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一日目:ムーンライトながら

 

二枚余った18切符、消化試合は関西方面と決めて。はじめは山陰本線を走破するつもりだった。夏に京都から山陰本線をとことこ西行したのが、時間がゆるやかに流れて行くようで、忘れられない経験となった。もう一度生きたいと思ったのだが、調べてみると意外に時間がかかる。


東京からだと京都経由では、鳥取あたりで列車がなくなる。夜中まで走っている最終特急「やくも」に乗れば出雲市まで行けるが、あくる日の旅路も長く、広島あたりでもう一泊しないとならない。


「ムーンライトながら」の利用も考えたが、山陰線は遅い上に本数が少なく、たいして距離を稼げない。そこでアタマを切り替えて山陽路に入ることにした。山陽本線は新快速も走り、運行密度も高いからである。


とはいえ山陽地方は以前乗り潰したので、姫路城、瀬戸大橋、宮島など、めぼしい観光地はほぼ制覇している。のこっているのは鞆の浦ぐらい。ということで、「ムーンライトながら」を利用して、鞆の浦をめざすことにした。


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鞆の浦とは古代から近世まで栄えた港で、中国地方を代表する交易地であった。瀬戸内海は鞆の浦近辺で、潮の流れが変わる。だから旅人たちは鞆の浦まで来ると、そこで潮の変わりを待たねばならなかった。これが鞆の浦が繁盛した理由である。


その繁栄は弥生のむかしにまで遡り、魏の使いが邪馬台国を訪問するさい、滞在したとされる「投馬(トゥマ)国」の有力な比定地ともなっている。


しかし汽船の時代になると潮待ちの意味は薄れ、中国地方の繁栄は広島や福山に移る。鞆は時代の流れから取り残されてしまうが、近年はその歴史的な景観が人気を呼び、「ポニョ」や「景観論争」の舞台になるなど、再度脚光を浴びるに至っている。


・・・こう書くと、いかにも辺鄙な秘境というイメージがあるが、実は山陽本線・福山駅からバス30分でしかない。福山には新幹線も通っているので、行こうと思えば東京からでも日帰り圏である。


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話を戻して「ながら」こと、「ムーンライトながら」。かつては「大垣夜行」とも呼ばれ、学生時代、何度かお世話になった代物である。硬いボックスシートに座らせられ、便所に行こうにも超満員の車内で身動きが取れない旅路は苦行そのものであった。正直、もうあの苦行は繰り返したくないのだが、聞けば使用車両が更新され、座席はリクライニングになったという。


昨夏、出雲市・東京間「スサノオ」、東京・大阪間「ウィラー」など、夜行バスに何度か乗ったが、感想は「二度と乗りたくないw」。座席は豪勢でも、一晩中過ごすとなると腰に来る。身体を動かそうにも狭い車内にはそのスペースもない。無理して眠ろうにも、うとうとするたび路面から伝わるゴツゴツとした走行振動で目が醒めてしまう。


その点、夜行列車は歩き回れるスペースがある。ムーンライトに昇格されてからは、「ながら」は全車指定席化され、ラッシュさながらの混み混み、ということもなくなった。


ただムーンライト化されて困ったことは、「小田原で日付が変更される」という点。かつては横浜で日付が変わっていたので、東京・横浜間の切符200円強を買えば、18切符一日分を有効活用できたのだが、小田原だとそうはいかない。東京・小田原間の乗車券は2000円弱で、もう一枚18切符を投入するにはもったいないし、わざわざ乗車券を買うにはくやしい。


そこは良くしたもので、東京・小田原間には小田急が通っているのだ。新宿から小田急までは千円弱と、JRのほぼ半額。さらに全線乗車OKの株主優待券を使えば、500600円で行くことができる。これを利用しない手はない。


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2011年1月某日、正月三が日のほとぼりが醒めた頃、新宿発小田原行き最終急行列車に乗って、旅路ははじまる。。。ハズだったのだが、どうしたことか、駅に行くともう列車は出た後。時刻表サイトを読み間違えたのか、サイトの問題なのか(時刻表サイト「えきから」には、旧時刻表を載せていたという前科がある)分からないが、幸いすぐに藤沢行き快速急行がやってきたので、これに跳び乗る。


この快速急行で先の小田原行きを追いかける。さすがに快速急行は速く、相模大野で追いつき、乗り換えに成功。胸を撫で下ろして周りをみると、最終だけあって、いつもコミコミの小田急も乗客が少ない。特に秦野以降はローカル線さながらで、夜気が身にしみる。


小田急の車両は基本、東京の通勤電車なので暑さ・蒸れ対策は万全だが、寒さ対策はなっていない。しかも混雑対策のワイドドアは異様におおきく、開くと容赦なくなけなしの暖気が奪われていく。せめて車両全部のドアを開け放つのでなく、一つだけにできないのだろうか。


乗客はもう酔っ払いだらけで、自分の正面のOLはのけぞって口を開けたまま、前後不覚にねむりこけている。隣のパンク野郎はなにやらぶつぶつ独り言してたかと思うと、急に立ち上がってどこかに走り去ってしまった(電車内である)。駅に眼を向けると、ホームでくねくねダンスしている女もいれば、走りこんできては門前で力尽き、吐きだして結局乗れなかった男もいる。


さまざまな酔っ払い人生を小田原行き最終電車は走り抜け、とうとう小田原についた。もうその車両には自分しかいない。


降りるとかすかに硫黄の臭いがする。いつもは喧騒に紛れてそんな臭いなど全くしないのだが、真夜中でも小田原は箱根を擁する温泉地なのだ。


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駅仕舞いする駅員らに追い立てられ、小田急改札を出てJRへ。JR改札内では、東海道線を見下ろしながら、「ながらー(注)」が十人ほど、たむろしている。下に降りるとホームでは百人くらいが待っている。せいぜい数人、数十人レベルの乗客を想像していたが、ケタが違っていた。


注:ムーンライトながらの乗客


考えてみれば、あれほど夜行列車に渋いJRが、「ながら」だけは廃止しないでおいたのは、それが収益の見込める列車ということに他ならない。


待つことしばし、深夜の寒風を押しぬけ、0時30分に「ながら」が到着する。全車指定席なので、さしたる混乱はない。ただ指定席(3号車)が前よりなのか後ろよりなのか分からずに逆に乗ってしまい、列車のなかを延々と歩かされる。駅でのアナウンスがほしいところ。


「ムーンライトながら」は、かつて東京~大垣間を走っていた普通列車「大垣夜行」の後身である。長距離客の座席確保と増収のため、96年に全車指定席「ムーンライトながら」に模様替えした。


しかしJR各社の思惑(新幹線に客を誘導したい東海、ながらの筋を通勤列車に転用したい東)、格安夜行バスの台頭などにより、09年より臨時化。サンライズ出雲・瀬戸以外、東海道の夜行列車が死滅した今、ながらの消滅ももはや時間の問題かとおもわれる。


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車内は7~8割くらいの埋まり具合で、二座席を占領できるかと期待したが、いざ自分の座席に着いてみると、相席は「百貫デブ」。


ぶっとい腕はもとより、腹の肉までもがこちら側の座席にまではみ出している、肩をすぼめて席に自分の身体をねじこむしかない。これが一晩つづくかとおもうと、憂鬱になる。飛行機ではないが、JRでも体重制限があってもいいように想う。百キロ超えたら二座席購入してもらうとか。


乗客層は一言で言えば「貧民」。以前の大垣夜行は「学生」「旅行好き」が大勢だったが、この「ながら」に着席しているのは底辺で喘いでいる人が多い。「失われた十年」が「二十年」になってしまったが、これが「三十年」になりつつある日本の暗部。


車両は183/189系という国鉄時代の特急車両。「ヴィンテージもの」だが、デッキがあって外の寒風が入らない、座席がやわらかいなど、下手な現代特急よりも居住性はすぐれている。


ただ換気が悪く、濁った空気が充満している。どこかで嗅いだ臭いだと思ったら、上海のスラム街の臭いだ。人体の油臭、食べ物の臭い。希望はない。が、それでも生きて行かねばならない人間の、やりきれない臭い。

金はない。が、それでも食べていかなければならない人間の、つらい臭いだ。


百貫君が寝返りを打つたびに叩き起こされるので、浜松で長時間停車したさい、空き座席に移動。そこでうとうとしたと思ったら、すぐに終点大垣である。ノミでもいるのか、身体が痒い。おもしろい体験だったが、この列車はもう二度と利用しないだろう。


二日目:鞆の浦

大垣では名物、「ながらレース」が行われる。接続する下り列車の座席を確保しようと、ながらから降りた老若男女、入り乱れて階段を駆け上がるのである。


大荷物をもって通せんぼするもの、前の老人を押し倒してまで先を急ぐ若者、力尽きて倒れる幼女など、地獄の亡者が湧いて出たかのような阿鼻叫喚ぶりである。


ぢつは岡山以遠に行く場合、むりにこの列車に乗る必要はなく、一本後の列車に乗ればいいのだが(相生駅で合流する)、流れに乗って自分もレースに参加。ぶじに乗り込む。このことが、後になって大きな意味をもつのだが、それは後の話。


接続列車は姫路行きだが、途中で新快速に乗り換え、時間をかせぐ。夢うつつに京大阪を過ぎ、須磨から瀬戸内海が見えてくる。明石海峡大橋を回りこむという、見事なパノラマを楽しみつつ、明石。東京人からすると須磨、明石は「源氏物語」の世界だが、もちろん現実にはそのような風情はなく、ひたぶる無味乾燥な宅地のなかを新快速は爆走していく。


新快速は東海道・山陽路を時速130キロで駆け抜けるJR西の看板列車だが、残念ながら姫路止まり。岡山や福山まで延伸してもらいたい旨の要望が知事からも出されているが、JRとしては新幹線とバッティングする以上、無視の構えである。(注:一部の新快速は上郡、播州赤穂まで行く)


終点・姫路は世界遺産・姫路城をかかえる拠点都市だが、むしろ興味あるのは「モノレール」。高度成長期に作られたモノレールで、すでに廃止されてひさしいのだが、その跡が撤去されずに残っている。「大将軍駅」というそそられる地名や、モノレール駅とビルが一体化した建築などを見てみたいが、今回の目的ではないのでパス。播州赤穂行き鈍行に乗り換える。少々時間があるので、駅売店で朝食をしこみ、車内で食す。


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「播州赤穂」は赤穂浪士で有名な赤穂市の玄関駅であるが、山陽本線ではない。相生で山陽本線から分岐して入っていく赤穂線の駅である。ただ山陽本線から直通する列車も多く、新快速も設定されている。


自分は山陽本線の福山に行くので、この列車を相生で降りて、岡山行きに乗り継がなくてはならない。しかし車内の路線図を見ると、赤穂線も岡山に到着するのである。


つまり山陽本線・赤穂線は相生・岡山間が2重線になっており、どっちに乗っても岡山に行けるようになっている。駅数をかぞえると、どちらも同じくらいの距離に見える。相生で下りの山陽本線に乗り継ぐには30分も待たなくてはならないので、今列車に乗っている分、播州赤穂まで行ったほうが早く着けるかもしれない。


一瞬食指が動いたが、基本、非本線の列車は本数が少ない。素直に相生で下車。山陽本線を乗り続けることにした。次の電車まで時間があるので瀬戸内海まで歩いて行こうとおもったが、改札前に貼られた地図をみると意外に遠いので諦める。(後で調べてみたら、やはり相生・岡山間は、山陽本線は60分、赤穂線は80分かかる)


瀬戸内海というと暖かなイメージがあるのだが、結構寒い。基本、駅舎は人や列車の通行を第一に考えているので、風通しがいい。そして寒い。座席には座布団が敷かれているが、とても耐えられそうにないので、自販機で珈琲を体内に入れて、内から暖める。待合室には地元客は余りおらず、長距離客がおおいようだ。


駅舎アナウンスの声がする。「播州赤穂行き新快速は二十分ほどの遅れが見込まれます」。実は大垣で一本後の列車に乗ると、この新快速に乗り継ぐことになるのだ。この新快速の到着一分後に、岡山行きが出発するというダイヤが組まれている。


だから「ながらレース」に参加せず、悠々と朝食を楽しむこともできたのだが、その場合はこの遅れに巻き込まれ、岡山行きに乗れないという悲劇が待ち受けていたわけである。やはり鉄道といえど、スケジュールには余裕をもったほうがいい、と改めて思い知らされる。


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無事、岡山行きに乗り込む。これまでのJR西車両は全てクロスシートだったが、これはボックスシート。もっとも乗客が少ないので、ワンボックスを個室利用してしまう。


車窓には閑散とした農村がひろがり、周辺人口が少ないのが窺える。列車は六両編成をもてあまし気味だ。JR東海などは、常に満員になるようなセコい車両運行をしているが(静岡・熱海間3両とか)、JR西は豪気な使い方をする。


やがて岡山。山陽本線のほか新幹線、吉備線、宇野線、伯備線、赤穂線、さらには四国行き列車も発着する一大拠点駅である。


が、目的地はここでない。糸崎行きに乗り換える。糸崎というと北九州の「伊都」を連想してしまう。東日本ではあまり見かけない地名だが、西日本ではよくある地名かもしれない。


じきに倉敷、新倉敷。高度成長期には石油コンビナートで栄え、21世紀現在は観光に力を入れている都市である。美観地区が設定され、水辺に街灯がともる容姿がポスターなどにされているが、あまりにあざといので今回は遠慮する。生活感のない観光地、というのは魂の篭っていない芸術品のようで、触手が動かない。


金光駅。あの金光教の本部が鎮座するところである。金光駅を過ぎると、やがて福山となる。



福山。中国地方のほぼ中間に位置する50万都市である。県としては広島県に属するが、岡山にも近く、実質、岡山・広島の中間拠点の役割をになっている。


降りると駅前は人通りも多く、ビルの新築工事も行われており、活気がある。東北や山陰の地方都市を巡ると、良くそのさびれっぷりにもの悲しくなってしまうのだが、ここにはそういう寂しさがない。


その理由は工業である。福山にはJFEスチールの製鉄所や三菱電機の工場があり、技術立国日本の名を体現している。また福山通運をはじめ、洋服の青山の本社もこの地にある。


工場見学のツアーもあるそうだが、旅の目的はそこになく、裏手の福山城。というより、福山駅は福山城の敷地内に建てられている。


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福山城は備後福山藩の藩庁である。福山十万石は西国大名の押さえとして設立された藩で、徳川譜代が代々城主となった。藩主は転々としたが、江戸後期には阿部家が藩主となり、維新をむかえた。阿部家は幕府要職を務めた家系で、なかでも七代藩主・阿部正弘は老中となり、開国交渉に携わったことで有名である。


駅北口を出ると、左手に石垣が現れる。本来はここに堀があるのだが、埋め立てられて駅になっている。石垣は高く、天守閣は見えない。石垣を登って門を潜って、はじめて見えてくる。ちんまりとした天守閣だが、端整で気品がある。もっとも本来の天守閣は空襲で消失し、ここにあるのは戦後の再建になる。


城からは福山のまちなみが一望できる。築城当時の江戸初期、この地は芦田川河口にひらけたビョウビョウたる平野であり、周辺の中心地は南隣の鞆や、西隣の尾道にあった。しかし尾道も鞆も山がちで後背地がなく、やがて都市としての発展を福山に譲ることになる。


城のまわりには博物館・美術館が点在し、文教地区になっている。ゴシック建築の大聖堂が異彩を放つが、教会でなくパーティ会場である。その左隣の広島県立歴史博物館に入る。一階の企画展示室では昭和30年代の雑誌や電気器具、鉄道写真や模型が並べられ、高齢者のカップルが懐古に浸っている。が、目的は二階の常設展示室のほうだ。


「草戸千軒」が常設展示室のテーマである。


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草戸千軒というのは、福山市をつらぬく芦田川河口に存在した都市である。この都市は芦田川の流通と瀬戸内海の航路が交差する地点に当たり、家が「千軒」立ち並ぶほどの繁栄を極めたという。


こう書くと待て、先ほど江戸初期には芦田川河口は「ビョウビョウたる平野」と書いたのは、ウソだったのか、とツッコむ向きもあるだろう。ウソではない。というのは草戸千軒は室町末期には滅び、江戸初期までには消失してしまっていたからである。


江戸時代の文献には、「かつて芦田河の中洲に繁栄をきわめた街があったが、洪水で押し流されてしまった」という口承が紹介されている。もっともそれは伝説でしかなく街の実在は疑われていたが、昭和になって河川改修のさいに発見。草戸千軒遺跡は500年ぶりに地上に姿を現すことになった。


調査が進むにつれ、中世の都市生活の実態があきらかにされ、その成果が実物大復元模型として、この展示室の中心に鎮座している。


模型は船場、商店、鍛冶屋、塗物師、下駄屋から成り立っており、中に入れるようになっている。はいってみると、思いのほか、狭くて暗い。あなぐらのようだ。この種の展示は各地にあるが、大半は江戸以降を再現しており、それに比べると、小さい。これは中世人の背丈が低かったことを物語っているのだろう。


また建物や家具類は総じて原始的で、洗練されていない。江戸長屋の柱や垂木は綺麗に形が整えられているが、ここでは曲がりのある自然木が利用されている。店には壁さえなく、吹きさらしにされている。


ただ食膳には海の幸、山の幸がふんだんに盛り込まれており、江戸時代より豪勢にみえる。それは復元設定が「ハレの日の夕餉」を想定しているからでもあるが、室町期には獣食いが禁忌でなかったことと、無縁ではないようだ。


こうした中世の遺跡は近世までには消失・忘却されてしまったケースがおおい。青森の十三湊など、博多や堺とならぶ日本を代表する港湾と中世の文献には記されているのに、現代では見る影もない。十三湊は津波で壊滅したと伝えられるが、発掘調査によると、その形跡は見られないことが分かった。そのため現在では、衰退因は港湾に土砂が堆積し、大型船が利用できなくなったからと考えられている。


近世以降ではそのような場合、地形を改修して都市を存続させるが、中世においては都市そのものを移転させる手段が取られた。それは中世の土木技術は未熟であったり、都市の建築設備が簡略で、棄て去るのにそれほど躊躇がいらなかったからでもあったのだろう。


草戸千軒も同様に棄てられた最大の理由は、芦田川の土砂堆積が進み、河口が前進してしまったからだと考えられている。室町初期には河口に当たっていたこの都市も、室町末期には河口から遠く離れ、瀬戸内航路から外れてしまったのだ。


そして衰退した草戸千軒に代わって登場したのが、福山だったわけである。


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もっとも江戸時代初期においては、創建まもない福山より、その南にある鞆の浦のほうが栄えていた。鞆の浦は瀬戸内海の中部の岬に位置し、潮待ちの港として、荒天よけの避難所として、古代から栄えていた。魏志倭人伝に記載されている「投馬(トゥマ)国」が、それに当たると言う意見もおおい。


福山から鞆に向かうには、鞆鉄バスに乗る。鞆鉄というからには、鉄道会社のように見えるが、正体はバス運輸を中心とした企業グループである。もっともかつては純然たる鉄道会社であった。


鞆鉄道は大正二年、鞆・福山間に開通した軽便鉄道である。山陽本線開通後、拠点駅として発展していく福山とは裏腹に、鞆の地盤沈下は進んだ。そのため地元の商工業者が中心となり、福山と鉄道連結することで、鞆の地盤を浮上させようとの試みであった。


しかし開通後まもなくモータリゼーションの波に呑まれ、戦後まもなくバスに転換して現在に至る。物事にはそれをなす正しい時期があることを、思い知らされるエピソードである。


駅前バスターミナルを出発すると、鞆鉄バスは福山平野を西に走り出す。遠目に臨海工場地帯の煙突がみえる。


バスは芦田川にたどり着くと、左に進路を変えて川筋を南下していく。この川の中州に草戸千軒遺跡があった。「あった」というのは、発掘調査後、河川工事により中州そのものが消失してしまったからである。ただ中州を見下ろす明王院と草戸稲荷は今なお健在である。


川が尽きると、今度は南に突き出た岬の東端を伝って南下を続ける。岬の最南端が、鞆の浦である。


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バス停を降りると、目の前が観光案内所になっている。そこで地図を乞うて、歩き出す。鞆の浦は江戸時代まではおおいに栄えたが、明治以後はさびれていった。最大の理由は、汽船の時代になって潮待ちする必要がなくなったからである。


また一つにはこの地には平地が乏しいからでもあった。町並みを拡張するにも、工場を作るにも、用地が足りなかった。


どうしても土地がほしければ海を埋め立てることもできるが、そんな手間をかけるより、近くには福山という広大な処女地があった。さらに山陽本線が山がちな鞆を避けて福山に通じたことで、鞆の衰退は決定的となったのである。


鞆のひとびとは軽便鉄道を通して福山に対抗したが、次第に鞆は交易港としての性格を失い、仕舞いには福山市に合併され、現在では場末の一漁港となっている。



その漁港を歩いてみる。横浜・湘南の漁港にはよく行くが、いつも観光客で賑わうそれに比べると、鞆の漁港は部外者をまったく蚊帳の外に置いているようで、取り付く島もない。おまけに雨も降り出してきた。港を見下ろす高台には寺が建てられており、そこに登ると、このこじんまりとした港湾を眼下におさめることができる。


付近には小島がいくつか点在しており、自然の防波堤の役割を果たしている。天然の良港といえる。見渡す海景は優しげな風情があり、この風景を守ろうと運動が盛り上がったのもうなづける。


高台から降りると、雁木と、常夜灯がみえてくる。いずれも鞆のシンボルである。


雁木とは階段状の埠頭のことで、江戸以前の港にはよく見られた構造だ。潮が満ち引きしても常に人夫が水面にアクセスでき、小船の荷降ろし作業には適した構造であるが、近代以降はクレーンが普及したので消失していった。


常夜灯は大きな灯篭のようなもので、灯台の役目を果たしたという。ただ集光レンズもなく背も低いその施設では、実際に灯台として使われたのか、疑問でもある。むしろ港のシンボル、あるいは夜間作業用として点灯されたのでは、ないか。


ここからの海景は、よく鞆の宣伝ポスターに使われるが、たしかに見栄えがする。港湾面は150度ほどだが、黒塗りの常夜灯が意外に大きく、アクセントとなっている。そして常夜灯の後ろには、「いろは丸展示館」「太田家屋敷」などが鎮座している。


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「いろは丸」というのは、幕末にイギリスで建造された蒸気船で、転売を繰り返して、最終的に伊予大洲藩の手に渡った。当時の蒸気船というのは現在の航空母艦にも匹敵する決戦兵器であったため、倒幕戦争の切り札にしよう、というのが勤皇大洲藩の思惑だったようだ。


しかし勤皇的ではあったが、必ずしも倒幕一辺倒でなかった大洲藩においては、蒸気船購入は大問題となり、購入者は責をとって自決。船舶そのものも小型であったため、幕府や雄藩の巨大軍艦に抗することもできず、「お荷物」になってしまう。


それに眼をつけたのが坂本龍馬である。龍馬は金五百両でこのお荷物を借り受け、海運業を始めたのである。荷物を運ぶのには別段蒸気船でなくても良いのだが、蒸気船は(当時の常識では)とんでもなく高速であり、要人の移動や軍需物資の輸送に活発な需要があった。また要人や鉄砲類は地上で移送すると、すぐに関所に引っかかってしまう。蒸気船はその点からも重宝された。


1867年、海援隊は長崎港で武器弾薬を積み込み、大阪へ向かったのだが、その途中で紀州藩の軍艦と衝突。沈没する。龍馬は命からがら、ちかくの鞆の浦の、おそらくはさきほどの雁木に上陸。そこで紀州藩に賠償を要求することとなった。


天下の御三家たる紀州藩は当初、浪人崩れの商売人たる龍馬の要求など無視の構えであったが、土佐藩が龍馬の応援に回るにつれ、態度を軟化。やがて七万両で和解となった。


今日の眼からすると、紀州藩のみに責があるわけでなく、蒸気船同士の衝突回避ルールが定着していなかったのが真因とおもわれる。厳密に裁判をすれば、賠償金を減らすこともできたかもしれない。だが時代はすでに幕府瓦解その年であり、紀州藩は話をこじらせて土佐藩を統幕側に押しやるより、金で解決を図ったのだろう。


鞆には龍馬が滞在した旅館が残っている。いろは丸そのものは、1989年海底より発見され、引き揚げ品が展示館にかざられている。


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いろは丸展示館のちかくには、太田家住宅が残っている。これは保命酒の蔵元の屋敷である。保命酒というのは養命酒とおなじく漢方入りの酒だが、この屋敷に幕末、七卿が落ち延びてきたということもあって、資料館になっている。


七卿、というのは尊皇派の七人の公卿のことである。彼らは京都で長州藩の後押しを受けて尊皇攘夷運動を展開していたが、長州が失脚すると、彼らも権勢を失って長州へ落ち延びた。その途中、鞆に宿泊したさい、泊まった屋敷というのがこの太田家である。


実は七卿のみならず、鞆には貴人・有名人が数多く訪れている。足利尊氏が九州から京都へ進軍していったときにも、また足利義昭が京都から毛利家を頼って落ちたときにも、鞆に滞在している。いかに鞆の浦が、瀬戸内の一大港湾であったかが分かる歴史である。


そもそも「鞆」というのは弓矢の道具で、弓を射るとき弦で左手内側を傷つけないようにするための、革のパッチだった。それがこの地の名になったのは、この地が鞆の産地だったからかもしれないが、おそらくは、ここで何度も合戦が行われ、鞆が散乱していたからのように思える。この地を制するものは、瀬戸内航路の首根っこを制することができるからだ。


鞆の市街はせまく、平地はほとんどない。家家は密にへし合い押し合い、路地は押しつぶされている。正月ということもあろうが、人どおりはまばらで、たまに通る住人らには高齢者がおおい。福山の繁栄と対照的なさびれっぷりだ。


古い家ばかりだが、昭和レトロをはるかに越えた明治、江戸の家並みなので、郷愁はほとんど感じない。むしろ異国情緒さえある。路地をくるくる回っていると、方向感覚が狂ってくる。雨はしきりに石畳を叩いている。


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時間が止まってしまったかのような鞆の街路は細い上に曲がりくねっており、車の通行には適していない。そこで新道計画が提示された。


しかしその新道は港を横断するように設計されており、この景観が破壊されかねない、という危険性を秘めていた。


そのため計画が発表されると、住民だけでなく著名人をも巻き込んだ反対運動が展開されることになる。鞆が単なる一地方都市だけだったらこれほどの広がりはなかったかもしれないが、宮崎駿が鞆を舞台としたアニメ「崖の上のポニョ」を発表するに至って、景観問題は全国区となった。


そして09年の広島地裁判決では、住民らの景観権を認め、事業の見直しを求めた。


その一方で過疎になやむ鞆や、バイパスを望む福山市では、住民の過半数が事業に賛成と言われ、現に推進派の市長も当選している。八ッ場ダムと同じように、話は開発反対ですむほど、簡単ではない。


二日目:尾道

いよいよ雨風が激しくなってきた。雨水がダウンのなかまで染み込んで来たので、それ以上の探索はあきらめ、福山駅にもどる。


日中ながら、山陽本線の本数は一時間に3本ほど確保されており、五分ほど待つと三原行きがやって来た。これに乗って西をめざす。15分ほどすると、左手に海が見えてくるが、ちいさくてあまり海という感じがしない。反射テープを貼り付けたような細長い海が、レールに沿って湾曲している。


海に見えないのは、何基ものクレーンが水辺ににょきにょき生えているからでもある。あたかも人造池の上で操作している工場(こうば)のようなイメージだ。


海がさらに細くなったところに橋が架けられており、その足元を回り込むと、海と山との間の細狭い平地に街が開けてくる。午後の斜陽に触れられて、古びて寂れた商店街がため息をついている。そんな街が一目で好きになった。


駅を降りると、右手には近未来なビルが建てられており、左手側が旧市街ということが分かる。左手に向かって歩き出す。


尾道。


映画「尾道三部作」で知られた街だが、自分は「転校生」を見てこの監督が嫌いになったので、尾道にはさほどいい印象を持っていなかった。ただ瀬戸内で味のある観光地、さらに電車で行ける、となると尾道になってしまうのである。


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右手に商店街、左手に線路を見ながら歩く。商店街の外側は海、線路の後ろは山と、海山の間にほそながく商店街がはさみ込まれている。商店街はアーケードをなしているが、今歩いている線路沿いからは、その後ろ姿しか見えない。この後ろは、さきほど電車から見かけたもので、かなり古びている。


雨樋の錆び具合、壁のしみ具合、タイルを主体とした外装などの商店デザインから推測するに、昭和の3,40年代に建てられたと思われるたたずまいだ。


しばらく行くと、線路をまたぐ歩道橋が出てくる。映画「転校生」のロケに使われた歩道橋というが、映画で見たという記憶はない。鉄骨製で赤錆が吹き出ており、午後の斜陽に照らされて、年経たするめのような味わいが出ている。


そこを過ぎると交差点になる。右手は桟橋に通じ、左手は、と見ると道路が地中に消えている。線路下にガードが掘られ、そこを潜って山の手方へ行けるようになっているのだ。ガードは東京などにもあるが、ここのは小さく、人が二人並んで通るのが精一杯のせまさである。入り口と出口には浸水止めの板切れが置かれている。


ガードを抜けると、レール面ぎりぎりまで接近することができる。その向こうは海である。そして道は石畳となって、ゆるくカーブしながら山上へ上っていく。途中に張り紙があり、「ポスター撮影の現場です」と記されている。振り返ってみると、たしかに絵になる風景である。



尾道は鞆と同じほど、ふるい歴史をもつ街である。史料では平安時代からその存在が散見されるが、おそらくその歴史は縄文・弥生にまで遡る。瀬戸内海はここで細い水道となり、停泊には打ってつけの場所となるからだ。ただ鞆とちがい、尾道には鉄道が通ったため、鉄路と海路が交差するこの地は、明治以降も発展が約束された。


さらに狭隘な水路は造船には最適であり、日立造船などの工場が建てられる。しかし尾道は平地にとぼしく、都市化が進展すると、やがて周囲の繁栄は福山や広島にとって代わられて行く。造船業の空洞化が、それに拍車をかけた。その繁栄のピークは高度成長期であった。


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そんな理由から、尾道には昭和レトロな町並みが残されている。斜面には昭和の中ごろに建てられたらしき民家がへばりつく。狭い敷地に、無理に門を建てているところがいぢらしい。ブロック塀には透かしが入れられており、そこから中を覗き込むと、ちいさな庭に硝子戸の玄関がみえる。硝子戸には空の色が写しこまれている。庭の奥には海がちらちら見え隠れする。ラジオが明日の天気を告げている。


ラジオのぼそぼそ声を背にして歩き出す。足元はやはり石畳の階段道である。「タビと道連れ」では、こんな石畳道が効果的に使われている。


「タビと道連れ」はマッグガーデン出版の漫画である。マッグガーデンと言えば水都ベネチアを舞台とした恥ずかしファンタジー「ARIA」で有名だが、「タビ」もそんなテイストをもっている。


ある夏の日、緒道(もちろん尾道のパロディ)にやってきた少女「タビ」。電車から降り立ったタビは、この街は同じ日を何回も繰り返している、と告げられる。街から逃げ出そうにも、空間が歪んでおり、元に戻ってしまう。


しかし探査を続けるうちに、街が閉じているのはそれを願っている能力者らのせいであり、彼らを発見して説得すればもとに戻ることが分かってくる。


だが能力者らが無限ループを続けたがっているのには理由があり、説得に応じるどころか、石畳を崩壊させてタビを暗黒空間に落とし込もうとするのだった・・・という風に、石畳がバトルシーンを盛り上げるのに使われている。


やがて物語はドンデン返しに次ぐドンデン返しの連続となり、最後に最強の能力者を説得することで、街は元通りになるのだが、詳細はおく。


ここで興味をひくのは、「閉じた時空間」「終わらない夏の一日」の舞台が尾道になっている、という点。なるほど、昭和の絶頂期で時間が止まってしまったこの街には、いかにもふさわしい。


     ☆


坂道をもとに下り、ガードを潜って商店街の方へ。商店街はアーケードをなしており、だいたい店舗の3割くらいが営業している。まだ正月松の内とはいえ、シャッター店舗がおおい。観光のまち尾道といえど、意外に衰退している。


ちらほらと「てっぱん」のポスターが貼られている。「てっぱん」は2010年秋からのNHK連続TV小説で、尾道が舞台のひとつとなっている。(もう一つの舞台は大阪)


商店街のなかにある商工会議所記念館(大正モダニズムの建物。本当の商工会議所のビルは、海辺にある)では、「てっぱん」のパネルなどが展示されている。なかなか味のある建物だが、NHKドラマというわりには、入館者は誰もいない。


もっとも昨今ではNHKというだけでは、客は呼べなくなっている。ネットの登場でマスコミが斜陽産業になってひさしい。そんなNHKを客引きに使おう、という発想自体、時代遅れとも言える。


商店街が衰退したのは主力の造船業がすたれたこともあるが、福山の繁栄振りをみると、福山商業圏に客を奪われたのも原因のようだ。


     ☆


日本各地をあるいてみると、一言に地方都市、と言ってもその実情は都市ごとにちがう。尾道、福山という近接した両都市を支えるには、それなりの人口や産業がなければならないが、それがない以上、誰かがババを引かなくては、ならない。イヤならパイを増やす努力をしなければならない。


人口減問題を解決するためにドイツやイギリスなどでは移民を導入したが、日本はその方向は堅く拒否している。となると出生率を増やさなければならないが、一向に向上する気配がない。すると諸産業を振興させるほかないが、日本のお家芸たる製造業は中韓に奪われて立つ瀬がない。先端技術に賭けるにも、一般に先端産業は雇用がすくないし、農業・観光業でやって行くにしてもこれらの産業は未知数である。


結果、地方都市の整理は加速がついていかざるをえない。日本では未だに「政策で地方を立て直せ」という声がつよいが、最早政策ではどうともならない地点に、地方は追い込まれている。かつてのように大都市から吸い上げて地方にばらまくのは財政難から不可能だし、無理にそれをすれば日本全体の国際競争力が落ちてしまう。


現在、地方のなかには「中核都市政策」を推し進めている自治体がある。もはや自治体の全都市を支えるのを諦め、中核都市に住民を集め、そこに重点的に行政サービスを提供しよう、という政策である。日本は遅かれ早かれ、そのような政策を選択せざるをえなくなるとおもう。そのとき、尾道は福山という中核都市の一衛星都市という位置づけになるのだろう。


     ☆


このように閑散とした商店街だが、ひとつふたつ、気を惹く店もある。銭湯を改造した雑貨屋と、尾道帆布である。どちらも客入りが良く、将来、観光客相手の店だけが生き残るだろうことを示唆しているようだ。


尾道帆布は、帆布を材料とした商品の開発・販売を手がけるNPOである。造船・海運が盛んだった尾道では帆布屋が十軒ほども存在していたが、帆船の衰退により、今では一軒のみが生き残り、日用品を生産することで、ほそぼそと営業している。


この製造元は「尾道帆布(紛らわしいが、こちらは株式会社)」といい、昭和9年(1934年)の創業である。


帆船のピークは19世紀後半。なかでもインドとイギリスを航行した高速艇ティークリッパーが有名だが、蒸気船の普及により、そのピークは急速に終わりを告げ、20世紀初頭には表舞台から退いていった。。。ので、1934年という創業年とは、少々齟齬がある。


帆船が消えてしまった時代に、なぜわざわざ帆布店を新規開業したのか。


実は日本の内海海運においては、20世紀初頭以降も、かなり遅くまで帆船が使われていたのである。なるほど汽船は便利だが、蒸気機関は大きくかさばり、扱いも熟練を必要とするため、内運におおかった小型船零細業者の手にあまった。また石炭も安くはないが、風力ならばタダである。


そんな日本の海運事情に転機が訪れたのは、大正前後である。ひとつにはイギリスから「焼玉エンジン」が導入され、内燃エンジンの国産化が始まったのが原因だ。焼玉エンジンは構造が簡単なことから、当時まだ技術水準が低かった日本メーカーでも製造できた。


このエンジンは蒸気機関に比べると扱いも単純で、小型でもあったから内運船には打ってつけとあって、全国的に広まっていった。いわゆる「ポンポン船」である。さらに燃料となる重油が安く入手できることも、普及に一役買った。


だが長年親しんだ帆船も棄てがたく、帆船と汽船を折衷した「機帆船」が大正から昭和初期にかけてはおおく建造された。帆船自体もまだまだ健在であったから、20世紀初頭においても帆布の需要は少なくなかったのである。


特に瀬戸内では海運が盛んだったので、帆布業は繁盛をきわめた。特にお隣倉敷では一大中心地となっている。


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帆布は一言でいえば「丈夫な綿布」であり、帆のみならず、テントや鞄など、さまざまな用途があった。しかし戦後、これらの製品が化学製品化されると、帆布会社はジリ貧となる。くわえて帆船、機帆船そのものもすたれると、廃業者が続出した。


おとなり岡山県ではこれを機に帆布からジーンズ製作に切り替えが進み、現在では日本屈指のジーンズ・メーカーが散在する地方となった。その背後には藍玉を利用した染物産業が盛んだったことも挙げられよう。


一方尾道ではそのような方向に進まず、帆布商はほぼ消失してしまった。そこには岡山に見られたような、異種の要素を結びつけて、新たな分野へ乗り出そうというダイナミズムは見られない。為すがままに流されるような気質。そんなものを、尾道には感じた。


商店街を抜けると、海が開ける。海には桟橋が設けられ、女子中学生がふたり、そこから自転車で商店街のほうへふらふら走っていく。見れば丁度、渡し舟が桟橋から出たばかりである。


尾道と対岸の島とは、ほそい尾道水道が横たわっているだけで、4、5分もすると、渡し舟は舳先をこちら側に向きかえ、接岸する。人やら自転車やらオートバイやらが、降りて行く。島には造船所がある。


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日も暮れてきたので、引き返すことにする。引き返す、といっても東京まで行くのは不可能だから、どこかで一泊ということになる。当初は岡山のカプセルホテルを考えていたのだけども、コンセント(ネットブックの充電用)が付いているカプセルが意外に割高でビジネスホテルとさほど変わらない。


同じくらいの金額なら、隣上下に気を遣わなくてすむビジネスホテルのほうが気軽である。そこで電車内から探してみると、大阪のリーガホテルが値段の割りには設備が充実していたので、それに決める。


上りの山陽本線は、右手に海を臨む。夕日に尾道水道や、しまなみ海道の橋が見えて、車内ではカメラが馬車馬車いう。その観光客らは新幹線に乗り換えるのだろう、福山でどっと降りる。あとは高校生などの地元客がメインとなる。


電車は岡山で尽き、次の電車まで時間があるので市内散策に出かける。もうどっぷり日は暮れているので遠景は見通せないが、結構な賑わいだが、東京ほどの激しい雑踏ではない。居心地がよい駅前である。駅前にはチンチン電車が停まっており、路線図をみると岡山城、後楽園までいくそうだ。


後楽園といえば日本三大庭園に数えられる名園である。大阪泊にしたことをすこし悔やんだが、また来る機会もあるだろう。


駅にもどると、ラッシュアワーで目的の列車は満員である。相生あたりで新快速に乗り換え、後は大阪まで一直線。大阪駅で降りたのは九時半を回っていた。


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どこかで夜飯を、と思ったが、地上に出るとバスセンターのど真ん中で、その周りは暗くて店は開いていない。仕方なく地下に潜って駅蕎麦屋にはいる。蕎麦屋だが、関西に来たらやはり「うどん」だろう。「けつねうどん」を食す。


東京とは違って、やや甘い汁だが、最大の違いは「揚げ糟」がテーブルに置かれており、自由に投下できる点。店員のおばちゃんが積極的に客相手するのも異なる。東京だと、まず店員は必要最小限しか客の相手をしないし、客もそのドライさを良しとしている。


食べ終えて、四つ橋線は西梅田駅を求めてうろうろする。大阪駅、というのはJRの名称で、ほかの鉄道会社は「梅田」という名称を使っている。その「梅田」は人気があるらしく、いろいろな駅あって分かりにくい。梅田駅、東梅田駅、西梅田駅・・・近い将来には「北梅田駅」もできるとのことで、さらに錯綜しそうだ。


(ちなみに東京にも、新宿、西新宿、東新宿、南新宿さらには新宿三丁目に西武新宿なる新宿ファミリー、浦和、北浦和、南浦和、武蔵浦和、中浦和の浦和一族がある)


歩けば歩くほどダンジョンは深くなる一方なので、思い切って地上に出て歩いていく。四ツ橋筋を南下する。大阪梅田、と言えば日本を代表する大都会だが、十時ともなると人影もまばら。酔っ払いがいそいそと大阪駅に向かうのと、幾人ともなくすれ違う。東京だと個人の酔漢がおおいが、こちらは集団がおおい気がする。


あたりはオフィス街で、飲み屋もない。道幅はやたらと広い。


おおきな橋にさしかかると、川風が吹き込んできてつめたい。左側をみると川の上に高速道路がかかり、あたりはビルが林立している。日本橋と似た風景だが、日本橋ほど圧迫感がなく、空間がひろく取られている。


橋を渡りきると渡辺橋。京阪中之島線である。この中之島線と直角に交差するかたちで四つ橋線は南北に走っている。少しいくと、四つ橋線の肥後橋駅につく。駅の出口には朝顔のラッパのようなビルが立っている。大同生命の大阪本社ビルだ。1,2階が絞られて細くなっており、今にも倒れてきそうな不安感がある。生命会社の社屋をこんな不安感をあおるような設計にしてもいいのか、とおもう。


デザインとしてはおもしろいが、単に奇を衒ったような印象だ。どうせやるならビル全体に装飾をほどこしてほしかった。その大同生命ビルの斜め向かいが、今晩の宿泊所リーガ中之島である。


リーガは大阪の企業であるが東京にも進出しており、たとえば早稲田大学の敷地内には、大学と共同で設立したホテルが立っている。かなりの老舗に属し、たしかにフロントの対応などはしっかりしている。


部屋は4千円だけはあり、かなりの狭さで圧迫感がある。もとはバス・トイレもなかったようで、ユニットバスが後付でつけられている。そのことからすると、最初は物置部屋だったらしい。まあ一泊するには大丈夫、問題はない。


石鹸、シャンプー、リンスは液体のが箱に入っており、ティッシュ箱も半分の大きさなど、随所にケチった跡が見られるが、ネット接続は確保されており、ビジネスマンをターゲットとしている様がうかがわれる。


風呂を済ませると11時を回っており、WBSをみたり、米株などをチェックして寝る。


三日目:大阪レトロ

翌日は8時に出発し、まずは橋を渡って中之島へ。今日のテーマは「大阪レトロ」である。昨日岡山泊を蹴ってまで大阪の、しかも中之島界隈に泊まったのは、ここが大阪レトロの一中心地だからにほかならない。


・・・戦前から戦後しばらくにかけ、大阪は東京をも凌ぐほどの経済中心であった。住友、松下・三洋(現パナソニック)、伊藤忠、野村證券、日清食品など、日本を代表する大企業には、大阪出身のものがすくなくない。おもしろい所では、朝日新聞・産経新聞も大阪の生まれである。両新聞が仲が悪いのは、出身がおなじせいなのかもしれない。(読売新聞は横浜出身)


古来、日本の都は京都だったが、京には港がなかったため、外港として難波に津(港)が設立された。これが難波津-大阪の始まりである。難波津は中世には渡辺津と名を変えてなおも栄えたが、室町後期になると京都の外港としての座は南の「堺」に奪われる。


堺繁栄のきっかけは、南北朝の動乱である。


堺一帯を根拠地とする住吉大社は南朝方に属したため、堺は南朝の拠点港として白羽の矢が立てられたのである。南北朝の動乱は足利三代将軍・義満によって終止符を打たれるが、以後も堺は近畿を代表する大交易港として発展を続けた。


室町から安土桃山にかけての時代は、大航海時代に重なり、中国朝鮮のみならず、東南アジア、南蛮諸国の物産が堺で取引された。そして堺の商人はこの港湾都市を守るために濠をめぐらせ、自治を組織し、戦国大名らに対抗した。堺では外国から購入した武器弾薬が蓄積されたのみならず、堺鍛冶が造った鉄砲まで準備されていたのである。


     ☆


一言に鉄砲、といっても現代の超電磁砲(レールガン)にも匹敵するような先端兵器であり、普通の鍛冶屋風情が製造できる代物ではない。


鉄砲の難点は発射筒と尾栓にあった。発射筒には火薬炸裂の強圧がかかる。それに耐えるために鉄を堅くすれば脆くなり、破裂してしまう。といって柔らかくすれば爆風で変形しかねない。


しなやかで、かつ変形に耐えうる構造を求めて堺鍛冶は苦戦した挙句、鉄板を細く螺旋状に巻く、という工法を創案して、この難問を解決した。


次に尾栓である。尾栓とは、発射筒の先に取り付けて、爆風を推進力に変換する装置であるが、これにはネジが使われた。当時の技術ではネジを造ることはできたが、大量生産ができなかった。精度が一定しないからである。精度が悪いネジを使えば爆風が漏れて発射力が弱まるし、高温のガスが吹き出て危険でもある。


堺鍛冶はタップ(ネジを切る装置)を開発することで、この課題を片付けた。以後、堺は火器製造の一大拠点となり、戦国大名もおいそれとは手を出せない都市となった。


しかし信長が台頭してくると流石の堺衆もこれに抗しきれず、織田家の軍門に下ることになる。もっとも信長にとっては堺は金の卵であり、これをどうこうするつもりはなかった。しかし信長のあとを継いだ秀吉の考えは違っていた。秀吉は大阪を天下の拠点としたからである。そして堺の大商人らを大阪に移住させたため、以後、堺は衰退してしまう。


そして秀吉の時代に、大阪は天下の中心としての地位を固めるのである。


だが秀吉の死は、大阪の運命を変えてしまう。すなわち家康によって、政治の中心を関東に持っていかれるのである。もし関が原が逆の結果に終わっていたら、以後も京大阪が日本の中心としてあり続けた可能性は高い。


しかし江戸湾を埋め立てて作った江戸は、掘っても塩水しか出てこずに飲み水すら不自由する有様で、発展に手間取った。ために大阪は経済の中心としての地位を保持し続けることとなる。大阪では全国の物資が集まって売買されるシステムが構築され、相場が建てられるなど、繁栄を極めた。


江戸期においては、政治中心の江戸、文化中心の京都、経済中心の大阪と、各都市の役割が明確にされ均等な発展が続いたが、明治になるとそのバランスが崩れる。


     ☆


明治維新は関西にとっては未曾有の大事であった。何しろそれまで千年以上にわたって保ち続けた首都の座を、東京に奪われてしまったからである。首都移転について明治政府はどう考えていたのか。幕末から維新までの経過をみてみると、明確なプランはなかったようである。


維新の主役を努めた薩摩藩は当初、打倒徳川というより穏健な改革、すなわち将軍は残しつつ、幕府の実権は島津家が握る方向での政治改革を考えていたようだ。薩英戦争の戦後処理などを見ると、薩摩は賠償金支払いなどの厄介な部分は幕府におしつけ、自らは実利をとろうとした形跡が見て取れる。


いわば薩摩藩は子供のままでいたかったのだ。面倒なことは「親」たる江戸幕府に任せ、自分は甘い汁だけ吸おうとしたわけだ。


しかし幕府の弱体化が露呈してくると、そうも行かなくなってくる。さらに幕府がフランスの力を借りて軍事力を向上させ始めると、幕府と薩摩の抗争は英仏代理戦争の様相も呈し始める。薩摩のバックにはイギリスがついていたからだ。


ここに到って薩摩は長州と同盟を組み、倒幕へ舵を切ることとなる。


だが藩内では、島津幕府を志向する西郷派と、中央集権国家をめざす大久保派との対立があり、維新後この両派の反目は表面化。ついには西南の役という、内乱にまで発展してしまうのである。


大久保の中央集権構想は、古代律令国家を下敷きにしつつ、欧米の近代国家をコピーしたものである。彼が幕府という伝統的な政治制度を棄て、中央集権という近代的な政治システムを採用するに到った直接の理由は、武力にあった。


西洋列強という強大な武力に対抗するには、統一軍がどうしても必要だった。江戸時代のように、諸侯がそれぞれ兵を集めてはせ参じる、というのでは行動が遅れるし、命令系統もバラバラで各個撃破されてしまう。


時代は半世紀ほど遡るが、ナポレオン時代のプロイセン軍がそれであった。プロイセン軍は諸侯連合軍の色彩が濃く、動員が遅く、行動もちぐはぐであったため、徴兵制の下、一気呵成に動員され、統一的な指揮系統をもったフランス軍には全く敵わなかった。


ナポレオン軍の強さは日本にまで伝えられており、ために幕府はフランス陸軍を軍の近代化の範にしようとしたほどである。そしてフランス軍の強さは、究極的には中央集権制度にあった。


そのような強兵を作るには、フランスに倣って中央集権国家を作る必要がある。


が、ここで厄介な問題が発生した。


国民皆兵しかない。兵隊になどなりたがらない平民を強制的に徴兵するには、中央集権しかない。中央集権には政治と権威を一つにまとめねばならなかった。したがって政治の舞台と、権威(天皇)の舞台とはおなじ都市におかれなければならない。


あとはその場を京都にするか、江戸にするかの違いだけであった。


明治維新を担った薩長土肥はいずれも西日本の藩であり、地の利のよい京都を首都にすえるのが自然なようにおもえる。しかし京都には諸藩の大名屋敷はすくなく、大名らを集めて政治をおこなうには不便であった。


江戸には300年近くにわたって諸大名の屋敷が置かれており、それを全て移転させるのは非現実的である以上、天皇を東下させるのが選ばれたのは自然な流れとも言える。(もっとも戊辰戦争で東京が焼け野原になれば、京都が首都になる可能性もあった)


首都が東京に移されたあと、関西は急激にさびれてしまう。関西の商工業者は京都疎水や東海道線などの開通によってそれを阻もうとしたが、最終的に衰退の流れを止めたのは、日清戦争であった。


     ☆


1894年、韓国の宗主権をめぐって日本と清は対立。戦火を開く。東洋一の海軍との呼び声高かった北洋艦隊擁する清国が有利と予測されたが、蓋を開けてみれば清政府は腐敗しきっており、北洋艦隊の予算が西太后の化粧代に横流しされるというありさまで、戦争は日本の圧勝に終わった。


この日清戦争は日本の総力をあげて戦われたが、とりわけ戦場にちかい大阪では戦争特需の恩恵にあずかり、経済がテイクオフしたのである。


翌年の馬関条約で台湾を獲得、つづいて日露戦争の結果1910年に韓国を併合すると、関西経済復興の流れはさらに加速した。


これら植民地から来る物産は船で大阪まで運ばれ、そこで加工されることが多かったし、逆に植民地へ輸送される工業製品は大阪で生産された。


そこから東海道線に乗り換えるというケースがおおかった。これは山陽本線は単線部分がおおく、時間がかかったこと、また瀬戸内海の船便がやすかったからのようである。


ために大阪は植民地からの物産や、殖民地に売り飛ばす製品でごった返し、経済は息を吹き返すに至った。


松下幸之助は瀬戸の回船屋のせがれであり、彼が作ったものは


大正の終わりから昭和初期にかけて大阪は日本随一の工業都市として繁栄をきわめ、「東洋のマンチェスター」とまで呼ばれた。マンチェスターとは当時栄華をきわめた大英帝国の工業都市である。


この繁栄の結果、大阪各地には近代建築が建てられたが、とりわけ多いのが中之島界隈である。中之島はその名がしめす通り、淀川の中の島であり、江戸時代、淀の水運を利用して、この島で米取引が行われた。島には諸藩の米倉庫が立ち並び、米相場が立てられた。


江戸時代は米が経済の中心だったから、中之島が日本経済の中心地だったのである。そしてその地盤は今に受け継がれている。


     ☆


ホテルを出て手始めに中之島に歩いていくのだが、ものすごいヒトデだ。昨夜は人影もまばらだったのが、行列をなして人々が歩いていく。


東京・丸の内や大手町に似た風景だが、東京よりもすっきりした感じだ。それは中之島近辺の街路が碁盤状に整備されていることと、無縁ではないだろう。また川の魅せかたにも違いがある。


東京では川は邪魔もの扱いすることがおおい。川の上に高速道路がフタをしている日本橋などが、いい例だろう。一方中之島では川空間は大きく開け放たれており、川の流れに沿ってビルが配置されているので、均整が取れている。シカゴやマンハッタンにも似たスカイラインである。


そのビル街を小走りに移動する人のほとんどが会社員で、それぞれが巨大なビルに吸い込まれていく。その中を逆流しながら歩くのだから、ぶつかって仕方がない。


たまに同じく逆流している人に出会うが、だいたいがホームレスだったりする。川辺に沿って逆流していくと、対岸に味のある古そうなビルを発見。「○豆茶」などとノボリが垂れ下がっている。カフェのようだ。


さらに歩くと、ギリシャ神殿のような建物が出てくる。大阪府立中之島図書館である。


中之島図書館は1905年に建てられたというから、百年以上を経たつわものである。大阪のど真ん中に位置し、しかも木造なのによく戦災に耐えたな、とおもう。


入ろうとして正面階段を上ろうとして注意される。入り口は階段の左右にあり、そこから地下に潜り込むようにして、館内にはいる。入るとすぐに受付があり、入館票をもらって初めて先にすすめる。


受付の先は階段ホールになっていて、頭上にドームがひらける。このホールの左右のウィングに図書室が設置されているという構造だ。このような構造は、欧米で19世紀後半に流行した様式である。設計者はイギリスに渡り、建築を修めた。


ただイギリス様式、というには全般的に貧弱である。上海やシンガポールにのこる重厚なイギリス時代の建築にくらべると、一掃貧弱さがきわだつ。東洋のマンチェスターともてはやされても、その実力はとおくイギリスに及ばなかったのである。


     ☆


図書館を後にして、北浜へ。浜というと海辺のように思えるが、実は旧淀川の岸辺である。ここには何軒もの洋館が固まっている。


この辺りは大阪の中心地なのだが、意外に古い建物が残されている。


証券取引所の北側にあるのが、北浜レトロというカフェである。大正モダニズムの具現として名高いカフェだが、ない。地図を片手におなじ道を行ったり来たりして、ビラ配りの若者に不審な目を向けられる。ようやく探し当てたが、補修中ですっぽりビニールを被せられて、入ることが叶わない。


北浜駅から地下鉄に乗り、御堂筋駅へ。


北浜が丸の内とするなら、御堂筋は銀座である。つまり繁華街になっている。大丸などのデパートが表通りに並んでいるが、そんな姿は万国共通なので面白くないので、先ほどからちらちら見えている、釣り橋のデコレーションが屋根上に付いているアーケードに回る。


そこは裏通りになっていて、表通りよりも人通りが多い。戎橋商店街である。大阪だからコテコテのお店でもあるかと思ったが、意外に大人しい。


進んで行くと、法善寺横丁に行き当たる。これは法善寺を中心とした一画で、主に飲み屋が集まっている。宗教と繁華街がセットになっている好例というので、民俗学の本などによく出ている。子供のころ、千葉は佐倉の国立歴史民俗博物館にここのセットが再現されているのを見てから、一度行ってみようと思っていたのが、漸く今果たせたわけである。


が、じつはこの横丁は博物館のセットとはちがうものになっている。というのはこの横丁は火事で幾度か消失しているのだ。火事の原因は放火という。そのニュースに接したときは、寺に放火とは心ない人がいるのだな、と思ったが、今目の前にすると納得する。なんというか、歌舞伎町のような雑然とした界隈で、火を点けたくなる人が出ても、不思議ではない。


十年ほど前までは、横浜の中華街も似たような雰囲気で、やはり火事が幾度となく起き、関帝廟が燃えたこともあった。それから中華街は美化運動に励み、今日見るような観光地となったが、その分、かつてのディープなおもしろさはなくなってしまった。


それに比べると、法善寺横丁は混沌とした面白みが、まだ多分に残されている。


法善寺自体は小さな寺で、一回りもすればおしまいだが、その周りを路地が取り囲んでおり、入り組んだ町並みになっている。夜に歩いたりすると方向感覚が鈍っている分、おもしろく散策できるとおもうのだが、時間も押しているので、次の目的地に向かう。


さらに南下すると川が出てきて、大阪名物「蟹道楽」や「グリコ」の看板が出てくる。が、なんというか、最初に見たほどのインパクトはない。最初に見たのは91年だったと思うが、そのときに比べると街全般が綺麗になって、アジアンなティストが薄れてしまった。


そのまま南へ行くと、商店街は尽き、南海なんば駅に出る。


この駅も関西空港の開港を機に、大きく変貌した。空港のような立体的なターミナルになっている。長いエスカレータを登りきると、頭端式のホームが6本ほど並んでいる。南海電鉄、というと東京人のアタマには「高野山へ行く鉄道」くらいのイメージしかないが、実際は空港や和歌山へ行く路線もあり、特急・鈍行入り乱れているので、このような配線になるのだろう。


ここで鈍行に乗り、住吉大社駅で降りる。そう、行き先は「すみよっさん」である。


関東で言うと初詣は明治神宮、川崎大師、成田山がトップ3だが、近畿では伏見稲荷、住吉大社が有名というので、詣でにきたわけである。


太鼓橋を渡って境内に入ると、意外に小さい。


帰りは同じ南海電車に乗るのは芸がないから、阪堺電車に乗ることにする。すみよっさんの出口からすぐのところに、ホームがある。もっともホームといっても、道路のど真ん中にコンクリの盛り上がりがあるだけ。そう、阪堺電車は路面電車なのである。


普段は空気を運んでいる赤字てんこもりの阪堺電車だが、さすがに正月は満員である。住吉大社の周りは2路線が交差しているので、便利だ。


終点・天王寺ではJR環状線に乗り換える。ここで「高速そば」を食す。高速といっても別段速く出てくるわけではない。郊外電車が登場したころ、それまでの路面電車に比べて高速だったので、「○○高速電鉄」という呼び名が流行ったのを、引き継いでいるだけだ。


電車が来たので慌てて出る。と、何かて手持ち無沙汰だ。。。?


!ネットブックを忘れた!


大して高価なものではないが、中には重要なドキュメントが一杯詰まっている。ダッシュで戻ると、幸い高速そばにまだ置いてあって命拾いする。


さて、とホームにもどる。天王寺昔からの中心地だが、鉄道駅のターミナルとしては少々心もとない。それでもここを始発とする路線も設定されており、なかなかの賑わいである。大阪環状線の一駅だが、環状線もここを始発とする電車が設定されている。


ここを出て、2,3駅すると鶴橋につく。環状線は高架なので、階段を降りて改札を出ると、そこは韓国だった。


鶴橋コリアンタウン。日本で最もディープな(当社比)外国人街である。


外国人街には横浜中華街や池袋中華街、大久保コリアンタウンなどがあるが、それは「日本の街のなかに、外国がある」のでしかない。だが鶴橋コリアンタウンは「外国の中に、日本がある」のである。


ここではハングルや韓国語が当然のように飛び交い、遠慮がちに日本語がちらほら散見されるだけなのだ。


改札を出たら、すぐにコリアンタウンは広がっている。というより、タウンの真っ只中に駅がある。また町並みも大久保のように綺麗に整備されておらず、終戦直後の「闇市」がそのまま残ったような印象だ。東京でいうと、新宿の思い出横丁、下北沢の駅前アーケード、吉祥寺のハモニカ横丁、あるいは上野のガード下に雰囲気が似ている。


十年ほど前までは東京でもそこここに「闇市」が残されていたが、今は洪水に取り残された中州のように、ぽつぽつと残存しているのみ。


が、鶴橋コリアンタウンは広い。ざっと歩いてみたが、カスバの迷路のように路地が入り組み、なかなか外に出ることができない。アーケードになっているので、空を見て方向を定めることもできない。都会の樹海である。


戦前、朝鮮半島から多くの人々が移住してきたり、させられたりしてきたが、その少なからずは大阪に住まいを定めた。大阪は東京より朝鮮半島に近かったからである。彼らは植民地民として差別や虐待を受けており、長年その鬱憤が蓄積されていた。


ところが終戦を迎えると、彼らの立場は逆転する。彼らは戦勝国民となったのである(厳密には日本に勝利したのは連合国、つまりアメリカや中華民国であり、韓国は準連合国扱いであったが)。そして空襲で所有権が不明確になった土地を不法占拠し、ヤミ市をはじめたのが、現在の鶴橋コリアンタウンの始まりという。


これに抗議する日本人もないではなかったが、相手は戦勝国民であり、下手に騒げば逆にGHQからお咎めが来るとあって沈黙してしまったのである。ついでにいえば、上野アメ横も、似た経緯をたどっている。


商店街は洋服や食品を扱う店がおおい。もちろん、チマチョゴリや韓国食を売っているのがほとんどである。


駆け足で伏見稲荷に詣でた後、東海道線を下って帰国。


この本の内容は以上です。


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