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魔法使いの唄の話:前

 

 今は懐かしき古き宮イシュメイヤ。

 わが故郷ははるか遠い。

 忘らるるかつての記憶は

 星々に散りばめられた欠片となって、

 夜空に降り落ちる。

 

 3本の弦を持つ古典的な弦楽器を奏でながら、シュラは美しい声で唄った。それは、今はもう誰も使わない、唄として残っている以外には、忘れられてしまった古い言葉の唄だった。

 淋しげなメロディと、故郷を懐かしく思う先祖たちの言葉が、シェラは好きだった。故郷を失い、行くあてをなくした者達の望郷の唄。まるで、自分のために唄われたようだ。故郷を持たないシェラ自身のための。

「ちょっとあんた」

 ふいに声をかけられ、シュラは顔を上げる。目の前には、今現在、演奏を請け負っている宿屋の太った女将が、不機嫌そうな顔をして立っている。ここに仕事を持ち込んだ時も同じ顔をしていたから、年中イラだった表情の女なのだろう。

「暗い曲ばかりじゃなくて、もっと明るい曲をやっとくれよ。客が興ざめしちまうじゃないか」

「それなら、もっと明るい曲をやる楽師を雇うべきだったね。私には、無理だよ」

 そうシュラが答えると、女将は苦虫を潰したような顔で悪態をつくと、そのまま去って行った。たぶん、この宿屋で歌うのは最後だろうな、とシュラは思う。

 どうせ、この街に長居する気はなかったから、潮時かもしれない。次の定期便の馬車に席を見つけて、もっと大きな街へ行くことを考える。どこでも同じような宿屋や飲み屋の多い路地裏はあるもので、余興代わりにシュラのような流れの楽師を雇いたがる店もある。稼ぎは決してよくはないが、一人で生きていくには、それで充分だった。

 ずっとそうやって生きてきたのだし、たぶんこれからもずっと、そうやって生きていくのだろう。

「こんばんわ。お嬢さん」

 愛用の楽器を片付けかけていた時だった。穏やかで淀みのない声が頭上から降ってきた。

 ふと顔を上げると、そこには見知らぬ男が一人、店の角に座っていたシュラを見下ろしていた。

「とてもいい声だね。お嬢さん。久しぶりに聞き惚れてしまった」

「お嬢さんなんて呼ばないで、私はこれでも一度結婚してるんだからね」

「あぁ。それは失礼なことを・・・楽師殿」

 男は、悪びれもなく笑うと、すぐ近くのテーブルに座り、手にしていた酌を置いた。だが、よく見れば酌と思ったのは、小さな仔猫だと気がつく。真っ黒な身体を低く伏せて、油断のない眼でシュラを見つめる。どうやら、まだ生まれて間もないらしく、動き回ろうとはしない大人しい仔猫だ。

「しかし、私の耳に間違いはない。懐かしい唄だった。どうか、もう一曲だけ聞かせてはもらえないだろうか?」

 言いながら、猫を連れた男は、コインを何枚かローブの中から引っ張り出すと、シェラに差し出した。一曲、余興演奏をするには多すぎる額である。楽師としては光栄だと思うべきだろうが、シェラはコインを一瞥しただけで、鋭い視線を相手に向けた。

「施しは受けないよ」

「そういうつもりでは・・・」

「うん。分かってる。でも金が欲しいわけじゃないんだ」

 シェラはもう一度弦楽器を取り出し、膝の上に乗せた。ちらりと見た宿屋の女将が妙に渋い顔をしていたけれど、この際気にしないことにする。

 両手の指を弦に走らせる。弦は3本。大昔は6本あったらしいが、旅回りをするうちに、弦の数は減り単純な音のみが残った。だが、メロディの複雑さが消えたわけではなく、逆に洗練された音が生み出す唄は、懐かしくも物悲しく響いていく。

 シェラは唄う。

 

 昼と夜の間を行き来する

 星と魔法の神よ

 願わくばこの願いを、

 3つの魂を持ち、3つの道を生き、

 今は懐かしき古き宮イシュメイヤ。

 わが故郷ははるか遠い。

 

 両親から教えられた唄だ。両親はその両親に教わった。そうやって伝えられてきた唄だ。彼女の家は、代々、家に伝わる楽器を手に旅する旅回りの楽師だった。家族が多い時には編隊楽団を組み、時には一人で歩き。そうやって、唄を伝えてきた。今は、シェラ一人が最後の楽師となってしまった。きっと、自分が最後になるだろうとシェラは思っていた。もう伝える家族はいない。自分の唄が最後になり、古きイシュメイヤの唄は消えるのだ。

「どうかしたかね?」

 ふいに声をかけられて初めて、シュラは自分が唄を終えていることに気がついた。耳の中で木霊する唄の残響だけが、ぼんやりと残っているだけだった。

「いいえ。気にしないで」

 不思議な気分だった。淋しいとか、悲しいとか、そういうものではなくて、まるで唄に引き込まれてしまったかようだった。唄の気持ちが分からなければ、本当の唄を唄うことはできない。そう言って教えてくれた母親の顔がふと記憶を過ぎる。

 シュラは、自分が少しだけ落ち着くのを待ってから、自分に話しかけてきた見知らぬ男の顔を見た。一目で、彼もこの辺りの土地の者ではないことが分かったから、少し安心した。黒よりも深い宵闇色の髪と、灰青色の瞳が印象的な男だった。

「私はシュラ。あんたは?」

「アルファという。この街から少し離れた村はずれに暮らしている魔法使いだがね。今日は、久方ぶりに薬草の買出しに来てよかった。楽師殿に出会えたからねぇ」

「あなた、魔法使いなの?」

「うむ。その通り」

 ぴくりと仔猫が顔を上げる。

 周りで飲み食いしていた客たちが、かすかにざわめく声を、アルファは気にも留めていなかった。都会ならまだしも、地方の小都市では、魔法使いの姿を見かけることも少なく、あらぬ偏見の対象になることが多いのだ。それを知っているのか、知っていて無視しているのか。アルファのあっけらかんとした様子に、シュラの方が居心地悪くなる。

「あんた、出て行った方がいいよ」

「どうしてだい?」

「この街では、魔法使いは嫌われているみたいだから」

 ちらりと女将の様子を伺えば、見るからに出て行けと怒鳴りかかってきそうな様子。シュラは小さくため息をついて、愛用の楽器を柔らかい布に包み、肩に背負って立ち上がった。

「楽師殿は、行くあてが?」

「特にないよ。適当に野宿して夜を明かしたら、あとは適当に歩くだけ」

「あぁ、それなら私も同じだ」

 アルファは、ははと声を上げて笑う。

「旅の楽師殿。少しの間、歩かないかね?あなたの唄の話してくれまいか?」

「面白い話でもないよ」

 シュラとアルファは店を出た。どのみち、行くあてがないのは2人とも同じだったから、客たちの冷たい視線も気にしなかった。

 

 


魔法使いの唄の話:後

 アルファとシュラは、石畳の路地を歩いた。特に行くあてもない。

 黒い仔猫は、魔法使いのローブの小さなポケットの中で窮屈そうに声を上げていたが、当のアルファに構う気はないらしかった。

「さきほど聞いていて、気になったのだが・・・」

 人通りの少ない路地を抜けて、古い石畳の道を歩きながら、アルファはふと思い出したように、隣を歩くシュラを見た。背の高い魔法使いから見ると、女楽師はずいぶんと小柄で、見下ろす格好になった。

 その視線は、シュラにかつて傍らに居た男のことを思い出させた。

「何?」

「その楽器。もうずいぶん古いようだねぇ。弦が伸びきっている。少し直した方がいいのではないかな?」

「へぇ、それを聞き分けるのも魔法なの?」

「まさか。私の耳は、他の人よりほんの少しだけ物覚えがいいだけだ。昔、同じような楽器を聴いたことがあってね。その時は、たしか、弦が6本だったが・・・」

 シュラは驚いて立ち止まる。行く手を阻むようにアルファの前に立つと、探るような眼で魔法使いを睨み付けた。

「あんた、6本弦の楽器を見たことがあるの?」

「うむ。もう、ずいぶん前のことだがね」

「どこで?」

「・・・私の故郷で、だったかな・・・」

 知らず知らずにきつくなるシュラの口調と、相変わらず穏やかなアルファ。2人のやり取りに驚いたのか、魔法使いのローブの小さなポケットから、黒い仔猫がひょいと顔を出す。

「嘘でしょ?」

「なぜ、そう思う?」

「6本弦の弦楽器は、ずっと前になくなってしまったもの。私の一族が引き継いできた楽器でさえ、3本弦になってしまった。6本弦の楽器を扱える人間はもう居ないのよ」

「そうでもないかもしれない」

 アルファはにやりと笑うのを見て、シュラはため息をついた。

「私のこと馬鹿にしてるの?」

「そんなつもりはない」

「じゃ、どういうつもり?魔法使いだからって、あんたを信用するつもりもないし、赤の他人なんだから」

「うむ。確かにその通り。私たちは赤の他人だな」

 アルファの表情にかすかな影が差す。もしかしたら、街頭に照らされた影がそう見せていたのかもしれないけれど、シュラが視線を逸らすには充分だった。

「しかしね。懐かしい唄を聴いたのは確かなのだ。楽師殿の唄だ。あの唄の意味を、知っているかい?」

「えぇ。私の家にずっと伝えられてきた唄だもの」

 路地の隅にある水路を見つけ、シュラは清らかな水が流れ出す泉のそばに座った。辺りはあいかわらず静かで、どこか遠くから聞こえてくる人の声も、すべて石の壁が吸い取ってしまっているようだった。

 ふと、空を見上げれば、美しい星空がどこまでの伸びているように見えた。

「故郷を失い、放浪の民となった古代イシュメイヤの魔法使いたちが、故郷を思って唄った唄よ」

 シュラは、自分の楽器を手に取り、その表面に触れた。長い長い間、多くの歴史とともに受け継がれてきたその楽器と唄。放浪する楽師達。彼女の祖先もまた、故郷を追われた魔法使い達だったはずだ。

 国を失った魔法使い達、どれほど偉大であっても、彼らは故郷を取り戻すことはできなかった。だからせめて、望郷の思いを唄にしたのだろう。せめて、故郷を忘れることがないように。いつか、そこへ戻れることだけを夢見て。

「故郷へ帰ることはできない。でも、思いは募る。魔法は忘れてしまったけれど、私の一族もイシュメイヤ人よ。私の一族もまた、戻れぬ故郷を探して旅をしてきた。だから、私には家もないし、故郷もない」

「なぜ、そう思うのかね?」

 アルファも、シュラの隣に座ると、泉の端に仔猫を下ろしてやった。

「なぜって・・・」

「新しい故郷を探しもしないで戻れないと思うのは、なぜなのか、と聞いているのだ」

「それは・・・ずっと、私の一族が探してきたのだもの。私も故郷を探してきた。でも、どこにも見つからないわ。イシュメイヤは1000年も前に滅んだのだし、私たちは魔法さえ忘れてしまった」

「見つからないものを探すのは、時の無駄だね」

 言いながら、アルファはふっと笑った。

 魔法使いは、シュラの楽器を手に取り、器用に操りながら膝の上に置いた。生まれたその時からシュラの手の中にあったその弦楽器が、奇妙なことにアルファの腕の中に納まる様は、まるでずっとそこにあったかのように落ち着いた、本来の場所に戻ったような、奇妙な一体感を持っていた。

「楽師殿。あの唄の続きを知っているかね?」

「え・・・?」

 アルファが弦を弾く。透き通った悠久の音が響く。辺りにはだれもいない。仔猫とシュラだけがその唄を聴いた。

 

 星を渡り、時を翔け。

 幾年月か。

 我が足は大地を踏み、歩み進む。

 憧憬のみを胸に。

 今は懐かしき古き宮イシュメイヤ。

 夜明けと共に、我は唄う。

 新世に幸あらんことを。

 

 シュラは夢を見た気がした。たぶん、それは夢だったと思う。その確信があったのに、彼女はその情景に涙が止まらなかった。

 広い草原の中に立つ小屋。見覚えがあるのは、かつてそこに住んでいたからだった。そこには、少年と父親が住んでいて、毎日、いまだ帰らぬ母親を待ち続けている。草原の風は強く、膝まである草の中を駆け回る少年の横顔は、シュラの愛した男の面影を残し、自分自身にもよく似ていた。彼女が最後に少年を見たのは、まだほんの赤ん坊の頃で、家族を捨てて旅に出ようとする母親を責めるように泣き喚く声が、耳の奥に残っている。あぁ、大きくなったものだと思う。父親に似て利発な子なのだろう。母親に似て、音楽の才を持っているだろう。

 その場所へ帰りたいと思う。根無し草ではない、自分の生き方が、そこにあるような気がする。もう、見つけられない故郷を探すよりも、新しい地で暮らすことだって、できるはずだ。

「この唄は、私の故郷の唄でね」

 アルファの声ではっと我に返ると、シュラは自分の目が濡れていることに気がついた。

「もともとは、星と魔法の神エスターを唄ったものだったそうだ」

 アルファは楽器を持ち主に返し、泉に落ちかけながら水面で遊んでいた仔猫を片手で抱き上げる。

「寿命を持つ神だったエスターは、神の世界を離れ、自分と同じ人間達と生きた。だからこの世には魔法が残ったのだ」

「あんた、どうして、そんな伝説知ってるの?」

 ふわりと立ち上がる魔法使いを見上げると、そこから星の光がちらちらと重なって、奇妙に懐かしい情景のようだった。

「私は、イシュメイヤ生まれなのだよ」

 宵闇色の魔法使いの髪が風になびき、肩に乗った仔猫が不機嫌そうに声を上げる。くるりと翻る杖が、まるで本物の魔法のように、懐かしく見えた。

 魔法使いは、現れた時と同じように、あっというまに姿を消してしまった。風の中に影が溶けて、ふっと消えてしまったかのようだった。

 それでも、シュラの耳に残る唄は本物で、きっとあの幻も本物だったのだと、彼女には確信があった。弦楽器の弦が3本しかないのと同じくらい、それは重要なことだ。

 

 

「お節介ですね」

 ふいに小さな声が耳元に聞こえた。それが、肩の上で危うげにバランスをっている仔猫のものだと気がついて、アルファは苦笑した。

「そうかい?」

「あなたらしくありません」

「おや。おまえは、いつから私のことを知っているのだ?つい、一ヶ月ほど前からじゃぁなかったかな?」

 おどけて言うアルファに、仔猫は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「私はね、おまえが思っているよりも、ずっと長生きなのだよ」

「たしかに、私があなたの元に生まれて、まだ一ヶ月ですけど・・・」

 まだほんの子供で、ごく普通の仔猫ならば遊びたい盛りで、だれかれ構わずじゃれついたりするのだろうけれど、しゃべる黒猫の口ぶりは、大人びて落ち着いている。

「でも、毎日陽気に鼻歌を歌うような人には思えませんけれど」

「あぁ。たしかにそうだね」

 アルファは、ははと笑った。

 一晩の宿を取り、明日の朝ゆっくりと帰るつもりだったけれど、魔法使いの足ははふらふらと歩きながら街の外へと向かいつつあった。どうせ、今更宿をとったところで面白そうなこともないのだから、星空の綺麗な下をとぼとぼと歩くのも悪くはないだろう。

「もしも聞きたいのならば、いつでも聞かせてあげるよ。シグマ」

「遠慮しますよ。あなたの唄には、魔法が宿っていそうですからね。気軽に聞いている間に、魂を抜かれてしまっては堪らない。そうでしょう?アルファ」

「はは。頭のいい猫だね。おまえは」

 魔法使いアルファと黒猫シグマは、星空の綺麗な夜を家路に向かった。

 

 

 

 今は懐かしき古き宮イシュメイヤ。

 わが故郷ははるか遠い。

 忘らるるかつての記憶は

 星々に散りばめられた欠片となって、

 夜空に降り落ちる。

 

 昼と夜の間を行き来する

 星と魔法の神よ

 願わくばこの願いを、

 3つの魂を持ち、3つの道を生き、

 今は懐かしき古き宮イシュメイヤ。

 わが故郷ははるか遠い。

 

 星を渡り、時を翔け。

 幾年月か。

 我が足は大地を踏み、歩み進む。

 憧憬のみを胸に。

 今は懐かしき古き宮イシュメイヤ。

 夜明けと共に、我は唄う。

 新世に幸あらんことを。

 


アルファとパンケーキ

「まずはね、ミルクに砂糖と卵を混ぜるところから始めるのだ」

 大きめの木のボウルの中に、今朝村まで行って分けてもらったミルクを入れ、じっくりと混ぜながら、卵と真っ白な砂糖を入れる。片手で握り締めるのにも大きな卵は、昨日の夜、アルファが家の裏で買っている立派な雌鳥が産み落とした物で、砂糖は一週間前に街へ行った時に、これを作るためだけに買ってきたものだった。

「飛び切り美味しいパンケーキをおまえに食べさせてやるからね。シグマ」

「お好きにどうぞ」

 物好きな魔法使いのささやかな料理を注意深く観察する黒い仔猫のシグマは、キッチンテーブルの角に身を潜めて、アルファを見ていた。

 その眼は、明らかな不信感がちらついていたが、魔法使いは見てみぬフリをしているようだった。

「ずいぶん嫌われたものだねぇ」

 アルファは偽物のため息をつきながらも、意気揚々と材料を混ぜ続ける。その様子が、シグマには不安だった。

 アルファは、料理が下手なのだ。

 しかも、下手の領域を遥かに超えた味が、彼の料理から味わうことができる。いつだったか、黒く焦げてドロドロした異臭を放つ物体を作り出し、シチューと称して出されたことがあった。シグマにとってはとても食べられるような代物ではなかったが、当の魔法使いにとっては美味しいらしい。

 アルファの味覚は、とっくの昔に崩壊しているのだ。

「こんどは必ずうまくいくよ」

 自分の料理下手を知りながらも、アルファにはそれを改善する気はあまりないらしい。

 ボールの中では、3つの材料が程よく混ざり始めている。生地は黄色くなり、砂糖がざらざらと絡みつく。

 次は小麦粉である。近くの川沿いにある風車で製粉している人に頼み込んで、少し分けてもらう代わりに、アルファは一つ魔法で薬を作って、その男に渡していた。惚れ薬などと引き換えに手に入れた小麦粉など、如何わしいと思いながら、シグマはため息をつく。

「どれくらい入れればいいかな?シグマ」

「分量を把握しているのではないんですか?」

「うむ。こういうのは適当が一番いいと思うのだがね」

「それだから、いつも失敗するんです」

「そうかな?」

 止めようとするのもつかの間、アルファは容赦なく小麦粉を、ボウルに向けて投入した。

 ばっと広がる細かい粉が、辺りに舞い上がるのは必至で、シグマは思わず咳き込んだ。同じようにアルファも咳き込み、白い粉はさらに舞い上がる。

「アルファ!」

「あぁ・・・やれやれ、またやりすぎてしまったよ」

 見ればボールの中に、こんもりと粉の山が出来ている。

 ケホケホと咳き込んで、気がついてみれば、シグマの黒い毛並みは真っ白になっていた。髭の先まで粉まみれである。両目を瞬かせ、前足で撫でつけ、どうにか振るい落とそうとするのだが、あまり効果はない。

「あなたって人は・・・忠告を聞く耳はないんですか?」

「聞こえのいい耳はあるんだがねぇ・・・」

 当のアルファも髪の毛が灰色になっている。

「あぁ、でもこれくらいでめげるつもりはないのだ。入れすぎた分を取り除けばいいだけのことではないか」

 そう言うと、さっそくアルファはボールの中に入れすぎた小麦粉を地道に取り出す作業を開始する。

 どうしてそうまでしてパンケーキを作りたいのか、とあきれ返ってしまうくらいの執念だ。シグマはただ諦めるしかない。

 少々粉っぽくはあったが、どうにか生地らしきものを作り上げ、魔法使いは釜戸に火を入れた。彼がパチンと指を鳴らすだけで、薪の奥から炎が沸き起こり、あっというまに熱が広がった。釜の上には立派なフライパンを乗せる。なぜ立派かといえば、手に入れてはみたものの、料理などほとんどしないからだ。

「さて、シグマ。これからは正念場だよ。・・・シグマ?」

 ふと振り返り見ると、粉まみれになったキッチンテーブルの上に、ついさきほどまで居た仔猫の姿は消えていた。魔法使いは、慌てて探し始める。テーブルの下を覗き込み、小麦粉の袋をひっくり返してみる。当然のことながら、白い粉がふたたび舞い上がり、目の前が真っ白になった。

 咳やらくしゃみやらを繰り返し、ふと床を見ると、小さな白い足跡が、玄関へ伸びていることに気がついた。

「シグマ?」

 アルファが扉を開けると、玄関先にある小さなレンガの上に、仔猫はちょこんと座っていた。

「どうしたんだい?シグマ。これからパンケーキを焼くところだよ」

「えぇ。お好きにどうぞ」

 混じり毛のない真っ黒な毛並みを丁寧に毛繕いしながら、シグマはそっけなく答える。

「食べたくないのかい?」

「あなたの料理は、とても美味とは言えませんからね」

 仔猫の言葉に、魔法使いは少し傷ついたように肩を落とした。青色の眼でちらりとその様子を捉え、シグマは言いすぎたかもしれないと思ったほどだ。

 アルファは、シグマのすぐ隣に腰を下ろすと、長いため息をついた。

「私は、料理が下手だからねぇ」

 言いながら、灰色になってしまった髪の毛を払い、魔法使いは少し淋しそうに笑う。

「昔ね。私はまったく食べ物を食べられない場所で生きていたことがあったのだ。それも、とても長い間だよ。想像できないくらいね」

 シグマは、前足を丁寧に舐める。

「その間に色々なことを思い出すことができたけれど、食べ物の味だけはどうしても思い出せなくなってしまったのだ。そこを出た後も・・・。故郷の料理の味や、母親が作ってくれたパンケーキの味も、何も思い出せないのだよ」

 アルファはどこか遠くのものを見る様に、自分の手を見つめた。料理に汚れドロドロになった指先は、他の何でも作り出すことができるというのに、いつか遠い昔に味わった懐かしい物を作り出すことはできないのだ。

「それ以来、何を食べても味気ない。まるで、砂を噛んでいるようだよ。美味しいものも不味いものも、みな同じ味にしか思えないのだから、どんな味のものを作ったらいいのか分からなくなってしまった。まったく、長生きというのも不都合ばかりだねぇ・・・」

「アルファ」

「おまえが、私の舌になってくれたら、嬉しいのだが・・・」

「アルファ」

 シグマは、ぴくりと身を震わせて、嫌な予感に尻尾の先までピンと緊張した。鼻先を動かし、さっと血の気が引いていく。

「アルファ。何か焦げ臭い気がするのですが・・・」

「あぁ・・・!」

 沈着冷静で、普段からあまり驚かない魔法使いが、この時ばかりは、驚いてばっと立ち上がると、大慌てでキッチンへと駆け戻る。

 見れば、フライパンを乗せたまま熱せられた釜戸は、ごうごうと音を立てて燃え上がっていた。火柱が天井まで上りそうな勢いだ。

 悲鳴を上げるシグマには構わず、アルファは、キッチンの隅に置いてある水瓶を手に取る。雨水をためておいたものだ。一瞬、シグマは止めようとしたのだが、すでに手遅れ。魔法使いは大量の水を釜戸にぶちまけたのだった。

 ジュゥウとこの世の終わりのような音とともに、焦げ臭い煙が、あっという間にアルファの家中を襲い、辺りは真っ白になった。

「アルファ?大丈夫ですか・・・?」

 危険のないところに居たシグマが家の外から呼びかけると、二、三度咳き込む声が聞こえた。霧のように立ち込めた煙の中を、アルファはよろよろと出てくる。

「いや・・・まったく、酷いものだな」

 その顔は、白い粉に汚れた上から、焦げた煤を浴びて、酷い有様だ。何も知らない者が見たら、化け物かと思われてもしかたがない。

 シグマは思わず吹き出して、声を立てて笑った。

「どうやら、あなたの味音痴と料理下手はまったく無関係のようですね」

「そうかい?」

 黒くなった頬をこすりながら、アルファは笑う。

「やれやれ・・・魔法に失敗した時よりも、酷い目に遭ったな・・・もうしばらくは、料理などしたくない」

「えぇ。その方がいいでしょうね」

 まだ笑っている仔猫を拾い上げて、魔法使いは自分の肩に乗せてやった。

「水浴びをしたら、街までなにか美味しいものでも食べに出かけようか。シグマ」

「それが、最善でしょうね。あなたには」

 魔法使いはローブを叩いて汚れを落としながら、杖を掴むと、ひとつ大きく深呼吸する。

「いやはや。ホントに酷い目にあったものだな」


暗い森の話:前

 

 アルファはふと立ち止まった。

「困ったことになったよ。シグマ」

「どうしたんです?」

 古く頑丈なアルファの靴の横に、同じくちょこんと立ち止まった黒い仔猫が、賢そうな顔で魔法使いを見上げた。

 その瞳は、片方が金色で片方が紺碧をしている。

「私たちは、""に入ってしまったらしい」

 仔猫は、魔法使いの言葉を確かめるようにあたりを見回してみる。たしかに、森の中だった。

 先ほどまで、街道沿いの草原を渡っていたはずだったが、気がつけば深い森の中。小柄な仔猫の目には映らなかっただけかもしれないが、まっすぐに前を見据えるばかりの魔法使いになら分かったはずだ。

 立ち止まって確かめるよりも前に。

「そのようですが。あなたには見えなかったのですか?」

「うむ。そのとおり」

 自尊心の強いこの魔法使いが、自分であっさりと非を認めることは珍しかったので、シグマは不思議に思った。アルファの口ぶりは非さえなかったと言う風だ。

「ここは、魔法の森だよ。シグマ。私にだって見えはしなかった。後ろを見てごらん。私たちは、完全に森に囲まれてしまっている」

 振り返り見ると、たしかに周りは深い深い森の中。木々の間に街道は見えず、もう何日も森の中を歩いているようにさえ見える。

 仔猫のシグマは、これほどの奇妙な事柄に遭遇したことがなかったので、らしくもなく眼を丸くして、ぴょんと飛び上がりアルファの肩に乗った。

「ここは何ですか・・・?」

「話に聞いたところでは、この森に入ってしまったら最後、二度と出ることはできないそうだよ。朝からずっと暗く、月や星が降っても夜が明けることはないんだそうだ」

「では、どうするのですか?アルファ」

「そうだねぇ…」

 思案しているのかいないのか。あいかわらずの調子で、アルファは首をかしげるばかりだ。

 世界中あちこちを旅してきたアルファは、この森の伝説的な話を聞いてきた。ふいにどこかから現れる不思議な森で、気がつくとその中に迷い込んでいる。一度入ってしまうと、外へ出ることは出来ず、もし出ることが出来たとしても、元の場所には戻れない。なぜなら、森が常に移動しているからだ。もしも、落雷を伴う雨が降る時に高台から森を見ることができれば、そいつは真っ黒な影の塊に見えるという噂もある。

「とりあえず、出ることもできないのだから。しばらく歩いてみようか。それからのことは、まぁ…。それから考えても遅くはないだろう」

「あなたはいいかもしれませんが…!!

 仔猫は、冷静だが悲鳴にも似た甲高い声で言う。

「私は困ります!」

「そんなつまらないことを言うものじゃないよ、シグマ。一生かかったって、こんな奇妙な体験はできないかもしれないんだ。貴重だと思わないと!」

「あなたの尺度にはついていけません」

 魔法使いはパートナーの文句になど構わず、ははっと楽しげに笑って、森の中を歩き始めていた。

 

 長い人生の中で、アルファは生まれて初めて自分の体質を呪った。食べるのは好きだが食事を必要としない体は、空腹を訴えることはなく、眠るのは好きだが睡眠を必要としない思考は眠気を訴えたりしない。ただひたすら同じ風景の森が続き、頭上にはいつでも暗いどんよりとした夜闇が広がるこの場所で、アルファの時間感覚はあっというまに失われた。

「シグマ。シグマ」

 似た風景ばかりだったが、一度も同じ場所を通っていないことをアルファは知っていたから、ただひたすら進み続けるうちに、仔猫のシグマはアルファの鞄の上で眠ってしまっていた。返事をする相手がいないことに気がつき、アルファは小さくため息をついた。

 この猫の感覚を信じるのならば、今は""の時間らしい。

「困ったなぁ・・・」

 つぶやいて、アルファは足を止めた。

 痛む腰をさすりながら、眠っているシグマを起さないよう鞄を抱きかかえるようにして腰を下ろすと、らしくもなく投げやりに足を伸ばして一息ついた。

 森を覆い尽くす木々は、もう何百年もそこにあるような巨木ばかりだ。人が入ったこともない、まったくの未踏の樹海。太く張った根は縦横無尽に大地を走り、他の巨木に巻きついては互いを殺しあっているようにさえ見え、死んだ命を覆い隠す黒い土は、湿った匂いと一緒に腐臭が立ち込めている。

 アルファは森の中に座り込み辺りを見回しながら、不思議な気持ちになった。ここは、一体どこなのだろう。

「アルファ」

 ふと手元を見下ろすと、何かの気配に気づいたかのようにシグマが顔を上げていた。細長い髭をピンと張り、辺りを見回す目は鋭く光る。

「この森は少し変ですよ」

「うん。私も、そう思っていたところだよ」

 一人と一匹は、緊張して辺りを見回した。何か恐ろしい気配があるわけではない、それどころか、飛ぶ鳥も小動物の気配もなにもない。

「この森の魔法は強すぎる」

 ちょうどそのときだった。右手の藪がガサガサと音を立てて動いた。今の今まで、森の奇妙さについて話していた矢先のこと。アルファはぱっと立ち上がり、旅の友である杖を構えた。いつでも魔法を使えるようにするためだが、この場所では魔法も役に立たないかもしれない。

「おや?」

 その声があまりにも間の抜けた、あっけらかんとした声だったので、アルファは目を丸くした。低いうなり声を上げていたシグマでさえ、ぴんとたてた尻尾もそのままで、不思議そうに顔をしかめる。

 森の中から現れたのは、白い髪を伸ばした老人だった。枝を切り開くために短い短剣を手に持ち、あちこち歩き回ったらしく服はボロボロだったが、少なくとも生身の人間らしい。

「話し声がすると思ったら、おまえさんたち迷子かね?」

「えぇ。数日前から・・・いや、いつから迷子になっていたのやら。あなたは?」

「わしも迷子だがね。はは、もう何十年もこの森に住み着いておるわ」

 老人はかかと笑いながら近づいてきた。人間を見るのが久しぶりだといわんばかりに、その瞳には好奇心と喜びが溢れている。目下のところ敵意がないらしいことを見て取り、アルファは杖を引いた。だが、足元のシグマは警戒を解かなかった。

「ずいぶんお疲れのようじゃな。わしの家をすぐそこだが・・・来るかね?お若い方。そこでゆっくり話さんか?」

「えぇ・・・お言葉に甘えて」

 自分のことを”若い”と評したこの老人のことを面白く思い、アルファは同時に興味を引かれた。この魔法の呪いにかかった森の正体はなんなのだろうか。もしかしたら、この老人は何か知っているかもしれない。

 先ほどまでの投げやりな気分とは裏腹に、急に気が逸りはじめたアルファの後ろで、仔猫は小さくため息をついた。言葉には出さなかったが、その表情は「また悪い癖が始まった」と語っていた。

 

 老人はもう長い間、森の中で暮らしていると話した。気の遠くなるような時間、他人に会ったことがなかったことと、本人の老齢のおかげで、あまり覚えていないらしかった。自分は木こりだったということ、若い妻がおり、可愛い一人娘が迷子になったのを探しに出かけ森の中に迷い込んでしまったのだ、と彼は話してくれた。

「最初は月日を数えたりもしたが、そのうち諦めてしまった」

 そういいながら、老人は自分の背もたれにしている気の幹を示した。ずいぶんと高い位置に、かつてナイフかなにかで傷つけた跡が残されているのが分かった。

 老人の家は、今までアルファが見てきたこの森の木の中で一番の巨木のそばにあった。森の主と思われる巨木は、所々を腐らせながら何千年とそこにあるかのように、あらゆるものを飲み込みながら、今も成長しているらしかった。この森の木が、異様な速さで生長するということに気づいた老人は、あまり木の側で寝泊りはしなくなったそうだ。いつ、自分が飲み込まれるか分からないからだ。

「たまに、あんたのように森に迷い込んでくる奴がいるようだが・・・。気づいたころには森に飲み込まれてしまっている・・・。そうなってしまっては、助けられんからな。静かに見守るほかない」

「森が他の生き物を食べていると・・・?そういうんですか?」

「食べる・・・?さぁ・・・どうかな。とにかく、ここは奇妙なところだ」

 老人の言うとおり、この森には生き物がいないため、食事はほとんどが植物の実や種、コケや根などを上手く料理している。その、ありがたい食事をいただいたアルファは、空腹ではない腹に久しぶりにはいった食物に満足した。美食家のシグマでさえ、不満そうな顔をしながらも、いくらか食べて今はアルファの隣に眠っている。だが、それが見せかけであることを、魔法使いは知っていた。彼女は何も言わないが、この老人を疑っているらしい。

「この森に、出口はないのですか?」

 アルファがいつも持ち歩いているパイプを燻らせると、老人は物欲しそうに、この珍しい嗜好品を見つめた。植物だらけのこの森だが、煙草の類はないらしい。半分分けて手渡すと、彼は器用な指先で枯葉の巻きタバコを作った。

「何年も・・・何十年も歩き回ったがね。出口は見つけられんのだよ。この森は広大だ。今も広がり続けているのだろう・・・。一度、この場所を離れたら、もう二度と戻ってはこれんほど、複雑怪奇な地形をしておるからな。出口を見つけることなど・・・まず不可能だろうて」

「そうですか・・・」

 アルファは落胆してため息をついた。彼の長い人生が、この奇妙な森の中で終点を迎えることになろうとは、想像もしていなかった。

「お若い方。そう、落ち込むこともないぞ」

 森での長い生活がそうさせるのか、老人は楽観的にかかと笑い、巻きタバコの煙を吐き出した。

「ここは空気も澄んでいるし、食べ物に不自由もせん。肉を食えんのは残念だがな。だが、快い話し相手もおるだろう?」

 自分のことを言われているのに気づきながらも、黒猫シグマは面白くもなさそうに、欠伸をする。

「それに、わしも話相手ができて嬉しい。あんたがおってくれたら、退屈せんだろうからなぁ」

「えぇ・・・お話できることなら、この森の木の数くらいたくさんありますが・・・。でも、私は退屈が嫌いな性分でしてね」

 立ち上がるアルファに気づき、慌てた表情を浮かべる老人をかすかに見つめながら、よほど退屈な生活をしてきたのだろうかと思う。そんな退屈には耐えられそうもないな、と改めて思いなおし、踵を返した。

「どこへ行くのかね?」

 その問いには、懇願の響きが込められているようだった。

「少し休もうかと思いましてね。ずいぶん歩きまわったので、疲れてしまいました」

 そう言って、近くの木の影へと向かうアルファの後ろを、シグマは老人の様子を気にしつついて、姿を消した。

 


暗い森の話:後

 今が真夜中だといえば、そのとおりだし。真昼中といえば、たぶんそのとおりだろう。

 この森の中で眠る者にとっては、どうでもいいことだ。

 珍しくアルファは、眠りの中に居た。

 抗いがたい眠気に襲われたのは久しぶりで、この衝動に屈服したのも久しぶりのことだった。思っていたよりもずっと疲れていたのかもしれない。自分で考えているよりも、ずっと年をとってしまったのかもしれない。あれこれ考えるアルファは、今、眠りの底の真っ暗闇の中に立っていた。

 せっかくの眠りだというのに、夢さえ見ないのか、と妙に落胆していると、どこか遠くから声が聞こえることに気がついた。

 それは、彼の名を呼ぶ黒い仔猫の声だった。

「シグマ・・・?」

 遠くから聞こえる猫の声は、切迫して悲鳴のようにアルファの名を呼び続ける。早く起きてと叫び、あまつさえあの慇懃無礼な猫の口から悪態さえ聞こえるというのに、当のアルファの声が届いた様子はない。

 起きなければと思うのに、思うように意識は浮上しない。何かに押し付けられているようだった。

「シグマ!」

 次の瞬間、唐突に目の前が真っ赤になった。

 激しい痛みのおかげで眼を覚ましたアルファは、容赦なく魔法使いの顔を踏みつけにしている黒猫を苛立たしげに振り払い、この世の誰も聞いたことのないような古い言葉で悪態をついた。

「アルファ!」

 次に気がついたことは3つ同時だった。一つは、自分の耳から血が流れ出し激しい痛みに襲われていること。シグマが自分のパートナーを起そうとして、その小さな歯で思いっきり噛んだのだろう。二つ目は、当のシグマが、怒りや苛立ちではなく、焦りと恐怖によって声を上げていること。

 そして、三つ目は、自分の足に絡みついた木の根だ。

「なんだ・・・?これは?」

 シグマにしてみればのんびりした仕草で、アルファは足元の根を観察した。土の中から飛び出し、根は明らかな意思を持ってアルファの足をぐいぐいとひっぱっているらしい。その意志が生きたアルファの体をそのまま飲み込もうとしているのだと気がつき、ようやく手元に転がっていた杖を掴むと、攻撃的な魔法で根を追い払った。

「これは、どういうことかな?シグマ」

 慌てて立ち上がり、辺りを見回してみれば、動き出した木は一本だけではないらしいことが分かった。目に入るすべての巨木が、重苦しくのたうち、鈍い軋みをたてながら、動いている。それは、さながらグロテスクな新種の生物のようだ。

「あなたが寝ている間に動き出したんですよ」

「ずっと、見張っていてくれたのかい?」

「そんなことはどうでもいいんです。どうして、もっと早く起きなかったんですか!?

 シグマの抗議を聞きながら、アルファは噛まれた右の耳朶に触れた。痛みはだいぶやわらいでおり、大げさに流れた血もすっかり固まったようだが、ぽっかり空いた穴は、しばらく塞がりそうもない。

「おかしなものを食べたかな?」

 土の中で根が動き回り、足場の悪くなった場所を身軽に飛び越え、アルファとシグマは老人の寝床へと急いだ。長年この地に暮らしているのだとしたら、この突然の異変について知らないはずがない。そう思うと同時に、アルファの頭の中にも遅ればせながら、奇妙な疑問が浮かび上がった。老人は、何も知らないのではないだろうか。

 そして、魔法使いと猫が見たのは、動く森よりもさらり驚くようなものだった。

「どうかしたのかね?」

 老人はたしかにそこに居た。古い大木に背を預け、悠長に煙草を吸っている姿は、周りに広がる威容な状況など嘘であるかのようだった。朗らかに笑い、アルファとシグマの慌てた様子に気付く様子もない。何の変哲も無い、老人の姿だ。

ただ、ひとつだけ可笑しなところがあるとすれば、老人の姿が消えかかっているという事だろう。存在は希薄になり、目に見えてはいても、そこに居るという実感がない。

「まだ、あまり時間は経っておらんよ。休めたのかい?」

 人好きのする笑顔も、優しい声色も、何一つ変わるものはないはずだ。少なくとも目で見る限りでは。

「これは一体どういうことですか?アルファ」

 動きが緩慢とはいえ、次々と動いては侵入者を捕まえようと試みる木の根たちは、なぜか老人には手を出さず、それどころか、避けてさえいるようだった。

「行こう。シグマ」

 魔法使いは、片手を伸ばし仔猫を掴むと素早く肩に乗せると、不思議そうな目をしている老人が何か言うのも構わずにその場から走り出した。後には木の根たちが追ってくる。

「行くって、どこへ行くつもりですか?アルファ。あの老人は?」

「どこへでも。ここにいてはダメだ」

 足元を走る木の根にバランスを奪われぬよう、土の部分を選んで走ったが、次から次へと根は暴れ出して、アルファたちを捕まえようとする。その目的は分からない。何のために、生き物を捕まえようとするのか、さすがの魔法使いにも木の言葉など分かるはずもなかった。

 ただ、ひとつだけ分かっていることは、この森に生き物が暮らしていない理由だけだ。どんな生き物であれ、木に食べられてしまうのだろう。鳥も獣も人間さえも。その先にあるのは、死か、別の何かか。どちらにしても、それを知る術はない。

「アルファ!」

 ふいに、仔猫の悲鳴が耳を貫いた。小さく軽い体は、俊敏に逃げようとする抵抗も虚しく、頭上から襲ってきた細い枝に絡めたられ、あっというまに魔法使いから引き離された。

「シグマ」

 慌てて手を伸ばした拍子に油断したアルファの足に、他の木の根が絡み付いてくる。どこから、その機動力が生まれてくるのか、木の力は強く、ずるずると引きずられるようにして、幹に縛り付けられると、足はどんどんと巨木の中に飲み込まれ始めた。

「なんて、強い力なんだ・・・」

「感心している場合ではないでしょ!」

 非難めいた声を上げる仔猫もまた、木の幹に飲まれようとしているところだった。アルファは、自分の足を振り払うよりも先に、シグマを捉えている枝を魔法で打ち破った。バシッと鈍い音をたて、痛みでも感じたのか動きの鈍った木の呪縛から、仔猫は必死の思いで這い出す。

「シグマ、逃げるんだ。私を食っている間は、さすがに凶暴な樹も、おまえのような小さな獲物を襲ったりはしないだろう」

「そんな悠長なことを・・・!!

 強い力で足を締め付けられる。木に食べられるのはなんとも不思議な気分だったが、獰猛な肉食動物のように咀嚼されることはないらしいことに、奇妙に安心しながら、アルファは出来る限り体をよじってシグマを見た。

「出口を探して、おまえだけでも森の外へ出るのだ。どこかに、必ず出口はあるはずなんだ。伝説ではそういう話だからね」

「馬鹿なこと言わないでください!だれが、私一人で逃げるものですか!」

 仔猫は髭をぴんと張り、苛立たしげに尻尾を振り上げると、何を思ったかアルファの懐に飛び込んできた。古く誇り臭いローブの中にもぐりこむと、魔法使いの服の襟から、不機嫌な顔を覗かせる。

「何をしているんだい?シグマ」

 縦横無尽に動き回る木の幹によって、すでにアルファの体は腰から下は飲み込まれてしまっている。いくら、強力な魔法と使ってみたところで、もはや自力で脱出することはできそうもない。それなのに、こんな状況でも楽観的な自分が可笑しかった。そして、自分とは正反対で小刻みに小さく震えながらも、憮然と魔法使いを睨んでくる仔猫の柔らかい毛並みを、撫でてやらずにおれなかった。

「あなたなしでどうやって出口を探せというんです?私は、あの老人と淫蕩生活なんてまっぴらごめんですからね」

「でも、私と一緒でも同じじゃないかい?」

「あなたの方がまだマシです」

 アルファは自分の杖を捨てると、両手で胸を抱きしめた。もしも、想像を絶するような力で締め付けられ、木の中に飲み込まれたとしても、最後の最後までこの力が許す限りシグマを守ろうと決めた。

「まったく、おまえは偏屈な猫だね」

「それは、お互い様でしょう」

 緩やかに枝や根が集まってきて、アルファの体を包み込んでいく。それはそっと優しく、まるで硝子細工を扱うかのようだった。徐々に消えていくかすかな光を見つめながら、アルファは自分一人だけではないことをありがたく思った。胸の中に感じる小さなぬくもりと鼓動が心地よく伝わってくる。

 真っ暗闇の中に包まれて、体がすっかり木の中に飲み込まれた時、アルファは久しく感じたことのなかった、孤独というものを一瞬だけ思い出した。

 

 

 どこかで波の音がする。

 それが、波の音だと気がついたのは、ずっと昔に聞き親しんだ故郷の音だったからだ。今は遠い昔に感じた、懐かしい潮の香りを探すようにして、アルファは目を開けた。

 突然飛び込んできた光に眼が慣れないせいか、一瞬真っ白に見えた空は、しだいに薄らいで青い色を見せ始める。緩やかに流れていく雲が切れ切れに流れて行き、温かい日の光が降り注いでくる。そこは、元の世界だった。

 ゆっくりと身をよじりながら、身を起こすと、アルファは自分の体が波間に半分使ったままずいぶんと長い間、そこに放置されていたことに気がついた。湿った砂が体中にこびり付き、履きなれたブーツはすっかり濡れてしまっている。口の中にまで入った砂のジャリっとした感触に、小さく悪態をついた。

「シグマ・・・シグマ、大丈夫かい?」

 ぼんやりする意識がはっきりしてくると、腕の中の仔猫のことに気がついた。黒猫は、くらびれたように身じろぎし、砂に汚れてすっかり白くなってしまった体を震わせた。

「アルファ?私たちは・・・。ここはどこですか?どうして、海に居るんです?」

「分からないんだ・・・」

 たしか、最後に歩いていた場所は、街道沿いの草原だったはずだ。これから低い陸を越えて、その向こうにある断崖の町で一休みする予定だった。ずっとずっと内陸にある、穏やかな気候の土地で、行き着いた街がいいところならば、しばらく居着こうかとも考えていたことを、アルファはぼんやりと思い出した。

「私は、それほど長い間眠っていたんですか?」

「いいや・・・そうじゃないよ」

 アルファは、かすかに痛む右の耳朶に触れてみた。鈍い赤色にこびり付いた血と真新しい穴の感触は、たしかにそこにあるものであり、幻想や夢ではないことが分かる。シグマに噛まれた痛みも、アルファは覚えていた。

「どうしたんです?その傷」

 問いかけてくる仔猫をアルファは驚いたような眼で見下ろした。

「忘れてしまったのかい?シグマ」

 辺りを見渡せば、果てしなく続く浜辺と白い砂浜ばかりである。人影も無く、低い木立はあっても、深い森は無い。どこかから放り出されたように無造作に散乱した鞄と杖を見つめながら、アルファはふっと気が抜けたように笑った。

 忘れてしまうのだ。何もかも。

「何をですか?」

 あの森で出会ったものも、あの森が存在したということも、いつかは忘れ去れてしまう。

 そして、老人は自分が死んだことさえ忘れてしまったのだろう。

「いいや・・・いいんだ」

 いずれ、自分も忘れてしまうことだろう、とアルファは思った。きっと、森に入ったことを忘れ去り、いつかまた、森に入ってみたいと思うかもしれない。その時、自分はどんな顔をして、あの森の木々のことを考えるだろうと想像すると、可笑しくてたまらなかった。

「私の耳に空いた穴の話だよ」

 何もない目の前の海を見つめながら、アルファは笑った。声を上げて大笑いしたのはずいぶん久しぶりなような気がする。

 そんなパートナーを不思議そうに見つめながら、シグマは小さくため息をついた。

「何を言っているのか、私にはさっぱり分かりませんよ」



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