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節五

 平野の雪を掻き分け、漸く設営を終わる頃には闇に覆われていた。
 それでも公孫伯圭は設営監督の場から苣の灯りを頼りに幕府へと戻る。
 そうすると幕府の帷幕の前で四人の袴褶の男が待っていた。近付くと、先頭に立つ男の顔に見覚えがあると気付く。戴いた両梁進賢冠の下で、今にも肩まで耳たぶが垂れ届きそうな大きな耳が印象的な顔だった。
「劉備」
 伯圭は見知った男の姓名を思わず言い放った。四人が一斉に拝する。再び立ち上がった頃を見計らい、伯圭は粛し、中へと招く。
 帷幕の内側では燭が点されており、所々に席が敷かれる様が照らされる。伯圭は東側を北へ歩き、反対の西側で劉備と呼ばれる男一行は歩く。伯圭は一番奥の南面する榻に座り、劉備等は対面する席に並んで腰を下ろす。
「足下とは盧師の門下で学んでいた時以来だから、十三年振りに為るんだな。我と足下が共に学んだ時期は半年も無かったが、今でも昨日の事の様に思い出せる。それ程、印象的だった」
 自らの師匠に当たる盧子幹を思い出し、遠い目をして朗らかに語った。しかし、備は緊張した面持ちで立ち上がり一尺の木簡を差し出す。それが刺と呼ばれる物と知り、受け取って燭の火を頼りにまじまじと読む。
「劉備、玄徳と字(あざな)し、年二十八か。それに青州平原郡の高唐令とは昇進した物だ。当時、足下は加冠しておらず字も無い年十五の児(こ)だったと言うのにな」
 刺を右手に持ちながら、にやにやとして劉玄徳の顔を伺っていた。玄徳は照れながら応える。
「昨年、張純の乱が三州に広がりつつあった際、卿が盧師の門下に出した書簡は、どこにも仕官していなかった僕の下へも届きました。それを見て一介の什長でも良いので何かしら反叛の討伐に加わろうと思い、青州で叛烏桓と戦ったり、黄巾賊を討ったり、その他の賊とも撃ったり歴戦しました。そうやって紆余曲折し何とかその官職にありつけました。しかし、赴任地と為る平原郡は丘力居の軍勢に進寇を受け治安が悪く、結局、弱体化した縣の軍勢が強まる賊に敗れ、帰る宛が無くなり、こうして使君の前に数騎を引き連れ来た訳です」
 その発言に対し口元を綻ばせながら目を細める。昨年、張純の乱を鎮めようと多方面へ書簡を出し続け、意図しない形であるとは言え、それが今、実ろうとする結果に感慨深く思っている。その様な美談からふと伯圭自身を「使君」と言った現実に気が付く。
「もう我が中郎將だと聞きつけているのだな。そう言った根回しの良さは懐かしい。して我にどうして欲しいのだ」
 伯圭が口にした最後の語句で、玄徳は燭の影からでも判るぐらいの明るい表情を瞬時に見せる。
「そう仰って下さると話が早いのです。是非、僕をこの軍の將士の末席にお加え下さい。僕も僕の配下も戦闘経験は豊富です。青州で烏桓とも戦った経験が有ります」
 こちらまで汗をかく汗をかく様な熱気で玄徳は訴えかけた。焦らしたい衝動を抑えつつ伯圭は返答する。
「善いだろう。我から上表し足下を中郎將の別部司馬に就けよう。任命の詔書が下りれば、その時に高唐令の印綬を返還すれば良い…」
 その快諾に玄徳は底から安心したと言う笑みを見せた。しかし、伯圭はそこで話を終えない。
「但しこの反叛が鎮静すれば、足下には職を辞して貰う。盧師の下で五経を学んだ者が一介の將士に就いてるのは、適材では無いし、何より盧師に顔向けができない。反叛が終わればこんな辺郡に留まるのでは無く、京師に行き世の見聞を広めると良い」
 伯圭の言い付けに、玄徳は「是」と即答しその場で立ち上がり拝した。頭を上げる頃に伯圭は笑みを見せ再び話す。
「では仮の別部司馬である足下には後続の輜重の護衛に当たって貰いたい…」
 具体的な話に為ると判断してか、玄徳は懐から版と呼ばれる一尺の木簡と筆を取り出し、書き留めようとする。その動作を待ってから説明を再開する。
「…先の戦闘で大勝したものの、張純を取り逃がした今、その行方を追っている。その過程で足下との因縁も深い丘力居の叛烏桓と遭遇した。連戦し連勝し目下追撃している。だが、騎卒中心の敵勢に対し、一般的な歩騎混成の自軍は追い付けないで居る。そこで一時的に自軍の騎卒だけを先行させようと考えている。足下にはその騎卒では無く後続の歩卒や輜重の部曲に着いて貰いたい」
 話し終えると、版に書き終えた玄徳は遅れて「唯(はい)」と返した。伯圭は頬を緩ませる。
「では、堅苦しい話はここまでだ。折角、盧門下の兄弟分が十三年振りに再会したのだから、この十三年間、どう過ごしてきたかお互いに話し合おうではないか。勿論、足下の配下も話に加わって貰おう。」
 その提案に玄徳は満面の笑みを伴い「唯」と応えた。
 左右に顔を向け、暗がりの中でそこに居合わせた面々を一望し、口を開いた。

 夕闇の曇り空の下、公孫伯圭は半里程先の城門が開く様を凝視する。
「進め」
 白い気を辺りに吹き漂わせ、馬上から号令を発した。鼓の音共に規則良く順々に城内へと行進する。次第に視野の中で城壁と開かれた城門が大きく為る。
 半時も前で無い頃に、伯圭の歩卒は城壁を乗り越え内側から門を開け、城内へ大軍を雪崩れ込ませ、丘力居率いる敵勢を駆逐した。遼東屬國の石門山での大勝利以来、自軍の士気は高騰し行方不明の張純を探し出す勢いのまま、他の反叛勢力に対し凄まじい追撃を繰り広げていた。それは遼東屬國の境を北へ越え、遼西郡へと入り、標的と為った丘力居の軍勢の壊滅まで残り一歩まで迫った。
 しかし、殆ど騎卒で成り立つ丘力居等烏桓の軍勢の退却は速く、輜重と共に移動し補給路を確保しながら追撃を試みる伯圭率いる官軍は追い付く事すらまま成らなかった。そこで伯圭は輜重を置き去り、一気に敵勢へ迫った。追い付いた先が管子城と言う所であり、半日も経たず落城させたものの、またも反叛の渠師を取り逃がした。
 今、その管子城の南門を複雑な思いで伯圭は通り過ぎた。漢朝の支配外と為る塞外へはもうそこまでの位置であり、逃げ切られてしまうのではないかと焦りを感じている。
「戟や弩の武器は殆ど有りませんが、食糧は数日分有る様です。輜重を率いる歩卒がここへ追い付くまでは飢える心配は無いでしょう」
 中央辺りまで来た時、徒歩で走り寄る大きく逞しい趙子龍は告げた。
「それは田楷と劉備が指揮を執っていたな。仮に敵勢が接近する事態が有っても、事前に察知し切り抜けられるだろう」
 馬上で安心させようと笑みを浮かべた。
 駐屯のための設営を行わせつつ、並行し別の兵卒に城内に民衆以外に敵卒が潜んでないか、調べさせる。苣の灯りの中、設営が終わり、外に向けた衛卒以外、全軍休眠に入った。
「府君、城外に軍営が現れました」
 その声で伯圭は起こされた。外は未だ暗く鶏鳴時だと理解する。
「直ぐ楼へ向かおう」
 管子城を奪取して一夜しか経っていないと言うのに、軍営が見えたと言う報告に嫌な予感を募らせていた。動き易く袴褶に着替え武冠を戴き外へ早足に歩き出す。
 門卒にどの楼か聞き出し、暗がりの中で大街を南へ急ぐ。途中、それに気付いた兵卒の多くから粛され、その都度、横目に流していた。
 やがて、城門の前まで到達し、脇の階を昇り城壁の上の楼へと駆け上がる。楼上では岩の様な体で存在感の有る嚴綱が既に居て、こちらに気付き互いに拝するも、再び口を半開きに唯、外を眺めるだけだった。伯圭はその視線を辿って、外を眺めると、そこに異様な光景が広がっていた。
「城壁から半里も離れてない場所に軍営が連なっている。東南と西南を見てみろ。軍営の列も柵も北へ折れ曲がる。つまりはここ管子城が一夜の内に包囲された可能性が在る」
 自らの発言に伯圭は身震いする思いだった。綱の目に光が戻り、自らの上官の顔へ向き直る。
「今まで戦った敵勢より少し数が多いだけです。撃って出れば容易に大破できるでしょう」
 その力強い発言も伯圭の心を動かすに到らなかった。急がず城外から視線を横へと移動させる。
「あれだけ城壁に接近して居れば、こちらが城門から出ても即座に対応できる。つまり大軍を外へ出し騎卒の速さを活かす前に端から順に矢や刃で地に倒されてしまう…」
 伯圭が話す程、綱の表情は険しい物へと変化する。事の重大さを噛み締めながら分析を続ける。
「…管子城に数日分しか食糧が残されて居なかった理由が解った。我等をここへ釘付けにするためだ。敵勢にとって管子城を包囲する時さえ有ればそれで充分だった訳だ。我等に食糧が尽きるまで管子城に留めておくつもりだ」
 声を震わせながら告げた。
 やがて朝日が左から見えるも暗雲が頭上に集まりだし、大粒の雪が強風と共に降り出した。

 管子城に到達してから百日余りが経とうとしていた。
 既に年が改まり中平六年と為り、公孫伯圭は年三十九に為り、北の辺境でも寒さが緩やかとなる春三月に為っていた。しかし、そんな状況も今朝からの激しい冷雨により忘れさせるに充分だった。
 正堂の榻に座る袴褶を着る伯圭は、目を瞑り背筋を伸ばし少しも動かないで居た。
「使君、宜しいでしょうか」
 その声で目を開けると、前に袴褶を着た趙子龍が座っていた。着る物だけで無く伯圭と同じ様に伸びたままの鬚髯(ひげ)の上からも解る窶れた顔を向ける。元々大柄な体だけに衰えが強調される様だった。「善(よし)」と答え話の先を促す。
「使君よりご命令通り、部曲の間で各々の軍馬を交換し、それを殺し馬肉を食し飢えを凌ぎましたが、それも今や食べ尽くしつつ有ります。中には馬肉が尽き、弩や楯を煮始める者も出てきたと聞いています。一方、ここへ来てから救援の官軍が来たと言う話は耳にしません。そのため、何もせずに居るのは意味が無く、城内の全員が飢え死ぬ前に何らかの策を講じなければなりません」
 差し迫った内容とは裏腹に淡々と子龍は話した。愛着の有る自馬を食すのは抵抗が有るだろうと配慮し、伯圭は他の一団の馬と交換する様、命令を下していた。その策は無意味に成りつつあり、遂に食べられない物まで手を付けようとする者も現れた。やがて内心で決意し、強張った顔の筋肉に注意しながらゆっくりと口を動かす。
「遂に馬も尽きつつ有るか。このままでは刀や戟も煮ざるを得ない状況に成るかもしれない。そう為る前に全軍一丸となって包囲を突破しよう。明朝に決行だ。鶏鳴時に南門前に集まる様に全軍へ通達だ」
 その命令を聞き力無い笑顔を返し、子龍は立ち去る意味で拝し、堂を降り雨の中で去って行く。長きに渡る睨み合いにより敵勢が戦いへの準備を怠るだろうと言う僅かな希望に伯圭は賭けている。
 翌日、日が昇る前に一万強の兵卒が南門に集まった。皆、兜鍪と鎧を着け、手に武器を持っているが、それに力は無く両手を垂らし両肩を落とし背を曲げ立つのがやっとと言った状況で佇んでいる。最早、気力しか残されていないと判断し、それを少しでも元気付け様と伯圭は皆の前へ出る。
「諸君、いよいよ管子城を去る時が来た。依然、丘力居率いる叛烏桓には敵わないだろう。だが、一丸と成れば、必ずや包囲に穴を開け、この地より帰還できる。突破した後は官軍の兵卒として諸君に命令を課さない。つまり、各自が生きて帰る行為が最後の命令だ」
 声を絞り出し、大声を出した。それに呼応する悲鳴の様な声が所々で挙がり、それがうねりと成る。
 軍勢の規模や相手の異族が全く違うものの奇しくも十四年前に塞外で伯圭が鮮卑と遭遇した際と似た状況に成っていた。当時、異族である鮮卑との力の差を痛感し、白馬義從を設立した。しかし、今やその白馬すら影も形も無く馬肉と化し誰かの胃袋に消えていた。その運命の皮肉に伯圭は声を出し自嘲したい心地と成ったが、思い留まり気を門外へと集中させる。
「扃を取り去り門を開けろ」
 そう言うと、一人の兵卒が門に架かる横木を取り去り、慌てつつも重々しく門を開く。
 門を通じ城壁の向こう側が見え、そこには敵陣の柵が横へ大きく広がる。
「行くぞ」
 そう左右に言って、伯圭は戟を両手で持ち走り出した。
 柵に一早く着く様に全力で走るが、久しく体を動かさず加えて飢えによる膂力の低下により、年三十九の体は走行に見えない遅さで進んでいる。しかし、その力の衰えは城内の全員に訪れており、結果的に、皆、示し合わせた様に同じ速さで敵営へ進む。
 幸運にも敵卒の姿が目的地の軍営から現れず、包囲突破への希望が繋がる様に感じる。やがて伯圭等最前列は柵に到達する。敵勢が漢人の軍営の様に深く広い塹や強く高い土塁を築かず、馬の進路を防ぐのみの柵である状況に安心し、勢いのまま、柵を倒しに掛かる。後続の者は柵沿いに横へ走り別の柵を倒しに掛かり、突破口を広げる。
 柵を倒し、伯圭等最前列が内側へ入る頃、漸く敵卒が帷幕から姿を見せ始める。構わず伯圭は高揚感を持ったまま再び走り出し、自軍の兵卒がそれに続く。まるで虫か獣の大群の如くに密集して突き進む。顔を見せた敵卒は成す術も無く倒され踏み付けられるか、そのまま退散するかのどちらかであった。
 軍営の外側の柵に到達し、瞬く間に勢いづく兵卒に再び柵は倒され、先に到達した多人数で脱出口を確保する。再び自軍の兵卒は解放へ向かって走り出す。一里程敵営から離れて振り返ると、依然、柵の穴から自軍の兵卒が出て散開しており、叛烏桓による追撃に向いた恐怖が背中を冷たくする。
 走っては振り返りを繰り返す伯圭は漸く自軍の兵卒による行列が途切れたのを視認し安堵する。気付けば、東の空から日の姿が見え始めており、上空からは大粒の雨が落ち始めている。見る見る内に足元が泥濘始め、敵営から離れようにもどんどん体力が奪われる。敵勢の追撃を恐れつつ振り向くと、それが現実化したかの如くに敵営から数匹の馬が駆け出している。いよいよ犠牲者が出ると覚悟した。
 ところが、もう一度、振り返ると、それらの馬は伯圭の元へ向かっている。胸が急激に高鳴り、立ち止まり、振り返り、戟を握る両腕に力を込める。
 しかし、接近されると先頭の馬以外の馬に誰も乗っていない事実を見知る。さらに接近されると先頭の馬の上は叛烏桓では無く、自軍の兵卒だと気付く。より接近するとその兵卒の顔が見慣れたものだと気付く。
「趙子龍」
 緊張の緩和と驚きの勢いのまま大声で相手の姓字を伯圭は叫んだ。趙子龍は自ら乗る馬を止めその他の馬も止める。
「この馬にお乗り下さい。話はそれからです」
 その申し出の通り、伯圭は一つの馬に走り寄り飛び乗る。そして他の馬を他の士卒に残し、共に南へ馳せ出す。伯圭は元居た所をしっかりと見定められないまでも何度も振り返る。
「あそこには嚴綱を始めとする將士や飢えた兵卒が居たんだぞ。敵勢の追撃から見捨てざるを得ないのか」
 語義を荒らげて伯圭は声を吐いた。それでも子龍は進行方向から目を離さない。
「落ち着いて下さい。使君はお気付きでは無いでしょうが、使君の周りに嚴卿を始め主要な將士が付き従っていましたので、直に乗馬し追い付くでしょう。加えて追撃の心配は余り無いと思います…」
 右に併走する子龍は一旦、話を止めた。直接嚴綱の名を言うのを憚り敬称である卿を付けていた。伯圭は話の先を促す。
「…この馬は敵営から頂戴して来ました。その際に敵卒と一戦を交えましたが、叩きのめし語が通じる様でしたので、敵の状況を聞き出しました。叛烏桓の軍営でも食糧に困り飢えていた様でした。そのせいか数日前より段階的に撤退していた様です」
 子龍が告げた事実に伯圭は驚きを隠せないでいた。
「では昨日一昨日等、もう少し早い時期に突撃を掛けていれば反撃に遭っていただろうし、明日明後日等、もう少し遅い時期に決行しようとすれば、何割かは飢え死に遭っていたかもしれないのだな」
 その確認のための問いに子龍は慎重に「然」と答えた。
「未だ敵勢への警戒を解く行為はできないでしょう。先ずは近くの縣城へ逃げ込みましょう」
 子龍の進言に何十日ぶりの笑顔で伯圭は「諾(よし)」と答えた。
 未だ冷たい大粒の雨が降り続いており、行く先の上空で暗雲が立ちこめていた。

 西の空が赤く染まりつつある時に、依然、官軍の勢力下に在る遼西郡府が在る陽樂城に公孫伯圭等は到達した。
 単衣を纏い進賢冠を戴く骨張った田楷と単衣を着て武冠を被る中背よりやや高い劉玄徳が共に驚きと喜びが入り交じった顔で一行を城門内で迎える。
「管子城で何やら動きが有ると斥候より聞き及びましたが、まさか使君が無事ご帰還されるとは思いも寄りませんでした」
 その楷の一言に、伯圭は先ず笑顔で返す。
「詳しい話は後だ。先ず湯と餅を手配してくれ。腹を満たさなければ話に集中できない」
 依然、声に力無く告げた。
「用意しますが、急いで食べると体に毒ですので気を付けて下さい」
 命令に応じ楷は官邸へ案内する。
 歩き達した官邸の正堂では既に燭が点されており、伯圭は気力を振り絞り階を通じ堂上へ昇り南面して榻に座る。間髪入れず水と食糧の入った器が前へ出され、それ等を慎重に口の内へ運ぶ。その間に趙子龍、嚴綱等が西の席へ座り、田楷、劉玄徳、單經、公孫越が東の席に座る。西の席に座る者にも少量の水と食糧が場に用意される。
 四半時も経たない内に伯圭は食べるのを止め、楷に報告を促す。
「この陽樂城に駐屯する後続の部曲は遼西郡の軍勢と共に何度も管子城の包囲を破ろうとしましたが、圧倒的兵力差の前に管子城近くの包囲にすら到達できずに居ました。そんな折り、一月前に幽州牧の劉使君より攻撃を控える様に命令が有りました…」
「劉伯安が何故、我の任務に口出しするか」
 楷の報告に、顔に精気が戻った伯圭は激昂し思わず報告を止めた。暫しして俯き一呼吸置き先を促す。
「続けて劉使君は張舉と張純の首に金銭を懸ける旨をこの遼西郡を含め州下の郡縣に通達致しました。その後、どう言う訳か管子城の周りから叛烏桓の軍勢が徐々に撤退し始めた様子が斥候により報告されました。憶測でしかないのですが、劉使君と丘力居等叛烏桓との間で何らかの取引が在ったように思えます」
 楷が報告を終えても、伯圭は無言で俯く。やがて怒りで唇を奮わせながらも感情を抑えて言う。
「劉伯安が包囲されていた我等を見捨て、敵の丘力居と取引を行ったのは明白だ。それをこちらが知った旨を知らしめないといけない。幽州府に向け叛烏桓の使者を殺す様に書簡を送れ。また飽くまでも我等は武力で叛烏桓を駆逐する方針を示すため、これより散還した兵卒を収めつつ西へ行軍する。行く先々で兵卒を募る。今、戦いを止めては張純や叛烏桓等の敵に付け入られてしまう。それは十年以上、鮮卑と戦った我には解る」
 命令を含めた発言に、左右から一斉に「唯」と返ってくる。
 ふと外へ目を遣ると、燭の光で照らされた堂上と違い、暗闇が辺りを覆っていた。

節六

 今年初めての札(せみ)の鳴き声が公孫伯圭の耳に入り、季節の遷ろう早さを実感していた。
 右北平郡の長史に案内され、伯圭は介者を五人引き連れ郡府内を歩き進む。
 やがて閤門前へ到達し、見覚えの有る右北平太守から粛され、内へ招かれる。正堂前で主客分かれ東西の階を昇り、互いに拝し東西向かい合う席に座る。右北平太守が東の席の南端で伯圭が西の席の北端に座る。
「卿とは仮の郡府が在った無終城以来だな」
 両梁進賢冠を戴く太守から話した。悠然と伯圭は応じる。
「二年弱前、愚(わたし)は無終城で騎都尉に就いたばかりでした。その後、平谷縣での張純との決戦を制した戦功により中郎將に為り、さらに先程、石門山での張純の大破と言う戦功により降虜校尉に為り、加えて都亭侯に封じられた上、兼行で再び遼東屬國長史を領する事と為りました。武冠を戴き青綬を帯びると言う見た目は何も変わりませんが、二回も官職が遷りました」
「そう言えば、無終城から本来の郡府が在る土垠城へ復帰できたのは卿のお陰だ。感謝する…」
 太守のその発言に伯圭は頬を緩ませる。
「…しかし、卿は亭侯に封じられ、食邑を得て俸禄とは別の収入が約束された。加えて遼東屬國と領地も手に入れた。身(わたし)には公私ともに充足した様に思えるが」
 太守の発言に伯圭の目は鋭くなった。
「その二つは良いとして、中郎將から降虜校尉へ遷ったのは納得できません。同じ比二千石の秩ですが、州郡を越えての権限となると中郎將の方に分が在るでしょう。加えて遼東屬國長史を領するよう課せられた意図は遼東屬國に留まるよう命じられた様な物です。今は叛烏桓を討伐し、他方、張舉と張純を探し出し捕縛するのが最優先の任務です。遼東屬國に留まっていれば今までの様に郡境を越えた行動が執れません」
 人事に関して思わず伯圭の口から不満が漏れていた。太守の表情は固まる。
「卿はもしや聴かされていないのでは無いか」
 太守の意外な反応に伯圭は注意を向け聞き返す。
「何をですか」
「張純が殺され、反叛が終結した旨だ」
 太守の発言に一瞬、伯圭は耳を疑った。顔を強張らせていると、太守は再び話し出す。
「卿が遼東屬國の石門山で張純率いる反叛軍勢を大破した際、その敵卒の多くは妻子を棄て塞外へ逃走したそうだ。卿が遼西郡の管子城で反叛軍勢に拠る包囲を受けている時、幽州牧の劉使君は恩信を以て烏桓と接し、張舉と張純の首に金銭を懸け、丘力居等の叛烏桓は喜んで自ら帰還した。卿がここ土垠城に向かう折り、劉使君の下へ張純の首が送られた。張純は烏桓の勢力下に逃げたのでは無く、鮮卑の所へ逃げていたそうだ。だが、その私客の王政により殺されたと言う。王政はその功により列侯に封じられたと言うから陛下もお認めに成ったのだろう。張舉の行方は未だ判らないが、首謀者が死に烏桓が撤退したのならば、反叛が終結したと言えるだろう」
 太守の説明に、伯圭は次第に自らの顔が火照るのを感じている。太守が言い終わると、伯圭の口から無念と憤りが漏れ始める。
「支援して頂いた府君に言うのは筋違いですが、言わせて貰います。では何故、愚は管子城で叛烏桓と百日も戦い、十人中五六人も行方不明者を出しつつも再度、歩騎一万を編成しそれを率いここ右北平郡の土垠城に上がったのでしょうか。全ては陛下の御威光の下で張舉張純や叛烏桓が二度と反叛を起こさない様に、それ等を埽滅するためです。それを齟齬にした幽州牧の劉使君をこれから先、愚は許せるとは思えません」
 やり場のない憤怒は堂上に放たれ沈黙を招いていた。それを太守が破る。
「卿の気持ちは判る。だが、もう時世は動いている。陛下が卿を降虜校尉に任命し遼東屬國長史を授けたのは、烏桓を埽滅するためでは無く、漸く治まった反叛が再び起こらない様に辺境の治安を維持するためだ。一方、劉使君は既に各地に駐屯させた軍勢を退かせている。卿だけが今、場違いな歩騎一万を右北平郡に駐屯させている」
 太守が発言を進めるに従い、伯圭は目を伏し頭を垂れていた。そのまま伯圭は話し出す。
「解りました、このまま東方の遼東屬國へ向かいましょう。しかし、再び反叛が起こる様であれば、再び歩騎を率いこの地へ戻って参ります」
 言い終える頃には伯圭は面を挙げ真っ直ぐ太守を見ていた。続けて、拝し立ち上がり、西の階へ歩み出す。残された者は同じく拝し西側の者は立ち上がり後を追った。
 前門を出ると、一層けたたましく札(せみ)が音を発てていた。

 暦は初夏だとは言え北の辺郡であり、春の様に眠気を誘う日中だった。
 年三十九の公孫伯圭は遼東屬國府内に在る私的な場である後堂で庶務に就いていた。
「卿卿」
 聞き覚えが有るが懐かしい女性の声に驚き伯圭は几から顔を挙げる。視線の先の門前には伯圭と同年の女性と十代の男が居た。声を掛ける。
「漸く来たか。馬車とは言え涿縣からの長旅ご苦労であった。それに汝等とは実に二年弱振りだな」
 話す内容とは裏腹に伯圭の声は内なる喜びから震えていた。二人は口々に返す。
「卿卿がお元気そうで安心しました」
「父にこの續の成長した姿を漸く見せられました」
 女の声も續と名乗る若い男の声も喜びで震えていた。
「兎も角、我の妻子ならばここで腰を下ろし楽にしてくれ」
 伯圭は妻子と称する二人を堂上へ招いた。二人は言われたとおり、階を通じ堂上へ昇り、南面する伯圭の前の席へ並んで座る。
「漸く遠征から帰って来られ、涿縣に勤めていた時の様に、この赴任先で落ち着けそうですか」
 妻は笑顔で問うた。しかし、その眼差しの先にある伯圭の顔は強張っている。
「異動に為るまで何年もこの地に居たいが、そう順調に行かないだろう」
「それはどうして」
 妻の質問に、一呼吸置いてから再び話し始める。
「道中で耳にしたかもしれないが、今月の十一日に陛下が崩御された。そして二日後に皇太子が即位され、年号は光熹と改元された。それだけならば何の懸念も無いが、今日に為って同じく驛馬で報せが来た。それは上軍校尉の蹇卿が二十五日に獄死したと言う旨だった。これだけなら何て事は無いだろうが、蹇卿は先帝が信頼する臣下の一人だった。それが獄死したと為れば京師で何らかの権力闘争が有ると考えるのが自然だろう。京師の乱れは四方に広がるのが世の常だ。やがて我も何らかの形で巻き込まれ、この地に留まる事はできなく為るだろう。その時は汝等にまた寂しい思いをさせてしまうかもしれない」
 話している間に、思い詰め目を伏せていた。
「卿卿の家の事は任せてよ。だから、その時が来たら気にせず陛下のために忠義を尽くして」
 自らの妻の発言に思わず面を挙げ驚きの表情を見せる。
「續もその時が来れば父に着いて行きます」
 父前であるため名で自らを称し、子は逞しさを見せようとした。
「汝等の言は有り難い。心に浸みる。単なる杞憂で終わればそれに越した事は無いだろう。だが、時が来れば、己の信じる義を貫くのみだ。その時は従弟の越や範にも同行願う。汝についてはその時に判断するだろうが、覚悟はしておいてくれ」
 子の續に顔を向けていた。續は「唯(はい)」と力強く応じる。伯圭は話すのを再開する。
「だが、単にその時を待つだけでは後手後手に回ってしまう。京師から三千三百里程離れたここ遼東屬國からでも状況を掴む術は持ち合わせている」
 自信を含ませた笑みを見せた。伯圭は話すのを続行する。
「先帝はこの瓚に都督行事傳を仮せられただけで無く、瓚の軍事能力に御目を付けて下さって、瓚を騎都尉、中郎將、降虜校尉に任命された。その恩信に少しでも応えたい。それに先帝は前年の八月より上軍校尉の蹇卿を始とする西園八校尉を設けられ、その上、十月の甲子日より御自ら無上將軍と称された。つまりは塞内の各地で起こっていた反叛に御憂慮され、天下に御威信を示そうとなさっていた。その先帝の御意志は瓚の様な辺境の臣下に於いても忘れず伝えていかなければならない」
 君前を意識して名で自らを称し、遠い目をしていた。
 視界に在る後廷ではそこに唯一ある木に新芽が生えつつあった。

 夏が終わり秋が過ぎ去り冬が深まる中、遼東屬國府の前門前で公孫伯圭等六人は立っていた。
 伯圭等は皆、冠を戴き綬を帯び単衣を着て袍を重ねる。冷気漂う中で門の東側へ立ち南を向く。
「あれがそうではないですか」
 左に立つ田楷が白い息と共に小声で呟いた。それに従って南の奥へ凝視すると、そこには二台の馬車がこちらに向かう姿があった。
「間違い無くあれだろう」
 伯圭は白気を口に漂わせ小声で返した。やがて二台の馬車は目の前で停車し、単衣を着て黒幘を被る五十代の背の高い精悍な男が先頭の四人が前へ出てきた。伯圭は喜びが顔に出ないよう抑えつつ粛し屬國府の門内へ招き入れる。
 賓主分かれ並行し北上し二つの門を過ぎ、やがて正堂の上に辿り着き、西東互いに拝礼し着席する。
「師、こんな北の辺郡までよくぞいらっしゃいました」
 東の一番南に座る伯圭が主人として口火を切った。賓客となる五十代の男がそれに応じる。
「尚書を罷免されたので京師から故郷の涿縣へ戻るついでだ」
 その発言に伯圭は沸き上がる可笑しさを堪える。
「言を返すようですが、ここ遼東屬國の昌遼縣は京師から涿縣の間に無く、涿縣からは千五百里も東へ外れていますが」
 にたにたしながら呈した伯圭の疑問に、男は口を真一文字に結び眉間に皺を寄せる。
「どうやら道に迷ってしまった様だな」
 男の発言で、堂上は笑い声に包まれる。それが収まる頃に咳払いを一つして男は話す。
「冗談は兎も角、この盧子幹が京師から追われていた事実は確かに有った。事前に察知し轘轅関を通ると偽り、京師を囲む八関の外へ出たぐらいだ。今、京師に異常事態が訪れている…」
 自らを盧子幹と言う姓字を称する男の語りに伯圭が口を挟み止める。
「待って下さい。この辺境の地へは驛馬を通じ表立った事実が断片的にしか伝わって来ません。具体的には、謚号が靈帝に決まった二代前の皇帝は今年四月に崩御され、直ぐに先帝が即位し、八月に大將軍の何遂高が薨去され、九月に先帝が廃位され、今上の陛下が入れ替わり即位し、董仲穎が十一月癸酉の日に相國と言う最高位の職に就いた事実です。四月に靈帝が崩御して以降、何が有ったか順序立てて掻い摘んで説明して頂けませんか」
 伯圭の要求に盧子幹は「諾(よし)」と応え、一呼吸置いて話し出す。
「靈帝が御存命の頃から臣下に二大の勢力が在った。一方は何太后を権力基盤とした大將軍の何遂高の勢力、他方は中常侍や中黄門等の宦者の勢力だ」
 子幹は理解を探るため、発言を止めた。伯圭はその意を汲み取り発言する。
「何太后は靈帝の皇后、つまり靈帝の妻、先帝の母に当たり実権を握り得る立場です。その兄が臣下の最高位である大將軍に就く何遂高でした。何大將軍は六年前の黄巾の乱からその位に着き、その麾下で年内の一旦の鎮静を果たし、そのため靈帝から信頼されました。一方、宦者は皇帝の側近くに在りその妻妾と誤りを犯さぬよう男性の機能を取り除かれた官吏であり、特にその高位である中常侍や中黄門は陛下に対する顧問應對や徴召に繋がる白や薦を発する特権を有しております。当に京師の二大勢力に為っており、権力が拮抗している訳ですね」
 伯圭の発言に、「是」と応じ子幹は再び続ける。
「水面下で権力の争いが在り、先ず靈帝が設立した西園八校尉の一人、上軍校尉の蹇碩は先帝の弟である勃海王を即位させようとし、当然ながらそれは先帝への謀反に当たり獄死した。蹇碩は宦者であるため、何大將軍側の権勢が増した。加えて聞く所に拠ると、同じ西園八校尉の一人でも中軍校尉の袁本初は宦者を廃するよう何大將軍に進言したそうだ。それは実行されないまでも、先ず何大將軍は袁本初を司隸校尉にし節を仮し武力を奮う立場にした」
 またも子幹は発言を止め、伯圭の発言を待つ。
「京師たる雒陽は郡に相当する河南尹の内に在り、さらに河南尹は州に相当する司隸の内に在ります。そのため、司隸校尉は刺史に相当する官職ですが、それ以上に京師を守護する官職であり、それに加え、節を仮された者は軍令を犯した者を殺し得る権力を与えられています。つまり、軍事面で何大將軍側の支配力が増していたのですね」
 伯圭は話しながらも心は十六年前の子幹の下で学んでいる頃に戻った気分だった。当時、こうやって理解の進度を確かめられていたと内心、懐かしんでいた。
「何大將軍はそれだけに留まらず宦者を武力で脅そうと京師の外から軍勢を招こうとした。それが東郡太守の橋元瑋と前將軍の董仲穎だ。特に後者の董公は今年春に、左將軍の皇甫義真と共に涼州から司隷の右扶風まで進寇した叛羌を撃退し、強力な軍勢を有していた…」
 子幹は董仲穎に相國の敬称である「公」を付けた。同じ北の辺郡でも伯圭が叛烏桓と戦った所は東北の幽州であり、皇甫義真が叛羌と戦った所は西北の涼州であった。元はと言えば烏桓が叛乱を起こした一因は、涼州の叛羌を烏桓の兵卒で討伐しようとした戦略に在った。対価と為る牢稟が支払われなかったため、烏桓に拠る漢人への不信感が広がり、やがて叛乱へと繋がった。西北と東北と離れた地域での叛乱だったが、奇妙な繋がりを伯圭は感じる。
「…靈帝は董公を并州牧に任命し、その軍勢を皇甫將軍に移すよう勅令を下したが、理由を付け董公はそれを拒否し、任地の并州に赴かず司隷河東郡に駐屯した。吾はそんな不忠で信用のならない者を京師へ招くのは反対であり、何大將軍にその旨を進言したが聞き入られなかった。その他数人も反対したが何れも聞き入れられなかった」
 また一旦、発言が止められる。その際、子幹の顔に無念さが滲み出ているような気がした。
「つまり、京師の北西に位置する河東郡に駐屯する董公の軍勢を何大將軍は利用しようとした訳ですね。だが、それは返って何大將軍が董公に利用される危険を大いに孕んでいたと言う訳ですか」
 神妙な面持ちで伯圭は確認を取る発言をすると、それに子幹は「是」と応え、顔色を整え話を続ける。
「そのため、遂に招かれた董公は八関内の京師の西にある上林苑に駐屯し、橋府君は東の成皋に駐屯した。さらに何大將軍は武猛都尉の丁建陽を遣わし京師の北にある孟津を焼かせ、宦者を圧迫した」
 ここで子幹は顔を伏せ一呼吸置く。伯圭は核心に迫りつつ在ると感じる。
「しかし、何太后と何大將軍との間に隙が生じ、何太后は宦者側に着いていたようだ。八月に何太后は詔で偽って何大將軍を南宮へ呼び出し、宦者が何大將軍を殺した。それを聞き付けた袁本初の従弟である袁公路は南宮から宦者が出る様、九龍門及び東西の宮を焼いた。宦者の張讓等は勃海王から遷った陳留王と先帝とを北宮へ連れ去った。その時、吾は南宮に居て戈を執って後を追い、宦者の段珪に遭ったが何太后を放り投げられ楯にされ逃げられた。同じ頃、袁本初は北宮の南端にある朱雀闕に兵卒を率い駐屯し、北宮の門を閉じ、遂に宦者の虐殺を始めた。死者は二千人余りに為った」
 まるで早く言い終えたいとばかりに感情を抑え早口に子幹は告げた。伯圭は気付くと自分が悲痛で顔を歪ませ、口に出す語句を失っていた。それを察してか子幹は一旦、間を置くも話を続ける。
「張讓や段珪等は先帝と陳留王を連れ北宮からさらに北へ出て、穀門を通じ京師からも出た。吾はそれを追った。すっかり夜と為り河水の岸に到った。河南中部掾の閔貢は張讓の一行と遭遇し、宦者等を斬り殺し、残りの張讓や段珪等宦者は河水に身を投げ死んだ。夜が明け、兵卒を率いた董公と公卿百官が陛下へ奉迎に及び、宮へ帰還した」
 伯圭は若い時にその地で南の辺郡へ異動となる太守のために行った祭祀を思い出し、その馴染みの地で起こった惨事に信じられないと言う思いだった。気を現実に向け、子幹の沈黙に自らの理解を声に出して入れ込む。
「それだと先帝が董公とその軍勢と共に京師に帰還した時は、さぞかし董公が陛下の御身を救った様に見えた事でしょうね。董公の権勢が増す好機に成り得ます」
 伯圭の発言に子幹は重々しく「是」と口にする。
「その好機を土台に、京師へ入った董公は久しく雨が降らないのを理由に司空の地位に在った者を辞めさせ代わりに自身が司空と為った。何大將軍に代わり権力を握り始めた。九月に入り董公は先帝を廃し陳留王を即位させ様と自らの考えを漏らしていた。後から聞いたのだが、それに袁本初は反対を表明したが聞き入れられず、京師からの出奔に追い込まれたそうだ。出奔後に董公は懐柔策として上表で袁本初を勃海太守にし邟郷侯に封じた。他方、従弟の袁公路は後將軍に任命されたものの董公の禍を恐れ同じく京師から出奔した…」
 董仲穎が権力を掌握しつつある京師で、次々とそれに対抗できうる人物が出奔している状況に、二ヶ月も前の出来事だと言うのに伯圭は昨日今日の話として捉え両肩を震わせている。自分がその場に居合わせたら武力に訴えてでも仲穎の専横を防ぐだろうと想像した。
「…遂に董公は朝堂での百官議で先帝の廃立を欲した。勿論、吾は抗議し反対した…独りきりだったがな。董公は怒りを露わにし百官議を止めた。その後、九月二日に廃帝され先帝は弘農王と為り、陳留王は皇帝位に即した。それと歩調を合わせ、秉政に及んだ董公は幽州に居る太尉の劉伯安を、既に無くなって久しい大司馬と言う官職にし、空位と為った太尉に自ら就任した…」
 子幹の無念さが再びその顔に出る様に為っていた。伯圭は、それまで断片的に得て想像した京師の状況に比べ、子幹が語る現実はとても信じられる物ではなかった。思わず口を挟む。
「靈帝が崩御する以前に、張純の反乱を治めた功に拠り幽州の劉使君は幽州に居ながら最高位の一つである太尉に昇進しました。そこまでは知り得ていましたが、まさかさらに董公の政治的理由に拠り大司馬に着任した事実を今、初めて知りました。同時期に愚(わたし)は降虜校尉から奮武將軍に任命され薊侯に封じられました。その理由が董公に拠る政治的な理由でないのかと今、疑い始めています」
 伯圭の発言に子幹は真摯な表情を向ける。
「充分に有り得る話だろう。董公は雒陽に入った当初から州郡から名声の有る大夫士を多く招き官職に就けていった。もしかすると足下も目を掛けられたのかもしれない…」
 子幹の推測に、伯圭は無言で口を真一文字にして見せるだけだった。子幹は続ける。
「…一方、吾は百官議での抗議に拠り董公の目の敵にされ、尚書を罷免された。身の危険を感じたため、病気を理由に故郷の涿縣へ戻る流れに成った。密かな董公の追撃を知り策を弄してまでも司隷を脱した。以上が吾が知り得た京師での一連の出来事だ。吾が京師を脱出して二月も経つため、今はさらに董公の秉政が進んでいる事だろう」
 言い終え一呼吸し、子幹は皆の反応を伺った。その視野の中では、皆視線を外し考えている。その中で伯圭が子幹の目が合い、話し出す。
「仰るとおり、董公の秉政は進んでおり、先程も申し上げましたように十一月癸酉の日に相國と言う最高位の職に就きました。この官職も大司馬と同じく無くなって久しい物で、自らの権威付けや権力強化へ繋がっています。その前提に権力の有る者同士が潰し合いを演じ、且つ董公が権力の中枢に入り廃帝を提議した際にそれに反対した者は師以外無く、志の有る者は既に京師から外へ出ました。最早、陛下の威信は董公に拠り貶められ、皇帝権威の復興が難しい状況に在ると存じます」
 伯圭は苦々しく告げた。子幹はそこから眼差しを外さない。
「確かにその通りだ。しかも董公に反対する者が京師から出奔したため、最悪の場合、京師の火種が州郡へ新たに飛び移るかもしれない。足下もその覚悟をしておいた方が良いぞ」
 その閉塞感の有る発言で再び堂上に沈黙が訪れる。そこに居る誰もが張純の反乱で疲弊した幽州に再び戦乱に遭うのは避けたい所だった。気持ちを切り替え伯圭が沈黙を破る。
「そう言えば、今年の三月か四月に劉玄徳が京師に上がりましたが、お会いに為りましたか」
 話題を変え重苦しい雰囲気から一旦、離れようとした。子幹は朗らかな顔を見せる。
「靈帝が崩御する前に劉玄徳が訪ねに来た。そして近況も聞いた。長い間、仕官せずに居たとは聞いていたが、まさか軍功で昇進していたとは思いも寄らなかったし、足下の所で別部司馬として従軍したと聞かされた時は驚いた」
 子幹の年齢を重ねた顔に浮かぶ笑顔に、自らの教えと違う方法とは雖も弟子の活躍を喜ぶ気持ちが読みとれた。
「玄徳は四箇月間程度の短い期間でしたが、別部司馬として後続での役割を良く担っていました…」
 ふと懸念が心に過ぎり語句を飲み込む。その懸念を口にする決心をする。
「玄徳は依然、京師に居るのでしょうか。何の官職にも就いていないでしょうが、師の弟子ですので何らかの害が及ばないか心配です」
「その心配は無い。吾が京師から出奔する前に、玄徳は曹孟徳と共に既に脱出していた…」
 思わず驚きの顔を露わにする。曹孟徳は五年前に騎都尉として豫州の黄巾賊を討伐した者であり、伯圭の記憶に拠ると両者に何の接点も無いからだ。
「…西園八校尉の一である典軍校尉の曹孟徳を董公は上表に拠り驍騎校尉にしようとした。しかし、袁本初や袁公路と同様、京師から出奔した。それ以前に玄徳は偶々、曹孟徳に顔を繋いでおり、それだけで出奔に着いて行った様だ。どうなったか安否は判らない」
 子幹の表情が曇るのを認め、伯圭は間髪入れず安心させようと笑みを見せる。
「心配有りません。この数年で玄徳は黄巾賊や叛烏桓等、それ以上の危機に直面した筈です。巧く切り抜けて数年経てばまたひょっこり姿を見せるでしょう」
 その発言で子幹の表情に朗らかさが戻る。
「そうだな。その時を楽しみにしておこう」
 そう言って子幹は右の方へ顔を向け、南を眺めていた。
 それに吊られ伯圭も左を向き南の方を眺める。
 正堂の南には廷が在り、冷気の中で葉の無い老いた大木が在った。

節七

 南で大きい音がし、公孫伯圭は目が覚めた。
 近くに目を遣ると妻が眠っていたため、音は勘違いだと思いつつも、依然、薄暗い中、素早く単衣を纏い袍を重ねる。痛い程の冷気が漂う中で、何か異常はないか南へ進むと、正廷で雪積もる中、在る筈の物が無いのに気付く。薄く光る地の雪へ目を凝らすと、そこには倒れた大木が在った。
 辰時に大木を片付ける様に指示し、その作業を横目に正堂で庶務に就く。小吏や兵卒により、撤去作業が着々と進む。雲が少ない空の下で積もった雪はどんどん解けている。
 作業が終わる前に、小吏が来客を告げ謁と呼ばれる木簡を手渡す。伯圭はその謁に「劉玄徳」と言う姓字を見て、急ぎ歩き出し南下し前門を目指す。
 前門にはそれぞれ袴褶を着た男が六名居た。先頭に立つ大きい耳の目立つ男が劉玄徳だった。
「また来たか。いつも突然現れるな」
 悪態を付くかの様に伯圭は話し掛けた。六名は一斉に拝する。
「ご無沙汰しております。またお世話に為ろうと厚かましくも足を運びました」
 玄徳は決まりの悪い顔で言った。伯圭は粛し中へ招く。
 北を向いたまま廊を歩きながらも、伯圭は西の玄徳に話し掛ける。
「丁度、一年前に誰がここへ来たと思うか。驚くなよ。あの盧師が来られた」
 それを聞き、玄徳は驚きの顔を向ける。
「結局、雒陽を脱出できたのですね。僕が脱出した後に董卓の秉政により雒陽城内では厳戒態勢が敷かれましたので、心配しておりました」
 玄徳が憚りも無く董仲穎の姓名を口にした事実に、伯圭は隔世の感を抱いた。
 やがて閤門に到達し、大木の残骸撤去を横目に主客分かれ正堂へ昇る。堂上の東側の席には既に田楷、嚴綱、單經、公孫越、公孫範、趙子龍等が座っており、玄徳等と互いに拝する。伯圭は南面する榻に座り、玄徳は西の席へと北から順に並び座る。
「劉玄徳、では一年半もの間、足下が見聞きした状況を教えて貰おうではないか。足下の事だから何も起こらない場所に居た訳では在るまい」
 伯圭の眼差しは受け止められず、玄徳は正面の東に並び座る男の一人を見ている。その男は玄徳と同じく年三十前後だが、他者に与える印象が違い、玄徳の温和に対し厳格だった。
「その前に、張純の反乱の際に僕が会っていない者を紹介して頂けませんか」
 玄徳の願いに「諾(よし)」と応え話し出す。
「我が奮武將軍に任命された時に、その長史として配属になった者で、關靖、士起と字(あざな)す者だ」
 その紹介に応じ、關士起と呼ばれる男は立ち上がり拝する。
「公孫將軍の下に配属され一年以上に為りますが、これ程、意欲の沸く場は有りません。以後、靖をお見知り置きを」
 士起の声は溌剌としていた。玄徳は返拝し、着席すると再び口を開く。
「では、お教え致しましょう。盧師から聞いていらっしゃるかと存じます、僕は張純の乱が終結した後に、將軍が仰った様に見聞を広めるため、当時、京師たる雒陽に赴き盧師や有望な大夫士を訪ね回っていました。そして靈帝が崩御した後にご存知のような雒陽で政変が有り董卓の秉政に到りました…」
 伯圭は話途中で思わず口を挟む。
「そうそうそこだ。盧師の話では曹孟徳と共に雒陽城から出奔したそうではないか。その後、どうしたんだ」
 話を遮られて嫌がるどころか玄徳の顔はより活き活きとした物と為る。
「よくぞ訊いて頂きました。曹將軍との道中は董卓の追撃によりそれは何度も危険な目に遭いました。漸く曹將軍の故郷と成る豫州沛國に行き着き、そこで来るべき時に具え募兵し軍勢を整えました。そして年が改まり、同時に初平と改元された時に、事前に各地の示し合わせた結果、様々な州郡で打倒董卓への義兵を挙げました。その際に曹將軍は奮武將軍を自称しました。自称と正式な官職との違いが有りますが、奇しくも公孫將軍と同じ官職です。その他はほぼ元々の官職でして、具体的には…」
 語句に詰まらせながら、玄徳は瞳を小刻みに動かし思い出している。思い出せない様子に気を遣ってか、士起が言う。
「義兵を挙げた太守等から初平元年正月にここ遼東屬國にも書簡が届きました。それに拠ると、冀州の勃海太守の袁本初は勃海で兵を起こし州界を越え、司隷の河内太守の王公節と共に、雒陽を含む河南尹に北接する河内郡に駐屯しました。時を同じくして冀州牧の韓文節は冀州魏郡の鄴城に駐屯し、豫州刺史の孔公緒は豫州潁川郡の陽翟城に駐屯したと言います。知っての通りこの郡は河南尹に南接しています。書簡に拠ると呼応した人物は他にも袁本初の従弟の後將軍の袁公路、同じく従弟であり兗州の山陽太守の袁伯業が居て、さらに兗州刺史の劉公山、兗州の陳留太守の張孟卓、徐州の廣陵太守の張府君、兗州の東郡太守の橋元偉、兗州の濟北相の鮑府君が軍を率い酸棗に集結していました…」
 士起の発言を伯圭は強引に受け継ぎ言い放つ。
「酸棗の在る兗州陳留郡は河南尹に東接しており、正に関東の三方から雒陽が臨まれる形と為っていた。当に残念ながら、昨年、盧師が仰っていた京師の火種が州郡へ新たに飛び移る状況に成っている。これに足下も加わったと言うのか」
 玄徳は「唯(はい)」と答え再び話し出す。
「勿論、曹將軍も加わっているため、僕は軍勢を率い酸棗に行きました。しかし、諸將は一向に酸棗より西へ攻める気概が無く、徒(いたずら)に董卓を不安にさせるだけでした。その後はご存知でしょう」
 一旦、声を止め玄徳は先を言うよう促すかの様に周りを見渡す。真っ先に悔しさを顔と声に滲ませながら嚴綱は答える。
「今年の一月癸丑の日に董公は先帝の殺害に及び、雒陽城から九百里弱西の長安城へ遷都致しました。その後、雒陽城を燃やすと言う凶行に及び、董公自身は雒陽城周辺に留まり諸將に当たったと聞きます。」
「その通りです。そこで漸く雒陽を守る八関の東に居る諸將、つまり関東諸將は董卓を討伐する旨を明確にし結盟し、勃海の袁府君を盟主に致しました。そして袁府君は車騎將軍を自号致しました…」
 玄徳が承諾し体験を語るが、またも伯圭が発言で遮る。
「結局、ここ遼東屬國の地ではその後、具体的にどの様な戦いが起こったのか伝わっていない。簡潔に説明してくれないか」
 その伯圭の要求に玄徳は朗らかなまま「唯(はい)」と答え話すのを再開する。
「河内の王府君は兵卒を率い雒陽の北で東西に横たわる河水の北側の河陽津に駐屯しました。ところが董卓に拠り包囲され大破しました。一方、南方の荊州の長沙太守である孫文臺は関東諸將とは別に打倒董卓の義兵を挙げ北上し、荊州刺史や荊州の南陽太守の殺害に到りつつも、河南尹に南接する南陽郡の魯陽まで進軍し袁將軍と合流を果たしました。こう言った動きが返って董卓に凶行へ走らせた様です。これもご存知ではないでしょうか」
 今度は田楷が答える。
「董公は長安に居る、袁府君や袁將軍の親族を獄死させました。その中には太傅の袁次陽等、高官の者も含まれていたと聞きます」
「そんな凶行が起こって、関東諸將も黙っていなかっただろう」
 楷の回答に便乗し伯圭が新たな疑問を呈した。玄徳は答える。
「曹將軍は酸棗から西へ進軍し、河南尹の滎陽縣まで到りましたが、董卓の將、徐榮に大敗しました。再び酸棗で曹將軍に会った時、関東諸將は連日での宴会の最中でした。曹將軍はそれを責め一気に攻め上がる計をその場で打ち立てましたが、結局、採択されませんでした」
 何時の間にか玄徳は表情を引き締め語っていた。伯圭は胸の前で両腕を組み目を伏せる。
「董公の抜かり無い戦略により関東諸將は損害を恐れ酸棗より動けなかった訳だな。よく解った…」
 少し考え黙する間を空け、再び話す。
「薨去された袁公に拠り太傅は空位に為ったが、その後、董公はこれに大司馬の劉伯安を当てた。無論、長安まで道路が隔たり塞がれているため、劉伯安が長安に就かなかった。劉伯安は董公が太尉に就任する際も関わりを持った者だから、今後も天下の趨勢に関わってくるのかもしれない。劉伯安は我にとって先の張純の乱で煮え湯を飲まされた相手だ。そのため、あまり関わりたくはないが、同じ幽州に於ける廣陽郡薊縣に居るため、今後も重要人物として関わらざるを得ないだろう」
 敢えて大司馬や太傅の敬称である「公」を付けずに劉伯安を姓字で称し、苦々しい表情を浮かべていた。話し終えたのを確認し、玄徳は続ける。
「関東諸將が攻め倦ねて居た状況よりさらに悪く為りました。兗州の劉使君が東郡の橋府君を殺害しました。両者と僕は同じ酸棗に駐屯していましたが、それに到った直接的な原因は知り得ません。しかし、両者は互いに憎み合っていた状況は確かです」
 玄徳が話を止めると、楷が珍しく率先して口を出す。
「東郡の橋府君と言うと、昨年、薨去された何大將軍が宦者を脅すために董公と共に軍勢ごと呼び寄せた太守です。それだけ頼りにされていた太守が同じ会盟下にある者に殺されたとなれば、結盟の分裂も時間の問題だと存じます」
 その発言の直後に玄徳が高揚気味に話し出す。
「それです。僕がこの結盟に不信感を抱いた理由です。やがて分裂を起こし巻き添えを食うと思い、適当な理由を付け、軍勢を率い酸棗を離れました。僕にはどこにも居城が有りませんので、公孫將軍が居られる遼東屬國に伺った訳です。一早く、董卓と関東諸將の戦況を伝えるべく、軍勢の多くを部下に任せ、僕だけ騎卒を率いて先に到着致しました。年月は掛かるでしょうが、將軍ならばこの天下を良い方向へ導けると信じています」
 一気に玄徳は言い立てた。伯圭は視線を外し暫し考える。
「相変わらず調子の良い者だ。結局、我の言い付け通り雒陽に行ったのは良いが、また將士に為ったのでは盧師の教えが活かせず、余り意味が無いな。だが、足下の帰還はとても心強く思う。この先、天下がどう動くか予想は付かぬが、焦らず先ずは動向を見極める事から始めたい。それからでも充分、天下へ打って出られる。諸君、何年何月掛かるか判らないが、見極める期間を覚悟してくれ給え」
 話す毎に、その声は力強く為り、言い終えると、それが跳ね返るように、覇気の有る「唯」が皆の口から発せられる。
 伯圭は満足げに何度も肯く。
 気付かぬ内に廷に横たわっていた大木の残骸は完全に撤去されていた。

 遠くの空には積み重なった雲が在るものの頭上は雲一つ無い場だった。
 四方を帳幔で囲まれた中で、官吏二百人強が杯を交わす。
 武冠を戴く単衣の公孫伯圭と両梁進賢冠を戴く同じく単衣の田楷が並んで杯を交わし談笑する所へ武冠の公孫越が現れる。年を重ね膂力の衰えが判る両者と対照的に、緩い単衣からも逞しくなりつつある越の体が明確に表れている。
「漸くこの祖道で見送られる方の賓客が来たか。ゆっくりしていけ」
 先に伯圭から声を掛けた。その発言通りに越は二人の前の席に座す。
「自分が送られる祖道がこれ程楽しい物とは思いませんでした」
 座った後に越は笑顔を見せた。伯圭は遠い目をする。
「祖道で思い出すのが十五年前の祖道だ。やはりこの遼東屬國の昌遼城の郊外で行っていた。当時は遼東屬國校尉を送る祖道だった…」
 おっとりしていた隣の楷が突然元気に話し出す。
「然。あの時、初めて將軍とお話したのでした。今でも明瞭に覚えています。將軍は白馬義從の着想を話されていました。まさかその白馬義從が二年前までの張純の乱で大活躍を見せるとは思いも寄りませんでした。將軍の十年以上も先を見通す深慮に恐れ入ります」
 酒の勢いか楷は満面の笑みを浮かべ楽しそうに話していた。越がその会話に乗ってくる。
「その白馬義從の流れを汲む騎卒がいよいよ内郡へ進出します。張純の乱の平定以降、天下に表出しなかった將軍の武勇の一端をこの越がその地で確かに伝えします」
 興奮する越に朗らかな伯圭が大らかに話す。
「そんなに気負う事は無い。今回は兵事だけで無く複雑な任務に成っているからな。そのため、足下に劉玄徳やその部下、趙子龍等を付けた。迷った時はこの者等へ意見を求めると良い」
 その発言に越は俯き落ち着く。
「確かに複雑な任務です。復唱しますと、千騎を引き連れ荊州南陽郡の袁將軍の下へ赴き、そこに居る劉公の子である劉和を捕らえ劉公から派遣される兵卒を奪う様、進言し、さらに袁將軍の信頼を得るためにそこでの兵事に参加します」
「それは困難が伴うだろうが、だからこそ足下に任せたんだ。我の従弟であるため交渉の信頼を得やすいと言うのも有るが、ここ数年の足下に見られる判断や交渉の成長を見て取ったからだ」
 緩やかな伯圭の発言は途中より熱を徐々に帯びていた。照れた笑みを浮かべつつも越は話す。
「そこまで評価していただけると嬉しいです。しかし、あの劉公を押し退けてまで袁將軍の信用を勝ち取るにはどんな者でも難しいでしょうね」
 越の気が実際の任務に向けられたようで、緊張した面持ちを見せる様に為った。伯圭は苦虫を噛んだ様な表情をする。
「劉伯安か。もし劉伯安が長安の陛下を奪う様に為れば、名実共に絶大な権力を得る結果と成る。それこそ我が恐れる事だ」
 敢えて姓字を口にし吐き捨てる様に言った後、楷が神妙な面持ちで話を繋げる。
「劉公にとっての名実の実は長安の陛下を取る所であり、名実の名はやはり今年初めに劉公が即位に推された程の名声でしょうか」
 その問いに伯圭は苦々しい表情と共に「是」と言う。それを認めると楷は蕩々と話す。
「そもそも今上陛下から二十世前に劉姓である高祖が皇帝に即位された以後、子々孫々と受け継がれて行きました。皇帝へ即位しない劉姓の者でも血筋の近い者は王侯になり世々に伝わりました。いくら今の陛下に天下を治める力が無くとも現世に君臨する間は別の皇帝を立てる行為は大逆に当たります。昨年の冬十一月庚戌の日に鎮星・熒惑・太白の星が尾に於いて合わさり、その星の動きと功徳治行を理由に、冀州の韓使君と勃海の袁府君は今年の初めに、東海王の子孫である太傅の劉公を皇帝に即位させようとしました。これに対し袁將軍が異議を唱え、何よりも劉公自身が不忠だと言って使者を叱りつけました。その即位拒否が返って劉公に名声が集まりました…」
 楷が話すのを遮るかの様に伯圭が話し出す。
「仕方の無い事だろうが、劉伯安は若い頃から恵まれ過ぎだ。例えば、我の家では世を重ね二千石の官職に就くが、我の母は妻で無く妾で有ったため、我は郡の小吏と言う低い官職から始まり、五経を学び時には辺境で軍功を挙げ紆余曲折し漸く今の地位だ。しかし、劉伯安は縣の戸曹吏から始まり順調に昇進し、今や上公の太傅にまで上り詰めている。我の生まれではこの先、太傅にはとても手が届きそうに無い」
 興奮の伴う伯圭が話している最中に、越の隣には顔の火照った耳の長い劉玄徳が現れており、入れ替わり話し出す。
「劉姓と言っても天下には何万人、何千人居るか判った物では有りませんし、必ずしも育ちが恵まれているとは言えません。中山王の子孫である僕を見れば判るでしょう。幼い頃から父を持たず、親戚から金銭を出して貰い、漸く京師の盧師の下へ遊学できた程です。やはり劉公は実力有っての名声でしょう」
 それに対し伯圭は真摯な眼差しを向ける。
「だからこそ、劉伯安が陛下を長安から連れ出すのを阻止しなければならない。もしそれが成功したならば誰も劉伯安の権勢を抑え得なくなり、結果的に陛下を蔑ろにする結果に繋がるだろう。第一、張純の乱に於いて靈帝が武力の行使を望んだのに、劉伯安はそれとは真逆の懐柔策を選び、不忠どころか信用に値しない者だ」
 伯圭の熱弁に玄徳は神妙な面持ちで問う。
「そもそもどうして劉公が陛下を連れ出す動きになって、それを阻止する事態に為ったのですか」
 玄徳の疑問に楷が答え出す。
「聞く所に拠ると、田子泰と言う者が劉公の使者と為り、董卓の専政に伴い道路が断絶したため、塞外から遠回りで長安に至ったそうです。陛下は東への帰還を望んでおり、偶々、陛下の側近の侍中に劉公の子の劉和が就いており、特任を受け長安の在る司隷京兆尹の南端に在る武關に潜みました。そこで劉公からの数千騎の兵卒を待ち、合流すればそのまま長安へ上がり陛下を奉迎する算段と聞きます。武關の外側は荊州南陽郡であり袁將軍はそこを支配下にしており、そのため、袁將軍伝えにその状況を公孫將軍は知り得ました。公孫將軍は書簡を通じ、袁將軍を信頼できないと言う理由で劉公に派兵を止める様に書簡で忠告致しました。しかし、それは丁重に断られたため、今度は袁將軍側に着き阻止しようと謀りました。それが今回の任務です」
 楷の声に熱が込められる様に為っていた。越はそちらを見て発言する。
「そう言った状況で袁將軍を説得し得る方法が想像できないのですよ」
 気落ちした様子を見せる越に対し、伯圭は声を発てて笑い出し、そのまま話し出す。
「それは連日の会議通りだ。劉伯安が長安からの陛下の連れ出しを成功させると天下の趨勢がどうなるか説けばそれで充分だ。新たな董卓を司隷の外に作るとな。雒陽から死ぬ思いで脱出した袁將軍ならばその意味を即座に理解するだろう」
 伯圭は自信を顔色に出した。玄徳が話題に入る。
「新たな董卓を作らないために陛下の奪取を阻止するにしても、何れ本当の董卓を排除しなければいけません。かと言ってそれに向けて関東諸將を頼るべきだとは思いません。それは僕がお伝えした様に、既に内部で争いが起こっており、何時分裂するかと言った状況です」
 依然、伯圭は自信を保ったまま言う。
「それこそ各自が軍勢を率い長安へ進むのみだ。今、最もそれに近いのは孫文臺だ。袁將軍と合流し、豫州の孔使君が病死したため、長沙太守より近い豫州刺史を領する様に為った。恐らく雒陽に迫る勢いだろう。孫使君が荊州の南の長沙郡よりそこまで進軍したのを思うと、ここ辺郡の遼東屬國から長安まで必ずしも行けないとは思えない。董卓は西北の涼州で叛羌と戦い勝ち抜いた精兵を率いており、一方、我は東北の幽州で叛烏桓と戦い勝ち抜いた精兵を率いている。この両者の軍勢が激突すると考えただけでも身震いし興奮する思いだ」
 興奮気味の伯圭に皆、納得した顔を向ける。玄徳は声を挙げて笑いながらも言う。
「では今回は偉大な先陣と言う事で、何れ打って出る日に祝いましょう」
 そう言って玄徳は杯を前に翳した。伯圭は杯を受け取り、近くの瓶から酒を勺で掬い、それを玄徳に返す。同じ事を越と楷に行い、最後は自分の杯に酒を注ぐ。
「では我の軍勢の武名が天下に轟く第一歩としても、越と玄徳の旅立ちを祝す事にしよう」
 そう言って伯圭は杯を両手で持ち上げる。皆、同じ動きをし、一斉に杯を口に持っていった。
 視界にぼやけた杯の縁と、どこまでも高い空とが入っていた。

節八

 片手に書簡を握り締め、汗を拭わず単衣を着た公孫伯圭は後堂から正堂へ歩んだ
 高い位置から光が射し込み場を熱している堂上では同じく官吏らしく単衣を着た田楷、嚴綱、單經、公孫範が北面し待っている。東階から伯圭は堂上に昇り、南面する榻に座り、直後に開口する。
「諸君、遂に時が来た」
 生来持ち合わせている大声を少しも抑えず、目の前に片手に持つ書簡を広げた。皆、一様にその書簡に眼差しを向ける。
「ご覧の様に、勃海の袁府君からこの奮武將軍に密かな出軍要請が来た。ご丁寧に表立っての出軍理由まで指定されている。つまり董卓討伐を装いつつ、冀州魏郡鄴城に駐屯する韓使君に圧力を掛けろと言う要請だ」
 興奮に満ちた声を伯圭は出した。骨張った顔を見せる楷は慎重に語句を選んだように問う。
「その様子では、明將軍はこれを好機と捉え出軍するおつもりなのですね」
 伯圭は「然」と答える。間髪入れず次は屈強な体を有する綱から質問が来る。
「軍勢を南下させるのは明將軍の念願であると把握していますが、一方、袁府君を取り巻くこれまでの状況がどうも見えてきません。戦略の意でも出来れば整理しお教えして頂きたいと存じます」
 声の方へ伯圭は真顔を向ける。
「善いだろう。話す事で自身の考えも整理を付けたいからな」
 一呼吸置く。
「そもそも董卓討伐で関東諸將は結盟した。殆どは兗州陳留郡の酸棗城に駐屯したが、勃海の袁府君は司隷河内郡に、冀州の韓使君は冀州魏郡鄴城に駐屯した。だが、知っての通り結盟の内側で争いが起こる様に為り、その中の一つに韓使君の將である麴義と言う者が背く事件が有った…」
 戦略の意であれば、麴義の出自を話す必要が有ると伯圭は思い付く。
「…聞く所に拠ると、この麴義は涼州に於いて久しく叛羌との戦歴を重ね、そのため強靱な兵卒を有して居たそうだ。だが、圧倒的な数の差で麴義は次第に不利な状況へと追い込まれた。一方、以前、袁府君と韓使君とが共に劉伯安を即位させようとしていたが、現在、袁府君は韓使君を怨んでいる様で、遂に麴義と手を結んだと言う。さらに我の軍勢を鄴城へ向かわせ、圧力を掛けたい様だ」
 その説明を受け、その場の最年少であり、数年前の公孫越によく似た細身の公孫範は自らの理解を口にする。
「名目は董卓討伐、実際は袁府君の要請に拠り軍勢を南下させ、明將軍としてはその軍勢を足掛かりに天下の趨勢に絡もうと言う腹ですね」
 伯圭は「是」と言い、話を再開させる。
「普通ならばここ遼東屬國から鄴城は遠く食糧の補給もままならない。だが、袁府君の援助が有れば、少なくとも幽州遼東屬國から海岸沿いに南下し、冀州勃海郡までその心配が要らなくなる。そこから南西へ四百里程度で鄴城へ到達する。その間に天下の情勢が変わるかもしれないが、それこそ臨機応変で行こう。冀州に軍勢が在ればどのようにもできるだろう」
 伯圭の発言を承け、楷は目を伏せたまま話す。
「武力に頼った動きは危険を伴うと存じます。出軍した先で余計な刺激と為りどんな衝突が起こるか想像できません。この辺りを如何様にお考えでしょうか」
 その問いに伯圭は両腕を前で組み俯き暫し考えてから、発言に移る。
「余所から軍勢を持って来る動きは、何大將軍が董卓の軍勢を呼び寄せたのを連想させる。つまり、我が董卓の立場に為り、確かに余り気持ちの良い物では無い。だが、今は絶好の機会だ。これを逃せば辺郡に留まったまま時流にも取り残され、次の専政者の言うがままに為ってしまう。我は董卓と違って出軍を飽くまでも陛下の元へ権威を取り戻すための過程と考えている。出軍で分裂しつつある関東諸將を再び一つに纏める手助けをする」
 伯圭が話し終えると、最年長で一番小柄と為る經は疑問を呈する。
「盟主の袁府君の下で果たして再び一つに纏まるでしょうか。再び内紛が起き董卓を悦ばせるだけの様に思えます」
 その問いに伯圭は片方の口角を上げ話し出す。
「万が一そうなれば、我が従わない者に軍勢を以て圧力を加えるだけだ。勿論、場合に拠っては袁府君がその対象になり得る」
 それは返答と言うより、伯圭の有無を言わせない並々ならぬ決意の現れだった。
「では早速、出軍の準備から話し合いましょう」
 楷の提言に、伯圭は「然」と答えた。
 伯圭の前に並び座る者等は書き留めるための木簡である版を取り出し、小吏から筆を受け取る。伯圭は場に在った書簡を畳んで脇へ置き、小吏に地図を持って来させる。
 いよいよ目の前の向こう側へ広がる南の空の下に行くのかと思い、ふとそちらへ一瞥する。そこでは雲が連なり高さを誇っている様だった。

 雚葦の花を見かけ、馬上の公孫伯圭は秋の到来を感じていた。
 日が中空に掲げられる中、伯圭は軍勢を率い、東北に接する冀州勃海郡から入った冀州甘陵國の中頃を通っている。伯圭は東武城と言う縣城を視界に捉えている。
 伯圭の視界で城壁の姿が大きく為る中、その城門近くに一匹の馬の上に一人の官吏が乗っている姿に気付く。やがてその騎馬がこちらへ向かっていると知る。騎馬は行軍の前で立ち止まり下馬する。伯圭は合図を送り、鐸を鳴らし進軍を止める。
 徒歩で目の前に到達する袴褶を着た官吏に伯圭は言う。
「我は奮武將軍の公孫伯圭だ。我に用か」
 そう言って印と綬を見せると、袴褶の男は拝礼する。
「袁車騎將軍から伝達です」
 袴褶の男は馬上の伯圭に帛嚢を差し出しその場から去って行った。それが車騎將軍を自号した袁本初からの書簡だと知り、篆体で「車騎將軍章」と捺された封泥を解き帛嚢から書簡を取り出し中を読む。
「軍を止めどうか致しましたか」
 声質と発生源でそれが馬上の田楷からだと知る。
「勃海の袁府君からの書簡だ。府君自身は冀州魏郡黎陽城に駐屯しているそうだ。それは鄴城から南へ二百里程離れている」
 伯圭は譫言の様に呟き、黙し考える。楷が再び声を掛ける
「それがどうか致しましたか」
 馬上の声の主に一瞥する。
「済まない。今、どの様な勢力関係だったか考えていた。袁府君からは、鄴城に駐屯していた韓使君は位を退き冀州牧の印綬を渡されたと言う報告を受けた」
 伯圭の説明に楷は驚きの顔を見せる。
「では明將軍の軍勢が鄴城に近付く前に目標は達せられたのですね」
 険しい表情を向ける。
「元の袁府君の目標は達せられただろう。だが表向きの董卓討伐は達せられていない。この書簡には撤退しろとも進軍しろとも書かれていない。袁府君は恐らく我等の撤退を希望するだろうが、わざわざ招軍した我等に気を遣ってそれを明文化していない。さらには我等としては二月も軍勢を引き連れているのだ。このまま何も得ずに帰る訳にはいかない。せめて、何か情勢が変わるまで近くに駐屯したい。今、袁府君は冀州を手に入れその権勢が急激に増大している。我が見るに袁府君はそれを盤石にするため、さらに近隣の勢力を併合する様に思える。情勢を見極めつつこの近隣に駐屯したい」
 考え抜いた末、伯圭は結論付けた。楷は鼻で一息吐く。
「善いでしょう。明將軍がそこまで考えて仰るならば、そう致しましょう。あそこに見える冀州甘陵國東武城を頼りましょう。これ程の大軍で、しかも冀州牧の印綬を手に入れた袁府君が招いた軍勢と有れば、無碍には扱われないでしょう」
 伯圭は「善」と応じ、軍を止めたまま、視界に入る東武城へ馬を駆けさせる。それに楷が続く。駐屯の交渉を行うためだ。
 二人は城門へ近付き、高く聳える楼を見上げた。

 肌寒さを覚え公孫伯圭は単衣の上に袍を重ね、前門へ急ぐ。
 途中の廊でそれぞれ朝服を纏った田楷や公孫範等と合流し、先導するかの様に早足で進む。
 前門に出ると、袴褶を着て武冠を戴く劉玄徳と趙子龍を含む五人が立っていた。一斉に拝する。その面々を見て強い疑問が浮かんだもののそれを内心に抑え中へ招く。
 東武城縣から仮に当てられた將軍府を北上し、正堂へ昇り拝礼を済ませ、北側の榻の上から南の席へ伯圭は皆を見据える。
「南陽郡の袁將軍の下での任務をご苦労であった。公孫越の顔が見えないが、まだ軍勢の中か。責任者から直に報告を聴きたい」
 伯圭の質問に、袴褶の五人は険しい表情を向ける。妙な沈黙の間の後、玄徳が代表するかの様に話し出す。
「公孫卿は戦陣で卒去致しました。それを先ず報告しようと馬で急ぎ、どこに行軍しているか探りつつ、どうにかここへ着ました。そのため喪(なきがら)は遅れて馬車で遼東屬國へ到着します」
 玄徳の声は伯圭の耳の中まで明確に響いていた。勿論、「卿」が公孫越に付けた敬称であるとも理解できた。しかし、その内容を咀嚼するには時間が掛かっている。
「今、何と言ったのか。戦没する程に危険な任務では無かった筈だ」
 己の感情を押し殺し、漸く伯圭は聞き返した。玄徳は自らの膝に視線を落とし、震えた体を見せ、震えた声を出す。
「その通りです。しかし、信じられない事に、成り行きの結果、勃海太守の袁本初に拠る軍勢との戦いで流矢に拠り公孫卿の命が絶たれました」
 伯圭は発する語句を失っていた。玄徳は眼差しを伏したまま、続けて話す。
「何故、袁本初との軍勢と戦う結果と為ったか今からご説明します…」
 未だ、玄徳の声の震動は止まらないで居る。
「…元々、董卓討伐の結盟に加わっていた豫州刺史の孔使君は州府の在る沛國譙城に着かず、河南尹の東南に接する潁川郡の陽翟城に駐屯しました。孔使君が病死した後、董卓討伐のため軍勢を率い進軍していた長沙の孫府君は後將軍の袁將軍と合流し、袁將軍の上表に拠り長沙太守から豫州刺史に為り拠点を陽翟城より雒陽に近い同郡の陽城にしました。その後、孔使君とも協力体制に有った潁川太守の李府君の補給面での協力も得て、孫使君は任地に着かず董卓の軍勢と一進一退の戦いを繰り広げ、雒陽に到達しました…」
 玄徳の話を遮るかの様に伯圭は怒鳴る。
「そんなの後だ。越はどうした」
 玄徳の体の震えが止まる。顔を挙げる
「ここからです。袁本初は周喁と言う者を豫州刺史に任命し、兄の周昕と共に陽城を攻め取りました。そのため、孫使君は陽城からの補給が断たれ、雒陽から撤退せざるを得ませんでした。軍勢と共に袁將軍の元、南陽郡へ帰還した孫使君は、公孫卿と我等の騎卒と共に陽城の奪回のため進軍しました。勿論、公孫卿は袁將軍の意志に応じ孫使君と軍事行動を共にしました…」
 全身の力が抜けた心地を感じながら伯圭は呟いた。
「そこで公孫越は敵の矢に倒れた訳か」
 玄徳は「唯(はい)」と答える。伯圭は自らを奮い立たせようと大声を発する。
「では讐(かたき)は袁本初だ。ここより南西五百里の冀州魏郡の黎陽城に本初は駐屯している。騎馬だけなら二日で行ける距離だ。今直ぐ白馬義從と全ての騎卒を率い攻め、本初を斬る」
 伯圭は立ち上がり榻から歩み出した。真っ先に楷が言い放つ。
「お待ち下さい。それこそ返り討ちにされ袁府君に利用されるだけです」
 眉間に皺を寄せる伯圭は足を止める。楷は淡々と言い足す。
「依然、韓卿に向けた軍勢が駐屯したままでしょうし、それに加え韓卿を裏切った麴義の精卒が居るでしょう。直ぐには勝ち得ず、兵站の無い明將軍の騎卒は食糧の面でも不利に為るのは明白です。明將軍がその様な自殺行為をするのは果たして亡くなった公孫卿の望む所でしょうか」
 楷の発言に、厳しい顔のまま伯圭は榻に戻り座る。
「足下の言い分を聞いてから出軍しても遅くはない。足下ならばどうするか」
 面を挙げ伯圭の眼差しを楷は真摯に受け取る。
「足りない輜重や車父を辺りから掻き集め、出来る限りの軍資を行軍に含め、通常の日行で南下します。それだけで袁府君にとって圧力を感じるでしょう。また今回の公孫卿の戦没は袁府君にとって意図しない結果でしょうし、引け目に感じている筈です。何らかの和平材料を提示するでしょう。恐らく鉅鹿郡に入った当たりで結果は出ます」
 楷の提言に対し、伯圭は悪意を込めて笑い声を挙げ言う。
「足下にしては危うい理屈だ。それで我を止められると思っているのか」
 伯圭の探る様な目つきに対し、楷は「然」と応じる。それを見て伯圭は再び声を発てて笑う。
「善かろう。足下の提言に乗ろうではないか。だが、我は本初を討つのを止めた訳ではない。鉅鹿郡に入って何も無ければ、その時は白馬義從を以て本初を斬る。そうで無ければ冥府で公孫越に顔向けできない」
 その気迫の込もった発言に、楷は「唯」と応じ、告げる。
「では行軍の配置を今、決めましょう」
 伯圭は片眉を挙げる。
「何か足下に乗せられた様な気がする」
 そう呟き、小吏に地図を持って来る様に指図した。玄徳は言う。
「明將軍が騎卒だけで出軍すると仰り、一時期どうなるかと存じましたが、それならば歓んで参軍致しましょう」
 伯圭は声のする方へと顔を向ける。
「足下は越の最期の戦陣に居た者の一人だ。その参軍は心強い」
 そう言いながら、伯圭は早くも地図を見据えながら両手で棊(こま)を手繰らせた。
 その視線は地図上の鉅鹿郡では無く黎陽城に向けられていた。

 東武城を出軍してから丸四日経ち、鎧を付けず袴褶と武冠だけを身に着けた公孫伯圭は白馬の上から河を視界に捉えていた。
 甘陵國の西の境には清河が南北に流れていると伯圭は記憶している。左で並進する鎧を着た細い公孫範の方を振り向き、清河を指し示す。
「あそこに見えるのが清河だ。清河のこちら側が甘陵國だが、向こう側は鉅鹿郡に為る。つまり清河はこの辺りでは二郡の境界に為る。それから清河に橋が架かっているのが見えるだろう。あれが界橋だ。ちょうど郡境の橋で解り易い名だ」
 伯圭が指した橋の姿は、視界の中で次第に大きく為る。やがて軍列の先端がその橋の上に足を踏み入れ様とする。
 伯圭は苦々しい表情を浮かべ、並んで歩む馬上の範へ漏らす。
「いよいよ田楷が申していた鉅鹿郡に足を踏み入れる。特に先ず進軍する鉅鹿郡の廣宗縣は七年前に盧師が黄巾賊を包囲し勝利まで後一歩まで追い詰めたものの、宦者が仕掛けた冤罪に拠り召還させられた地だ。だが、その数月後に同じく廣宗縣で皇甫將軍が黄巾賊に清河に飛び込み多くの溺死者が出た程、大勝した。この地が吉と出るか凶と出るか見物だな」
 伯圭は含み笑いをし、界橋に馬足で一歩を踏み込んだ。

 帷幕越しに苣の灯りが未だ袴褶を着た公孫伯圭の辺りをぼんやりと照らしていた。
 そこに厳格な雰囲気を醸し出す、朝服の關士起が現れ拝礼する。薄暗い中でも明確に士起の戸惑いの表情が見て取れた。伯圭は声を掛ける
「血相を変えてどうした」
 その発言に応じ、士起は頭下げ帛嚢と篋を差し出す。それを伯圭は受け取って問う。
「これは何だ」
 士起は顔を挙げて恐る恐る言う。
「先程、軍営の牙門に袁府君の使者と名乗る者が来てその封書と篋を置いて、引き留めるも聞き入れられず立ち去られました」
 伯圭は訝しげに見つつも、篋を膝元に置き、小卒に燭に火を点させ、しげしげと帛嚢を見る。そこには篆体で「詔書一封邟郷侯印」と捺された封泥が在り、それを解き帛嚢から巻かれた書簡を取り出し拡げ一読する。続けて書簡を膝元に起き、篋を目の前へ手繰り寄せ、開けて中の物を取り出す。そこには銀印とそれに付けられた青綬が有り、銀印の裏を見ると「勃海太守章」と鏡像に篆体で刻まれていた。伯圭が顔を挙げると、何時の間にか田楷と公孫範が着席している。
「つまり袁本初は公孫越を殺害に到った謝罪として、公孫範に勃海太守の官職を差し出す提案をし、且つそれが口先だけで無いと示すため、勃海太守の印綬を早速、送り付けたと言う訳か。だが封には確かに『詔書』と有り、つまり陛下の書を偽ると言う不遜な態度を執っている。これで謝罪したつもりか」
 淡々と告げた後、伯圭は怒号を飛ばした。楷は諫める。
「袁使君のお考えとは思えない程、よく練られた策です。恐らく將軍の下には多くの優秀な賢士が集まって居るのでしょう。車騎將軍は飽くまでも自号であり、袁使君自らの領土の基盤は勃海太守、邟郷侯と冀州牧しか無い筈です。しかしそれ等の内の主要な一つを差し出す状況は余程、明將軍に譲渡した条件であり、明將軍の武勇を怖れての結果でしょう。それに既に奮武將軍と言う高位に就く明將軍に譲らず、明將軍の従弟に当たる公孫卿に勃海太守の印綬を譲りました。これは袁使君が明將軍の親族をわざわざ調べた証拠です。正直、愚もここまでの和平材料を提示するとは思いませんでした」
 その説明でも、伯圭の怒りが収まらず銀印を右手で握り締め震わせる。
「結局、我は今直ぐに讐(かたき)を斬れないと言う訳か」
 その問いに楷は「然」と答える。歯軋りした後、伯圭は問う。
「ではこのまま遼東屬國に帰れと言いたいのか」
「そうは申していません。寧ろこの槃河に留まる旨を進言致します。今、帰還すれば冀州牧の印綬の下で冀州の郡國は全て袁使君の麾下に入り、明將軍の讐(かたき)を斬れないどころか、この冀州へ進軍し得ない状況に成るでしょう。それに袁使君が関東諸將を掌握したとしても陛下を助けるため董卓討伐に動くとは思えません。何故ならば以前、袁使君は陛下を差し置いて劉公を皇帝に即位させようとした者であり、加えて今は詔書を偽る程、陛下を軽んじるからです…」
 珍しく楷の声に熱が込められていた。それに触発され途中でそれを遮るかの様に伯圭は言う。
「然。天下に対する我の懸念をよくぞ言で表してくれた。我の心は讐討ちで覆われていたため、本来、我が持っていた陛下や天下についての思いを見失っていた」
 言い終えると、伯圭は深く息を吐いた。士起は賛意を示す。
「それでこそ明將軍です。天下にその武威を示しましょう」
 伯圭は楷に一瞥する。
「では我等はどうすれば良いか」
 暗がりの中、その眼差しを受け止めたまま楷は話す。
「先ず公孫卿を任地の勃海郡へ着かせて下さい。本来ならば上表を経ないと着任できませんが、長安の陛下との交通が断絶した今、上表に時間が掛かりますので、勃海郡の統治を優先させます。今は遼東屬國の任地から遠く軍資の補給がままならないですが、それに比べここ鉅鹿郡と同じ冀州の勃海郡からで有れば安定した兵站線を築けるでしょう。それに暫くは袁使君からの妨害も無いと存じます」
「善かろう。兵卒数千を付け公孫範を勃海郡の郡府へ向かわせよう。範だけでは不安なので門下長史として關卿に同行願う。言ってみれば元々、敵地だった所での統治であり、困難さが伴うと予想されるが、關卿の厳格さならば勃海郡を治め得ると信じている」
 伯圭の眼差しは士起に向けられていた。士起は恐縮した様子で俯く。
「過分なご期待を痛み入ります。全力を以て任務を遂行致します」
 俯いたまま言って、士起は席から立ち上がり拝した。
「では明日の朝議はそれの具体的に詰めていこう。今日はここまでだ」
 伯圭が終わりを告げると、三人は拝粛し立ち去った。
 帷幕越しに苣の灯りさえ届かない暗闇を見つめ伯圭は暫し自問自答を繰り返していた。


節九

 昼間でも冷気が帷幕の内側まで浸み入る頃に、公孫伯圭は几の上で木牘に筆を走らせていた。
 手を休めた頃に、ふと顔を挙げると、向かいの南面の帷幕が開く出口の外側近くに人が立っているのに気付く。
「誰だ」
 咄嗟に声を出すと、外から背の高い男が入ってきた。影の中へ目を凝らすと、それは趙子龍だった。目の前で拝してから言う。
「趙子龍です。お忙しければ、すぐ退きます」
 伯圭は笑みを見せる。
「今丁度、終わった所だ。足下に聞いて欲しい件が有る」
「何でしょうか」
 子龍が返事すると、几の上の木牘を手に取る。
「何処か縣城に落ち着こうと思い、一度に使者を立て冀州の諸郡に書簡を送ったが、どの郡からも良い返事が貰えなかったため、依然、廣宗縣の槃河に駐屯している。やはり袁本初の強権の下に依然、冀州の諸郡は在る様だ。勃海郡からの兵站が確保できそうと雖も、ここで静観を決め込もうとは思わない」
 伯圭の発言を誘うような間に、子龍は問う声を入れる。
「ではどの様に動くお積もりですか」
「先ず陛下に上疏し、袁本初の罪を挙げ、引いては我の諸將に州郡を与え共同で本初を討つのを表明する。その後、上疏通り諸將を各州郡へ派遣し、冀州内外の諸郡に圧力を掛けつつ、機が熟せば袁本初を攻める」
 その発言の力強さとは裏腹に子龍の表情は冴えない。
「その手に持つ木牘が上疏ですか。宜しければ見せて頂きたく存じます」
 伯圭は「諾(よし)」と答え、木牘を手渡す。子龍は黙し一読してから話す。
「この様に袁使君の罪が十も並べられると、確かに袁使君を放っておくと少なくとも冀州は荒廃する様に思えます」
 子龍から再び上疏が伯圭の手元に戻る。
「そうであろう。罪の一として本初が雒陽を権力争いの渦中に入れ、加えて無防備な状況で董卓を呼び込んだ事実に始まり、途中、韓使君から冀州を奪い詔書を偽造した罪の五を経て、最後に豫州の孫使君が董卓討伐のため雒陽まで上がり董卓により荒らされた陵墓を修復したと言うのに、本初が孫使君の任地である豫州を奪い兵站を断ちその忠勤を妨害した罪の十に到る。大義としては充分過ぎる程だ。自軍から精卒を選び、この上疏を託し長安に届けて貰おう。後はこの義に実力が伴う様に我や足下を含め將吏が動くのみだ」
 自信を滲ませた笑みを見せた。子龍は覇気が込められ「唯」と応える。伯圭は上疏を几に置く。
「足下は何時でも頼りに為る男だ。薊城を奪回した時も、管子城での包囲から脱出した時も、いや、六年前より頼りに為る存在だった。六年前の我への帰順を褒め称えなければならないな」
 「六年前」と聞き子龍の表情は引き締まる。
「過分なご発言、痛み入ります。明將軍と出会った六年前の中平二年、愚は冀州常山國真定縣に住んでいた、加冠もしていない独りの使男(こども)でした。何とか吏卒を引き連れ幽州涿郡涿縣に辿り着き、そんな愚を当時、明將軍は暖かく向かい入れ、白馬義從の末席に加えて下さりました。今でも感謝しております」
 子龍の真摯な眼差しを受け、伯圭は照れ笑いを浮かべる。
「そう固くなるな。互いにとっての幸運を今は素直に喜ぼうではないか」
 子龍の「唯」と言う返事の後、伯圭は或る事実に気付き頬を緩ませながら話す。
「そう言えば、足下は我と違い、冀州の出身だったな。先程も言った様に冀州の者等はどうやら我より袁本初を望んでいる様だ。足下はその気に為れば我に反し本初に着く事ができるのに、足下は冀州で独り善心を保ち我に着くのは何故だろうか」
 その冗談めかした質問に、子龍は顔色を崩さず真面目に答える。
「天下は動乱しており、未だ安定を知らず、民は逆さ吊りの禍に在ります。冀州の論議は仁政の在る所へ従っており、袁使君や明將軍のためでは有りません。冀州の論議と愚との違いは仁政を正しく見極めているかの違いです」
 子龍の回答に伯圭は思わず目を伏せていた。やがて面を挙げる。
「つまり我は行動を以て仁政を示さなければ、いくら袁本初に勝る武力を奮おうとも冀州は従わないと言う訳か。その旨、肝に銘じておこう」
 その発言で漸く子龍は笑顔を見せた。伯圭はふと気付く。
「足下がこの軍営を訪ねに来たからには、何か用事があったのではないか」
 何気なく呈した疑問に、子龍は視線を外し暫し考えた後、笑顔で答える。
「いえ、もう愚の用は済みました」
 それに少し怪訝な表情を見せるも、直ぐに納得の笑みを示した。
 伯圭は一息入れようと他愛も無い話を切り出していた。

 何も遮る物が無い所で、馬上の公孫伯圭は左から一身に厳しい北風を受けている。
 広い平野であるため南側を一望でき、遠くに数万の群衆を認める。
「あれが兗州の泰山郡を蹂躙した黄巾賊だ。着実にこちらへ向かってきている」
 伯圭の話す先に白馬に乗る精悍な趙子龍が居て、「唯」と応じる。
「軽く自軍の倍は有るでしょう」
「しかも、六年前に常山國で戦った黄巾賊より手強いだろう。常山國での賊は既に世代交替後の黄巾賊だったが、あの賊は七年前に豫州で皇甫義真、朱公偉、曹孟徳等精將と戦い、東の徐州、さらに北の兗州、より北の青州と四州に跨り歴戦を重ねた初期の黄巾賊だ。今、この冀州をも踏破しようとしている」
 渋い表情を浮かべた。子龍はそれを払拭する様な気の入った声を出す。
「冀州の民衆にとっても、引いては冀州の勃海郡を漸く糧の元にできた、明將軍の軍勢にとってもここは勝たなければいけません」
 伯圭は眉間に皺を寄せる。
「袁本初の軍勢を差し置いて、廣宗縣の槃河から清河を下流東北方向へ三百七十里、わざわざ十三日も掛けて、この勃海郡の東光縣へ進軍したからには成果を上げてみせる」
 そう言った後、後方へ合図を送り陣形を立てるため、鼓を鳴らす命令を下す。辺りは鼓の音で満たされ、伯圭自身も軍の中核と為る白馬義從と共に陣を形作る動きをする。
 そんな騒々しい状況で伯圭は並進する子龍にしか聞こえない程の声で話す。
「白馬義從は鮮卑や烏桓の北の異族に負けない騎卒を目指し、異族から幾多の騎馬の術を学んだ。ところが今や北の塞外から遠い場所で、袁本初や黄巾賊等の漢人と戦うために白馬義從を活用している。つまり異族の術で漢人を討伐しようとしている。全く心苦しい事実だ」
 その声に即座に子龍は同じ声量で返す。
「その歪んだ状況を率先して終わらせるのが明將軍の使命です。手加減無く黄巾賊を撃退しましょう」
 二人は訓練通り馬を進ませる。着実に向かって来ている筈である目の先に群がる黄巾賊の軍勢は止まったままの様に見える。それを視野に入れた伯圭は再び同じ様に子龍に話し掛ける。
「我等の騎卒にとってはあの黄巾賊の群は止まった様な物だ。作戦通り白馬義從の先導で騎卒の速さを活かし、何度も射程距離に入る様に近づき騎射で矢を撃ち込み遠のく。混乱が生じそれが陣形に広がり崩れ始めれば、歩卒を突撃させる。これで成功するだろうか」
「どんな屈強な歩卒でも馬や弩が無ければ、自軍の騎卒にとても対抗できません。しかし、敵は多勢ですので、何十回、何百回も騎射の覚悟が必要です」
 子龍の発言に、気を引き締め「然」と答える。伯圭は遠くに眼差しを移し腹に力を入れる。
「開始だ」
 その号令で伯圭を先頭に白馬義從が駆け出した。
 後には鼓の早い調子の音が残った。

 寒風の中、西からの陽光を浴び、鎧を着けたままの公孫伯圭は配下の数騎と共に戦場だった地を見回っていた。
「どこを見ても自軍の兵卒は見あたらない。黄巾賊の遺体ばかりだ。軍営に引き上げるぞ」
 そう言って伯圭は白馬を北へ駆けさせた。
 日の姿が見えなくなった頃、行き着く先の軍営を牙門から入り、馬から降り小卒にそれを任せ、自らは一つの営の中へと入る。
 帷幕の中では既に燭が点けられており、將士が座り並ぶ。その中を縦断し、一番奥の席へ座る。
「今日で黄巾賊と戦うのも十四回目だ。もう主要な集団は粗方、撃破したと思う。今まで冀州の勃海郡を守る戦いを続けてきたが、ここで戦略を変え明日からは攻めに転じる」
 伯圭は高らかに宣言した。最も近い位置に座る田楷が先ず反応する。
「既に廣宗縣の槃河を留守にして一月間は経ちます。そろそろ袁使君が牙を剥いても可笑しくない時期であり、これ以上遠征を進めると危険であると存じます」
 伯圭は声の方へ顔を向ける。
「足下の懸念は当然であろう。我もそう思い、主要な軍勢はここ東光から槃河へ戻すつもりだ。だが、一部をこのまま南下させようと考えている」
 それに対し真っ先に劉玄徳が発言する。
「別動の軍と言う訳ですか。だとすると槃河に戻る明將軍の軍勢は弱体化しますが、それはどの様にお考えでしょうか」
「それは勿論、承知の上だ。だが、近接する州郡の平穏無くして、州郡や民の支持は得られず、引いては袁本初と戦うに当たりどの勢力も友軍と為ってくれないだろう」
 伯圭の回答に趙子龍は発言を被せる。
「それでこそ仁政です。南接する青州、さらにその南の兗州へ黄巾賊の進寇は続いており、州郡の多くの吏民が苦しんでおります。ご存知の様に兗州泰山郡の應府君は明將軍と同様に黄巾賊の郡内からの撃退に苦心していると聞きます。この様な官軍と連携を執れば三州からの黄巾賊の一掃も不可能ではない筈です」
 子龍の熱弁に伯圭は笑みを浮かべる。
「足下がその様に言うと心強い。まだ具体的な編成は決めていないが、遠征する將士は決めている」
「それは誰ですか」
 皆を代表したかの様に玄徳は問うた。伯圭は間を置かず答える。
「兗州担当として單經、青州担当として田楷、そして冀州担当に現在、槃河に居残る嚴綱を挙げたい。この両者は役割が違う。余り兵数を割けないだろうが、單經は主に泰山の應府君との共同戦線を模索して欲しい。田楷は自軍のみで戦う必要が有り、また青州は現在、黄巾賊の中枢が逗留しているため、多くの軍勢が必要と為りそれに合う優秀な將士が必要に為るだろう。そこで劉玄徳を補佐に当てる。玄徳は嘗て青州での従軍経験が有り我の麾下では最も青州の地に詳しいからと言うのも在る。またこれまでの十四日間の戦いで黄巾賊に白馬義從の戦い方が非常に有効だと判ったため、趙子龍に田楷の下、騎卒を担当して貰う。暫く我は槃河で袁本初との戦いに備えるだろうから、嚴綱はその間、我の補佐に当たる。以上だ」
 伯圭が言い終えると、名や字の挙がった者等は「唯」と一斉に答えた。その後、子龍が懸念を示す。
「それでは明將軍の下は大幅な戦力減ではないのですか」
 伯圭は一呼吸置いてから話す。
「一見、危険が伴い遠回りの様に思えるが、それが着実な方法だ。嘗て公孫範が殆ど兵卒を従えず勃海郡に入り、今では槃河への兵站を築ける程と為り、今回の黄巾討伐では勃海兵を援軍に寄こせる程に為った。兗州でも青州でも各々の平穏を得られてから、槃河へ何らかの形で援助すれば良い」
 納得した様子で子龍は「唯」と答える。それに笑みを見せ伯圭は再び告げる。
「では具体的な軍勢の編成は明朝に話し合い決めよう。今日もご苦労であった。今日はゆるりと休むが良い」
 その解散宣言により、將士等は一斉に立ち上がり粛し、去って行った。しかし、暗闇の中、楷、子龍、玄徳の三人の姿が燭で照らされ浮かび上がっている。伯圭は声を掛ける。
「どうした、戻らないのか」
 楷が真っ先に答える。
「依然、明朝の軍議や祖道等、出発まで明將軍と会う機会は有るでしょう。しかし、それだけでは、これまでの十五年のご恩を語り尽くせないと存じます。明將軍と過ごした年数は違えども、他の二人もその様な思いでしょう」
 子龍と玄徳は共に「唯」と答える。伯圭の表情は緩む
「三人の気持ちは判った。ならば座り直すが良い。日が明けるのは依然、先だ」
 伯圭の許しで、三人は粛し再び座る。
 先ず伯圭は自分と各人との出会いを話しそこから思い出話に繋げていく。それに沿って三人は当時の伯圭の印象を話し、燭の明かりの中、話は尽きる事は無かった。

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