閉じる


<<最初から読む

8 / 10ページ

節八

 片手に書簡を握り締め、汗を拭わず単衣を着た公孫伯圭は後堂から正堂へ歩んだ
 高い位置から光が射し込み場を熱している堂上では同じく官吏らしく単衣を着た田楷、嚴綱、單經、公孫範が北面し待っている。東階から伯圭は堂上に昇り、南面する榻に座り、直後に開口する。
「諸君、遂に時が来た」
 生来持ち合わせている大声を少しも抑えず、目の前に片手に持つ書簡を広げた。皆、一様にその書簡に眼差しを向ける。
「ご覧の様に、勃海の袁府君からこの奮武將軍に密かな出軍要請が来た。ご丁寧に表立っての出軍理由まで指定されている。つまり董卓討伐を装いつつ、冀州魏郡鄴城に駐屯する韓使君に圧力を掛けろと言う要請だ」
 興奮に満ちた声を伯圭は出した。骨張った顔を見せる楷は慎重に語句を選んだように問う。
「その様子では、明將軍はこれを好機と捉え出軍するおつもりなのですね」
 伯圭は「然」と答える。間髪入れず次は屈強な体を有する綱から質問が来る。
「軍勢を南下させるのは明將軍の念願であると把握していますが、一方、袁府君を取り巻くこれまでの状況がどうも見えてきません。戦略の意でも出来れば整理しお教えして頂きたいと存じます」
 声の方へ伯圭は真顔を向ける。
「善いだろう。話す事で自身の考えも整理を付けたいからな」
 一呼吸置く。
「そもそも董卓討伐で関東諸將は結盟した。殆どは兗州陳留郡の酸棗城に駐屯したが、勃海の袁府君は司隷河内郡に、冀州の韓使君は冀州魏郡鄴城に駐屯した。だが、知っての通り結盟の内側で争いが起こる様に為り、その中の一つに韓使君の將である麴義と言う者が背く事件が有った…」
 戦略の意であれば、麴義の出自を話す必要が有ると伯圭は思い付く。
「…聞く所に拠ると、この麴義は涼州に於いて久しく叛羌との戦歴を重ね、そのため強靱な兵卒を有して居たそうだ。だが、圧倒的な数の差で麴義は次第に不利な状況へと追い込まれた。一方、以前、袁府君と韓使君とが共に劉伯安を即位させようとしていたが、現在、袁府君は韓使君を怨んでいる様で、遂に麴義と手を結んだと言う。さらに我の軍勢を鄴城へ向かわせ、圧力を掛けたい様だ」
 その説明を受け、その場の最年少であり、数年前の公孫越によく似た細身の公孫範は自らの理解を口にする。
「名目は董卓討伐、実際は袁府君の要請に拠り軍勢を南下させ、明將軍としてはその軍勢を足掛かりに天下の趨勢に絡もうと言う腹ですね」
 伯圭は「是」と言い、話を再開させる。
「普通ならばここ遼東屬國から鄴城は遠く食糧の補給もままならない。だが、袁府君の援助が有れば、少なくとも幽州遼東屬國から海岸沿いに南下し、冀州勃海郡までその心配が要らなくなる。そこから南西へ四百里程度で鄴城へ到達する。その間に天下の情勢が変わるかもしれないが、それこそ臨機応変で行こう。冀州に軍勢が在ればどのようにもできるだろう」
 伯圭の発言を承け、楷は目を伏せたまま話す。
「武力に頼った動きは危険を伴うと存じます。出軍した先で余計な刺激と為りどんな衝突が起こるか想像できません。この辺りを如何様にお考えでしょうか」
 その問いに伯圭は両腕を前で組み俯き暫し考えてから、発言に移る。
「余所から軍勢を持って来る動きは、何大將軍が董卓の軍勢を呼び寄せたのを連想させる。つまり、我が董卓の立場に為り、確かに余り気持ちの良い物では無い。だが、今は絶好の機会だ。これを逃せば辺郡に留まったまま時流にも取り残され、次の専政者の言うがままに為ってしまう。我は董卓と違って出軍を飽くまでも陛下の元へ権威を取り戻すための過程と考えている。出軍で分裂しつつある関東諸將を再び一つに纏める手助けをする」
 伯圭が話し終えると、最年長で一番小柄と為る經は疑問を呈する。
「盟主の袁府君の下で果たして再び一つに纏まるでしょうか。再び内紛が起き董卓を悦ばせるだけの様に思えます」
 その問いに伯圭は片方の口角を上げ話し出す。
「万が一そうなれば、我が従わない者に軍勢を以て圧力を加えるだけだ。勿論、場合に拠っては袁府君がその対象になり得る」
 それは返答と言うより、伯圭の有無を言わせない並々ならぬ決意の現れだった。
「では早速、出軍の準備から話し合いましょう」
 楷の提言に、伯圭は「然」と答えた。
 伯圭の前に並び座る者等は書き留めるための木簡である版を取り出し、小吏から筆を受け取る。伯圭は場に在った書簡を畳んで脇へ置き、小吏に地図を持って来させる。
 いよいよ目の前の向こう側へ広がる南の空の下に行くのかと思い、ふとそちらへ一瞥する。そこでは雲が連なり高さを誇っている様だった。

 雚葦の花を見かけ、馬上の公孫伯圭は秋の到来を感じていた。
 日が中空に掲げられる中、伯圭は軍勢を率い、東北に接する冀州勃海郡から入った冀州甘陵國の中頃を通っている。伯圭は東武城と言う縣城を視界に捉えている。
 伯圭の視界で城壁の姿が大きく為る中、その城門近くに一匹の馬の上に一人の官吏が乗っている姿に気付く。やがてその騎馬がこちらへ向かっていると知る。騎馬は行軍の前で立ち止まり下馬する。伯圭は合図を送り、鐸を鳴らし進軍を止める。
 徒歩で目の前に到達する袴褶を着た官吏に伯圭は言う。
「我は奮武將軍の公孫伯圭だ。我に用か」
 そう言って印と綬を見せると、袴褶の男は拝礼する。
「袁車騎將軍から伝達です」
 袴褶の男は馬上の伯圭に帛嚢を差し出しその場から去って行った。それが車騎將軍を自号した袁本初からの書簡だと知り、篆体で「車騎將軍章」と捺された封泥を解き帛嚢から書簡を取り出し中を読む。
「軍を止めどうか致しましたか」
 声質と発生源でそれが馬上の田楷からだと知る。
「勃海の袁府君からの書簡だ。府君自身は冀州魏郡黎陽城に駐屯しているそうだ。それは鄴城から南へ二百里程離れている」
 伯圭は譫言の様に呟き、黙し考える。楷が再び声を掛ける
「それがどうか致しましたか」
 馬上の声の主に一瞥する。
「済まない。今、どの様な勢力関係だったか考えていた。袁府君からは、鄴城に駐屯していた韓使君は位を退き冀州牧の印綬を渡されたと言う報告を受けた」
 伯圭の説明に楷は驚きの顔を見せる。
「では明將軍の軍勢が鄴城に近付く前に目標は達せられたのですね」
 険しい表情を向ける。
「元の袁府君の目標は達せられただろう。だが表向きの董卓討伐は達せられていない。この書簡には撤退しろとも進軍しろとも書かれていない。袁府君は恐らく我等の撤退を希望するだろうが、わざわざ招軍した我等に気を遣ってそれを明文化していない。さらには我等としては二月も軍勢を引き連れているのだ。このまま何も得ずに帰る訳にはいかない。せめて、何か情勢が変わるまで近くに駐屯したい。今、袁府君は冀州を手に入れその権勢が急激に増大している。我が見るに袁府君はそれを盤石にするため、さらに近隣の勢力を併合する様に思える。情勢を見極めつつこの近隣に駐屯したい」
 考え抜いた末、伯圭は結論付けた。楷は鼻で一息吐く。
「善いでしょう。明將軍がそこまで考えて仰るならば、そう致しましょう。あそこに見える冀州甘陵國東武城を頼りましょう。これ程の大軍で、しかも冀州牧の印綬を手に入れた袁府君が招いた軍勢と有れば、無碍には扱われないでしょう」
 伯圭は「善」と応じ、軍を止めたまま、視界に入る東武城へ馬を駆けさせる。それに楷が続く。駐屯の交渉を行うためだ。
 二人は城門へ近付き、高く聳える楼を見上げた。

 肌寒さを覚え公孫伯圭は単衣の上に袍を重ね、前門へ急ぐ。
 途中の廊でそれぞれ朝服を纏った田楷や公孫範等と合流し、先導するかの様に早足で進む。
 前門に出ると、袴褶を着て武冠を戴く劉玄徳と趙子龍を含む五人が立っていた。一斉に拝する。その面々を見て強い疑問が浮かんだもののそれを内心に抑え中へ招く。
 東武城縣から仮に当てられた將軍府を北上し、正堂へ昇り拝礼を済ませ、北側の榻の上から南の席へ伯圭は皆を見据える。
「南陽郡の袁將軍の下での任務をご苦労であった。公孫越の顔が見えないが、まだ軍勢の中か。責任者から直に報告を聴きたい」
 伯圭の質問に、袴褶の五人は険しい表情を向ける。妙な沈黙の間の後、玄徳が代表するかの様に話し出す。
「公孫卿は戦陣で卒去致しました。それを先ず報告しようと馬で急ぎ、どこに行軍しているか探りつつ、どうにかここへ着ました。そのため喪(なきがら)は遅れて馬車で遼東屬國へ到着します」
 玄徳の声は伯圭の耳の中まで明確に響いていた。勿論、「卿」が公孫越に付けた敬称であるとも理解できた。しかし、その内容を咀嚼するには時間が掛かっている。
「今、何と言ったのか。戦没する程に危険な任務では無かった筈だ」
 己の感情を押し殺し、漸く伯圭は聞き返した。玄徳は自らの膝に視線を落とし、震えた体を見せ、震えた声を出す。
「その通りです。しかし、信じられない事に、成り行きの結果、勃海太守の袁本初に拠る軍勢との戦いで流矢に拠り公孫卿の命が絶たれました」
 伯圭は発する語句を失っていた。玄徳は眼差しを伏したまま、続けて話す。
「何故、袁本初との軍勢と戦う結果と為ったか今からご説明します…」
 未だ、玄徳の声の震動は止まらないで居る。
「…元々、董卓討伐の結盟に加わっていた豫州刺史の孔使君は州府の在る沛國譙城に着かず、河南尹の東南に接する潁川郡の陽翟城に駐屯しました。孔使君が病死した後、董卓討伐のため軍勢を率い進軍していた長沙の孫府君は後將軍の袁將軍と合流し、袁將軍の上表に拠り長沙太守から豫州刺史に為り拠点を陽翟城より雒陽に近い同郡の陽城にしました。その後、孔使君とも協力体制に有った潁川太守の李府君の補給面での協力も得て、孫使君は任地に着かず董卓の軍勢と一進一退の戦いを繰り広げ、雒陽に到達しました…」
 玄徳の話を遮るかの様に伯圭は怒鳴る。
「そんなの後だ。越はどうした」
 玄徳の体の震えが止まる。顔を挙げる
「ここからです。袁本初は周喁と言う者を豫州刺史に任命し、兄の周昕と共に陽城を攻め取りました。そのため、孫使君は陽城からの補給が断たれ、雒陽から撤退せざるを得ませんでした。軍勢と共に袁將軍の元、南陽郡へ帰還した孫使君は、公孫卿と我等の騎卒と共に陽城の奪回のため進軍しました。勿論、公孫卿は袁將軍の意志に応じ孫使君と軍事行動を共にしました…」
 全身の力が抜けた心地を感じながら伯圭は呟いた。
「そこで公孫越は敵の矢に倒れた訳か」
 玄徳は「唯(はい)」と答える。伯圭は自らを奮い立たせようと大声を発する。
「では讐(かたき)は袁本初だ。ここより南西五百里の冀州魏郡の黎陽城に本初は駐屯している。騎馬だけなら二日で行ける距離だ。今直ぐ白馬義從と全ての騎卒を率い攻め、本初を斬る」
 伯圭は立ち上がり榻から歩み出した。真っ先に楷が言い放つ。
「お待ち下さい。それこそ返り討ちにされ袁府君に利用されるだけです」
 眉間に皺を寄せる伯圭は足を止める。楷は淡々と言い足す。
「依然、韓卿に向けた軍勢が駐屯したままでしょうし、それに加え韓卿を裏切った麴義の精卒が居るでしょう。直ぐには勝ち得ず、兵站の無い明將軍の騎卒は食糧の面でも不利に為るのは明白です。明將軍がその様な自殺行為をするのは果たして亡くなった公孫卿の望む所でしょうか」
 楷の発言に、厳しい顔のまま伯圭は榻に戻り座る。
「足下の言い分を聞いてから出軍しても遅くはない。足下ならばどうするか」
 面を挙げ伯圭の眼差しを楷は真摯に受け取る。
「足りない輜重や車父を辺りから掻き集め、出来る限りの軍資を行軍に含め、通常の日行で南下します。それだけで袁府君にとって圧力を感じるでしょう。また今回の公孫卿の戦没は袁府君にとって意図しない結果でしょうし、引け目に感じている筈です。何らかの和平材料を提示するでしょう。恐らく鉅鹿郡に入った当たりで結果は出ます」
 楷の提言に対し、伯圭は悪意を込めて笑い声を挙げ言う。
「足下にしては危うい理屈だ。それで我を止められると思っているのか」
 伯圭の探る様な目つきに対し、楷は「然」と応じる。それを見て伯圭は再び声を発てて笑う。
「善かろう。足下の提言に乗ろうではないか。だが、我は本初を討つのを止めた訳ではない。鉅鹿郡に入って何も無ければ、その時は白馬義從を以て本初を斬る。そうで無ければ冥府で公孫越に顔向けできない」
 その気迫の込もった発言に、楷は「唯」と応じ、告げる。
「では行軍の配置を今、決めましょう」
 伯圭は片眉を挙げる。
「何か足下に乗せられた様な気がする」
 そう呟き、小吏に地図を持って来る様に指図した。玄徳は言う。
「明將軍が騎卒だけで出軍すると仰り、一時期どうなるかと存じましたが、それならば歓んで参軍致しましょう」
 伯圭は声のする方へと顔を向ける。
「足下は越の最期の戦陣に居た者の一人だ。その参軍は心強い」
 そう言いながら、伯圭は早くも地図を見据えながら両手で棊(こま)を手繰らせた。
 その視線は地図上の鉅鹿郡では無く黎陽城に向けられていた。

 東武城を出軍してから丸四日経ち、鎧を付けず袴褶と武冠だけを身に着けた公孫伯圭は白馬の上から河を視界に捉えていた。
 甘陵國の西の境には清河が南北に流れていると伯圭は記憶している。左で並進する鎧を着た細い公孫範の方を振り向き、清河を指し示す。
「あそこに見えるのが清河だ。清河のこちら側が甘陵國だが、向こう側は鉅鹿郡に為る。つまり清河はこの辺りでは二郡の境界に為る。それから清河に橋が架かっているのが見えるだろう。あれが界橋だ。ちょうど郡境の橋で解り易い名だ」
 伯圭が指した橋の姿は、視界の中で次第に大きく為る。やがて軍列の先端がその橋の上に足を踏み入れ様とする。
 伯圭は苦々しい表情を浮かべ、並んで歩む馬上の範へ漏らす。
「いよいよ田楷が申していた鉅鹿郡に足を踏み入れる。特に先ず進軍する鉅鹿郡の廣宗縣は七年前に盧師が黄巾賊を包囲し勝利まで後一歩まで追い詰めたものの、宦者が仕掛けた冤罪に拠り召還させられた地だ。だが、その数月後に同じく廣宗縣で皇甫將軍が黄巾賊に清河に飛び込み多くの溺死者が出た程、大勝した。この地が吉と出るか凶と出るか見物だな」
 伯圭は含み笑いをし、界橋に馬足で一歩を踏み込んだ。

 帷幕越しに苣の灯りが未だ袴褶を着た公孫伯圭の辺りをぼんやりと照らしていた。
 そこに厳格な雰囲気を醸し出す、朝服の關士起が現れ拝礼する。薄暗い中でも明確に士起の戸惑いの表情が見て取れた。伯圭は声を掛ける
「血相を変えてどうした」
 その発言に応じ、士起は頭下げ帛嚢と篋を差し出す。それを伯圭は受け取って問う。
「これは何だ」
 士起は顔を挙げて恐る恐る言う。
「先程、軍営の牙門に袁府君の使者と名乗る者が来てその封書と篋を置いて、引き留めるも聞き入れられず立ち去られました」
 伯圭は訝しげに見つつも、篋を膝元に置き、小卒に燭に火を点させ、しげしげと帛嚢を見る。そこには篆体で「詔書一封邟郷侯印」と捺された封泥が在り、それを解き帛嚢から巻かれた書簡を取り出し拡げ一読する。続けて書簡を膝元に起き、篋を目の前へ手繰り寄せ、開けて中の物を取り出す。そこには銀印とそれに付けられた青綬が有り、銀印の裏を見ると「勃海太守章」と鏡像に篆体で刻まれていた。伯圭が顔を挙げると、何時の間にか田楷と公孫範が着席している。
「つまり袁本初は公孫越を殺害に到った謝罪として、公孫範に勃海太守の官職を差し出す提案をし、且つそれが口先だけで無いと示すため、勃海太守の印綬を早速、送り付けたと言う訳か。だが封には確かに『詔書』と有り、つまり陛下の書を偽ると言う不遜な態度を執っている。これで謝罪したつもりか」
 淡々と告げた後、伯圭は怒号を飛ばした。楷は諫める。
「袁使君のお考えとは思えない程、よく練られた策です。恐らく將軍の下には多くの優秀な賢士が集まって居るのでしょう。車騎將軍は飽くまでも自号であり、袁使君自らの領土の基盤は勃海太守、邟郷侯と冀州牧しか無い筈です。しかしそれ等の内の主要な一つを差し出す状況は余程、明將軍に譲渡した条件であり、明將軍の武勇を怖れての結果でしょう。それに既に奮武將軍と言う高位に就く明將軍に譲らず、明將軍の従弟に当たる公孫卿に勃海太守の印綬を譲りました。これは袁使君が明將軍の親族をわざわざ調べた証拠です。正直、愚もここまでの和平材料を提示するとは思いませんでした」
 その説明でも、伯圭の怒りが収まらず銀印を右手で握り締め震わせる。
「結局、我は今直ぐに讐(かたき)を斬れないと言う訳か」
 その問いに楷は「然」と答える。歯軋りした後、伯圭は問う。
「ではこのまま遼東屬國に帰れと言いたいのか」
「そうは申していません。寧ろこの槃河に留まる旨を進言致します。今、帰還すれば冀州牧の印綬の下で冀州の郡國は全て袁使君の麾下に入り、明將軍の讐(かたき)を斬れないどころか、この冀州へ進軍し得ない状況に成るでしょう。それに袁使君が関東諸將を掌握したとしても陛下を助けるため董卓討伐に動くとは思えません。何故ならば以前、袁使君は陛下を差し置いて劉公を皇帝に即位させようとした者であり、加えて今は詔書を偽る程、陛下を軽んじるからです…」
 珍しく楷の声に熱が込められていた。それに触発され途中でそれを遮るかの様に伯圭は言う。
「然。天下に対する我の懸念をよくぞ言で表してくれた。我の心は讐討ちで覆われていたため、本来、我が持っていた陛下や天下についての思いを見失っていた」
 言い終えると、伯圭は深く息を吐いた。士起は賛意を示す。
「それでこそ明將軍です。天下にその武威を示しましょう」
 伯圭は楷に一瞥する。
「では我等はどうすれば良いか」
 暗がりの中、その眼差しを受け止めたまま楷は話す。
「先ず公孫卿を任地の勃海郡へ着かせて下さい。本来ならば上表を経ないと着任できませんが、長安の陛下との交通が断絶した今、上表に時間が掛かりますので、勃海郡の統治を優先させます。今は遼東屬國の任地から遠く軍資の補給がままならないですが、それに比べここ鉅鹿郡と同じ冀州の勃海郡からで有れば安定した兵站線を築けるでしょう。それに暫くは袁使君からの妨害も無いと存じます」
「善かろう。兵卒数千を付け公孫範を勃海郡の郡府へ向かわせよう。範だけでは不安なので門下長史として關卿に同行願う。言ってみれば元々、敵地だった所での統治であり、困難さが伴うと予想されるが、關卿の厳格さならば勃海郡を治め得ると信じている」
 伯圭の眼差しは士起に向けられていた。士起は恐縮した様子で俯く。
「過分なご期待を痛み入ります。全力を以て任務を遂行致します」
 俯いたまま言って、士起は席から立ち上がり拝した。
「では明日の朝議はそれの具体的に詰めていこう。今日はここまでだ」
 伯圭が終わりを告げると、三人は拝粛し立ち去った。
 帷幕越しに苣の灯りさえ届かない暗闇を見つめ伯圭は暫し自問自答を繰り返していた。


節九

 昼間でも冷気が帷幕の内側まで浸み入る頃に、公孫伯圭は几の上で木牘に筆を走らせていた。
 手を休めた頃に、ふと顔を挙げると、向かいの南面の帷幕が開く出口の外側近くに人が立っているのに気付く。
「誰だ」
 咄嗟に声を出すと、外から背の高い男が入ってきた。影の中へ目を凝らすと、それは趙子龍だった。目の前で拝してから言う。
「趙子龍です。お忙しければ、すぐ退きます」
 伯圭は笑みを見せる。
「今丁度、終わった所だ。足下に聞いて欲しい件が有る」
「何でしょうか」
 子龍が返事すると、几の上の木牘を手に取る。
「何処か縣城に落ち着こうと思い、一度に使者を立て冀州の諸郡に書簡を送ったが、どの郡からも良い返事が貰えなかったため、依然、廣宗縣の槃河に駐屯している。やはり袁本初の強権の下に依然、冀州の諸郡は在る様だ。勃海郡からの兵站が確保できそうと雖も、ここで静観を決め込もうとは思わない」
 伯圭の発言を誘うような間に、子龍は問う声を入れる。
「ではどの様に動くお積もりですか」
「先ず陛下に上疏し、袁本初の罪を挙げ、引いては我の諸將に州郡を与え共同で本初を討つのを表明する。その後、上疏通り諸將を各州郡へ派遣し、冀州内外の諸郡に圧力を掛けつつ、機が熟せば袁本初を攻める」
 その発言の力強さとは裏腹に子龍の表情は冴えない。
「その手に持つ木牘が上疏ですか。宜しければ見せて頂きたく存じます」
 伯圭は「諾(よし)」と答え、木牘を手渡す。子龍は黙し一読してから話す。
「この様に袁使君の罪が十も並べられると、確かに袁使君を放っておくと少なくとも冀州は荒廃する様に思えます」
 子龍から再び上疏が伯圭の手元に戻る。
「そうであろう。罪の一として本初が雒陽を権力争いの渦中に入れ、加えて無防備な状況で董卓を呼び込んだ事実に始まり、途中、韓使君から冀州を奪い詔書を偽造した罪の五を経て、最後に豫州の孫使君が董卓討伐のため雒陽まで上がり董卓により荒らされた陵墓を修復したと言うのに、本初が孫使君の任地である豫州を奪い兵站を断ちその忠勤を妨害した罪の十に到る。大義としては充分過ぎる程だ。自軍から精卒を選び、この上疏を託し長安に届けて貰おう。後はこの義に実力が伴う様に我や足下を含め將吏が動くのみだ」
 自信を滲ませた笑みを見せた。子龍は覇気が込められ「唯」と応える。伯圭は上疏を几に置く。
「足下は何時でも頼りに為る男だ。薊城を奪回した時も、管子城での包囲から脱出した時も、いや、六年前より頼りに為る存在だった。六年前の我への帰順を褒め称えなければならないな」
 「六年前」と聞き子龍の表情は引き締まる。
「過分なご発言、痛み入ります。明將軍と出会った六年前の中平二年、愚は冀州常山國真定縣に住んでいた、加冠もしていない独りの使男(こども)でした。何とか吏卒を引き連れ幽州涿郡涿縣に辿り着き、そんな愚を当時、明將軍は暖かく向かい入れ、白馬義從の末席に加えて下さりました。今でも感謝しております」
 子龍の真摯な眼差しを受け、伯圭は照れ笑いを浮かべる。
「そう固くなるな。互いにとっての幸運を今は素直に喜ぼうではないか」
 子龍の「唯」と言う返事の後、伯圭は或る事実に気付き頬を緩ませながら話す。
「そう言えば、足下は我と違い、冀州の出身だったな。先程も言った様に冀州の者等はどうやら我より袁本初を望んでいる様だ。足下はその気に為れば我に反し本初に着く事ができるのに、足下は冀州で独り善心を保ち我に着くのは何故だろうか」
 その冗談めかした質問に、子龍は顔色を崩さず真面目に答える。
「天下は動乱しており、未だ安定を知らず、民は逆さ吊りの禍に在ります。冀州の論議は仁政の在る所へ従っており、袁使君や明將軍のためでは有りません。冀州の論議と愚との違いは仁政を正しく見極めているかの違いです」
 子龍の回答に伯圭は思わず目を伏せていた。やがて面を挙げる。
「つまり我は行動を以て仁政を示さなければ、いくら袁本初に勝る武力を奮おうとも冀州は従わないと言う訳か。その旨、肝に銘じておこう」
 その発言で漸く子龍は笑顔を見せた。伯圭はふと気付く。
「足下がこの軍営を訪ねに来たからには、何か用事があったのではないか」
 何気なく呈した疑問に、子龍は視線を外し暫し考えた後、笑顔で答える。
「いえ、もう愚の用は済みました」
 それに少し怪訝な表情を見せるも、直ぐに納得の笑みを示した。
 伯圭は一息入れようと他愛も無い話を切り出していた。

 何も遮る物が無い所で、馬上の公孫伯圭は左から一身に厳しい北風を受けている。
 広い平野であるため南側を一望でき、遠くに数万の群衆を認める。
「あれが兗州の泰山郡を蹂躙した黄巾賊だ。着実にこちらへ向かってきている」
 伯圭の話す先に白馬に乗る精悍な趙子龍が居て、「唯」と応じる。
「軽く自軍の倍は有るでしょう」
「しかも、六年前に常山國で戦った黄巾賊より手強いだろう。常山國での賊は既に世代交替後の黄巾賊だったが、あの賊は七年前に豫州で皇甫義真、朱公偉、曹孟徳等精將と戦い、東の徐州、さらに北の兗州、より北の青州と四州に跨り歴戦を重ねた初期の黄巾賊だ。今、この冀州をも踏破しようとしている」
 渋い表情を浮かべた。子龍はそれを払拭する様な気の入った声を出す。
「冀州の民衆にとっても、引いては冀州の勃海郡を漸く糧の元にできた、明將軍の軍勢にとってもここは勝たなければいけません」
 伯圭は眉間に皺を寄せる。
「袁本初の軍勢を差し置いて、廣宗縣の槃河から清河を下流東北方向へ三百七十里、わざわざ十三日も掛けて、この勃海郡の東光縣へ進軍したからには成果を上げてみせる」
 そう言った後、後方へ合図を送り陣形を立てるため、鼓を鳴らす命令を下す。辺りは鼓の音で満たされ、伯圭自身も軍の中核と為る白馬義從と共に陣を形作る動きをする。
 そんな騒々しい状況で伯圭は並進する子龍にしか聞こえない程の声で話す。
「白馬義從は鮮卑や烏桓の北の異族に負けない騎卒を目指し、異族から幾多の騎馬の術を学んだ。ところが今や北の塞外から遠い場所で、袁本初や黄巾賊等の漢人と戦うために白馬義從を活用している。つまり異族の術で漢人を討伐しようとしている。全く心苦しい事実だ」
 その声に即座に子龍は同じ声量で返す。
「その歪んだ状況を率先して終わらせるのが明將軍の使命です。手加減無く黄巾賊を撃退しましょう」
 二人は訓練通り馬を進ませる。着実に向かって来ている筈である目の先に群がる黄巾賊の軍勢は止まったままの様に見える。それを視野に入れた伯圭は再び同じ様に子龍に話し掛ける。
「我等の騎卒にとってはあの黄巾賊の群は止まった様な物だ。作戦通り白馬義從の先導で騎卒の速さを活かし、何度も射程距離に入る様に近づき騎射で矢を撃ち込み遠のく。混乱が生じそれが陣形に広がり崩れ始めれば、歩卒を突撃させる。これで成功するだろうか」
「どんな屈強な歩卒でも馬や弩が無ければ、自軍の騎卒にとても対抗できません。しかし、敵は多勢ですので、何十回、何百回も騎射の覚悟が必要です」
 子龍の発言に、気を引き締め「然」と答える。伯圭は遠くに眼差しを移し腹に力を入れる。
「開始だ」
 その号令で伯圭を先頭に白馬義從が駆け出した。
 後には鼓の早い調子の音が残った。

 寒風の中、西からの陽光を浴び、鎧を着けたままの公孫伯圭は配下の数騎と共に戦場だった地を見回っていた。
「どこを見ても自軍の兵卒は見あたらない。黄巾賊の遺体ばかりだ。軍営に引き上げるぞ」
 そう言って伯圭は白馬を北へ駆けさせた。
 日の姿が見えなくなった頃、行き着く先の軍営を牙門から入り、馬から降り小卒にそれを任せ、自らは一つの営の中へと入る。
 帷幕の中では既に燭が点けられており、將士が座り並ぶ。その中を縦断し、一番奥の席へ座る。
「今日で黄巾賊と戦うのも十四回目だ。もう主要な集団は粗方、撃破したと思う。今まで冀州の勃海郡を守る戦いを続けてきたが、ここで戦略を変え明日からは攻めに転じる」
 伯圭は高らかに宣言した。最も近い位置に座る田楷が先ず反応する。
「既に廣宗縣の槃河を留守にして一月間は経ちます。そろそろ袁使君が牙を剥いても可笑しくない時期であり、これ以上遠征を進めると危険であると存じます」
 伯圭は声の方へ顔を向ける。
「足下の懸念は当然であろう。我もそう思い、主要な軍勢はここ東光から槃河へ戻すつもりだ。だが、一部をこのまま南下させようと考えている」
 それに対し真っ先に劉玄徳が発言する。
「別動の軍と言う訳ですか。だとすると槃河に戻る明將軍の軍勢は弱体化しますが、それはどの様にお考えでしょうか」
「それは勿論、承知の上だ。だが、近接する州郡の平穏無くして、州郡や民の支持は得られず、引いては袁本初と戦うに当たりどの勢力も友軍と為ってくれないだろう」
 伯圭の回答に趙子龍は発言を被せる。
「それでこそ仁政です。南接する青州、さらにその南の兗州へ黄巾賊の進寇は続いており、州郡の多くの吏民が苦しんでおります。ご存知の様に兗州泰山郡の應府君は明將軍と同様に黄巾賊の郡内からの撃退に苦心していると聞きます。この様な官軍と連携を執れば三州からの黄巾賊の一掃も不可能ではない筈です」
 子龍の熱弁に伯圭は笑みを浮かべる。
「足下がその様に言うと心強い。まだ具体的な編成は決めていないが、遠征する將士は決めている」
「それは誰ですか」
 皆を代表したかの様に玄徳は問うた。伯圭は間を置かず答える。
「兗州担当として單經、青州担当として田楷、そして冀州担当に現在、槃河に居残る嚴綱を挙げたい。この両者は役割が違う。余り兵数を割けないだろうが、單經は主に泰山の應府君との共同戦線を模索して欲しい。田楷は自軍のみで戦う必要が有り、また青州は現在、黄巾賊の中枢が逗留しているため、多くの軍勢が必要と為りそれに合う優秀な將士が必要に為るだろう。そこで劉玄徳を補佐に当てる。玄徳は嘗て青州での従軍経験が有り我の麾下では最も青州の地に詳しいからと言うのも在る。またこれまでの十四日間の戦いで黄巾賊に白馬義從の戦い方が非常に有効だと判ったため、趙子龍に田楷の下、騎卒を担当して貰う。暫く我は槃河で袁本初との戦いに備えるだろうから、嚴綱はその間、我の補佐に当たる。以上だ」
 伯圭が言い終えると、名や字の挙がった者等は「唯」と一斉に答えた。その後、子龍が懸念を示す。
「それでは明將軍の下は大幅な戦力減ではないのですか」
 伯圭は一呼吸置いてから話す。
「一見、危険が伴い遠回りの様に思えるが、それが着実な方法だ。嘗て公孫範が殆ど兵卒を従えず勃海郡に入り、今では槃河への兵站を築ける程と為り、今回の黄巾討伐では勃海兵を援軍に寄こせる程に為った。兗州でも青州でも各々の平穏を得られてから、槃河へ何らかの形で援助すれば良い」
 納得した様子で子龍は「唯」と答える。それに笑みを見せ伯圭は再び告げる。
「では具体的な軍勢の編成は明朝に話し合い決めよう。今日もご苦労であった。今日はゆるりと休むが良い」
 その解散宣言により、將士等は一斉に立ち上がり粛し、去って行った。しかし、暗闇の中、楷、子龍、玄徳の三人の姿が燭で照らされ浮かび上がっている。伯圭は声を掛ける。
「どうした、戻らないのか」
 楷が真っ先に答える。
「依然、明朝の軍議や祖道等、出発まで明將軍と会う機会は有るでしょう。しかし、それだけでは、これまでの十五年のご恩を語り尽くせないと存じます。明將軍と過ごした年数は違えども、他の二人もその様な思いでしょう」
 子龍と玄徳は共に「唯」と答える。伯圭の表情は緩む
「三人の気持ちは判った。ならば座り直すが良い。日が明けるのは依然、先だ」
 伯圭の許しで、三人は粛し再び座る。
 先ず伯圭は自分と各人との出会いを話しそこから思い出話に繋げていく。それに沿って三人は当時の伯圭の印象を話し、燭の明かりの中、話は尽きる事は無かった。

節十

 年が改まり初平三年、公孫伯圭は年四十二を迎えていた。暦の上では春だが、依然、厳しい冷気に晒される日々だった。
 日がやや西へ傾き始めた頃、朝服の伯圭は正堂で嚴綱等の官吏と共に待機していた。榻の上に座す伯圭は綱に話し掛ける。
「遠くの方が騒がしいから、もう到着したのかもしれない」
 綱は驚きと感心の入り交じった表情を見せる。
「よく聞こえますね」
「声は大きいが、我の耳は良い。これが戦場で生き残って来た要因の一つだ」
 二人が対話を繰り返していると、閤門に複数の玉声がして、目を遣ると六人の官吏の姿があった。先頭で両梁進賢冠を戴き単衣の上に袍を重ね青綬を帯びる髭の男は公孫範だった。六人は西の階から堂上へ昇り、一斉に拝する。元々居た綱を含む官吏が返拝する。伯圭は口火を切る。
「善く来た。身に着ける物だけで無く面構えもすっかり勃海太守だな。従兄としても大変嬉しく思う」
 範は笑みを見せる。
「過分なご発言を痛み入ります。檄に有る様に勃海郡からここ鉅鹿郡の廣宗城まで軍勢を率いて参りました。現状はどう為っていますか」
 一転、表情を引き締めた範に、黒綬を帯び一梁進賢冠の綱が答える。
「南接する魏郡から数万に昇る大軍が来ていると報告を受け、恐らく袁本初の軍勢が南西の冀州魏郡の黎陽城から清河沿い下流方向、北東へ進軍していると予測しました。やはり当初の予想通り袁本初の軍勢はここ廣宗城と勃海郡との兵站を断ち兵糧を絶やすのが目標の様です。清河の東側を行軍しており、四日後には東の甘陵國へ入ると思われます。この状況での明府の軍勢の到着は戦局を有利に導くでしょう」
 範は綱へ顔を向ける。
「では甘陵國のどこかで袁本初との戦端を切る戦略ですか」
 その質問に「是」と綱は答える。伯圭は表情に自信を見せる。
「勃海郡で黄巾賊と戦っていた頃の自軍と大きく変わった。どこが変わったか判るか」
「否、判りかねますね」
 範のあっさりとした返答にさらに伯圭は顔に自信の色を滲ませる。
「そうだろう。実は募兵により冀州下の郡縣から歩卒が増強され、今、三万人近くも歩卒が居る。二月前に勃海で黄巾賊を大破し、さらに青州まで黄巾賊を攻めたのが奏功した様だ。廣宗縣の槃河に戻ると冀州の郡縣から次々と協力する旨の書簡が来た。だから順調に歩卒を集められたし、鉅鹿郡の李府君の協力も有り槃河からここ廣宗城の中に軍営を改められた」
 伯圭と対照的に範は怪訝な表情を返す。
「では冀州の郡縣は明將軍の理念に賛同したと言うより明將軍の武威に靡いたのかもしれないのですね」
 それを聞き伯圭は驚きの表情を見せる。
「失礼ながら公孫府君もすっかり鋭い洞察力が備わり頼もしくなったな。亡き公孫越に匹敵するどころか凌駕しているかもしれない」
「痛み入ります」
 伯圭の悦びの顔に、目を伏せ恐縮した範の顔が向かい合った。伯圭は話す。
「確かに黄巾賊を大破した我の武名が轟いた故に多くの郡縣が従ったのかもしれない。現に袁本初の強い影響下では冀州魏郡の栗府君を初め長吏等からの返信が無い。そのため袁本初との決戦で、武名がさらに轟くか、逆に失墜するかのどちらかだ」
 その声に決意が込められていた。力強く綱が告げる。
「明將軍率いる軍勢は勃海で黄巾賊を征伐し大破致しました。袁本初は嘗て戦った強敵の鮮卑や烏桓に匹敵する強さでしょうか。とてもそうは思いません。軍内が弛緩しなければ、負ける相手では無いでしょう」
 伯圭は口を真一文字に結び二度肯き「然」と言う。
「明府に於いて着いたばかりで申し訳ないが、刻一刻と袁本初の軍勢が進軍している状況であるため、早速、軍の編成を決めていこう。善いか」
 範は「唯」と応え、伯圭は小吏に地図と棊(こま)とを持ってこさせる。
 地図を拡げ、「白馬義從」と書かれた棊等を一つずつ置いては意見を求めた。
 正面から射し込む陽光に、確かな春の息吹を感じていた。

 日が姿を見せない早朝のまだ冷えた鶏鳴時に清河を前にし鎧を着た公孫伯圭は馬上で機会を伺う。
 伯圭の背後には慌ただしく隊列を組む四万にも昇る兵卒が居て、その向こう側には昨日設営し泊まった軍営が在った。その集団から一騎が出てきて伯圭の左に近付く。
「身(わたし)が白馬義從に加わるよりは嚴使君の様に一つの部を任せて下さった方がやはりお役に立てると存じましたが」
 左を向くと、声の主は鎧着用の公孫範だった。伯圭は片方の口角を上げる。
「今回の戦闘だけを考えればそうだろう。だが、これから先の事も考えれば、明府には白馬義從の戦い方を完全な形で修得して欲しい。公孫越が亡くなってから受け継ぐ將士が居るのかが気懸かりだった」
 範は顔色を改め表情を引き締める。
「それならば喜んで白馬義從に加わりましょう」
「よし決まりだ」
 やがて鼓が鳴り出し、二人の脇を騎卒が整然と通り過ぎる。騎卒の行軍は界橋に足を踏み入れ次々と清河を渡って行く。
 それが過ぎると伯圭は白馬義從を率い前進を開始する。行列は界橋を過ぎると右の南方向へ曲がり、幅広い平野を直進する。行列に任せ直進すると、脇から伝令の馬が来る。
「四十里先にこちらへ行進する敵軍が在りました。その数、歩卒千です」
 そう報告し、去って行った。伯圭は左の範を向く。
「今は歩卒の速さで進んでいるから、ここから南へ二十里地点、正午前には接触するだろう。そこで軍を展開させ陣を作ろう」
 範は「唯」と応じる。
 二時程、行進した後、斥候に拠る報告通り、二十里程の地点で敵勢を認める。伯圭の号令で鼓の音が鳴り響き、陣形を成そうと動き出す。嚴綱率いる歩兵三万人余りは方陣を成し、騎兵は各五千騎で左右二曲に分け、それ等に白馬義從を二校に分け中堅とする。伯圭自身は範と共に右の校に入った。
 対峙する袁本初の陣は前曲に千程の歩卒を配置し、残り数万全ては後曲として方陣を築いていた。
 伯圭は戦法の伝授も有って範に告げる。
「思った通りだ。敵勢に騎卒が殆ど見えない。我等の常套手段を使えば容易く勝てる。騎卒で射程距離に入り騎射しては離れるのを何度も繰り返せば良い。千程度の歩卒は我等の動きを試すための配置だろう。先ずはあの千だ。左から右方向を射し、右から左方向を射し、左右から攻撃を加えれば勃海の黄巾賊の如く忽ちに滅せるだろう」
 そう言って、深く一呼吸する。
「進め」
 伯圭は号令と共に自らの白馬を前へと駆けた。鼓の音と共に左右から騎卒が前へと駆け出し、一斉に敵陣前面の歩卒千を目指す。伯圭の視界の中で敵勢の姿が次第に大きくなる。
 その中途で、歩卒千が動かず、それどころか楯の下に伏している奇妙な姿を見る。
「敵は白馬義從に怖れ只伏すのみです。一気に殲滅しましょう」
 勢いづく範は叫んだ。伯圭は納得し内心の疑念を振り払う。
 騎卒各五千が左右から千の敵卒を追い込もうと近付く。やがて目的の数十歩手前の地点に近付き一斉に減速し弓を構え矢を出そうとする。
「放て」
 その大勢の叫び声は自軍からでは無く対峙する敵軍からだった。咄嗟に一瞥すると、伏せて居た敵軍の歩卒は皆立ち上がっていた。全員の手には弩が備えられていた。伯圭は瞬時にその意味を理解する。
「退却だ」
 その叫び声は既に遅く、大量の矢が前方上から降り注ぐ。伯圭自身は一矢も触れず心の臓を強く一鼓動させるだけで済んだが、周辺からの無数の悲鳴が両の耳へ飛び込んで来て、言い表せぬ重い恐怖に拠り押し潰されそうに為っている。気付けば敵卒が一斉に足を使って弩の弦を引き弩機で固定され矢が設置される。
「撃て」
 再び大勢の叫び声が耳に届き、遅れて大量の矢が前方上から再び降り注ぐ。次は兜鍪の横を掠った。再び悲鳴が轟いた周りに目を遣ると、多量の人馬が倒れている光景が視界に入り、一矢も報いる事ができないと悟る。
「馬に乗れている者は退却だ。倒れている兵卒を見捨てろ」
 被害拡大を避けるのを優先した命令を近くへ飛ばした。そして自ら率先し敵に背を向け白馬を駆ける。倒れた人馬を避けて進む。屈辱と恐怖が心を占めている。
 後を振り返る余裕も無く馬を西回りで北の後へと駆ける。
「倒れなかった者は四散し、後方で集まりつつ在ります」
 背後から掛けられた声に驚き、振り返ると、範が必死の形相で着いてきていた。恐慌の余り左に追従していた自らの従弟を忘れていたのを恥じ、我に返る。
「こう言った予期せぬ展開に対し、白馬義從は素早く対応する筈だ。先ずは身の安全を図り後方へ下がるだろう。それ等に騎卒が着いて行くため再起を図れる」
 伯圭は自らに強く言い聞かせるように厳しく叫んでいた。馬上で激しく肩で息をし、多少、落ち着いてから再び範に話す。
「充分に騎馬を引き付けての弩に拠る一斉雷発は、四年前に石門山で我が張純率いる叛烏桓を大破した作戦に酷似していた。袁本初の麾下に北辺に通じた將士が誰か居るのか」
 その問い掛けに、馬から振り落とされまいとする中でも明確に範に拠る驚愕の表情が見える。
「麴義です。嘗て明將軍の口から麴義が涼州で長く叛羌と戦っていたと聞きました」
 その驚愕の表情は駆ける馬の間を飛び越え伯圭に遷る。
「以前、韓文節に背いた麴義か。常に高みしか見ようとしないあの袁本初が、まさかそんな実戦的で大胆な抜擢をするとは…」
 驚きの余り、語句を失っていた。顔を左右に振り話を続ける。
「我は幽州で異族と戦い抜いた精卒として、嘗て涼州で叛羌と戦い続けた漢人の精卒との戦いを欲した。だがそれは飽くまでも董卓の軍勢を想定しての事だ。まさかこんな屈辱的な形で実現してしまうとは」
 その声は誰に向けた訳で無く、心から沸き上がる感情を吐いていた。
 二人とそれに続く騎卒は自軍の歩卒三万の背後に到達する。
「歩卒に弩を持たせている。嘗て石門山を共に戦った嚴使君で有れば、千の歩卒など一溜まりも無いだろう」
 伯圭はそう言って白馬義從と騎卒の再編成に急ぐ。しかし、その最中に眼前の歩卒三万の隊列に前から混乱が生じ始め、瞬く間に全体へ広がっている。しかし、それに対応する様な鼓の音も鐸の音も聞こえない。時を同じくして前から伝令の馬が来て、伯圭の前で叫ぶ。
「嚴使君が凶矢に伏しました」
 その一報で伯圭は全て理解できた。左の範にその理屈を漏らす。
「自軍の歩卒に弩が在っても、その殆どが冀州の兵卒で有れば喩え嚴使君の様な優秀な將士と雖も弩を有効活用できないのは道理だ。命令が行き届きにくい大軍であれば尚の事、少数精鋭の麴義に翻弄されるのも無理はない。それ等の悪条件が重なって嚴使君は指揮できない状況に為ったのだろう。総指揮が伏せば対応や退却の指示が出る前に混乱が全体に広がり御せなくなる。全く嫌になる程、道理に即している」
 力の無い伯圭に向け範は叫ぶ。
「明將軍が前へ出て、指揮をお執りに為れば混乱した軍勢は忽ち整然とし再起できるでしょう」
 伯圭は首を左右に振る。
「密集する編成なのに混乱した歩卒の隊列を馬で駆けて前へ出るなど自殺行為だ。ここは出来る限り鐸を叩き全体に退却を促すのだ」
 その発言に拠り鐸の音が順々に鈍く発せられる様に為る。しかし、遠くまでは混乱から退却へと移らず、仕方無く伯圭は退却を最後まで見取る前に自らが騎卒を率い退却し始め、北へと馬首を巡らす。
 命令に拠る退却とは名ばかりの奔走が行われる中、伯圭の指揮は無意味な物で有るが、北へ向かっては止まり後続の奔走を見守ると言った行為を繰り返す。やがて伯圭は行く先に清河と界橋を目で捉える。そして左へ振り向く。
「範よ、橋を渡り軍営に戻り軍勢を立て直せ。我は残った騎卒を纏め敵勢後方の袁本初を急襲する。それこそ、この戦いでの形勢逆転と公孫越の仇を討つ行為との公私両方を果たせる」
 伯圭にとってそれは死を覚悟しての発言だった。範は沈黙の間の後、眉間に皺を寄せ単に「唯」と応える。それを認め、伯圭は麾を右へ指し示し、範から離れていった。
 伯圭は騎卒二千を率い界橋の北東にある森の後に姿を隠し静観する。日が西の空に掛かる頃、敵勢が姿を見せ次々と界橋に殺到し、遂に自軍の殿兵に追い付き橋上で戦闘に突入する。伯圭は咄嗟に界橋へ加勢しようと考えたが、既に接戦に成っており、両軍に混乱を加えるだけと悟り、東への出軍だけを命じる。東へ大回りし南方の袁本初の本軍を目指す。
 目の前には荒涼とした平野が広がっていた。

「あれだ。進め」
 馬上で公孫伯圭は遠くに両眼で平野の中の数万の敵勢を捉え、後方の騎卒に向け号令を発した。敵勢は急接近する騎卒に気付いた様子が無く、近付く毎に伯圭に急襲成功への自信を募らせている。視界の中で大きく為った敵勢の姿は密集した戦闘態勢に無く、戦闘が終わったと言わんんばかりの分散し設営を行う最中だった。伯圭は思わず口元を緩め片方の口角を上げる。麾を一つの営を指し示す。
「あの軍営こそが袁本初の居る本営だ。囲んで射撃せよ」
 伯圭の号令で、騎卒は皆、弓を手に持つ様に為る。
 やがて既に牆垣が立てられた所に到達し、それに沿って騎卒の行列を駆ける。軍営の周り百五十歩程を何周もし、結果として騎馬に拠る数重の包囲と成っていた。騎卒は皆、弦を引き矢先を軍営へと向けている。
「放て」
 伯圭の号令で一斉に軍営へ矢が射掛けられた。敵襲に気付き外へ出ていた袁本初の兵卒は手に持つ戟を奮う前に次々と地に伏す。
 七回目の一斉射撃の後、外側から騎卒の包囲を崩そうとする弩を持つ歩卒が多く姿を見せ始める。
「軍営へ突撃だ」
 伯圭はそう叫び、包囲の中心へと馬首を巡らせる。騎卒の速さが緩み、軍営で混戦の様相を呈し始める。彼方此方から怒号と悲鳴が上がる。馬術に秀でた伯圭は人馬一体と為り細かい動きで並み居る歩卒を戟で排除し掻き分けながら、前へ前へと出る。
 十何回と戟を振り下ろした後、ふと右斜め二十歩程先を見ると、装飾過多な兜鍪(かぶと)と鎧を身に着けた男が居て、その腰には紫綬が垂れていた。
「あの紫の綬は列侯の証だ。あれこそは邟郷侯の袁本初に違いない」
 喜びの余り伯圭の思考が声として漏れていた。馬を駆けるが、数歩と前に行く前に二人の歩卒に阻まれ、それ等に打撃を加え排除する間に、こちらに死への恐怖の表情を見せ紫綬の男は姿を消す。
 後を追うが紫綬の男を守る様に戟を手にした歩卒が次々と現れ、刃を交わし馬上の伯圭は尽く打ち勝つ。前方に広く間が空いたため、急ぎ馬を馳せ間を詰めると、牆垣の向こう側の地に何かを見かける。
 慌てて伯圭は下馬し地に落ちた二つの物を拾い上げる。右の一つが見覚えのある装飾過多な兜鍪で、左のもう一つが金印紫綬だった。伯圭は思わず呟く。
「袁本初を仕留められなかった結果が、この先の我の運命どころか天下の趨勢をも大きく変えるだろう。異族に勝とうとして異族の騎馬に拠る戦いの術を徹底的に学習し修得し白馬義從を設けたと言うのに、まさかその所為で麴義に拠る弩の前で大敗を喫するとは」
 自らの不甲斐なさへの怒りと共に兜鍪と金印紫綬を地に打つ。急いで伯圭は乗馬し、辛うじて残った後続の騎卒に叫び告げる。
「もう敵は弩の用意ができている。矢の餌食に成る前に北へ離脱だ。近くの騎卒に伝えろ」
 直ぐに伯圭は馬首を北へ向け、敵卒が隊列を組もうと集っている中へ飛び込み、戟で活路を切り開いて行く。その後に次々と騎卒が続き活路を拡げていた。
 敵卒数万の陣を北へ脱出し、伯圭の高揚と緊張は解れる。しかし、内心では目の前が暗くなった様な気がしている。
「この戦いは我の完敗だ。我の仁政を見ようとせず武威だけに従っていた郡縣はこの先、挙って反意を示すだろう。それは勃海郡も例外で無く、冀州から北へ追いやられるだろう。だが、幽州から再起し必ずやこの地に戻ろう」
 誓いを立てるかのように、伯圭は天に向かって大声を発した。
 行く先は夕闇に覆われつつ在る中で多量の砂塵が舞っている。
 それは見通しの利かない不安感を煽る光景だった。

この本の内容は以上です。


読者登録

清岡美津夫さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について