くと自信無げに書いてあります。やはり、曖昧模糊としているのでしょうね。おもっていたよりも、かなり「おもい」のでしょうね。

 

     *

 

前回の最後のほうで、「はかる」「わかる」「かわる」「かえる」について、家事の合間になぐり書きメモを作っておくと書きました。そのメモがまだ少ないので、今回は路線を変更して「デジタル」や「指」をキーワードに話を進めていますが、気になるので、少ないメモを頼りにして、この辺で思い切って出まかせをいたします。

 

*「はかる」は、その対象を「わける」ことによって「わかる」ものとする。

 

*「わからなかった」ものが「わかる」ものになったのは、数値化(何でも数字に置き換える=たとえる=こじつける=でっちあげる)という操作で「かわった」からにほかならない。

 

*数字に「かわった=ばけた」「はかる」の対象は、「かえった=いれかわった=とりかえた=いれちがいになった」とも考えられる。

 

以上のように言えそうです。

 

     *

 

ああ、懐かしい。ああ、まただ。

 

*「何か」の代わりに「「何か」ではないもの」を用いる。つまり、代用する。

 

今挙げたフレーズに振り回されて、約1年間にわたって『うつせみのあなたに』(全11巻・電子書籍)( in パブーのマイページ ) を書いたのです。誰かに頼まれたわけでもないのに、です。また、同じところに来てしまった。かえってしまった。

 

こうなることは、わかっていた気もしますが、いざその場面を迎えるとあ然とします。

 

頭を冷やしたほうがよさそうです。

 

この続きは次回に書きます。


 



再現とは、でっちあげること (5)

そもそも「数える」という言葉が曖昧な気がしませんか。それに「単数」と「複数」という言葉とそのイメージも、よく考えると分からなくなってきませんか。

 

あと、「多い」「少ない」、「大きい」「小さい」、「重い」「軽い」という分け方も、何だかよく分からない気がします。

 

たぶん、分かろうとするから、分からなくなるのかもしれませんね。分かろうとして分からなくなるのは、分かる必要がないからではないでしょうか。逆に言うと、分かる必要、あるいは分からなければならない目的があれば、分かるということではないでしょうか。

 

     *

 

ヒトが分けるときには、「数える」は、「分ける」を前提(あるいは目的)にしているみたいです。「分ける」と同時に「数」が出てくる。1つなら「単数」で、2つ以上は「複数」というわけですか。うーむ。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……ですか。うーむ。

 

ヒトで考えてみましょう。目の前にヒトが3人いたとします。その3人を数えて、「3」という「数」が出てくる。その3人のヒトが「3」という「数」に置き換えられたということですね。その「3」という「数」には、どんな意味があるのでしょう。

「かぞえる・はかる」はきわめて抽象的な「処理・作業」です。「かぞえる対象・はかる対象」を数や量に置き換えてしまうのですから。

     *

*抽象的であるということは、「ある言葉」がその「ある言葉が示すとされている物・者・事・様態」を切り捨て、その「ある言葉」に「(どこかから持ってきた=突然わいた=どこの馬の骨ともわからない・分からない・解らない・解らない・判らない・ワカラナイ)意味・意義」を与えるという、ヒトの癖である。

と言えそうです。

 

     *

 

さて、ここで、数から

 

*飛躍

 

します。飛んじゃいます。論理も理屈も必然性もなしにです。この「再現とは、でっちあげること」シリーズでは、そもそも、

*「再現」に備わっている
こうした無責任さとテキトーさ

を問題にしているのですから。

 

結論を、いや、いちばん言いたいことを、書きます。

 

*再現とは、文字通りの作業ではなく、でっちあげであり、捏造(ねつぞう)にほかならない。

 

のです。

 

ヒトは残念ながら、タイムマシーンをでっちあげ、いや、つくり=作り=創り=造りあげていません。これから先も、つくることはできないでしょう。たぶん。

 

このシリーズでいろいろくだくだと書いてきたことは、

 

*再現なんて、ヒトにはできっこない。

 

ということを説明するために、

 

「ホモ・サピエンス= Homo sapiens =知恵のあるヒト」別名「狂ったサル」

 

であるヒトのかかえているさまざまな

 

「不可能性=土台無理=ミッション・インポッシブル=スパイ大作戦=不可避的な愚鈍さ=自分が思っているよりもずっとお馬鹿さんであるということ」

 

を自覚するためだったのです。

 

     *

 

ラスコー洞くつの壁画であれ、狂ったサルが使うようになったらしい話し言葉で何かを伝える行為であれ、口承(神話や伝説や叙事詩など)であれ、儀式であれ、お芝居であれ、絵画であれ、イコンであれ、文字であれ、電信であれ、ラジオ・無線であれ、写真であれ、映画であれ、ビデオであれ、テレビであれ、インターネットであれ、それらを用いたところで、

 

*再現などできるわけがない。

 

せいぜい、

 

*再現の名を借りた単なる「でっちあげ=捏造」ならば、何とかできる。

 

だろうと、だらだら書きつづってきただけなのです。今テーマにしているのは、検察官面前調書ではなく、いや、だけでなく、

 

*再現とは、でっちあげることである。

 

という「話・作り話・フィクション・神話・出まかせ・馬鹿話」なのです。

 

そこまで言わなくても、

 

*精度の問題だ。

 

と考えることもできるでしょう。でも、それって、みじめったらしくはありませんか? 往生際が悪くありませんか? 

すっとぼけるのもいい加減にしてくれ、という感じです。

 

     *

 

*ヒトとは、再現が可能だと信じることで、ヒトである威厳と面子を保とうとあがいている動物だ。

とも言えるでしょう。

そうなのです。

*精度の問題

なんかではなく、

 

*威厳=面子の問題

なのです。

だから、物や者や事や様態をでっちあげるのです。そして、それを「再現した」などと、すっとぼけて、うそぶくのです。でっちあげる対象が1万年前の「何か」であれ、0.001秒前の「何か」であれ、違いはありません。

そもそもヒトには観測できないんですから。というか、観測できないそうです。というか、観測できないという「お話=作り話=フィクション=はっくしょん(Excuse me.)=ファッション(?)=神話=説話=説
」があるみたいなんです。

     *

 

ここまで来れば、もうお話しすることはありません。

 

このアホもヒトの子です。パソコンのモニターを眺めながら、「これは画素の集合だ」なんて考えません。ふつうは。

 

また、テレビのニュースを見ながら、その映像や音声をとらえ、「これはまさに再現されたOOだ」と無意識のうちに信じて疑わない日常を生きているのです。

さもなければ、ヒト=人間様なんてやってられません。

 

     *

 

そうした生き方こそが、ヒトに固有の

*広義の口癖

なのです。習性なのです。面子の保ち方なのです。

     *

次のようにも言えるでしょう。

*「再現」とはヒトが期待しているほど十分に「再現」ではなく、むしろ「でっちあげ=捏造」に近い。

言い換えると、

*「再現」が「再現」であるためには、ヒトの過剰な思い込み、および過剰な期待が必要である。

したがって、

*「再現」とは辞書の語義通り、つまり、「文字通り=決まり文句として=口癖であるかぎりの」「再現」であり、ヒトにしか通用しない口癖の1つである。

という感じなのです。


     *

 

お口直しに、このシリーズの冒頭で自己引用した長めの3つの文章を、再度お読みになっていただければ幸いです。

 

えっつ? もうたくさんですか? 

 

そうですね。それでこそ、ヒトの子としてのまっとうな態度だと思います。

 

ここまでお付き合いしてくださった心優しき方に、心より感謝します。

 

どうも、ありがとうございました。

(2011-08-16 記)