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セヲの水場

 その日の朝も、セヲは水を汲むため南の谷津へと歩いていました。
 その谷津には、セヲの家族が住む小屋のある低い丘のあちらこちらから滲み出した水が、一か所に集まってできた水たまりがあり、セヲの毎日はこの水たまりの水を汲んで小屋に運ぶことから始まるのでした。
 セヲは鬱蒼とした林をなだらかに、時おり急な勢いで下る小道を歩きながら朝の土の匂いを嗅ぐのが好きでした。とりわけいま頃のように、爽やかな風の中に湿り気が増してくる季節が好きでした。
 
テッペンカケタカ
テッペンカケタカ
 
 ホトトギスが呼び合うなか、裸足の裏のひんやりとした肌触りを楽しみながらセヲが水たまりのそばまで下りてきた時、羊歯の高く茂る坂の中からガサガサッという音とともに顔を出したものがありました。それは、白くて短い毛並みの犬でした。その犬は羊歯の茂みから出ると、うれしそうに尻尾をまわし、セヲのふくらはぎのあたりに濡れた鼻を押し付け、自分の主人(あるじ)の匂いをしっかりと確かめています。
 
「やあ、アユキ。家を出るとき誘おうと思ったのに、いなかったじゃないか。先に来て遊んでたのかい? それとも慌てて追いかけてきたのかい?」
 
 セヲはアユキのあごの下に手を回し、喉のあたりを抱きかかえるようにして撫でてやりました。
 しばらくのあいだ、うれしそうにセヲの手にあごを乗せていたアユキでしたが、急にピクッと耳を立て、自分の脚でしっかりと立ち直すと、水たまりのある方をじっと見つめています。セヲの水たまりは、道の先を覆うように生えた実葛(さねかずら)の茂みの向こうです。セヲもアユキが見つめる先に目を凝らすと、彼と両親のほかは誰も知らないはずの水たまりから、何者かの気配が漂ってきます。セヲは、いまにも走り出しそうなアユキの喉を抱えるように撫でながら、そっと茂みの陰からのぞき見ました。
 するとそこには、黒くつややかに光る毛並みの犬を連れた若者がひとり、水辺の縁(へり)に置かれた小さな岩の上に腰をおろしています。よく見ると、左の足を水の中にひたしているようでした。その足先をひとしきりさすった後、若者はそれまでおとなしく主人(あるじ)の傍らに座っていた、彼の忠実な僕(しもべ)に声をかけ、水を飲むように促しました。しばらくの間、静かに水を飲んでいた黒い犬は、やにわにそのピンと立った耳をクルッとこちらに向けました。セヲのアユキがゆらした羊歯のこすれるかすかな音をとらえたのでしょう。全身の注意をセヲたちのいる茂みに集めています。それに応えるようにアユキがセヲの手を離れて走りだしたので、セヲも慌てて茂みから飛びだし、アユキを追いかけました。
 不意に現われた白い犬と猿のような顔をした少年に、見知らぬ若者は少し驚いた様子を見せながらも、まるで自分を訪ねてきた年下の友を迎えるような物腰で語りかけました。
 
「兎を追っているうちに陽が落ちてしまい、寝ぐらになりそうな所を探していたらもう夜明けだ。見なれぬ場所だが、ここはどこかな?」
 
 その声は、自分よりもほんの少しだけしか年上に見えない若者の姿にしては思いのほか低く、そして少しかすれたようにも聞こえましたが、決してセヲを見下したり、あるいはおどかしたりしているようには感じられませんでした。ただ、その整った目鼻立ちと大人びた話し振りのためか、セヲにはこの若者が少しだけ図々しく映りました。
 セヲは、アユキが若者の黒い犬とけんかをはじめるのではないか気が気ではない、といった素振りで、彼の問いかけにすぐには答えませんでした。それでも若者は別にいらだつふうでもなく、再びセヲに問いかけました。
 
「ここはいったいどこだい?」
 
 主人のかたわらにぴたりと寄り添いこちらをうかがう黒い犬の周りをクンクンと嗅ぎまわり、やがてうれしそうに尻尾をクルクル回しはじめたアユキの様子に、セヲもようやく若者の方に顔を向けると答えました。
 
「ここは僕の水場だ。」
「そうか。」
 
 若者は答えました。
 
「それは悪かったな。夜通しさまよっているうちに足を怪我してしまったので、そうとは知らずにこの泉で傷を洗ってしまった。マカミの飲み水も少し分けてもらった。おまえの水場と知っていれば穢すことはなかったんだが。」
「気にすることはないさ。少し待てばまた澄んでくる。それに、この水で煮炊きをするわけじゃあないしね。」
 
 セヲの言葉に若者は眉をわずかに動かすと、
 
「この水は飲めないのか?」

そう言いながら、小さく咳払いをしました。
それは、実は彼の犬だけではなく自分も飲んだ水をのどの奥から吐き出そうとしたのか、あるいは毒水を飲んだのではという恐れに声が少しうわずってしてしまったことをごまかそうとしたのかもしれません。セヲはその両方だと思いました。
 ずっと大人のように落ち着きはらっていた若者が、はじめて見せた慌てた様子にセヲは少しほっとしました。
 
「別に飲めないわけじゃないよ。ちょっと渋い感じがするけどね。そうだったろう?」
 
 セヲは若者の黒い犬に向かって話しかけました。犬は、鼻先でちょっかいを出しつづけているアユキをどうにかしてくれ、とでもいうような顔つきでセヲを見つめています。
 
「ほら、青蛙も遊んでいる。」
 
 水辺にかがみ込んだセヲは、うれしそうに小さな緑色の蛙の背中を指先でつついて見せました。
 
「もしかしたら怪我にはかえって良いかもしれないよ、僕は試したことはないけど。」
「いい加減なことを言って、俺をからかっているのか。」
「とんでもない。ここの水は土をこねて焼くのにもってこいなんだ。」
「土を?」
「そう。この水でこねた土はしっかりと粘って、形を作りやすいのさ。そして、焼き上げた土の堅いことといったら」
「俺の足は」
 
 少しいらだってセヲの言葉をさえぎった若者は、俺の足は土で出来ているわけじゃない、そう言いかけてやめました。目の前の少年の顔はからかっているようではなく、自分の水の素晴らしさに夢中になっているだけだったからです。
 
「そんな水なんだから、怪我にだって悪いわけがない。」
「なるほど。でも、あまり美味くはなかった。」
 
若者は笑みを含んだ声で答えました。
 
「おまえは土師部(はせべ)の者か。この辺は土師部の郷(さと)の近くなのか。」
「この辺に郷はない。僕と父さん、母さんの三人だけだ。」
「そうか、それは困ったな。土師部の郷の近くであれば、俺の郷への道も分かるのだか。」
「土師部の郷への道なら教えてあげるよ。」
 
セヲがそう言ったとき、若者のおなかが「ぐぅ」と鳴りました。セヲは気が付かないふりをしようとしましたが、アユキだけでなくマカミまでがその音のした方にぴくりと耳を向けたので、若者はばつが悪そうにマカミの頭を擦るように撫でました。
 
「僕の家に寄って行くといいさ。大したものはないけど、腹を空かせたまま長い道を歩くとろくなことはないからね。」
「ありがとう。助かる。」
 
 セヲの誘いに、若者は素直に礼を言いました。
 
「僕はセヲ。そして、こいつはアユキ。」
「俺の名はマヨサ。この犬は」
「マカミだね。雄かい? それとも雌かい?」
「雄だ。」
「そうか、珍しいな。アユキも雄なんだけど、ずいぶん気が合っているみたいだ。」
 
 セヲは嬉しそうに二頭の犬がにおいを嗅ぎ合っているのを眺めながら言いました。
 
「家に行く前に、まず水汲みにつきあってくれ。」
「それはいいが、水を汲む甕(かめ)はどこにある? おまえは持って来ていないようだが。」
 
 マヨサは不思議そうに辺りを見回しました。
 
「甕ならこっちにある。」
 
 そう言うとセヲは、先ほど隠れて様子をうかがった実葛の茂みの辺りまで戻って行きました。アユキも慌てて後を追います。マカミは「どうしましょうか」というような顔でマヨサを見上げます。マヨサはマカミの首の後ろをポンと叩くと、セヲたちの後に続きました。セヲは実葛の茂みの陰から左の方に延びる細い道に入って行きました。
 
「どのくらいの甕なんだ?」
「ひと抱え半くらいはあるかな。」
「そんな甕に汲んだ水、いつもおまえ一人で運んでいるのか?」
「ああ、そうさ。」
「おまえの家はこの丘の上なんだろう?」
「ああ、そうさ。」
 
 セヲの身体はがっしりとしているとはいえ、水を満たした土の甕を一人で運びあげるほどの力があるようには見えません。セヲに比べて上背のある身体のマヨサにとっても、大変な仕事であることははっきりしています。
 
「昨日も上まで運んだのか?」
「もちろん。毎日だよ。」
「なら、なぜ甕が下にある?」
「それは、ほら。」
 
 セヲが誇らしげにさし示した先を見たマヨサは、一瞬わが目を疑いました。
 細い道の先、そこだけ羊歯の薮が刈り払われて小さな舞台のようになった場所に、セヲの水甕は置かれていました。しかし、マヨサを驚かせたのは甕の大きさではありませんでした。
 
「これは・・・おまえが作ったのか。」
「ああ、そうさ。」
 
 セヲは心の底から嬉しそうに答えました。
 
「本当に、おまえ一人で?」
「父さんにも助けてもらったはもらったさ。でも、おおかたのところは僕が考えて、僕が作った。」
 
 誇らしげなセヲの言葉に、マヨサは改めての驚きとともに空を見上げました。
 水甕が置かれた場所のすぐ脇から、急な坂に沿って細身の丸太が二本、ひと跨ぎほどの間をあけて立てかけられています。いえ、立てかけられているのではなく、羊歯や草がきれいに刈り取られた坂にふた筋の浅い溝が掘られ、そこに丸太が半分埋め込まれているのです。そして、丘の頂きに届くまで何本もの丸太が継ぎ足されています。丸太の根元には、アケビの蔦で編まれた四角い籠が二本の丸太をまたぐように載せられ、そのなかに大きな水甕が納められています。
 
「水を入れたら、上から蔦を引っ張り上げるんだ。」
 
 そう言いながらセヲは、大きな水甕のそばに置かれた水汲み用の小さな甕を拾いあげました。
 
「さっきの水場からここまで水を運ぶ方がよっぽど骨さ。十回は往ったり来たりしなくちゃならないからね。」

1
最終更新日 : 2011-05-06 18:27:02

マヨサの渡し舟

 マヨサと出会ったあの日からしばらく経ったある朝、水汲みを終えたセヲはアユキを連れて、服部(はとりべ)の郷の近くにあるナガの池に行きました。
 セヲはナガの池で水鳥たちを眺めるのが好きでした。冬の間は色々な姿のたくさんの水鳥が水面を漂っていたナガの池でしたが、春も半ばを過ぎた今時分になると大方の鳥たちは北へと渡ってしまい、何組かのマガモの番(つがい)が残るだけです。茶色の胸に白い首輪、頭の緑も鮮やかなオスが、茶色と黒のまだら模様のメスの傍らを泳ぎながら、黄色いくちばしをさかんに動かしてしゃべっているのを眺めながらゆっくり歩いていると、池のほとりを巡る道ばたに、淡い肌色をした卵が産み落とされているのを見つけました。鶏(にわとり)のものよりわずかに大きいその卵がころがっている辺りには、水鳥の巣らしきものは見当たりません。
 
「親鳥が歩きながら産み落とすなんてことがあるのかな。それとも、カラスかイタチにでもいたずらされたんだろうか。」
 
 セヲは腰をかがめて卵を拾いました。指先が感じるしっかりとした殻の厚み。ひび一つ入っていないきれいな形。すっかり冷えてしまっているにもかかわらず、まるで小さな埋み火を手のひらでそっと包んでいるようなしっとりとした感触に、セヲはしばしの間うっとりと佇んでいました。
 あちらこちらの薮に鼻を突っ込んで道草を食っていたアユキが、ようやく後から追いついてきました。立ち止まったまま動かないセヲを不思議そうに見上げ、彼のまわりをクンクンと嗅ぎ回っていたアユキは、不意に尻尾をピクンと立てると小走りに歩きだしました。そして二十歩ほど先で立ち止まり、自分もセヲと同じものを見つけた嬉しさに、尻尾を左右に忙しく振りながら鼻先で転がしはじめました。
 
「だめだ!」
 
 セヲは慌てて駆け寄ると、アユキが見つけた卵を拾い上げました。そして、両の手のひらに並べた二つの卵を眺めました。
 まるで太陽のかけらを、それも一度に二つも拾ったような気持ちでした。
 
「僕が一日中抱えていればヒナが孵るかもしれない。もしうまくいったら僕が親だ。」
 
 そんな幻を巡らせてしばらく楽しんでいたセヲでしたが、ふと
 
『親の元から離れた卵は、もう孵ることはない。』
 
 そう教えてくれた父の言葉を思い出してしまいました。それなら、このまま腐らせてしまうよりは・・・。
 
「やぁセヲ、美味そうな卵じゃないか!」
 
 大きな声とともに現れたのは、腰に薄茶色の兎を二羽ぶら下げたマヨサでした。
 
「ああ、僕もそう思っていたところさ。」
 
 セヲはそう言って笑いました。
 
「なにがおかしいんだ?」
「いや、何でもない。家に寄っていくんだろう。」
「ああ。今日はみやげもあるぞ。」
 
 二人はそれぞれの犬を連れて、セヲの小屋へと歩いていきました。



 マヨサは時おりマカミを連れてセヲの家を訪ねるようになっていました。
 セヲの家は、マヨサの暮らす大伴部(おおともべ)の郷の東、トッカの江を挟んだ向かいの丘の端にあります。道に迷って初めてセヲの家を訪ねた時、マヨサは向こう岸に立ちのぼる郡衙(ぐんが)の狼煙を目にして、夜通し歩き回ってたどり着いた場所がこれほどしか離れていないのかと驚きました。郡衙というのはこの辺りを治めるハブの郡の役所であり、マヨサの父・コワクビは武事を司る大伴部の長として、毎日そこに出仕しているのです。
 しかし、セヲの家から目と鼻の先に見える大伴部の郷に帰るには、ぐるっと遠回りをしなければなりませんでした。ここ十数年の間に繰り返し起きる地震のたびに少しずつ水面が下がっているとはいえ、トッカの江を渡るには舟を使わなければなりません。しかし、セヲの家の辺りには他に誰も住むものはいないため、渡し場は作られていなかったからです。
 マヨサがセヲの家から自分の家に帰るためには、いったん郡衙に隣り合う大伴部の郷に背を向けて東へと半里ほど進み、土師部の郷を通り抜けたとこで南へと向きを変え、ほどなく現れる社(やしろ)で今度は西に向かって曲がり、そこからは左手にイニハの浦を望む一里の道を歩かなければなりません。
歩くことは苦にならないマヨサでしたが、すぐそこにあると分かっている場所に行くためにわざわざ遠回りをするのが癪にさわる彼は、さっそく人を使ってトッカの江に渡し場を作らせました。
 
「あそこを渡れば、あっという間だね。」
「ああ、あっという間だ。郡衙に用がある時は使うといい。」
「でも、景色を楽しめないな。」
「景色を眺めたい時はアヅマの山にでも登るさ。」
「そうか。」
 
 いかにも「やっぱり僕は歩くよ」と言っているセヲの口振りが、マヨサの癇にさわりました。
 
「おまえが作ったあの水甕を運び上げる仕掛け、あれだって同じだろう。」
「同じ?」
「ああ、同じだ。どっちも楽をするための工夫だ。」
「そうだね。」
 
 セヲはやはり心からうなずいてはいない、マヨサはそう思いました。それでもセヲがうなずいたのは、言い争いになるのを嫌っているからだとも思いました。二人の仲を壊したくないという、セヲなりの気の使い方なのだろうと思う一方で、それがとてもじれったくも感じたマヨサはさらに言葉を続けました。
 
「今おまえがそうして捏ねている土、その土で作る器(うつわ)や甕だってみんなそうだ。注ぐほどに漏れていく、草で編んだ器で食う汁を美味いという奴などはいない。」
「うん、そうだね。」
「そうだろう。だからおまえも、あの渡しを使うと良い。」
「でも、僕がいま作っているのは器じゃない。」
「じゃあ何だ。」
「ムササビさ。」
 
そう答えたセヲの笑顔を、アユキがペロッとひと舐めしました。

2
最終更新日 : 2011-05-06 18:27:18

アヅマの山

 夏も終わりに近づく頃、マヨサはセヲを伴って郡衙の東側にあるアヅマの山に登りました。
 山といってもそれは、あたりに比べて大ケヤキほどの高さに盛り上がった、牛が伏せたような形をした高台といった程のものです。しかし、もともとハブのなかでも高いところにあるため、その頂きからはカトリの海をとり囲む様に畝畝(うねうね)と連なる低い丘が、あるところでは海に突き出し、あるところではなだらかに内くぼんでいる景色を見渡すことが出来ます。
 風にさざめく碧の水面と、それを縁(ふち)取るように彩る稲の黄金(こがね)色。
丘の林の合間々々に拓かれた畑には、刈り取られ煮干された黄緑色の麻が並んでいます。西の彼方に横たわる台地の遥か向うには、なめらかな深い蒼色の山影が、まるでそこがこの世の中心であるかのように、大空に向かってそびえているのが見えます。
 
「確かに、ここからの眺めは美しいな。」
 
 セヲは嬉しそうに、ゆっくりとからだを四方に巡らせました。アユキも尻尾をぐるぐる回しながら、辺りの匂いを嗅ぎ回っています。
 
「ああ、でも。」
 
 大きな松の木の根元に祀られた祠(ほこら)の脇に腰を下ろしたマヨサが、マカミの首を退屈そうにいじりながら言いました。
 
「ここから見える海は狭い。」
「そうかな。」
「ああ、狭い。」
「ひとを誘っておいて、妙な言いようだね。」
「ほら、あそこに見えるマカタの館(やかた)の先でもうイニハの浦は行き止まりだ。」
「でも、北のほうをご覧よ。カトリの海はツクバの峰の方まで広がっているよ。東のほうにはほら、煙が上がっているのが見える。あそこはカトリの宮、それともカシマの宮の辺りかな?」
「この山がアヅマ山と呼ばれるわけを聞いたことがあるか。」
「いや、知らない。」
「この山は遥か昔、東(あずま)の地を平らげるために進んだヤマトタケルの命(みこと)が築かれた山なのだ。」
「そうなのかい。」
「この場所からあのフジの高嶺を望んで、旅のさなかに失われた妃へ『吾が妻よ』と声をかけられた。その声は三枚のタラヨウの葉に印(しる)され、命の剣と、命にお使えしてこの地にて亡くなった吾が祖の亡骸と共に、この山の下に埋まっている。」
「ふぅん。」
 
 遥か東の彼方に立ち上る幾筋かの煙を眺めるセヲは、マヨサの言葉を背中で聞きながら、まるで魂がさまよい出たかのようにうわの空で応えました。
 
「おまえは信じないかもしれぬが、本当のことだ。命に従ってこの地までやって来た大伴部の血が、俺に教えてくれるのだ。」
 
 西の彼方に高くそびえるフジを見やりながらそう話すマヨサの勇ましげな声に、セヲはふと我に返って尋ねました。
 
「マヨサも戦(いくさ)に出たいのかい?」
「別にそういう訳じゃない。俺が生まれてこのかた、戦などというものはおきてはおらんしな。」
「良いことだ。」
「だが、あのフジの向こうへ行ってみたいとは思う。」
「行ってどうするのさ。」
「俺の祖先の地を見てみたいのだ。我ら大伴部はヤマトタケルの命とともにここよりさらに北へと進んだ者もあれば、ヤマトの国に残り国造りをした者もある。」
「ヤマト?」
「このイニハの国よりも優れてまほろばであるらしい。そんな国をこの目で見て、その国を造った同胞(はらから)と話をしたいのだ。」
「同胞・・・か。」
 
 セヲは、拾った卵を両手で包み込むように、その言葉を繰り返しました。
 
「そうだ、マツ姫のところへ行こう。」
 
 マヨサはやにわにそう言うと、アヅマの山の頂きから下り始めました。
 
「マツ姫
って?」
 
 マヨサの後を追うセヲは、慣れない急な坂に滑らないよう足を踏みしめて下りていきます。
 
「ここから北へ少し行った林のなかに庵(いおり)があるのだが、そこに住んでおられる姫だ。」
「あの辺りに郷はないと聞いているけど。」
「ああ、郷はない。この春に、吾が叔父に伴われてヤマトの国のアスカの都より下られた蘇我(そが)の姫が、わずかな伴の者と住んでいる。」
「蘇我の姫?」
「ヤマトの大臣(おおおみ)を務めておられるお方の、姪御にあたる姫だ。」
「そのような姫が、なんでこのハブに?」
「姫はな、病を患っておいでなのだ。顔も手も、鱗(うろこ)のように固くなる病だ。その病を癒す薬となる草がこの地にあるらしい。」
「うつるのかい、その病は。」
「うつるものか。俺は、姫がこの地に参られてより何度もお会いしているが、この通り何ともない。なのに吾が父は、災いがうつらぬよう姫のことを口にすることすらまかりならぬ、との触れを出しておる始末だ。近くの郷の者も皆、姫を龍の化身、マツ姫ならぬタツ姫だと怖れて近づかぬ。まったく愚かなことだと思わぬか。しかし、そんなことより」
 
 不安げなセヲをよそに、マヨサは楽しそうに話し続けます。
 
「姫はな、ヤマトの国より金色に輝く人形(ひとがた)と共に、この地に下られたのだ。あの輝きはまさにヤマトの輝きだ。」
「金色の人形?」
 
 セヲは、自分が土で作る埴輪のことを思い浮かべましたが、その姿はどうにもピンとくるものにはなりません。しかし、そのことがかえってセヲの心を揺らしました。
 
「なんだろう、それは。」
「姫は御仏(みほとけ)とも薬師様とも呼んで奉っておられるが、俺にはよくわからぬ。しかし、あの目にも眩しい姿を見れば、おまえもヤマトの国へ行ってみたくなるぞ。」
 
 ようやく話に乗って来たセヲの気持ちを煽りながら、まるで無邪気に遊ぶ子供のような足取りで進んでいたマヨサでしたが、不意に歩みを止めると後からついて来るセヲを遮りました。
 
「どうしたんだい?」
「今日はよそう。ほかに客があるようだ。」
 
 マヨサの眼差しの先には、蘇我の姫の庵の方角へと馬で進む、伴連れの若い男の姿がありました。荷籠を背負わせた伴の者の前を行くその若者は、鮮やかな萌葱色の衣を濃い朱色の帯で締め、まるで宙に浮いているかのように静かに馬を操って林の道を進んでゆきます。
 
「本当に間の悪い奴だ、あいつは。」
 
 ついさっきまでの楽しげな表情にかわって、マヨサの顔には苛立ちの色が浮かんでいるのが見て取れます。
 
「知り合いかい?」
「ああ。」
「誰?」
 
 マヨサは答えませんでした。
 郡衙の方へと踵を返した二人は、しばらく黙ったまま歩いていましたが、やがて思い出したようにマヨサが口を開きました。
 
「おまえたち親子も、どこの郷の者でもないと言っていたな。」
「ああ。」
「寂しくはないのか?」
「何が?」
「いや、いい。」
 
 マヨサは、セヲが父と母のどちらとも似ていないことを思い出し、話をやめました。セヲと共に時を過ごすようになって言葉を呑み込むことが多くなった気がする、マヨサはそう思いました。
 しかし、今日はセヲが言葉をつなぎました。
 
「近くに友がいないことなら、確かに寂しかったさ。マヨサと会うまでは。」
「そうか。」
「いつもは気にしてはいないけど、父さんと母さんが老いていることを思い出すと寂しくなることもあるよ。じきに先立たれるのだろうからね。」
「確かにおまえの両親は俺の父や母と比べると、ずいぶん年を重ねているようだな。」
「僕は」
 
 セヲは、今まで誰かに話したくても話す相手のなかった思いが溢れ出しそうになるのに気がつき、慌てて口を閉じました。
 
「いや、何でもない。」
 
    ツクバの峰をいつにも増してくっきりと映し出して吹く北の空からの風に、セヲはそっと腕を擦りました。

3
最終更新日 : 2011-05-06 18:27:34

政の館

 ある日の昼下がり、マヨサは父である大伴部の長に呼ばれて、ハブの郡衙へ出かけました。

 郡衙にいくつも設けられた倉には、見事に織り上げられた麻布(あさぬの)や、刈り取られたばかりの陸稲(おかぼ)などが続々と運び込まれています。作物を国の長である国造(くにのみやつこ)に納めるまでの間、盗賊から守ることがそれぞれの郡の大伴部の民の務めです。そして、納められた作物を遥かヤマトの大王(おおきみ)のもとへと運んで旅するのも、それぞれの郡の大伴部の長の一族の役目でした。

 この何年かの間に、ハブの郡衙の倉の数はとても増えました。それは、ハブの郡で収穫される作物が豊かになったためだけではありません。イニハの国の各郡から国造に納められる作物の全てが、ここに集められるようになっていたからです。イニハの国のそれぞれの郡が豊かになるにつれ、国造に納められる作物も増えていったのですが、それらを集めておくためにはマカタにある国衙の倉では足りなくなったため、マヨサの父がハブの郡衙を拡げ、そこに建て増した大きな倉を国造に差し上げたのでした。そしていつしか、納められた作物をイニハの国からヤマトの大王のいるアスカの宮まで運ぶ務めも全て、ハブの大伴部が任されるようになったのです。そのためイニハの国の人々のなかには、「国造へ作物を納める」とは言わず「ハブの大伴部に納める」と言う者さえいるほどです。

 鼠獲りに放された猫たちも煙たがる、倉をいぶすために焚かれた虫除けの香り草の匂いで白く煙る前庭を抜け、マヨサは政(まつりごと)の館へと向かいました。

館の広間では、父でありハブの大伴部の長であるコワクビと、コワクビの補佐役であるソワヒコが待っていました。

 

「なあ、マヨサ。」

「はい、お館様。」

 

 マヨサは改まった口調で、そして身を乗り出すように答えました。

 

「どのようなお指図でも、なんなりと。」

「今日呼び出したのは、素舞(すまい)の会(え)のことについてだ。」

「は?」

じきに催される素舞の会だ。」

「なんだ、そんなことか。」

 

 マヨサは、あからさまな落胆の表情で父の顔を見返しました。

 

「そんなこととは何だ。」

「俺は、ようやくヤマトへ遣わしていただけるものと思っていたのですよ。素舞の話なら、わざわざこんな場所でしなくともよいではありませぬか。」

「今年のヤマト行きも吾(われ)が仰せつかっておる。」

 

 コワクビの隣に控えたソワヒコが口を挟みました。

 

「ハブの長の名代としては、その方はまだ若輩であろう。」

「そんなことはない。俺はもう十六だ。ほかの郡では俺と同じ歳の者を出しているとも聞く。それに」

「それに?」

 

 ソワヒコの促しに、せっかく呑み込もうとした言葉がマヨサの口をついて出ました。

 

「俺があなたと素舞をとったら、俺が勝つ。」

 

 ソワヒコは苦笑して、穏やかにたしなめるように言いました。

 

「しかしな。姉上、いや奥方さまは、未だにそなたのことを深く案じておられる。」

 

 マヨサよりも十歳も歳が離れていないソワヒコでしたが、その落ち着いた物腰からは、まるで父と同年であるかのような雰囲気が漂っています。マヨサが答えを探す間に、父がゆっくりと、そしてはっきりと告げました。

 

「おまえは吾の跡を継ぐ者だ。そのために備えねばならぬ。」

「俺は、素舞だけではなく、剣でも弓でも誰にも負けません。」

「ハブの民の暮らしを安んずるためには、戦の技ばかりでは足りぬのだよ。」

「何が足りぬのですか。」

 

 父に食って掛かるマヨサを、ソワヒコが制して言いました。

 

「この館が『政の館』と言われていることは、そなたも存じておろう。」

「存じています。でも、それこそ俺の腑に落ちぬことなのです、父上。」

 

 俺は父と話しているのだ、そう言わんばかりにマヨサは答えました。

 

「腑に落ちぬ、とは?」

「政は国造がなされること。そして、国造は大壬生部(おおみぶべ)から出ることが代々の決まり事。吾ら大伴部の任ではないのではありませんか。」

「おまえも知っての通り、国造には長く病に伏せっておいでで、またお子も姫君しかおられぬ。このようななか、国造をお支えする大伴部の者が、それぞれ任されている郡の政についてもお助けするのはあたりまえの務めだ。」

「そなたが、ただの戯れで狩三昧に耽っているわけではないことは、お館さまも吾も存じている。」

 

 ソワヒコが再び口を挟みました。

 

「しかし、ほかの者がみなそうとは限らぬのだよ、マヨサ。そなたが戯れの日々を過ごしている、そう思っておる者どもに吾がいくら『あれは戦の技を磨いているのだ』と説いたところで、そなたを見る目はたやすく変わるものではない。」

 

わずかな沈黙の後に、父コワクビは厳かな口調で命じました。

 

「此度(こたび)の素舞の会で、おまえが独り素舞を奉納するのだ。」

「俺が独り素舞を?」

「そうだ。」

「しかしあれは、国造の家の者が舞う習わしではありませんか。」

「今年からおまえが舞うのだ。」

「今年から? では、誰とも組み合えないのですか、俺は。」

「おまえはもう、人とは組み合わなくて良い。心を清くし、イツコリの神の御霊(みたま)と見事に組み合うことが出来れば、ハブの郡の者はもちろんのこと、イニハの国の誰もがおまえのことを認めるようになろう。」

「しかし」

「義兄上は、大伴部の長として命じておいでなのだぞ。」

 

 ソワヒコの言葉に、マヨサは黙って引き下がるほかありませんでした。

 館を出たマヨサは、ひとつ大きくため息をつきました。そして、高床の下から倉をいぶしている煙に咽せて咳き込むと、瞼の裏がヒリヒリとする目を擦りながら郡衙を後にしました。

 

「あやつに独り素舞が舞えるであろうか。」

 

 館の広間では、コワクビもため息をついていました。

 

「イツコリの神がご降臨くだされば、きっと。組む相手があれば、マヨサの無双は自惚れではありませぬから。」

「イツコリの神はあやつを素舞の相手と認めて下さるかどうか、大御心を現してくださるのか、それを案じておるのだ。」

「それはわかりませぬ。これまで、大壬生部の者としか組み合われておられぬのですからね。」

「しかし、神霊の大御心を現せぬ者に、国造が政の全てを任せることはあるまい。そして、政を任せられぬ相手と縁(えにし)を結ぶことなど、なおさら考えられぬ。」

「ご案じなさいますな、義兄上。イツコリの神の姿は誰にも見ること出来ませぬ。それは、国造の一族といえども同じこと。例えご降臨なくとも、それを知ることがかなう者などありましょうや。」

 

 館の明かり取りからさす陽の光に薄く漂う香り草の煙を眺めながら、ソワヒコは穏やかに答えました。


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最終更新日 : 2011-05-06 18:27:51

葛藤

 気がつくと、マヨサはトッカの江の渡しに来ていました。

 どこから一緒だったのか、彼の足もとには犬のマカミが付き従っています。

マヨサの忠実な僕(しもべ)であるその黒い犬は、主人(あるじ)が彼しか使うことのない小舟に乗り移ると、その後に続きました。

 マヨサが水ぎわの杭につないだ舫を解いて竿を手に取ると、竿の先に止まっていたアカトンボがあわてて飛び立ちましたが、しばらくあたりを回っていたかと思うと、再びもとの竿先に戻ってきました。しかし、小舟を漕ぐマヨサのせいでそこに落ち着くことが出来ず、小舟の舳先にとまり直しました。

 昨日、一昨日と戦(そよ)いでいた、秋の訪れを感じさせるさわやかな風が今日は止んでいます。また夏が戻って来たような陽射しを映す水面をかすめ、まるでツバメかと見間違えるほど大きなオニヤンマがゆっくりと横切っていきました。

 向こう岸の藤の木の上からアオサギがこちらをじっと見ていましたが、マヨサの舟が近づいて来るのを見定めると、ゆっくりと羽根を広げて左手の方へと飛び立ち、大きく一巡りした後に何処かへと去っていきました。

 

「何もしやしないさ」

 

 そうつぶやきながら、マヨサは着いた対岸の渡し場へと降り、小舟を杭につなぎました。舳先にとまっていたアカトンボはようやく飛び立つと、もと来た方へと戻っていきました。その羽根の煌めきを目で追うマヨサのふくらはぎを、マカミとは違う感触で撫でる尻尾があります。それは、マヨサの足もとに静かに佇むマカミにむかって、さかんに鼻面を押しあてちょっかいをかけている白い犬の尻尾でした。

 

「やあ、アユキ。おまえの主人は今日も土を捏ねているかい。」

「今日は栗とアケビを集めているよ。」

 

 渡し場から伸びる小道の奥から、セヲの楽しそうな声が聞こえました。

 

「まだ少し早いけど、それでもこれだけ採れた。」

 

 そう言いながら、セオはまだ少し堅そうな薄紫のアケビの実を縦に割くと、マヨサに差し出しました。厚い皮のなかの、黒い種を包む半透明のみずみずしい房を口に含んだマヨサは、やがて黒い種だけ吐き出すと言いました。

 

「確かにまだ早い。でも、アケビの味はするな。」

「浮かない顔をしてるね。何かあったのかい。」

「セヲ、素舞だ。」

 

 短く答えたマヨサの目を、セヲは静かに見返しました。

 

「俺と素舞をとってくれ。」

「わかった。でもその前に、僕の家まで駆けくらべだ。そら、マカミもアユキも走れっ。」

 

 白と黒の二匹の犬の首をポンと叩くと、セヲは坂を駆け上って行きました。

 

「こら、マカミっ。主人を置き去りにするなっ。」

 

 そう呼びかけながら駆け出したマヨサの声に、ハッと振り向いたマカミの慌てたような顔がおかしくて、マヨサの顔にも少し笑みが戻りました。




 マヨサとセヲは、何度も何度も組み合いました。

 年長の上にがっしりとした体つきのマヨサに、セヲが敵うわけはありませんでしたが、それでもなかなか良い勝負が繰り返されました。

 どこの郷からも離れて住むセヲには、素舞を取るような友はありませんでした。それにもかかわらず、マヨサがこれまで素舞を取った誰よりも、セヲは組みがいのある相手でした。マヨサよりも小さな身体を一層低くして懐に入り込み、マヨサの腰に回した両腕をしっかりと固めると、じりじりとにじり寄って浴びせたおそうとします。そうかと思うと、立ち会いに大きく身を翻してマヨサの背中に回り込み、膝の後ろを蹴って重心を崩そうとしたりもします。

 白と黒の二匹の犬は少し離れたところでじゃれあっていましたが、飽きてしまったのか、並んで伏せて主人たちの果てしない組み合いを眺めています。

 やがて二人は、疲れではなく空腹に耐えられなくなって、共に腰を下ろしました。

 

「やっぱりマヨサには勝てないな。」

 

 セヲの顔には悔しげな色は見えず、ただ楽しそうです。地面に仰向けになったマヨサは、ひつじ雲の列が北東へと流れる空を見上げながら言いました。

 

「おまえ、どうしてそんなに組めるのだ。」

「どうしてって、遊び相手が父さんしかいなかったからかな。」

「おまえの父御(ててご)は年寄りではないか。」

「僕が小さい頃は、父さんももう少しは若かったさ。それに、父さんは今でも素舞の名人だ。」

 

 そう言ってセヲが向けた眼差しの先から、少ししわがれた声が聞こえてきました。

 

「そこの裸の二人、年寄りと夕餉(ゆうげ)を共にはしてくれぬか。」


 マヨサは身体を起こすと、大きな声で答えました。


「ありがたく馳走になります。」

 

 トッカの江の向こうでも、郡衙の周りの大伴部の郷から立ち上る幾く筋かの煙が、沈む夕陽に橙色に照らされていました。


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最終更新日 : 2011-05-06 18:28:07


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