閉じる


<<最初から読む

10 / 10ページ

節十

 年が改まり初平三年、公孫伯圭は年四十二を迎えていた。暦の上では春だが、依然、厳しい冷気に晒される日々だった。
 日がやや西へ傾き始めた頃、朝服の伯圭は正堂で嚴綱等の官吏と共に待機していた。榻の上に座す伯圭は綱に話し掛ける。
「遠くの方が騒がしいから、もう到着したのかもしれない」
 綱は驚きと感心の入り交じった表情を見せる。
「よく聞こえますね」
「声は大きいが、我の耳は良い。これが戦場で生き残って来た要因の一つだ」
 二人が対話を繰り返していると、閤門に複数の玉声がして、目を遣ると六人の官吏の姿があった。先頭で両梁進賢冠を戴き単衣の上に袍を重ね青綬を帯びる髭の男は公孫範だった。六人は西の階から堂上へ昇り、一斉に拝する。元々居た綱を含む官吏が返拝する。伯圭は口火を切る。
「善く来た。身に着ける物だけで無く面構えもすっかり勃海太守だな。従兄としても大変嬉しく思う」
 範は笑みを見せる。
「過分なご発言を痛み入ります。檄に有る様に勃海郡からここ鉅鹿郡の廣宗城まで軍勢を率いて参りました。現状はどう為っていますか」
 一転、表情を引き締めた範に、黒綬を帯び一梁進賢冠の綱が答える。
「南接する魏郡から数万に昇る大軍が来ていると報告を受け、恐らく袁本初の軍勢が南西の冀州魏郡の黎陽城から清河沿い下流方向、北東へ進軍していると予測しました。やはり当初の予想通り袁本初の軍勢はここ廣宗城と勃海郡との兵站を断ち兵糧を絶やすのが目標の様です。清河の東側を行軍しており、四日後には東の甘陵國へ入ると思われます。この状況での明府の軍勢の到着は戦局を有利に導くでしょう」
 範は綱へ顔を向ける。
「では甘陵國のどこかで袁本初との戦端を切る戦略ですか」
 その質問に「是」と綱は答える。伯圭は表情に自信を見せる。
「勃海郡で黄巾賊と戦っていた頃の自軍と大きく変わった。どこが変わったか判るか」
「否、判りかねますね」
 範のあっさりとした返答にさらに伯圭は顔に自信の色を滲ませる。
「そうだろう。実は募兵により冀州下の郡縣から歩卒が増強され、今、三万人近くも歩卒が居る。二月前に勃海で黄巾賊を大破し、さらに青州まで黄巾賊を攻めたのが奏功した様だ。廣宗縣の槃河に戻ると冀州の郡縣から次々と協力する旨の書簡が来た。だから順調に歩卒を集められたし、鉅鹿郡の李府君の協力も有り槃河からここ廣宗城の中に軍営を改められた」
 伯圭と対照的に範は怪訝な表情を返す。
「では冀州の郡縣は明將軍の理念に賛同したと言うより明將軍の武威に靡いたのかもしれないのですね」
 それを聞き伯圭は驚きの表情を見せる。
「失礼ながら公孫府君もすっかり鋭い洞察力が備わり頼もしくなったな。亡き公孫越に匹敵するどころか凌駕しているかもしれない」
「痛み入ります」
 伯圭の悦びの顔に、目を伏せ恐縮した範の顔が向かい合った。伯圭は話す。
「確かに黄巾賊を大破した我の武名が轟いた故に多くの郡縣が従ったのかもしれない。現に袁本初の強い影響下では冀州魏郡の栗府君を初め長吏等からの返信が無い。そのため袁本初との決戦で、武名がさらに轟くか、逆に失墜するかのどちらかだ」
 その声に決意が込められていた。力強く綱が告げる。
「明將軍率いる軍勢は勃海で黄巾賊を征伐し大破致しました。袁本初は嘗て戦った強敵の鮮卑や烏桓に匹敵する強さでしょうか。とてもそうは思いません。軍内が弛緩しなければ、負ける相手では無いでしょう」
 伯圭は口を真一文字に結び二度肯き「然」と言う。
「明府に於いて着いたばかりで申し訳ないが、刻一刻と袁本初の軍勢が進軍している状況であるため、早速、軍の編成を決めていこう。善いか」
 範は「唯」と応え、伯圭は小吏に地図と棊(こま)とを持ってこさせる。
 地図を拡げ、「白馬義從」と書かれた棊等を一つずつ置いては意見を求めた。
 正面から射し込む陽光に、確かな春の息吹を感じていた。

 日が姿を見せない早朝のまだ冷えた鶏鳴時に清河を前にし鎧を着た公孫伯圭は馬上で機会を伺う。
 伯圭の背後には慌ただしく隊列を組む四万にも昇る兵卒が居て、その向こう側には昨日設営し泊まった軍営が在った。その集団から一騎が出てきて伯圭の左に近付く。
「身(わたし)が白馬義從に加わるよりは嚴使君の様に一つの部を任せて下さった方がやはりお役に立てると存じましたが」
 左を向くと、声の主は鎧着用の公孫範だった。伯圭は片方の口角を上げる。
「今回の戦闘だけを考えればそうだろう。だが、これから先の事も考えれば、明府には白馬義從の戦い方を完全な形で修得して欲しい。公孫越が亡くなってから受け継ぐ將士が居るのかが気懸かりだった」
 範は顔色を改め表情を引き締める。
「それならば喜んで白馬義從に加わりましょう」
「よし決まりだ」
 やがて鼓が鳴り出し、二人の脇を騎卒が整然と通り過ぎる。騎卒の行軍は界橋に足を踏み入れ次々と清河を渡って行く。
 それが過ぎると伯圭は白馬義從を率い前進を開始する。行列は界橋を過ぎると右の南方向へ曲がり、幅広い平野を直進する。行列に任せ直進すると、脇から伝令の馬が来る。
「四十里先にこちらへ行進する敵軍が在りました。その数、歩卒千です」
 そう報告し、去って行った。伯圭は左の範を向く。
「今は歩卒の速さで進んでいるから、ここから南へ二十里地点、正午前には接触するだろう。そこで軍を展開させ陣を作ろう」
 範は「唯」と応じる。
 二時程、行進した後、斥候に拠る報告通り、二十里程の地点で敵勢を認める。伯圭の号令で鼓の音が鳴り響き、陣形を成そうと動き出す。嚴綱率いる歩兵三万人余りは方陣を成し、騎兵は各五千騎で左右二曲に分け、それ等に白馬義從を二校に分け中堅とする。伯圭自身は範と共に右の校に入った。
 対峙する袁本初の陣は前曲に千程の歩卒を配置し、残り数万全ては後曲として方陣を築いていた。
 伯圭は戦法の伝授も有って範に告げる。
「思った通りだ。敵勢に騎卒が殆ど見えない。我等の常套手段を使えば容易く勝てる。騎卒で射程距離に入り騎射しては離れるのを何度も繰り返せば良い。千程度の歩卒は我等の動きを試すための配置だろう。先ずはあの千だ。左から右方向を射し、右から左方向を射し、左右から攻撃を加えれば勃海の黄巾賊の如く忽ちに滅せるだろう」
 そう言って、深く一呼吸する。
「進め」
 伯圭は号令と共に自らの白馬を前へと駆けた。鼓の音と共に左右から騎卒が前へと駆け出し、一斉に敵陣前面の歩卒千を目指す。伯圭の視界の中で敵勢の姿が次第に大きくなる。
 その中途で、歩卒千が動かず、それどころか楯の下に伏している奇妙な姿を見る。
「敵は白馬義從に怖れ只伏すのみです。一気に殲滅しましょう」
 勢いづく範は叫んだ。伯圭は納得し内心の疑念を振り払う。
 騎卒各五千が左右から千の敵卒を追い込もうと近付く。やがて目的の数十歩手前の地点に近付き一斉に減速し弓を構え矢を出そうとする。
「放て」
 その大勢の叫び声は自軍からでは無く対峙する敵軍からだった。咄嗟に一瞥すると、伏せて居た敵軍の歩卒は皆立ち上がっていた。全員の手には弩が備えられていた。伯圭は瞬時にその意味を理解する。
「退却だ」
 その叫び声は既に遅く、大量の矢が前方上から降り注ぐ。伯圭自身は一矢も触れず心の臓を強く一鼓動させるだけで済んだが、周辺からの無数の悲鳴が両の耳へ飛び込んで来て、言い表せぬ重い恐怖に拠り押し潰されそうに為っている。気付けば敵卒が一斉に足を使って弩の弦を引き弩機で固定され矢が設置される。
「撃て」
 再び大勢の叫び声が耳に届き、遅れて大量の矢が前方上から再び降り注ぐ。次は兜鍪の横を掠った。再び悲鳴が轟いた周りに目を遣ると、多量の人馬が倒れている光景が視界に入り、一矢も報いる事ができないと悟る。
「馬に乗れている者は退却だ。倒れている兵卒を見捨てろ」
 被害拡大を避けるのを優先した命令を近くへ飛ばした。そして自ら率先し敵に背を向け白馬を駆ける。倒れた人馬を避けて進む。屈辱と恐怖が心を占めている。
 後を振り返る余裕も無く馬を西回りで北の後へと駆ける。
「倒れなかった者は四散し、後方で集まりつつ在ります」
 背後から掛けられた声に驚き、振り返ると、範が必死の形相で着いてきていた。恐慌の余り左に追従していた自らの従弟を忘れていたのを恥じ、我に返る。
「こう言った予期せぬ展開に対し、白馬義從は素早く対応する筈だ。先ずは身の安全を図り後方へ下がるだろう。それ等に騎卒が着いて行くため再起を図れる」
 伯圭は自らに強く言い聞かせるように厳しく叫んでいた。馬上で激しく肩で息をし、多少、落ち着いてから再び範に話す。
「充分に騎馬を引き付けての弩に拠る一斉雷発は、四年前に石門山で我が張純率いる叛烏桓を大破した作戦に酷似していた。袁本初の麾下に北辺に通じた將士が誰か居るのか」
 その問い掛けに、馬から振り落とされまいとする中でも明確に範に拠る驚愕の表情が見える。
「麴義です。嘗て明將軍の口から麴義が涼州で長く叛羌と戦っていたと聞きました」
 その驚愕の表情は駆ける馬の間を飛び越え伯圭に遷る。
「以前、韓文節に背いた麴義か。常に高みしか見ようとしないあの袁本初が、まさかそんな実戦的で大胆な抜擢をするとは…」
 驚きの余り、語句を失っていた。顔を左右に振り話を続ける。
「我は幽州で異族と戦い抜いた精卒として、嘗て涼州で叛羌と戦い続けた漢人の精卒との戦いを欲した。だがそれは飽くまでも董卓の軍勢を想定しての事だ。まさかこんな屈辱的な形で実現してしまうとは」
 その声は誰に向けた訳で無く、心から沸き上がる感情を吐いていた。
 二人とそれに続く騎卒は自軍の歩卒三万の背後に到達する。
「歩卒に弩を持たせている。嘗て石門山を共に戦った嚴使君で有れば、千の歩卒など一溜まりも無いだろう」
 伯圭はそう言って白馬義從と騎卒の再編成に急ぐ。しかし、その最中に眼前の歩卒三万の隊列に前から混乱が生じ始め、瞬く間に全体へ広がっている。しかし、それに対応する様な鼓の音も鐸の音も聞こえない。時を同じくして前から伝令の馬が来て、伯圭の前で叫ぶ。
「嚴使君が凶矢に伏しました」
 その一報で伯圭は全て理解できた。左の範にその理屈を漏らす。
「自軍の歩卒に弩が在っても、その殆どが冀州の兵卒で有れば喩え嚴使君の様な優秀な將士と雖も弩を有効活用できないのは道理だ。命令が行き届きにくい大軍であれば尚の事、少数精鋭の麴義に翻弄されるのも無理はない。それ等の悪条件が重なって嚴使君は指揮できない状況に為ったのだろう。総指揮が伏せば対応や退却の指示が出る前に混乱が全体に広がり御せなくなる。全く嫌になる程、道理に即している」
 力の無い伯圭に向け範は叫ぶ。
「明將軍が前へ出て、指揮をお執りに為れば混乱した軍勢は忽ち整然とし再起できるでしょう」
 伯圭は首を左右に振る。
「密集する編成なのに混乱した歩卒の隊列を馬で駆けて前へ出るなど自殺行為だ。ここは出来る限り鐸を叩き全体に退却を促すのだ」
 その発言に拠り鐸の音が順々に鈍く発せられる様に為る。しかし、遠くまでは混乱から退却へと移らず、仕方無く伯圭は退却を最後まで見取る前に自らが騎卒を率い退却し始め、北へと馬首を巡らす。
 命令に拠る退却とは名ばかりの奔走が行われる中、伯圭の指揮は無意味な物で有るが、北へ向かっては止まり後続の奔走を見守ると言った行為を繰り返す。やがて伯圭は行く先に清河と界橋を目で捉える。そして左へ振り向く。
「範よ、橋を渡り軍営に戻り軍勢を立て直せ。我は残った騎卒を纏め敵勢後方の袁本初を急襲する。それこそ、この戦いでの形勢逆転と公孫越の仇を討つ行為との公私両方を果たせる」
 伯圭にとってそれは死を覚悟しての発言だった。範は沈黙の間の後、眉間に皺を寄せ単に「唯」と応える。それを認め、伯圭は麾を右へ指し示し、範から離れていった。
 伯圭は騎卒二千を率い界橋の北東にある森の後に姿を隠し静観する。日が西の空に掛かる頃、敵勢が姿を見せ次々と界橋に殺到し、遂に自軍の殿兵に追い付き橋上で戦闘に突入する。伯圭は咄嗟に界橋へ加勢しようと考えたが、既に接戦に成っており、両軍に混乱を加えるだけと悟り、東への出軍だけを命じる。東へ大回りし南方の袁本初の本軍を目指す。
 目の前には荒涼とした平野が広がっていた。

「あれだ。進め」
 馬上で公孫伯圭は遠くに両眼で平野の中の数万の敵勢を捉え、後方の騎卒に向け号令を発した。敵勢は急接近する騎卒に気付いた様子が無く、近付く毎に伯圭に急襲成功への自信を募らせている。視界の中で大きく為った敵勢の姿は密集した戦闘態勢に無く、戦闘が終わったと言わんんばかりの分散し設営を行う最中だった。伯圭は思わず口元を緩め片方の口角を上げる。麾を一つの営を指し示す。
「あの軍営こそが袁本初の居る本営だ。囲んで射撃せよ」
 伯圭の号令で、騎卒は皆、弓を手に持つ様に為る。
 やがて既に牆垣が立てられた所に到達し、それに沿って騎卒の行列を駆ける。軍営の周り百五十歩程を何周もし、結果として騎馬に拠る数重の包囲と成っていた。騎卒は皆、弦を引き矢先を軍営へと向けている。
「放て」
 伯圭の号令で一斉に軍営へ矢が射掛けられた。敵襲に気付き外へ出ていた袁本初の兵卒は手に持つ戟を奮う前に次々と地に伏す。
 七回目の一斉射撃の後、外側から騎卒の包囲を崩そうとする弩を持つ歩卒が多く姿を見せ始める。
「軍営へ突撃だ」
 伯圭はそう叫び、包囲の中心へと馬首を巡らせる。騎卒の速さが緩み、軍営で混戦の様相を呈し始める。彼方此方から怒号と悲鳴が上がる。馬術に秀でた伯圭は人馬一体と為り細かい動きで並み居る歩卒を戟で排除し掻き分けながら、前へ前へと出る。
 十何回と戟を振り下ろした後、ふと右斜め二十歩程先を見ると、装飾過多な兜鍪(かぶと)と鎧を身に着けた男が居て、その腰には紫綬が垂れていた。
「あの紫の綬は列侯の証だ。あれこそは邟郷侯の袁本初に違いない」
 喜びの余り伯圭の思考が声として漏れていた。馬を駆けるが、数歩と前に行く前に二人の歩卒に阻まれ、それ等に打撃を加え排除する間に、こちらに死への恐怖の表情を見せ紫綬の男は姿を消す。
 後を追うが紫綬の男を守る様に戟を手にした歩卒が次々と現れ、刃を交わし馬上の伯圭は尽く打ち勝つ。前方に広く間が空いたため、急ぎ馬を馳せ間を詰めると、牆垣の向こう側の地に何かを見かける。
 慌てて伯圭は下馬し地に落ちた二つの物を拾い上げる。右の一つが見覚えのある装飾過多な兜鍪で、左のもう一つが金印紫綬だった。伯圭は思わず呟く。
「袁本初を仕留められなかった結果が、この先の我の運命どころか天下の趨勢をも大きく変えるだろう。異族に勝とうとして異族の騎馬に拠る戦いの術を徹底的に学習し修得し白馬義從を設けたと言うのに、まさかその所為で麴義に拠る弩の前で大敗を喫するとは」
 自らの不甲斐なさへの怒りと共に兜鍪と金印紫綬を地に打つ。急いで伯圭は乗馬し、辛うじて残った後続の騎卒に叫び告げる。
「もう敵は弩の用意ができている。矢の餌食に成る前に北へ離脱だ。近くの騎卒に伝えろ」
 直ぐに伯圭は馬首を北へ向け、敵卒が隊列を組もうと集っている中へ飛び込み、戟で活路を切り開いて行く。その後に次々と騎卒が続き活路を拡げていた。
 敵卒数万の陣を北へ脱出し、伯圭の高揚と緊張は解れる。しかし、内心では目の前が暗くなった様な気がしている。
「この戦いは我の完敗だ。我の仁政を見ようとせず武威だけに従っていた郡縣はこの先、挙って反意を示すだろう。それは勃海郡も例外で無く、冀州から北へ追いやられるだろう。だが、幽州から再起し必ずやこの地に戻ろう」
 誓いを立てるかのように、伯圭は天に向かって大声を発した。
 行く先は夕闇に覆われつつ在る中で多量の砂塵が舞っている。
 それは見通しの利かない不安感を煽る光景だった。

この本の内容は以上です。


読者登録

清岡美津夫さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について