目次
もくじ
もくじ
1.新しい文学の形と新しい文章
1.新しい文学の形と新しい文章
2.ライトノベルと識字率
2.ライトノベルと識字率
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
3.書評:『きらきらひかる』江國香織著
4.神とはヒトの口癖である (前編・後編)
4.神とはヒトの口癖である(前編)
4.神とはヒトの口癖である(後編)
5.再現とは、でっちあげること (全5章)
再現とは、でっちあげること (1)
再現とは、でっちあげること (2)
再現とは、でっちあげること (3)
再現とは、でっちあげること (4)
再現とは、でっちあげること (5)
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
6.ブリコラージュ状思考態って何ですか?
7.「作家デビュー」
7.「作家デビュー」
8.なぜ、江國香織さんなのか?
8.なぜ、江國香織さんなのか?
9.小説か、エッセイか?
9.小説か、エッセイか?
10.書き手の孤独
10.書き手の孤独
11.江國香織さんと夏目漱石
11.江國香織さんと夏目漱石
12.読まなきゃあ、詠めない
12.読まなきゃあ、詠めない
13.短命に終わったブログの復元
13.短命に終わったブログの復元
奥付
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3.書評:『きらきらひかる』江國香織著

3.書評:『きらきらひかる』江國香織著

江國香織さんの『きらきらひかる』(新潮文庫)を読んだ。

いきなりではあるが、話を変えよう。

2人の男性がいるとする。その2人が性行為をする。

以上の単純な出来事に肉付けし1編の小説にするなら、ゲイ、ホモ、同性愛者、オカマといった一連の言葉を多用することができるろう。

また、そうした言葉にこびり付いたイメージに沿ってストーリーを展開することも可能だろう。

そんな小説があれば、私は杜撰(ずさん)で安易な作品だと思う。

     *

たとえば、

彼はゲイだ

という発言や、

ゲイはゲイらしく行動する

という考えや発想も、杜撰で安易だと思う。

「ゲイ」とは言葉でありレッテルだ。その言葉が具体的にどんな人物を指すのかは曖昧だが、ある程度の共通したイメージがあるだろう。

つまり、「ゲイという言葉」をめぐっては、人びとがおびただしい数のイメージをいだいている。しかも、そのイメージは刻々と変化する。

そのイメージをとらえようとすれば、文化、言語、時、場所、状況、生まれてからの体験といった要因も考慮しなければならない。

イメージがそれほどとりとめのないものであるなら、言葉でありレッテルでもある「ゲイ」を一般化することは、言葉ではできても、現実というレベルでは不可能だろう。

     *

話がまた飛んで恐縮だが、神仏を論じることも杜撰で安易な行為にならざるを得ない。

「神」とは何か? と問われれば、「口癖です」と私は答えることにしている。

詳しく言えば、次のようになる。

ヒトという種は、どういうわけか言葉を獲得してしまった。それ以来、ヒトは、身のまわりの物、事、様、動きだけでなく、森羅万象、そして自分の頭に浮かんだものにさえ「名前=言葉=レッテル」をくっ付ける習性を得るようになった。その「名前=言葉=レッテル」の1つが、たとえば「神」である。

要するに、

神とは、ヒトという種に固有の口癖である。

さらに短くすれば、

神とはヒトの口癖である。

したがって、私は神については、以上のように言うことにしている。
「言う」という「動作=動き=動詞」も「名前=名詞=言葉=レッテル」であるのは言うまでもない。

さらに言うなら、真理や愛も、考えるや感じるも、海や山も、女や男も、信じるや祈るも、言語や貨幣も、モーツァルトやニーチェも、ハリー・ポッターやポケモンも、レッテルであり、レッテルとして流通する、ヒトの口癖である。

以上のような発言や考えは、世間では「屁理屈」や「でたらめ」と呼ばれ、歓迎されない。

     *

話を戻そう。

江國香織さんの『きらきらひかる』では、「ホモ」と「おとこおんな」という言葉が出てくる。

この2つの言葉は、この小説のストーリー進行を促すためや、小説内の出来事の説明としては使われていない。つまり、

レッテルに安易に寄りかかって語られている小説ではない

ということだ。

そのスタンスに、私は共感を覚えた。

逆に「ゲイ」という確固とした属性や生物学的実体があり、「ゲイはゲイらしく行動する」という考え方には抵抗と疑問を覚える。だから、

ゲイとはヒトの口癖である。

そんな気がする。

日常会話のレベルなら、「ゲイ」という言葉と、「ゲイはゲイらしく行動する」という紋切型の考え方はほとんど抵抗なく流通していると思われる。詮索や議論をしなければの話だが。

しかし小説であれば、ゲイという紋切型の通念に依存するのは、あまりにも芸がなさすぎはしないだろうか。

人とは多面的な存在ではないだろうか。

     *

ゲイというレッテルを他人から貼られる人たちがいる一方で、自分はゲイだと胸を張って言い、ゲイらしく行動しようとしている人たちもいるだろう。

前者は、嫌々ながらゲイというレッテルを貼られるのかもしれない。後者は、ゲイという言葉とそのイメージまたは通念に、自分自身を当てはめようと努力することもあるだろう。なぜなら、救いと連帯感を得られるのだから。

後者の場合には、「ゲイ」だけはではなく「オネエさん」、「オネエ言葉」、「オネエキャラ」――「ゲイ」と「オネエさん」が100%一致するというわけではないが――という言葉やイメージを利用してマスメディアに登場し、一生懸命になっているように見える人たちもいる。なぜなら、臨時的な副収入を得る絶好のチャンスだから。

また、自分を非当事者(ノンケとも言う)とみなしている人たちが、便宜的に「ゲイ」や「オネエさん」という言葉を、そのイメージにそって使う場合も多々あるに違いない。

    *

要するに、誰もが、「ゲイ」(「ホモ」、「同性愛者」、「オカマ」でもいい)という言葉とそのイメージを用いている。

なぜだろう?

楽だからだ。

彼(or私)はゲイだ。ゲイはゲイらしく行動する。文句あっか?

いう感じである。

ゲイというレッテルがすんなりと流通しているのは、それが楽だからだ。

頭を使ったり、悩んだり、「言葉にしにくい何か」に真っ向から立ち向かい苦労する必要がないからだ。

それは、それでいい。だが、文学の場合には、世間で流通しているレッテルに頼ることは杜撰であり怠慢だ、と主張する人たちがいても意外ではない。一方で、レッテルを積極的に利用する作家が大半を占めていても、これまた意外ではない。

今述べたことは、作家や作品の優劣や巧拙や良し悪しを論じているわけではない。人それぞれだ、と言うのと同様に、書き手それぞれだと言えよう。

     *

一般的なレベルでのレッテルについて考えてみよう。

レッテルを貼ることは安易で楽な行為だ。レッテルを自分に貼ることで、苦しい自分探しにピリオドを打てるのならば、精神衛生上そんないいことはない。

ヒトという種は、「言葉=レッテル」なしには生きられないと言えそうだ。

言葉が大好き。言葉がなくては生きられない。NO WORDS, NO LIFE.

当然過ぎるくらい当然だ。

それはそれでいいだろう。

     *

本題に戻ろう。

『きらきらひかる』は、これまで述べてきた「レッテル貼り」という作業とは、かなり離れた言葉でつづられている。

つまり、安易ではない。

ある種のセクシュアリティを土台とする作品をめぐって口に出されるであろう、さまざまな言葉たちから遠く離れようとする、この作品を構成する言葉たちとストーリー展開――。

この作品について宣伝したり、語ったり、説明したり、感想を述べるさいに、用いられるに違いないレッテルへの抵抗――。

各人の一面だけを強調するのはなく、その多面性をつづろうとする言葉たち――。

安易なレッテル貼りに逆らおうとするこのスリリングな作品の放つ力に、私はすがすがしさを覚えた。

 

2011-05-03 記