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節三

 皮肉に感じる程の雲一つ無い青天の下で、向かいから朝日を浴びる公孫伯圭(こうそんはくけい)は、慎重に馬を歩かせていた。
 その後には白馬義從を初めとする涿縣の兵卒が行軍する。
 行く先の暑い日の下から白い馬に乗り鎧を纏った背の高い男が向かって来る。それが誰かは伯圭は知っていた。
「薊城の監視ご苦労であった」
 目上の者として先に伯圭は声を掛けた。近付いて来た兜鍪(かぶと)の影から趙子龍(ちょうしりゅう)の顔が見える。
「斥候から報告が有ったかと存じますが、叛乱した烏桓の主力が東へ発ちました。しかし、依然、薊城に軍勢が残っています。このまま軍を進めると衝突は避けられないでしょう」
 馬で並進したまま、怪訝な顔を子龍は向けた。行軍の速さは緩まない。
「それはこちらの願い通りだ。少しでも追撃し、叛乱勢力の動きを止める。薊城まで残り五里も無い筈だ。所定の位置に戻るのだ。足下の務めに期待している」
 その命令に子龍は「唯(はい)」と返し、後の列へと馬首を翻す。
 やがて見覚えの有る雑木が生い茂る丘を右手に通り過ぎ、その向こう側に二里以上の横幅がある城壁が立ちはだかる。それが薊城だと伯圭は承知する。
「展開」
 伯圭による大音量での号令で、軍列に点在する担当の兵卒は鼓を一斉に叩き始めた。
 場に満たされた音を合図に長細い行列が順序良く左右へ広がって行き、陣形を見せる様に為った。伯圭は前列中央に白馬義從を置き、その先頭に自らが馬と共に立つ。前列左右に他の騎卒を配し、後列には残りの歩卒や荷車を配し、涿縣の軍勢千人強の陣形は整えられる。
「進軍」
 陣形が完成したのを見計らい、伯圭は次の号令を発した。再び鼓が規則正しく鳴り響き、全軍が前へと同じ速さで動く。馬上で先を見据えながらも城壁に等間隔に在る二つの門から敵勢が出てくる様に伯圭は願っている。何故ならば騎兵を中心とした涿縣の軍勢では攻城戦は不利だからだった。
 百歩も進まない内に、その願いは実現される。城壁の二門が開かれ、それらから騎兵がわらわらと溢れ出て、遅れて歩兵が出て、それ等が次第に秩序有る形と成ってくる。伯圭は胸の高鳴りを強く感じる様に為った。
 敵勢の陣形が整い、その総数が把握できる様に為る。それは二千程度と伯圭は見て取り、倍以上の兵力差の利を有するため、城外の平野で開戦しようとしたのだと推理する。
 敵勢は横並びの三つの群から成り、騎兵から構成された左右の軍勢が前に、歩兵中心の中央が奥へと配される。それは伯圭の記憶にある鮮卑の陣形と似ており、左右から官軍の後へ回り込む作戦を取ると確信する。
「左へ攻め込む」
 伯圭の号令と麾の指し示す方向で、予め立てておいた作戦の内一つが決められた。それに合わせ鼓の音は独特の拍子に為る。
 その音を認めた後、伯圭は自ら乗る馬を前へ駆け出させる。その馬頭は左の敵勢と中央の敵勢との何も無い隙間に向く。その場所へ白馬義從が馳せ進む間、左右の軍勢は衝突する。互いに騎卒を中心とした軍勢だが、数の不利により自軍が劣勢に陥る。持ち堪えられるかどうか考えると伯圭の胸の高鳴りが速まる。
 途中、何度も右後方を振り返り、歩兵を主とした中央の敵勢の動向を視認していた。それはより正確な位置を確かめると言うより、自らを安心させる物だった。中央の敵勢が戦線に到達する前に、白馬義從は左翼で交戦する敵勢の背後に到達する。
「放て」
 伯圭の発声により一斉に馬上から弓矢が放たれた。直ぐさま敵勢の動揺する様子を見て取る。
「突撃」
 弓から戟へ持ち替え、馬を渦中へと駆けさせる。一歩も遅れる事無く白馬義從が着いて来る。伯圭は作戦に於いての初めの成功を確信する。
 戦場の左側に於いて、敵勢は丁度、自軍左翼の騎卒部と白馬義從部の挟み撃ちに合う形となり、陣形を崩し混乱を生み出す。それを戟を繰り出す伯圭は敵陣を切り裂く中から強く感じている。
 伯圭が構想する作戦上、その敵の不利な状況が中央の敵勢の矛先を呼び込む。それを確認するため、隙を見て伯圭は振り返り後方を遠望する。その眼差しの先に敵の歩卒がこちらを向く様が見て取れる。歩兵中心で速さは遅い物の着実に左翼へと近付いているんだと確信する。
 眼前の騎卒と戟を交えながらも、敵勢の中央部が戦線に踏み込む直前まで引き込むように伯圭は根気良く粘る。伯圭の胸の高鳴りは再び速まる。
「離脱だ」
 頃合いを見計らい、自らを鼓舞するかの様に伯圭は大声を発し、前へと進む馬を大きく迂回させた。それに続く白馬義從共々、左の戦線から離脱する。その分、戦場に誰も居ない間が空けられる。
 中央の敵勢は大人数で急な方向転換が出来ず、そのまま白馬義從が居た場へ入り込む。再び白馬義從は大きく迂回し、元の方向へ向き直り、狙い通り矛先を歩兵中心の敵勢に変え再び突撃を仕掛ける。官軍は中央の敵勢を巻き込んだ形で挟撃に持ち込んだ。
 それに加え、自軍の陣形の後方から歩卒が戦線に到着しており、結果、戦場の左側において涿縣の軍勢は三方から敵勢を攻撃し、混乱が相俟って効果的に陣形を崩していた。
「勝てるぞ」
 高揚感から伯圭は叫び声を挙げた。その行動とは裏腹に、内心では冷静に作戦に於ける次の行動を起こす。再び大きく迂回し戦線を離脱し、白馬義從を率い、無人の野を駆け戦場の右側へと急行する。
 視界に入る右翼の戦況は、自軍が陣形を保つのがやっとと言った状態だった。それは伯圭の想定する所とは雖も、右翼の陣に趙子龍や従弟の公孫越が居り、心を痛める事実だった。しかし、焦らず冷静に在ろうと努め、右の戦線へ奥側から近付きつつ、最も効果が出る機会を伺う。
「放て」
 自らも弓を構えつつ言い放ち、一斉に馬上から矢を射た。直後に弓から戟に持ち替え、突撃へ備える。
 これが作戦に於ける勝利への総仕上げに成ると思うと、伯圭の全身は喜びで震えていた。
 日は既に雲一つ無い中空へと昇っていた。

 夕日を背に公孫伯圭は、鼻の奥まで入り込む様な焼ける臭いが満ちる大街を東へと歩いていた。
 目に入る焼失した廃墟の光景を目の当たりにし、伯圭はまるで悪夢の中の様に感じている。胸の辺りに手を遣り、鎧の鉄片を触感で現実である事を認める。
 やがて南向きの一つの門前で立ち止まる。そして門の上部を見て、そこが幽州府であると認め、足を踏み入れる。歩き進む廷では無造作に矛や弩が置かれており、州府が敵勢の軍営に使われていたと知る。州府の正堂へと足を向け、閤門を過ぎ中廷を横切り、誰も居ない正堂へと上がり、南面する榻へ座す。
 殆ど間を空けず、閤門の外から田楷が姿を見せ、同じく正堂へ昇り、東の席へ座る。伯圭は報告を促す。
「もう少しで趙子龍が連行して来ると聞いています」
 楷は率直に応えた。
 暫し間を空け、閤門の外から鎧を着けたままの趙子龍と兵卒数人が現れる。よく見ると、その数人は縄で両腕を背中に縛り付けられた男一人を連行している。その男は堂下の廷へ跪き、伯圭を見上げる。その姿は漢人の袴褶であり、顔も漢人のそれであった。
 右横に立つ子龍は言う。
「この者は敵勢からの捕虜です。ご覧の通り烏桓族で無く漢人です。どうも今回は単純な烏桓の叛乱ではなさそうです」
 跪く捕虜を見下ろした。
「今の叛乱の首謀者は誰だ」
 堂上から伯圭は捕虜に尋ねた。廷から男は睨み付ける。
「前の太山太守だ」
 直ぐに、それは誰だと言う意味で伯圭は左の楷に視線を送った。
「確か前の太山太守は張舉、子若と字す者です」
 小声で楷は答えた。それにより漸く伯圭は今回の叛乱が故(もと)の官吏であった漢人が扇動した物であったと理解する。
「何故、烏桓を巻き込んでまで叛乱を起こしたのだ」
 厳しい声で尋ねた。
「叛乱では無い。漢室に代わって天子に即位されたのだ。そのため地上の者を如何に扱おうとも勝手だ」
 男は怯まず良く通る声で淡々と答えた。天子は皇帝を意味し、明確に反逆する意図が汲み取れた。しかし、それだけでは反逆の理由が判らない。
「天子は京師たる雒陽におわす陛下のみだ。この幽州に居る理由は無い」
 反論を誘う様に、伯圭は吐き捨てる様に言い放った。
「幽州しか見えない汝等には判らないだろう。二年前、その雒陽に二つの頭を持った子が生まれた。それは天子が二人現れると言う予兆だ。それが幽州の陛下だ。その威信は塞外の烏桓をも平伏す程だ。そして天下に於いて近い内に頭は一つに為るだろう」
 男は面を挙げつつも伯圭と視線を合わさずどこか遠くを見ている様だった。それを見て取りそれ以上、聞き取れないと感じ伯圭は話を変える。
「ではその陛下は今、どこで何をして居るのだ」
「漢室の幽州府を破壊した今、陛下は東征し、先ずは烏桓の解放を行う」
 男の声に平静が保たれたままだった。その発言から伯圭は叛乱の首謀者である張舉が烏桓を引き連れ東へ行軍している事実を掴んだ。統治せず、ここ薊城の様に破壊し尽くし続けるならば、食糧を求め移動し続けざるを得ないのは道理だと伯圭は得心する。
「もう良い。その者を牢に入れておけ」
 伯圭が左右に告げ、数人の兵卒により即座に実行された。その姿が消えてから再び口を開く。
「我は一早く東へ行軍した敵勢を追撃したい。だが、その前に捕虜の扱いや薊城の復旧等の戦後処理に多くの時を費やすだろう。そこで薊城から四散した吏卒を優先して呼び戻して欲しい。涿縣の兵卒は優秀で千人も居るがそれだけでは何れ人手不足に為るだろう。それに薊城には幽州府だけで無く廣陽郡府も在り損じた吏卒は多大な物だ。何せそれら二つの各府の長たる幽州刺史と廣陽太守が未だ行方不明なのだから。失った分を少しでも復旧させたい」
 その指針に楷と子龍は共に「唯(はい)」と同意し、共に退出の意で粛し、背中を見せ遠ざかった。
 入れ替わりで荷を持つ兵卒数人が姿を見せ、伯圭は着いて来る様に指図し、奥の後堂へと歩き出した。
 自らの身を馴染みの無い夕闇へと投じた。

 日が中空に在り、暦の上では秋だと言うのにまとわりつく暑さを感じつつも、公孫伯圭は黙々と机上の木簡を手繰っていた。
 一段落し、ふと内心に東へ行った烏桓率いる張舉が過ぎる。涿縣の軍勢が薊城を叛乱勢力から奪還して半月は経つが、未だに出軍の準備が完了していない、と焦る思いを抱く。
 そんな折り、使者が来たと言う鼓声が耳内へ飛び込む。伯圭は左右の小吏に指図し、使者を通させる。
 開門するとそこには袴褶を着て武冠を戴く使者が居て、閤門を通じ廷を横切り堂上に現れ拝する。近くで見ると服は旅塵以外でとても汚れた物で、加えて所々の解れが目立つ。伯圭は返答し、用件を話す様に促す。疲労困憊と言った面持ちの使者は自らの印綬を見せ身分証明してから話し出す。
「右北平郡から来ました。十日前に烏桓の叛乱勢力が右北平郡府の在る土垠城を攻めました。その数は十万余りと見られています。数に任せた強引な攻城により劉府君が陣没し、愚を含めた十数人はそれを四方の官府へ告げるため、密かに土垠城を脱出しました。そして攻防戦の行方を見守りましたが、半日も空けず城壁の内への侵入を許し彼方此方で火の手が上がりました。率直に申し上げますと二日前に土垠城は陥落しました」
 途中、使者の声は震えだしていた。右北平郡は真東へ二つ隣の郡であり、その郡府の在る土垠城は薊城から東へ四百里程離れた所に位置する。また「府君」は太守の敬称であり、右北平太守が戦死した事実を伝えていた。それを告げる様子を見て思わず伯圭は立ち上がり傍に寄り励ましたい衝動に駆られたが、密かに深く呼吸しそれを抑える。
「その様な凄惨な場からの脱出と報告をご苦労であった。既に耳に入れたかもしれないが、ここは幽州府だが我は刺史では無く隣郡の涿郡涿縣の縣令だ。幽州刺史と廣陽太守は半月程前から捜索中だが、未だ発見されていない。半月程前に叛乱勢力により土垠城と同じくここ薊城は陥落し掠奪と放火により破壊し尽くされ、その後に涿縣の軍勢が到着した。そのため、刺史も太守もその際に陣没したのかもしれない。我としては今からでも軍勢を率い叛乱勢力に反撃したい。だが、尽力するも薊城は未だ復旧せず、残念ながら出軍もままならない状況だ。しかし、何時の日か足下の無念を晴らす成果を約束しよう。だから足下は先ずこの薊城にてゆっくり休養を執るが良い」
 労いの気持ちを声に乗せた。心の片隅で、恐らく反叛を起こした軍勢は逗留せず東か南に進寇し日が経つにつれ追撃がより困難に為るだろう、と感じていた。
 その後、まるで顔を隠す様に拝し、男は立ち去った。
 残された伯圭の両の眼に移っていたのは傷付き疲れ果てた背だった。

 昼間でも風に冷たさと乾きを感じる中で、公孫伯圭は玉と衝牙に拠る玉声と共に大街を東へ一歩一歩力強く歩いていた。官吏らしく紺の単衣を着てその上に袍を重ねる。その後を介者として連なる田楷、公孫越、趙子龍も同じ様な着衣と為る。
 やがて一つの前門に立ち止まり、見上げ「右北平郡府」と言う文字を捉える。その右に立つ門卒に粛し、取り次ぎを頼み、四人は門内へ案内される。
 幾つかの閤門を過ぎた後、中門を視界に捉える。ところがそこには八人の男が立っていた。近付くと、その中の四十代の男が両梁進賢冠を戴き腰から青綬を垂らすのに気付き、それが新任の右北平太守だと知る。近付くと相手も気付き、二つの集団が互いに拝する。
「さらなる東征についての会合のため、この仮の郡府に招聘した所で申し訳無いが、足下に別の用件ができた様だ」
 互いに頭を上げるなり、太守は話し掛けた。
「別の用件とは何ですか」
 唐突な話に気が回らず単に聞き返した。
「門内の正堂に勅使が来ておられる。我にでは無く足下にだ」
 太守の回答が暫く信じられず、妙な間が空き、漸く「唯(はい)」と伯圭は応える。それを認め太守は話を続ける。
「足下の昇進についての詔書だ。この中門を越える前からその心積もりの下で動くのだ」
 太守の発言にまたしても驚きを隠せないで居た。そんな厳粛な場ならば、尚の事、勅使の前で粗相は見せられない、と伯圭は緊張し、中門の前へ歩を進め、慎重に立つ。連動し太守等と伯圭の介者は後ずさりし間を空ける。
 閤門の向こう側の堂上に南面する勅使の姿が見える。
「謝します」
 伯圭がそう発声すると、左より勅使の従者が近付く。その間、別の従者が賛意を声に乗せ発している。捺すと「騎都尉章」と篆書体で記される銀の章と青の綬を篋より取り出し伯圭に授ける。それはまるで京師の御前の簡易版を見ている様な心地だった。
 続いて伯圭は紳に着けた涿令の銅印黒綬を取り外し従者へ手渡し返還する。そうするとその従者は後ずさりする。
「前へ」
 閤門の向こう側の堂上から声がした。それに従い、拍子が一定の玉声と共に伯圭は廷を横切り、堂下へと歩み寄る。目を伏せているために視界の上端に辛うじて入った使者の口が開かれる。
「公孫瓚は薊城に於いて二箇月前の中平四年六月に叛烏桓を討伐し多大な功を挙げた。因って騎都尉の官職を授ける。その職責の下で、続けて叛烏桓の討伐に従事して貰う」
「謹んで承諾します」
 伯圭は返答し、跪き地に頭を接し直ぐに上げる拝礼、所謂頓首を行った。その後、閤門の外へ出て、太守の傍へと近付く。
「東征についての会合は日を改めよう。そちらの事情にも変更が有るだろう」
 太守が告げ伯圭は「諾」と返事する。
「致はこの通り用意できた」
 「致」と呼ぶ木簡を伯圭は太守から授かった。拝し外へ向かって歩き出す。それを三人の介者は後を追う。
 致は冠を購入する際の証と為る。致を手に伯圭は或る市門を通り過ぎ、幾つもの市肆(みせ)が居並び、多様な売品で目に賑やかな大街を歩き、首を動かさず目で探る。左側に覚えの在る書が書かれた看板を見かけ、その市肆の前に立つ。多くの絹が置かれた奥に座する商人が拝し、伯圭は粛しその返礼とする。
「この件で汝の市肆を訪れた」
 紳から致と幾つかの銭を出した。商人は致を両手で授かった後、牀と呼ばれる坐台から立ち離れ、より奥にある篋から武冠を取りだし、伯圭の前まで歩み寄る。武冠は赤幘が基本でその上に籠状の網が乗る。そこで漸く騎都尉に就任したと言う実感が沸いてきて、その感動を面に出さない様、伯圭は片手に無造作に受け取り肆から遠ざかる。年月を重ねより痩せ骨張りが強調された田楷が伯圭の左横に出る。
「騎都尉と言えばいわば皇帝直属の羽林騎を監督する官職です。それ程、陛下は今回の反叛を重く見ており、卿を信頼し期待している証左だと存じます」
 興奮を声に乗せていた。感情を面に出さない様に努めていた伯圭の顔にはにかんだ物が広がる。
「それはどうか判らないが任命された以上、尽力するまでだ。無論、騎都尉とは雖も、この非常時に於いて、京師たる雒陽から羽林騎が援軍として来るとは考えられない。だが、我の官職を口実に軍備増強に向けた募兵や軍資調達ができそうだ」
 話し終えると、日に日に膂力が漲る体となる公孫越が右横に出る。
「実際に騎都尉に就任した者がその様な軍事行動を起こした過去は在ったのでしょうか」 歩きながらもその問いに顔を向け、暫し考える間を見せる。
「良い疑問だ。二年前に黄巾賊が各地で蜂起した際、騎都尉が京師から出軍した実績を思い出した。当時、京師の東南に位置する豫州は黄巾賊の進寇に晒されていた。京師から当時、左中郎將だった皇甫義真と右中郎將だった朱公偉と言う者が派遣され賊軍に逆転し、続けて京師から騎都尉の曹孟徳と言う者が援軍として派遣され、豫州の平定に大いに貢献したと聞く。京師からの軍事援助が殆ど期待できない我とは単純に比較できないが、それだけ縛りを受けず職務に専念できる官職だと言えるだろう。都督行事傳を持たない単なる涿令のままで有れば、郡境を越えての救援もままならなかったかもしれない」
 気付くと進行方向に顔を向け遠い目をしていた。
「騎都尉と言う器は出来ましたが、それに入れる中身、つまり兵数は二箇月前の薊城での戦闘と変わらず未だ足りていません…」
 聞き慣れた楷の声が左耳に飛び込んで来た。
「…一度に全兵数が戦う訳では有りませんが、張舉の軍勢の総数は十万人余りと言われており、今の千人強ではとてもその一角をも崩せないかと存じます。現に護烏桓校尉や遼東太守の陽府君は戦没しました…」
 楷が話す最中に、伯圭は或る門前で立ち止まる。吊られて他の三人も立ち止まる。伯圭は顎でその門前を指し示す。仮の軍営とする邸宅に到着したと意味していたが、それより話を続けたいと言う意志を楷の姿勢から感じ、仕方なく応じる。
「そうだな。次の目標は右北平郡府の在った土垠城の奪回だ。土垠城は右北平郡の東端にあり、ここ無終城は同じ右北平郡に在るとは雖も、郡の西端に在り、二百里以上も離れている。張舉はさらに二百里東へ離れた肥如に駐屯すると聞く。そこは隣郡の遼東郡だ。張舉により他の郡への進寇を牽制するためにも土垠城を奪回したい所だが、足下の言う様にこのまま進軍すれば陽府君の二の舞に為り大敗するだろう。そのため騎都尉としては前へ軍を進めるより先ず無終城で兵力の充実を優先させるつもりだ」
 自らの考えを披露すると、楷は暫し考える素振りを見せた。その後、「是」と応じる。伯圭は安心したと言う笑みを見せる。
「では、後は邸宅の正堂で詳しく論じよう。何も寒風で体を冷やす必要も無い」
 笑顔を絶やさない提案に、楷は己の過ちに気付き照れ笑いを伴い「諾」と口にする。
 四人は共に門内へと足を踏み入れる。騎都尉としての初任務に気を引き締めた。

節四

 未時、馬で寒風に逆らい進む公孫伯圭は土煙の上がる東を目指していた。
 後を追う肩幅の広い趙子龍は馬の速さを増し、左横へ来る。
「これ以上近付くと、あの大軍に見つかります」
 緊迫した声色で子龍は訴えた。
「斥候の報告通りで有れば、あれは十万人強の行軍だ。近付く蟻を象が気にするとは思えない。全貌が見えるまで近付くぞ」
 伯圭の発言に「唯(はい)」と子龍は納得した声を挙げ、後追いの位置へ下がる。
 漸く土煙の根本に在る軍影を捉える。見える右端から左端まで兵卒の姿で埋まっている。行軍による地鳴りを耳で聞くと言うより、体全体が揺れる心地だった。より近付き、兵卒一人一人が見える位置まで到達する。着実に左から右へと歩んでいる。兵卒の姿は烏桓の物ばかりだったが、時折、漢人の服が見える。こちらへ気付く者も居るが全く動揺が広がる様子は無い。
「叛乱勢力は薊や無終の西方へ向かわず南方へ向かっている。これはどう言う事態か」
 異様な大軍の奇妙な行動を目にし、内心で疑念が沸いていた。
「このまま南へ行けば、海に辿り着きます。恐らく海岸線沿いに西南へ行き、漁陽郡へ入りさらに南下し冀州勃海郡を目指しているのでしょう」
 危機感からか子龍の声に熱が込められていた。それを受け伯圭は語る。
「新たに編成した軍勢でせめて東進し土垠城を奪回しようと思っていた。だが、敵勢が全軍を以て土垠城を過ぎ去り南進すると有れば、意味が無い。単に後塵を拝するだけだ。敵勢は向かう所、敵無しで次々と官軍の防衛線を突破するからだ」
 思わず右の拳を強く握り、奥歯を強く噛んでいた。
「ではこのまま見過ごすと仰るのですか」
 子龍は語義を荒らげた。悔しさを押し殺し語句を出す。
「今の段階で攻めれば、全軍で反撃に遭い、この二月間の努力が無駄に終わる。ここは付かず離れずの追跡を行い、攻撃の機会を窺う。今は辛抱の時期だ」
 子龍は深く呼吸し、「唯」と応える。
「では、急ぎ自軍に戻ろうではないか。これは我が軍勢だけで対処できない問題へと発展している。州郡や京師の協力も視野に入れた戦略を立てたい」
 力強い声と共に馬首を翻し、伯圭は元来た道を引き返した。
 寒風を背に、何時か再び相対すと心に誓い西方に目を向けていた。

 帷幕で風を防いでいると雖も、冷気が中まで染み込んで来る。
 軍営内で武冠を戴き袴褶を着て公孫伯圭は南面し、数人の將士と共に大略を練ろうと話し出す。
「先ず敵勢の確認だ。敵の渠師を挙げてくれ給え」
 命令を伴う伯圭の視線に角張った体格の田楷が応じる。間に広げられた布の地図上に文字が書かれた木の棊を置き始める。
「先ず前の太山太守だった張舉が皇帝と僭称し名目上の領袖ですが、伝え聞く所によると、事実上、前の中山相である張純と言う者が彌天將軍安定王と自ら名乗り全軍を取り仕切る様です。そして軍勢の主力はご存知の通り叛烏桓の勢力です。今判る範囲では、幽州遼西郡にて集落五千を領し王を自称する丘力居、並びに幽州遼東郡にて集落千を領有し峭王を自号する蘇僕延が、張純の誘いに乗りこの進寇軍に加わる物と思われます」
 四つの棊を伯圭は地図上の冀州勃海郡の北端に置いた。
「皇帝に複数の王か。まるで漢朝とは別の朝廷を築こうとする勢いだな…否、実現の可否は兎も角その様な名目で反叛を起こしたのだろう」
 暫し沈黙を置いて考え込み、再び口を開く。
「今頃、敵勢はこの棊の様に勃海郡に入ったばかりだろうが、黄巾賊の反乱で疲弊した軍勢で防ぐ訳だから、容易に内郡があたかも無人の野の如く進寇されるだろう。加えて今の所、敵勢に兵站線が見られないため、行く先々で徹底した掠奪が行われるだろう」
 伯圭の顔に傷ましい色が滲み出ていた。神妙な面持ちで子龍は意見する。
「ならば、渠師それぞれが別行動を起こすでしょう。勃海郡の東側が大海であるため、それ等が西側の冀州の他の郡やさらに南の青州へと進路を取る可能性は大いに有ります」
 伯圭はそれを聞き取ってから、見慣れぬ男二人に目を遣る。
「嚴綱、單經はどう思うか」
 嚴綱と言う姓名で呼ばれる逞しい体と髭を持つ三十代の男は覇気の込めた声で応じる。
「敵勢が分かれて行動するならば、より戦い易く為ります。追撃し一つ一つ潰しましょう」
 單經と呼ばれる小さい四十代の男は淡々と進言する。
「一方を追えば、他方を追えないのは道理です。騎都尉の軍勢だけでは対処できないため、檄を飛ばし各地の官軍の協力を仰ぎましょう」
 満足気に伯圭は笑みを浮かべる。
「両名の意見は共に尤もだ。新たに門下吏を増やした甲斐が有ったと言う物だ。では幽州の各郡は元より、冀州の各郡や青州の各郡に檄を飛ばし加勢と補給の両方の協力を仰ごう。それだけでは心許ないため、上表し京師から協力の詔書が下るよう取り計らおう」
 その発言に応じ、楷が「官軍」と書かれた棊を各郡へと置いていた。それを伯圭は眺め意を決し再び口を開く。
「反叛勢力は連戦連勝で十万余りも在る強敵だ。官軍に於いて士気が上がらないため、新たな人材が集まらないだろう。それを少しでも緩和するため、私的な人脈を使い、各郡の將吏へ書簡を送ろうと思う」
 伯圭の伺う眼差しに先ず楷が応じる。
「それは如何程の効果が期待できるのでしょうか」
 伯圭は顎を突き出し話し始める。
「今でこそ白馬に乗って辺境を駆け回る日常だが、若い頃、我は長い間、京師へ遊学していた。多くの大夫士がそうで在るように、我も高名な人物に師事し五経を学んだ。だが、多くの者が一人の者を師事するのと違って、我は二人も師事した。それは尚書の盧子幹と、一昨年に薨去された劉文饒だ。二人の門下生の数は相当な物で、加えて州郡の重任に就く者も多い。先に挙げた三州で仕官する者、または無官で三州に住む者だけでも協力を促す書簡を送れば、人材面で官軍が強化されるだろう」
 伯圭の伺う眼差しの先には楷による納得の表情が在った。
「それで在れば納得できました。是非、その様に推し進め下さい」
 楷の発言を受け、伯圭は勿体ぶって無言で周りを見渡す。そうすると、その場に居た將士等が口々に賛成の意を唱える。
「では決まりだな。州郡とは今後とも連携を取っていきたいと考えている。挟撃や包囲等、有効な戦略を打ち出し得るからだ。では、それ等の州郡の加勢は返事待ちに為りそうだが、次に騎都尉の軍勢をどう進軍させるか、共に考えようではないか」
 伯圭の合図により、楷は「騎都尉」と書かれた棊を地図上の幽州右北平郡に置いた。
 その棊の先に在る「張純」の棊を伯圭は凝視していた。

 乾いた秋風から避けようとせず、公孫伯圭は柵越しに東方を見つめていた。
 荒野の向こう側には軍営が在り、そこに張純と二万強の大軍が駐屯すると知っていた。
 ふと気配を感じ後へ振り返ると、血色の良くなった骨張った体の田楷が近くまで来ている。先手を打って伯圭は問う。
「中郎將の孟使君がお呼びだろうか」
 中郎將に就いていた孟益と言う姓名の者に官職に対する敬称の「使君」を付けていた。
「解っているのでしたら、直ぐに来て頂けると手間が省けて助かります」
 率直に苦言が呈された。
「決戦は明日だ。何も今日、急ぐ事は無い。それでも急かす者は己の権力を誇示したいだけだろう」
 片方の口の端を上げ、皮肉で返した。楷は鼻から強く息を出す。
「では、卿は明日の決戦の地を一望し、作戦を練っている最中だと言う認識で宜しいでしょうか」
 質問に微かな笑みが伴った。考える素振りを見せた後、答える。
「呼び出しに遅れた理由としてはそれが最適だろう。だが、実際には対峙する軍営を眺め、ここ一年の己の行動に対して感慨に耽ている」
 その発言に楷は深く頷く。
「幽州涿郡涿縣を出発してから一年以上経ちますから納得できます。卿の妻子と離れたのもそれと同じ歳月ですし、明日で一区切り着くかもしれないと考えると余計にそうなんでしょう」
「一区切りは着くだろうが、この反叛が終結するとは思えない。叛烏桓の渠師の丘力居率いる軍勢は別行動で未だ内郡深くに逗留しているからだ。だが、それ以外の多くは今、平野の向こう側に駐屯している。その一所に追い込むまで我がどれ程の労力を使ったかと思うと、感慨に耽たくも成る」
 何時の間にか伯圭の視野は敵勢の軍営に向けられていた。
「この一年、時には州郡の協力を仰ぎ敵勢を包囲し撃破したり、時には態と隙を見せある所に敵勢を誘導したり、様々な方法で幽州以北に敵勢を追いやりました。さらに申し上げますと、それら多くの苦労が実り、ここ幽州漁陽郡平谷縣まで追い込みました…」
 伯圭は楷に背を向け、一言も返さずに居たが、密かに笑みを浮かべ耳を傾けている。
「…それだけで無く、明日の決戦を勝利に導く決定的な策略を卿は成功させました。敵勢に、遼東屬國から来た烏桓の渠師の貪至王との内通に成功したため、戦闘が始まると敵陣で造反が起こり、内外からの攻撃により壊滅に追い込めるでしょう」
 伯圭は喜びを心の奥に押し込め、口を真一文字に結び、振り返る。
「そうやって我に正当な評価を与えてくれるのは、足下を始めとする我の配下のみだ。残念ながら、成果を挙げる度に、我の権限が縮小している様に思える」
 感情が露わに為らぬ様に声を抑え語った。楷は意外だと言わんばかりの表情を見せる。
「涿令から騎都尉へと昇進され、権限が拡大しただけの様に思えましたが」
「騎都尉に為り確かに権限が広がった。州郡へ檄を飛ばせ得た。だからここまで張純を追い込めた。だが、戦い続けている間に、我の上官として中郎將の孟使君が着くように為り、決定権は使君が持つように為った…」
 「中郎將」は皇帝の側近官である中郎が軍勢を率いる將と為る者であるため、その立場は騎都尉より上位に在った。
「…四年前の光和七年に起こった黄巾賊の反乱に於いて、左中郎將の皇甫義真と右中郎將の朱公偉の下へ、京師から派兵された騎都尉の曹孟徳が就き、豫州の反乱は平定された。だが、それは既に左右の中郎將が反乱討伐に従事していたと言う前提が在り、初めから中郎將が指導する立場に居たからこそ、成功したんだ。ところが現状はその逆であり、目下の反叛を理解しない中郎將が後から着任し、一年も戦い続けた騎都尉を無理解にも振り回している」
 伯圭の吐露に楷は唖然とした顔を向けるしか出来ないで居た。伯圭は僅かな沈黙の後、それを埋めるかの様に続ける。
「縛りはそれだけでは無い。幽州府の在る薊城に新たに幽州牧の劉伯安が着任し、我等と無関係に反叛を鎮めようと動きを見せる。そのため、極端に言えば、こちらで張純に戦いを挑もうとする他方で和平を結ばれると言う行き違いが生じる恐れが有る。連携を取ろうと進言するも孟使君はそれを許さない。全く不安材料が多すぎる」
 気付けば、まるで自らを嘲笑うかの様に伯圭は顔を綻ばし話していた。幽州牧は今年に幽州刺史を改称した物で、それまで州下の郡を監察するのが主な任務だったが、統治する任が加えられる様に為り、幽州に派遣された中郎將と騎都尉に対し軍事面での競合が予想される。
 表情を引き締め楷は言う。
「薊城は昨年、卿が奪還した縣城でありますが、今は既に別の主が入っています。時世は動く物で、数々の試練はこれからも続く物なのかもしれません。挫けそうに為るかもしれませんが、それらの試練を正面から受け止めた上で、塞内の反叛を鎮静し治安の復興を目指しましょう。それこそが遼東屬國で卿が白馬義從を設けた一番の意義だと存じます。例え恵まれない上官や友軍だとしても、卿には余所より優れた部下が居ます。共に苦難を乗り越えて行きましょう」
 楷の眼差しは真摯に伯圭へ向けられていた。暫くの間、無言でそれを見返している。
 やがて下を向き一つ息を吐き、再び楷を見る。
「有り難う。そこまで我を信頼していたとは。心から感謝する。だが、我が白馬義從を設けた一番の理由はそんな志の高い物ではない。唯、目の前で馴染みのある者等が殺されるのが心底、嫌だと思ったからだ。目の前で部下をみすみす殺される己を許す事はできない」
 自らに対しての厳しい気持ちが顔に漏れていた。それとは対照的に楷は笑みを零す。
「それでこそ公孫騎都です。安心いたしました。やはり卿は心から信頼できる人物です」
 意外な発言に初めは驚きを隠せないでいたが、やがて伯圭は肯く。
「そこまで言うのであれば、我は安心してこれからも戦っていける」
 その発言に楷は満面の笑みで肯く。視線を奥へ外し伯圭は再び開口する。
「では、さっさと目下の敵である孟使君と相対し、明日の勝利へと繋げよう」
 その前向きな提案に、楷は「是」と返す。歩き出した伯圭は楷の左側を通り過ぎる。
「敵扱いは言い過ぎですが、そのお気持ちをお察しします」
 伯圭の後を楷は小走りに追った。
 着いて来るのを信じ、振り返らず一歩一歩力強く踏み進めた。

 雪混じりの吹き下ろしが次第に止み、山上を見上げると広がる暗雲から一条の光が射していた。
 その光の先で殆どが烏桓の兵卒で構成される大軍が方陣を形作る。
「やっと張純を追い込んだと言う実感が沸いてきました」
 その声の主へ、敵勢を馬上から見上げる公孫伯圭は振り向いた。発言主である馬上の趙子龍は同じく山頂の方向を精悍な顔で見据える。
「本来ならば緩やかとは言え坂の上に居る軍勢が下る勢いの分、有利なのだが、負ける気がしない」
 再び坂の上の敵勢を見据えた。左に気配を感じ、目だけ動かすと、そこに馬に乗る強靱な体を持つ嚴綱が居る。
「漁陽郡の決戦からこの遼東屬國の石門山まで連戦連勝です。この一戦で逆賊の張純を仕留めましょう。使君があの決戦の功で、陛下より中郎將に任命された今、誰の伺いも立てず全軍を以て攻撃できます」
 唾を飛ばしつつ鼻息荒く綱は告げた。中郎將の敬称である使君で伯圭を称していた。
「その元気の良さは頼もしい限りだ。足下の活躍を我の采配で充分に活かそうではないか」
 笑みを零しつつ、その勢いに吊られて大きい気持ちに成っていた。
「使君、手筈通り歩卒に出来る限りの弩を配し、騎卒には弓を配しました」
 従者の耳打ちを受けた子龍が告げた。伯圭は表情を引き締める
「いよいよ戦闘開始だ。敵は大軍だが山上に居るため横に陣を展開できず退けず、密集形態を取り静観せざるを得ない。そのため、敵は我等が動き出すのを待ち構えており、こちらが陣を展開させれば、敵勢は全軍を以て突撃を仕掛けてくるだろう。作戦通り、そこが我等の付け込む所だ」
 左右の二人の男に説明を博した。それは自らへの作戦の確認を意味していた。伯圭は麾を振り上げ、大きく息を吸い込む。
「展開」
 その大号令に多くの鼓がけたたましく鳴り出し、後方へ波及する。
 左右翼の騎兵は断崖や森林で途切れる丘の地の端を沿いつつ前進し、敵陣の左右に回ろうとする。一方、伯圭率いる中央の白馬義從は各々その場で反転し坂を下り歩卒の隙間を通り過ぎ、後方へ向かい、その結果、敵勢の前には大きな空地ができる。その空いた所に吸い込まれる様、敵勢は歩騎一丸と為って坂を下って突き進む。
 白馬義從が後方へ到達すると、歩卒は各々、騎馬の進路を防ぐ鹿角と呼ばれる尖った柵を設置する。その間にも、敵勢の騎卒が先行し自陣へ迫りつつある。自軍の歩卒の指揮は田楷が取っており、作戦通り、直前まで弩の弦が弩機に引っ張られ矢が設置されたまま放たず、敵勢を引き付けている。
「放て」
 後方に居た伯圭の耳にも号令が届いた。平然と迫りつつある敵勢の馬の進路が前から乱れて行き、やがて混乱とも称せられる戦況と為る。歩卒の弩と騎卒の弓とでは射程距離に差が有り、敵勢からの騎射では自陣の歩卒に矢が届かない。さらに混乱は前からだけでなく左右からも起こり始める。それは左右から進行させた自軍の騎卒による騎射で引き起こされた。
「我等も戦線に赴く。進め」
 伯圭の号令で白馬義從は前へ進み出した。自軍の歩卒の右側を通り抜け、混乱極まる敵陣へと迫る。
 山の坂を駆け上がる伯圭は雲が去る空を視野に入れていた。

節五

 平野の雪を掻き分け、漸く設営を終わる頃には闇に覆われていた。
 それでも公孫伯圭は設営監督の場から苣の灯りを頼りに幕府へと戻る。
 そうすると幕府の帷幕の前で四人の袴褶の男が待っていた。近付くと、先頭に立つ男の顔に見覚えがあると気付く。戴いた両梁進賢冠の下で、今にも肩まで耳たぶが垂れ届きそうな大きな耳が印象的な顔だった。
「劉備」
 伯圭は見知った男の姓名を思わず言い放った。四人が一斉に拝する。再び立ち上がった頃を見計らい、伯圭は粛し、中へと招く。
 帷幕の内側では燭が点されており、所々に席が敷かれる様が照らされる。伯圭は東側を北へ歩き、反対の西側で劉備と呼ばれる男一行は歩く。伯圭は一番奥の南面する榻に座り、劉備等は対面する席に並んで腰を下ろす。
「足下とは盧師の門下で学んでいた時以来だから、十三年振りに為るんだな。我と足下が共に学んだ時期は半年も無かったが、今でも昨日の事の様に思い出せる。それ程、印象的だった」
 自らの師匠に当たる盧子幹を思い出し、遠い目をして朗らかに語った。しかし、備は緊張した面持ちで立ち上がり一尺の木簡を差し出す。それが刺と呼ばれる物と知り、受け取って燭の火を頼りにまじまじと読む。
「劉備、玄徳と字(あざな)し、年二十八か。それに青州平原郡の高唐令とは昇進した物だ。当時、足下は加冠しておらず字も無い年十五の児(こ)だったと言うのにな」
 刺を右手に持ちながら、にやにやとして劉玄徳の顔を伺っていた。玄徳は照れながら応える。
「昨年、張純の乱が三州に広がりつつあった際、卿が盧師の門下に出した書簡は、どこにも仕官していなかった僕の下へも届きました。それを見て一介の什長でも良いので何かしら反叛の討伐に加わろうと思い、青州で叛烏桓と戦ったり、黄巾賊を討ったり、その他の賊とも撃ったり歴戦しました。そうやって紆余曲折し何とかその官職にありつけました。しかし、赴任地と為る平原郡は丘力居の軍勢に進寇を受け治安が悪く、結局、弱体化した縣の軍勢が強まる賊に敗れ、帰る宛が無くなり、こうして使君の前に数騎を引き連れ来た訳です」
 その発言に対し口元を綻ばせながら目を細める。昨年、張純の乱を鎮めようと多方面へ書簡を出し続け、意図しない形であるとは言え、それが今、実ろうとする結果に感慨深く思っている。その様な美談からふと伯圭自身を「使君」と言った現実に気が付く。
「もう我が中郎將だと聞きつけているのだな。そう言った根回しの良さは懐かしい。して我にどうして欲しいのだ」
 伯圭が口にした最後の語句で、玄徳は燭の影からでも判るぐらいの明るい表情を瞬時に見せる。
「そう仰って下さると話が早いのです。是非、僕をこの軍の將士の末席にお加え下さい。僕も僕の配下も戦闘経験は豊富です。青州で烏桓とも戦った経験が有ります」
 こちらまで汗をかく汗をかく様な熱気で玄徳は訴えかけた。焦らしたい衝動を抑えつつ伯圭は返答する。
「善いだろう。我から上表し足下を中郎將の別部司馬に就けよう。任命の詔書が下りれば、その時に高唐令の印綬を返還すれば良い…」
 その快諾に玄徳は底から安心したと言う笑みを見せた。しかし、伯圭はそこで話を終えない。
「但しこの反叛が鎮静すれば、足下には職を辞して貰う。盧師の下で五経を学んだ者が一介の將士に就いてるのは、適材では無いし、何より盧師に顔向けができない。反叛が終わればこんな辺郡に留まるのでは無く、京師に行き世の見聞を広めると良い」
 伯圭の言い付けに、玄徳は「是」と即答しその場で立ち上がり拝した。頭を上げる頃に伯圭は笑みを見せ再び話す。
「では仮の別部司馬である足下には後続の輜重の護衛に当たって貰いたい…」
 具体的な話に為ると判断してか、玄徳は懐から版と呼ばれる一尺の木簡と筆を取り出し、書き留めようとする。その動作を待ってから説明を再開する。
「…先の戦闘で大勝したものの、張純を取り逃がした今、その行方を追っている。その過程で足下との因縁も深い丘力居の叛烏桓と遭遇した。連戦し連勝し目下追撃している。だが、騎卒中心の敵勢に対し、一般的な歩騎混成の自軍は追い付けないで居る。そこで一時的に自軍の騎卒だけを先行させようと考えている。足下にはその騎卒では無く後続の歩卒や輜重の部曲に着いて貰いたい」
 話し終えると、版に書き終えた玄徳は遅れて「唯(はい)」と返した。伯圭は頬を緩ませる。
「では、堅苦しい話はここまでだ。折角、盧門下の兄弟分が十三年振りに再会したのだから、この十三年間、どう過ごしてきたかお互いに話し合おうではないか。勿論、足下の配下も話に加わって貰おう。」
 その提案に玄徳は満面の笑みを伴い「唯」と応えた。
 左右に顔を向け、暗がりの中でそこに居合わせた面々を一望し、口を開いた。

 夕闇の曇り空の下、公孫伯圭は半里程先の城門が開く様を凝視する。
「進め」
 白い気を辺りに吹き漂わせ、馬上から号令を発した。鼓の音共に規則良く順々に城内へと行進する。次第に視野の中で城壁と開かれた城門が大きく為る。
 半時も前で無い頃に、伯圭の歩卒は城壁を乗り越え内側から門を開け、城内へ大軍を雪崩れ込ませ、丘力居率いる敵勢を駆逐した。遼東屬國の石門山での大勝利以来、自軍の士気は高騰し行方不明の張純を探し出す勢いのまま、他の反叛勢力に対し凄まじい追撃を繰り広げていた。それは遼東屬國の境を北へ越え、遼西郡へと入り、標的と為った丘力居の軍勢の壊滅まで残り一歩まで迫った。
 しかし、殆ど騎卒で成り立つ丘力居等烏桓の軍勢の退却は速く、輜重と共に移動し補給路を確保しながら追撃を試みる伯圭率いる官軍は追い付く事すらまま成らなかった。そこで伯圭は輜重を置き去り、一気に敵勢へ迫った。追い付いた先が管子城と言う所であり、半日も経たず落城させたものの、またも反叛の渠師を取り逃がした。
 今、その管子城の南門を複雑な思いで伯圭は通り過ぎた。漢朝の支配外と為る塞外へはもうそこまでの位置であり、逃げ切られてしまうのではないかと焦りを感じている。
「戟や弩の武器は殆ど有りませんが、食糧は数日分有る様です。輜重を率いる歩卒がここへ追い付くまでは飢える心配は無いでしょう」
 中央辺りまで来た時、徒歩で走り寄る大きく逞しい趙子龍は告げた。
「それは田楷と劉備が指揮を執っていたな。仮に敵勢が接近する事態が有っても、事前に察知し切り抜けられるだろう」
 馬上で安心させようと笑みを浮かべた。
 駐屯のための設営を行わせつつ、並行し別の兵卒に城内に民衆以外に敵卒が潜んでないか、調べさせる。苣の灯りの中、設営が終わり、外に向けた衛卒以外、全軍休眠に入った。
「府君、城外に軍営が現れました」
 その声で伯圭は起こされた。外は未だ暗く鶏鳴時だと理解する。
「直ぐ楼へ向かおう」
 管子城を奪取して一夜しか経っていないと言うのに、軍営が見えたと言う報告に嫌な予感を募らせていた。動き易く袴褶に着替え武冠を戴き外へ早足に歩き出す。
 門卒にどの楼か聞き出し、暗がりの中で大街を南へ急ぐ。途中、それに気付いた兵卒の多くから粛され、その都度、横目に流していた。
 やがて、城門の前まで到達し、脇の階を昇り城壁の上の楼へと駆け上がる。楼上では岩の様な体で存在感の有る嚴綱が既に居て、こちらに気付き互いに拝するも、再び口を半開きに唯、外を眺めるだけだった。伯圭はその視線を辿って、外を眺めると、そこに異様な光景が広がっていた。
「城壁から半里も離れてない場所に軍営が連なっている。東南と西南を見てみろ。軍営の列も柵も北へ折れ曲がる。つまりはここ管子城が一夜の内に包囲された可能性が在る」
 自らの発言に伯圭は身震いする思いだった。綱の目に光が戻り、自らの上官の顔へ向き直る。
「今まで戦った敵勢より少し数が多いだけです。撃って出れば容易に大破できるでしょう」
 その力強い発言も伯圭の心を動かすに到らなかった。急がず城外から視線を横へと移動させる。
「あれだけ城壁に接近して居れば、こちらが城門から出ても即座に対応できる。つまり大軍を外へ出し騎卒の速さを活かす前に端から順に矢や刃で地に倒されてしまう…」
 伯圭が話す程、綱の表情は険しい物へと変化する。事の重大さを噛み締めながら分析を続ける。
「…管子城に数日分しか食糧が残されて居なかった理由が解った。我等をここへ釘付けにするためだ。敵勢にとって管子城を包囲する時さえ有ればそれで充分だった訳だ。我等に食糧が尽きるまで管子城に留めておくつもりだ」
 声を震わせながら告げた。
 やがて朝日が左から見えるも暗雲が頭上に集まりだし、大粒の雪が強風と共に降り出した。

 管子城に到達してから百日余りが経とうとしていた。
 既に年が改まり中平六年と為り、公孫伯圭は年三十九に為り、北の辺境でも寒さが緩やかとなる春三月に為っていた。しかし、そんな状況も今朝からの激しい冷雨により忘れさせるに充分だった。
 正堂の榻に座る袴褶を着る伯圭は、目を瞑り背筋を伸ばし少しも動かないで居た。
「使君、宜しいでしょうか」
 その声で目を開けると、前に袴褶を着た趙子龍が座っていた。着る物だけで無く伯圭と同じ様に伸びたままの鬚髯(ひげ)の上からも解る窶れた顔を向ける。元々大柄な体だけに衰えが強調される様だった。「善(よし)」と答え話の先を促す。
「使君よりご命令通り、部曲の間で各々の軍馬を交換し、それを殺し馬肉を食し飢えを凌ぎましたが、それも今や食べ尽くしつつ有ります。中には馬肉が尽き、弩や楯を煮始める者も出てきたと聞いています。一方、ここへ来てから救援の官軍が来たと言う話は耳にしません。そのため、何もせずに居るのは意味が無く、城内の全員が飢え死ぬ前に何らかの策を講じなければなりません」
 差し迫った内容とは裏腹に淡々と子龍は話した。愛着の有る自馬を食すのは抵抗が有るだろうと配慮し、伯圭は他の一団の馬と交換する様、命令を下していた。その策は無意味に成りつつあり、遂に食べられない物まで手を付けようとする者も現れた。やがて内心で決意し、強張った顔の筋肉に注意しながらゆっくりと口を動かす。
「遂に馬も尽きつつ有るか。このままでは刀や戟も煮ざるを得ない状況に成るかもしれない。そう為る前に全軍一丸となって包囲を突破しよう。明朝に決行だ。鶏鳴時に南門前に集まる様に全軍へ通達だ」
 その命令を聞き力無い笑顔を返し、子龍は立ち去る意味で拝し、堂を降り雨の中で去って行く。長きに渡る睨み合いにより敵勢が戦いへの準備を怠るだろうと言う僅かな希望に伯圭は賭けている。
 翌日、日が昇る前に一万強の兵卒が南門に集まった。皆、兜鍪と鎧を着け、手に武器を持っているが、それに力は無く両手を垂らし両肩を落とし背を曲げ立つのがやっとと言った状況で佇んでいる。最早、気力しか残されていないと判断し、それを少しでも元気付け様と伯圭は皆の前へ出る。
「諸君、いよいよ管子城を去る時が来た。依然、丘力居率いる叛烏桓には敵わないだろう。だが、一丸と成れば、必ずや包囲に穴を開け、この地より帰還できる。突破した後は官軍の兵卒として諸君に命令を課さない。つまり、各自が生きて帰る行為が最後の命令だ」
 声を絞り出し、大声を出した。それに呼応する悲鳴の様な声が所々で挙がり、それがうねりと成る。
 軍勢の規模や相手の異族が全く違うものの奇しくも十四年前に塞外で伯圭が鮮卑と遭遇した際と似た状況に成っていた。当時、異族である鮮卑との力の差を痛感し、白馬義從を設立した。しかし、今やその白馬すら影も形も無く馬肉と化し誰かの胃袋に消えていた。その運命の皮肉に伯圭は声を出し自嘲したい心地と成ったが、思い留まり気を門外へと集中させる。
「扃を取り去り門を開けろ」
 そう言うと、一人の兵卒が門に架かる横木を取り去り、慌てつつも重々しく門を開く。
 門を通じ城壁の向こう側が見え、そこには敵陣の柵が横へ大きく広がる。
「行くぞ」
 そう左右に言って、伯圭は戟を両手で持ち走り出した。
 柵に一早く着く様に全力で走るが、久しく体を動かさず加えて飢えによる膂力の低下により、年三十九の体は走行に見えない遅さで進んでいる。しかし、その力の衰えは城内の全員に訪れており、結果的に、皆、示し合わせた様に同じ速さで敵営へ進む。
 幸運にも敵卒の姿が目的地の軍営から現れず、包囲突破への希望が繋がる様に感じる。やがて伯圭等最前列は柵に到達する。敵勢が漢人の軍営の様に深く広い塹や強く高い土塁を築かず、馬の進路を防ぐのみの柵である状況に安心し、勢いのまま、柵を倒しに掛かる。後続の者は柵沿いに横へ走り別の柵を倒しに掛かり、突破口を広げる。
 柵を倒し、伯圭等最前列が内側へ入る頃、漸く敵卒が帷幕から姿を見せ始める。構わず伯圭は高揚感を持ったまま再び走り出し、自軍の兵卒がそれに続く。まるで虫か獣の大群の如くに密集して突き進む。顔を見せた敵卒は成す術も無く倒され踏み付けられるか、そのまま退散するかのどちらかであった。
 軍営の外側の柵に到達し、瞬く間に勢いづく兵卒に再び柵は倒され、先に到達した多人数で脱出口を確保する。再び自軍の兵卒は解放へ向かって走り出す。一里程敵営から離れて振り返ると、依然、柵の穴から自軍の兵卒が出て散開しており、叛烏桓による追撃に向いた恐怖が背中を冷たくする。
 走っては振り返りを繰り返す伯圭は漸く自軍の兵卒による行列が途切れたのを視認し安堵する。気付けば、東の空から日の姿が見え始めており、上空からは大粒の雨が落ち始めている。見る見る内に足元が泥濘始め、敵営から離れようにもどんどん体力が奪われる。敵勢の追撃を恐れつつ振り向くと、それが現実化したかの如くに敵営から数匹の馬が駆け出している。いよいよ犠牲者が出ると覚悟した。
 ところが、もう一度、振り返ると、それらの馬は伯圭の元へ向かっている。胸が急激に高鳴り、立ち止まり、振り返り、戟を握る両腕に力を込める。
 しかし、接近されると先頭の馬以外の馬に誰も乗っていない事実を見知る。さらに接近されると先頭の馬の上は叛烏桓では無く、自軍の兵卒だと気付く。より接近するとその兵卒の顔が見慣れたものだと気付く。
「趙子龍」
 緊張の緩和と驚きの勢いのまま大声で相手の姓字を伯圭は叫んだ。趙子龍は自ら乗る馬を止めその他の馬も止める。
「この馬にお乗り下さい。話はそれからです」
 その申し出の通り、伯圭は一つの馬に走り寄り飛び乗る。そして他の馬を他の士卒に残し、共に南へ馳せ出す。伯圭は元居た所をしっかりと見定められないまでも何度も振り返る。
「あそこには嚴綱を始めとする將士や飢えた兵卒が居たんだぞ。敵勢の追撃から見捨てざるを得ないのか」
 語義を荒らげて伯圭は声を吐いた。それでも子龍は進行方向から目を離さない。
「落ち着いて下さい。使君はお気付きでは無いでしょうが、使君の周りに嚴卿を始め主要な將士が付き従っていましたので、直に乗馬し追い付くでしょう。加えて追撃の心配は余り無いと思います…」
 右に併走する子龍は一旦、話を止めた。直接嚴綱の名を言うのを憚り敬称である卿を付けていた。伯圭は話の先を促す。
「…この馬は敵営から頂戴して来ました。その際に敵卒と一戦を交えましたが、叩きのめし語が通じる様でしたので、敵の状況を聞き出しました。叛烏桓の軍営でも食糧に困り飢えていた様でした。そのせいか数日前より段階的に撤退していた様です」
 子龍が告げた事実に伯圭は驚きを隠せないでいた。
「では昨日一昨日等、もう少し早い時期に突撃を掛けていれば反撃に遭っていただろうし、明日明後日等、もう少し遅い時期に決行しようとすれば、何割かは飢え死に遭っていたかもしれないのだな」
 その確認のための問いに子龍は慎重に「然」と答えた。
「未だ敵勢への警戒を解く行為はできないでしょう。先ずは近くの縣城へ逃げ込みましょう」
 子龍の進言に何十日ぶりの笑顔で伯圭は「諾(よし)」と答えた。
 未だ冷たい大粒の雨が降り続いており、行く先の上空で暗雲が立ちこめていた。

 西の空が赤く染まりつつある時に、依然、官軍の勢力下に在る遼西郡府が在る陽樂城に公孫伯圭等は到達した。
 単衣を纏い進賢冠を戴く骨張った田楷と単衣を着て武冠を被る中背よりやや高い劉玄徳が共に驚きと喜びが入り交じった顔で一行を城門内で迎える。
「管子城で何やら動きが有ると斥候より聞き及びましたが、まさか使君が無事ご帰還されるとは思いも寄りませんでした」
 その楷の一言に、伯圭は先ず笑顔で返す。
「詳しい話は後だ。先ず湯と餅を手配してくれ。腹を満たさなければ話に集中できない」
 依然、声に力無く告げた。
「用意しますが、急いで食べると体に毒ですので気を付けて下さい」
 命令に応じ楷は官邸へ案内する。
 歩き達した官邸の正堂では既に燭が点されており、伯圭は気力を振り絞り階を通じ堂上へ昇り南面して榻に座る。間髪入れず水と食糧の入った器が前へ出され、それ等を慎重に口の内へ運ぶ。その間に趙子龍、嚴綱等が西の席へ座り、田楷、劉玄徳、單經、公孫越が東の席に座る。西の席に座る者にも少量の水と食糧が場に用意される。
 四半時も経たない内に伯圭は食べるのを止め、楷に報告を促す。
「この陽樂城に駐屯する後続の部曲は遼西郡の軍勢と共に何度も管子城の包囲を破ろうとしましたが、圧倒的兵力差の前に管子城近くの包囲にすら到達できずに居ました。そんな折り、一月前に幽州牧の劉使君より攻撃を控える様に命令が有りました…」
「劉伯安が何故、我の任務に口出しするか」
 楷の報告に、顔に精気が戻った伯圭は激昂し思わず報告を止めた。暫しして俯き一呼吸置き先を促す。
「続けて劉使君は張舉と張純の首に金銭を懸ける旨をこの遼西郡を含め州下の郡縣に通達致しました。その後、どう言う訳か管子城の周りから叛烏桓の軍勢が徐々に撤退し始めた様子が斥候により報告されました。憶測でしかないのですが、劉使君と丘力居等叛烏桓との間で何らかの取引が在ったように思えます」
 楷が報告を終えても、伯圭は無言で俯く。やがて怒りで唇を奮わせながらも感情を抑えて言う。
「劉伯安が包囲されていた我等を見捨て、敵の丘力居と取引を行ったのは明白だ。それをこちらが知った旨を知らしめないといけない。幽州府に向け叛烏桓の使者を殺す様に書簡を送れ。また飽くまでも我等は武力で叛烏桓を駆逐する方針を示すため、これより散還した兵卒を収めつつ西へ行軍する。行く先々で兵卒を募る。今、戦いを止めては張純や叛烏桓等の敵に付け入られてしまう。それは十年以上、鮮卑と戦った我には解る」
 命令を含めた発言に、左右から一斉に「唯」と返ってくる。
 ふと外へ目を遣ると、燭の光で照らされた堂上と違い、暗闇が辺りを覆っていた。

節六

 今年初めての札(せみ)の鳴き声が公孫伯圭の耳に入り、季節の遷ろう早さを実感していた。
 右北平郡の長史に案内され、伯圭は介者を五人引き連れ郡府内を歩き進む。
 やがて閤門前へ到達し、見覚えの有る右北平太守から粛され、内へ招かれる。正堂前で主客分かれ東西の階を昇り、互いに拝し東西向かい合う席に座る。右北平太守が東の席の南端で伯圭が西の席の北端に座る。
「卿とは仮の郡府が在った無終城以来だな」
 両梁進賢冠を戴く太守から話した。悠然と伯圭は応じる。
「二年弱前、愚(わたし)は無終城で騎都尉に就いたばかりでした。その後、平谷縣での張純との決戦を制した戦功により中郎將に為り、さらに先程、石門山での張純の大破と言う戦功により降虜校尉に為り、加えて都亭侯に封じられた上、兼行で再び遼東屬國長史を領する事と為りました。武冠を戴き青綬を帯びると言う見た目は何も変わりませんが、二回も官職が遷りました」
「そう言えば、無終城から本来の郡府が在る土垠城へ復帰できたのは卿のお陰だ。感謝する…」
 太守のその発言に伯圭は頬を緩ませる。
「…しかし、卿は亭侯に封じられ、食邑を得て俸禄とは別の収入が約束された。加えて遼東屬國と領地も手に入れた。身(わたし)には公私ともに充足した様に思えるが」
 太守の発言に伯圭の目は鋭くなった。
「その二つは良いとして、中郎將から降虜校尉へ遷ったのは納得できません。同じ比二千石の秩ですが、州郡を越えての権限となると中郎將の方に分が在るでしょう。加えて遼東屬國長史を領するよう課せられた意図は遼東屬國に留まるよう命じられた様な物です。今は叛烏桓を討伐し、他方、張舉と張純を探し出し捕縛するのが最優先の任務です。遼東屬國に留まっていれば今までの様に郡境を越えた行動が執れません」
 人事に関して思わず伯圭の口から不満が漏れていた。太守の表情は固まる。
「卿はもしや聴かされていないのでは無いか」
 太守の意外な反応に伯圭は注意を向け聞き返す。
「何をですか」
「張純が殺され、反叛が終結した旨だ」
 太守の発言に一瞬、伯圭は耳を疑った。顔を強張らせていると、太守は再び話し出す。
「卿が遼東屬國の石門山で張純率いる反叛軍勢を大破した際、その敵卒の多くは妻子を棄て塞外へ逃走したそうだ。卿が遼西郡の管子城で反叛軍勢に拠る包囲を受けている時、幽州牧の劉使君は恩信を以て烏桓と接し、張舉と張純の首に金銭を懸け、丘力居等の叛烏桓は喜んで自ら帰還した。卿がここ土垠城に向かう折り、劉使君の下へ張純の首が送られた。張純は烏桓の勢力下に逃げたのでは無く、鮮卑の所へ逃げていたそうだ。だが、その私客の王政により殺されたと言う。王政はその功により列侯に封じられたと言うから陛下もお認めに成ったのだろう。張舉の行方は未だ判らないが、首謀者が死に烏桓が撤退したのならば、反叛が終結したと言えるだろう」
 太守の説明に、伯圭は次第に自らの顔が火照るのを感じている。太守が言い終わると、伯圭の口から無念と憤りが漏れ始める。
「支援して頂いた府君に言うのは筋違いですが、言わせて貰います。では何故、愚は管子城で叛烏桓と百日も戦い、十人中五六人も行方不明者を出しつつも再度、歩騎一万を編成しそれを率いここ右北平郡の土垠城に上がったのでしょうか。全ては陛下の御威光の下で張舉張純や叛烏桓が二度と反叛を起こさない様に、それ等を埽滅するためです。それを齟齬にした幽州牧の劉使君をこれから先、愚は許せるとは思えません」
 やり場のない憤怒は堂上に放たれ沈黙を招いていた。それを太守が破る。
「卿の気持ちは判る。だが、もう時世は動いている。陛下が卿を降虜校尉に任命し遼東屬國長史を授けたのは、烏桓を埽滅するためでは無く、漸く治まった反叛が再び起こらない様に辺境の治安を維持するためだ。一方、劉使君は既に各地に駐屯させた軍勢を退かせている。卿だけが今、場違いな歩騎一万を右北平郡に駐屯させている」
 太守が発言を進めるに従い、伯圭は目を伏し頭を垂れていた。そのまま伯圭は話し出す。
「解りました、このまま東方の遼東屬國へ向かいましょう。しかし、再び反叛が起こる様であれば、再び歩騎を率いこの地へ戻って参ります」
 言い終える頃には伯圭は面を挙げ真っ直ぐ太守を見ていた。続けて、拝し立ち上がり、西の階へ歩み出す。残された者は同じく拝し西側の者は立ち上がり後を追った。
 前門を出ると、一層けたたましく札(せみ)が音を発てていた。

 暦は初夏だとは言え北の辺郡であり、春の様に眠気を誘う日中だった。
 年三十九の公孫伯圭は遼東屬國府内に在る私的な場である後堂で庶務に就いていた。
「卿卿」
 聞き覚えが有るが懐かしい女性の声に驚き伯圭は几から顔を挙げる。視線の先の門前には伯圭と同年の女性と十代の男が居た。声を掛ける。
「漸く来たか。馬車とは言え涿縣からの長旅ご苦労であった。それに汝等とは実に二年弱振りだな」
 話す内容とは裏腹に伯圭の声は内なる喜びから震えていた。二人は口々に返す。
「卿卿がお元気そうで安心しました」
「父にこの續の成長した姿を漸く見せられました」
 女の声も續と名乗る若い男の声も喜びで震えていた。
「兎も角、我の妻子ならばここで腰を下ろし楽にしてくれ」
 伯圭は妻子と称する二人を堂上へ招いた。二人は言われたとおり、階を通じ堂上へ昇り、南面する伯圭の前の席へ並んで座る。
「漸く遠征から帰って来られ、涿縣に勤めていた時の様に、この赴任先で落ち着けそうですか」
 妻は笑顔で問うた。しかし、その眼差しの先にある伯圭の顔は強張っている。
「異動に為るまで何年もこの地に居たいが、そう順調に行かないだろう」
「それはどうして」
 妻の質問に、一呼吸置いてから再び話し始める。
「道中で耳にしたかもしれないが、今月の十一日に陛下が崩御された。そして二日後に皇太子が即位され、年号は光熹と改元された。それだけならば何の懸念も無いが、今日に為って同じく驛馬で報せが来た。それは上軍校尉の蹇卿が二十五日に獄死したと言う旨だった。これだけなら何て事は無いだろうが、蹇卿は先帝が信頼する臣下の一人だった。それが獄死したと為れば京師で何らかの権力闘争が有ると考えるのが自然だろう。京師の乱れは四方に広がるのが世の常だ。やがて我も何らかの形で巻き込まれ、この地に留まる事はできなく為るだろう。その時は汝等にまた寂しい思いをさせてしまうかもしれない」
 話している間に、思い詰め目を伏せていた。
「卿卿の家の事は任せてよ。だから、その時が来たら気にせず陛下のために忠義を尽くして」
 自らの妻の発言に思わず面を挙げ驚きの表情を見せる。
「續もその時が来れば父に着いて行きます」
 父前であるため名で自らを称し、子は逞しさを見せようとした。
「汝等の言は有り難い。心に浸みる。単なる杞憂で終わればそれに越した事は無いだろう。だが、時が来れば、己の信じる義を貫くのみだ。その時は従弟の越や範にも同行願う。汝についてはその時に判断するだろうが、覚悟はしておいてくれ」
 子の續に顔を向けていた。續は「唯(はい)」と力強く応じる。伯圭は話すのを再開する。
「だが、単にその時を待つだけでは後手後手に回ってしまう。京師から三千三百里程離れたここ遼東屬國からでも状況を掴む術は持ち合わせている」
 自信を含ませた笑みを見せた。伯圭は話すのを続行する。
「先帝はこの瓚に都督行事傳を仮せられただけで無く、瓚の軍事能力に御目を付けて下さって、瓚を騎都尉、中郎將、降虜校尉に任命された。その恩信に少しでも応えたい。それに先帝は前年の八月より上軍校尉の蹇卿を始とする西園八校尉を設けられ、その上、十月の甲子日より御自ら無上將軍と称された。つまりは塞内の各地で起こっていた反叛に御憂慮され、天下に御威信を示そうとなさっていた。その先帝の御意志は瓚の様な辺境の臣下に於いても忘れず伝えていかなければならない」
 君前を意識して名で自らを称し、遠い目をしていた。
 視界に在る後廷ではそこに唯一ある木に新芽が生えつつあった。

 夏が終わり秋が過ぎ去り冬が深まる中、遼東屬國府の前門前で公孫伯圭等六人は立っていた。
 伯圭等は皆、冠を戴き綬を帯び単衣を着て袍を重ねる。冷気漂う中で門の東側へ立ち南を向く。
「あれがそうではないですか」
 左に立つ田楷が白い息と共に小声で呟いた。それに従って南の奥へ凝視すると、そこには二台の馬車がこちらに向かう姿があった。
「間違い無くあれだろう」
 伯圭は白気を口に漂わせ小声で返した。やがて二台の馬車は目の前で停車し、単衣を着て黒幘を被る五十代の背の高い精悍な男が先頭の四人が前へ出てきた。伯圭は喜びが顔に出ないよう抑えつつ粛し屬國府の門内へ招き入れる。
 賓主分かれ並行し北上し二つの門を過ぎ、やがて正堂の上に辿り着き、西東互いに拝礼し着席する。
「師、こんな北の辺郡までよくぞいらっしゃいました」
 東の一番南に座る伯圭が主人として口火を切った。賓客となる五十代の男がそれに応じる。
「尚書を罷免されたので京師から故郷の涿縣へ戻るついでだ」
 その発言に伯圭は沸き上がる可笑しさを堪える。
「言を返すようですが、ここ遼東屬國の昌遼縣は京師から涿縣の間に無く、涿縣からは千五百里も東へ外れていますが」
 にたにたしながら呈した伯圭の疑問に、男は口を真一文字に結び眉間に皺を寄せる。
「どうやら道に迷ってしまった様だな」
 男の発言で、堂上は笑い声に包まれる。それが収まる頃に咳払いを一つして男は話す。
「冗談は兎も角、この盧子幹が京師から追われていた事実は確かに有った。事前に察知し轘轅関を通ると偽り、京師を囲む八関の外へ出たぐらいだ。今、京師に異常事態が訪れている…」
 自らを盧子幹と言う姓字を称する男の語りに伯圭が口を挟み止める。
「待って下さい。この辺境の地へは驛馬を通じ表立った事実が断片的にしか伝わって来ません。具体的には、謚号が靈帝に決まった二代前の皇帝は今年四月に崩御され、直ぐに先帝が即位し、八月に大將軍の何遂高が薨去され、九月に先帝が廃位され、今上の陛下が入れ替わり即位し、董仲穎が十一月癸酉の日に相國と言う最高位の職に就いた事実です。四月に靈帝が崩御して以降、何が有ったか順序立てて掻い摘んで説明して頂けませんか」
 伯圭の要求に盧子幹は「諾(よし)」と応え、一呼吸置いて話し出す。
「靈帝が御存命の頃から臣下に二大の勢力が在った。一方は何太后を権力基盤とした大將軍の何遂高の勢力、他方は中常侍や中黄門等の宦者の勢力だ」
 子幹は理解を探るため、発言を止めた。伯圭はその意を汲み取り発言する。
「何太后は靈帝の皇后、つまり靈帝の妻、先帝の母に当たり実権を握り得る立場です。その兄が臣下の最高位である大將軍に就く何遂高でした。何大將軍は六年前の黄巾の乱からその位に着き、その麾下で年内の一旦の鎮静を果たし、そのため靈帝から信頼されました。一方、宦者は皇帝の側近くに在りその妻妾と誤りを犯さぬよう男性の機能を取り除かれた官吏であり、特にその高位である中常侍や中黄門は陛下に対する顧問應對や徴召に繋がる白や薦を発する特権を有しております。当に京師の二大勢力に為っており、権力が拮抗している訳ですね」
 伯圭の発言に、「是」と応じ子幹は再び続ける。
「水面下で権力の争いが在り、先ず靈帝が設立した西園八校尉の一人、上軍校尉の蹇碩は先帝の弟である勃海王を即位させようとし、当然ながらそれは先帝への謀反に当たり獄死した。蹇碩は宦者であるため、何大將軍側の権勢が増した。加えて聞く所に拠ると、同じ西園八校尉の一人でも中軍校尉の袁本初は宦者を廃するよう何大將軍に進言したそうだ。それは実行されないまでも、先ず何大將軍は袁本初を司隸校尉にし節を仮し武力を奮う立場にした」
 またも子幹は発言を止め、伯圭の発言を待つ。
「京師たる雒陽は郡に相当する河南尹の内に在り、さらに河南尹は州に相当する司隸の内に在ります。そのため、司隸校尉は刺史に相当する官職ですが、それ以上に京師を守護する官職であり、それに加え、節を仮された者は軍令を犯した者を殺し得る権力を与えられています。つまり、軍事面で何大將軍側の支配力が増していたのですね」
 伯圭は話しながらも心は十六年前の子幹の下で学んでいる頃に戻った気分だった。当時、こうやって理解の進度を確かめられていたと内心、懐かしんでいた。
「何大將軍はそれだけに留まらず宦者を武力で脅そうと京師の外から軍勢を招こうとした。それが東郡太守の橋元瑋と前將軍の董仲穎だ。特に後者の董公は今年春に、左將軍の皇甫義真と共に涼州から司隷の右扶風まで進寇した叛羌を撃退し、強力な軍勢を有していた…」
 子幹は董仲穎に相國の敬称である「公」を付けた。同じ北の辺郡でも伯圭が叛烏桓と戦った所は東北の幽州であり、皇甫義真が叛羌と戦った所は西北の涼州であった。元はと言えば烏桓が叛乱を起こした一因は、涼州の叛羌を烏桓の兵卒で討伐しようとした戦略に在った。対価と為る牢稟が支払われなかったため、烏桓に拠る漢人への不信感が広がり、やがて叛乱へと繋がった。西北と東北と離れた地域での叛乱だったが、奇妙な繋がりを伯圭は感じる。
「…靈帝は董公を并州牧に任命し、その軍勢を皇甫將軍に移すよう勅令を下したが、理由を付け董公はそれを拒否し、任地の并州に赴かず司隷河東郡に駐屯した。吾はそんな不忠で信用のならない者を京師へ招くのは反対であり、何大將軍にその旨を進言したが聞き入られなかった。その他数人も反対したが何れも聞き入れられなかった」
 また一旦、発言が止められる。その際、子幹の顔に無念さが滲み出ているような気がした。
「つまり、京師の北西に位置する河東郡に駐屯する董公の軍勢を何大將軍は利用しようとした訳ですね。だが、それは返って何大將軍が董公に利用される危険を大いに孕んでいたと言う訳ですか」
 神妙な面持ちで伯圭は確認を取る発言をすると、それに子幹は「是」と応え、顔色を整え話を続ける。
「そのため、遂に招かれた董公は八関内の京師の西にある上林苑に駐屯し、橋府君は東の成皋に駐屯した。さらに何大將軍は武猛都尉の丁建陽を遣わし京師の北にある孟津を焼かせ、宦者を圧迫した」
 ここで子幹は顔を伏せ一呼吸置く。伯圭は核心に迫りつつ在ると感じる。
「しかし、何太后と何大將軍との間に隙が生じ、何太后は宦者側に着いていたようだ。八月に何太后は詔で偽って何大將軍を南宮へ呼び出し、宦者が何大將軍を殺した。それを聞き付けた袁本初の従弟である袁公路は南宮から宦者が出る様、九龍門及び東西の宮を焼いた。宦者の張讓等は勃海王から遷った陳留王と先帝とを北宮へ連れ去った。その時、吾は南宮に居て戈を執って後を追い、宦者の段珪に遭ったが何太后を放り投げられ楯にされ逃げられた。同じ頃、袁本初は北宮の南端にある朱雀闕に兵卒を率い駐屯し、北宮の門を閉じ、遂に宦者の虐殺を始めた。死者は二千人余りに為った」
 まるで早く言い終えたいとばかりに感情を抑え早口に子幹は告げた。伯圭は気付くと自分が悲痛で顔を歪ませ、口に出す語句を失っていた。それを察してか子幹は一旦、間を置くも話を続ける。
「張讓や段珪等は先帝と陳留王を連れ北宮からさらに北へ出て、穀門を通じ京師からも出た。吾はそれを追った。すっかり夜と為り河水の岸に到った。河南中部掾の閔貢は張讓の一行と遭遇し、宦者等を斬り殺し、残りの張讓や段珪等宦者は河水に身を投げ死んだ。夜が明け、兵卒を率いた董公と公卿百官が陛下へ奉迎に及び、宮へ帰還した」
 伯圭は若い時にその地で南の辺郡へ異動となる太守のために行った祭祀を思い出し、その馴染みの地で起こった惨事に信じられないと言う思いだった。気を現実に向け、子幹の沈黙に自らの理解を声に出して入れ込む。
「それだと先帝が董公とその軍勢と共に京師に帰還した時は、さぞかし董公が陛下の御身を救った様に見えた事でしょうね。董公の権勢が増す好機に成り得ます」
 伯圭の発言に子幹は重々しく「是」と口にする。
「その好機を土台に、京師へ入った董公は久しく雨が降らないのを理由に司空の地位に在った者を辞めさせ代わりに自身が司空と為った。何大將軍に代わり権力を握り始めた。九月に入り董公は先帝を廃し陳留王を即位させ様と自らの考えを漏らしていた。後から聞いたのだが、それに袁本初は反対を表明したが聞き入れられず、京師からの出奔に追い込まれたそうだ。出奔後に董公は懐柔策として上表で袁本初を勃海太守にし邟郷侯に封じた。他方、従弟の袁公路は後將軍に任命されたものの董公の禍を恐れ同じく京師から出奔した…」
 董仲穎が権力を掌握しつつある京師で、次々とそれに対抗できうる人物が出奔している状況に、二ヶ月も前の出来事だと言うのに伯圭は昨日今日の話として捉え両肩を震わせている。自分がその場に居合わせたら武力に訴えてでも仲穎の専横を防ぐだろうと想像した。
「…遂に董公は朝堂での百官議で先帝の廃立を欲した。勿論、吾は抗議し反対した…独りきりだったがな。董公は怒りを露わにし百官議を止めた。その後、九月二日に廃帝され先帝は弘農王と為り、陳留王は皇帝位に即した。それと歩調を合わせ、秉政に及んだ董公は幽州に居る太尉の劉伯安を、既に無くなって久しい大司馬と言う官職にし、空位と為った太尉に自ら就任した…」
 子幹の無念さが再びその顔に出る様に為っていた。伯圭は、それまで断片的に得て想像した京師の状況に比べ、子幹が語る現実はとても信じられる物ではなかった。思わず口を挟む。
「靈帝が崩御する以前に、張純の反乱を治めた功に拠り幽州の劉使君は幽州に居ながら最高位の一つである太尉に昇進しました。そこまでは知り得ていましたが、まさかさらに董公の政治的理由に拠り大司馬に着任した事実を今、初めて知りました。同時期に愚(わたし)は降虜校尉から奮武將軍に任命され薊侯に封じられました。その理由が董公に拠る政治的な理由でないのかと今、疑い始めています」
 伯圭の発言に子幹は真摯な表情を向ける。
「充分に有り得る話だろう。董公は雒陽に入った当初から州郡から名声の有る大夫士を多く招き官職に就けていった。もしかすると足下も目を掛けられたのかもしれない…」
 子幹の推測に、伯圭は無言で口を真一文字にして見せるだけだった。子幹は続ける。
「…一方、吾は百官議での抗議に拠り董公の目の敵にされ、尚書を罷免された。身の危険を感じたため、病気を理由に故郷の涿縣へ戻る流れに成った。密かな董公の追撃を知り策を弄してまでも司隷を脱した。以上が吾が知り得た京師での一連の出来事だ。吾が京師を脱出して二月も経つため、今はさらに董公の秉政が進んでいる事だろう」
 言い終え一呼吸し、子幹は皆の反応を伺った。その視野の中では、皆視線を外し考えている。その中で伯圭が子幹の目が合い、話し出す。
「仰るとおり、董公の秉政は進んでおり、先程も申し上げましたように十一月癸酉の日に相國と言う最高位の職に就きました。この官職も大司馬と同じく無くなって久しい物で、自らの権威付けや権力強化へ繋がっています。その前提に権力の有る者同士が潰し合いを演じ、且つ董公が権力の中枢に入り廃帝を提議した際にそれに反対した者は師以外無く、志の有る者は既に京師から外へ出ました。最早、陛下の威信は董公に拠り貶められ、皇帝権威の復興が難しい状況に在ると存じます」
 伯圭は苦々しく告げた。子幹はそこから眼差しを外さない。
「確かにその通りだ。しかも董公に反対する者が京師から出奔したため、最悪の場合、京師の火種が州郡へ新たに飛び移るかもしれない。足下もその覚悟をしておいた方が良いぞ」
 その閉塞感の有る発言で再び堂上に沈黙が訪れる。そこに居る誰もが張純の反乱で疲弊した幽州に再び戦乱に遭うのは避けたい所だった。気持ちを切り替え伯圭が沈黙を破る。
「そう言えば、今年の三月か四月に劉玄徳が京師に上がりましたが、お会いに為りましたか」
 話題を変え重苦しい雰囲気から一旦、離れようとした。子幹は朗らかな顔を見せる。
「靈帝が崩御する前に劉玄徳が訪ねに来た。そして近況も聞いた。長い間、仕官せずに居たとは聞いていたが、まさか軍功で昇進していたとは思いも寄らなかったし、足下の所で別部司馬として従軍したと聞かされた時は驚いた」
 子幹の年齢を重ねた顔に浮かぶ笑顔に、自らの教えと違う方法とは雖も弟子の活躍を喜ぶ気持ちが読みとれた。
「玄徳は四箇月間程度の短い期間でしたが、別部司馬として後続での役割を良く担っていました…」
 ふと懸念が心に過ぎり語句を飲み込む。その懸念を口にする決心をする。
「玄徳は依然、京師に居るのでしょうか。何の官職にも就いていないでしょうが、師の弟子ですので何らかの害が及ばないか心配です」
「その心配は無い。吾が京師から出奔する前に、玄徳は曹孟徳と共に既に脱出していた…」
 思わず驚きの顔を露わにする。曹孟徳は五年前に騎都尉として豫州の黄巾賊を討伐した者であり、伯圭の記憶に拠ると両者に何の接点も無いからだ。
「…西園八校尉の一である典軍校尉の曹孟徳を董公は上表に拠り驍騎校尉にしようとした。しかし、袁本初や袁公路と同様、京師から出奔した。それ以前に玄徳は偶々、曹孟徳に顔を繋いでおり、それだけで出奔に着いて行った様だ。どうなったか安否は判らない」
 子幹の表情が曇るのを認め、伯圭は間髪入れず安心させようと笑みを見せる。
「心配有りません。この数年で玄徳は黄巾賊や叛烏桓等、それ以上の危機に直面した筈です。巧く切り抜けて数年経てばまたひょっこり姿を見せるでしょう」
 その発言で子幹の表情に朗らかさが戻る。
「そうだな。その時を楽しみにしておこう」
 そう言って子幹は右の方へ顔を向け、南を眺めていた。
 それに吊られ伯圭も左を向き南の方を眺める。
 正堂の南には廷が在り、冷気の中で葉の無い老いた大木が在った。

節七

 南で大きい音がし、公孫伯圭は目が覚めた。
 近くに目を遣ると妻が眠っていたため、音は勘違いだと思いつつも、依然、薄暗い中、素早く単衣を纏い袍を重ねる。痛い程の冷気が漂う中で、何か異常はないか南へ進むと、正廷で雪積もる中、在る筈の物が無いのに気付く。薄く光る地の雪へ目を凝らすと、そこには倒れた大木が在った。
 辰時に大木を片付ける様に指示し、その作業を横目に正堂で庶務に就く。小吏や兵卒により、撤去作業が着々と進む。雲が少ない空の下で積もった雪はどんどん解けている。
 作業が終わる前に、小吏が来客を告げ謁と呼ばれる木簡を手渡す。伯圭はその謁に「劉玄徳」と言う姓字を見て、急ぎ歩き出し南下し前門を目指す。
 前門にはそれぞれ袴褶を着た男が六名居た。先頭に立つ大きい耳の目立つ男が劉玄徳だった。
「また来たか。いつも突然現れるな」
 悪態を付くかの様に伯圭は話し掛けた。六名は一斉に拝する。
「ご無沙汰しております。またお世話に為ろうと厚かましくも足を運びました」
 玄徳は決まりの悪い顔で言った。伯圭は粛し中へ招く。
 北を向いたまま廊を歩きながらも、伯圭は西の玄徳に話し掛ける。
「丁度、一年前に誰がここへ来たと思うか。驚くなよ。あの盧師が来られた」
 それを聞き、玄徳は驚きの顔を向ける。
「結局、雒陽を脱出できたのですね。僕が脱出した後に董卓の秉政により雒陽城内では厳戒態勢が敷かれましたので、心配しておりました」
 玄徳が憚りも無く董仲穎の姓名を口にした事実に、伯圭は隔世の感を抱いた。
 やがて閤門に到達し、大木の残骸撤去を横目に主客分かれ正堂へ昇る。堂上の東側の席には既に田楷、嚴綱、單經、公孫越、公孫範、趙子龍等が座っており、玄徳等と互いに拝する。伯圭は南面する榻に座り、玄徳は西の席へと北から順に並び座る。
「劉玄徳、では一年半もの間、足下が見聞きした状況を教えて貰おうではないか。足下の事だから何も起こらない場所に居た訳では在るまい」
 伯圭の眼差しは受け止められず、玄徳は正面の東に並び座る男の一人を見ている。その男は玄徳と同じく年三十前後だが、他者に与える印象が違い、玄徳の温和に対し厳格だった。
「その前に、張純の反乱の際に僕が会っていない者を紹介して頂けませんか」
 玄徳の願いに「諾(よし)」と応え話し出す。
「我が奮武將軍に任命された時に、その長史として配属になった者で、關靖、士起と字(あざな)す者だ」
 その紹介に応じ、關士起と呼ばれる男は立ち上がり拝する。
「公孫將軍の下に配属され一年以上に為りますが、これ程、意欲の沸く場は有りません。以後、靖をお見知り置きを」
 士起の声は溌剌としていた。玄徳は返拝し、着席すると再び口を開く。
「では、お教え致しましょう。盧師から聞いていらっしゃるかと存じます、僕は張純の乱が終結した後に、將軍が仰った様に見聞を広めるため、当時、京師たる雒陽に赴き盧師や有望な大夫士を訪ね回っていました。そして靈帝が崩御した後にご存知のような雒陽で政変が有り董卓の秉政に到りました…」
 伯圭は話途中で思わず口を挟む。
「そうそうそこだ。盧師の話では曹孟徳と共に雒陽城から出奔したそうではないか。その後、どうしたんだ」
 話を遮られて嫌がるどころか玄徳の顔はより活き活きとした物と為る。
「よくぞ訊いて頂きました。曹將軍との道中は董卓の追撃によりそれは何度も危険な目に遭いました。漸く曹將軍の故郷と成る豫州沛國に行き着き、そこで来るべき時に具え募兵し軍勢を整えました。そして年が改まり、同時に初平と改元された時に、事前に各地の示し合わせた結果、様々な州郡で打倒董卓への義兵を挙げました。その際に曹將軍は奮武將軍を自称しました。自称と正式な官職との違いが有りますが、奇しくも公孫將軍と同じ官職です。その他はほぼ元々の官職でして、具体的には…」
 語句に詰まらせながら、玄徳は瞳を小刻みに動かし思い出している。思い出せない様子に気を遣ってか、士起が言う。
「義兵を挙げた太守等から初平元年正月にここ遼東屬國にも書簡が届きました。それに拠ると、冀州の勃海太守の袁本初は勃海で兵を起こし州界を越え、司隷の河内太守の王公節と共に、雒陽を含む河南尹に北接する河内郡に駐屯しました。時を同じくして冀州牧の韓文節は冀州魏郡の鄴城に駐屯し、豫州刺史の孔公緒は豫州潁川郡の陽翟城に駐屯したと言います。知っての通りこの郡は河南尹に南接しています。書簡に拠ると呼応した人物は他にも袁本初の従弟の後將軍の袁公路、同じく従弟であり兗州の山陽太守の袁伯業が居て、さらに兗州刺史の劉公山、兗州の陳留太守の張孟卓、徐州の廣陵太守の張府君、兗州の東郡太守の橋元偉、兗州の濟北相の鮑府君が軍を率い酸棗に集結していました…」
 士起の発言を伯圭は強引に受け継ぎ言い放つ。
「酸棗の在る兗州陳留郡は河南尹に東接しており、正に関東の三方から雒陽が臨まれる形と為っていた。当に残念ながら、昨年、盧師が仰っていた京師の火種が州郡へ新たに飛び移る状況に成っている。これに足下も加わったと言うのか」
 玄徳は「唯(はい)」と答え再び話し出す。
「勿論、曹將軍も加わっているため、僕は軍勢を率い酸棗に行きました。しかし、諸將は一向に酸棗より西へ攻める気概が無く、徒(いたずら)に董卓を不安にさせるだけでした。その後はご存知でしょう」
 一旦、声を止め玄徳は先を言うよう促すかの様に周りを見渡す。真っ先に悔しさを顔と声に滲ませながら嚴綱は答える。
「今年の一月癸丑の日に董公は先帝の殺害に及び、雒陽城から九百里弱西の長安城へ遷都致しました。その後、雒陽城を燃やすと言う凶行に及び、董公自身は雒陽城周辺に留まり諸將に当たったと聞きます。」
「その通りです。そこで漸く雒陽を守る八関の東に居る諸將、つまり関東諸將は董卓を討伐する旨を明確にし結盟し、勃海の袁府君を盟主に致しました。そして袁府君は車騎將軍を自号致しました…」
 玄徳が承諾し体験を語るが、またも伯圭が発言で遮る。
「結局、ここ遼東屬國の地ではその後、具体的にどの様な戦いが起こったのか伝わっていない。簡潔に説明してくれないか」
 その伯圭の要求に玄徳は朗らかなまま「唯(はい)」と答え話すのを再開する。
「河内の王府君は兵卒を率い雒陽の北で東西に横たわる河水の北側の河陽津に駐屯しました。ところが董卓に拠り包囲され大破しました。一方、南方の荊州の長沙太守である孫文臺は関東諸將とは別に打倒董卓の義兵を挙げ北上し、荊州刺史や荊州の南陽太守の殺害に到りつつも、河南尹に南接する南陽郡の魯陽まで進軍し袁將軍と合流を果たしました。こう言った動きが返って董卓に凶行へ走らせた様です。これもご存知ではないでしょうか」
 今度は田楷が答える。
「董公は長安に居る、袁府君や袁將軍の親族を獄死させました。その中には太傅の袁次陽等、高官の者も含まれていたと聞きます」
「そんな凶行が起こって、関東諸將も黙っていなかっただろう」
 楷の回答に便乗し伯圭が新たな疑問を呈した。玄徳は答える。
「曹將軍は酸棗から西へ進軍し、河南尹の滎陽縣まで到りましたが、董卓の將、徐榮に大敗しました。再び酸棗で曹將軍に会った時、関東諸將は連日での宴会の最中でした。曹將軍はそれを責め一気に攻め上がる計をその場で打ち立てましたが、結局、採択されませんでした」
 何時の間にか玄徳は表情を引き締め語っていた。伯圭は胸の前で両腕を組み目を伏せる。
「董公の抜かり無い戦略により関東諸將は損害を恐れ酸棗より動けなかった訳だな。よく解った…」
 少し考え黙する間を空け、再び話す。
「薨去された袁公に拠り太傅は空位に為ったが、その後、董公はこれに大司馬の劉伯安を当てた。無論、長安まで道路が隔たり塞がれているため、劉伯安が長安に就かなかった。劉伯安は董公が太尉に就任する際も関わりを持った者だから、今後も天下の趨勢に関わってくるのかもしれない。劉伯安は我にとって先の張純の乱で煮え湯を飲まされた相手だ。そのため、あまり関わりたくはないが、同じ幽州に於ける廣陽郡薊縣に居るため、今後も重要人物として関わらざるを得ないだろう」
 敢えて大司馬や太傅の敬称である「公」を付けずに劉伯安を姓字で称し、苦々しい表情を浮かべていた。話し終えたのを確認し、玄徳は続ける。
「関東諸將が攻め倦ねて居た状況よりさらに悪く為りました。兗州の劉使君が東郡の橋府君を殺害しました。両者と僕は同じ酸棗に駐屯していましたが、それに到った直接的な原因は知り得ません。しかし、両者は互いに憎み合っていた状況は確かです」
 玄徳が話を止めると、楷が珍しく率先して口を出す。
「東郡の橋府君と言うと、昨年、薨去された何大將軍が宦者を脅すために董公と共に軍勢ごと呼び寄せた太守です。それだけ頼りにされていた太守が同じ会盟下にある者に殺されたとなれば、結盟の分裂も時間の問題だと存じます」
 その発言の直後に玄徳が高揚気味に話し出す。
「それです。僕がこの結盟に不信感を抱いた理由です。やがて分裂を起こし巻き添えを食うと思い、適当な理由を付け、軍勢を率い酸棗を離れました。僕にはどこにも居城が有りませんので、公孫將軍が居られる遼東屬國に伺った訳です。一早く、董卓と関東諸將の戦況を伝えるべく、軍勢の多くを部下に任せ、僕だけ騎卒を率いて先に到着致しました。年月は掛かるでしょうが、將軍ならばこの天下を良い方向へ導けると信じています」
 一気に玄徳は言い立てた。伯圭は視線を外し暫し考える。
「相変わらず調子の良い者だ。結局、我の言い付け通り雒陽に行ったのは良いが、また將士に為ったのでは盧師の教えが活かせず、余り意味が無いな。だが、足下の帰還はとても心強く思う。この先、天下がどう動くか予想は付かぬが、焦らず先ずは動向を見極める事から始めたい。それからでも充分、天下へ打って出られる。諸君、何年何月掛かるか判らないが、見極める期間を覚悟してくれ給え」
 話す毎に、その声は力強く為り、言い終えると、それが跳ね返るように、覇気の有る「唯」が皆の口から発せられる。
 伯圭は満足げに何度も肯く。
 気付かぬ内に廷に横たわっていた大木の残骸は完全に撤去されていた。

 遠くの空には積み重なった雲が在るものの頭上は雲一つ無い場だった。
 四方を帳幔で囲まれた中で、官吏二百人強が杯を交わす。
 武冠を戴く単衣の公孫伯圭と両梁進賢冠を戴く同じく単衣の田楷が並んで杯を交わし談笑する所へ武冠の公孫越が現れる。年を重ね膂力の衰えが判る両者と対照的に、緩い単衣からも逞しくなりつつある越の体が明確に表れている。
「漸くこの祖道で見送られる方の賓客が来たか。ゆっくりしていけ」
 先に伯圭から声を掛けた。その発言通りに越は二人の前の席に座す。
「自分が送られる祖道がこれ程楽しい物とは思いませんでした」
 座った後に越は笑顔を見せた。伯圭は遠い目をする。
「祖道で思い出すのが十五年前の祖道だ。やはりこの遼東屬國の昌遼城の郊外で行っていた。当時は遼東屬國校尉を送る祖道だった…」
 おっとりしていた隣の楷が突然元気に話し出す。
「然。あの時、初めて將軍とお話したのでした。今でも明瞭に覚えています。將軍は白馬義從の着想を話されていました。まさかその白馬義從が二年前までの張純の乱で大活躍を見せるとは思いも寄りませんでした。將軍の十年以上も先を見通す深慮に恐れ入ります」
 酒の勢いか楷は満面の笑みを浮かべ楽しそうに話していた。越がその会話に乗ってくる。
「その白馬義從の流れを汲む騎卒がいよいよ内郡へ進出します。張純の乱の平定以降、天下に表出しなかった將軍の武勇の一端をこの越がその地で確かに伝えします」
 興奮する越に朗らかな伯圭が大らかに話す。
「そんなに気負う事は無い。今回は兵事だけで無く複雑な任務に成っているからな。そのため、足下に劉玄徳やその部下、趙子龍等を付けた。迷った時はこの者等へ意見を求めると良い」
 その発言に越は俯き落ち着く。
「確かに複雑な任務です。復唱しますと、千騎を引き連れ荊州南陽郡の袁將軍の下へ赴き、そこに居る劉公の子である劉和を捕らえ劉公から派遣される兵卒を奪う様、進言し、さらに袁將軍の信頼を得るためにそこでの兵事に参加します」
「それは困難が伴うだろうが、だからこそ足下に任せたんだ。我の従弟であるため交渉の信頼を得やすいと言うのも有るが、ここ数年の足下に見られる判断や交渉の成長を見て取ったからだ」
 緩やかな伯圭の発言は途中より熱を徐々に帯びていた。照れた笑みを浮かべつつも越は話す。
「そこまで評価していただけると嬉しいです。しかし、あの劉公を押し退けてまで袁將軍の信用を勝ち取るにはどんな者でも難しいでしょうね」
 越の気が実際の任務に向けられたようで、緊張した面持ちを見せる様に為った。伯圭は苦虫を噛んだ様な表情をする。
「劉伯安か。もし劉伯安が長安の陛下を奪う様に為れば、名実共に絶大な権力を得る結果と成る。それこそ我が恐れる事だ」
 敢えて姓字を口にし吐き捨てる様に言った後、楷が神妙な面持ちで話を繋げる。
「劉公にとっての名実の実は長安の陛下を取る所であり、名実の名はやはり今年初めに劉公が即位に推された程の名声でしょうか」
 その問いに伯圭は苦々しい表情と共に「是」と言う。それを認めると楷は蕩々と話す。
「そもそも今上陛下から二十世前に劉姓である高祖が皇帝に即位された以後、子々孫々と受け継がれて行きました。皇帝へ即位しない劉姓の者でも血筋の近い者は王侯になり世々に伝わりました。いくら今の陛下に天下を治める力が無くとも現世に君臨する間は別の皇帝を立てる行為は大逆に当たります。昨年の冬十一月庚戌の日に鎮星・熒惑・太白の星が尾に於いて合わさり、その星の動きと功徳治行を理由に、冀州の韓使君と勃海の袁府君は今年の初めに、東海王の子孫である太傅の劉公を皇帝に即位させようとしました。これに対し袁將軍が異議を唱え、何よりも劉公自身が不忠だと言って使者を叱りつけました。その即位拒否が返って劉公に名声が集まりました…」
 楷が話すのを遮るかの様に伯圭が話し出す。
「仕方の無い事だろうが、劉伯安は若い頃から恵まれ過ぎだ。例えば、我の家では世を重ね二千石の官職に就くが、我の母は妻で無く妾で有ったため、我は郡の小吏と言う低い官職から始まり、五経を学び時には辺境で軍功を挙げ紆余曲折し漸く今の地位だ。しかし、劉伯安は縣の戸曹吏から始まり順調に昇進し、今や上公の太傅にまで上り詰めている。我の生まれではこの先、太傅にはとても手が届きそうに無い」
 興奮の伴う伯圭が話している最中に、越の隣には顔の火照った耳の長い劉玄徳が現れており、入れ替わり話し出す。
「劉姓と言っても天下には何万人、何千人居るか判った物では有りませんし、必ずしも育ちが恵まれているとは言えません。中山王の子孫である僕を見れば判るでしょう。幼い頃から父を持たず、親戚から金銭を出して貰い、漸く京師の盧師の下へ遊学できた程です。やはり劉公は実力有っての名声でしょう」
 それに対し伯圭は真摯な眼差しを向ける。
「だからこそ、劉伯安が陛下を長安から連れ出すのを阻止しなければならない。もしそれが成功したならば誰も劉伯安の権勢を抑え得なくなり、結果的に陛下を蔑ろにする結果に繋がるだろう。第一、張純の乱に於いて靈帝が武力の行使を望んだのに、劉伯安はそれとは真逆の懐柔策を選び、不忠どころか信用に値しない者だ」
 伯圭の熱弁に玄徳は神妙な面持ちで問う。
「そもそもどうして劉公が陛下を連れ出す動きになって、それを阻止する事態に為ったのですか」
 玄徳の疑問に楷が答え出す。
「聞く所に拠ると、田子泰と言う者が劉公の使者と為り、董卓の専政に伴い道路が断絶したため、塞外から遠回りで長安に至ったそうです。陛下は東への帰還を望んでおり、偶々、陛下の側近の侍中に劉公の子の劉和が就いており、特任を受け長安の在る司隷京兆尹の南端に在る武關に潜みました。そこで劉公からの数千騎の兵卒を待ち、合流すればそのまま長安へ上がり陛下を奉迎する算段と聞きます。武關の外側は荊州南陽郡であり袁將軍はそこを支配下にしており、そのため、袁將軍伝えにその状況を公孫將軍は知り得ました。公孫將軍は書簡を通じ、袁將軍を信頼できないと言う理由で劉公に派兵を止める様に書簡で忠告致しました。しかし、それは丁重に断られたため、今度は袁將軍側に着き阻止しようと謀りました。それが今回の任務です」
 楷の声に熱が込められる様に為っていた。越はそちらを見て発言する。
「そう言った状況で袁將軍を説得し得る方法が想像できないのですよ」
 気落ちした様子を見せる越に対し、伯圭は声を発てて笑い出し、そのまま話し出す。
「それは連日の会議通りだ。劉伯安が長安からの陛下の連れ出しを成功させると天下の趨勢がどうなるか説けばそれで充分だ。新たな董卓を司隷の外に作るとな。雒陽から死ぬ思いで脱出した袁將軍ならばその意味を即座に理解するだろう」
 伯圭は自信を顔色に出した。玄徳が話題に入る。
「新たな董卓を作らないために陛下の奪取を阻止するにしても、何れ本当の董卓を排除しなければいけません。かと言ってそれに向けて関東諸將を頼るべきだとは思いません。それは僕がお伝えした様に、既に内部で争いが起こっており、何時分裂するかと言った状況です」
 依然、伯圭は自信を保ったまま言う。
「それこそ各自が軍勢を率い長安へ進むのみだ。今、最もそれに近いのは孫文臺だ。袁將軍と合流し、豫州の孔使君が病死したため、長沙太守より近い豫州刺史を領する様に為った。恐らく雒陽に迫る勢いだろう。孫使君が荊州の南の長沙郡よりそこまで進軍したのを思うと、ここ辺郡の遼東屬國から長安まで必ずしも行けないとは思えない。董卓は西北の涼州で叛羌と戦い勝ち抜いた精兵を率いており、一方、我は東北の幽州で叛烏桓と戦い勝ち抜いた精兵を率いている。この両者の軍勢が激突すると考えただけでも身震いし興奮する思いだ」
 興奮気味の伯圭に皆、納得した顔を向ける。玄徳は声を挙げて笑いながらも言う。
「では今回は偉大な先陣と言う事で、何れ打って出る日に祝いましょう」
 そう言って玄徳は杯を前に翳した。伯圭は杯を受け取り、近くの瓶から酒を勺で掬い、それを玄徳に返す。同じ事を越と楷に行い、最後は自分の杯に酒を注ぐ。
「では我の軍勢の武名が天下に轟く第一歩としても、越と玄徳の旅立ちを祝す事にしよう」
 そう言って伯圭は杯を両手で持ち上げる。皆、同じ動きをし、一斉に杯を口に持っていった。
 視界にぼやけた杯の縁と、どこまでも高い空とが入っていた。

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