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節一

 男の両眼に草木の無い乾いた大地の上で集う人馬の大群が映っていた。
 その見慣れぬ群像は未だ小さく遠くに在る。
 しかし、若く猛る男は背に走る冷たい何かを感じている。
「退避だ」
 左右に言い放った後に、手綱を引き馬首を翻す。
 二つの耳で数十に上る蹄の音を認めつつ、二つの目は行く先を着々と探る。
 首を後へ振り一瞥すると、配下の人馬の向こう側に、粛々と異様な騎馬の集団が迫っている。
 心の内より沸き上がる恐怖を奥へと抑え込み、前に気を向ける。
「あれだ」
 後続の仲間に指し示すと言うより、自らを叱咤する声を放った。右手の先には小さな城壁が在り、その中央には無造作に開いた門が在る。
 若い男を先頭に城壁の内側へと駆け込む。
「後什長は今、通った北門、前什長は南門、左伍長は東門、右伍長は西門を閉じろ。残りは敵襲に備え亭内から武器を掻き集めろ」
 街路を疾走したまま、男は怒号を飛ばした。「唯(はい)」と方々から飛び返り、遅れて分かれた蹄の音が続く。
 先を導いた若き男は元来た道を駆け、城門前で馬から降り、楼へと掛け登る。城壁の上から外を視野に入れると、数百もの騎馬の大群がこちらを飲み込もうと押し寄せる。
 動悸を抑え込み、それを冷静に見据えようと努める。
「敵勢は鮮卑(せんぴ)族の騎馬で五百以上は迫りつつ在る。我等の数十倍だ」
 欄檻に寄りかかり城内楼下に集いつつある配下を見下ろしている。
「今、ここから逃げ出さなければ、乃ち全滅するだろう。これよりこの公孫伯圭(こうそんはくけい)が敵勢へ突っ込み道を切り開き、我等漢人の塞内へ還る。命が惜しければ、我に続け」
 溢れんばかりの内成る活力を声に乗せ吐き出した。公孫伯圭を名乗る男は楼から街路へと降りる。門を背に、集いつつ在る自軍の騎兵に目を向ける。視界に入るどの顔も死を覚悟した緊迫した物だった。
「矛を二つ寄越せ」
 公孫伯圭の命令に対し、直ぐに「唯」と声が返り、続けて二本の棒状の武器が手渡される。伯圭は立ち止まり、一方の武器の先で堅く縛られた縄を腰に帯びる刀で切り落とし、刃を解き取る。地に置いたもう一方の武器を持ち上げ、刃のない方の棒の先端に新たな刃を差し込み縄で固定する。総じて棒の両端に刃のある矛を伯圭は作り上げていた。
 その武器を携え、自らの馬に登り、深い一呼吸を行う。
「扃(かんぬき)を取り去り門を開けろ」
 良く通る声で発すると、後什長と呼ばれる男が門に架かる横木を取り去り、慌てつつも重々しく門を開く。
 門を通じ城壁の向こう側が見え、そこには鮮卑の騎兵が横へ大きく広がる。
「行くぞ」
 覇気を込めた声で自らをも奮い立たせた。
 自らの馬を前へ馳せさせる。上体を両腿で支え、両刃にした矛を両手に持ち構える。
 前へ進むたびに、左右から迫り来る鮮卑の騎兵の影が目に入り、急激に胸が高鳴る。
 やがて互いの武器が届く距離に入る。
「やっ」
 大声と共に伯圭は右斜めに矛を突いた。敵がそれを武器で払うより早く胸を刺し、鈍い呻き声を伴い落馬させる。勝利の余韻も無く、続け様に矛の逆端を左横に押し付ける。今度は狙いが外れたが敵の喉元に当たり致命傷を負わせる。通常で有れば、武器の両端に刃を付ければ自軍の兵卒を傷付ける危険が有るが、突撃で敵勢の中を縫う場合、こちらの方が効率的だと伯圭の狙い通りだった。
 背後へ聞き慣れた声の悲鳴が届くが、後ろ髪を引かれる思いを振り払い、気を前へ突破する動きに向ける。失速無く次々と左右の敵卒を戦闘不能にしつつ、やがて三方に誰も見えなくなった。
 達成感に満たされながら、馬の速さを緩めず己の成果を確かめ様と背後に目を遣る。視界の奥には猛る鮮卑の騎兵に拠る大群が蠢き、そこから手前まで途切れ途切れの馬の列が在り、それぞれの馬には辛うじて乗る漢人の姿が在った。漢人の中には明らかに絶命した者も居る。自軍の騎兵を密集させなかったばかりに、逆に敵軍の騎兵からその隙に入り込まれ列を分断させられていた。
 伯圭は前へ向き直り奥歯を噛み締めた。
「塞の内側へ帰還するまでが我の任務だ。暫し北へ向かった後、大きく迂回し南へ行く」
 目の前には荒涼とした平野が広がっていた。

 雲の無い青空の下、四方を帳幔で囲まれた中に、官吏五十人余りが杯を交わす。
 中でも二十代半ばの端正な顔立ちの男に人気が集まる。座するその男は、その頭を覆う黒い幘の上の前面で直角より鋭く折れ曲がった針金状の鉄の一本が出ており、つまり一梁進賢冠を戴いており、全身を覆う紺の単衣の腰元には黒色の綬を身に着けており、宴会に集う官吏の中でも最高位から二番目だと辺りへ告げる。
 人が途切れた後に、爽やかな音色が近付くのを耳にする。それは官吏で有れば必ず腰に佩びる玉が衝牙に当たる音だと判りそれに目を遣る。耳杯を片手に持った同程度の年齢で痩せ気味だが骨張った中背の男が近付く。その男は一梁進賢冠を戴き、より下位を示す黄綬を腰から垂らす。
 黒綬の男はそれに気付き、地に敷いた席から立ち上がり、跪き胸の前で左手を上に両手を組み、腰と水平に頭を下げ、所謂、拝礼を行う。それに対し黄綬の男も同じ動作を行い返拝を行う。互いに頭を上げた時、黄綬の男が謁と呼ばれる木簡を差し出す。それを黒綬の男が手に取り書かれた文字を目で追う。
「足下が遼東屬國(りょうとうぞくこく)の門下書佐と為る田楷(でんかい)か。知っていると思うが我は遼東屬國の長史と為る公孫瓚、伯圭と字す者だ」
 田楷と言う姓名の黄綬の男が地に座するのを見計らい、黒綬の公孫伯圭は語りかけた。田楷は応じる。
「勿論、存じております。卿が鮮卑との戦いで功を挙げておられる事実も存じています」
 楷の発言に伯圭は表情を引き締め両目を据える。
「では昨年の惨事も知るのだな」
「卿が数十騎を引き連れ塞外を視察した際、鮮卑数百騎に遭遇し包囲されましたが、卿の奮闘により鮮卑数十人を倒し、塞内へと帰還致し戦功を得ました。その後、卿はそれを教訓とし防衛する軍の強化に尽力致しました」
 楷の回答に伯圭は眉間に皺を寄せる。
「然。だが、肝心な事実が抜けている。昨年の惨事で我と共に偵察に行った騎卒の半分は帰らぬ人と為った。その後、己の無力を恥じたため、軍備を増強し、鮮卑が攻め寄せる度に撃退したまでだ」
「多くの人が犠牲に為ったのは仕方が無いと存じます。昨年の鮮卑は檀石槐(だんせきかい)と言う強烈な渠師により一つに纏まり強大な勢力を築きつつ在りましたが、当時、それが遼東屬國に届く程だとは塞内で誰も知らない事実でした」
 楷は慎重に語句を選びつつ反論した。それに対し一笑し、杯に残る酒を口にしてから声を出す。
「足下のその気遣いには感謝するが、我はそれを忘れようとは思わない。しっかりと心に刻みつけ、鮮卑にも比肩する騎卒を組織立てようと考えていて、いよいよそれを実現できそうだ」
 安心させ様と段々と表情を緩めていた。それを見た相手は顔よりも発言の内容に気が向き表情が固まる。
「騎卒ですか」
「然、騎卒だ。鮮卑は我等漢人と違い、騎馬に優れるのは明白だ。だからこそ、我は漢人による特別な騎兵隊を設けたい」
 煌めく双眸を向けた。対する楷は目を伏し一考する。
「陛下より遼東屬國を預かる一臣下としてそれは頼もしい限りです。では、卿の目下の任務として遼東屬國の長官である都尉の前任を宴で見送る今の祖道を楽しみ、卿の前途も祝いましょう」
 皇帝を「陛下」と尊称した楷の呼び掛けに伯圭は「諾」と応じ、近くの瓶から酒を勺で掬った。
 差し出された杯に伯圭はなみなみと注いだ。
 互いに杯を両手で持ち上げ、口に持っていく。

 北の辺境近くと為る涿縣(たくけん)と雖も、漸く陽射しが暖かく為った頃だった。
 鮮卑との戦いの功により公孫伯圭は涿縣の長官に当たる涿令と為っていた。着任より四回目の春を迎え、縣府の正堂で職務に励む伯圭は小吏より意外な報告を受ける。
 急ぎ榻から立ち上がり、腰に佩びる玉と衝牙の音と共に、履に足を入れ歩み出し堂を降り廷を横切り幾つかの門を潜る。前門の外へと出ると、年十五程のあどけない顔だが背丈は八尺と大柄な男が立っていた。
 その大きな身体は下に落ち込み、冠が無く黒幘が載る頭が下がり、拝礼の動作が為される。
 それを目の当たりにしても、辺りを窺ってから声を掛ける。
「隣國の常山國(じょうさんこく)真定縣(しんていけん)から吏卒の一団が来たと聞いたが、汝はそうではないのか。汝は何者だ」
 若い男の頭が拝礼から挙がったのを見計らい、質問を投げた。強い猜疑から声を荒らげていたが相手は動揺する素振りも見せない。
「趙雲(ちょううん)と申します。仰る通り常山國真定縣の一団百二十人が涿縣へ詣で上がりましたが、途中、黄巾賊の襲撃に遭い、長を含めた二割の者が害されました。そのため、皆の推挙により愚(わたし)が一団を率いていました」
 あからさまに思わず伯圭は眉を顰める。その惨事に向けてと言うより、趙雲と姓名を自称する若者が指導者に推挙された事実に疑念を抱いている。
「それは傷ましい。お悔やみ申す。その中で申し訳無い質問だが、百人近く居る一団で何故、汝が推挙されたのか」
 その質問に雲は若いが威厳が漂う顔に悲痛な表情を浮かべる。
「常山國の領内で行軍中、黄巾賊(こうきんぞく)に奇襲を受け、自隊は混乱に陥りました。しかし、愚は全滅を恐れ、声を張り上げ混乱する吏卒に指示し、陣形を築きその場を凌ぎました。もはや一団を統率できる者は無く、その主従の関係のまま、涿縣に上がりました。そのため、愚の本意と言う訳ではございません。常山國の吏卒は向こうの大街に待機させております」
 雲による悲しみの表情が凄惨な襲撃の記憶による物だと伯圭は理解し、同情を感じる。
「汝には辛い体験だった様だ。だが、暫し一団の代表を務めて貰う。先ずは正堂へ同行願いたい」
 胸の前で左を上に両手を組み伯圭は手で門内へ導く意を見せる。それに応じ、二人は並び中へと歩む。
 伯圭は左への横目で雲の未だ幼き顔を窺う。そこには行く先を見落とすまいとする眼差しが在った。それに吊られ前へ向き直る。雲の言及した「黄巾賊」は昨年二月に反乱を起こした百姓の集団であった。その数は数十万人に昇り、六州に及ぶ広い範囲に拡大していたが、官軍に各個撃破され、同年十二月にほぼ鎮圧され、そのため、元号が「光和」から平穏の意味で「中平」に変わった。しかし完全な鎮圧には到らず、返って涿郡涿縣に南接する常山國では次世代の黄巾賊が跋扈する程だった。
 幾つかの門を通り抜け、やがて二人は正堂前の廷へと出て、共に東の階から堂上へ昇る。伯圭は南面し榻へ座り、雲は北面し敷かれる席へ座る。左右の席には縣丞の田楷を始め官吏数人が座し、厳粛な場を醸し出す。
「常山國の吏卒が危険を冒してまでこの涿縣へ何の用だ」
 一段高い場の北から話を切り出した。
「半月程前に常山國の國相より所属する各縣の令や長へ命令が下ったと聞きます。それは各縣の吏卒を北接する涿郡の所定の縣へ合流させる命でした。ご存知の様に、常山國は褚燕と呼ばれる黄巾賊の渠師により蹂躙されており、官の輸送はほぼ分断されていると聞きます…」
 明確に語句を紡ぎながらも雲は顔に悲痛の色を浮かべていた。
「そこで常山國の國相は隣郡で再起を図るため、自軍を官吏ごと涿郡へ託したと言う訳か」
 意を察し、口を挟み伯圭は途中で発言を受け継いだ。「然」と答えが返ってくる。
「では、我の主導で責任を持って真定縣からの官吏や兵卒を我の縣で再編成し、常山國へ軍勢を向けると約束しよう。ご苦労であった。汝はもう責任を背負う事は無い。これからは一人の使男(こども)だ。だから、そう緊張するな。楽にし給え」
 安心させようと声に優しさを込めた。それが効いてか、雲の頬に涙が伝わり落ちるが、背筋を屈せず、その身体の大きさと気丈さを示したままだった。
「では常山國真定縣より来た吏卒はこちらから報せておく」
 その声は東側に座する田楷から出ていた。雲は涙をそのままで右へ向き直る。
「お気遣い感謝致します。しかしながら、吏卒への報告は仮の長としての愚の最後の任務だと心得ています。その後に一兵卒としてどこなりと配属させてください」
 そう言い残すと、雲は立ち上がり拝礼の動作を行おうとした。
「待て…」
 伯圭の一言で、既に跪いていた雲は立ち上がり席に座り直す。それを認め話を続ける。
「未だ加冠していないとは言え、真定縣の吏卒をここまで導くと言う大功を挙げた汝をそのまま一兵卒にする道理は無い」
 それを聞き頬を濡らしたままの雲の顔を強張る。
「では愚は何を」
 暫しの沈黙の後、雲の口から疑問の言が出た。
「十年程前に強大な勢力だった鮮卑に対抗すべく、当時、遼東屬國で長史を担当していた我は屬國内の者から騎射に優れた者を選りすぐり、我の門下に数十人の兵卒と白馬から成る騎兵隊を作った。それを我等は『白馬義從(はくばぎじゅう)』と称している。是非ともこの白馬義從に入って貰う」
 伯圭の熱意とは裏腹に、雲の表情は晴れない。
「愚はとても鮮卑に敵うとは思えません。それに愚は故郷の真定縣を蹂躙する黄巾賊を一掃しようと願い、この地まで来ました。それなのに…」
「早とちりするで無い。渠師である檀石槐が死んでからと言うのも、塞外に於いて鮮卑は一枚岩でなくなり内部で互いに潰し合いをしており、既に漢人の敵でなくなって久しい。一方、塞内では本来、辺郡へ徴発され戍卒や田卒として鮮卑等の異族から塞内を守るはずの百姓も巻き込み黄巾賊となって反乱を起こしている。そのため、今は黄巾賊を常山國から駆逐するのが白馬義從や涿縣の役目だ。汝には白馬義從の一員として黄巾賊討伐の先頭に立って貰う。無論、勝つために我等と共に訓練を受けて貰うがな」
 話を進める程、雲の顔に覇気が戻りつつあった。
「それならば、喜んで白馬義從に加わりましょう」
 再び立ち上がり同意と服従の意を込め拝礼した。
「では仮の長としての汝の最後の任務を終わらせた後、ここに戻って来るのだ」
 雲は「唯(はい)」と応じ、立ち上がり正堂を降り歩を進めた。
「時代は未だ白馬義從を必要としている様だ」
 行き去る背を視野に入れつつ伯圭は未だ厳粛さを崩さない田楷に零した
「力を尽くす余地が在ると言うのは幸福な事です」
 しみじみと返した。
 暖かい陽光の中で、二人は門から出る若い男を頼もしい思いで眺めていた。

 どこまでも高い青空の下で、白馬の上で精悍な顔を見せる公孫伯圭は刺さる様な陽射しを感じていた。
 兜鍪(かぶと)の影から向こう側で形作られた陣へ注意の眼差しを向ける。
「昨年の黄巾賊と違って、常山國の黄巾は群盗が転じた物と聞く。この隊列の乱れを目の当たりにすると納得できるな」
 誰に向けたとも明かさず呟いた。
「敵勢は質より量で来ます。こちらが作戦を考える間も無く押し寄せます」
 左に白馬と共に待機し、その辺りより高い背を見せる趙雲は律儀に話へ加わった。
「なあに、ここ十年間で鮮卑と戦って来たように騎卒の速さを活かせば、敵陣に開戦間も無く混乱を起こせるだろう」
 言い終えると深く呼吸する。
「攻めるぞ」
 敵陣にも達する様な大声で宣戦が為された。それに応じ左右から鼓の音が鳴り響き、全軍を前進させる様に急かせる。
 伯圭を先頭とした白馬義從が先ず前へ馳せ、左右に配された騎兵隊が後を追い、総じて楔の陣形と成り前進する。馬上全てでそれぞれ弓が引かれている。
「放て」
 伯圭の大声量は白馬義從及び左右の騎兵を効果的に動かした。楔の陣形から一斉に矢が前方へ飛び出て、間髪入れず次の矢の波が生じる。視界に黄巾を頭に着ける敵卒多数が地に伏す様子が入る。弩や弓での反撃を殆ど封じたと確信する。
「戟を取れ」
 次の命令が発せられた。それに呼応し、各々の馬上では弓矢が背負われた。続けて、突くための刃以外に引っ掛けるための刃が棒の先に付けられた戟と呼ばれる武器が両手に持たれ、接近戦への準備が一斉に素早く行われる。
 やがて楔の先が黄色の群に到達する。伯圭を始めに戟を左右に漕ぎ効率的に敵卒を払っていく。一撃を与えられるが、騎馬の速さにより反撃は受けない。白馬義從としては進む勢いが殆ど殺されず突き刺さる様を感じる。後方三方から悲鳴が飛んで来て、伯圭は自らの攻撃性が興奮と共に高まるのを感じている。
 黄巾賊の陣内での混乱がより白馬義從の進行し易い場を形作っていた。そのため、大した抵抗も受けず、涿縣の騎兵は黄巾賊の陣を突き抜ける。あたかも黄の砂地に白い杭が難無く突き刺さる様であった。
 騎卒との交戦中に、後続の歩卒が黄巾賊の陣に接近し、混乱からの立ち直りを阻止しようと目論む。伯圭は十年近くにも渡る鮮卑との激闘が強さへの血肉と成ると実感する。漢人で構成される反乱軍を凌駕していた。
 戦闘は二時と経たぬ内に終結する。多くの黄巾賊の兵卒は敗走したものの、その成果が甚大であると地に転がる敵卒の死体と数百の捕虜が物語る。
 そこは常山國の南行唐縣であり、目的地と成る真定縣へは依然、先であり、これから幾度も戦いを重ねなければならないと伯圭は承知していた。しかし、この初戦の大勝が後に続く連戦に大い成る勝機を呼び込むと感じていた。
「全軍、営に退却だ」
 大声を発した後、伯圭は白馬に飛び乗った。
 まるで祝福するかの様に、辺りは鐸の音で満たされた。


節二

 南から正堂へ射し込む鋭い陽射しで場は熱せられ、顔の精悍さを隠すかの様に俯き座る公孫伯圭の額に多量の汗を噴き出させていた。
 場には大きな布が広げられ、その上に木の棊(こま)が幾つも乗っている。汗を拭おうとせずにそこから眼差しを上げる。
「充分に議論は出し尽くしただろう。この隊列に隙は無い筈だ。これで反乱が起こっても致し方が無い。鎮静に尽力しよう。趙子龍、これで良いな」
 南面する伯圭の右の指先は「烏桓」と書かれた棊の一つに向いていた。一方、既に加冠を迎え「子龍」と字(あざな)が付けられ、背の高さに屈強さが加わった趙雲は北面し、慎重な面持ちを見せる。
「要所要所に白馬義從が配置されており、例え烏桓族の突騎が反したとしても直ぐ対応できるでしょう」
 決断を子龍は表情と声で示した。東側で南面する骨張った田楷は「然」と応え、続けて発言する。
「何れにしてもこれは黄巾賊との戦闘で功を立て名を挙げた涿縣が信用され託された任務です。呉々も落ち度の無い様に事に当たりたい物です」
 その発言に伯圭の記憶が呼び覚まされる。
「黄巾賊が蜂起して三年、我等涿縣が常山國で黄巾賊を討伐して二年、もうそれだけの歳月が経つとは感慨深い物が在るな」
 軽い笑顔を伴い発言した。対して怪訝な顔を返される。
「涿縣が信頼され仕事を任されるのは良いのですが、元はと言えば、黄巾賊が遠因と成り今の事態に為っております。それをお忘れなき様に願います」
 楷の渋々とした声に今度は伯圭が眉を顰める。
「遠因とは何だ」
 率直な問いに楷は先ず深い呼吸で間を置く動作から始める。
「三年前に起こった黄巾賊の反乱により、内郡から辺郡へ徴発される筈の戍卒(じゅそつ)の移動が滞りました。そのため、西北の辺境と為る涼州内の辺郡での防備は手薄と成り、その隙を塞内の羌族が突き叛乱を起こしました。二年前にはその討伐に車騎將軍の皇甫義真率いる官軍が京師から涼州へ向かい、叛羌を大いに破りました。しかし、依然、叛羌は涼州で勢力を保っており、皇甫將軍及びその後任で車騎將軍と為った張伯慎は更なる兵力増強を京師へ要請しました。そこで昨年、京師にて御前での百官議を行った所、北東の幽州の辺郡から烏桓族の突騎三千人を徴発すると決まりました。実際の徴発は昨年と同じく幽州の辺郡と為る、ここより北東に在る遼西郡が行い、それを涿縣が責任を以て涼州へ送り届けます。そのため、卿は都督行事傳と言う烏桓の監督権を陛下より仮されました。このように元々、黄巾賊の反乱が遠因と成った現状であり、乱の連鎖が起こっています。手放しで喜べない事態だと言う点をお忘れなき様、願います」
 楷は皇帝を「陛下」と尊称した上で伯圭の立場を尊重しつつ、「烏桓」の棊を掲げた。伯圭は両腕を胸の前で組んだ。
「なるほど。下手をすると我等の挙動が次の乱を引き起こしかねないと言いたいのだな」
 その確認の問い掛けに、「然」と返し、続ける。
「烏桓族は元々、鮮卑族と同じく東胡の出であり、昔、東胡が匈奴族に滅ぼされた時、その余類が各々、烏桓山と鮮卑山に依拠したのが始まりです。鮮卑と同じく騎射に優れ戦場では大いに活躍するでしょうが、元からして漢人と相容れるとは思えません。それに嘗ての鮮卑の檀石槐が有する勢力とは申しませんが、その何分の一かの勢力を持つ渠師が烏桓に幾つか出来つつあると聞きます」
 言い終えると、「烏桓」の棊を「白馬義從」や「騎兵」と書かれた多くの棊の間に在る元の位置に置いた。
「足下の言い分は尤もだ。しかとこの肝に銘じておこう」
 神妙な面持ちで伯圭は応じ、多くの棊が乗った布を一望した。
 何も起こらない事を願いつつも、耳へ入る蝉の鳴き声により心を高揚させていた。

 東の空を上る日で照らされる分厚く高い雲を背に、鷹が小鳥を仕留めた。
 それを吉兆と公孫伯圭は捉える。この季節は初めて鷹が鳥を摯す時であり、数在る若い將士や兵卒による初任務に相応しいと感じたためだ。
「先程、郡境の関を越えたので、いよいよ廣陽郡に入ったのですね」
 声と共に馬を横付けする若い男が真左に居た。声の元へ目を遣ると、上背は人並み以上だが未だ細い二十代の従弟の公孫越(こうそんえつ)だ。
「これが足下の初任務だ。少しでも功労を挙げ昇進するのだな」
 馬上から片方の口角を上げつつ励ましの言を口にした。
「任務の日数だけ増える労と違い、戦闘の生じない任務で功を挙げるには無理が有ります」
 自らの従兄に冗談っぽい笑みを向けた。態とらしく伯圭は少し苛立った素振りを見せる。
「その様な心構えが大事だと言いたいのだ」
「勿論、承知しております」
 両者とも声を挙げずとも笑みを絶やさず、和やかな雰囲気を作っていた。
 伯圭が馬上で振り返ると、数十の白馬を含む馬と各々に乗る兵卒、歩卒や荷車が順序良く列を為し続く。この秩序が何時までも塞内のどこまでも続くと願っている。
 涿郡を出て五里も過ぎない内に、前から官吏らしき者が馬に乗って近付いており、やがて伯圭の前で止まる。より低位を示す青紺綬を腰から見せる小吏は即座に馬から降り拝し、伯圭に木簡を両手で差し上げる。通常の書簡であれば、泥で封じた一尺の物であり、時には帛嚢に包まれ封じられるが、それは二尺程はある。伯圭は軍事的な事態を主に公へ報せる檄と呼ばれる木簡だと知り得、嫌な予感を募らせる。
 差し出された木簡に応じ右手で軍列を止める仕草をする。鐸が鳴り響く。馬から降り粛し、それを受け取り黙読する。一言告げ、小吏を下がらせる。
「何か重大な伝令ですか」
 背後から落ち着いた様子の声が掛かり、振り返ると細身の田楷が居た。一呼吸置いてから話し出す。
「廣陽郡で小さくない兵乱が生じている」
 伯圭は先ず事実だけ端的に伝えた。充分に事の重大性が通じると踏んだためだ。
「黄巾賊がそこまで北上したと言う事ですか」
 表情が強張った物に一変した。
「そうでは無い。その方がまだましだと思える事態だ…」
 もう一度、覚悟を決め、少し間を置く。
「…烏桓が叛乱を起こした。今回の徴発と無関係と思えない。正に我等が恐れていた事態が生じた訳だ。叛乱の連鎖が動いている」
 面を挙げ、相手を直視した。夏の暑さにより引き起こされた物とは別の汗が頬を下へ伝わる。
「それでは任務どころでは無いのですか」
 語義を荒らげ大声を漏らした。その楷の向こう側でこちらへ振り返る騎卒の多くの顔が見える。
「落ち着け。この檄はそれを報せただけでは無い。烏桓を率いる任務に就く部曲が廣陽郡の軍勢へ至急、合流する様、命令が下っている…」
 発する語句とは裏腹に、乱れた声と為っていた。
「直ぐにでも全軍へ事態を周知させ、將卒の意識を戦闘に向けさせましょう」
 馴染みの覇気有る声の方へ目を遣ると、事態を聞きつけたのか、気付かぬ内に大柄の趙子龍が場に居た。伯圭は意を決する。
「では任務に変更が有ったと、部曲全体に伝令だ。斥候を前方へ放ち、叛乱した烏桓の軍勢を警戒しつつ、行軍する。今日は大事を取って予定より早く屯営する予定だ」
 その命令に「唯(はい)」と応じ子龍は後方へ素早く歩き去った。
 伯圭は深呼吸し、楷へ向き直る。
「これから再び異族との戦いに突入する。以前と違い、塞内に為るがな。だが、我等にも過去十年近くも鮮卑と戦った経験と成果が有る。廣陽郡の兵乱の沈静化に力を尽くそう」
 他の配下に聞こえても良いという程の力強い声を放った。それに匹敵する程の覇気を伴い「是(はい)」と返ってきた。
 二人はそれぞれ自らの馬の背に戻る。伯圭は斥候を出す様に馬上より指示する。
 半時も経たない内に全軍へ伝令を届けたと報告が入り、伯圭は高らかに行軍の指令を出す。辺りは鼓の音で満たされる。
 眼差しの先には青空の中に大きな雲が浮いていた。

 空が赤く染まりつつ在る頃、涿縣の軍勢は郡境の関から二十五里程離れた廣陽郡廣陽縣に到達する。
 辺りに烏桓の軍勢を確認できないまま、廣陽縣城の西門を潜ると、その街にどこでも見られる活況どころか人の気配が無く、反って烏桓の到来を感じざるを得なかった。大街に軍勢を暫し進めると、一梁進賢冠を頂き黄綬を腰に着ける中年の男が数人を引き連れて向かって来た。
 それを見て取り公孫伯圭は右手で合図を後方へ送る。鐸が鳴らされ、行軍が前から順に制止する。伯圭は下馬し、黄綬の男の前で立ち止まり、互いに粛礼する。伯圭は相手の顔に疲労の様を見て取る。
「廣陽縣の丞だな。我は陛下より都督行事傳を仮せられた涿令の公孫瓚だ。烏桓の連行を命じられたが、道中で烏桓が叛乱を起こし、急遽、その討伐を命じられた。早速だが、叛乱した烏桓やこの縣の近況を教えて貰いたい」
「では、縣府まで来て頂きましょう。軍勢の方は身(わたし)の配下に案内させます」
 その提案に「善」と答え、背後で馬上に控える趙子龍や田楷に手で合図を送る。
 玉声と共に黄綬の男の歩くまま、伯圭は左横に付き従い歩く。一歩下がって楷が追従する。脇目も振らない男の窶れた顔に、一言も話し掛けるに到らず、黙々と歩く。やがて一つの門で立ち止まり、粛され中へと招かれる。
 そこは涿縣の府と特に変わりないありふれた縣府だったが、奇妙な静けさが在った。正堂の前の廷に辿り着くと、礼法通り先ず客人が東の階に昇る素振りを見せ主人がそれを固辞し、その後、主客分かれ東西の階を昇り、互いに拝し東西向かい合う席に座る。縣丞と為る黄綬の男による夕日に照らされる姿が目に入る。
「では話して貰おう」
 伯圭は内心で覚悟した。
「率直に申し上げましょう。ここより東の地域では反旗を翻した烏桓が官府に攻撃を加えており、そのため、縣長率いる廣陽縣の軍勢が救援に出動しました。しかし、残念ながらその行方を掴めなくなりました。数日前、ここより北東六十里に在る薊城が烏桓により攻められたと伝令を受けました。そこは幽州の州府、廣陽郡の郡府が在る重要拠点ですので、もしかするとその戦いに参加しているのかもしれません」
 言い終えたのを認め、伯圭は重々しく肯く。
「烏桓は何故叛乱を起こしたのか、ご存知でしょうか」
 伯圭の右に同席する楷が男に質問を投じた。
「直接の理由は未だ判りません。しかし、その徴候を耳にしております。昨年より徴兵され続ける烏桓に対し、その対価と為る牢稟が支払われず、そのため、昨年、一部の烏桓が勝手に帰還したと言う事件が生じたと聞きます。恐らくそれが叛乱の素地の一つに為ったのでしょう」
 落ち着いた声で黄綬の男より告げられた。愕然とし伯圭は視線を伏す。
「結局、兵乱の連鎖の結果と言う訳か」
 声に苛立ちを乗せ伯圭は誰に向けた訳でなく呟いた。瞬時に気持ちを切り替え、面を挙げる。
「兎も角、我等涿縣の軍勢は先ず薊縣に向かえば良いのだな。通常の行軍で二日の距離だ。早速、明朝に出発するとしよう」
 伯圭は話ながら、相手の表情が見る見るうちに曇っていくのに気付いた。
「お待ち下さい。烏桓の軍勢は数万とも言われています。今、薊縣に進めば全滅を免れません。そのため、ここ廣陽縣城で涿縣の軍勢を留め堅守する旨をご進言致します」
 それに対し、表情を変えない様に注意し、懐から一尺の木簡を掲げ見せる。
「先程も申した様に、我はこの様に陛下より都督行事傳を仮せられている。例えどの様な惨事が待ち受けようとも、一つの縣城に留まる行為はできない…」
 話し終える前に、遮るかの様に男は上擦った声を出す。
「ここには立派な城壁が在りますが、それに見合う兵卒が足りません。全軍とは申しませんが、何とぞ一兵卒でも多くこの縣城に軍勢を置いて下さい」
 男は紅潮させた必死な表情を見せ嘆願した。それをはぐらかすかの様に伯圭は長く一息を吐いてから返事をする。
「それは出来ぬ相談だ。元々、涿縣からの軍勢は敵勢と戦うための物では無く同行任務の物だ。加えて、我が軍勢は騎卒が戦いの要と成るが、それに続く歩卒が居なければ意味を為さず、そのため、一兵卒でも多く必要と為る。足下の廣陽縣を守りたい思いは良く解る。だが、我が軍勢を城内に留め守らせておくだけでは、騎卒の利が殺される。残念だが、義兵を募るなり自ら解決して頂きたい」
 言い放った後、暫し男は表情を強張らし呆然としていた。やがて、弱々しく「是(はい)」と返す。
「心配に及ばない。烏桓の叛乱勢力を破るまではいかないにせよ、こちらへ矛先が向かない様に誘導しよう」
 その発言とは裏腹に、それを実現する策も自信も無かったが、そう言って場を治めざるを得なかった。
 その直後、伯圭は立ち上がりその場を去る意味で拝礼する。同じ動作を楷を始とする従者も行う。東に座する男により返拝が為され、それを見て、堂から降り外へと歩みだした。
 すっかり日が沈み、暗闇が辺りを包もうとする中へ伯圭等は飛び込んで行こうとしていた。

 日が西の水平線へ近付きつつ在るが、依然、辺りを見回せる程度の時だった。
 涿縣の軍勢が廣陽縣城を出て二日目であり、後、二時経てばその日の行軍も終わる時刻であり、先頭の馬上で行く先を決める公孫伯圭にとっては烏桓の軍影を認めれば臨機応変に対処する覚悟が有った。
「あれは何だ」
 背後から大声が聞こえ振り返ると、声の主は東の方を指差していた。その先を追うと遠くの空の下から黒煙が昇る様が見える。
「全軍停止だ」
 伯圭の命令で即座に鐸の音が鳴り響く。遠くの煙を見据えつつ待つと、左右に田楷と趙子龍と言う見た目が対照的な両者が各馬を横付けする。
「我はあの煙の下へ赴き偵察しようと思う。恐らく薊城からだ。諸君は軍勢に対しここで屯営する様に指示を与えておいてくれ」
 その発言に二人の表情は共に曇る。
「ご自身で行くつもりですか。余りにも危険過ぎます。白馬義從の誰かに行かせれば充分ではないですか」
 淡々と子龍は告げた。
「自分の目で現状を確かめたいだけだ。それでも危険と感じるのなら足下が護衛として同行するか」
 馬上から探る様な目で右の子龍の顔を窺った。子龍は微動だに表情を変えない。
「ではそうしましょう。設営は愚(わたし)が居なくとも務まるでしょうし」
 その率直な回答に、伯圭は口を真一文字に結んだ。
「着いて来い。日頃の鍛錬を見てやる」
 そう言い残し、伯圭は馬を前へ駆けさせた。直後、背の方からの蹄の音を認め、加減無しに速さを上げる。
 行く道を視野に入れつつ、黒く染まりつつ在る空の下から目を離そうとしなかった。

 辺りが闇に包まれる中だが、公孫伯圭は道に迷わず目的地を目指し得ていた。何故ならば、東の空に在る雲が赤く照らされており、そこが煙の発生元と為るからだった。
 黒煙の下と為る場所を見渡せる丘の上に二人は馬を止める。伯圭の両眼には煌々と燃える城郭全体が映される。
「あれが薊城で誤りは無いのでしょうか」
 右から趙子龍は声に焦りを募らせていた。
「薊城だ。嫌な予感が的中した。塞内の光景とは思えない。あの戦火でどれだけの漢人が殺されたか判らない」
 苦々しく言い捨てた。
「これだけの規模の縣城を陥落できる軍勢ですから、一万は超えるものと存じます。他に官軍が居ないか探す必要が有るでしょう」
 暗闇の中、矢継ぎ早に子龍は告げた。
「否、他の官軍の動きを待って居られない。ここまで薊城を破壊したからには敵勢はここへ長く留まる気は無い筈だ。ここで攻撃する好機を逃したくない。涿縣の軍勢を成るべく薊城に近づけるつもりだ。勿論、斥候を通じ周辺の状況を探りつつ前進する」
 少しの考える間の様な沈黙の後、子龍は答える。
「では愚はここで待機致します。もし大きな動きが有っても涿縣の軍勢が到着次第、臨機応変に対応できる様にするためです」
 子龍の声色に自信が満ちていた様に感じた。大して間も置かず「諾(よし)」と応え、伯圭は手綱で馬首を翻し、帰路に着く。
 まるで惨事に背を向けた心地だったが、伯圭は必ず奪回すると内心で誓い、目は西南の闇の中へと向いていた。

節三

 皮肉に感じる程の雲一つ無い青天の下で、向かいから朝日を浴びる公孫伯圭(こうそんはくけい)は、慎重に馬を歩かせていた。
 その後には白馬義從を初めとする涿縣の兵卒が行軍する。
 行く先の暑い日の下から白い馬に乗り鎧を纏った背の高い男が向かって来る。それが誰かは伯圭は知っていた。
「薊城の監視ご苦労であった」
 目上の者として先に伯圭は声を掛けた。近付いて来た兜鍪(かぶと)の影から趙子龍(ちょうしりゅう)の顔が見える。
「斥候から報告が有ったかと存じますが、叛乱した烏桓の主力が東へ発ちました。しかし、依然、薊城に軍勢が残っています。このまま軍を進めると衝突は避けられないでしょう」
 馬で並進したまま、怪訝な顔を子龍は向けた。行軍の速さは緩まない。
「それはこちらの願い通りだ。少しでも追撃し、叛乱勢力の動きを止める。薊城まで残り五里も無い筈だ。所定の位置に戻るのだ。足下の務めに期待している」
 その命令に子龍は「唯(はい)」と返し、後の列へと馬首を翻す。
 やがて見覚えの有る雑木が生い茂る丘を右手に通り過ぎ、その向こう側に二里以上の横幅がある城壁が立ちはだかる。それが薊城だと伯圭は承知する。
「展開」
 伯圭による大音量での号令で、軍列に点在する担当の兵卒は鼓を一斉に叩き始めた。
 場に満たされた音を合図に長細い行列が順序良く左右へ広がって行き、陣形を見せる様に為った。伯圭は前列中央に白馬義從を置き、その先頭に自らが馬と共に立つ。前列左右に他の騎卒を配し、後列には残りの歩卒や荷車を配し、涿縣の軍勢千人強の陣形は整えられる。
「進軍」
 陣形が完成したのを見計らい、伯圭は次の号令を発した。再び鼓が規則正しく鳴り響き、全軍が前へと同じ速さで動く。馬上で先を見据えながらも城壁に等間隔に在る二つの門から敵勢が出てくる様に伯圭は願っている。何故ならば騎兵を中心とした涿縣の軍勢では攻城戦は不利だからだった。
 百歩も進まない内に、その願いは実現される。城壁の二門が開かれ、それらから騎兵がわらわらと溢れ出て、遅れて歩兵が出て、それ等が次第に秩序有る形と成ってくる。伯圭は胸の高鳴りを強く感じる様に為った。
 敵勢の陣形が整い、その総数が把握できる様に為る。それは二千程度と伯圭は見て取り、倍以上の兵力差の利を有するため、城外の平野で開戦しようとしたのだと推理する。
 敵勢は横並びの三つの群から成り、騎兵から構成された左右の軍勢が前に、歩兵中心の中央が奥へと配される。それは伯圭の記憶にある鮮卑の陣形と似ており、左右から官軍の後へ回り込む作戦を取ると確信する。
「左へ攻め込む」
 伯圭の号令と麾の指し示す方向で、予め立てておいた作戦の内一つが決められた。それに合わせ鼓の音は独特の拍子に為る。
 その音を認めた後、伯圭は自ら乗る馬を前へ駆け出させる。その馬頭は左の敵勢と中央の敵勢との何も無い隙間に向く。その場所へ白馬義從が馳せ進む間、左右の軍勢は衝突する。互いに騎卒を中心とした軍勢だが、数の不利により自軍が劣勢に陥る。持ち堪えられるかどうか考えると伯圭の胸の高鳴りが速まる。
 途中、何度も右後方を振り返り、歩兵を主とした中央の敵勢の動向を視認していた。それはより正確な位置を確かめると言うより、自らを安心させる物だった。中央の敵勢が戦線に到達する前に、白馬義從は左翼で交戦する敵勢の背後に到達する。
「放て」
 伯圭の発声により一斉に馬上から弓矢が放たれた。直ぐさま敵勢の動揺する様子を見て取る。
「突撃」
 弓から戟へ持ち替え、馬を渦中へと駆けさせる。一歩も遅れる事無く白馬義從が着いて来る。伯圭は作戦に於いての初めの成功を確信する。
 戦場の左側に於いて、敵勢は丁度、自軍左翼の騎卒部と白馬義從部の挟み撃ちに合う形となり、陣形を崩し混乱を生み出す。それを戟を繰り出す伯圭は敵陣を切り裂く中から強く感じている。
 伯圭が構想する作戦上、その敵の不利な状況が中央の敵勢の矛先を呼び込む。それを確認するため、隙を見て伯圭は振り返り後方を遠望する。その眼差しの先に敵の歩卒がこちらを向く様が見て取れる。歩兵中心で速さは遅い物の着実に左翼へと近付いているんだと確信する。
 眼前の騎卒と戟を交えながらも、敵勢の中央部が戦線に踏み込む直前まで引き込むように伯圭は根気良く粘る。伯圭の胸の高鳴りは再び速まる。
「離脱だ」
 頃合いを見計らい、自らを鼓舞するかの様に伯圭は大声を発し、前へと進む馬を大きく迂回させた。それに続く白馬義從共々、左の戦線から離脱する。その分、戦場に誰も居ない間が空けられる。
 中央の敵勢は大人数で急な方向転換が出来ず、そのまま白馬義從が居た場へ入り込む。再び白馬義從は大きく迂回し、元の方向へ向き直り、狙い通り矛先を歩兵中心の敵勢に変え再び突撃を仕掛ける。官軍は中央の敵勢を巻き込んだ形で挟撃に持ち込んだ。
 それに加え、自軍の陣形の後方から歩卒が戦線に到着しており、結果、戦場の左側において涿縣の軍勢は三方から敵勢を攻撃し、混乱が相俟って効果的に陣形を崩していた。
「勝てるぞ」
 高揚感から伯圭は叫び声を挙げた。その行動とは裏腹に、内心では冷静に作戦に於ける次の行動を起こす。再び大きく迂回し戦線を離脱し、白馬義從を率い、無人の野を駆け戦場の右側へと急行する。
 視界に入る右翼の戦況は、自軍が陣形を保つのがやっとと言った状態だった。それは伯圭の想定する所とは雖も、右翼の陣に趙子龍や従弟の公孫越が居り、心を痛める事実だった。しかし、焦らず冷静に在ろうと努め、右の戦線へ奥側から近付きつつ、最も効果が出る機会を伺う。
「放て」
 自らも弓を構えつつ言い放ち、一斉に馬上から矢を射た。直後に弓から戟に持ち替え、突撃へ備える。
 これが作戦に於ける勝利への総仕上げに成ると思うと、伯圭の全身は喜びで震えていた。
 日は既に雲一つ無い中空へと昇っていた。

 夕日を背に公孫伯圭は、鼻の奥まで入り込む様な焼ける臭いが満ちる大街を東へと歩いていた。
 目に入る焼失した廃墟の光景を目の当たりにし、伯圭はまるで悪夢の中の様に感じている。胸の辺りに手を遣り、鎧の鉄片を触感で現実である事を認める。
 やがて南向きの一つの門前で立ち止まる。そして門の上部を見て、そこが幽州府であると認め、足を踏み入れる。歩き進む廷では無造作に矛や弩が置かれており、州府が敵勢の軍営に使われていたと知る。州府の正堂へと足を向け、閤門を過ぎ中廷を横切り、誰も居ない正堂へと上がり、南面する榻へ座す。
 殆ど間を空けず、閤門の外から田楷が姿を見せ、同じく正堂へ昇り、東の席へ座る。伯圭は報告を促す。
「もう少しで趙子龍が連行して来ると聞いています」
 楷は率直に応えた。
 暫し間を空け、閤門の外から鎧を着けたままの趙子龍と兵卒数人が現れる。よく見ると、その数人は縄で両腕を背中に縛り付けられた男一人を連行している。その男は堂下の廷へ跪き、伯圭を見上げる。その姿は漢人の袴褶であり、顔も漢人のそれであった。
 右横に立つ子龍は言う。
「この者は敵勢からの捕虜です。ご覧の通り烏桓族で無く漢人です。どうも今回は単純な烏桓の叛乱ではなさそうです」
 跪く捕虜を見下ろした。
「今の叛乱の首謀者は誰だ」
 堂上から伯圭は捕虜に尋ねた。廷から男は睨み付ける。
「前の太山太守だ」
 直ぐに、それは誰だと言う意味で伯圭は左の楷に視線を送った。
「確か前の太山太守は張舉、子若と字す者です」
 小声で楷は答えた。それにより漸く伯圭は今回の叛乱が故(もと)の官吏であった漢人が扇動した物であったと理解する。
「何故、烏桓を巻き込んでまで叛乱を起こしたのだ」
 厳しい声で尋ねた。
「叛乱では無い。漢室に代わって天子に即位されたのだ。そのため地上の者を如何に扱おうとも勝手だ」
 男は怯まず良く通る声で淡々と答えた。天子は皇帝を意味し、明確に反逆する意図が汲み取れた。しかし、それだけでは反逆の理由が判らない。
「天子は京師たる雒陽におわす陛下のみだ。この幽州に居る理由は無い」
 反論を誘う様に、伯圭は吐き捨てる様に言い放った。
「幽州しか見えない汝等には判らないだろう。二年前、その雒陽に二つの頭を持った子が生まれた。それは天子が二人現れると言う予兆だ。それが幽州の陛下だ。その威信は塞外の烏桓をも平伏す程だ。そして天下に於いて近い内に頭は一つに為るだろう」
 男は面を挙げつつも伯圭と視線を合わさずどこか遠くを見ている様だった。それを見て取りそれ以上、聞き取れないと感じ伯圭は話を変える。
「ではその陛下は今、どこで何をして居るのだ」
「漢室の幽州府を破壊した今、陛下は東征し、先ずは烏桓の解放を行う」
 男の声に平静が保たれたままだった。その発言から伯圭は叛乱の首謀者である張舉が烏桓を引き連れ東へ行軍している事実を掴んだ。統治せず、ここ薊城の様に破壊し尽くし続けるならば、食糧を求め移動し続けざるを得ないのは道理だと伯圭は得心する。
「もう良い。その者を牢に入れておけ」
 伯圭が左右に告げ、数人の兵卒により即座に実行された。その姿が消えてから再び口を開く。
「我は一早く東へ行軍した敵勢を追撃したい。だが、その前に捕虜の扱いや薊城の復旧等の戦後処理に多くの時を費やすだろう。そこで薊城から四散した吏卒を優先して呼び戻して欲しい。涿縣の兵卒は優秀で千人も居るがそれだけでは何れ人手不足に為るだろう。それに薊城には幽州府だけで無く廣陽郡府も在り損じた吏卒は多大な物だ。何せそれら二つの各府の長たる幽州刺史と廣陽太守が未だ行方不明なのだから。失った分を少しでも復旧させたい」
 その指針に楷と子龍は共に「唯(はい)」と同意し、共に退出の意で粛し、背中を見せ遠ざかった。
 入れ替わりで荷を持つ兵卒数人が姿を見せ、伯圭は着いて来る様に指図し、奥の後堂へと歩き出した。
 自らの身を馴染みの無い夕闇へと投じた。

 日が中空に在り、暦の上では秋だと言うのにまとわりつく暑さを感じつつも、公孫伯圭は黙々と机上の木簡を手繰っていた。
 一段落し、ふと内心に東へ行った烏桓率いる張舉が過ぎる。涿縣の軍勢が薊城を叛乱勢力から奪還して半月は経つが、未だに出軍の準備が完了していない、と焦る思いを抱く。
 そんな折り、使者が来たと言う鼓声が耳内へ飛び込む。伯圭は左右の小吏に指図し、使者を通させる。
 開門するとそこには袴褶を着て武冠を戴く使者が居て、閤門を通じ廷を横切り堂上に現れ拝する。近くで見ると服は旅塵以外でとても汚れた物で、加えて所々の解れが目立つ。伯圭は返答し、用件を話す様に促す。疲労困憊と言った面持ちの使者は自らの印綬を見せ身分証明してから話し出す。
「右北平郡から来ました。十日前に烏桓の叛乱勢力が右北平郡府の在る土垠城を攻めました。その数は十万余りと見られています。数に任せた強引な攻城により劉府君が陣没し、愚を含めた十数人はそれを四方の官府へ告げるため、密かに土垠城を脱出しました。そして攻防戦の行方を見守りましたが、半日も空けず城壁の内への侵入を許し彼方此方で火の手が上がりました。率直に申し上げますと二日前に土垠城は陥落しました」
 途中、使者の声は震えだしていた。右北平郡は真東へ二つ隣の郡であり、その郡府の在る土垠城は薊城から東へ四百里程離れた所に位置する。また「府君」は太守の敬称であり、右北平太守が戦死した事実を伝えていた。それを告げる様子を見て思わず伯圭は立ち上がり傍に寄り励ましたい衝動に駆られたが、密かに深く呼吸しそれを抑える。
「その様な凄惨な場からの脱出と報告をご苦労であった。既に耳に入れたかもしれないが、ここは幽州府だが我は刺史では無く隣郡の涿郡涿縣の縣令だ。幽州刺史と廣陽太守は半月程前から捜索中だが、未だ発見されていない。半月程前に叛乱勢力により土垠城と同じくここ薊城は陥落し掠奪と放火により破壊し尽くされ、その後に涿縣の軍勢が到着した。そのため、刺史も太守もその際に陣没したのかもしれない。我としては今からでも軍勢を率い叛乱勢力に反撃したい。だが、尽力するも薊城は未だ復旧せず、残念ながら出軍もままならない状況だ。しかし、何時の日か足下の無念を晴らす成果を約束しよう。だから足下は先ずこの薊城にてゆっくり休養を執るが良い」
 労いの気持ちを声に乗せた。心の片隅で、恐らく反叛を起こした軍勢は逗留せず東か南に進寇し日が経つにつれ追撃がより困難に為るだろう、と感じていた。
 その後、まるで顔を隠す様に拝し、男は立ち去った。
 残された伯圭の両の眼に移っていたのは傷付き疲れ果てた背だった。

 昼間でも風に冷たさと乾きを感じる中で、公孫伯圭は玉と衝牙に拠る玉声と共に大街を東へ一歩一歩力強く歩いていた。官吏らしく紺の単衣を着てその上に袍を重ねる。その後を介者として連なる田楷、公孫越、趙子龍も同じ様な着衣と為る。
 やがて一つの前門に立ち止まり、見上げ「右北平郡府」と言う文字を捉える。その右に立つ門卒に粛し、取り次ぎを頼み、四人は門内へ案内される。
 幾つかの閤門を過ぎた後、中門を視界に捉える。ところがそこには八人の男が立っていた。近付くと、その中の四十代の男が両梁進賢冠を戴き腰から青綬を垂らすのに気付き、それが新任の右北平太守だと知る。近付くと相手も気付き、二つの集団が互いに拝する。
「さらなる東征についての会合のため、この仮の郡府に招聘した所で申し訳無いが、足下に別の用件ができた様だ」
 互いに頭を上げるなり、太守は話し掛けた。
「別の用件とは何ですか」
 唐突な話に気が回らず単に聞き返した。
「門内の正堂に勅使が来ておられる。我にでは無く足下にだ」
 太守の回答が暫く信じられず、妙な間が空き、漸く「唯(はい)」と伯圭は応える。それを認め太守は話を続ける。
「足下の昇進についての詔書だ。この中門を越える前からその心積もりの下で動くのだ」
 太守の発言にまたしても驚きを隠せないで居た。そんな厳粛な場ならば、尚の事、勅使の前で粗相は見せられない、と伯圭は緊張し、中門の前へ歩を進め、慎重に立つ。連動し太守等と伯圭の介者は後ずさりし間を空ける。
 閤門の向こう側の堂上に南面する勅使の姿が見える。
「謝します」
 伯圭がそう発声すると、左より勅使の従者が近付く。その間、別の従者が賛意を声に乗せ発している。捺すと「騎都尉章」と篆書体で記される銀の章と青の綬を篋より取り出し伯圭に授ける。それはまるで京師の御前の簡易版を見ている様な心地だった。
 続いて伯圭は紳に着けた涿令の銅印黒綬を取り外し従者へ手渡し返還する。そうするとその従者は後ずさりする。
「前へ」
 閤門の向こう側の堂上から声がした。それに従い、拍子が一定の玉声と共に伯圭は廷を横切り、堂下へと歩み寄る。目を伏せているために視界の上端に辛うじて入った使者の口が開かれる。
「公孫瓚は薊城に於いて二箇月前の中平四年六月に叛烏桓を討伐し多大な功を挙げた。因って騎都尉の官職を授ける。その職責の下で、続けて叛烏桓の討伐に従事して貰う」
「謹んで承諾します」
 伯圭は返答し、跪き地に頭を接し直ぐに上げる拝礼、所謂頓首を行った。その後、閤門の外へ出て、太守の傍へと近付く。
「東征についての会合は日を改めよう。そちらの事情にも変更が有るだろう」
 太守が告げ伯圭は「諾」と返事する。
「致はこの通り用意できた」
 「致」と呼ぶ木簡を伯圭は太守から授かった。拝し外へ向かって歩き出す。それを三人の介者は後を追う。
 致は冠を購入する際の証と為る。致を手に伯圭は或る市門を通り過ぎ、幾つもの市肆(みせ)が居並び、多様な売品で目に賑やかな大街を歩き、首を動かさず目で探る。左側に覚えの在る書が書かれた看板を見かけ、その市肆の前に立つ。多くの絹が置かれた奥に座する商人が拝し、伯圭は粛しその返礼とする。
「この件で汝の市肆を訪れた」
 紳から致と幾つかの銭を出した。商人は致を両手で授かった後、牀と呼ばれる坐台から立ち離れ、より奥にある篋から武冠を取りだし、伯圭の前まで歩み寄る。武冠は赤幘が基本でその上に籠状の網が乗る。そこで漸く騎都尉に就任したと言う実感が沸いてきて、その感動を面に出さない様、伯圭は片手に無造作に受け取り肆から遠ざかる。年月を重ねより痩せ骨張りが強調された田楷が伯圭の左横に出る。
「騎都尉と言えばいわば皇帝直属の羽林騎を監督する官職です。それ程、陛下は今回の反叛を重く見ており、卿を信頼し期待している証左だと存じます」
 興奮を声に乗せていた。感情を面に出さない様に努めていた伯圭の顔にはにかんだ物が広がる。
「それはどうか判らないが任命された以上、尽力するまでだ。無論、騎都尉とは雖も、この非常時に於いて、京師たる雒陽から羽林騎が援軍として来るとは考えられない。だが、我の官職を口実に軍備増強に向けた募兵や軍資調達ができそうだ」
 話し終えると、日に日に膂力が漲る体となる公孫越が右横に出る。
「実際に騎都尉に就任した者がその様な軍事行動を起こした過去は在ったのでしょうか」 歩きながらもその問いに顔を向け、暫し考える間を見せる。
「良い疑問だ。二年前に黄巾賊が各地で蜂起した際、騎都尉が京師から出軍した実績を思い出した。当時、京師の東南に位置する豫州は黄巾賊の進寇に晒されていた。京師から当時、左中郎將だった皇甫義真と右中郎將だった朱公偉と言う者が派遣され賊軍に逆転し、続けて京師から騎都尉の曹孟徳と言う者が援軍として派遣され、豫州の平定に大いに貢献したと聞く。京師からの軍事援助が殆ど期待できない我とは単純に比較できないが、それだけ縛りを受けず職務に専念できる官職だと言えるだろう。都督行事傳を持たない単なる涿令のままで有れば、郡境を越えての救援もままならなかったかもしれない」
 気付くと進行方向に顔を向け遠い目をしていた。
「騎都尉と言う器は出来ましたが、それに入れる中身、つまり兵数は二箇月前の薊城での戦闘と変わらず未だ足りていません…」
 聞き慣れた楷の声が左耳に飛び込んで来た。
「…一度に全兵数が戦う訳では有りませんが、張舉の軍勢の総数は十万人余りと言われており、今の千人強ではとてもその一角をも崩せないかと存じます。現に護烏桓校尉や遼東太守の陽府君は戦没しました…」
 楷が話す最中に、伯圭は或る門前で立ち止まる。吊られて他の三人も立ち止まる。伯圭は顎でその門前を指し示す。仮の軍営とする邸宅に到着したと意味していたが、それより話を続けたいと言う意志を楷の姿勢から感じ、仕方なく応じる。
「そうだな。次の目標は右北平郡府の在った土垠城の奪回だ。土垠城は右北平郡の東端にあり、ここ無終城は同じ右北平郡に在るとは雖も、郡の西端に在り、二百里以上も離れている。張舉はさらに二百里東へ離れた肥如に駐屯すると聞く。そこは隣郡の遼東郡だ。張舉により他の郡への進寇を牽制するためにも土垠城を奪回したい所だが、足下の言う様にこのまま進軍すれば陽府君の二の舞に為り大敗するだろう。そのため騎都尉としては前へ軍を進めるより先ず無終城で兵力の充実を優先させるつもりだ」
 自らの考えを披露すると、楷は暫し考える素振りを見せた。その後、「是」と応じる。伯圭は安心したと言う笑みを見せる。
「では、後は邸宅の正堂で詳しく論じよう。何も寒風で体を冷やす必要も無い」
 笑顔を絶やさない提案に、楷は己の過ちに気付き照れ笑いを伴い「諾」と口にする。
 四人は共に門内へと足を踏み入れる。騎都尉としての初任務に気を引き締めた。

節四

 未時、馬で寒風に逆らい進む公孫伯圭は土煙の上がる東を目指していた。
 後を追う肩幅の広い趙子龍は馬の速さを増し、左横へ来る。
「これ以上近付くと、あの大軍に見つかります」
 緊迫した声色で子龍は訴えた。
「斥候の報告通りで有れば、あれは十万人強の行軍だ。近付く蟻を象が気にするとは思えない。全貌が見えるまで近付くぞ」
 伯圭の発言に「唯(はい)」と子龍は納得した声を挙げ、後追いの位置へ下がる。
 漸く土煙の根本に在る軍影を捉える。見える右端から左端まで兵卒の姿で埋まっている。行軍による地鳴りを耳で聞くと言うより、体全体が揺れる心地だった。より近付き、兵卒一人一人が見える位置まで到達する。着実に左から右へと歩んでいる。兵卒の姿は烏桓の物ばかりだったが、時折、漢人の服が見える。こちらへ気付く者も居るが全く動揺が広がる様子は無い。
「叛乱勢力は薊や無終の西方へ向かわず南方へ向かっている。これはどう言う事態か」
 異様な大軍の奇妙な行動を目にし、内心で疑念が沸いていた。
「このまま南へ行けば、海に辿り着きます。恐らく海岸線沿いに西南へ行き、漁陽郡へ入りさらに南下し冀州勃海郡を目指しているのでしょう」
 危機感からか子龍の声に熱が込められていた。それを受け伯圭は語る。
「新たに編成した軍勢でせめて東進し土垠城を奪回しようと思っていた。だが、敵勢が全軍を以て土垠城を過ぎ去り南進すると有れば、意味が無い。単に後塵を拝するだけだ。敵勢は向かう所、敵無しで次々と官軍の防衛線を突破するからだ」
 思わず右の拳を強く握り、奥歯を強く噛んでいた。
「ではこのまま見過ごすと仰るのですか」
 子龍は語義を荒らげた。悔しさを押し殺し語句を出す。
「今の段階で攻めれば、全軍で反撃に遭い、この二月間の努力が無駄に終わる。ここは付かず離れずの追跡を行い、攻撃の機会を窺う。今は辛抱の時期だ」
 子龍は深く呼吸し、「唯」と応える。
「では、急ぎ自軍に戻ろうではないか。これは我が軍勢だけで対処できない問題へと発展している。州郡や京師の協力も視野に入れた戦略を立てたい」
 力強い声と共に馬首を翻し、伯圭は元来た道を引き返した。
 寒風を背に、何時か再び相対すと心に誓い西方に目を向けていた。

 帷幕で風を防いでいると雖も、冷気が中まで染み込んで来る。
 軍営内で武冠を戴き袴褶を着て公孫伯圭は南面し、数人の將士と共に大略を練ろうと話し出す。
「先ず敵勢の確認だ。敵の渠師を挙げてくれ給え」
 命令を伴う伯圭の視線に角張った体格の田楷が応じる。間に広げられた布の地図上に文字が書かれた木の棊を置き始める。
「先ず前の太山太守だった張舉が皇帝と僭称し名目上の領袖ですが、伝え聞く所によると、事実上、前の中山相である張純と言う者が彌天將軍安定王と自ら名乗り全軍を取り仕切る様です。そして軍勢の主力はご存知の通り叛烏桓の勢力です。今判る範囲では、幽州遼西郡にて集落五千を領し王を自称する丘力居、並びに幽州遼東郡にて集落千を領有し峭王を自号する蘇僕延が、張純の誘いに乗りこの進寇軍に加わる物と思われます」
 四つの棊を伯圭は地図上の冀州勃海郡の北端に置いた。
「皇帝に複数の王か。まるで漢朝とは別の朝廷を築こうとする勢いだな…否、実現の可否は兎も角その様な名目で反叛を起こしたのだろう」
 暫し沈黙を置いて考え込み、再び口を開く。
「今頃、敵勢はこの棊の様に勃海郡に入ったばかりだろうが、黄巾賊の反乱で疲弊した軍勢で防ぐ訳だから、容易に内郡があたかも無人の野の如く進寇されるだろう。加えて今の所、敵勢に兵站線が見られないため、行く先々で徹底した掠奪が行われるだろう」
 伯圭の顔に傷ましい色が滲み出ていた。神妙な面持ちで子龍は意見する。
「ならば、渠師それぞれが別行動を起こすでしょう。勃海郡の東側が大海であるため、それ等が西側の冀州の他の郡やさらに南の青州へと進路を取る可能性は大いに有ります」
 伯圭はそれを聞き取ってから、見慣れぬ男二人に目を遣る。
「嚴綱、單經はどう思うか」
 嚴綱と言う姓名で呼ばれる逞しい体と髭を持つ三十代の男は覇気の込めた声で応じる。
「敵勢が分かれて行動するならば、より戦い易く為ります。追撃し一つ一つ潰しましょう」
 單經と呼ばれる小さい四十代の男は淡々と進言する。
「一方を追えば、他方を追えないのは道理です。騎都尉の軍勢だけでは対処できないため、檄を飛ばし各地の官軍の協力を仰ぎましょう」
 満足気に伯圭は笑みを浮かべる。
「両名の意見は共に尤もだ。新たに門下吏を増やした甲斐が有ったと言う物だ。では幽州の各郡は元より、冀州の各郡や青州の各郡に檄を飛ばし加勢と補給の両方の協力を仰ごう。それだけでは心許ないため、上表し京師から協力の詔書が下るよう取り計らおう」
 その発言に応じ、楷が「官軍」と書かれた棊を各郡へと置いていた。それを伯圭は眺め意を決し再び口を開く。
「反叛勢力は連戦連勝で十万余りも在る強敵だ。官軍に於いて士気が上がらないため、新たな人材が集まらないだろう。それを少しでも緩和するため、私的な人脈を使い、各郡の將吏へ書簡を送ろうと思う」
 伯圭の伺う眼差しに先ず楷が応じる。
「それは如何程の効果が期待できるのでしょうか」
 伯圭は顎を突き出し話し始める。
「今でこそ白馬に乗って辺境を駆け回る日常だが、若い頃、我は長い間、京師へ遊学していた。多くの大夫士がそうで在るように、我も高名な人物に師事し五経を学んだ。だが、多くの者が一人の者を師事するのと違って、我は二人も師事した。それは尚書の盧子幹と、一昨年に薨去された劉文饒だ。二人の門下生の数は相当な物で、加えて州郡の重任に就く者も多い。先に挙げた三州で仕官する者、または無官で三州に住む者だけでも協力を促す書簡を送れば、人材面で官軍が強化されるだろう」
 伯圭の伺う眼差しの先には楷による納得の表情が在った。
「それで在れば納得できました。是非、その様に推し進め下さい」
 楷の発言を受け、伯圭は勿体ぶって無言で周りを見渡す。そうすると、その場に居た將士等が口々に賛成の意を唱える。
「では決まりだな。州郡とは今後とも連携を取っていきたいと考えている。挟撃や包囲等、有効な戦略を打ち出し得るからだ。では、それ等の州郡の加勢は返事待ちに為りそうだが、次に騎都尉の軍勢をどう進軍させるか、共に考えようではないか」
 伯圭の合図により、楷は「騎都尉」と書かれた棊を地図上の幽州右北平郡に置いた。
 その棊の先に在る「張純」の棊を伯圭は凝視していた。

 乾いた秋風から避けようとせず、公孫伯圭は柵越しに東方を見つめていた。
 荒野の向こう側には軍営が在り、そこに張純と二万強の大軍が駐屯すると知っていた。
 ふと気配を感じ後へ振り返ると、血色の良くなった骨張った体の田楷が近くまで来ている。先手を打って伯圭は問う。
「中郎將の孟使君がお呼びだろうか」
 中郎將に就いていた孟益と言う姓名の者に官職に対する敬称の「使君」を付けていた。
「解っているのでしたら、直ぐに来て頂けると手間が省けて助かります」
 率直に苦言が呈された。
「決戦は明日だ。何も今日、急ぐ事は無い。それでも急かす者は己の権力を誇示したいだけだろう」
 片方の口の端を上げ、皮肉で返した。楷は鼻から強く息を出す。
「では、卿は明日の決戦の地を一望し、作戦を練っている最中だと言う認識で宜しいでしょうか」
 質問に微かな笑みが伴った。考える素振りを見せた後、答える。
「呼び出しに遅れた理由としてはそれが最適だろう。だが、実際には対峙する軍営を眺め、ここ一年の己の行動に対して感慨に耽ている」
 その発言に楷は深く頷く。
「幽州涿郡涿縣を出発してから一年以上経ちますから納得できます。卿の妻子と離れたのもそれと同じ歳月ですし、明日で一区切り着くかもしれないと考えると余計にそうなんでしょう」
「一区切りは着くだろうが、この反叛が終結するとは思えない。叛烏桓の渠師の丘力居率いる軍勢は別行動で未だ内郡深くに逗留しているからだ。だが、それ以外の多くは今、平野の向こう側に駐屯している。その一所に追い込むまで我がどれ程の労力を使ったかと思うと、感慨に耽たくも成る」
 何時の間にか伯圭の視野は敵勢の軍営に向けられていた。
「この一年、時には州郡の協力を仰ぎ敵勢を包囲し撃破したり、時には態と隙を見せある所に敵勢を誘導したり、様々な方法で幽州以北に敵勢を追いやりました。さらに申し上げますと、それら多くの苦労が実り、ここ幽州漁陽郡平谷縣まで追い込みました…」
 伯圭は楷に背を向け、一言も返さずに居たが、密かに笑みを浮かべ耳を傾けている。
「…それだけで無く、明日の決戦を勝利に導く決定的な策略を卿は成功させました。敵勢に、遼東屬國から来た烏桓の渠師の貪至王との内通に成功したため、戦闘が始まると敵陣で造反が起こり、内外からの攻撃により壊滅に追い込めるでしょう」
 伯圭は喜びを心の奥に押し込め、口を真一文字に結び、振り返る。
「そうやって我に正当な評価を与えてくれるのは、足下を始めとする我の配下のみだ。残念ながら、成果を挙げる度に、我の権限が縮小している様に思える」
 感情が露わに為らぬ様に声を抑え語った。楷は意外だと言わんばかりの表情を見せる。
「涿令から騎都尉へと昇進され、権限が拡大しただけの様に思えましたが」
「騎都尉に為り確かに権限が広がった。州郡へ檄を飛ばせ得た。だからここまで張純を追い込めた。だが、戦い続けている間に、我の上官として中郎將の孟使君が着くように為り、決定権は使君が持つように為った…」
 「中郎將」は皇帝の側近官である中郎が軍勢を率いる將と為る者であるため、その立場は騎都尉より上位に在った。
「…四年前の光和七年に起こった黄巾賊の反乱に於いて、左中郎將の皇甫義真と右中郎將の朱公偉の下へ、京師から派兵された騎都尉の曹孟徳が就き、豫州の反乱は平定された。だが、それは既に左右の中郎將が反乱討伐に従事していたと言う前提が在り、初めから中郎將が指導する立場に居たからこそ、成功したんだ。ところが現状はその逆であり、目下の反叛を理解しない中郎將が後から着任し、一年も戦い続けた騎都尉を無理解にも振り回している」
 伯圭の吐露に楷は唖然とした顔を向けるしか出来ないで居た。伯圭は僅かな沈黙の後、それを埋めるかの様に続ける。
「縛りはそれだけでは無い。幽州府の在る薊城に新たに幽州牧の劉伯安が着任し、我等と無関係に反叛を鎮めようと動きを見せる。そのため、極端に言えば、こちらで張純に戦いを挑もうとする他方で和平を結ばれると言う行き違いが生じる恐れが有る。連携を取ろうと進言するも孟使君はそれを許さない。全く不安材料が多すぎる」
 気付けば、まるで自らを嘲笑うかの様に伯圭は顔を綻ばし話していた。幽州牧は今年に幽州刺史を改称した物で、それまで州下の郡を監察するのが主な任務だったが、統治する任が加えられる様に為り、幽州に派遣された中郎將と騎都尉に対し軍事面での競合が予想される。
 表情を引き締め楷は言う。
「薊城は昨年、卿が奪還した縣城でありますが、今は既に別の主が入っています。時世は動く物で、数々の試練はこれからも続く物なのかもしれません。挫けそうに為るかもしれませんが、それらの試練を正面から受け止めた上で、塞内の反叛を鎮静し治安の復興を目指しましょう。それこそが遼東屬國で卿が白馬義從を設けた一番の意義だと存じます。例え恵まれない上官や友軍だとしても、卿には余所より優れた部下が居ます。共に苦難を乗り越えて行きましょう」
 楷の眼差しは真摯に伯圭へ向けられていた。暫くの間、無言でそれを見返している。
 やがて下を向き一つ息を吐き、再び楷を見る。
「有り難う。そこまで我を信頼していたとは。心から感謝する。だが、我が白馬義從を設けた一番の理由はそんな志の高い物ではない。唯、目の前で馴染みのある者等が殺されるのが心底、嫌だと思ったからだ。目の前で部下をみすみす殺される己を許す事はできない」
 自らに対しての厳しい気持ちが顔に漏れていた。それとは対照的に楷は笑みを零す。
「それでこそ公孫騎都です。安心いたしました。やはり卿は心から信頼できる人物です」
 意外な発言に初めは驚きを隠せないでいたが、やがて伯圭は肯く。
「そこまで言うのであれば、我は安心してこれからも戦っていける」
 その発言に楷は満面の笑みで肯く。視線を奥へ外し伯圭は再び開口する。
「では、さっさと目下の敵である孟使君と相対し、明日の勝利へと繋げよう」
 その前向きな提案に、楷は「是」と返す。歩き出した伯圭は楷の左側を通り過ぎる。
「敵扱いは言い過ぎですが、そのお気持ちをお察しします」
 伯圭の後を楷は小走りに追った。
 着いて来るのを信じ、振り返らず一歩一歩力強く踏み進めた。

 雪混じりの吹き下ろしが次第に止み、山上を見上げると広がる暗雲から一条の光が射していた。
 その光の先で殆どが烏桓の兵卒で構成される大軍が方陣を形作る。
「やっと張純を追い込んだと言う実感が沸いてきました」
 その声の主へ、敵勢を馬上から見上げる公孫伯圭は振り向いた。発言主である馬上の趙子龍は同じく山頂の方向を精悍な顔で見据える。
「本来ならば緩やかとは言え坂の上に居る軍勢が下る勢いの分、有利なのだが、負ける気がしない」
 再び坂の上の敵勢を見据えた。左に気配を感じ、目だけ動かすと、そこに馬に乗る強靱な体を持つ嚴綱が居る。
「漁陽郡の決戦からこの遼東屬國の石門山まで連戦連勝です。この一戦で逆賊の張純を仕留めましょう。使君があの決戦の功で、陛下より中郎將に任命された今、誰の伺いも立てず全軍を以て攻撃できます」
 唾を飛ばしつつ鼻息荒く綱は告げた。中郎將の敬称である使君で伯圭を称していた。
「その元気の良さは頼もしい限りだ。足下の活躍を我の采配で充分に活かそうではないか」
 笑みを零しつつ、その勢いに吊られて大きい気持ちに成っていた。
「使君、手筈通り歩卒に出来る限りの弩を配し、騎卒には弓を配しました」
 従者の耳打ちを受けた子龍が告げた。伯圭は表情を引き締める
「いよいよ戦闘開始だ。敵は大軍だが山上に居るため横に陣を展開できず退けず、密集形態を取り静観せざるを得ない。そのため、敵は我等が動き出すのを待ち構えており、こちらが陣を展開させれば、敵勢は全軍を以て突撃を仕掛けてくるだろう。作戦通り、そこが我等の付け込む所だ」
 左右の二人の男に説明を博した。それは自らへの作戦の確認を意味していた。伯圭は麾を振り上げ、大きく息を吸い込む。
「展開」
 その大号令に多くの鼓がけたたましく鳴り出し、後方へ波及する。
 左右翼の騎兵は断崖や森林で途切れる丘の地の端を沿いつつ前進し、敵陣の左右に回ろうとする。一方、伯圭率いる中央の白馬義從は各々その場で反転し坂を下り歩卒の隙間を通り過ぎ、後方へ向かい、その結果、敵勢の前には大きな空地ができる。その空いた所に吸い込まれる様、敵勢は歩騎一丸と為って坂を下って突き進む。
 白馬義從が後方へ到達すると、歩卒は各々、騎馬の進路を防ぐ鹿角と呼ばれる尖った柵を設置する。その間にも、敵勢の騎卒が先行し自陣へ迫りつつある。自軍の歩卒の指揮は田楷が取っており、作戦通り、直前まで弩の弦が弩機に引っ張られ矢が設置されたまま放たず、敵勢を引き付けている。
「放て」
 後方に居た伯圭の耳にも号令が届いた。平然と迫りつつある敵勢の馬の進路が前から乱れて行き、やがて混乱とも称せられる戦況と為る。歩卒の弩と騎卒の弓とでは射程距離に差が有り、敵勢からの騎射では自陣の歩卒に矢が届かない。さらに混乱は前からだけでなく左右からも起こり始める。それは左右から進行させた自軍の騎卒による騎射で引き起こされた。
「我等も戦線に赴く。進め」
 伯圭の号令で白馬義從は前へ進み出した。自軍の歩卒の右側を通り抜け、混乱極まる敵陣へと迫る。
 山の坂を駆け上がる伯圭は雲が去る空を視野に入れていた。

節五

 平野の雪を掻き分け、漸く設営を終わる頃には闇に覆われていた。
 それでも公孫伯圭は設営監督の場から苣の灯りを頼りに幕府へと戻る。
 そうすると幕府の帷幕の前で四人の袴褶の男が待っていた。近付くと、先頭に立つ男の顔に見覚えがあると気付く。戴いた両梁進賢冠の下で、今にも肩まで耳たぶが垂れ届きそうな大きな耳が印象的な顔だった。
「劉備」
 伯圭は見知った男の姓名を思わず言い放った。四人が一斉に拝する。再び立ち上がった頃を見計らい、伯圭は粛し、中へと招く。
 帷幕の内側では燭が点されており、所々に席が敷かれる様が照らされる。伯圭は東側を北へ歩き、反対の西側で劉備と呼ばれる男一行は歩く。伯圭は一番奥の南面する榻に座り、劉備等は対面する席に並んで腰を下ろす。
「足下とは盧師の門下で学んでいた時以来だから、十三年振りに為るんだな。我と足下が共に学んだ時期は半年も無かったが、今でも昨日の事の様に思い出せる。それ程、印象的だった」
 自らの師匠に当たる盧子幹を思い出し、遠い目をして朗らかに語った。しかし、備は緊張した面持ちで立ち上がり一尺の木簡を差し出す。それが刺と呼ばれる物と知り、受け取って燭の火を頼りにまじまじと読む。
「劉備、玄徳と字(あざな)し、年二十八か。それに青州平原郡の高唐令とは昇進した物だ。当時、足下は加冠しておらず字も無い年十五の児(こ)だったと言うのにな」
 刺を右手に持ちながら、にやにやとして劉玄徳の顔を伺っていた。玄徳は照れながら応える。
「昨年、張純の乱が三州に広がりつつあった際、卿が盧師の門下に出した書簡は、どこにも仕官していなかった僕の下へも届きました。それを見て一介の什長でも良いので何かしら反叛の討伐に加わろうと思い、青州で叛烏桓と戦ったり、黄巾賊を討ったり、その他の賊とも撃ったり歴戦しました。そうやって紆余曲折し何とかその官職にありつけました。しかし、赴任地と為る平原郡は丘力居の軍勢に進寇を受け治安が悪く、結局、弱体化した縣の軍勢が強まる賊に敗れ、帰る宛が無くなり、こうして使君の前に数騎を引き連れ来た訳です」
 その発言に対し口元を綻ばせながら目を細める。昨年、張純の乱を鎮めようと多方面へ書簡を出し続け、意図しない形であるとは言え、それが今、実ろうとする結果に感慨深く思っている。その様な美談からふと伯圭自身を「使君」と言った現実に気が付く。
「もう我が中郎將だと聞きつけているのだな。そう言った根回しの良さは懐かしい。して我にどうして欲しいのだ」
 伯圭が口にした最後の語句で、玄徳は燭の影からでも判るぐらいの明るい表情を瞬時に見せる。
「そう仰って下さると話が早いのです。是非、僕をこの軍の將士の末席にお加え下さい。僕も僕の配下も戦闘経験は豊富です。青州で烏桓とも戦った経験が有ります」
 こちらまで汗をかく汗をかく様な熱気で玄徳は訴えかけた。焦らしたい衝動を抑えつつ伯圭は返答する。
「善いだろう。我から上表し足下を中郎將の別部司馬に就けよう。任命の詔書が下りれば、その時に高唐令の印綬を返還すれば良い…」
 その快諾に玄徳は底から安心したと言う笑みを見せた。しかし、伯圭はそこで話を終えない。
「但しこの反叛が鎮静すれば、足下には職を辞して貰う。盧師の下で五経を学んだ者が一介の將士に就いてるのは、適材では無いし、何より盧師に顔向けができない。反叛が終わればこんな辺郡に留まるのでは無く、京師に行き世の見聞を広めると良い」
 伯圭の言い付けに、玄徳は「是」と即答しその場で立ち上がり拝した。頭を上げる頃に伯圭は笑みを見せ再び話す。
「では仮の別部司馬である足下には後続の輜重の護衛に当たって貰いたい…」
 具体的な話に為ると判断してか、玄徳は懐から版と呼ばれる一尺の木簡と筆を取り出し、書き留めようとする。その動作を待ってから説明を再開する。
「…先の戦闘で大勝したものの、張純を取り逃がした今、その行方を追っている。その過程で足下との因縁も深い丘力居の叛烏桓と遭遇した。連戦し連勝し目下追撃している。だが、騎卒中心の敵勢に対し、一般的な歩騎混成の自軍は追い付けないで居る。そこで一時的に自軍の騎卒だけを先行させようと考えている。足下にはその騎卒では無く後続の歩卒や輜重の部曲に着いて貰いたい」
 話し終えると、版に書き終えた玄徳は遅れて「唯(はい)」と返した。伯圭は頬を緩ませる。
「では、堅苦しい話はここまでだ。折角、盧門下の兄弟分が十三年振りに再会したのだから、この十三年間、どう過ごしてきたかお互いに話し合おうではないか。勿論、足下の配下も話に加わって貰おう。」
 その提案に玄徳は満面の笑みを伴い「唯」と応えた。
 左右に顔を向け、暗がりの中でそこに居合わせた面々を一望し、口を開いた。

 夕闇の曇り空の下、公孫伯圭は半里程先の城門が開く様を凝視する。
「進め」
 白い気を辺りに吹き漂わせ、馬上から号令を発した。鼓の音共に規則良く順々に城内へと行進する。次第に視野の中で城壁と開かれた城門が大きく為る。
 半時も前で無い頃に、伯圭の歩卒は城壁を乗り越え内側から門を開け、城内へ大軍を雪崩れ込ませ、丘力居率いる敵勢を駆逐した。遼東屬國の石門山での大勝利以来、自軍の士気は高騰し行方不明の張純を探し出す勢いのまま、他の反叛勢力に対し凄まじい追撃を繰り広げていた。それは遼東屬國の境を北へ越え、遼西郡へと入り、標的と為った丘力居の軍勢の壊滅まで残り一歩まで迫った。
 しかし、殆ど騎卒で成り立つ丘力居等烏桓の軍勢の退却は速く、輜重と共に移動し補給路を確保しながら追撃を試みる伯圭率いる官軍は追い付く事すらまま成らなかった。そこで伯圭は輜重を置き去り、一気に敵勢へ迫った。追い付いた先が管子城と言う所であり、半日も経たず落城させたものの、またも反叛の渠師を取り逃がした。
 今、その管子城の南門を複雑な思いで伯圭は通り過ぎた。漢朝の支配外と為る塞外へはもうそこまでの位置であり、逃げ切られてしまうのではないかと焦りを感じている。
「戟や弩の武器は殆ど有りませんが、食糧は数日分有る様です。輜重を率いる歩卒がここへ追い付くまでは飢える心配は無いでしょう」
 中央辺りまで来た時、徒歩で走り寄る大きく逞しい趙子龍は告げた。
「それは田楷と劉備が指揮を執っていたな。仮に敵勢が接近する事態が有っても、事前に察知し切り抜けられるだろう」
 馬上で安心させようと笑みを浮かべた。
 駐屯のための設営を行わせつつ、並行し別の兵卒に城内に民衆以外に敵卒が潜んでないか、調べさせる。苣の灯りの中、設営が終わり、外に向けた衛卒以外、全軍休眠に入った。
「府君、城外に軍営が現れました」
 その声で伯圭は起こされた。外は未だ暗く鶏鳴時だと理解する。
「直ぐ楼へ向かおう」
 管子城を奪取して一夜しか経っていないと言うのに、軍営が見えたと言う報告に嫌な予感を募らせていた。動き易く袴褶に着替え武冠を戴き外へ早足に歩き出す。
 門卒にどの楼か聞き出し、暗がりの中で大街を南へ急ぐ。途中、それに気付いた兵卒の多くから粛され、その都度、横目に流していた。
 やがて、城門の前まで到達し、脇の階を昇り城壁の上の楼へと駆け上がる。楼上では岩の様な体で存在感の有る嚴綱が既に居て、こちらに気付き互いに拝するも、再び口を半開きに唯、外を眺めるだけだった。伯圭はその視線を辿って、外を眺めると、そこに異様な光景が広がっていた。
「城壁から半里も離れてない場所に軍営が連なっている。東南と西南を見てみろ。軍営の列も柵も北へ折れ曲がる。つまりはここ管子城が一夜の内に包囲された可能性が在る」
 自らの発言に伯圭は身震いする思いだった。綱の目に光が戻り、自らの上官の顔へ向き直る。
「今まで戦った敵勢より少し数が多いだけです。撃って出れば容易に大破できるでしょう」
 その力強い発言も伯圭の心を動かすに到らなかった。急がず城外から視線を横へと移動させる。
「あれだけ城壁に接近して居れば、こちらが城門から出ても即座に対応できる。つまり大軍を外へ出し騎卒の速さを活かす前に端から順に矢や刃で地に倒されてしまう…」
 伯圭が話す程、綱の表情は険しい物へと変化する。事の重大さを噛み締めながら分析を続ける。
「…管子城に数日分しか食糧が残されて居なかった理由が解った。我等をここへ釘付けにするためだ。敵勢にとって管子城を包囲する時さえ有ればそれで充分だった訳だ。我等に食糧が尽きるまで管子城に留めておくつもりだ」
 声を震わせながら告げた。
 やがて朝日が左から見えるも暗雲が頭上に集まりだし、大粒の雪が強風と共に降り出した。

 管子城に到達してから百日余りが経とうとしていた。
 既に年が改まり中平六年と為り、公孫伯圭は年三十九に為り、北の辺境でも寒さが緩やかとなる春三月に為っていた。しかし、そんな状況も今朝からの激しい冷雨により忘れさせるに充分だった。
 正堂の榻に座る袴褶を着る伯圭は、目を瞑り背筋を伸ばし少しも動かないで居た。
「使君、宜しいでしょうか」
 その声で目を開けると、前に袴褶を着た趙子龍が座っていた。着る物だけで無く伯圭と同じ様に伸びたままの鬚髯(ひげ)の上からも解る窶れた顔を向ける。元々大柄な体だけに衰えが強調される様だった。「善(よし)」と答え話の先を促す。
「使君よりご命令通り、部曲の間で各々の軍馬を交換し、それを殺し馬肉を食し飢えを凌ぎましたが、それも今や食べ尽くしつつ有ります。中には馬肉が尽き、弩や楯を煮始める者も出てきたと聞いています。一方、ここへ来てから救援の官軍が来たと言う話は耳にしません。そのため、何もせずに居るのは意味が無く、城内の全員が飢え死ぬ前に何らかの策を講じなければなりません」
 差し迫った内容とは裏腹に淡々と子龍は話した。愛着の有る自馬を食すのは抵抗が有るだろうと配慮し、伯圭は他の一団の馬と交換する様、命令を下していた。その策は無意味に成りつつあり、遂に食べられない物まで手を付けようとする者も現れた。やがて内心で決意し、強張った顔の筋肉に注意しながらゆっくりと口を動かす。
「遂に馬も尽きつつ有るか。このままでは刀や戟も煮ざるを得ない状況に成るかもしれない。そう為る前に全軍一丸となって包囲を突破しよう。明朝に決行だ。鶏鳴時に南門前に集まる様に全軍へ通達だ」
 その命令を聞き力無い笑顔を返し、子龍は立ち去る意味で拝し、堂を降り雨の中で去って行く。長きに渡る睨み合いにより敵勢が戦いへの準備を怠るだろうと言う僅かな希望に伯圭は賭けている。
 翌日、日が昇る前に一万強の兵卒が南門に集まった。皆、兜鍪と鎧を着け、手に武器を持っているが、それに力は無く両手を垂らし両肩を落とし背を曲げ立つのがやっとと言った状況で佇んでいる。最早、気力しか残されていないと判断し、それを少しでも元気付け様と伯圭は皆の前へ出る。
「諸君、いよいよ管子城を去る時が来た。依然、丘力居率いる叛烏桓には敵わないだろう。だが、一丸と成れば、必ずや包囲に穴を開け、この地より帰還できる。突破した後は官軍の兵卒として諸君に命令を課さない。つまり、各自が生きて帰る行為が最後の命令だ」
 声を絞り出し、大声を出した。それに呼応する悲鳴の様な声が所々で挙がり、それがうねりと成る。
 軍勢の規模や相手の異族が全く違うものの奇しくも十四年前に塞外で伯圭が鮮卑と遭遇した際と似た状況に成っていた。当時、異族である鮮卑との力の差を痛感し、白馬義從を設立した。しかし、今やその白馬すら影も形も無く馬肉と化し誰かの胃袋に消えていた。その運命の皮肉に伯圭は声を出し自嘲したい心地と成ったが、思い留まり気を門外へと集中させる。
「扃を取り去り門を開けろ」
 そう言うと、一人の兵卒が門に架かる横木を取り去り、慌てつつも重々しく門を開く。
 門を通じ城壁の向こう側が見え、そこには敵陣の柵が横へ大きく広がる。
「行くぞ」
 そう左右に言って、伯圭は戟を両手で持ち走り出した。
 柵に一早く着く様に全力で走るが、久しく体を動かさず加えて飢えによる膂力の低下により、年三十九の体は走行に見えない遅さで進んでいる。しかし、その力の衰えは城内の全員に訪れており、結果的に、皆、示し合わせた様に同じ速さで敵営へ進む。
 幸運にも敵卒の姿が目的地の軍営から現れず、包囲突破への希望が繋がる様に感じる。やがて伯圭等最前列は柵に到達する。敵勢が漢人の軍営の様に深く広い塹や強く高い土塁を築かず、馬の進路を防ぐのみの柵である状況に安心し、勢いのまま、柵を倒しに掛かる。後続の者は柵沿いに横へ走り別の柵を倒しに掛かり、突破口を広げる。
 柵を倒し、伯圭等最前列が内側へ入る頃、漸く敵卒が帷幕から姿を見せ始める。構わず伯圭は高揚感を持ったまま再び走り出し、自軍の兵卒がそれに続く。まるで虫か獣の大群の如くに密集して突き進む。顔を見せた敵卒は成す術も無く倒され踏み付けられるか、そのまま退散するかのどちらかであった。
 軍営の外側の柵に到達し、瞬く間に勢いづく兵卒に再び柵は倒され、先に到達した多人数で脱出口を確保する。再び自軍の兵卒は解放へ向かって走り出す。一里程敵営から離れて振り返ると、依然、柵の穴から自軍の兵卒が出て散開しており、叛烏桓による追撃に向いた恐怖が背中を冷たくする。
 走っては振り返りを繰り返す伯圭は漸く自軍の兵卒による行列が途切れたのを視認し安堵する。気付けば、東の空から日の姿が見え始めており、上空からは大粒の雨が落ち始めている。見る見る内に足元が泥濘始め、敵営から離れようにもどんどん体力が奪われる。敵勢の追撃を恐れつつ振り向くと、それが現実化したかの如くに敵営から数匹の馬が駆け出している。いよいよ犠牲者が出ると覚悟した。
 ところが、もう一度、振り返ると、それらの馬は伯圭の元へ向かっている。胸が急激に高鳴り、立ち止まり、振り返り、戟を握る両腕に力を込める。
 しかし、接近されると先頭の馬以外の馬に誰も乗っていない事実を見知る。さらに接近されると先頭の馬の上は叛烏桓では無く、自軍の兵卒だと気付く。より接近するとその兵卒の顔が見慣れたものだと気付く。
「趙子龍」
 緊張の緩和と驚きの勢いのまま大声で相手の姓字を伯圭は叫んだ。趙子龍は自ら乗る馬を止めその他の馬も止める。
「この馬にお乗り下さい。話はそれからです」
 その申し出の通り、伯圭は一つの馬に走り寄り飛び乗る。そして他の馬を他の士卒に残し、共に南へ馳せ出す。伯圭は元居た所をしっかりと見定められないまでも何度も振り返る。
「あそこには嚴綱を始めとする將士や飢えた兵卒が居たんだぞ。敵勢の追撃から見捨てざるを得ないのか」
 語義を荒らげて伯圭は声を吐いた。それでも子龍は進行方向から目を離さない。
「落ち着いて下さい。使君はお気付きでは無いでしょうが、使君の周りに嚴卿を始め主要な將士が付き従っていましたので、直に乗馬し追い付くでしょう。加えて追撃の心配は余り無いと思います…」
 右に併走する子龍は一旦、話を止めた。直接嚴綱の名を言うのを憚り敬称である卿を付けていた。伯圭は話の先を促す。
「…この馬は敵営から頂戴して来ました。その際に敵卒と一戦を交えましたが、叩きのめし語が通じる様でしたので、敵の状況を聞き出しました。叛烏桓の軍営でも食糧に困り飢えていた様でした。そのせいか数日前より段階的に撤退していた様です」
 子龍が告げた事実に伯圭は驚きを隠せないでいた。
「では昨日一昨日等、もう少し早い時期に突撃を掛けていれば反撃に遭っていただろうし、明日明後日等、もう少し遅い時期に決行しようとすれば、何割かは飢え死に遭っていたかもしれないのだな」
 その確認のための問いに子龍は慎重に「然」と答えた。
「未だ敵勢への警戒を解く行為はできないでしょう。先ずは近くの縣城へ逃げ込みましょう」
 子龍の進言に何十日ぶりの笑顔で伯圭は「諾(よし)」と答えた。
 未だ冷たい大粒の雨が降り続いており、行く先の上空で暗雲が立ちこめていた。

 西の空が赤く染まりつつある時に、依然、官軍の勢力下に在る遼西郡府が在る陽樂城に公孫伯圭等は到達した。
 単衣を纏い進賢冠を戴く骨張った田楷と単衣を着て武冠を被る中背よりやや高い劉玄徳が共に驚きと喜びが入り交じった顔で一行を城門内で迎える。
「管子城で何やら動きが有ると斥候より聞き及びましたが、まさか使君が無事ご帰還されるとは思いも寄りませんでした」
 その楷の一言に、伯圭は先ず笑顔で返す。
「詳しい話は後だ。先ず湯と餅を手配してくれ。腹を満たさなければ話に集中できない」
 依然、声に力無く告げた。
「用意しますが、急いで食べると体に毒ですので気を付けて下さい」
 命令に応じ楷は官邸へ案内する。
 歩き達した官邸の正堂では既に燭が点されており、伯圭は気力を振り絞り階を通じ堂上へ昇り南面して榻に座る。間髪入れず水と食糧の入った器が前へ出され、それ等を慎重に口の内へ運ぶ。その間に趙子龍、嚴綱等が西の席へ座り、田楷、劉玄徳、單經、公孫越が東の席に座る。西の席に座る者にも少量の水と食糧が場に用意される。
 四半時も経たない内に伯圭は食べるのを止め、楷に報告を促す。
「この陽樂城に駐屯する後続の部曲は遼西郡の軍勢と共に何度も管子城の包囲を破ろうとしましたが、圧倒的兵力差の前に管子城近くの包囲にすら到達できずに居ました。そんな折り、一月前に幽州牧の劉使君より攻撃を控える様に命令が有りました…」
「劉伯安が何故、我の任務に口出しするか」
 楷の報告に、顔に精気が戻った伯圭は激昂し思わず報告を止めた。暫しして俯き一呼吸置き先を促す。
「続けて劉使君は張舉と張純の首に金銭を懸ける旨をこの遼西郡を含め州下の郡縣に通達致しました。その後、どう言う訳か管子城の周りから叛烏桓の軍勢が徐々に撤退し始めた様子が斥候により報告されました。憶測でしかないのですが、劉使君と丘力居等叛烏桓との間で何らかの取引が在ったように思えます」
 楷が報告を終えても、伯圭は無言で俯く。やがて怒りで唇を奮わせながらも感情を抑えて言う。
「劉伯安が包囲されていた我等を見捨て、敵の丘力居と取引を行ったのは明白だ。それをこちらが知った旨を知らしめないといけない。幽州府に向け叛烏桓の使者を殺す様に書簡を送れ。また飽くまでも我等は武力で叛烏桓を駆逐する方針を示すため、これより散還した兵卒を収めつつ西へ行軍する。行く先々で兵卒を募る。今、戦いを止めては張純や叛烏桓等の敵に付け入られてしまう。それは十年以上、鮮卑と戦った我には解る」
 命令を含めた発言に、左右から一斉に「唯」と返ってくる。
 ふと外へ目を遣ると、燭の光で照らされた堂上と違い、暗闇が辺りを覆っていた。


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